フィッシュブルー、泳ぐ火球

※ホー炎(未満?)ホークスは恋心、エンデヴァーは友愛になりつつある感じ
※ふたりのセックスありませんが、ホークスがえんじを思って自慰するシーンがあります
※ファンタジーホー炎セックスもあります(自慰中の妄想)
※福岡のチームアップ後、高校野球の始球式に呼ばれるエンデヴァーの話
※季節・時間軸・高校野球のルールなどいろいろ捏造

 照りかえる晴天に、高らかなトランペットが抜けていく。「星条旗よ永遠なれ」をもう十回は聞いたはずだ。春の甲子園球場は涼しくていいが、夏は激しい直射日光でじりじりと灼かれる感じがあって、観戦する側も過酷な環境だった。汗にじっとり濡れた首筋をタオルで覆い、ウィングヒーロー、ホークスは暑さに目を細める。
 隣の男はもっと暑いはずだ。体温の上がりやすい炎の個性は夏場をいっそう苦しいものにする。案の定、隣に厳しい眼差しで座っている……ホークスより一回り以上大きい……男は、目で見て分かるほどダラダラ汗をかいていて、たまに手の甲で滴りそうな汗を拭った。
「エンデヴァーさん、水飲みます?」
「いらん」
 五分に一回はそう尋ねるホークスに、エンデヴァーはうんざりした声音で断った。ホークスは純粋に心配でそう尋ねているのだが、その気遣いもエンデヴァーには煩わしいのかもしれない。
 打ち鳴らされるブルーのメガホン、振り上げられるチアガールのポンポンが、青一色に染まった応援席を彩っている。魚住ブルー、で有名な、滋賀県の名門校だった。相手は春の高校野球大会で敗北した大阪光陰高校とあって、魚住はリベンジに燃えている。大阪光陰にとっては四年ぶりの甲子園優勝を賭けた、今日が晴れの決勝戦だった。
 四番の主砲、一番星。一番星なんて景気のいい名前だな、と思ったが、名の通りの強打者だ。準決勝では景気良く本塁打を放ち、タイブレークを制す決め手を作ったのもこの男。体も大きく、目つきは凛々しい。プロ注目の選手だった。
 ――キャッチャー、一番星くん。
 ウグイス嬢のやわらかな声と共に、バッターボックスに威風堂々と立つ彼は、さあ来やがれという迫力の目つきで、バットを構えた。

   (一)まっすぐ飛んでけ白球

 福岡でのチームアップのしばらく後だった。ホークスのひっきりなしのお誘いの甲斐あって、あの気難しいナンバーワンヒーロー、エンデヴァーは飯の誘いくらいなら断らないようになった。とはいえ、エンデヴァーからの誘いは一度もない。高望みするタイプではないので、ホークスは特にそのことを気に病んだりしなかったが、
「今週こちらに来る予定はあるか」
 と、強引に手に入れたメッセージアプリから、簡潔な一言が送られてきた時、ホークスは思わずスマートホンを取り落としそうになった。
「行きます」
 即座に送った一言に、すぐ既読マークがつく。多分アプリを開いたままにしているのだろう。
 エンデヴァーはご想像の通り、メッセージを打つのが早い方ではない。いつもなら彼の返事を待つためにしばらくメッセージを控えるが、今回ばかりは無理だった。
「いつがいいですか?」
「都合つけますよ」
「チームアップ要請ですか?」
 我ながら食い気味の、矢継ぎ早の返信だった。エンデヴァーの表情まで想像ができる。ム、とくちびるを引き結んで、次々送られてくるメッセージを睨みつけているのだろう。
「わざわざ来る必要はない」
 返事は端的にそう送られてきた。ウーン……なんと言い訳すれば納得するか……、頭の中でホークスは、目まぐるしく用事をでっち上げていく。そんな中でも、ホークスの剛翼は道路に飛び出した子どもの腹を押し戻し、道端で掴み合いになっている男ふたりを引き離して留めた。空飛ぶホークスは、福岡の上空を縦横に動き回り、ひとところにジッとしていることがない。
 珍しく、考えている間に次のメッセージが届いた。
「チームアップ要請ではない。ついでがあるなら、個人的に頼みたいことがある」
 個人的に。
 頼みたいこと。
 エンデヴァーさんが?
 ホークスは無意識にくちびるを緩めていた。なんだろう? まさか飯の誘い? にしては回りくどいし、あの人はわざわざその場にいない相手を呼び出してまで飯に誘うような男ではない。なんだろう? 予想もつかない。ホークスの脇を、二羽のツバメがのんびり通り過ぎていった。
「ちょうど金曜に近くまで行きます。なんなりと」
 もちろん近くまで行く用事などないが、すらすら嘘をついていた。人を傷つけない嘘はときに必要だ。自分を労わる嘘なのだし、誰も咎めやしないだろう。金曜日ならちょうどホークスのいま抱えている仕事がひと段落ついて、パトロールのみの平和な一日になる予定だった。
「助かる。都合のいい時間に事務所に寄ってくれ」
「了解でーす。そのあとめしも……」と打ちかけて、思い直して「そのあとめしも」の部分を消した。会った時の雰囲気で誘えばいい。なにしろ忙しいヒーローの身だ。何が起こるか分からないうちに予定を固めない方がいいだろう。
 ウフフ。くちびるが自然とゆるんだ。人付き合いはソツのない方だが、愛想のいい顔が得意なわりに、腹の底では人とべったり付き合うことが苦手だった。誰彼構わずニコニコできるタチなのに、心の底からニコニコできる相手は少ない。そんなホークスがここまでワクワクする相手はエンデヴァーだけだ。メッセージを送る際にあれこれ考えてしまうのも。ホークスは晴れやかな気持ちで、あと三日に迫る金曜日のことが今から楽しみでならなかった。

 きらきら輝く金曜日、ホークスは人知れず地元を飛び立った。ヒーロー不在を思わせぬよう、近隣事務所と連携し、ギリギリまでホークスは地元を飛び回り、満を辞して静岡へ発つ。気候は安定し、夏目前でずいぶん過ごしやすくなった。太陽が近いので、少々暑すぎる日もあるが、今日に限っては気にならない。各地を中継しながらホークスは夕刻前には静岡に入った。
「もうそろそろ到着です」
 来る時は連絡しろ、と口すっぱく言われているせいで、ちゃんと連絡する癖がついた。あなたの教育のたまものですよ、とホークスは微笑を浮かべつつ、もはや勝手知ったる静岡の空だった。
「分かった。事務所には言ってある」
 すぐにつく既読。すぐ帰ってくる返事。何もかもが嬉しい。
 羽を広げ、大空を滑空する。上昇、下降、一回転。ホークスの喜びの飛びっぷりは、求愛ダンスをする鳥さながらだった。あー楽しみ。なんの用事だろう。エンデヴァーさんからの直々のお誘いだ。夏の透き通るスカイブルーがホークスの気持ちを表して、雲ひとつない晴天だった。傾き始めた太陽が、ややもすればこの空を茜色に染めるのだ。

 精鋭ぞろいのエンデヴァー事務所は、珍しく今日は落ち着いて、この隙に書類をやっつけるぞと事務仕事をするサイドキックの張り詰めた集中がただよっていた。
 外に出ての仕事の方が多いヒーロー事務所にとって、落ち着いた時間は貴重な事務仕事の時間になる。現場仕事より書類仕事の方が多い、と揶揄されるくらい、実はヒーロー活動に書類業務は避けられぬものだ。役所が絡むと仕方がないが、この辺りはどうにか工夫して削減できないものかとホークスは常々思っている。これだけ電子化が推進されている世の中だというのに、役所だけは今も紙の仕事から解放されない。困ったものだ。
 ホークス到着から十分ほどで、やにわに事務所が騒がしくなった。ナンバーワンが帰還したに違いない。ホークスは応接ソファから立ち上がり、予想通り、現れたエンデヴァーを出迎えた。
「ドーモ! お疲れ様です、ナンバーワン」
 バン! と勢いよく扉を開けて現れたナンバーワンヒーロー、エンデヴァーは、すでにいつでも移動可能なホークスを目にして、「フン」と鼻を鳴らした。不遜な態度だが、「早いな」という彼なりの感想だと分かっている。
「早いな」
 予想の通り、エンデヴァーはそう言った。
「いやー、何の用事か楽しみで、早めに来ちゃいましたよ」
「……そうか。待たせたな」
「いやいや! 今日の街の調子はどうです?」
「珍しく、至って平和だ。……そんなことはいい、ホークス、早速だが出かけるぞ。外に車を待たせてある」
「アッハイ! 移動するんですね」
「所長、何にも説明してないんですか?」
 エンデヴァーと一緒に戻ってきたサイドキック、キドウが「呆れた」という顔を隠さない。歩きながら説明する、とエンデヴァーは戻ってくるなりヒーロースーツの上から手早くスポーツ用ウエアを着込み始めた。お前も着ろ、とホークスに一式、そろいのウエアが手渡された。エンデヴァーを模した炎のデザインのあるウエアだ。あ、これ先月発売されたやつ。俺買いましたよ、とは心の中にしまっておいて、ホークスも上着を脱ぎ、ウエアを着た。ご丁寧に、背中のところに羽を出すための穴が開けられていた。
「説明もなく悪かったな。近くの野球場に行く。時間は取らせん。小一時間付き合え」
「ええ! もちろん。……でも、野球場ですか?」
「ホークス! あんた野球したことあるかァ?」
 バーニンがエンデヴァーに一つ、そしてホークスにもう一つ、新品のグローブを手渡した。エンデヴァーはボールを手に、ホークスを振り返った。
「暗くなるまででいい。キャッチボールに付き合え、ホークス」

 人類総個性時代、平和をまもる役割のみならず、人々のエンターテイメントにもなってきたヒーローたちの活躍とは別に、いつまでも人の心を離さないものがある。音楽、舞台、映画、絵画、読書……そしてスポーツだ。夏を彩る日本のスポーツといえば、高校野球である。なにかと注目されがちな雄英高校とは別に、全国各地にいまも根強く残る高校野球名門校が切磋琢磨し、頂点を競い合う全国高校野球大会。夏の甲子園といえば老若男女が注目する一大イベントと言っていい。
 スポーツの世界は個性の発現とともに、独特に変わっていった。ヒーローたちの武器が〈個性〉なら、スポーツを生業とする者たちの武器は〈肉体〉そのものである。野球に限らず、あらゆるスポーツで個性の使用は制限され、純粋な、持って生まれた肉体のみの戦いがスポーツの醍醐味である。無個性の人間が輝ける大舞台のひとつもここで、プロスポーツ選手の中には無個性者も少なくなかった。
 そんな伝統ある高校野球の開幕を祝う開会式で、ヒーローによる始球式が定番となったのは、奇しくもナンバーワンヒーロー、オールマイトの最盛期だった。かつては有名人や業界人が中心となって最初の一球を投げていた始球式は、ヒーローがマウンドに立つことになったその日をきっかけに、ずいぶん様相が変わった。野球に不慣れな人間のヒョロヒョロした球を、接待の意味もこめて空振りすることが定石だった始球式は、ヒーローと高校球児が一騎討ちする唯一の舞台になったのだ。ヒーローは容赦なく投げ、球児は容赦なく打つ。大会一千回目を記念したオールマイトによる始球式は歴史的な盛り上がりだったと記憶している。相手打者は見事にオールマイトからホームランを打ち取り、ナンバーワンヒーローは悔しそうにアーチを見送って、素晴らしい強打だ! と心から称賛した。討ち取ったヒーローもいれば、かっ飛ばされたヒーローもいる。始球式でヒーローからホームランを勝ち取ったチームは必ず決勝へ行くというジンクスさえ生まれ、始球式は全国的に注目を集めるイベントだった。
 ホークスの記憶が正しければ、その始球式にエンデヴァーが招かれたことは今まで一度もない。エンデヴァー事務所の方も、エンデヴァーの意向でそういったイベントごとには不参加を表明することが多く、プロ野球はおろか高校野球にエンデヴァーが現れるなんて、ファンの妄想でしかない夢物語だった。だが、エンデヴァーの説明を聞く前に、グローブを持たされ、野球場へ行くと言われたその瞬間から、ホークスの胸には「まさか」という予感が閃いていた。
 移動中、エンデヴァーによる説明はこうだった。今夏の高校野球大会始球式に、エンデヴァーが正式に招かれた。事務所がイベントへの参加の姿勢を軟化させた頃合いであり、今大会第一試合の魚住高校のエースで四番、一番星流(いちばんぼし・ながれ)くんは子どもの頃からのエンデヴァーのファンだという。ぜひあなたに投げてほしい、というオファーを、エンデヴァーは受けることにした。だが、もちろん歴戦のナンバーワンヒーローとて、マウンドに立ったことはおろか、キャッチボールさえろくにしたことがない。そこで、呼ばれたのがホークスだった。
「野球場には俺とお前しかいない。人払いもしてある。マウンドに立って恥ずかしくない程度には仕上げたい」
「いやぁーっ、もう、ちょっと待ってください、いま胸がいっぱいです、俺」
「なぜだ」
「だって、……だってあなたが始球式に出るんですよ! うわぁーっ! そういう大事なことはもっと早く言ってください、絶対見に行きますから!」
「まだリリース前情報だ、内密にしろ。それにわざわざ甲子園まで見に来る必要はない、テレビ中継があるだろう」
「いや、いや、エンデヴァーさんが嫌がったって絶対行きますから!」
 ホークスは顔じゅうに「ウキウキルンルン」と書いてあるような浮かれっぷりで、エンデヴァーは何をそんなに浮かれているのか理解が及ばぬ顔だった。エンデヴァーは未だ、ホークスのこういう挙動に理解を示さない。どれだけ自分が好かれているか、自覚が微塵もないのだろう。
 静岡市東グラウンドは、エンデヴァーの言う通り人払いをされ、ホークスとエンデヴァー以外は人っこ一人いなかった。夕暮れをまもなく迎えようというグラウンドに、たった二人しかいないというのはどことなくもの悲しい。普段ならここで、近くの高校が部活動に勤しんでいたことだろう。
「ホークス、キャッチボールの経験は?」
 グローブをつけ、肩慣らしに二人は球を投げ始める。二人とも、さすがにそこはプロヒーローで、野球は門外漢とはいえども、「投げる」という行為自体は素人ではない。堂に入ったフォームで投げ合った。ホークスはエンデヴァーに尋ねられ、肩をすくめて見せる。
「いやぁ、それがあんまり記憶ないですね。遊び程度で学生の頃、とかなら」
「そうか」
 エンデヴァーが一体何を考えているのか、ホークスにはわかる気がした。キャッチボールといえば、父親と息子がやるものだと、いつからそんな風に決まったのだろう。ホークスはもちろん、父親と公園でキャッチボールをした記憶なんてない。エンデヴァーの方は逆だ。息子をキャッチボールに誘ったことなんてない。言うまでもないことだった。エンデヴァーの微妙な空気感を察したから、ホークスの方は、「エンデヴァーさんは?」とは尋ねなかった。
「いい球ですね! 回転かかってます」
 エンデヴァーの投げる球は取るたびにグローブの中がじーんと痺れた。威力のある球だが、キャッチボールの本意を外れず、取れない球は来ない。まっすぐホークスのグローブの中心を狙って投げられる白球は、わずかに回りながら飛んでくる。ホークスがややフォーク気味に投げるのに対して、エンデヴァーの球は真っ直ぐドストレートに飛んできて、グローブに収まるまで球速が落ちない。
「貴様のは取りにくい。途中で落ちる」
「フォークですよ、ナンバーワンに取れない球なんてないでしょう」
「まっすぐ投げてこい! ホークス!」
「いーえ、次はカーヴです!」
 見よう見まねのカーヴは、確かに曲がったが、明後日の方向に飛んでいった。おいッ! ……エンデヴァーは怒鳴り、それでも間一髪、グローブの先で拾う。仕返しだ、とばかりに、エンデヴァーは崩れたままの体勢で高くボールを投げ上げた。ものすごい強肩! 木製バットで打ち上げたように、遥か上空へ白球は飛んでいく。
「ちょっとォ! 俺じゃなきゃ取れませんよこれェッ!」
「お前なら取れるだろう! ホークス!」
 アハハ……とホークスは笑って、羽を広げて球を追った。まっすぐ投げていた球を、一度ふざけると嬉々としてあちこちに投げて、二人はしばらく投げ合いを楽しんだ。
「ホークス! 肩慣らしはもういいだろう。降りてこい」
「はいはーい」
 たった二十分キャッチボールしただけで、二人は汗だくになっていた。ホークスもエンデヴァーも、結局ウエアの上着を脱ぎ、上半身はヒーロースーツ剥き出しでやるしかなくなった。こんなところを見られたら、エンデヴァーが始球式に出るというリリース前の情報が流出するのは間違いなしだ。夕暮れ間近の空を見て、エンデヴァーは「さっさとやるぞ。日が暮れると球が見えなくなる」と言ってマウンドに立った。
 マウンドに立つエンデヴァーを、ホークスはホームベースからじっくり眺めた。ピッチャーからキャッチャーまでの距離はおよそ二十メートル。しかし、相手がエンデヴァーだともっと近くに感じる。それだけ威圧感が強いのだ。相手投手がエンデヴァーなんて、普通ならビビって失禁ものだな、とホークスはキャッチャーミットにつけかえ、プロテクター、ヘルメットとマスクを念入りに装着して、腰を落とした。
「ワー。すげェ迫力」
 正直にそう言う。エンデヴァーはムッと眉根を引き締めた。
「取れそうになかったら避けろ。悪いがほぼド素人だ。コントロールに自信がない」
「エンデヴァーさんにも自信ないこととかあるんですね」
「軽口を叩くな、ホークス!」
「へいへーい」
 キャッチャーの方にエンデヴァーがいれば、きっとピッチャーはずいぶん心強いだろうな。ホークスはのんびり考える。自分がもしマウンドに立つ方だったら、エンデヴァーがバッテリーならありがたい。どんな球でもしっかり受け止めてくれそうな安定感があって、頼もしい。エンデヴァーさんが遠慮なく投げられるように、俺もそうなるべきだな、とホークスは肩をすくめた。エンデヴァーは案外サマになったフォームで、一球め、大きく体を使って投げた。
 ……バシッ!
 ミットにまっすぐ球が飛び込んできたあと、遅れて強い痺れが手のひらに広がった。すごい威力! 急速いくらだったろう? 始球式で投げるには容赦なさすぎる球だが、一切打たせる気のないエンデヴァーによる始球式は、それはそれで解釈一致な気もしている。
「ッッッ痛ゥーー!」
「おい、大丈夫か」
「さすがナンバーワン、メチャ重のいい球です」
「フン。だが今のはボール球だ」
「デスネ。キレーな三振狙っちゃいましょう」
「言われなくてもそのつもり、ッだ!」
 ブン! とエンデヴァーが腕を振り、風を切る音が聞こえた。ホークスのミットめがけてまっすぐ飛んでくる球には迷いがない。エンデヴァーらしい、なんの捻りも仕掛けもない、率直なストレートだ。ホークスはミットで受け止め、じーんと痺れる手指の感触を愛しく思った。
「オッケー、いまのは球審によっちゃア、ストライクですよ」
「球審次第では困る。誰が見てもストライクでないとな」
「さすが、それでこそナンバーワンです。支えますよ」
「お前は軽口なのか本気なのか分からん!」
「ひどいなぁ、本気ですよ!」
 エンデヴァーは根気よく投げ続けた。イベントとして参加する始球式とはいえ、全力を尽くす怠りない姿勢はエンデヴァーの性格のなせるものだ。ひたむきな、窮屈でさえである勤勉な性格は、文句なく彼の美点であった。一切手抜きのない、実直で不器用な生き方が、ホークスは好きだった。

 そうなのだ。
 ホークス、いや、鷹見啓悟は、エンデヴァー、もとい、轟炎司のことが心から好きだった。

「ホークス! フォークボールとやらを教えろ。俺はストレートしか投げられん」
「あっ、ダメですよエンデヴァーさァん! エンデヴァーさんともあろう人が変化球なんて絶対ダメです。キャラじゃないですよ。まっすぐ、このまま、ストレート一本勝負で行くべきです。フォークもカーヴもスライダーもチェンジアップもダメです」
「……しかし球種のレパートリーを増やさんことには……」
「いりません! エンデヴァーさんはストレート一択。他はナシです」
「……まあいい。ならストレート一本勝負だ」
「そう来なくっちゃ!」
 グラウンドにはじける笑い声は、基本的にホークスのものだったが、なんとなく二人の間に流れている空気は和やかになっていく。ヒーローとしてではない、二人のただの男として、白いボールと向き合っている。キャッチボールを会話にみたてる比喩があるが、あれは的確だ。キャッチボールは声なき会話だった。相手の目を見て、ここに欲しい、というところへミットを出す。架空のバッターを思い描きながら、ホークスはまっすぐエンデヴァーにミットを構える。エンデヴァーはそれに応える。そこへ投げ込むぞ、という彼の目が、物言わず、それでも聞こえる。これは会話だと思う。
 ホークスもエンデヴァーも、次第に口数は減った。それなのに、ものすごく饒舌になった気分になっていた。投げ、取る。それだけの行き来が、徐々に深みを帯びていく。ホークスはミットの下で三本の指を出す。エンデヴァーは困った顔をした。サインの真似事はいいけれど、肝心のサインの中身を決めていない。エンデヴァーは何を思ったのか、白球を握りなおし、力強く投げた。
 フォークだ! 投げ慣れぬへたくそなフォークは、球速を失わずただ下へ投げられた球だった。ホークスは慌ててミットを下へ向け、体全体で取る。エンデヴァーは苦笑した。
「すまん」
「バッターがいたら振り逃げ成功してたかもですね! いやいや、やっぱりエンデヴァーさんにはストレートが似合ってます」
「フン。……お前が妙なサインを出すからだ。何のサインのつもりだ?」
「さあ? なんだと思いました?」
「ふざけおって」
 言葉は厳しくとも、エンデヴァーの口調は驚くほど柔らかくなっている。会話の緊張がほどけ、互いがそこにいることが当然になると、エンデヴァーの威圧感や厳格さは意外なほどに消えるのだ。それを知っているのはよほどエンデヴァーに近しい人間のみだろう。オールマイトと方向性は違えど、エンデヴァーは自身のナンバーワン像を確固たるものとして長きにわたり構築させてきた。エンデヴァーの生き方に「私」の部分はとても少なく、エンデヴァーは立ち振る舞いさえ「公」をもって選択している。もはや無意識に近いのだろう。そんなエンデヴァーが垣間見せる、私的な表情が、くすぐったく、喜ばしい。
 
 握る白球の感触に、エンデヴァーはふと眉根を寄せる。その表情はどこか寂しそうだった。口を開けて笑って、ノーコンのボールに文句を言って、ただの「男」になる、そういう簡単なコミュニケーションを、エンデヴァーはずっと怠ってきた。自分がもしも、家庭の温かさをもっと早く重要視していれば、いま、始球式のためにこっそり練習する相手は、息子三人だったかもしれない。
 夕飯だと呼びにくる母。泥だらけの男たち。呆れ顔の姉。……単純な家庭の日常風景を、なぜもっと早く守ってやらなかったのだろう……。自業自得。自業自得だ。自業自得……。ぐるぐると終わりない思索に襲われたエンデヴァーの球速がぐんと落ち、あらぬ方向へ飛んだ。上ずった球がフェンスにぶつかり、エンデヴァーはハッと目を開けた。
「エンデヴァーさァん!」
 ホークスが立ち上がり、転がった球を拾い上げる。ホークスの笑う顔には嫌味も裏表もない。エンデヴァーにはそれが有り難かった。
 遠方からわざわざやって来たのだろう。おそらく、用事もないのにだ。エンデヴァーにだってそのくらい分かっていた。なぜホークスがこれほどまでに自分を支えてくれるのか、分からない。自分の家庭の暗部が見えた時、この男はもう自分にこういった顔を見せてはくれなくなるだろうか? それが恐ろしかった。そんなことを恐ろしいと思うことも、過去の自分の行いを悔いることも、エンデヴァーにとっては初めてのことだった。逃げ出したいほどの後悔と自己嫌悪。けれど、エンデヴァーは罪から目を逸らす器用さも、狡さも持ち合わせていなかった。そんな風には生きられぬ男だった。自業自得だ、また思った。
「ダメですよ、マウンドで考え事しちゃ」
「ああ。悪かった」
「でも結構投げましたね。これだけ投げられれば、きっと本番もバッチリですよ」
「ホークス」
 空の色にはもはや茜が混じりはじめていた。あと十分と経てば球の軌道が見にくくなってくるだろう。引き上げる頃合いだった。マウンドからキャッチャーへの距離感は捉えられたし、もとよりボールを投げること自体は不得手ではない。充分だ。エンデヴァーは不意に、ホークスのかぶっていたヘルメットとマスクをぐいと脱がせた。
「っ?」
 ホークスは、突然エンデヴァーの大きな手が自分のマスクを取り上げたことに驚いて、一瞬声を失った。エンデヴァーはホークスからもぎ取ったヘルメットをマスクごと自分で被り、グローブを外す。外したグローブはホークスへ差し出した。
「ミットを貸せ、ホークス」
「は、え……?」
「次はお前が投げてみろ。きっとそのうちお前も始球式に呼ばれることだろう。俺ばかり投げては悪いからな」
「え、エンデヴァーさん……」
 ホークスは信じ難いものを見る目で、エンデヴァーを見た。エンデヴァーは何をそんなに、と不信そうな表情をしている。エンデヴァーはいくらホークスが全身で表明しても、いまいち自分へ向けられる好意をよく理解していない。憧れの人、しかもあの手厳しいエンデヴァーが、もはや「始球式の準備」という趣旨さえ離れて、全く私的な遊びに自分を誘ってくれている。ホークスの手が震えたって、誰も咎められやしない。
「ヨシッ! やりましょう!」
 ホークスは気勢を放ち、エンデヴァーからグローブを受け取った。キャッチャーミットはエンデヴァーへ。プロテクターをつけたエンデヴァーは、ホークスが考えた通り、ものすごく頼もしかった。どんな球でも受け止めてくれそうな、大きな女房役。バッテリーにおいて捕手は女房と喩えられる。お遊びバッテリーでも、その相手にホークスを選んでくれたことが、ただ嬉しかった。たとえ、息子たちを呼べない父の苦肉の策だとしても、ホークスは嬉しかった。
「俺の球は速いですよー、エンデヴァーさんッ!」
「最速の男の名に恥じぬ投球をしろ、ホークス」
「はァーい!」
 我ながら浮かれた声で、ホークスはマウンドに立ち、エンデヴァーの目を見た。フォーク? スライダー? いや、最初はやっぱり……。一本足で立ち、ホークスは大きく振りかぶる。まっすぐキャッチャーミットのど真ん中めがけて放られた白球は、エンデヴァーのミットの中で弾ける快音を繰り出した。エンデヴァーめがけストレートに飛んでいく、直線の好意に似ていた。
「いい球だ!」
 二十メートル先からエンデヴァーが声を張る。楽しさと、嬉しさで、ホークスは胸の奥からゾワゾワと立ち上がるような震えを感じて微笑んだ。ミットを口元につけ、次は何を投げようか、考える。ミットからはかすかに、エンデヴァーの逞しい匂いがした。それがくすぐったくて、ホークスはついに大きく笑っていた。
「何を笑ってる!」
「いやぁ、やっぱり俺には支える役目が向いてますよ、エンデヴァーさん」
「なんだ? 聞こえん」
「なーんにも!」
 俺もあんな風に、頼もしい女房役になろう、ホークスは暗くなりかけた空と、飛んでいく白球に誓った。

   (二)空高く一番星

 午前九時半からの初戦に先駆けて、開会式は八時からのスタートだった。ホークスは前夜からこっそり兵庫県入りして、「わざわざ来んでいい」と言われていたにも関わらず、甲子園球場の前に到着していた。
 こっそり観客席で見るか、それともバックネット側の関係者席から見るか迷ったが、結局どうしてもマウンドに立つエンデヴァーを正面から見たくって、ホークスはバックネット側にひとつ座席を準備してもらっている。
 今年の始球式はエンデヴァーが投げる、という情報がリリースされたときの興奮を、ホークスは今日もまだ噛み締めている。テレビ中継では今日エンデヴァーとの対決に挑む魚住高校の主砲、一番星くんの、情報解禁の日のリアクションが繰り返し流されていた。
「始球式、投手はエンデヴァーです」
「え、ハイ………エッ?!?!?」
 目を剥き、それまで大人びてハキハキした対応の一番星くんが、突然等身大の高校生に戻った瞬間だった。関西のリトルリーグ出身の彼は、「ウソや?! ホンマですか?! マジで?! ウーワ!  ヤバい! 絶対打たな、絶対打ちます、やったります!」とお国言葉丸出しで、インタビューそっちのけに、集まって来た仲間のもとへカメラを無視して走っていく姿が追いかけられた。なぁ! 聞け、聞け、始球式エンデヴァー! ウソやろ? ホンマに?! やったやんけお前ーッ! 打てよ! いったれ、いったれ! ……ウワーッと雪崩のような興奮が、思わず見ている方をも笑顔にさせた。このキャッチーな映像は、来たる始球式の日まで、飽きもせず何度も食卓に流され、「見ろやくん」に続く人気っぷりだった。ホークスももちろん、SNSで飽きるほど見ている。見るたびにニヤついてしまう、お気に入りの動画だった。
 関係者席に現れたホークスを見て、エンデヴァーは心底呆れた顔をした。来なくていいと言ったのに……。という、心の声が聞こえそうな顔つきだ。でも、帰れとは言われなかった。
「エンデヴァーさんの勇姿、楽しみにしてますよ」
「フン」
 エンデヴァーは、大会の慣例に従って、マウンドに立つときもしっかりヒーロースーツを着込んだ。ヒーローは自分の正装であるヒーロースーツでマウンドに立ち、相手打者は自校のユニフォームに身を包む。もしかしたら、ホークスとキャッチボールをしたあとも、何度か練習していたのかもしれない。エンデヴァーのグローブは、この間まで新品だったのに、しんなりとくたびれて、使い込まれた風情を纏っていた。
 開会式のあと、大会第一日目の第一試合、先攻は魚住高校、相手は群馬の後橋育英だ。二高の選手たちがマウンドに一礼し、後橋育英の黄色い校名が入ったユニフォームの球児たちが、それぞれの守備位置についていく。育英のエース投手がエンデヴァーへ、大会を始める最初の一球を手渡し、マウンドを駆け足でおりていった。
 バックネット席の正面に見える、大迫力の大きさのエンデヴァーは、観客であるホークスでさえ委縮するくらいの気迫ある眼力でマウンドに立ち、背筋を伸ばしていた。右手、一塁側にはずらりと魚住のイメージカラーである「フィッシュブルー」と呼ばれる澄んだブルーのタオル、メガホンが埋め尽くし、三塁側には育英の黄色が踊っている。
「うわー、エンデヴァーめっちゃ迫力あるなあ」
「ほんまほんま。流、打て! がんばれ!」
「打たしてくれよォ、エンデヴァー、たのむでェ」
 ホークスの周りで観戦している魚住の高校関係者らしき観客たちも、四番の一番星に立ちはだかるこの大きな壁に生唾飲んでいた。大会のジンクスを考えても、ここで打てば決勝へ行ける、というチームの命運を分ける戦いなのだ。ホークスはどっちも応援したい気持ちで、むずむずと何度も座りなおした。
 いよいよだ。ウグイス嬢の柔らかな声が、球場に響き渡る。
 ――ピッチャー、フレイムヒーロー、エンデヴァー。
 ぞわわ、とホークスの背に喜びの震えが走った。エンデヴァーはもう、マウンドの上で、自分の相手となる打者のことしか見ていない。ウグイス嬢に呼ばれても、ニコリともしなかった。だがそれでいい。集まった観客に笑顔を振りまくような人でなくていいのだ。
 ――バッターボックスには、一番、キャッチャー、一番星くん。
 ワッ! と魚住高校の応援席から歓声が響いた。立ち上がり、メガホンを打ち鳴らし、魚住高校の吹奏楽部が一斉に演奏を始める。甲子園常連校の応援には、たいてい「魔曲」と呼ばれるチャンステーマがあり、魚住のチャンステーマは「ファイアーボール」という名の曲だった。
 なんとおあつらえ向きの相手だろう! 響き渡る「ファイアーボール」に合わせ、青いメガホンが打ち鳴らされ、スタンドは広げられたブルーのタオルでいっぱいになる。チアガールのポンポンだけは、チャンステーマに合わせたオレンジと赤の火の玉の色になっていた。ブルーの海を泳ぐように、火の玉に見立てたポンポンがスタンドに舞う。マウンドでにらみ合うのは二人の男。炎の男と、フィッシュブルーの一番星。
 この「エモい」光景を、ホークスは一秒も見逃さぬように目をしっかり凝らして見ていた。足踏みし、叫び、雄たけびを上げ、打て打て一番星、とがなる応援席の騒ぎにちらとも目を向けず、炎の男はピシリと背を正していた。グローブの中の白球を、二度三度回す。大きな手。個性の使用禁止の大会なので、エンデヴァーは火の消えた姿で立っていたが、見えぬ炎が瞳の中に燃えていた。
 初級、投げた!
 ブゥンッ! と風を切る豪速球だ。エンデヴァーの全体重が乗って、わずかに回転のかかる癖のついた鋭いストレート。球速を予想していなかったのか、それとも、初級はどんなものかと様子を見るつもりだったのか、……一番星は微動だにしなかった。見送った球はまっすぐキャッチャーミットに入る。ストライィーック! 球審の声が響いた。
 ヒーローがマウンドに立ってから、始球式のルールは一球のみでなく、きっちり三球を投げ切るものに変わった。スリーストライクか、フォアボールか、それともヒットかホームランか……。はっきり決着がつくまでの勝負だ。一球を見逃した一番星に、ホークスの背後でため息が上がる。
「あかん、あかんぞ、あれは打たしてくれん」
「さすが、エンデヴァー漢やなあ。メチャクチャエエ球や」
「いや、いける、流はここぞのときにやれるヤツなんや……」
 応援にも熱が入った。観客席のブルータオルは海原にうねる大波のようにはためいて、声を張り上げている。正面の電光掲示板に、一番星くんの横顔が映った。焦りも、怯えもしていない。闘志を秘めた冷静な目だ。必ず討ち取ってやる、という強い意志の光を見て、ホークスはくちびるを緩めた。カメラが切り替わり、今度は大画面にエンデヴァーの表情が映し出される。こちらも至って冷静だった。もはや「敵」となる相手しか見えていない、男の真剣勝負。エンデヴァーは一瞬たりとも打者から目を離さず、獲物にとびかかる前の熊のように、背を丸め、見据えた。
 二球のボールのあと、四球目。ファール当たりを許さない、と一番星くんは心に誓っていたのだろう。まっすぐ愚直に飛んでくる、豪速のストレートへ、一番星くんは思い切りバットを振りぬいた。

 アッ、……と、息をのむ一瞬。
 最も早く見上げたのはエンデヴァーだった。カキーン……! とバットの芯にあたる美しい音がして、捉えられた白球がエンデヴァーの頭上を越える。一瞬遅れて、スタンドから歓声が上がった。一番星くんはもう走り出している。追いかけた育英の外野は、途中で追いかけるのをやめた。センタースタンドにまっすぐ飛び込んでいく、大会第一号ホームランだった。
「やりよった! やりよった!」
「流ェ! ようやった!」
 ホークスの周りも、そしてホークス自身も立ち上がっていた。一番星くんははじける笑顔でベースを一周し、ホームベースを両足で踏む。ベンチから飛び出してきた仲間にもみくちゃにされ、エンデヴァーは悔しそうに腕組みをして立っていた。まるで優勝したかのような盛り上がりだった。

 大盛り上がりのグラウンドへ、報道関係者が飛び込んでいく。まずは英雄、一番星くんのインタビューだ。彼は興奮で胸いっぱいの様子で、「すごい球やったんですけど、なんとか、なんとか打てました! 気迫で負けたらアカン、と思って!」と早口にまくしたてる。次に、討ち取られたナンバーワンへマイクとカメラが向いた。
「やられましたね、エンデヴァー! でも、とてもいい球でした」
「フン。……打たれては意味がない。打たせん気で投げた」
 誰も、エンデヴァーが一番星に花を持たせるために打たせたなど、噂も出ないだろうという回答だった。思わずホークスはワハハハと声を上げて笑っていた。
「文句なくいい打者だ」
 エンデヴァーは終始ムッとしたまま、相手打者へ称賛を送り、それ以上語らなかった。まだインタビューを続けようとすがるテレビクルーに背を向けたエンデヴァーだったが、魚住高校のベンチサイドから、一番星くんが飛び出してくる。
「エンデヴァー! あとで写真、お願いしますッ! あ、あと、サインも! この球に! この球にサイン!」
 興奮しきった一番星くんの様子にホークスの笑みがいよいよあふれ落ちそうだった。しっかりこの様子も中継に捉えられているはずだ。エンデヴァーが誰かにこうして称賛されている、好かれている姿が、どうして自分をこうも幸福にさせるのだろう? ホークスは止まらないクスクス笑いをずっと引きずったまま、始球式が終わり、試合が始まってエンデヴァーがバックネット席に戻ってくるまで、肩を小刻みに震わせていた。
「エンデヴァー! エエ球やったで」
 バックネット席に現れたエンデヴァーへ、一塁側から声がかかった。一番星を応援していた関西言葉のおっちゃんたちの一人だ。エンデヴァーは特に愛想のいい顔もしなかったが、「彼もいい打者だった」と、インタビューで答えたことを繰り返した。
「ホークス、貴様まだいたのか」
「いるに決まってるでしょォ。エンデヴァーさんも試合、見ますよね?」
「ああ。うちのサイドキックもそろそろ来るはずだ。一試合目だけ見て帰る。地元を開けているからな」
「じゃ、俺もお邪魔して。いやー、よかったですよ」
「あれだけきれいに打たれてよかったもクソもあるか」
「あ、もしかしてエンデヴァーさん、打たれて拗ねてます?」
「拗ねとらんわ!」
 アハハハ、と笑ったのは、エンデヴァーとの会話が愉快だったせいもあるし、エンデヴァーがまっすぐ自分の隣の席に座ってくれたというせいでもある。真っ青の空、照りつける太陽。エンデヴァーはもちろん、ホークスもじっとり汗をかいていたが、カラッと晴れた空は不愉快ではない。客席を回るドリンク販売員の声が聞こえた。キンキンに冷えたビールがあるらしい。ホークスはちらとそちらを見て、「エンデヴァーさん、ビールどうです?」とクイッ、と傾けるマネをした。案の定、エンデヴァーはホークスの脳天に拳をドンと振り下ろし、「勤務中だ、バカ者」と叱った。

 
  
   (三)神様、どうか恋をゆるして

 大会のジンクスを裏付けるように、魚住高校は初戦から快調な滑り出しで、主砲・一番星の好打はもちろん、堅守とされる守備で得点を許さず、順調に駒を進めていった。これは決勝行くかな、とホークスは地元・九州から試合のたびにテレビ中継をチェックするようになった。それもこれも、始球式にエンデヴァーが登場したせいだ。一日の終わりに熱闘甲子園でダイジェストを見て、ああ今日はここが勝ったのか、今年はここが強いのか……と把握する程度だったのに、今年は魚住の試合だけは必ず見てしまう。魚住の主砲の向こうに、ナンバーワンヒーローがちらつくのだろうか。
(たいがい、好きだねぇ、俺も……)
 晴れた空に伸びる電波塔の上に着地して、パトロールの合間にテレビ中継を確認する。いまは準決勝、魚住は粘りに粘り、1―1の同点で延長戦にもつれ込んでいた。
 魚住の今日の試合はこうでしたね、とホークスは一日の終わり、魚住の試合があるたびにエンデヴァーに連絡をするようになっていた。エンデヴァーの方も、長々と、とはいかないが、短く返事を送ってくれる。ホークスにとって、こういうことは初めてだった。返事を待ってそわそわする時間、そして、返事が来るとたまらずくちびるを緩めてしまう感覚が……。
 ヒーローへの道を最速最短で駆け上がったホークスにも、恋の予兆がなかったわけではない。ホークスが強く誰かに思いを寄せたことはなくとも、寄せられた思いに答えようとしたことはあった。学生時代。付き合って、と言われた同級生。手をつないでみたけれど、なんともいえぬ「他人の手」を感じただけだった。しばらく付き合ったけれど、キスをするまえにお別れしてしまった。事務所を立ち上げたあとにも一人、次は年上の人だった。しっかり者で、笑顔のかわいい、頼りになりそうな人だったけれど、ディナーのあとにしたキスが、ミントの味だったことしか覚えていない。ああ、この人は、短くお手洗いに立ったとき、歯磨きでもしたのかもしれない、とぼんやり思ったホークスのくちびるに、柔らかい女性のくちびるが、ルージュの質感をもって押し付けられた。ホークスはなんとも思わなかった。唯一、自分もエチケットとして、ミントタブレットを食べていたから、相手もミントを感じただろうと思っただけだった。
 手をつなぎ、キスをして、セックスをする。全部違う人と体験したけれど、一度もホークスは、自然ににやついて、そわそわして、落ち着かなくなるようなことなく、経験として消費してしまった。手をつないだときの相手の手汗、落ちていく桜の花びら、キスしたときのミント味、それから、セックスしたとき、はじめてつけてみたコンドームの薄皮のぬるぬるが、ホークスの記憶の中にひっそりと押し込められているだけだ。もしも、これが恋のすべてだとしたら、なんてつまらないんだろう、とホークスはあくびをかみ殺す。
 そんなホークスにとって、メッセージの返事を待つドキドキや、一緒に食事へ行くときのウキウキは、想像していた「恋」の形を忠実に再現していた。相手はうんと年上で、その上妻子がある人だ。絶対に叶わないと分かっているし、これが「恋」なはずない、と否定してみるものの、見ないふりをすればするほど、ホークスの中で風船のように膨らんでいく。
 あのう、エンデヴァーさん。
 膨らんでいく風船に、手動でシュコシュコ空気を入れているのは、エンデヴァーその人だ。
 ……あんまりやると、破裂しちゃいますよ。
 おずおず、彼を止めようとすると、エンデヴァーは見たことのない顔でほほ笑む。優しい顔だった。父親でも、ヒーローでもない、一人の男としてのほほえみだ。もちろん、それはホークスの妄想の中でのエンデヴァーだが、彼は確かに笑っていた。
 破裂すればいい。
 エンデヴァーは端的に言い捨てて、また風船を膨らませる。ホークスは割れそうに膨らんだ大きな風船のかたちの「恋」を見て、ああ、やばい、もうすぐ割れちゃう、いや、割れろ、割れちまえ、……と、複雑な気持ちを抱えて、見ている。
 自分の性格は、秘めておく恋には最も向いていないと思う。欲しいものは手に入れたいし、最速最短がモットーなのに、エンデヴァーのこととなるとホークスはずっと遠回りし続ける。本当は触れてみたい、その節くれだった大きな手を、もう長いこと見つめたままで、あの手の感触はどうだろう、と想像してみる。きっと乾いて、かさかさした手だ。太い指が、自分の指と絡まったら……、思うだけで額まで赤くなってくる。手をつないでもないのに、このドキドキは尋常ではない自覚もあった。
 恋。
 恋。
 恋。
 知らなかった、恋がこんなに危険な感情だったとは。世間体も、常識も、何もかもかなぐり捨てて駆けだしてしまいたくなる。でも、足を止めずにはいられない。相手を傷つけたくもないし、困らせたくもない。相手を大切にしていたい。でも、この気持ちを相手にぶつけて、驚いた顔、おののいた顔、困った顔を見てみたいとも思う。破裂しそうな自分の気持ちを、自らぶちまけて、あなたのことをこんなに好きなんです、と表明してしまいたい。けれど、できない。やっぱりできない。大きな温かい卵を抱えて、ホークスはずっと巣の中にうずくまっている。だめ、だめ、やっぱり言えない。
 恋ってこんなに難しい。それでも楽しい。さて、仕事に戻りますか……。と、羽を広げたホークスの手元で、携帯電話が震えた。短い通知に「エンデヴァーさん」という名前がひるがえる。ドキッとして、慌てて確認して、一瞬目をまるくした。ホークスはまるで誰かに見られるまいとするかのように、手の中の携帯電話を抱きしめて、胸のうちでもう一度見た。
「魚住、決勝進出。明後日決勝戦だが、時間があれば見に来るといい。俺も行くつもりだ」
 顔を整えて、パトロールに行ってから返事をしようと思ったのに、無理、無理! 全部無理だった。顔はゆるみ、抑えられなくなり、とても街に出られる顔じゃない。ホークスはニヤニヤしながら素早くメッセージを返す。
「でーとですね」
 ……と、打ってから、バカか俺は、浮かれすぎ。と正気に戻る。四十五歳のおじさん相手に何を、と思われるかもしれないが、ホークスは本気だった。
「見ました、タイブレーク熱かったですね。ぜひ行きたいんで、時間作ります」
 何度も自分のメッセージを見直して、大丈夫、大丈夫、至って冷静に見える。そう確認してから、ホークスは慎重に送信ボタンを押した。
 パンパン、と頬を平手でぶって、表情を整え、ホークスは飛び立った。平日の昼間となると喧騒はおとなしいが、街はここから騒がしくなる一方だ。夜が更けていくと、向こう見ずな連中の気がどんどん大きくなる。不思議なことに、どの地域でもそれは道理だった。繁華街でも、田舎でもだ。
 スイ、と音もなく飛ぶホークスが頭上にいるだけで、街の抑止力になる。昼のパトロールは事件より事故が中心だ。ホークスは点々と街を飛び回って、ときに地上にも降りた。
 てっきり、「来るか」「行きます」の往来でおしまいだと思っていたエンデヴァーとのメッセージのやりとりだったが、不意にホークスの胸ポケットで携帯電話が再び振動する。なんだろ、事務所からかな、……と取り出して、危うく取り落としそうになった。さっき終わったと思っていたエンデヴァーとの会話は、まだ終わっていなかった。たっぷり二時間経ってから、エンデヴァーはこう送って来た。
「その日、昼に関西で別の用があり、前日入りしている。もしお前も来るならメシくらいおごる」
 頭の回転の速いホークスが、一巡でメッセージの意味を理解できなかったことなんて初めてだった。エ、エ、え……? と矢継ぎ早にめまぐるしく脳みそが回転する。エンデヴァーさんが? あのエンデヴァーさんが、自ら、飯の誘い……? 既読がついたメッセージを、ホークスはぎこちなく硬直してしばらく信じられない思いで凝視していた。その「間」をなんと思ったのか、エンデヴァーはこうも寄越した。
「泊まるつもりなら、宿泊先も俺の分と一緒におさえておく」
 行かない、という選択肢なんてなくなった。握りしめた携帯電話の熱を、こんなにはっきりと意識したのは初めてだった。

 ホークスが兵庫県に到着したのは夜八時を回ってからだった。エンデヴァーの方も、他ヒーローとの共同演習と地元学生の指導が終わり次第の合流だったため、遅い集合はありがたかった。
 せっかく兵庫まで来たんだし、うまいもん食べましょうよ、とホークスの提案で、二人は南京中華街駅で下車し、赤提灯の連なる夜の中華街に降り立った。オフの姿とはいえ、エンデヴァー、ホークスが並んで歩いているとやはり目立つ。あちこちで「あれってエンデヴァー?」「うわっ、ホークスやん! 見て!」「わ、まって、声かけてエエんかな……」とざわめきが起こる。ホークスが嫌な顔をしないせいで、一時は彼らの周りに人だかりができるほどだった。
「板についてきましたねぇ、ナンバーワンのファンサ」
「くだらん。お前の横に突っ立ってるだけだ」
「にしても、〈今はオフだ、見て分からんのか、散れ!〉とか言わなかったじゃないですか」
「フン! 誰の真似だ、俺はそんなこと言ったことはない」
 二人は中華街の名店、東紫縁の赤いのれんをくぐり、大衆居酒屋的ぎゅう詰めの庶民的な空間が絶妙に居心地のいい、狭い座敷に通された。店の者はツートップのヒーローの来店にそわそわして、中国語なまりの店主が、「サイン、サインくれ、ココ、店に飾ル!」と色紙をぐいぐい押し付けて来た。
 地元でも評判の店というだけあって、油のてらてら光った中華料理の数々は、どれも本場の味である。エンデヴァーがおしぼりで手を拭いている間に、最速・ホークスはもう矢継ぎ早に注文していた。エンデヴァーのような、立場も年も上の男相手に委縮せず好きなようにふるまえる若造は、エンデヴァーにとっても気が楽だった。無理やり若者を飯に付き合わせた、といらぬ心配をする必要がない。エンデヴァーに「何食います?」とも聞かず、油淋鶏、特性豚角煮、エビマヨ、麻婆豆腐、空心菜、八宝菜、五目チャーハン……、ホークスは次々頼んだ。ジョッキのビールも勝手に二つ頼まれた。
「あいー、お疲れ様です~」
「ン」
 カチ、とジョッキを合わせて、ホークスはゴクゴク喉を鳴らして飲んだ。どれだけこの日を楽しみにしていたことだろう。エンデヴァーは見かけによらず、ガツガツ食べる方ではない。ホークスは自他ともに認める食いしん坊(失礼な。美食家、って言ってほしいものだ)だが、エンデヴァーは適量で満足する。体が大きい分食べる量も人よりは多いが、食べ方のせいだろうか、不思議と彼は大食漢には見えなかった。
「食って食ってー、エンデヴァーさん。早く食わないと俺全部さらえちゃいますよ」
「好きに食え、食いたくなったら追加すればいい」
「んじゃ、遠慮なく残りの油淋鶏もらいます」
 鳥のくせに鶏肉が好きな男だ、とエンデヴァーはホークスのまぶしいほどの食べっぷりに目を細めた。ビールジョッキが空になると、二人は思い思いの酒を頼み始める。エンデヴァーも、ウワバミというほどでもないが、酒にはある程度強い。だが、ホークスはもっとだ。九州男児らしいウワバミ男で、ホークスは威風堂々、清々しいほど飲んだ。
「せっかく本場の中華食べに来てるんだし、紹興酒いっちゃいます?」
「俺はあまり飲んだことがないな」
「おっ、じゃーいっちゃいましょう。ボトルで」
「あまり飲みすぎるなよ」
「肝に銘じてますよ、ヒーローに酩酊は禁物、ってね」
 花彫、金龍、塔牌……、馴染のない銘柄が並ぶメニューを、エンデヴァーはしげしげと眺めていた。ホークスは油淋鶏をもう一皿追加して、それもほとんど一人で食べている。そんなに腹が減ってたのか、とエンデヴァーが呆れ口調で言うと、ホークスはきょとんと目を丸くして、わずかに頬を赤らめた。酒の赤さではないと思われた。
「アー、ほら、楽しいお酒の席だと、メシが進んじゃうんですよ」
 照れくさそうに笑うホークスに、エンデヴァーはじっと目を向け、そしてわずかに微笑んだ。ホークスは雷に打たれたような顔をする。エンデヴァーが不意に漏らした微笑が、あまりに衝撃的だったのだ。
「俺のような相手と飲んでも仕事の延長のようになるかと思ったが、楽しんでいるならよかった」
「…………」
「何を黙ってる、妙な顔するな!」
「だ、だってぇ、不意打ちはずるいですよ……。俺ほんとに、……ほんとに楽しいんです、あなたと飲んで、飯食って、……いや、それ以外も、一緒にいるのが、ほんとに」
「変わったやつだな、お前みたいなのはなかなかおらん。俺といると息がつまる、という意見が世間一般だ」
「アハハ! エンデヴァーさん、冗談言えるようになったんですね」
 からかわれて、ゴチン! とゲンコツが飛んだ。じゃれ合い程度のゲンコツも、ホークスには宝物だった。

 たらふく食べて飲んだのに、ホークスは店を出たあとまだ食った。ユンユンの焼き小籠包食わずに帰る手なんてないですよ、から始まり、屋台じゅうを回る勢いで、ホークスは無遠慮にエンデヴァーの腕をつかんで引っ張っていく。焼き小籠包は夜でもずらりと列があって、並んだだけあって肉汁の染み出るいい味だった。並んでいるツートップにここぞとばかりに人が群がり、写真撮って、サインして、と引っ張りだこだった。中には始球式を見た人間も少なくなく、いい投球だった、魚住をよろしく、など思い思いにエンデヴァーに声をかけていく。落ち着きが悪そうなエンデヴァーの様子が、いよいよホークスを喜ばせていた。
 とっぷり夜が更けるころ、二人はようやく宿泊先に向かうことにした。ヴィラン襲撃もない、実に平和な夜だった。上機嫌に酔いが回ったホークスは、エンデヴァーの周囲をぴよぴよ飛び回るくらい浮かれて、エンデヴァーは振り払うことも忘れるほどホークスの存在に慣れた。駅前すぐ近くの、阪神電車へアクセスのいい場所におさえてあったホテルのロビーについて、それぞれに部屋をとってある、と聞かされたホークスは、当たり前のことなのに少しがっかりしてしまった。
 おんなじ部屋を取るわけないかあ。
 ホークスは浮かれ切った自分を改めていさめ、明日は何時にロビー集合、とエンデヴァーの言いつけを話半分で聞いていた。
 しかしだ。神様はいる、とホークスはこの日思うことになる。フロント係は二人を前に妙な顔になり、「少々お待ちください」と言って奥へ引っ込んだ。そのあと、青い顔のフロント係は、上司らしき男とともにもう一度受付に戻ってくる。威圧感バッチリのエンデヴァーと、飄々たる表情のホークスを前に、フロント係はさぞ切り出しにくかったろう。今夜がわたしの命日、という絶望感たっぷりの表情だった。
「申し上げにくいのですが、……あの、こちらの手違いで、別々に部屋をお取りするのではなく、ダブルルームを一部屋お取りしてしまっておりまして……、別のお部屋をすぐにご用意したいのですが、あいにくと甲子園決勝戦前でどの部屋も埋まってしまっておりまして……」
 フロント係の説明が先に進むにつれ、エンデヴァーの表情が硬くなっていくのが分かった。対して、ホークスは「は?」と驚愕の表情を浮かべ、徐々に、不自然に真顔になっていく。それもそのはずだ。焦りと信じがたい気持ち、突然降ってわいたことに困惑する思いで感情がぐちゃぐちゃになってしまっている。
「……なるほど。起こってしまったことは仕方がない。とやかく言わんが、一部屋となるとこちらも困る。この近隣で空きのあるホテルは……」
「あ、あの、ハイ、もちろんこちらでお調べしますが、今夜すぐとなると確約ができず、ホテルのグレードもだいぶん下がってしまうかもしれません。少々お時間をいただくことに……」
「あー、エンデヴァーさん、別にいいじゃないですか。男同士だし、あとは寝るだけだし、もう部屋入っちゃいましょうよ。エンデヴァーさんはともかく、俺はサイズ小さめなんで、ダブルベッドでもお邪魔しないはずですよ」
 この短時間で、すらすらと普段通りの調子で提案できたのは奇跡だ、とあとになってホークスは思う。いつものからかい口調のホークスは、今からホテルを探すなんて面倒だし、もう寝ちゃいましょうよぉ、という気楽な様子で、エンデヴァーの肩をとんとん叩く。エンデヴァーはムッとくちびるを引き結んだが、エンデヴァーの方こそ、是が非でも嫌だという表情ではなかった。
 もとより、学生時代から雑魚寝には慣れている。ヒーローたるもの、どんな場所でも仮眠をとることができるというのも実力のうちだ。男二人でダブルベッドであっても、拒否感がないのも頷けた。
「お前はそれでいいんだな」
「ぜーんぜん、いいです。俺ホント、どこでも寝られるんで」
「だそうだ。案内してくれ」
「アッ、はい、本当に申し訳ありませんでした、お気遣い痛み入ります!」
「エンデヴァーさん、いびきがうるさいかもとか気にしなくていいですからね」
「フン! 生意気言ってると、ベッドから蹴り落としてやるからな」
 軽口で場の雰囲気は元に戻った。ホークスの提案を、エンデヴァーも不信には思っていなさそうだ。対して、ホークスは実際、じっとり手汗をかいている。転がり込んできたまさかの展開。一緒の部屋で、ましてや一緒のベッドで寝るなど! 自分は役得だと思ってとっさに提案したが、もしかしたら、一生片思いを貫く覚悟だった自分にとって、これは恐ろしい拷問にすらなるかもしれない。ホークスは改めて震えた。
 ある程度グレードの高いホテルの一室だということもあって、ダブルルームとはいえ広々としていた。赤いふかふかの絨毯が敷かれた廊下を通り、ルームキーで中に入る。荷物を置いて、さっそくホークスは恒例の行事をやった。ベッドメークが済んだまっさらなシーツの上に、思い切りダイブすることだ。
 ぼふっ! と、軽い音でホークスの身体が沈む。やっぱりいいホテルのベッドはスプリングも上質だ。一人で出張だと安いビジホにしか泊まらないから、こういう感覚は久しぶりだった。やめろ、と叱るかと思ったが、意外にも、エンデヴァーは呆れ笑いで咎めなかった。
「二人で寝てもまだ広いぐらいですよ、エンデヴァーさん!」
「よかったな。だが先に風呂に入れ」
「うーん、俺酒が回っちゃって……」
「ダメだ。寝そうなやつが先に入る。鉄則だ。従え、ホークス」
「はあい」
 軽く返事をしたくせに、ホークスはいやに丁寧に、音も立てずシャワールームのドアをぴったり閉め切った。胸には緊張気味に着替え一式を抱きしめていた。

 男同士ですし、と言ったのはホークスの方だったが、突然舞い降りた信じられない展開に、妙な緊張感を伴っているのもホークスの方だった。エンデヴァーはホークスが一緒の部屋でよい、と言ったからには、自分が拒否することもない、と、本当にそのくらいの気持ちでいるのだろう。だが、それはホークスの気持ちを知らないからだ。ホークスはいそいそと立ち上がり、着替えを持ってバスルームに入った。袖を落としていく衣服の感触、裸になっていく自分の身体を鏡に映して、ああ、この空間にこのあとエンデヴァーさんが入るのか、と思うと、たまらない気持ちになった。

 ダメだ。
 余計なことを考えるな。

 念じれば念じるほど、ふつふつと頭の中で悶々としたものが渦巻きはじめる。このシャワールームの扉を締めて、バスタブのない、簡素なガラス張りのボックスの中で、エンデヴァーもこのあとシャワーを浴びるのだ。想像したことがないわけではない。エンデヴァーの裸体。きっとあちこち大きいんだろう。太い首、二の腕、パンと張った胸周り、胴はビシリと腹筋の筋が走って、そしてズドンとくびれない、がっしりした胴だ。腰はどっしりと重く、筋の入って引き締まった尻、そして、手のひらに乗せるとずしんと重量があるだろう、規格外の大きさの萎えたチンポとミチミチにつまった玉袋……。どういうふうにシャワーを浴びるのだろう? 体温が高い彼はきっと冷たいシャワーを浴びるはずだ。ホークスが浴びている、温かい温度の水滴ではなく、刺すような冷たさで自分の皮膚を冷やす。腕も胸も足も、尻の穴のまわりまで毛深いはずだ。洗う時、どこから洗うのだろう? スポンジで? 手で? ムッと男の匂いがする脇、……それから……。
 だめ、だめ、だめ。
 だめだ。
 考えるな。
 ドクドクドク、と耳の後ろに直接心臓の鼓動が響く。体が熱くなる。こんなことは初めての感覚だった。止められない思考に、否応なく体が反応してしまう。ホークスは自分を、どちらかというと淡白な方だと思っていた。是が非でも女の人とセックスしたいと思ったことがなかったし、大きなお尻、ツンと上向いたおっぱいを見ても、最初に通り過ぎるのは「フーン」というあっさりした感想だけだったのだ。
 だめ。
 だめだ。
 だめ、と思ったときにはもう手遅れだった。シャワーを手早く浴びるはずが、ホークスは完全に自分のムスコが屹立していることを無視できなくなっていた。ここでヌく? ありえない。壁一枚隔ててエンデヴァーさんがいる。立派なノンケ男で、妻子もある。うんと年上の男だ。ホークスだって彼と近い関係になるまでストレートだった。少なくとも、女性と本気で恋に落ちたことはなくとも、男相手に誰彼構わず、とは絶対にならなかった。
 神様はいる。
 でも、神様はきっと残酷だ。
 ホークスは目を閉じた。勃ってしまったものはどうしようもない。このまま収まるのを待ってもいいが、いつ収まるか分からないものを、だらだらとシャワールームを占拠するよりは、サッとヌいて、何食わぬ顔で出て行った方が不信がられないだろう。熱いシャワーを全開にして、壁にもたれる。勃起した自分のチンポに手を這わせ、しゅこ、しゅこ、と緩やかにヌきはじめる。こうなっちまったモンは仕方がない。収める以外に手はないのだ。自分にそう言い聞かせて、ホークスはシャワーの音を聞きながら、エンデヴァーの大きな裸体を夢想した。ごめんなさい、と懺悔しながら。

 エンデヴァー、いや、轟炎司がここへ入ると、小さなボックスがぎゅうぎゅうに狭く感じる。夢の中の、イマジネーションの轟炎司は、ホークスとのセックスを決して嫌がらない。それどころか、自ら濡れたタイルの壁に両手をついて、尻をこちらに向けてくる。ミッチリと筋肉のつまった背中に、筋が浮いている。ところどころ生傷のある体は、ホークスの二倍も大きく、轟炎司はグッとくちびるを引き結び、恥ずかしそうにする。
 ……こんなオヤジの身体を見て、何が楽しい?
 呆れた、というニュアンスを隠さぬ声だ。ホークスは「何言ってんですか」と笑い飛ばして、炎司の背中を手のひらで撫でさする。広くて、抱きしめてもいっぱいいっぱいになる背中。どっしりした腰を両手でつかみ、尻の割れ目へ自分の勃起したチンポを沿わせ、あてがった。ほぐしてぐっしょり濡れた尻の穴は、それでもつつましくすぼんでいて、チンポの先が当たるとヒクッと痙攣する。もう何度もホークスを受け入れたことのある尻だ。チンポの味を覚えていて、当てるだけでチンポに媚びてしまうようになった。親指をぐいとねじ込んで、中をゆるくこすってやると、ウ、ウ、……とくぐもった声で炎司はうめいた。シャワールームにくぐもった喘ぎが響いて、びっくりするほど大きく聞こえるから、声を出すことをためらっているのだろう。
 炎司さん
 声出していいけん、誰にも聞こえんよ
 夢の中のホークスは、エンデヴァーのことを堂々と「炎司さん」と呼ぶ。逆もしかりだ。教えてもいないホークスの名を、夢の中のエンデヴァーは知っている。啓悟と、実にいとおしそうに彼は呼ぶ。何度も呼んで、呼び慣れて、歯型のついた自分の名前を、ホークスは改めて愛しく思う。
 ン、う、あああっ……!
 高い声が出た。四十を超えた男が出せるとは思えないほど、甘くて高い声だ。男の低さが声のトーンに残っているのが、またエロい。苦しそうに、だが喜びをともなって喘ぐ。ホークスは突き出された尻の入り口へ、ゆっくり自分のカリ首を押し当て、めちめち……、と広げていく。
 ぬ、う、ううう……っ
 炎司さん、……そんな締めんで、……力抜いて
 ちから、は、抜いてる……ッ!
 うそ。だって、俺のチンポ、こげん必死に抱きしめて、放してくれんけど
 あ、アアッ、……っぐう……!
 奥のとこ、好かね? ここ好きやもんね、炎司さん……
 たち、たち、と尻と腰がぶつかる柔らかい音が、だんだん激しさを帯びていく。ぱちゅっ、ぱちゅっ、と性急な音が響きだすと、ホークスも余裕をもっていられなくなる。炎司の腰を片手でつかんで、後ろから大きな木に抱き着くような気持ちで、背中ごと抱いて、ぷるんと張りを持って尖った乳首を指ではじいた。
 んあっ!
 炎司さん、乳首とチンポ、どっち弄ってほしい? 前切ないでしょう
 ……っぅ、……!
 なんて? 聞こえん
 ……ア、はあ、はあ、……っ、前はいいッ、……ちくび……
 あらあ、炎司さん、ばりやらしかね~、興奮する
 こりこり、勃起した乳首をいじり、炎司の片足を持ち上げさせる。狭いシャワーボックスは二人の身体でいっぱいいっぱいだ。丸見えになった結合部が壁の鏡に大写しになっていて、やめろお、と言いながら、炎司は鏡からじっと目を離さない。熱に浮かされた顔。とろんとゆるんだだらしない表情。
 夢の中のセックスを、ホークスは目を閉じて味わった。ウ、ウウ、と口の中でうめき声が漏れる。シャワーの音でかき消して、ホークスの手がちゅくちゅくと自分のモノを扱く速度が速くなった。夢の中の炎司は突かれるたびにいやらしい声を上げ、アンアン泣いて、もっとくれ、もっと奥、たのむ、啓悟、啓悟、啓悟……っ。すがるように自分の名前を呼ぶのだ。そうなったらどんなにか幸福だろう? いじめるのも好きだけど、優しく愛することが一番好きだ。何もかも手放して、裸の二人が立場も年齢も忘れて、ただ貪り合う動物のように成り果てられたら……

(炎司さん、炎司さん……ッ)
(イクけん、おれ、イクけんね……、あんたの中に、溜まったモン全部ぶちまけて、一番奥の弱いとこ、種付けしてあげるけんね、……体はでかいのに、せっまいケツ穴しとうね、炎司さあん……。ああ、よかね、よかねえ、おれもばり気持ちい、炎司さん……)
 
 手の中に出したぬめるものを、ホークスはしばらくぼーっと見つめた。それからは早かった。ざっと体と髪をあらい、むせかえるほどのサボンの匂いのするボディーソープを山ほどつけて、ぶちまけられた精子のにおいを消す。甘いサボンが隠ぺいしてくれた、シャワールームでの不義のにおいを、ホークスはなんども嗅ぎ、残り香がないか神経質にピリついた。
 濡れた髪でシャワールームから出て来たホークスに、エンデヴァーは変わらぬ顔で見やった。ベッドにくつろいでいた彼は、クーラーが効いている部屋とはいえ、真夏では熱いのか、タンクトップ型の肌着にホテル支給のナイトウエアのズボンだけを履いている。バスローブ型とセットアップ型の二種類が用意されていて、ホークスもセットアップ型を選んだ。本心言えば、バスローブ型のみにしておいてくれてもよかった。……寝苦しくてホテルのバスローブが嫌いなホークスは、自分のことを棚上げして、そう思う。
「すいません、お待たせしました」
「酔いは醒めたか?」
「やー、結構酔ってますね、俺」
「今更気づいたのか」
 エンデヴァーは立ち上がり、読んでいた仕事用らしき本を置いて、さっさとバスルームに入って行く。あの中で、同室のこの男が、エンデヴァーをオカズにセンズリこいたなんて、……絶対に知らずに入って行くエンデヴァーの後ろ姿が、ホークスには刺激になった。いかん、また勃起したらことだ、とホークスは濡れた髪を乾かし(エンデヴァーさんは羨ましかあ、この手間がないもんなあ)、ばふっとベッドにダイブする。シーツがほんのり温かい。さっきまでエンデヴァーがくつろいでいた方に乗ったのだ。ホークスは身じろぎしたが、かすかにかおってくるエンデヴァーの男くさい体臭と、彼の体温がうつったシーツの上が、なんとも心地よくて、目を閉じた。

 ホークスが次に目を醒ましたのは真夜中三時のことだった。ハ、と目がひらく。うっすらルームライトがついた暗闇の中、自分はエンデヴァーが座っていた方で結局寝落ちてしまったらしい。起き上がったが、場所は移動させられていない。自分の側の枕元に、エンデヴァーが読んでいた本が残されている。起こしも、どかしもしなかったのだろう。自分が寝ようと思っていた方のベッドで、我が物顔で眠る不遜な男を彼はどう思ったろう? ホークスはむくりと起き上がり、隣で眠っているエンデヴァーを見た。
 いびきがうるさい、なんてとんでもなかった。彼は死んだように眠っていた。そして、時折眉を顰め、唸り声を上げた。まるで何か恐ろしいものから責めさいなまれているように、エンデヴァーはヒーローのときには決して見せない顔で、耐えるように眠っていた。
 …………すまん………。
 暗闇を裂いて、エンデヴァーの小さな懺悔の声がホークスの耳に届いた。このとき、ホークスはエンデヴァーの過去も、家庭の暗部もはっきりとは知らなかったが、この男を取り巻く家庭というものの複雑さを、改めて実感していた。
 そして、思い出した。暗闇の中、エンデヴァー人形を抱きしめて眠りについていた幼き頃の自分を。何度も悪夢で目を醒ました。夢の中でさまざまな存在に謝った。ごめんなさい、許してください、たすけて、……。エンデヴァーは夢の中で、誰に責められているのだろう? ホークスはふいに、刺すような胸の痛みを感じ、ツンと目頭が熱くなった。
 呻く男は寝返りを打ち、ホークスに背を向けた。彼の身体は冷たいクーラーの風でも冷やしきれないほどに熱くなっていた。ホークスは寝苦しいことを承知の上で、彼の身体に身を寄せ、かつて自分がエンデヴァーのぬいぐるみにしていたように、背中からひしと彼を抱きしめた。
 におい。
 寝息。
 心臓の音。
 何もかもに涙が出た。こんな苦しい男のことを、性的な自分のファンタジーの中で、好き勝手に辱めている自分を嫌悪した。それでもこの男のことを好きでいる気持ちを止めることも、諦めることもできなかった。自分で自分を恥じ、悔い、ホークスは静かに泣いていた。どうしようもない恋心で涙が出るなんて、初めてだった。
「炎司さん……」
 暗闇の中、ホークスはエンデヴァーの背中に投げかけた。
「……あなたを好きでいること、許してください」
 

   (四)青き海、泳ぐ火球

 決勝戦の朝はからりと晴れた。朝から長蛇の列の甲子園球場へ、エンデヴァー、ホークスは事前に用意されていた関係者席に案内され、今回もバックネット側から見ることになった。照りつけるライトスタンドで見るのも甲子園の醍醐味だったが、日よけのある席はエンデヴァーにとってはありがたかったろう。ビールどうです? と薦めたが、オフで来ているとはいえ、エンデヴァーは飲酒することをかたくなに断った。
 買ったばかりの清涼飲料水のキャップをあける。ごきゅ、ごきゅ、と喉を鳴らして飲む。エンデヴァーの持っていた水のペットボトルもあとわずかだ。販売員のお姉さんを呼び止めて、水二本、とホークスは勝手に頼んだ。
「はい、エンデヴァーさん、水です」
「次々買うな、まだ残っとる」
「あとちょっとじゃないですか。一瞬で飲み干しちゃいますよ」
 決勝の二チームの力量はほぼ対等だ。ここまで打力と堅守で勝ち進んできた魚住だが、相手の光陰高校は今年のピッチャーの仕上がりが良すぎている。ここまでどの試合も零封で抑えて来たエース投手の前に、魚住の強力打線は珍しくまだ一点しか獲得していない。
 八回の裏、魚住の攻撃だ。バッターボックスには、いよいよ四番の主砲、一番星くんが現れた。一番星くんの打順は基本的に四番であることが多いが、始球式の日に限って、エンデヴァーと対決するためだけに、監督を説得して打順を一番にしてもらったのだ、とインタビューで笑っていたのを覚えている。彼は一躍時の人で、SNSで彼の動画を見ない日はない。彼のエンデヴァー好きは根っからのものらしく、始球式の日に、ボールと一緒にサインを書いてもらったスパイクの、エンデヴァーのサインを必ずバッターボックスに入る前に撫でる。願掛けなのだそうだった。
「俺の勝利の象徴なんで」
 ニカッ、と笑った一番星くんの画像を、SNSでいくつ見たことだろう。きっとこの手のことには疎いだろうから、とエンデヴァーにも見せたが、意外なことに彼も知っていた。事務所のサイドキックがこぞって見せてくれた、と言うのだ。ホークスもそうだが、彼の芯からの人柄を知っている身近なものたちにとって、エンデヴァーという男の格好良さが、誰かに称賛されていることは、やはり素直にうれしいものだ。
 緊迫した試合が続いているせいか、どちらの観客席も応援の声ははちきれんばかりの声量だった。バッターボックスに人が入るたび、うねりのように声援が飛ぶ。魚住のブルーは今日も観客席を埋め尽くして、オレンジ色と赤色のポンポンが火の玉のごとく飛び交っていた。
「ね、エンデヴァーさん」
 一球目。ボール。一番星くんは冷静に見送った。
「魚住のこの曲、……エンデヴァーさんが投げたときに歌われてた曲です。これね、魚住のチャンステーマで、〈ファイアーボール〉って言うんです」
「ほお」
 二球目。ボール球だが、手が出た。振ってしまった一番星くんは、悔しそうに眉根を寄せる。
「観客席のタオル、あれは魚住のチームカラーの青なんですが、ポンポンの色だけ浮いてるでしょ? あのポンポンは、ファイアーボールからとって、火の玉を模してるんですって」
「なるほどな」
 三球目。またもボール。今度は振らずに、一番星くんは肩を鳴らす。
「空を飛んでるときのエンデヴァーさんって、まるであんな感じです」
 エンデヴァーはフンッ、と笑い飛ばした。四球目が放られる。まっすぐストレートに飛んできた気持ちのいい球を、一番星くんは、ここだッ! というように、思い切り振りかぶった。
 カキーン!
 と、高く響いたあの音で、誰もが始球式の日を思い出しただろう。完璧な当たりだった。二塁と三塁に走者を出していた魚住高校、一挙に三点獲得の、一番星くんの三本目のホームランだった。思わずホークスは立ち上がった。エンデヴァーも同じく、腰が座席から浮いていた。ワッ! と上がった歓声が、観客席を埋め尽くし、ホークスは自然と「ウワアーッ!」と吠えていた。
 このふつふつと沸き上がるような熱! スポーツ観戦の醍醐味だと思う。ホークスが隣のエンデヴァーにひっしとしがみついても、エンデヴァーは振り払わなかった。きれいにアーチを描き、レフトサイドに消えていく球を、エンデヴァーは放心したように見送り、それから高らかに拍手を送った。
「肝っ玉が据わってる。あの一番星、という選手だ」
「ええ、ほんとにね! ヒーロー科志望じゃなかったのが信じられません」
「まあ、誰しもヒーローにあこがれるわけじゃない。野球選手を夢見る若者も少なくない」
「そうですねえ。俺たちヒーローにできない分野で、世界を盛り上げてくれてるっていうか」
 興奮がおさまり、もう一度客席に腰を落ち着けたあとも、試合はこの一番星くんのホームランで一気に流れをさらわれた。次の打者が左中間へヒットを放つと、魚住の打線が目まぐるしくつながっていく。一塁側、吹奏楽バンドとチアガール、部員たちが応援のために座っている一角は、火のついたような騒ぎだった。鳴りやまぬチャンステーマ、ファイアーボールが甲子園球場を揺らしていた。
 九回表、光陰の最後の打者を打ち取ると、歓声を上げて選手たちはマウンドに駆け出していく。抱きしめ合い、叫び、涙して、高校球児たちはもみくちゃになる。ピッチャーを胴上げしたあと、勝利の立役者である一番星くんも胴上げされた。きらめく彼らの笑顔が、ホークスの胸をじんと熱くさせる。泣き、笑い、ドラマティックな球場全体を包む熱いうねりは、スポーツという分野で活躍する彼らだからこそ作れるものだ。
「あー、すごかった。いい試合でした」
「そうだな。……閉会式までいたいところだが、そうもいかんな。そろそろ出るぞ」
「そうですね。いやあ、一日半、楽しかったです」
「そりゃあよかった」
 立ち上がりかけた二人が、誰よりも早く、ハッ、と頭上を見上げたのは、彼らの「ヒーロー」という生業の成せるものだ。感動覚めぬマウンドへ、一陣の光、……いや、高速で移動する何かが迫っている。球児たちがそれに気が付いたのは、彼らの頭上にそれが迫ってからだった。
「あ、あれ何や!」
 一番星くんが指をさした。飛んできたのは三人、一人はホークス同様、鳥の個性を持つ男。もう一人は浮遊の個性だろうか。巨大な、岩石の塊とともに飛んでくる。球児たちが逃げる前に、彼らの眼前に、二人の男が飛び出した。
 鳥の方を抑えたのはホークス。羽を方々に飛ばし、悲鳴の上がった球場全体を素早く見回した。幸い、甲子園の警備に協力していた地元ヒーロー事務所のヒーローとサイドキックたちも、ホークスとエンデヴァーが動くとほぼ同時に、ヴィランの襲来に気が付いた。
 岩石の塊は、まっすぐ一塁側席、魚住高校のベンチサイドへ投げ込まれた。突然のことで体が動かない球児と応援席をとらえた最悪の軌道だ。ぶつかる、と誰もが目を閉じたとき、ゴオッ! と周囲の空気が燃えた。目がくらむような真っ赤な炎! フレイムヒーロー、エンデヴァーだった。彼は飛んできた岩石の塊を、一瞬のうちに灰にもならぬ温度で焼き尽くした。
 大混乱の球場は、我先にと逃げ出そうとする人々でもみくちゃになる。狙いは別でも、この状況は非常にまずい。スムーズに逃げられるものも、混乱のせいで難しくなるだろう。
「ホークス!」
「わかってますよ、ナンバーワン!」
 エンデヴァーは一塁側とヴィラン二人の間に立ちふさがるように、足から放出される炎の動力で浮き上がった。相手は空中戦としゃれこむつもりだろう。だが、まさかナンバーワン、ツーが観戦に来ているとは思ってもみなかったようだ。
「ちくしょう、てめえ、最悪じゃねーノッ! ここを狙えばガラガラだ、って言ったのオメーだろッ!」
「うるせェ! まさかヒーロー様御二方がこんなとこまで来てると思わないだろうがッ! なんだテメーら暇人か!? 天下のヒーロー殿がこんなとこで遊んでていーのかよッ!」
 ヴィラン二人、見たことのない顔だから、連合とは無関係の野良だろう。ホークスは瞬時に周囲に意識を巡らせる。逃げ出そうとしている観客席へ、鳥ヴィランは高笑いし、背中の羽を鋭く尖らせた。羽を飛ばして攻撃するつもりなのだろう。勝手知ったる鳥個性だ、ホークスは彼の羽が学生たちを傷つける前に、素早く狙われた生徒を羽で掬い上げる。
「ウアーッ! チクショーッ! どうせここで取っ捕まるなら派手にやってやる! いいかァ! 一人でも多く道連れにしろッ! こいつら二人の名に傷がつくだけでもう十分だッ!」
「わーってら、ヒーロー様はこの手のゲスにゃあ弱いだろォ!?」
 浮遊個性の男は、さっきまでの試合結果を表示していた電光掲示板に突進した。なかなかの強個性! 電光掲示板はヴィランの浮遊力に負け、支柱からもぎ取られる。ガコンッ、と電光掲示板を蹴りつけて、まっすぐ掲示板は一塁側席に吹き飛んでいった。
 キャアッ、とポンポンを持ったままへたり込んだチアガールの女の子が目に入る。やばい、と羽を飛ばすが、今度は鳥個性の男が球児たちを狙って羽を飛ばした。身をひねり、どちらも救助を、と視線を切ったホークスだが、飛んでいく電光掲示板の方をちらと見て、そちらは手を放した。
 飛んできた掲示板を、エンデヴァーの腕が捕らえる。パワーはパワーで返すのが美学と決まっている。エンデヴァーの手のひらの熱で、電光掲示板はジュワッ! と跡形もなく溶けて消えた。
「なるほど、貴様ら、覚悟はできているようだ」
 めらめらと、エンデヴァーの炎が蜃気楼をつくっていた。灼熱がじりじりと肌を焦がす。やっぱナンバーワンはこうでないと、とホークスはにんまり笑っていた。
「さて、ひねりつぶしてやりましょうか、エンデヴァーさん!」
「言われずともだ」
 空中戦としゃれこむぞ。まっすぐ炎を纏って突き進んでいくエンデヴァーは、まるで巨大な火球のようだ。うっとりするほど雄々しく、逞しい。観客を人質に、エンデヴァー、ホークス両名を寄せ付けぬよう一般人へばかり攻撃するヴィラン二人に、二人は攻め込みつつも、防戦気味だった。地元ヒーローがこの間にも必死に避難誘導をしてくれている。捕縛できる距離にまで詰められればこっちのものだが、観客たちがみな無事に避難しきるまで耐えしのぶしか、いまは手がないだろう。
 やみくもに浮遊ヴィランが放ったガラクタや建造物の破片のせいで、空になったとはいえ、客席が壊されていく。甲子園球場の順路の都合上、一塁側の魚住高校の生徒たちは、最後まで救出を待たねばならない位置にいた。続々と逃げ出していくライト・レフトスタンドの様子を見ながらも、生徒たちが大きなパニックに陥らなかったのは、エンデヴァーの存在のせいだったのかもしれない。ホークスがそう思ったのは、
「エンデヴァー! 行ったれェ!」
 一塁側ベンチから声を限りに叫んだ声を拾ったからだった。
 誰の声か、振りかえらずとも分かっている。魚住のエース、一番星くんだ。彼に追随するように、助けを待つ生徒たちは、めいめい声を張り上げた。エンデヴァー! ホークス! がんばれ! 彼らを守りながら戦っていると分かっていて、生徒たちは叫んでいる。
「うるせーぞッジャリども! 黙れェ!」
 浮遊ヴィラン、鳥ヴィランが癇癪を起こし、彼らの方へ向かいかけるが、エンデヴァー、ホークスが遮った。二人に至近距離まで来られるとなすすべもないことが分かっているのだろう、ヴィラン二人は逃げ足だけはすばしっこく、遠距離攻撃を仕掛けてくる。セコい時間稼ぎだ。相手を捕縛する際に殺してはならぬヒーローにとって、一発逆転の大技をかけることも難しい。じりじりと膠着状態の彼らを、苦戦していると思ったのだろう。ふいに、魚住高校の応援席から、高らかなメガホンの音が轟いた。
 打ち鳴らされる、青いメガホン。
 雄たけびに近い、球児たちの声援がはじけ飛ぶ。試合中何度も耳にした、魚住高校のチャンステーマ、「ファイアーボール」だ。ホークスは飛びながら、はちきれそうに胸が熱くなるのを感じ、エンデヴァーを見た。エンデヴァーも、驚いた顔をしながら、ぎりりと目つきを引き締めていた。
 魚住高校のチャンステーマには、掛け声がある。
「今日の主役はどこですか?」「魚住高校!」
「チャンスをつくるのどこですか?」「魚住高校!」
「優勝するのはどこですか?」「魚住高校!」
 名物の掛け合いだ。この掛け合いのあと、堂々たる金管の音とともに、「ファイアーボール」のテーマが演奏される。なんども見た試合の光景が心に残っているからこそ、ホークスは、誰かを守って、誰かの前で戦っていることを、こんなに強く感じたことはないくらい、戦いのさ中に目頭が熱くなったのだ。
 グラウンドを揺るがすくらいの声が、飛んでいる二人を押し上げる。球児たちの、そして一部はチアガールの女子たちの、力の限りの声援だ。

 今日の主役は誰ですか? エンデヴァー!
 チャンスをつくるの誰ですか? ホークス! ホークス!
 絶対勝つのは誰ですか? エンデヴァー!

 即興の替え歌が、二人の名前に挿げ替えられる。ファーン! と高く宙を裂く金管の音。チャンステーマ、「ファイアーボール」が高らかに始まった。広げられた青いタオルの群れ。逃げ出せず、怖いだろうに、必死にその場にとどまって、高校生たちが観客席に青い海を作り出す。振りかざされるポンポンは、エンデヴァーを纏う焔の色と同じ、まばゆい赤とオレンジだ。
 バラララ……。と上空からヘリの音がする。報道のヘリだろう。報道してる場合があったら手伝え、といつも思うのだが、今日ばかりは、ホークスは「思う存分撮ってくれ」と思った。フィッシュブルーの海の上を飛び、大きくて真っ赤な火球が飛んでいく。声援に力をもらい、エンデヴァーは戦いの中でうっすらと笑っていた。
 どんなにピンチでも、ヒーローは絶対笑ってるんですよ。
 ホークスは胸の中で、飛んでいく火球へエールを送る。そして、彼もまた、鳥ヴィランに向き直った。こんな声援の中、勝てない方が嘘だった。

 …………。
 ………。
 ……。
 結局、事件の後処理も含めて、博多に帰れるようになったのは翌日の朝だった。新幹線の始発に乗って、今日ばかりは飛んで帰るのはさすがに疲れた、と久しぶりのグリーン車を堪能し、爆睡していたホークスはふと目を醒ます。危ない、危ない。次の駅が目的地だった。
 新幹線を降り、ホークスは駅の売店で、ふと並べられた新聞の束に目を向けた。一面に踊っているのは「甲子園襲撃 ヴィラン逮捕」「エンデヴァー、ホークスお手柄」という大見出しだ。手に取ってみて、中を開いた。ホークスはアッと息を呑み、売店のおばちゃんに、「おばちゃん、新聞一部ちょうだい」と告げていた。
「ホークスじゃない! あんた、えらいお手柄だったねえ」
「そーそー。よく撮れてる、これ」
 第一面には一面の青の中泳ぐ真っ赤な炎の写真がバンと乗せられている。中を開いて、スポーツ中心の運動面はもっと豪華な作りをしていた。見開き二面ブチ抜きで、左側は甲子園の話題。魚住高校、劇的V、の文字とともに、大写しになった一番星流の、ホームランを打った瞬間の横顔がとらえられていた。彼の頭にかぶさるように取られた見出しは、
「頂点 輝く一番星」。
 そして、右側は燃える炎の男だ。ヴィラン確保のその瞬間だろう。厳しい目の中に、フィッシュブルーの海をたたえたエンデヴァーの横顔には、
「青き海 泳ぐ火球」
 とでかでかとした見出しが添えられていた。
「あら、ホークス、そっちにはエンデヴァーしか載っとらんの? ざーんねん」
「いーや、おばちゃん、よかよか、俺はこれがいっちばん欲しかね」
 ホークスは新聞を抱きしめ、何度も見直した。これが新しい自分の宝物になるだろう、と思った。新聞一面に掲載されたエンデヴァーは、厳しい顔をしているくせに、そのくちびるは、意外なほどにやさしい笑みが乗っていた。
 エンデヴァーさん。
 ばり好いとーよ。
 むずむず笑いを押し殺し、ホークスは再び博多の街に舞い戻る。文字通り、翼を広げてだ。すでに博多の街は朝の喧騒でごった返して、ホークスは事務所に戻るまでに一件のひったくりと、二件の信号無視と、五件の喧嘩を止めていた。

   〈了〉