花盛りの若鳥

   1.花盛りの若鳥

恋は唐突にやってくるものではない。忍び寄ってくるものだ。齢四十をすぎてようやく、エンデヴァーはそのことを知った。恋は落とし穴のようなものだと思っていたが、違った。恋はカビのように、放ったらかしにしている間に人目を盗んでいつのまにか生まれ、いつのまにか広がっているものだと知った。
「カビ?!」
 エンデヴァーの言葉を聞いて、ホークスは素っ頓狂な声を上げ、そして笑い始めた。掠れた喉は以前よりずいぶん良くなったが、まだ痛々しく引き攣れている。自分の息子が灼いた喉だ。ホークスはしかし、それを、「俺の怪我は俺の責任なんで」と、かつてのエンデヴァーの言葉を引用して混ぜっ返した。

 雄英高校がシェルターと化し、デクを囮にトップスリーが各地を走り回る。ディストピアとはこれを言うのか? いや、まだこれでもマシだ。街が原型をとどめている限り。運転席にジーニスト、助手席にホークス。後部座席にエンデヴァーだ。窓を破って真っ先に出て行くには後部座席が一番いい。シートベルトつけなくていいですしね、とホークスがまたからかった。
「まあ、シートベルトはもはや私もホークスもつけていないが」
「道交法とか言ってらんないっスよ」
 この状況において、ホークスの軽口は強い武器だ。エンデヴァーはそう思う。ピンと張り詰めた糸の上を、ホークスはあえて楽しげに弾ませて歩く。たゆんだ糸は心のたるみに直結しないことを、エンデヴァーはこの三人での極限のチームアップで学んだ。糸が切れる前に、誰かその糸を緩められる者が必要だった。そしてそういう能力を持つ人間は稀有だということも、エンデヴァーにとっては新たな学びだった。
 
「恋ってどんな気分なんですか?」
 いやな雨の降りしきる、午前二時の崩れかけた国道を走る車内で、ホークスは突然、その話題をはじめた。
「俺ねー、したことないんスよ。恋。エンデヴァーさん?」
「なぜ俺に聞く」
「エンデヴァーの家庭事情を知った上でのその発言はかなりデリカシーがないな、ホークス」
「違法デニムですかね?」
「無礼デニムだ」
 ホークスは気にするそぶりもなくケラケラ笑った。集中しろ、無駄口を叩くなとは言えなかった。言う気にもならなかった。重い沈黙ほど、いまこの状況において毒になるものはないと三人とも痛いほど分かっている。
「恋って、〈落ちる〉ものって印象あるじゃないですか。ストンと穴に落ちてく感じ。落とし穴みたいな感覚なんですかね? それともアリスがウサギの穴に落ちたみたいに、そこにあると分かってて落ちちゃうもんなんでしょうか? 諸先輩方にご教示願おうと思って。ホラ、俺もそろそろ、この戦いが無事終われば彼女の一人でもと思って」
「以前誰かと噂になってなかったか?」
「噂? あー! いや、相手女優ですよ? そんなわけないじゃないですか! バッタリ雑誌の取材でかち合ったとこを撮られたんです」
 エンデヴァーは腕組みをして、後部座席でホークスとジーニストの会話を聞いていた。ホークスはメディア露出も多く、マスコミや芸能関係者と交流もある。もちろん派手な交流はしていない。ホークスを煌びやかな世界に生きる男だと世間は思っているようで、マスコミはホークスと女性の並んでいる姿をやたらに取り沙汰し、恋人か否か議論したがる。だが、SNSを巧みに操る、若者世代の彼だからそう見えるだけで、中身は人一倍堅実なヒーローだ。公安直属のヒーローとして生きる彼に、愛だの恋だの、そういうものが一切ないということもよくわかっていた。ただの浮ついた男じゃない。エンデヴァーは今やよく知っている。
 エンデヴァーは雨粒に叩かれる窓の外を見た。猛スピードで走る車のむこうを、変わりなく水平線が続いている。人工物がメチャクチャになろうとも、海は、自然は、何事もなくそこにいる。

 山のようにあろうと思っていた。
 切り崩されない、いつでも同じ方向にある山脈だ。かつての自分は、オールマイトという山の尾根にしかなれなかった。頂を崩されたあと、自分が山脈にならねばならないと腹をくくった。栄誉ある一位ではなかった。不名誉な言葉も聞いた。たかだか繰り上げの一位だと。だからこそ、自分は山にならねばならないと誓ったのだ。
 だが、いまは。
 山は膝をつき、震えている。山はごうごうと燃えている。青い炎が山を焼き尽くし、山はくすぶり、怯えている。そんな山を見て誰が安心できるだろう? 誰が見上げてくれるだろう?……

「エンデヴァーさん」
 深い思索をホークスの声が打ち破った。ホークスはいつもそうだった。エンデヴァーが考え込み、出口のない暗闇へ迷い込んだ時、必ずそこに光を翳した。何やってんですかこんなとこで、と思索の洞窟の中へ手を差し伸べていた。
「エンデヴァーさんにとって、恋はどんな感覚なんですか?」
「まだ続いとったのかその話」
「これからですよ! 俺はねぇ、恋って花の盛りみたいなものだと思うんです。春が来て、花が開いて、一面満開で、すごく綺麗なんです。でも、盛りはいつか終わる。冬が来ると恋はおしまいです。花が枯れ果てた大地を見るとどうしようもなく、寂しくなる」
「恋は終わりがあるもの、か。案外、切ない考え方をするんだな、ホークス」
 ジーニストがゆるやかにハンドルを切り、口を挟んだ。壊されたETCゲートから高速を降りて行く。
「俺は盛りだけ見てたいですよ。恋をしたら、ずっと花畑です。大好きな人がもしそばにいてくれたら、俺は一生花の盛りが終わらないように、ずっと春にし続けます。叶わない恋は……、いつか終わってしまう恋は、きっと凍えるような冬だから」
「…………」
 エンデヴァーは指先を見た。無骨で、ささくれた指だ。妻の手を握ったのは、初めて会った見合いの日。あの日だけだった。

 俺たちは恋をしただろうか?
 俺たちの婚姻は、
 凍えるような冬…………。

 エンデヴァーは悩んだ末、思った通り言うことにした。
「…………俺にとって、恋は、…………カビだ」
「カビ?!」
 助手席から身を乗り出してエンデヴァーを見ていたホークスが、目を丸く開いて、それから弾けるように笑い始める。カビ?! なんで?! どういうことですか?! ホークスは腹の底から笑う準備をしている、という顔でエンデヴァーを見る。さすがのジーニストも聞き返したいのか、バックミラー越しに半笑いの目が合った。
「…………そのままの意味だ。恋とかいうものは、カビのように広がる。気づかないうちに、いつの間にかあちこちに広がって、…………広がりすぎると、ダメになる」
「ダメに?」
「…………知らん! 感覚だ。俺にそんなことを聞くな! 真っ当に恋愛して結婚したように見えるのか?」
「ああ〜っすいませんすいません、デリケートな話題でしたぁっ!」
 暴力反対、とホークスはおどけて、頭をつかまえるエンデヴァーの手の中で身を捩る。あははは、とジーニストが笑い始める。ジーニストさんは? ホークスが聞くと、誰しもが予想した通り、「恋はデニムのようなものだ」という答えがあった。
「体に合わないものは窮屈だが、体に合って、履き心地のいいものは長く身に纏いたくなる。動きやすく心地がいいのに、適度に心を引き締める。好いた相手は、自分に合ったデニムだ。体に合うデニムはスタイルをよく見せ、心を引き締めさせる。かつ、毎日でも履き続けたい、そういうもの」
「ウーン、まあカビよりはマシですかね」
「なんだと! デニムもたいがい意味がわからんだろう!」
 束の間、彼らは雨も、壊れかけた世界も、肩に課された命懸けの使命も、忘れた。荒っぽい運転で夜中の市道を走る、年齢も境遇も違う、職業が同じというだけの、ただの三人の男になった。

 俺が恋をしたら、一生花盛りです。……
 ホークスの夢見る呟きが、いつまでも不思議に耳に残った。

   2.春を待つ冬

 行方をくらませたデクを雄英に連れ戻して丸一日経った。久方ぶりに屋根のある場所で眠ることができる。ホークス、ジーニスト、エンデヴァーは雄英のシェルターとは別の場所に拠点を置いた。これ以上大衆を刺激するわけにはいかない。エンデヴァーは覚悟を決めていた。自業自得、荼毘の言う通りだ。一生日陰を歩くことになっても、かまわない。自分の犯した罪がかえってきただけなのだ。
 緑谷出久の強い目を、息子である焦凍のまっすぐなまなざしを、エンデヴァーは日に何度も思い出す。迷い、戸惑い、傷つき、それでも立ち上がる。ヒーローは誰しもそういう面を持っている。エンデヴァーは心を麻痺させることでしか、感情を見ないふりすることでしか乗り越えてこなかった。怒り、嫉妬、溢れ出んばかりの向上心と向き合うだけでよかった昔の自分とは違う。指すような悲しみ、後悔、懺悔の気持ちと向き合うことを、何十年と怠ってきた罰だ。若き頃しなかった苦労は、壮年の身に強く沁みる。だが向き合うことでしか、解決するすべはない。
 一人になるといけない。
 エンデヴァーは自分が、らしくもなく、睡魔も忘れるほど日々考え込んでしまうことを分かっていた。黙っていると濁流のように、感情が溢れ出し、エンデヴァーの喉元まで迫り上がってくる。大きな声で叫びたい。できるなら、子どもの頃みたいに、手放しで吠えるように泣きたい。でももうできない。それが大人になるということだ。涙はなんの意味もなさない。病室で、長男が生きていることを知ったとき、残酷さと後悔で、自分を責めた。あのとき、涙を堪えることができなかった。とめどなく溢れ出した感情の濁流が、ついに体を突き破ったのだ。だが、あのとき流した涙は、自分のこころをいたぶるばかりで、声も出ずにいた。
 大人は泣けないのだ。
 そういうものだ。
 
 簡易ベッドの上に座ったまま、エンデヴァーは眠れずの時間を無為に過ごした。じっとして、星すらない真夜中のさえずりを聴いていると、自分が闇の中にひとりきりになった気持ちになる。たったひとり。だが、それは安寧なのかもしれない。自分一人きりの世界。寂しいが、誰からも傷つけられることはない…………。
 馬鹿なことを。
 こんな気弱な思考に陥ったことなど今まで一度もなかったのに。ヒーロースーツを脱ぎ、二度と表舞台に立たぬと決めてしまったヒーローたちのこころが伝わってくる。幕引きを自ら決められればどんかにいいか。いや、しかし…………。
 炎は絶やさない。絶やしてはならぬ、とも思うし、絶やしたくない、と思う。エンデヴァーはこの状況に於いても、いまなお自分の体を焦がすほどの、勝利、そしてナンバーワンへの固執と誇りがあることを、希望だと思った。

 暗闇の中のエンデヴァーの堂々巡りの思索を終わらせるのはいつも彼だった。
「エンデヴァーさーん」
 扉の向こうから声が聞こえた。ノックされたが、入れと言う前に扉が開いた。
「おっ、まだ起きてた」
「ノックしたなら返事を待て、馬鹿者」
「いやあ、別に女子でもあるまいし、見られてまずいもんないでしょ」
 ホークスは誰の許可も得ずにエンデヴァーの隣に腰を下ろした。簡易ベッド以外には、学校で使っていたであろう簡素な机しかない部屋だ。プレハブ小屋に毛が生えたような内装だが、窓から夜空が見える気遣いはある。
「なんだそれは」
「夜食です。配給品」
 ホークスは両手にカップ麺を持っていた。カップ麺。エンデヴァーはほとんど食べない。健康志向なわけではないが、ありがたいことに、自分の飯に困ったことがなかった。妻の手料理、その後、屋敷で雇っていたお手伝いさんがいなくなったあとは娘の手料理。自分でも簡単なものなら作るし、わざわざカップ麺を食いたいと思ったことがない。
「いらん」
「まーそう言わず。炭水化物摂っとかないと力出ませんよ。欲を言えば鶏肉食いたいっすけどね」
「ジーニストにやってこい」
「ジーニストさんとこ覗いてきましたけど、もう寝てました」
 肩をすくめ、ホークスはエンデヴァーの退路を巧みに断つ。エンデヴァーは渋々(作ってもらったものを無下にする気もないので)、受け取った。ホークスは片手が自由になるともう中身を食い始めた。
「三分待ったのか」
「いーや。まだ二分弱かも。俺ってカップ麺三分待って食ったことないんです」
「せっかちなやつだ」
 湯気から醤油のにおいがする。ホークスはカップ麺だろうが水炊きだろうが焼き鳥だろうが、さもうまそうに食べた。エンデヴァーはその食いっぷりを見ていると段々腹が減ってきて、残りの三十秒を待つ気もなかった。
「うまぁ〜」
「フン。…………カップ麺の味だ」
「それがいいんですよ」
 ずるるる、と男二人で深夜に並んで食うカップ麺は侘しいものだと思っていたが、どことなく物悲しい。胸がいっぱいになる。ホークスはあっという間に平らげてしまった。彼は汁までゴクゴク飲んだ。
「エンデヴァーさん、手止まってますよ」
「うるさい。食い意地の張ったやつだ。食いたいなら食え」
「マジでもらっていいスか? そっち塩なんです。俺のは醤油」
「……っおい!」
 ホークスは本当に、エンデヴァーの食べているカップ麺に箸を突っ込んで、中身をすすった。人の食いさしだろうが気にしないようだった。エンデヴァーはホークスにめいっぱい食われたカップ麺をひったくり返し、続きを食った。エンデヴァーこそ、ホークスの食いさしでも気にしなかった。
「エンデヴァーさん」
 不意に、ホークスの声が真剣味を帯びて、エンデヴァーはどきりとした。ホークスがすぐ隣に座っていて、腕が触れるほど近いことを、なぜか強烈に意識させられた。エンデヴァーにはよく分からない、理解のできない、ホークスといるときにたまに起こる感覚だった。
「覚えてます? 大和屋の醤油もつ鍋」
「…………ああ」
 いきなり何を、とは言わなかった。ホークスはビルボードで顔を合わせ、九州でのチームアップを境に、「フラッと寄った」を口実にしては、ちょくちょくエンデヴァーの前に現れた。静岡から離れて行動することも少なくないエンデヴァーが県外にいようとも、驚くべき頻度で「フラッと」現れては、こっちも仕事なんですよ~、なんておどけて、決まって飯に誘われた。ホークスは特筆すべき美食家で、ゲテモノから高級品まで、うまいものなら幅広く愛し、そしてたくさん店を知っていた。
「大和屋のもつ鍋はもつもうまいけど、鍋の底にしずんでる、だしをたっぷり吸ったゴボウがうまいんですよね。鍋をひっくり返して食ってたら、行儀が悪いってエンデヴァーさんに怒られた。覚えてますよね? 京錦のラーメン。鯛から出汁を取ってて、あっさりしてるのに魚介のうまみがしっかり出てて濃厚なんです。店内がおしゃれすぎてちょっと男二人だと雰囲気ありすぎましたよね。ウラジの海鮮丼はやばかった。北海道の冬は厳しすぎて、俺もエンデヴァーさんも寒さで死んでましたけど、でも意外と、体を勝手に冷やしてくれる北海道って、エンデヴァーさんの活動領域としてはいいのかも。あんなに寒かったのに、文句言いながら外に出てる屋台で食った甲斐ありましたよね。この一杯で痛風になるゥ、ってくらい、うまかった。ものすごい量のいくらが乗ってて……」
「…………大将がオマケで車エビまで乗せてきた。ナンバーワン、ツー、北海道のヴィランを殲滅していけ、とか大きなことを言っていた」
 ウラジの大将。生きているだろうか? 北海道はどんな風になっているだろうか? さまざまな地を回って、日本中が破滅に息をひそめている。それを何とか阻止せんとする我々は、プレハブ小屋の中で、小さなカップ麺をすすっている。
「エンデヴァーさん」
 ホークスの声が不自然に濡れていることに、気づかぬほど鈍くはなかった。
「俺はね。こんな状況でも、まだ希望であふれてるんです。ぜんぜん、追い詰められた気がしません。気持ちは暗いけど、こころは明るいんです。燃えてるんです。エンデヴァーさんとビルボードで会ったとき、あれが俺の転機でした。会えるって分かってましたけど、俺ねぇ、エンデヴァーさん、……分かってて、一週間寝不足だったんですよ。緊張して、何日もろくに寝れませんでした。ワクワクして、アドレナリン大放出で」
「その割には嫌な雰囲気だったがな」
「だから、あれはナンバーワンを押し上げるための演出だったんですって! まだ根に持ってます?」
「持っとらん。俺は根に持つタイプじゃない」
「確かに、それはそう」
 長く一緒にいたからだろうか。エンデヴァーは自分に対して、気楽に口を利く人間や、楽し気にそばにいてくれる人間も多くは知らなかった。事務所のサイドキックたちが自分を深く信頼してくれて、軽口を叩けるくらいに気を許してくれているのは分かる。長い付き合いで、気心知れた仲だった。だが、ホークスは違う。同じヒーローで、その上うんと年下だ。エンデヴァーは年齢だけで相手のすべてを決めつけようとは思わない。実力を見た上で、ホークスはヒーローとしてよくできた男だと認めている。といって、ホークスに無条件に心を開け放つわけではない。そういう生き方しかしてこなかった。親しい友人など作らなかった。息子に「友達を選べ」なんて言っておいて、自分は友らしい友なんていなかった。隣で笑っていてくれる、自分というむつかしい男を茶化してくれるヤツなんていなかった。
 必要ないと思っていたのだ。
 ホークスが屈託なく笑うのを、生来の彼の性格のせいだと思っていた。陽気で、楽観的で、自分の実力や本心を隠してお道化を演じる性格だ。公安に叩き込まれた部分もあるだろうが、彼の根っからの性格なのだと理解していた。誰が好き好んでこんな気難しいオヤジと、その上二回りも年下の男が、気を遣わずにいるだろうか? ホークスが自分に心を許している、とは考えたことがなかった。エンデヴァー自身が、ホークスに心を開けば開くほどに、ためらったのだ。
 しかし、いま、エンデヴァーははっきりと「違う」と言い切れる。うぬぼれでも、勘違いでもない。ホークスの目に映る「春」にドキリとした。
「俺の隣にエンデヴァーさんがいる限り、俺は…………」
 ホークス。
 まだ生えそろわない、未熟に燃え落ちた背中の羽がパタパタと震えた。無意識だろう。感情の揺らぎに沿って個性が振動するのはエンデヴァーも同じだ。エンデヴァーは怒ったり、声を荒げたりするたび燃えゆらぐ自分の炎で、家族をいたく怖がらせただろうと、自覚している。
 …………あなた、地獄の魔王みたいだった。
 傷だらけの病室の中で、冷がそう言ったのを思い出し、笑えて来た。冷も笑っていた。夫婦が笑ったので、子どもたちも笑った。家族はそういうものなのだ。地獄の魔王。その通りだった。

 ポタ、と雫の落ちる音がした。
 むき出しのコンクリートの床に、染みがひとつ落ちている。エンデヴァーの手に持たれたままのカップ麺は、少し冷めてきて、汁を吸った麺がぶよぶよ伸び始めていた。エンデヴァーは、ホークスが涙を落としても、自分が思っていた以上に動揺しなかった。ホークスが何か重要なことを言うために来たのだ、とは、もしかしたらカップ麺ふたつを持って現れた時点で心のどこかで悟っていたのかもしれない。
 ホークスの右手が、エンデヴァーの左手の上に乗せられた。
 若い、男の手だ。まだ皮膚が弾み、健やかに張っている。ホークスは指が長かった。そんなこと、手を握られるまで知らなかった。爪は丸く切りそろえられ、整えられた若者の手だ。エンデヴァーの、節くれ立って乾いた手の上に、湿った皮膚が添えられていた。
「…………振りほどかんの、エンデヴァーさん………」
 ホークスの声は震えている。自分の意志に反したことをやっているのかもしれない。世間話で、ただカップ麺を寝る前に食うだけの相手として、気楽にここに来たのかもしれない。けれど、張りつめていた糸が切れてしまった。ずっと彼が緩めていた糸だ。彼の手が緩めなければいつかは切れてしまう。ホークスの糸は、いま切れてしまったのだろう。
「…………なぜ?」
 エンデヴァーの静かな声が、コンクリートの壁に吸い込まれ、染み込む。世界で二人きりになった、と言われても、疑えないほどの静寂があった。
「気持ち、悪いでしょ」
「…………なにも、思わん」
 なにも思わない、というのはうそだ。
 ホークスの手が自分の手の上に重なったとき、耳を突き破るほどの勢いで、エンデヴァーがぎょっとするほど、心臓が早鐘のように鳴り出した。じわりと皮膚が熱くなってくる。この若者が一体何を言わんとしているか、それをどう止めてやるべきかと迷っているからだろうか? この心臓の音は、焦りか? それとも……。いや、すべて違う。この心臓のバクバクを、エンデヴァーは知っている。四人の子を成してさえ、エンデヴァーがたったの一度も経験してこなかった鐘の音だ。

 苦しかったろう。
 ホークスの秘めていた思いが長きにわたったものだということは、感情があふれ出し、涙とともに「言ってしまった」ホークスの行動や、言葉のふしぶしから感じ取られる。そして、きっと、世界がビルボードのころのような平穏のままだったら、ホークスは秘めたままでいるつもりだったのだろう。
 命がけの均衡状態が、ホークスの心のバランスを崩してしまった。下手をすれば、墓まで持って行くつもりだった気持ちを、ホークスは言わずにはいられない状況に陥ってしまった。

「恋したことない、って言いました、俺」
「…………言ったな」
「あれ、真っ赤なウソなんです。俺、……ずっと恋してます。憧れ、尊敬、友愛、ぜんぶ本当です。ウソじゃない。あなたをヒーローとして、そして一人の男として、ダメなお父さんとして、一人の友人として、……大好きで、誇らしくて、憧れで、隣にいるだけでうれしかった。楽しかった。俺は幸せです。こんな状況でも、エンデヴァーという男がいる。俺の目の届くところで生きている。燃えている。
 俺ね。一途な性格なんです。人に心を許せない環境で育ってきました。だからただ下手くそなだけかもしれませんけど、俺、憧れの人も、親しい人も、心の底から、身を引き裂かれるくらい好きな人も、……全部ひとりなんです。他の誰でもないんです」
「ホークス」
 ホークスはうつむいて、じっと床を見つめていた。ホークスが話すたび、ひとつぶ、ひとつぶ、床に黒い染みが増えていた。
「……説教せんで、くださいよ……。こんなときに何言ってるんだ、って、俺が一番よく分かってるんです。絶対いま言うことじゃない……。こんなこと言って、オールフォーワンとの決戦に、変な心理的欠損があったらどうするんだ? 分かってるんです。分かってますよ、エンデヴァーさん……」
 理屈じゃない。そういうことがある、ということも、エンデヴァーはもう分かっている。咎めるつもりも、責めるつもりもない。
「ホークス」
「……………」

「おまえの心は、いま、春か?」

 静かに問いかけたエンデヴァーを、ホークスはハッと振り仰いだ。丸く見開かれ、いつも不思議と希望に満ちているふたつの目の表面を、涙の膜がきらきらと覆っている。この陽気な若者を泣かせたのは自分だ、とエンデヴァーは心臓の高鳴りがスウっと落ち着いていくのを感じた。心の「凪ぎ」は、覚悟だ。受け入れたから、静まったのだ。
「…………ええと」
「俺には、とても、春には見えん」
「…………」
「叶わぬ恋は、冬なんだろう」
 話がどこへ向かうのか、分からないのだろう。ホークスはぎゅっと両こぶしを握った。丁寧に諭され、その気持ちを忘れろと言われるのか、それとも穏やかな口調で説教されるのか、何が起ころうとしているのか、ホークスは予測できていない。ホークスに「分からない」など、珍しいことだった。どっちにしろ、ホークスは「望み薄」の方に腹をくくっているだろう。
「俺の恋はね。……いつの間にか、芽吹いてたんです。種を植えたことも知りませんでした。地中から生えて来たソイツが、〈恋〉だったことも知らなかった。すてきな花が咲くだろうと思って、俺は水をやり続けました。時にはあなたが、……肥料たっぷりの、栄養まんてんの、日光になりました。俺の花はぐんぐん成長して、…………
 いつの間にか、俺の背丈を超えてました。俺では手の届かないところまで伸びて、育ってたんです。春がくれば、俺のまわりは埋め尽くされるくらいの花畑になりますよ。伸びていった巨大な木には桜が咲いて、あらゆる花が咲くんです。ずっと見ごろで、永遠に満開です。
 春がくれば、花盛りがくるんです」
「春がくれば、………か」
 いまはまだ、春を待つ冬。
 エンデヴァーは重ねられたホークスの手を、やわく握った。指と指の間に、若者の指がとおる。二つの手が、ぴったりと握り合う。ホークスは信じられないという顔で、つながれた手と、エンデヴァーの変わらぬ顔を見た。

 いまはまだ、春を待っていなければならない。春が来るには、太陽の光が足りないのだ。エンデヴァーには、花に光をやれない理由があり、やるべきこと、成すべきことが山ほど残されている。
 ホークスの、いまだ咲かぬ花を、咲かせてやりたいと思った。
 それが全ての答えだった。

「ホークス」
 ホークスは声を出す方法さえ忘れてしまっていた。じっと、石造りの彫刻となったホークスが、その場に動けないでいる。エンデヴァーはいつか、この信じられないほど間の抜けた顔を晒してしまった若鳥に、この顔のことを揶揄する日が来るだろう、と思った。
「俺の手を見ろ。いつの間にか、カビだらけだ」

   〈了〉

   恋愛は、チャンスでないと思う。私はそれを、意志だと思う。
   (太宰治『チャンス』より)