私がパジャマのボタンをかけられなくなっても

人をダメにする男夏油傑×ひたすらにバブになっていく五条悟
※夏五ディズニーデート/ひとりでできないもん病の悟
※離反回避で教師軸へ

 ◆ ◇

 夏油傑のカバンの中身は?
 ・自分の財布、携帯電話
 ・ピンチの時の充電器
 ・(五条悟食べこぼし用)タオルハンカチ
 ・五条の財布
 ・五条の買ったペットボトル×二本
 ・五条がゲーセンで取った謎のキャラクターのキーホルダー
 ・五条が買ったまま忘れているダースのビター
 ・五条が買ったまま忘れているとり天のおにぎり
 ・五条が買ったまま忘れているハイチュウグレープ味

   (1)荷物増やし魔

 山手線で三駅進んで、ラッシュ時間から少しずれこんだ車内はほどほどの混み具合だった。目的地まであと二駅、のところでたまたま二人分の席が空いて、五条悟は弾むように端っこの席に座る。そして、目の前に立っている夏油傑を見上げ、隣の空席をぽんぽん叩いた。
「ほら、空いた。座れよ」
 夏油はかならずこれを一回断る。「私はいい」と、半笑いで。わかっているので、五条は間髪入れずに夏油の腕を引く。「いーから、座れって」。じーさんばーさんが乗ってきたらそのときに代わってやればいいじゃん、と、五条の言い分はこうだった。
 渋々隣に夏油が座る。たった二駅だが、五条はしきりに背後の窓から景色を眺める。つい最近まで、驚いたことに彼はほとんど電車で移動をしたことがなかった。そのくせ、リムジン移動だの、ジェット機移動は慣れているのだから、育ちの違いが浮き彫りになるものだ。

 五条は電車が好きだった。それこそ、五歳児が飽きもせず、母親に手を引かれて電車が通っていくのを眺めていられるように、五条は電車という乗り物に、どことなく前向きな好奇心を持っていた。対して夏油は、乗り飽きた者の感覚か、それとも生来からなのか、電車というもののことを、五条ほどには愛していない。彼にとって電車はただの移動手段でしかないようだった。それどころか、ぎゅうぎゅうに狭い物体へ押し込められて、大量の人間が運ばれていく感じはゾッとしない、なんて、文豪みたいなことを言う。彼が中学の時、シベリア抑留のドキュメンタリー映画で目撃した、収容所へ捕虜を連行するための、劣悪な列車の姿がちらつくのだそうだった。
 (なんだよ、オマエがシベリア抑留されたわけでもないくせに。五条はそう思っている。)

 五条は自動販売機も大好きだ。たまにしか発見できない、アイスクリームの売っているやつはもう格別に。電車に乗る時、五条は必ず駅構内の自販機で飲み物を買う。たいてい、飲んだことのない甘い味のジュースやラテ。きょうはジョージアの甘いカフェラテを持っていた。五条にとって、電車と自販機の飲み物はセットだ。飲み物片手に、うきうきと電車に乗る。隣に友だち、となるといよいよ完璧だった。
 荷物を嫌って、いつでも手ぶらでいたがるくせに、五条は道すがら物を増やすのも得意だった。増えたペットボトルの最終的な行き先はいつも決まっている。夏油傑のカバンの中だ。
 思えば、出会ってすぐのころは夏油も手ぶらか、持っていても小さなボディバッグ一つだった。だが、出かけるたびに自分の両手が、五条によって押し付けられる荷物ですぐ埋まってしまうことを重々理解して、いまは必ずマチのある大きめのバッグを持ってくる。
 五条は夏油のバッグが大好きだ。
 五条が買ったものを、ノータイムでぽんぽんつっこめるように、口ががばっと開いていて、ファスナーなんかがついていないノーマルな形のショルダーバッグだ。夏油はこれを選ぶにも機能性を重視したらしく、持ち手のところが夏油の脇下よりさらに長いので、肩から持ち手を外すことなく荷物をいれることができる。万が一、ゲームセンターで不必要なでっかいぬいぐるみをとったとしても、最悪このバッグに頭から押し込める形になっていた。
 出かけたばかりの時はまだすっかすかのそのバッグに、五条は何か物が増えるたび、遠慮なく突っ込んでいく。一本目を買ったのに、飽きて二本目の飲み物を買ってしまった場合、高確率で半分くらい減ったペットボトルが二本、最終的にこのバッグ行きになる。夏油はたまにどちらかを勝手に飲んで、甘味に眉をしかめたり、強烈な炭酸で顔を引きつらせたりする。それでも、これ以上ペットボトルが増えるのはごめんなので、自分用にお茶を買うこともない。
 五条の財布は最初から夏油が持っている。五条が二十七歳になるころには、電子決済が徐々に浸透し始めてくるころだが、二人が学生の当時、まだまだそんなものはなかったので、五条がアップルウォッチで決済し始めるのはもう少し先の話だ。

 仕事や授業以外の目的で、ふらっと出かけることが増えた。それも、二人で。
 これは五条悟にとって、大きな変化だった。そもそも、高専入学までは閉鎖的な環境で暮らしていた五条は、ごちゃごちゃした東京の都心部が好きで好きでたまらなかった。だから、出かけることは苦にならない。どこに行くにもわくわくが伴った。
 それに、この「夏油傑」という存在だ。
 高専に入ってすぐのうちは、同世代の術師と仲良くするなんて考え、少しも持っていなかった。術師のシビアな世界を生き抜く中で、友人をつくることよりも、誰が犠牲になろうと折れない不屈のこころを手に入れることの方がよっぽど大切だと教え込まれてきた五条にとって、友人などは百害あって一利なし、自分に肩を並べる存在などいるはずがないのだから、つるむ方が足手まといだ……、と本気でそう思っていた。
 隣に座っている夏油にもたれかかるようにして、品川で降りる人の波を眺めている。
 「なーなー、もう〈耳〉つけていい?」
 待ちきれずに、五条はムズムズ体を震わせて、夏油に耳打ちした。同時に、夏油が膝の上に置いているカバンの口をごそごそ探る。中には二つ、ちゃんとふかふかした感触があった。
 「ダメだ。耳つけるのは少なくとも舞浜駅に着いてからだよ」
 夏油は五条の方を見もせずに言う。チッ、と五条はあからさまな舌打ちをした。
 同級生のもう一人、家入硝子も誘ったが、「今月何回行ってんだ、頭バグってんのか」と言われただけだった。夏油も「もう来年まで十分だ」と言っているが、それでも五条がダダをこねればついてきてくれる。東京駅から京葉線に乗り換えて、舞浜駅に鎮座する夢の王国だ。

 なにがきっかけだったか、家入と夏油の間に「夢の国」というキーワードが出た。ジョークの一つとして出て来た単語だったが、五条は聞きとがめた。
 「夢の国? ナニソレ?」
 自分ひとり、ついていけない話題があることにムッとして、五条は即座につっこんだ。
 「夢の国だよ、夢の国。夢と魔法の国が千葉にあるんだよ」
 はじめてマクドナルドの話題が出たときもこんな感じだった。「マックってなに?」と尋ねる五条に家入は投げやりな解説をして、結局あのときも夏油が最終的に五条をマクドナルドに連れて行ってくれたのだ。家入の解説に満足していない五条を見て、夏油は家入と目を見交わし、肩をちょっとすくめた。
 「千葉ァ? なんでェ? そんなとこに夢と魔法?」
 ハァ? とつっかかる五条をしっしっと手で払って、「夏油、お前が説明しろ」の顔で家入はだんまりモードに入ってしまった。
 「悟、ウォルト・ディズニーは知ってる?」
 「ハ? 何? 誰そいつ傑のナニ?」
 こらえきれず家入が吹き出した。驚いたことに五条は日本人なら誰でも知っている、世界で最も有名なアニメーターのことも、彼が生み出した愛らしいネズミのキャラクターについても、つゆほども知らなかった。確かに、彼の生い立ちにディズニー映画が必要だったか考えると、つけ入る隙はなさそうだし、仕方がない。夏油は、五条が「夢の国」を理解するラインに少しも届いていないことを分かって、顎先に指をあてた。
 「ウン、それならいくら細かく話してもピンとくることはないだろう。千葉に夢と魔法の国があるんだ。機会があったら行ってみればいい。以上」
 「ハア~~~~!? 何そのめんどくさそうな説明~~~~~! 硝子ォ!」
 「めんどくせぇ、夏油にバトンタッチ」
 わざとらしく、「ヤニ入れてくるわ」のポーズで、家入は隙をついて颯爽と逃げ出そうとしたが、夏油の方が早かった。五条の「ダダっ子」ボルテージが徐々に上がりつつある予感を早くも察して、夏油は一人になるまいと家入の腕をむんずとつかんで離さない。三人引っ張り合いの構図になり、五条がいよいよその場に座り込んで全体重をかけて夏油の腕を引っ張り出したので、結局腕をもぎ取られたくない夏油、家入が観念する形で、実際に目で見たらよかろう、ということになった。
 五条の最初の「夢の国」が、友人二人との学生らしい思い出だった。何にあんなに惹かれたのか、その魅力は今になってもよく分からない。たぶん、そもそも、「友達二人と一緒に」来ているという事実が五条を魅了したのだろう。高専に無理やり許可をもらって、補助監督の監視付きで(かわいそうに、チケット代が経費でおりないため、補助監督は舞浜駅のカフェで三時間以上待たされた)彼らは「夢の国」を訪れたのだ。
 授業が終わったあとの、たった三時間の話だったが、五条はあの瞬間のことを忘れないだろう。
 ハリボテっぽい、クリーム色の壁に覆われた、おもちゃのような見た目の建物たち。頭上を走るはディズニー・リゾート・ライン。後で知ることになるが、リゾート・ラインに乗って隣の駅へ移動すれば、「冒険とイマジネーションの海」と銘打たれた、別のパークがあることは、この時はひた隠しにされていた。駅を降りると、流れている曲がもう違う。弾むような愉快な音楽に合わせて、足取りも心持ち弾んだ。
 家入は興味が薄そうだったが、夏油は懐かしそうにしていた。中学生のころ、一度友達と来たことがあるらしい。目で見ればわかる、と言われた通り、五条は三時間の「夢の国」旅行で、ここがどんなところであるか、空気を、思想を、肌で感じ取ることができた。一人で来ていたらまた違った感想を持ったに違いない。この手の、あからさまにウソっぽい、そういう雰囲気のものを五条は生来から好まなかった。なのに、この高揚はなんだろう? 
 答えはシンプルだった。「友達と一緒に来ているから」。それだけだ。
 閉園まで粘りたい五条と、しびれを切らした補助監督の攻防に疲れた夏油が引きずる形で、閉園一時間前のパークから五条を引きずり出し、最初の「夢の国」体験はたった三時間で終わってしまった。もちろん、五条がそれで満足するはずがない。初回は興奮しすぎて、メインエントランスだけで半分くらいの時間を費やしてしまったのだ。入園者がしきりにつけている〈耳〉もつけられなかったし、Tシャツも買えなかった。サングラスもだ! 五条にはやり残したことがたくさんあった。初めて来園したあと、二度目にこの場所へ来るまで、そう時間はかからなかった。

 二度目から硝子はどうがんばっても同行してくれなくなった。「夢の国」は基本的に禁煙だ。喫煙所はあるものの、場所は年々少なくなっており、煙草を吸う人間には厳しい場所になっている。夏油は「男二人で何が悲しくて」とずいぶん頑張ったが、最後はやはり折れて、親友・五条のわがままを聞いた。
 そんな彼らの、何度目かの「夢の国」へのお出かけだ。何回行っても不思議に飽きない。五条があの場所に飽きる気配がないことを、家入や夏油の方が驚いていた。
 「好きじゃなさそうだと思ったのにな。悟みたいなヤツは」
 「どういう意味だよ、それ」
 「楽しい場所だけど、ハリボテだろ? よくできているけど、かなり見え透いたハリボテだ。それを恥ずかしげもなく、堂々とやってる。あれだけ突き抜けているから一流なのだろうけど、悟はそういうの、好きじゃないだろう。少なくとも何回も足を運ぶなんて思ってもみなかった」
 「そう? 考えてもみろよ、あの場所ってさ、傑みてーじゃん、なんか」
 今度は夏油が「は?」という顔をする番だった。
 「私がハリボテだって?」
 「嘘くせーってのもあるけど、極端すぎる〈完璧〉っての? でも心からその〈完璧〉を信じてる。行ってる俺らも、真剣に騙されて、バカみたいにはしゃいでる。なんかそれがイイじゃん。俺って、結構、ああいう場所好きなんだと思うよ。全力ではしゃいだって誰も怒らないし、場所自体が俺を甘やかしてくれてるみたい。な? なんか傑みてーだろ」
 夏油はちょっと考えたが、それ以上何も言わなかった。満更でもなかったのだと思う。
 「それに、チュロスとポップコーンがうまい。デザートメニューも頻繁に変わる」
 ピン、と五条が立てた一本指を見て、夏油は満足そうな笑みを緩めた。結局そっちかい、と脱力し、もとの顔に戻る。ただ、これは正直、五条なりの照れ隠しだった。
 東京駅に到着し、五条は跳ね飛んで立ち上がった。
 「ついた!」
 上機嫌に叫んで、後ろも見ず、ワーッと一目散に開いた扉へ駆けていく。五条悟が嵐のように去っていった座席には、彼の携帯電話と、目薬、飲みかけのペットボトルが全て置きっぱなしになっていて、夏油は呆れ笑いを浮かべ、それらを手際よく全部回収し、彼の後に続いた。
 山手線外回り、まもなく発車します―――……。
 アナウンスのあと、扉が閉まってから、五条はやっと忘れ物に気づいた。
 「やべ! 携帯とか全部忘れた」
 「バカ、私が持ってるよ」
 立ち止まった五条の背中を片手で押し、夏油は京葉線への人流へ乗る。五条はにへっと笑って、夏油の手から目薬と携帯を預かり、ズボンのポケットに入れた。
 「さすが。やっぱ俺たち最強」
 「ペットボトルは?」
 「カバンいれといてー」
 「悟」
 夏油の小言が始まる前に、五条は浮かれ気味の足取りで、まっすぐ動く平らなエスカレーターに飛び乗った。京葉線の手前にある、この動く床も好きだ。行きはここを飛ぶように歩いていくが、帰りは手すりにもたれかかりながら、後ろ髪引かれて立ち止まる。そう相場は決まっていた。
 

 舞浜駅に降り立って、ゲートへたどり着くまでの間の道のりは、何回歩いても高揚する。駅のホームに着いたとたん、持ってきた〈耳〉を早速つけている。行くたびに新しいのを買うくせに、毎回古いものも持ってくる。今日はお揃いで買わされたギラギラのスパンコールで埋め尽くされたリボン付きのネズミ耳。五条がシルバー、夏油はゴールドだ。大人数で来ているギャル軍団しかつけていないようなド派手なやつをよりにもよって選んで、そのうえ、「私はいいから」と断っている夏油に無理やり装着させた。通りがかった四人組のギャルが、こっちを向いてくすくす笑っている。小ばかにされているわけではないとは表情でわかるからいいものの、顔がよくなければこんな〈耳〉など悪目立ちでしかない。
 シルバーのスパンコールは、悔しいことに五条によく似合っていた。五条はうきうきと、エントランスの音楽に合わせて口笛を吹いている。つい最近までディズニー映画に疎かったくせに、すっかりツウぶって、ちょっとマニアックな選曲にも対応できるようになっていた。夏油も知っていたようで、五条の口笛に合わせてリフレインが脳裏に浮かぶ。

  丸いタマゴが立ったとて
  月が四角に出たとて
  こんな驚いた話はないよ
  象が空飛ぶよ

 入園前、やっぱり五条は夏油が予測したとおり、新しい〈耳〉を買った。持ってきた古い耳が、ゲート内に入れたためしがない。五条はルンルンで夏油の分まで買って、今年はダルメシアン犬が流行っているらしい、とイヌの垂れ耳がついたヘアバンドを早速装着して、ご機嫌だった。

 「夢の国」は最も五条の目を移ろわせる場所だ。五条は行く先々で、何かしらの「記念品」を買う。それも大量に。甘いものが好きな彼だから、出先で珍しい甘味があると手が伸びるのは目をつむるとして、腹に入れれば消えてくれるもの以外に、手で持って帰らなければならないものを山ほど買った。

 例えば、いま、夏油傑の首から三つもぶら下がっている、大きな「ポップコーンバケット」がそれだ。蒸気船ウィリー号の形の、キャラメル味が入ったやつが一つ。空を飛ぶ愛らしい子ゾウが両耳を開いている形のものにはミルクティー味。リゾート・ライン号を模した車体からパークのメインキャラクターたちが顔を出しているバケットの中にはクッキークリーム味だ。大きなバケットは歩くたびに三つが別々にぶつかり合って、ガツガツ騒がしい音を立てており、五条悟は相変わらず手ぶらで、二歩進むごとにバケットの中からどれかを選んで手をつっこんでいる。せめてチェダーチーズ味とか、ブラックペッパー味とか、甘くないやつも買わないかと提案したのだが、夏油の願いはクッキークリーム味が新登場していたせいで星となり消えた。前に食べたクリームソーダ味よりマシか、と、夏油はもはや首から下がっているものの存在を認識しないことで精神の均衡を保つことに決めたようだ。
 毎回これだけの量のポップコーンに、チュロスを二本(もちろん甘いヤツだ。夏油はスタンダードなポテトのやつなら意外と好きだった)、ティポトルタを一本は買う。さすがにポップコーンバケットは新しい形のものが出ないと買わないが、今日は不運にも、新デザインが多数登場した直後だった。その上、オマケのミニマグカップつきのデザートがあれば必ず買うので、コーヒーを飲むには小さすぎるマグカップが、夏油のカバンをいよいよ重くする。
 五条はレストランに入る隙もなく、パークへ来ると動き続けた。あっちへ行こう、こっちを見よう、永遠に尽きぬ興味は、何度来ても薄れる気配なく、毎回新しい何かを見つけられるらしい。インディ・ジョーンズエリアの海辺に墜落している複葉機には、スター・ウォーズのキャラクターである「C-3PO」の刻印があるとか、複葉機から伸びている足跡はインディのものだとか、カリブの海賊のボートには全部女の名前がつけてある、とか……。
 「ちゃんと土地のいわくまで考えて作ってんだろーな。パーク作ったやつって、マジで変態の領域だって、コレ」
 「芸が細かい、でいいだろうそこは。変態なんてひどい言い草だな」
 「俺は褒めてンの。何回来たって、なんか新しいモンが埋まってるんだよな」
 夢の国が夢の国たるゆえんは、日常から強制的に気持ちを離れさせてくれるところだろう。不思議なほどに、日々を忘れた。熱中できた。そして、何よりも、日常を離れて友達と笑いながら時間を過ごしているということが、五条をいちばん満足させていた。アトラクションに乗るための待機時間がいくら長くても、いつまででも話していられた。何よりよかったのは、ここへ来ると夏油の気持ちもスイッチが切り替わるのか、彼まで授業や仕事、呪霊の話を忘れるところが最もよかった。

 大量にLEDを積んだフロートが連なる、光のパレードが去ったあと、とっぷり暮れた夜のパークはやにわに騒がしくなった。パレードの間鳴り響いていた音楽が、何食わぬ顔で元に戻り、人々はそろそろ家路に向かい始める。人の波に逆らって、閉園前の、混雑が緩和される時間に、最後の仕上げとアトラクションへ向かう同世代たちと同じようにしたい気持ちはあれど、五条も夏油も普通の高校生ではない。再び、パーク最奥のスプラッシュ・マウンテンに向かいたがる五条の背中をギュッとつかんで、
 「悟。さすがにもう帰るよ」
 と夏油の声音でタイムリミットだと理解した。
 「ぶふっ」
 「何笑ってる」夏油は心なしか機嫌が悪そうだ。
 「オマエだけエレクトリカルパレード続いてんじゃん」
 吹き出しながら五条が言った。夜のパレードのために、手に持ったり首から下げたりしてパレードの盛り上げ役を担える「光るおもちゃ」が、夕暮れを過ぎるとワゴンでたくさん売られはじめる。言わずもがな、五条のそれらも大好きな「記念品」だった。五条が無計画に、手あたり次第買った光るおもちゃが、ブンブン回りながら、あるいは光り輝きながら、夏油の胸にさげられている。さすがに同時にポップコーンバケットをさげることはできないので、鞄の中に収納されたらしいが、夏油の顔を下からブルーに照らす派手な光のせいで、夏油の表情は余計に曇って見えた。
 「誰のせいだと思ってるんだ」
 「俺でーす」
 「悟も一つくらい持って。自分が欲しくて買ったんだろう、この光るゴミ」
 「傑クン口悪ィよ~? ここ夢の国だぞ?」
 げしげし蹴り合いながら、腹をかかえて笑いながら、彼らは人の波に沿ってゲートへ向かっていく。一日遊んで、きらきらに満ちた夢の場所からゲートを一歩出ると、もう世界が変わっている。パークのメインゲートは国境だった。国境をまたぐと、もうそこは「現実の国」だ。音楽は小さく薄れ、光は遠ざかる。どうしてあんなに、帰る間際の夢の国っていうのは、切なくて、悲しく見えるんだろう。
 五条はゲートを出てしばらく歩くと、道の真ん中にしゃがみこんだ。
「悟。通行の邪魔」
 まだ光るおもちゃを首からさげたまま、夏油はボンタンのポケットの両手をつっこみ、パンパンに膨らんだカバンを肩からかけて立ち止まる。あきれ顔で見下ろす、この「困ったな」という顔が好きだった。

 「帰りたくねェ~~~~」
 毎回出る五条の発作だ。ダダっ子モード全開。生来がわがままな性格だと思われがちだが、それは違う。人にわがままを言えるのは、相手を信頼しているからだ。五条はそう思う。少なくとも、京都の実家にいたころは、わがままを言った覚えはほとんどない。嫌悪とか、反発とか、そういった覚えはあったとしても、愛を持って人に頼る、わがままな自分は誰にも見せていなかった。
 心を閉じて、一人で生きる。その覚悟を持って大きくなってきたのに、夏油傑が勝手に扉をこじ開けてしまったのだ。だから五条は全力で彼にわがままを言うことに決めている。オマエのせいで俺はこうなってしまったんだから、最後まで責任もって面倒を見ろよな。そういうつもりで。
 「ダメ。ハイ、帰る」
 「ヤダ~~~~」
 「ヤダ~~~~じゃない。二メートル近い男がやってもかわいくないよ」
 「うそ? この顔でも?」
 「その顔でも」
 駄々をこねる五条の両手をとって、五歳児をあやすように夏油が引きずり出した。〈耳〉をつけっぱなしにした、そろいの制服の女子高生軍団が、それを見てアハハハ、と笑っている。行きより帰りのほうが、浮かれ気分を引きずっている分、あからさまだ。カワイー、と投げかける女子高生たちにへらっと笑って、五条は「ほらあ! 俺やっぱカワイイ」と騒いだ。夏油は無視して駅まで引きずっていくと肚を決めていた。
 やっと諦めた五条が、ぽんっ、と軽快に飛び上がる。夏油は驚いて両手を離した。五条は彼の背中にがばっと抱き着いて、寄りかかりながら歩きはじめる。重いだろうに、歩きにくいだろうに、夏油は笑っているだけで、振りほどかないし、文句を言うこともない。
 「傑」
 「なに?」
 「楽しかったナア」
 「そうだネエ」
 「来週も来たい人~~~~」
 「早くても来月で充分だ」
 「エエ~~~~~~」
 パーク帰りの、疲れ切ってもにこにこしている人に混じって、電車に乗る。きっと途中で眠ってしまうだろうけれど、たとえ眠りこけていても、必ず夏油が起こしてくれる。たとえすべての荷物(といっても携帯以外はすでに夏油が持っているが)を忘れても、夏油が気づいて持ってきてくれる。
 だから五条は安心して、すっかり気持ちを抜いていられるのだ。
 「明日何時集合だっけ?」
 「朝五時、正門前。そこから二時間移動して仕事」
 「今何時?」
 「九時すぎ。寮に戻るのは十一時近くなるかな。そして我々は当然風呂にも入ってない」
 「死んだじゃん」
 「いまはまだ死んでない。でも、明日死なないようによろしく」
 「笑えねー、ガンバロー」
 それでも五条は構わなかった。五時集合だろうとも、どれだけ眠くてつらかろうとも、隣に夏油傑がいる限り、五条悟は最強なのだから。

 だから大丈夫だった。

   (2)ひとりでできないもん

 「おい、夏油傑」
 家入硝子がフルネームで人を呼びつける。これはなかなか危険信号だ。立ち止まってちゃんと目を合わせ、話を聞かないと、パンチの一つも飛んでくるかもしれない。
 「はい」
 思わず敬語になって、夏油は立ち止まった。家入はありがたいことに、表情を見る限りではそこまで激怒しているというわけではなさそうだった。だが、真剣そうではある。授業の話かと思って、夏油は反射的に真面目な顔になった。彼はTPOをわきまえられる男なのだ。
 「どうした?」
 「五条のことだけど」
 「ああ」
 夏油の表情からやや真剣さが削がれたのを見て、家入はずいと顔を近づける。美人の睨み顔は迫力もひとしおで、夏油はとっさに両手を胸の前に上げ、「それ以上は近いよ」という牽制と、「早くも降参です」という意思の両方を持たせた。
 「夏油、あいつの歯を磨いてやってるって」
 「え?」
 「本当か?」
 自慢げに五条に言われたけど。……そう付け加える。彼女は怒りを通り越して恐れているようだった。それも当然のことだ。自分の学友ふたりが、男同士で、何よりもう自立した青年の年ごろで、片方の歯を片方が磨いているなど、自分ならぞっとしただろう。夏油はとっさに反省し、彼のその数秒のラグが、家入に「イエス」と受け取られた。
 「単刀直入に言う。今すぐにやめろ。金輪際、何をどう言われても、どんなに色っぽくしなだれかかられても、男心がくすぐられても、一切なんの手伝いもするな。生活において五条が当然自分でできるはずのことはあいつ自身にやらせろ」
 「男心がくすぐられる、なんてちょっと聞こえが悪いな」
 「くすぐられてなきゃ、野郎の歯なんて磨かないだろ」
 珍しく夏油が論破され、押し黙る。分が悪すぎて、防戦一方だった。

 確かに、夏油傑は昨夜五条悟の歯を磨いてやった。とはいえ、そんな色っぽいやり取りがあったわけではない。普段通り風呂に入って、髪が濡れたままぐずぐずしている五条の髪を乾かしてやったのだ。これも不可抗力だった。自分が髪を乾かしている間、何度忠告してもドライヤーを手に取らないので、仕方がないから自分が持っているドライヤーでそのまま一緒にやってやったのだ。五条は犬みたいに髪をバサバサやられるのも悪くなかったようで、夏油の節くれだった手でも、心地よさそうに目を閉じていた。
 「美容師向いてるわ、傑」
 「いやいや。ドライヤーしただけだろう」
 「なあなあ、あれやって。美容師のマッサージ」
 「ああ、頭皮の? ぐいーっと持ち上げられるやつね」
 「そうそう。すげー顔になんのよ。傑みてーなツリ目にさ」
 「誰がツリ目のキツネ顔だ」
 ワハハハ、とふざけ合いながら、もう二人しか残っていない寮の大浴場の脱衣所で、突然美容師ゴッコが始まった。五条の頭を両手の指でもみほぐし、頭皮をグググッと持ち上げるマッサージを見様見真似でやって、ツリ目になった五条を鏡越しにみて爆笑し、ついでに首すじから肩のマッサージまでやってやった。さすが、頭と体を酷使する最強男は、ガチガチに肩が凝っていた。
 「あ~~~~~、やべ~~~~、気持ちい~~~~~」
 「悟の肩、岩みたいだ。全然指が入らない」
 「ン……ア……、もっと強くゥ……」
 「変な声を出すな」
 脱衣所に反響する、ギャハハハ! という笑い声が二人を余計に愉快にさせる。あまりに酷い肩こりがかわいそうになって、つい真剣にマッサージをしてやったせいで、五条がうとうとし始めた。せめて寝間着を着てからにしな、とパンツ一枚の彼にパジャマを着せてやった。
 「ほら、悟。歯ア磨いて」
 「エ~~~~……ねみー……」
 「人一倍糖分取るんだから、歯を磨かないと来年にも歯周病になって全部差し歯になるぞ」
 「ハ? オマエ歯医者? 美容師の次は歯医者? 俺も俺の歯も最強だからぜってーなんねーわ」
 「誰が美容師してやったと思ってる?」
 言い合いで目が覚めるかと思ったが、ダメだった。いよいよ目をしょぼつかせ始めたので、肩をすくめて、自分の歯磨きの傍ら、五条のブラシに歯磨き粉(チョコミント味)を練り出して、片手間に磨いてやった。五条はおとなしく口をあーんと開けて、満足そうに目を閉じていた。
 「悟の歯、きれいだな。歯並びもいい」
 「だろ? 生涯虫歯ゼロ」
 「ならいよいよ、大事にしないと。寮生活中に虫歯だらけ、なんてことになったら学び舎の意味がない」
 「へーへー、歯医者サン」
 そんなふうに、今思えばずいぶん言いくるめられて、夏油は結局五条の部屋に五条を寝かせにいく、というところまでやって、自室へ戻った。とはいえ、「やらされている」という感覚は一切なかった。むしろ、自室へ戻る前に「おやすみ、傑」とベッドから声をかけてきた五条を見て、自室のベッドに横になったときには、ふつふつと満足感があふれていたほどだ。

 昨日の一連の出来事を説明して、夏油は家入の目を正面から見返した。言語化するといよいよ、「私に落ち度は一切ない」と自信が持てたのだ。
 「というわけだ、硝子」
 「何が『というわけだ』だ。お前がやってることはNHK教育テレビが五歳児向けにやってるレベルだぞ。しかもあっちはパジャマを一人で着られるようにするし、歯磨きも自分でやれるように誘導する。お前は逆だ。五条を五歳児以下に逆行させてる」
 「人聞きが悪いな。私だってもちろん、何でもかんでもやってやるわけじゃない。歯だってたまたま昨日磨いてやっただけだ。むしろ私は、悟を律して、いい方向に導こうとしてるじゃないか。手伝いが不可抗力な時にしか彼の日常行動に手出しはしていない」
 「ハ! 見えすいた嘘だな。それとも本気でそう思ってるのか? 冥さんから聞いたぞ。この前は五条のほどけた靴紐を結んでやってたらしいじゃないか」
 「く……! 冥さんに見られていたか……!」
 つい家入の詰問口調にノせられて、うっかり悪役ムーブしてしまったが、いやいやあれも不可抗力だった、と夏油は憤慨する。冥冥、五条、夏油の三人で回収を命ぜられた呪物の処理のために向かい、公平な役割分担で、能力の性質を加味して五条が荷物を両手に抱え、冥冥と夏油の手を空けておく方が良いという采配になったのだ。結果、回収はつつがなく成功、高専に戻ってきたとき、車を降りた五条が両手に長物を抱えたまま、足をぷらぷらさせた。

 「なー傑、靴紐結んで」
 ほどけた。
 五条は甘えた口調でそう言った。

 彼の両手は塞がっていた。一度手にした者の手をひとたび離れると、それが引き金になって発動する種類の術式がこめられたいわくつきの「妖刀」で、地面や床に一切置くな、高専に戻ってからしかるべき場所に置くまで誰にも渡さず「一人が責任を持って」帯刀しろと厳重に注意を受けたシロモノなのだ。当然置くわけにも、一度夏油に手渡すわけにもいかない。これを五条に持たせるにあたって、「急にションベン行きたくなったらどうすんの」と文句を垂れた五条の万が一にそなえ、急場の際は夏油がズボンを下ろしてチンポを支えろ、という話にまでなったのだ。
 その覚悟まであった夏油に、靴紐くらいお安い御用だった。片足をぷらぷらさせている五条の前に「仕方ないな」としゃがみ込み、丁寧に、きつく靴紐を結んでやった。
 「あんがと」
 「どういたしまして。ほどけた靴紐を踏んで、ソレを落っことしたらことだから」
 自分に言い訳するようにそう言った夏油だが、もう一度呼び止められた。
 「あー、傑、もう片方も外れた」
 五条の味をしめた顔ときたら! 舌舐めずりでもしそうなツラで、五条は笑っている。夏油はため息ひとつ漏らし、より丁寧にもう片側の紐を結ぶ。よく見ると、紐の先に靴裏で踏んだ跡があった。まだ新しい。
 「悟」
 「ん?」
 「こっち、自分で解いただろう。わざと。からかってるのか?」
 「バレた?」
 五条は悪びれず、ニイッと笑った。
 「だって、オマエのつむじ見るの初めてだったんだもん。もっかい見てーなと思って。俺の前にオマエが跪いてんのも気分良かったし」
 後半の一言はおいといて、つむじなんていくらでも見せてやるさ、と胸にくすぐったい気持ちが湧いた。そのせいで、からかうなと叱るのも忘れた。おーい、行くよ、と声をかけてきた冥冥に従ってそのまま首尾よく任を終えたのだが、あのとき冥冥に見られていたのだろう。

 「悟は私をからかっていた。ただそれだけだ。ほんとうに靴紐が結べなくなったわけじゃない」
 我ながら言い訳じみた口調だった。家入はそれを見逃さない。彼女はそんな甘い女子ではなかった。
 「夏油。私はあまえんぼの五条より、お前に危機感を覚える。お前は典型的人たらしタイプだよ、夏油。五条があれだけメロメロに心をひらいてンのも、九割はお前のせい。お前だって、五条がお前に強烈になついてることにどこか気持ち良さを感じてるはずだ。お前は生まれつきの〈人をダメにする男〉なんだよ。一人でできていたはずのことを一人でできなくするんだ」
 家入の指が、トンと夏油の胸をついた。咎める人差し指だった。
 「私が悪いっていうのか?」
 夏油は珍しくムッとする。親友を手玉に取って悦に入っているのだろう、なんて言われたら、不機嫌にもなるはずだ。だが、正面切って違うと言い切るのもむつかしい。たしかに、家入の言うとおり、夏油は五条が「できないからオマエがやって」とあまえてくるたびに、言葉にならぬ満たされた気持ちで、胸をかきむしりたくなるのだから。
 「悪いというより、持ち前の人たらしをちょっとは自覚しろ、ってことだ。縁起でもないことだけど、たとえばお前が任務で再起不能になったら、五条はどうなる?」
 「……悟は〈最強〉だ。そんな心配は必要ない」
 「必要ない? ……親友失格だ、夏油。それとも、当事者同士だからわからないのか? 夏油、お前が思ってる以上に、五条の中でお前の存在は特別だよ。お前がもしあいつの前から姿を消すことがあったら、五条は根本から崩れることになる。五条にとって、あいつの人生は、ビフォー・傑、アフター・傑。そのくらいのものなんだ」
 「過大評価しすぎだ、硝子。私にそれほどの価値はない」
 夏油は強い口調で話を切り上げた。親友失格、と言われたのが傷ついたのだろうか? いいや、正確には違う。結局、自分がずっとひっかかっていたところを、見事に抉られたように思ったのだ。過大評価だ。夏油は繰り返し考える。五条は紛れもなく最強で、かえせば、自分に出来ることなどたかだか靴紐を結んだり、歯を磨いてやったりする程度のことなのだ。自分に自信がないわけでは決してない。できうる限りの努力をしている自負も、最強と肩を並べて恥ずかしくないレベルに不足なく仕上げられているとは思う。しかし、本当に窮地に立った時、私は悟に何かしてやれるだろうか?
 そのことだけに、自信がなかったのだ。

   * * *

 面倒くさい任務のあとなのに、五条はえらく機嫌がよかった。手ぶらが好きな男だから、さっきまでふさがれていた両手がすっかり自由になったのがうれしいのかもしれない、と冥冥は微笑んで、それから、いつまでも寮の共有スペースに居座って、部屋に戻らない彼に声をかけた。
 「もう戻っていいんだよ。今日の仕事は終わったから」
 五条は冥冥を振り仰いで、どこか得意げに足をぶらぶらさせていた。お行儀悪く、彼はダイニングテーブルに腰かけていた。
 「傑が戻るまで待ってるから、冥さん先上がってていーよ」
 ぷらぷら揺れている五条は、いつまでも靴を脱ぎたがらない。きつく縛られたきれいな蝶結びが、彼のつま先に輝いていた。冥冥にはすべて分かった。
 「仲良しだね、君たちは。本当に」

 冥冥が自室へ戻ったあと、しばらくのちに夏油傑もロビーへ戻って来た。さっきまで普通の顔をしていた夏油が、ちょっと怒った顔をしていたのが意外だった。
 「ナニ? 何かあった? 機嫌悪ィじゃん」
 テーブルをぴょんと飛び降り、五条が共有冷蔵庫の中からくすねたパルム(たぶん歌姫のものだ)をかじりながら夏油のそばに寄ってくる。夏油が不機嫌な理由は、つい先ほど、学友から「親友をダメにしている男」と真剣になじられたためだった。夏油はテーブルの上に腰かけていたことを叱るか考えて、結果、やめた。五条は拍子抜けの顔をした。
 「いや、別に何もない」
 「なんだよ。感じ悪ィの。このあとオフでいいってさ。今日はもうメシ食って風呂入って寝る?」
 「ああ……。どうしようかな。移動中に食べたからあまりおなかも減ってないな」
 午後六時。こんな時間にヒマになるのは珍しい。手放しで喜びたいところだが、夏油の胸にはむずがゆい違和感が残っている。
 「んじゃ、オマエの部屋行っていい? ゲームしよ」
 「自分の部屋でしな」
 「えー? なんか冷てェな?」
 五条はぶーぶー文句を言って、結局夏油の部屋に遠慮なく入って来た。五条は自分の金で買ったゲーム機を全部夏油の部屋に置きっぱなしにしている。自室で一人でやる、なんて脳みそは一切ないようで、シングルプレイのストーリー重視アクションゲームでさえ、夏油そっちのけでテレビの前に陣取り、プレイする。そもそも、テレビをあまり好まない夏油の部屋にテレビがおかれていること自体がおかしいのだ。これも五条がおいた。そして、置いた張本人の五条も、地上波のテレビ番組にあまり興味がないようだった。

 普段の五条なら、部屋の主より先に我が物顔でベッドへ飛び乗るところだが、その日は違った。五条は自分で押し掛けたくせに、いつまで経っても部屋に入ろうとせず、玄関先でもじもじ立ったままでいた。あっという間に食べきったパルムの棒きれを、歯でがじがじ噛みながら、玄関でじっとつま先を見て立っている。
 「どうした? 早く入ったら?」
 スリッパをはいていない夏油の素足が、ぺたぺたとフローリングの床に触れる音がする。五条はにんまり笑って、携帯電話で一枚、かしゃりと足元の写真を撮った。
 「……なんか脱ぐのもったいねーじゃん」
 夏油傑に結んでもらった靴ひもを、五条は嬉しそうに眺めている。そのとき、夏油の中で、細くつながっていた糸がぷつんと切れたような気がした。

 友として、自分は五条の「おまえがやって病」につきあっているだけだ、という親切心の皮は剥がれ、五条悟という一人の男が、自分なしでは生きられないくらい、ぐにゃぐにゃになって、ダメな男になって、足元から崩れていき、自立もできない五歳児以下になってしまえば、私ひとりのものになるかもしれない。そう願ってやまなかった、夏油傑の一番底の部分が、くろぐろと口を開けていた。

 パルムの棒をもぎとって、自分よりやや高い位置にある五条の頭を無理にかき抱いた。腕を首にかけ、力任せに引き寄せた。五条はバランスを崩したが、玄関先から靴のまま中に入らぬよう踏ん張って耐えた。そのおかげで、五条の上体がかがむ形になり、夏油は彼の頬に手を添えた。
 キスをしたのだ。
 夏油自身の認識さえ遅れた。五条の方はもっとだろう。五条は珍しく微動だにせず固まって、両手をぴんと張り詰めたまま、じっとしている。暴れもしない。もがきもしない。けれど、夏油が無理やり押し入ったくちびるの奥、引っ込んでいた舌先がツンとぶつかると、びっくりしたようにひっこめられた。
 「舌を出せ、悟」
 夏油はくちびるを合わせたまま、もぞもぞそう囁いた。五条は笑い飛ばしも逃げ出しもできず、驚きながらも、拒否するつもりはなさそうだった。いつもはよく回る舌が、きょうばかりはしおらしい。
 ちろ、とおずおず差し出された舌をつかまえる。れろ、と舌をからめる。頬に当てた指先で、うぶ毛を逆立てるように撫でる。
 「ン、……ンゥ……」
 五条の喉の奥で甘えるような声がくぐもる。行き場をなくしていた五条の手が、夏油の服の裾をつかんで、つんつん、と引っ張った。

 くちびるを放す。嫌だったか、とは尋ねなかった。
 顔を見れば、嫌でなかったことくらいわかる。五条は目を伏せていた。よくしゃべる、煽ってばかりの男が黙りこくっているのはなんだかしおらしくてかわいいように思った。
 「靴、脱ごうか。悟」
 五条はじいっと、名残惜しそうに靴先を見る。
 「また結んであげるよ。いつでも。靴を履くたび結んでやろう。悟が靴ひもの結び方を忘れてしまうくらい」
 五条はようやく諦めて、かかと同士を踏み踏み、靴をすぽんと脱いだ。VANSのロゴが靴ひもにびっしり入った、ごつめのソールのスニーカーだ。五条は靴を脱ぎ、部屋に一歩入って、夏油の手に自分の指を伸ばした。指先同士が触れて、人差し指と人差し指の先が、ちょうつがいみたいにささやかにつなぎ合わせられる。
 「…………傑」
 指先をひっぱって、五条はくちびるをとんがらせ、半ば拗ねた顔をしていた。
 「…………いまの、…………もっかい」
 

   (3)イヤイヤ期、ダメダメ期

 夏油傑とキスをした。
 その事実だけで、向こう二百年は健康に生きられそうだ。そんな幸福感が、五条の胸をいっぱいにし、膨らませ、いまにも飛んでいきそうになっている。
 
 夏油にキスされたとき、当然、最初に来たのは「驚愕」だった。
 だが、自分が心の奥底で、よもやそれを願っていたのではないか、と疑うくらい、体がぞわぞわと逆立ち、よろこびと、感激で震えた。大げさではない。本当に「感激」したのだ! 思えば、夏油がかがんで五条の靴紐を結んだあのときも、夏油が五条の荷物を特に説明もなく自分のカバンへ入れたときも、同じぞわぞわが五条を包んでいた。世話を焼かれるのが好きなんだろう、自分はそういう性格だし、と五条は自分なりに割り切って、夏油の小言や親切心を受け取っていたのに、夏油が自分に手をかけているという事実そのものがうれしいのだったと、五条は彼にキスされたとき、はじめてきちんと理解した。

 恋、というやつが、こんなにぱんぱんに胸を膨らませるものだとは知らなかった。
 五条は四六時中そわそわして、浮ついて、忘れ物をしょっちゅうした。取るに足らない忘れ物だったが、集中力を欠いているな、と自分でわかるくらいの浮かれっぷりだった。夏油は最初知らんぷりをしていたが、彼の部屋で長々と、一時間近くキスしては離れ、キスしては離れ、見つめ合って手をつないで、キスして離れ、またキスする、という無限ループを繰り返していた日のことを忘れるわけもなく、正直なところ、夏油も五条も、あの日よく「キスだけで終われたな」と心底そう思っている。
 あの日以来、夏油と五条は人目がないとなるとひっきりなしにキスするようになった。度を超えたスキンシップが、次の深みにはまるまで、当然それほど長くはかからなかった。

 エッチする直前に流れる、あの独特の空気はなんなのだろう。
 五条も夏油も、立派な男だ。何をどうやれば男相手でもセックスできるのか、思いつかないはずはないし、考えないわけもない。五条の携帯の検索履歴はあっという間に「アナル 開発 方法」などのワードで埋まり、五条の大好きなドンキ(あのごちゃごちゃ感がたまらない!)に入るたび、コンドームとローションの棚にしか目がいかないようになっていた。
 尻の開発をしよう、とすんなり発想できるあたり、自分は夏油相手に「ボトム」をやる覚悟ができているらしい。五条は何度検索したか分からないアダルトショップ通販サイトで、アナル開発用ロングディルドを眺めながらぼうっとそう思った。正直、どっちでもいける自信がある。夏油が汗まみれで自分の股の間に体を割り入れ、腰を振っているところも見たいし、夏油がそっちがいいというなら、こっちだって盛りのついたイヌみたいに腰を振れるとも思う。妄想はつきないし、その妄想で何度もヌいた。もう井上和香のオッパイにぴくりとも興奮しなくなっていた。
 問題は、いつ、どのように、どう持ち掛けるかだ。〈最強〉五条悟は珍しく、恋の駆け引きごときで悩み、ぼんやりし、ポカミスを繰り返した。夜蛾の鉄拳も効いちゃあいなかった。

 ぼうっとしていたのは夏油も同じだ。手筈通りやれと言われていた大事な仕事を一つうっかり抜かしていたとして、こちらも大きな損害にはならなかったものの、注意力散漫として、珍しく夏油がゲンコツを食らった。夏油は抜け目なく鉄拳制裁を免れるタイプの策士なので、こういうことは珍しい。何にぼうっとしているのか、聞かずともわかる。お互いに言い出しにくいことだ。
 キスだけはいっちょ前に何度もするくせに、やるのはいつも決まって移動中とか、任務先とか、ちょっとした物陰とか、まるで誰かに見られないようにこっそり行うスリルを楽しんでいるみたいに、隙間時間を狙ってばかりいて、それ以上のスキンシップへ進む好機がなかなかない。お互いの部屋に行けられればいいのに、あの、初めてキスをした日以来、二人で部屋にこもれる時間が見つかっていなかった。
 クソ、こんなときに学業も仕事も忙しいなんて! 五条はケッと吐き捨てて、今日はもぬけの殻の夏油の部屋に目をやった。
 帰るのは明日の朝になると聞いていたはずだ。夏油は仮眠をとってから、午後の演習に混ざる予定。いまから明日の朝までは、夏油がいない「クソつまんない」部屋で、一人で過ごすしかない。そうなると、五条には「寝る」以外の選択肢がなかった。
 忙しいのは大嫌いだ。夏油と出かける時間も減るし、何より忙しければ忙しいほど、胸糞悪い出来事にぶつかる可能性が高くなる。術師になれば一生こんな生活なんだろうな、と嫌気がさしもするけれど、術師でなければ夏油傑と出会うこともなかった、と思うと、満更でもない。
 靴を脱ぎ捨て(靴紐はしばらく結んでもらえていないので、ゆるゆるになっていた)、ベッドへ転がる。服は床へ脱ぎ捨てる。どうだっていい。だって、注意してくれる人はいまここにいないのだから……。

 眠りに落ちて、しばらく後だった。
 部屋のドアが叩かれるかすかな音で目を開けた。幻聴か? と思ったが、今度ははっきり、「ゴンゴン」と強めの拳の音が聞こえる。眠気に唸り、マジなんだよこんな時間に、と文句を言いながら、五条はパンツ一丁で立ち上がった。
 「誰」
 怒った声で返事をする。一応、確認はしておかねば。セキュリティ万全、呪霊のつけ入る隙も無い高専寮といえど、トンデモド級呪霊がいつ現れるかもわからない。
 「私」
 扉の向こうで、五条に負けず劣らず不機嫌そうな声がした。まぎれもない、夏油の声だ。なんでオメーが怒ってんだよ、こっちが怒りたいっつーの、……とドアノブに手をあけ、鍵を開けた瞬間、ドッ、と扉が強く内側へ開いた。
 ぬう、と入って来た夏油は疲れ切った顔をしていたが、彼の目の奥に灯っている色っぽい炎を、五条は見逃さなかった。思えば、キスされたときも突然だった。五条の知らぬところで、夏油傑の火山に火が付き、噴火する瞬間があるのだろう。なんだかそれもエロかった。
 起こして悪かった、も、夜遅くにすまない、もなかった。詫び一つ入れずに、夏油は入ってくるなり五条の身体を抱きすくめ、後ろ手でドアを締めながら、問答無用でくちびるを重ね、舌で歯の間をこじあけた。
 「ア、ン……ウ……」
 思わず甘い声が出る。夏油はそのまま五条の身体を押していき、電気もついていない部屋のベッドへ、五条を押し戻した。
 ばふ、と背中がはずむ。夏油は目を細め、手早く上着を脱いだ。
 「な、なに、オマエ……」
 「準備してないだろ」
 「は? ……へ………」
 五条悟がこれほどマヌケな声を出したのは、人生でこれ一度きりだ。
 「挿れないから、大丈夫。これから慣らしていけばいい」
 再びくちびるをふさがれた。パンツに手が入って来た。うそだろ、と思った。また例のぞわぞわが体の駆け巡り、悦びに全身が震えている。うそ! うそ? マジ? これからすんの? こんないきなり? 準備してない、って、挿れないって、オマエ、マジ、何……! 五条の叫びは全部喉から飲み込まれた。かわりに、
 「ん、ん……っ、ん……♡」
 と、キスだけで壮絶にうっとりした喘ぎが、鼻から甘ったるく抜けていった。

   * * *

 「んっ、あ、あああっ、……う、ア、……ッ! や、やば、……っ、超、奥ッ……! はい、ってる……ゥ……!」
 シーツを握りしめ、五条は体を横向きにして、片足をまっすぐ持ち上げられて、夏油の肩にかけていた。割り開かれた五条の足の間に、夏油の身体が差し込まれて、ブロックがかみ合うみたいに、がっちり深いところまで男の竿が押し込まれている。
 あつい。
 あつくて、奥を押されるたび声が漏れる。
 もう何度セックスしたことだろう。スタートラインを切ってしまえば、男二人の恋は猛スピードで最高時速を叩きだしていた。バカみたいに連日連夜、暇さえあればセックスをした。どんなゲームより、漫画より、なによりもこれが一番ふたりの心の奥深くまで癒す行為だった。お出かけも、バカ騒ぎも放り出して、彼らは飽きもせずセックスに励む。
 だって男同士だし。
 どっちも性欲バカだし。
 仕方ない。
 五条はシーツを握りしめ、のけぞって喘ぐ。夏油が丹精込めて育てた、タマ裏のあたりのぷっくり膨れた前立腺は、斜め下からの刺激でぱちゅぱちゅ潰されて、そのたびキュンキュン体を締めあげてくる。もう穴にチンポ突っ込む快感ではとても満足できない体になってしまったに違いない。ずいぶん柔らかくなって、親指で入り口をぐにっと広げられただけで奥までヒクヒク見えるアナルへゆっくり先っぽを挿入されると、以前はミチミチに広げられてヒリヒリ痛んでいた入り口も、すっかりチンポの刺激に慣れて、いまやすんなり中まで入ってしまう。パンッ、と夏油の手のひらが、確かめるように五条の尻たぶを叩く。
 いつもは見えないむき出しの夏油がいとおしい。偽りのない、素の顔だ。
 「奥より手前がすきかな?」
 「んっ、あああっ、……い、一気にぬ、くなって……え……ッ!」
 抜いたあと、ガツッ、と目から星が飛ぶくらい、力任せに叩きつけられる。
 「っひ、あああっ……! ア、やば、い、……ッっぐ!」
 「力入れてごらん、悟……、締まり悪いよ」
 「ハ、だれが、ガバマンにしたんだ、っつーの……!」
 ぱんっ、ぱんっ、と夏油が腰を振るたびに濡れた肉のぶつかる音がする。背中に汗をびっしょりかいて、シーツが汗に濡れていた。どうがんばってもセックスするたび汗まみれになってシーツをぐっしょり濡らすので、夏油と五条だけ異様にシーツを洗う頻度が高い。
 ぎゅ、としめた括約筋で、自分の中に押し入っている、ギンギンに張り詰めた青筋チンポをしめつける。それでも、奥をごつんと突かれると、やっぱり力が抜けて、力を失った尻がたゆんと揺れた。
 「ンッ、あっ、あぁ……っ! や、やば……、ア、ン……ッ! そ、そこ、まじ、……っ気持ちいい……ッ!」
 「好きだな、悟は……っ、ここが!」
 どちゅっ! とひときわ強い力で押し込められ、前立腺がぶっといカリ首で押しつぶされた。はうっ、と情けない声が出て、枕を抱きしめ、イキそうになるのを耐える。ビクンッと痙攣した五条の左足を抱きかかえ、夏油は空いた片手で結んでいた髪紐をほどいた。
 これ。
 これが好き。
 薄暗い、ルームライトの灯りの下で見る、橙色にてかった夏油傑が、濡れた髪をほどいて頭を軽く振る。気だるい色っぽさ。たん、たん、とリズミカルに腰を叩きつけて、目はどこかとろんと気だるそうに細められている。

 エロい。
 このエロい顔。
 たまらない!
 
 五条は手を伸ばして、夏油の髪を耳にかけてやる。顔を見たくて、毎回やる。夏油傑が正論を吐いているとき、いつもこのツラを思い出す。こんなド正論吐いて聖人君子ぶってますけど、この男、汗まみれで俺のケツ穴にチンポ入れて腰振ってまーす! と脳裏によぎり、説教中にも関わらずうっかり勃起しそうになる。そんなけしからん親友の思考を察してか、夏油は五条の顎を指で持ち上げ、支配的な微笑みを見せる。
 「すごい顔」
 「は……、だれ、おれが……?」
 「悟が私を小馬鹿にした顔してるとき、いつもこの、あとひと息でイキそうな、とろとろのアヘ顔を思い出す」
 「ハ、……す、すけべヤロー、……」
 結局お互いに考えることは同じだ。
 夏油が肩にかけていた五条の片足を下ろす。五条は小刻みに息を整えて、一度体を離して、体勢を整えようとする夏油の腰に足を絡みつけた。
 「抜くな、って……、そのまま、」
 「ひいひい泣いておいて、強がりだな、悟。ちょっと休憩したら?」
 「ハ、……いらねーよ、そんなの……、傑こそ、……っもう、しおれてンじゃねーの?」
 暗闇の中で夏油が笑った。三日月のかたちに持ち上がる、チェシャ・キャットみたいないじわるな笑みが、五条はたまらなく好きだった。迷子のアリスをさらに惑わせる、暗闇の中の、あてにならない目印だ。
 「確かめてみるか?」
 ごっ、と奥をさらにつつかれる。腹の下を優しく殴るような衝撃で、喉の奥から甘い声が押し出される。体の一番深いところをノックされている感じ。これがたまらない。前立腺をどちゅんどちゅんやられるたびに、排泄感にも似た射精感がゾゾゾッと背筋を駆けあがってきて、ヤダ、だめえ、と腰が逃げた。
 「あっ、ああっ、そ、そこだめ……っ、まじ、す、すぐイっちゃう、から……ァッ!」
 「イっていいよ、悟……」
 「やっ、……お、っあ!? あ、ア……ッン、す、すげ、奥……ゥッ! あ、あ、あああっ、だめ、だめだって、そ、それ以上……ッ! あ、ア♡ そこ、ォ!」
 「ほら、ここ、曲がり角……。S字まで届いたね。きゅんきゅん締め付けて離さない……! ケツマンコガバガバになってもここだけはキツマンだな、悟」
 「っあ! あああッ、まじ、だめえ、ッS字、いま、クポクポされたら、ッ……、っむり、むり、むり、アッ、う、おああっ、は、はあ、で、でかちんぽ、奥までぇ……っ」
 「ダメじゃないだろ?」
 エッチしてるときはずいぶんイヤイヤダメダメ言うんだな。一度そうからかわれたことがある。これも当然ベッドの中でだ。夏油傑はふだん、涼しい顔をして、めったに自分からシモネタになんてノってこないくせに、ことセックスになると、怒涛のごとく五条を下品な言葉で攻め立てた。羞恥を煽り、剥きだしの下品な言葉で夏油自身をもスケベたらしめた。そのせいで、ねっとりした汗でてかてか光った夏油の皮膚や、ハア、ハア、と小刻みに吐き出される吐息、ニイッと笑っている嫌な男の顔を仰ぎ見ているだけで、タマ裏までキュンときて、
 「あ、ああっ、あ、やば、やばいってェ、だめ、だめ、えっ! おぐッ、S字ぃッ、くぽくぽ、やめでえっ……♡ まじ、まじ、いっぐ……♡」
 涙目になり、寝バックで腰を反り、深いところへ容赦なくプレスする夏油のせいで、五条はシーツを握りしめて喚いた。
 「っは、……はは、……! すごい締め付け……、いちばん奥まで入って……、中にたっぷり出してもいいだろう? 悟……」
 「う、あ、ああっ、んあっ、い、いいから、ッ、だして、だしてえっ……! 極薄、コンドームごしにッ、……あったかいやつゥ……ッ♡」
 「ほら、ッ子宮口♡」
 「――――ッあああああっ!? お、あああっ、ア、アアッ!」
 ぐぽんっ! と音がして、結腸に沿って曲がった夏油のバキバキ勃起チンポの先が、五条の狭い子宮口を押し広げるように、S状部から中へ入る。結腸の入り口を一気にグポンとやられるあの瞬間、体がびりびり痺れて、どぱあっ、と体の中にたまったあらゆる体液がにじみ出てくるように濡れる。プシャッ! とささやかな音とともに、五条の身体が痙攣し、排尿感に近いものが襲った。
 「アナル子宮イキキメてるとこ悪いけれど、私もいくよ」
 潮を噴いたばかりのぐったり弛緩した体へ鞭打つコイツは鬼悪魔だ、と五条はつねづね思っている。けれど、嫌いじゃない。腰を乱暴につかみ、イったばかりのゆるゆるケツマンコへガツガツ叩きつけて、出入りする青筋の浮いた立派なモノが自分の中ではじけて、コンドームごしに、どぱどぱ吐き出される、溜め込んだ若い男の精液が、体を満たしていくのを感じていたかった。
 「ああっ、あ、ああっ、い、いった、ばっか、なのにィ……ッ! お、追いピス、すんな、ッまじで、しぬ゛ッ……! う、アアッ、ア、あんっ、傑、傑、すぐるゥ……っ」
 ふう、ふう、と耳元で好きな男が呻いている。上に覆いかぶさり、後ろから腕を回して五条の顎を夏油の指が優しく持ち上げた。耳を甘く噛み、苦しい息で、夏油は必ず毎回、欠かさずにつぶやいてくれる。
 「ああ、イきそう、……悟……」
 あの、苦しい声で、「いきそう」と囁く夏油の「イキ声」を聞けるなら、どれだけいじめられたっていい。眉間にしわが寄って、絶頂感にうっとりしている夏油の顔が見られればもっとよかった。
 たっぷり濃厚精子をぶちまけたあと、たん、たん、と二度突く。あの「追いピストン」! これも大好きな夏油のテクだ。あん、あん、とちょうど二回、五条の喉からも甘い声がデカめに漏れてしまう。

 すう、すう、とイッてぐったりした体で夏油は五条を抱きしめ、射精のあと「2」まで減ったIQを回復させていく。男は射精するとアホになるというが、本当にそのとおりだ。一度ザーメンぶちまけると、頭がからっぽになり、「腹減った」か「ねみー」しか考えられなくなる。
 だから、アホになっている状態から数秒で元の状態に回復し、多少かったるそうに立ち上がって、のそりと起き上がる夏油を男として尊敬する。
 夏油は必ずセックスしたあと、まだ五条の息遣いが戻らぬうちに復帰し、リバーサルで冷蔵庫に向かい、でっかいペットボトルから二人分の水を注いで、コップを持って戻ってくるのだ。
 「飲みな、悟」
 この所作を、五条は心底尊敬している。こんなことは、並みの男には真似できない芸当だった。
 「……おきらんね……。誰かさんが容赦なくガン掘りするから……」
 「煽ったのはどっちだ? 仕方ないな、ほら、起こしてあげるよ」
 セックスの直後にくちびるを冷やす、キンと冷たいミネラルウォーターの味が、この世で一番好きかもしれない。五条はこくこくグラスを傾けながら、毎夜毎夜、そう思うのだ。

   (4)私がパジャマのボタンをかけられなくなっても

 「夏油先生って闇落ちしかけたってマジ?」
 突然投げかけられて、夏油はキョトンと目を開いたのち、「悟か」と思い当った。教師が生徒の前で「悟」「傑」なんて呼び合っていたら威厳もあったものではないという取り決めで、彼らは生徒の前では「五条先生」「夏油先生」と呼び合っている。いちおう。
 好奇心いっぱいの裏表のない目で、虎杖悠二が尋ねたのだ。いま、虎杖は「いったん死んだ」ことになっている。京都との交流会の前に、上層部へ一泡吹かせようと、五条悟は根回しのために今少しの間離席していた。
 「闇落ちっていうほどのことではないかな」
 ごまかし笑いを浮かべて、はぐらかす。「いうほどのことではない」というには語弊がある。正しくは、「闇落ちなんて簡単な言葉では説明ができない」出来事だった。それを、五条悟は軽々しく「闇落ち」と笑い飛ばして、もうすっかり過去の話として済ませてしまっていた。

 「五条悟は、夏油傑がいれば〈最強〉なんだよ」

 高専に引き戻され、念入りに〈浄化〉を受けた夏油の生傷をいやしながら、家入は「いい気味だ」という声音でそう言った。自業自得とはいえ、死にかけた男にその言い方はひどくないか、と突っかかりたかったが、夏油は、くちびるはおろか、全身が動かないほど疲弊していた。
 「夏油。順調に軌道に乗って、上の評価も高かった。模範的術師だった。特級になるのは五条より早いかも、と噂されてたのに、ずいぶん遅れをとることになる。すぐには術師になれないよ。何年ダブることやら」
 いいさ。別に。夏油はキーンと高い耳鳴りを感じて、じっと天井を見つめている。体の何がどうなっているのか分からない。ダブるどころか、術師の道を完全に逸れることを決意したのだ。戻れる道があったなんて、唖然とするばかりだ。

 天元様の件のあと、夏油傑の肉体・精神に起こっている変化は、うまく隠しているつもりで、隠しようのないものになっていた。夏油の頬は不健康にこけた。いつも丁寧に結んでいた髪を、ざんばらのまま授業に顔を出すようになった。
 友人の身体に起こっている変化に、五条が気が付かぬはずがなかった。夏油が長期にわたり派遣される任務へ、一緒に同行すると聞かなかった五条の意見がつっぱねられ、彼らは別々の場所に向かわされる予定だった。
 だが、集合場所に五条は現れなかった。
 仕事を飛ばしたのだ。
 五条がどこに行っているかなど一目瞭然だった。一足早く出立した夏油を追って、五条はある土地の小さな寒村へ足を踏み入れた。仕事を飛ばした代償が大きくても、五条はあのときの自分の「わがまま」を一生誇らしく思うことになるだろう。もっと大きなものを失う結果になっていたかもしれないのだから。

 地下牢に監禁された少女二人を目撃して、夏油傑はそれまで自分が「弱者」として守るべきと考えていた一般人(サル)どもに、いっぺんに「目が覚めて」しまったようだった。夏油を培っていた価値観の根底が砂と化して崩れ落ち、彼は内部崩壊を始めた。支柱を抜かれたバベルの塔は、轟音を立てて落下する。
 友と本気の殺し合いなんて、金輪際ごめんだ。
 五条は二度とあのようなことが起きぬよう願っているし、そうならないよう努力を重ねるつもりでもある。夏油は自分の隣に寄り添う大木のような存在だと思っていた。いつでも変わらずそこに生えていて、季節ごとに異なる実りを与えてくれるとばかり思っていた。その木が突如燃え始め、焼け落ちたあとには何も残らないことを、五条は身を持って分からせられたのだ。
 両者深刻なダメージを負いながら、それでもかろうじて一般人への被害は食い止めることができた。仕事を飛ばした五条を確保するため派遣された応援部隊が役に立ち、五条、夏油の身柄は拘束された。五条は仕事を飛ばした罰だけで済んだが、夏油は違った。

 夏油傑を危険思想保有者とみなし、一か月間の〈浄化〉を行う。

 上層部はそう決定した。〈浄化〉と聞いて五条は烈火のごとく怒り、暴れたが、〈浄化〉は決行された。家入や冥冥、歌姫など、彼らふたりのクラスメイトは〈浄化〉というのがどういうものなのか、その実態を知らなかったが、五条の取り乱しようを見れば、夏油に深刻なダメージを与えかねないものだとは理解が及ぶ。
 「傑はそれだけのことをした。〈浄化〉が完了し、ヤツが〈健全〉であれば、術師として復帰できるんだ。これ以上の好条件はない。上は『疑わしきは罰する』を望んだからな。一番望まれえたのは当然処刑だった」
 暴れ、叫び、手の付けられない五条を数十人がかりで取り押さえ、夜蛾は五条の怒りに染まる六眼を覗き込んで諭した。
 夜蛾にとっても、一人の教え子だ。それでも感情をむき出しにしない彼の強さを、五条はこのとき完全には理解できていなかった。大人になってからしか分からないことなど、この世にはごまんとある。
 「〈浄化〉つって、要は洗脳だろーが! ロボトミーみたいなモンだ、傑が何を〈欠けさせて〉戻ってくるか、わかんねーのに……ッ!」
 前頭葉を切除し、感情を排除する「ロボトミー手術」。〈浄化〉はあれに似ている。危険とされる思想の排除と矯正だ。術式による「試練」に近いものだが、過去〈浄化〉を受けた術師は、酷ければ廃人になるか、よくても人として持っていて当然の何かを欠落させて戻ってくることになった。
 あるいは記憶。
 あるいは感情。
 あるいは、体の一部や五感の一部。
 五条は徹底的に反抗したが、夏油傑の〈浄化〉は予定通り行われた。〈浄化〉のあと、夏油が記憶なり、感情なり、視力、聴力、その他いかなる何かを欠落して帰って来たとしても、生きている限りは術師として受け入れなおす。夜蛾は全生徒へそう言った。そんな状況だったから、ズタボロになっていたとはいえ、夏油が五体満足(のように見える)で帰って来たことに、家入だって安堵していた。
 「五条が大急ぎで帰ってきてる。お前の〈浄化〉が終わったからって」
 「悟が………」
 夏油のくちびるが動いた。
 たまげた愛情だ、と家入は肩をすくめた。
 「覚えてるんだな」
 記憶は失っていないらしい。よかった。感情もあるみたいだ。悟、と言ったときの目は優しくほころんでいる。目も見えている。耳も聞こえている。体のいたるところに傷があり、肋骨は複数個所折れ、腕の方は筋が切られてぶらんぶらんになっているが、治せる傷だ。頭をやられたのだろう、脳震盪の跡があるが、後遺症もない。容赦ない、致命傷を狙う一打が彼の身体のはしばしを覆っていて、〈浄化〉のために特別に設けられた、夏油傑への過酷な仕置き部屋で、一体何が行われたのか、家入は詳細を尋ねるのをやめた。
 むく、と夏油が弱弱しく体を起こす。
 「寝てろ、夏油。動けるような状態じゃない」
 「……いや………」
 悟の声がした。
 夏油はそう言って、診察台の下に転がった、自分のローファーへ足先をつっこんだ。

 夏油の言う通り、五条悟のやかましい足音が廊下から近づいてくる。履き古したVANSのスニーカー。あの足音だ。夏油はほどけたローファーの靴紐へ手をやろうとして、頭の中が真っ白になり、ふとためらった。
 「すぐるッ!!」
 悲鳴に近い声で、怒号交じりの男が飛び込んできた。まぶしい銀色の髪。夏油は目を上げる。げっそり痩せて、その上傷だらけで、目の上は青黒くなっている夏油のひどい顔を見ても、五条は笑ったりしなかった。その代わり、みるみるうちに目に薄い膜が張り、涙をごまかすために怒鳴った。
 「てめぇ、……ッ一発、殴って……!」
 やめろ、と夏油の前に立ちはだかりかけた家入は、夏油が靴紐へ伸ばしたまま、虚空へじっととどめている指先を見て、ふとある考えに至った。ほどけたままの靴紐を、夏油は困ったように見ている。「今私は何をしようとしていたのだっけ?」というふうに、眉をひそめて。

 それが夏油傑の欠落だった。

 「……悟。……私、靴紐、結び方を忘れてしまったみたいだ」
 弱弱しい声でそう言った夏油を、殴りかかろうとした手をそのままにして、五条は一瞬躊躇し、そして伸ばした。ぎゅっと彼の身体を抱きしめた。最後に抱いてくれたときの、あのがっしりした逞しさはどこへ行ったのだろうと思うくらい、ギョッとするほど痩せていた。

 「バカヤロ、……そんなの、……いくらでも俺が結んでやるよ……」

   * * *

 「すまない、悟。ボタン、かけて」
 「仕方ないなあ」
 一日の終わり。五条悟は弾んだ声で、夏油のパジャマのボタンをひとつひとつかけてやる。夏油は毎回、一人で着られないのを分かっていて、ボタンがたくさんついたシャツ型のパジャマを好んだ。五条がボタンを留めてくれるから、夏油は甘えているのだろう。
 眠る前の儀式。シャツのボタンのかけ方を忘れてしまった男への愛の儀式。
 「明日何時起き?」
 「私は六時」
 「えーっ、じゃあ一緒に出らんないじゃん。僕七時」
 「悟も六時に起きれば?」
 「は? ヤだね。一時間でも多く寝てーわ」
 「……悟」
 せっかく、夏油の忠告通り、教師になるまでにがんばって矯正したのに、口調が乱暴に戻っている。咎める夏油の視線を見返して、五条は布団に潜り込んだ。
 「ヤっちゃう? 傑」
 「一時間でも多く寝たいんじゃなかったか?」
 「ンー、一時間多く寝るより、一発多くハメたいかな」

 玄関に置いた靴は無地のスリッポン。紐のある、つま先がとがったスマートなローファーを好む夏油だが、五条がいるときにしかそれを履くことができなくなった。いつもは紐のない靴を選ぶ。一人で履けるように。
 夏油はパジャマのボタンを一人で留められなくなった。
 夏油は傘の差し方を忘れてしまった。
 夏油は髪の結び方を思い出せなくなった。
 かつて夏油の生死を分けた任務において、寒村で保護した女子二人は、結い方を忘れてしまった夏油のかわりに、彼の髪をくくってあげる。いろいろな色の紐で。それに拗ねて、へそを曲げて、見つけ次第五条は彼らの間に割り込んだ。
 「ジャリども、あっち行け! 僕がやってやるってば!」
 「ワ! 五条、こっち来るな!」
 「あんたこそあっち行って! 夏油様、追い払って!」
 「あははは」
 夏油先生と言いなさいね、といくら言っても彼女らは、学校でさえ「夏油様」と呼ぶ。パパって呼ばれるよりマシだな、と五条は目をつむっている。彼女らが夏油を「パパ」と呼び出したら、こっちは夏油のことを「ダーリン」と呼んでやれと決めている。

 夏油は突然「真っ白」になる。閉じた改札口の前で、途方にくれたように、「ここを通るときは何をするんだっけ?」という顔で五条を振り返る。
 五条はかつて夏油が自分にそうしていたように、
 「仕方ないなあ」
 と笑いながら、夏油の大きなカバンから、彼の切符を取り出してあげる。夏油は今のところ、カバンの持ち方はしっかり覚えていて、五条がビニール傘を置き忘れそうになると、目ざとく回収して電車を降りて来てくれる。
 「ほーら、ここ入って」
 小雨がコンクリートを叩く駅前を、小さなビニール傘にいい大人がぎゅうぎゅうになって歩いている。傘は本来二人用なのだと、「傘の差し方」を落としてきてしまった夏油に、五条は嘘をつき続けている。一人でさしている人が多いようだけど、と疑わしそうな顔を向けられたので、「現代人は古き良き心を忘れてゼータクしてんの」とごまかしておいた。今のところ、バレていない。
 水たまりを蹴り蹴り、二十七歳を過ぎたふたりは、濡れた東京を歩いていく。

 ふたりでいれば、彼らに欠けたところなんて一つもなかった。

   〈了〉

  友人の果たすべき役割は、間違っているときにも味方すること。
  正しいときにはだれだって味方になってくれる。  ――マーク・トウェイン