あの女

   (一)恋を知っているか

 いいお天気ですね。その程度の気楽な会話が何度かあって、すっかり顔なじみになった。デルカダールの平和な朝の陽ざしを浴びて、その若い娘の長い髪が、めいっぱいにきらきらと輝いている。飯炊きおんなの質素な恰好でも、彼女の髪はとてもきれいだった。ほほ笑むと柔らかく、どんな話題でも楽しそうにくちびるを緩ませる。いい天気ですね。今朝の食事はうまかった。明日は寒くなるそうです。ほら、あそこに渡り鳥が飛んでいる……。色っぽい話題はひとつもないのに、彼女が弾むように笑うから、なんとなくこっちも心地よくなった。
 デルカダール王国直属の騎士、英雄グレイグは、近ごろ若い娘と親しくなった。城の下女で、出自もよくわからぬ一人の飯炊き女だ。器量は悪くないし、明るいが控えめで、しとやかだ。だが手は下女らしく水仕事で荒れていて、貴族の美しい娘とくらべれば、日に焼けた肌のそばかすが目立つ、素朴な女だった。英雄グレイグが目をつけたにしては、あまりにも地味すぎる。城のメイドたちの、喫緊の話題のタネはそればかりだった。

 たまたま、その若い娘はグレイグの部屋の清掃係をしばらくの間言い遣っていた。窓を拭き、ベッドを整え、汚れ物をまとめて洗濯に出す。床にモップをかけ、ほこりを取り、私室で晩酌をした夜があれば、昨夜の名残を片付ける。そんなことくらい自分でやる、とグレイグは下女が来るたび恐縮したが、お前はもう一兵士ではないのだぞ、とグレイグの腹心の友はそう笑った。
 英雄グレイグと並びたち、この国の知略の軍師と呼ばれる美貌の騎士、ホメロスは、下女の扱いも慣れている。雑用を言いつけるにも堂々として、といって冷たいわけでもない。ねぎらいの言葉を当たり前にかけてやる。そのくせ、下女に甘い顔もしない。図体が大きいくせに小物だぞ、とホメロスが揶揄するのも仕方がない、とグレイグは小柄ななりで脚立に乗り、せっせと窓ふきをする、自分よりふたまわりも若そうな娘を何度も気にした。
 いいお天気ですね。
 彼女は部屋にやってくるたびに、そうした世間話をした。まだこの城に来て日が浅いはずだ。グレイグは失礼ながら、彼女の顔に覚えがなかった。そもそも、城に山ほどいるメイドは入れ替わりも激しく、嫁入り前の娘は特に、城仕えを嫁入り修行として、数年でみなもらわれていってしまう。彼女もおそらくそうなるだろう、と思いながら、グレイグははじめこそメイドの顔を覚えられる気がしていなかった。
 掃除係は週替わりだ。それに、国の英雄の私室に入るとなって、たいていここへ割り当てられた新人の下女は、委縮しながら、無口に仕事を終わらせることが多い。グレイグもおしゃべりな方ではないし、女に対して丁寧ではあっても、愛想がいい方ではない。顔見知りのメイドなら仕事を頼みやすいのに、と、もう何十年も城仕えをしている「炊事場の母」と呼ばれる熟年のメイド長の顔を思い浮かべながら、グレイグの方こそ、若い娘が部屋に入ってくると身を固くした。
 メイドの方も仕事がしにくいだろう、と、基本的に掃除の時間は部屋を開けるようにしていたグレイグだったが、今週はあいにくホメロスが城を開けている。彼が引き受けていた仕事の一部を肩代わりすることになって(本当は全部引き受けるつもりだったが、ホメロス直々に、「甘く見るなよ英雄殿。終わるはずがない。せめて半分だ」と減らされた)暇さえあれば机に向かう必要があった。
 そうしたいくつかの要因が重なって、グレイグは毎朝一人の下女と口を利くようになっていた。グレイグの頭の固い返答でも、いかに面白くない話題でも、下女は楽しそうに笑っている。ほころぶような笑みをまぶしいと思ったのだ。こんなことは久しぶりだった。七日間が過ぎ、掃除の係が変わって、ホメロスが無事帰還したあとも、グレイグはその若い下女と、顔を合わせれば立ち話をするようになっていた。

「英雄殿に春、か」
 ホメロスの私室で晩酌をしていた夜のことだ。ホメロスが唐突に、すべて分かったような口ぶりでそう言った。グレイグは思わずのけぞって、飲んでいた酒を器官につまらせてむせ込んだ。
「落ち着け」
「……ッ! い、いきなり、お前が妙なことを言うからだ……!」
「本当のことだろう? メイドの間で噂になってるぞ。こんなにメイドたちの井戸端会議が盛り上がってるのは、お前の見合い話が持ち上がったとき以来だ」
「な、なぜそんな話をお前が知ってるんだ、ホメロス」
「俺はお前と違ってメイドたちと仲がいい」
 フン、と鼻で笑われて、グレイグは押し黙る。確かにホメロスは、城のものと案外仲がいい。グレイグだって仲が悪いわけではないが、メイドの噂話を耳にできるほど近くはない。ホメロスは確かに、立ち話のメイドを「やかましい」と叱りそうな男だというのに、案外その立ち話に混ざっていたりする。
「女の耳の速さ、噂の広まる速度はバカにできない。これも情報収集のうちだ」
 まあ九割がたゴシップだがな、とホメロスは優雅にオットマンへ足を伸ばして、酒の回った体をぐんなりとカウチへ預けている。グレイグの方も似たような体勢だ。お互いの私室で、誰の目もない場所でなければ、デルカダールの英雄ふたりは気やすい会話も、だらしない姿勢もできはしない。
「英雄グレイグのおめがねにかなった飯炊き女、か……。ゴシップが白熱するわけだ。あの娘がいくつか教えてやろうか」
「いい、聞きたくない」
「十八だ」
「ホメロス!」
 聞きたくないと言ったのに、とグレイグは噛みつき、やけくそになってグラスの中身をあおった。香り立つブドウの上品な甘さが、鼻腔を抜けていく。ピノ・ノワールの上品な赤。ホメロスの好きなワインはいつもピノ・ノワールだ。ラズベリーに似た甘酸っぱい香りの、気品のある味。ブドウ畑の女王と呼ばれるピノ・ノワールのこの蠱惑的な甘さが、グレイグにはやや誘惑的すぎる。グレイグは不毛の農地で逞しく育つ、メルローの素朴な赤が好きだった。農夫たちが足で踏み、発酵させる純朴な味。あれを、ホメロスは「安物っぽい」とこき下ろす。そのくせ、グレイグの部屋に来るといつもメルローの赤を飲んでいた。
 脱ぎ捨てたブーツがカウチの下にふたり分転がっている。明日は互いに非番で、深酒しても許される。グレイグは、ホメロスと過ごすたまの晩酌の時間が好きだった。二人とも、若くはつらつと夢見ていた二十代のころに戻ったようで、ざっくばらんにこうして話せる時間が変えがたく大切だった。だが、自分は英雄と呼ばれるようになり、ホメロスは国に欠かせぬ軍師である。二人とも仕事は山積みで、このように毎日のんべんだらりとしているわけにもいかない。昔に比べればずいぶん減ってしまったホメロスとの気楽なやりとりを、惜しいと思いながらもグレイグはそんなふうに自分のわがままを口にできないで、もう十数年が経過した。
「いいじゃないか、あの女。出身が卑しいことがやり玉にあがるだろうが、お前ももとは田舎の生まれ。金持ち貴族の生まれの女より話が合うだろうし、案外体つきもいい」
「…………ホメロス………」
「睨むな。俺は別にからかってるわけじゃない。まじめに、推薦してやってるんだ」
 嘘をつけ。目がからかっている。グレイグはムッとくちびるを引き結んだまま、しかしことこの手の話はホメロスの方が何枚も上手だと分かっていて、反論せずに黙り込む。
 互いにもう三十を越える年になった。ちょうど、地位も名誉も金もあり、結婚には申し分ない。デルカダール王国の双頭の鷲がどちらもまだ独身であるせいで、いまだに社交界は落ち着かず、デルカダール城付きメイドの仕事は人気を極め、貴族たちは娘の嫁ぎ先にどちらかを虎視眈々と狙っている。身を固めれば、多少はこの騒ぎも収まるだろう。
「悪くないんだろう、実際のところ」
 グレイグはかたくなに黙秘を貫いた。
「……ホメロス、お前はどうなんだ。お前は俺と違って経験豊富だ。決まった相手がいてもおかしくないだろう」
「お前も右手の経験は豊富だろう」
「はぐらかすな!」
 生真面目でカタブツなこの男が、ドのつくむっつりスケベ野郎だと分かったら、世の女たちはどう思うだろう、とホメロスは友の秘密を握って上機嫌に酔っている。グレイグも、煽りに煽ってもう額まで赤かった。
「俺がやってるのは恋じゃない、グレイグ。遊びか、そうでなければ策略だ。一度でいいから心の伴った恋愛とやらをしてみたいものだな」
 さげすんだ言い方で、とうてい「心の伴った恋愛をしてみたい」などと思っていなさそうだったが、その返答を聞いて、グレイグはどこか安堵を感じた。何度も反芻し、自問自答した命題だった。
 俺は友の恋を喜べるだろうか。
 俺は本当に、「あの女」と恋をしたいのだろうか。
 グレイグはまっすぐに自分が男だと思っている。あられもない恰好をしたムチムチのセクシー美女に正直に興奮するし、ムフフ本も大好きだ。ストレートに大好きだった。巨乳も好きだ。バニーガールならなおいい。丸出しのスケベがクる。それは自分でよくわかっている男として自然な欲求だと自覚しながら、ならば、いざ女を前にしたとき……、その女が「手に入る」状況に陥ったとき、グレイグは足が止まる。
 ホメロスはそれを「童貞根性」だとからかうが、グレイグは何かが違うと感じていた。今すぐ肩を抱き、茂みに連れ込めば確実に手に入るだろう女を前にしても、その肩に腕を回すとき、女の顔より、ちらりと友の顔が頭をよぎる。理由はわからない。ただ、よぎるのだ。ホメロスは俺がこの女を手に入れることを、どう思うだろう、と。
 どうも思わないに決まっている! それもよくわかっていた。ホメロスは現に、グレイグの恋をからかい交じりに応援してくれている。自分の思い過ごしであり、友に妙な気持ちを抱くのは友情への裏切りだと分かりながらも、徐々に階級が上がり、彼らの軍内での立場が圧倒的なものになるにつれ、……それに反比例して、二人の距離がじわりじわりと離れていくにつれ、グレイグはホメロスのことを強く想った。
 ホメロスが心から愛した女が現れたとき、友を祝福できるだろうか。
 祝福すべきだ。
 わかっているのだ。
 その煩悶は、今まさに目の前にホメロスがおり、二人で酒を飲んでいるこの瞬間にも渦巻いている。ホメロスの素足がオットマンをすべり、まるい爪先が無防備に色づいているのを、グレイグはじっと見つめている。
 もう何年も、何年も、何年も前から、グレイグは、ホメロスのそうした細部を見つめて、友の美しさをかみしめ続けてきた。強さ、気高さ、凛々しさを含めて、ホメロスという存在を美しいと思う。長い髪を床へ垂らし、オットマンへ足を投げ出して、カウチにぐんにゃり寝そべっている姿勢でさえ、グレイグは友のことを美しいと思っていた。
 
 結婚。生々しい、生活臭のある概念が、自分たちの前へ躍り出るまでは、こんなことに気を揉んだりしなかった。鍛錬に明け暮れ、刃を研ぎ澄ますことが仕事だった若いころは、魔物を屠り、誇らしげに馬上で背筋を正すホメロスのことを、まっすぐ、なんの疑いもなく「美しい」と思えていたのに。
 顔を合わせるたびに笑顔をほころばせる、十八歳の娘と向き合い、今朝のゼリーはややすっぱかった、なんていう会話をしているさなか、ハッとする。娘の白い肌。ひとつにまとめた長い髪。彼女は顔じゅうで笑う子で、グレイグより頭ふたつ分くらい小さい。愛らしい子だ、と思った直後、笑いが乾く。
 だから何だと言うのだ? 愛らしく、笑顔がかわいい。事実だ。だがそれ以上でもそれ以下でもない。服の中を覗いて、ベッドにこの小さな体を引き倒して、柔らかい肌を堪能したい? 男として当然の感情だ。だが、その先に何があるのだろう。子を授け、ふたりで暮らす。城の外に家を持ち、妻の手料理を楽しんで、野営の夜は、妻のことを想いながら無事に帰還しようと胸に熱く誓うのか?
 誓えるのか?
 それを考えるたび、グレイグはすべてが遠ざかるように感じる。そして行き止まりに、ホメロスが立っている。ホメロス。我が友。我が光。ホメロスはグレイグの手を取って、「俺と一緒にいればいい。永遠に」と囁く。その妄想は、いつでもグレイグを奮い立たせた。ふたりで暮らしていた相手の顔が、若い女からホメロスの顔に代わり、小ぢんまりした我が家での暮らしが、唐突に光に満ち溢れる。相手がホメロスであれば、ともに過ごすこれからの生活すべて、高揚を感じることができた。
「グレイグ」
 ホメロスに、目の前でパンとてのひらを打たれ、ハッと目を上げた。
「そろそろ眠いころだろう。たらふく飲んだことだ、部屋に戻れ」
「ここで寝かせてくれ、一人用には広いベッドだ」
「バカ言え、貴様と二人で寝るなど、ぞっとしない」
 昔はよく一緒に寝たじゃないか。言い返したかったが、やめた。こだわっている、と思われることが怖かった。雑魚寝していけば、というつもりで、男同士、軽口の延長だと言える領域で話題を終えるべきだった。カウチで寝るから、とも食い下がりにくかった。
「わかった、……戻る」
「廊下でくたばるなよ」
「分かっている」
 のそり、と体を持ち上げて、脱ぎ捨てていたブーツをはいた。ホメロスはもう寝る支度をしかかって、シャツを脱ぎ、髪をほどいた。シャツをバスケットに投げ入れて、彼のまっさらな、むき出しの背中に美しい金髪がゆれ、落ちた。グレイグはその作り物めいた美しい背中に、しばらくじっと目をやっていた。
 シルクのローブを羽織りながら、ホメロスは怪訝そうに眉を顰める。
「何をぼうっとしてる。まさか立ったまま寝てるんじゃないだろうな」
 ごうけつぐまみたいにそこでのそっと立ってるんじゃない、帰れ、とホメロスに背を押され、グレイグは部屋を出た。まっすぐ向かいの部屋に戻っただけのはずだが、どうベッドに入り、どうやって寝間着に着替えたかも忘れた。

   (二)悪い男

 頭のてっぺんまで酔いが回ったらしいグレイグが、よたつきながら部屋を出たあと、ホメロスはバンと扉を閉めて、息を整えた。転がったワインボトルは二本。一人で一本飲み干したことになる。よくもまあこれだけ、毎度飲めるものだ。俺もあの男も……。近頃めっきり数を減らしているグレイグとの晩酌の時間を、いっそなくさなければならぬと思っているのに、ホメロスはこの時間がたまらなく好きだった。まるで昔の自分たちに戻っているように、ざっくばらんに、気さくなグレイグが好きだった。
 この時だけは、グレイグを真正面に感じていられる。ずいぶん前に追い越されたと、じめじめひねくれて、彼を憎む気持ちを煮えたぎらせなくてよい。だからこの時間が好きだった。だが、グレイグへの気持ちがふつふつと毒沼のごとく妖しい煙を吹き始めた今、もうこの晩酌は己にとっても毒にしかならない。
 こめかみを抑え、ずる……、と床へ崩れ落ち、ホメロスはしばらくそうしていた。ここ数年、王の様子も変だった。ユグノア王国が滅びた後、王はやや冷淡になった。あれだけ立て続けに王国が滅びた重圧からだろうと思っていたが、どうも様子がおかしい。かつてはホメロス、グレイグ両名を等しく称え、二人で一つなのだとかえって二人に言い聞かせる立場だった王が、目に見えてグレイグを寵愛している。その上、グレイグの実力はそれに見合うものだ。これが実力に不釣り合いな虚構の寵愛ならば、枕営業でもしてるのかと鼻で笑えても、グレイグの実力は本物だった。自分がいかに努力を重ね、研鑽を重ねても、戦場では常にグレイグが先頭にいる。誰もはっきりとは言わないが、自分が一番身にしみてよくわかっている。
 あの男が光なら、俺は影だ。

 女たちはホメロスを「美しい」と言ってもてはやす。女たちからの賞賛は確かに、目に見えてホメロスの方が多い。だが、下心は持たれても、グレイグのように畏敬の念を広く持たれているだろうか? 女たちの情愛は薄情だ。手が届きそうだから、手に入れられそうだから、みな俺を追うのだ。あわよくば、と……。
 ホメロスは怒りからくる震えで、しばしその場に座り込み、ややあって、机に残っていたグラスの中身を飲み干した。こんなに憎らしいのに、あの男と笑い合っている時間はなぜこんなにも心満たされるのだろう? ホメロスのからかいにいちいちムキになって、言い合う空気が楽しいのだ。ホメロスは無邪気に笑いあう自分たちの幻影を振り払って、目を怒りに吊り上げた。
 …………あの女!
 喫緊の課題はあの女だ。あの若い、十八の飯炊き女。目立たぬ存在だったが、確かに、メイドから話を聞かずとも、グレイグと近ごろ親しいことは知っていた。あの女が裏でなんと言われているか。メギツネ、地味女、若いだけが取り柄の、あけすけな、将軍の妻の座を狙う、とんだ尻軽だと。噂の真相は知らぬ。滅多に下女と親しくなどならないグレイグの守りの固さと、地味な下女が彼の妻の座を射止めそうな気配への反発が生んだ根も葉もない女の悪口だろう。グレイグは当然さっぱり知らないし、年上のメイドたちからあの若い下女が冷たいそぶりを取られて、ひっそりと泣いていることも知らない。それでもあのメイドはグレイグと親しくしようと試みる。百パーセント気があると思っていいだろう。どうせ、グレイグに見初められさえすれば、下女の役目なんぞとは永久にお別れできるのだから、多少の嫌がらせなど安いものなのだろう。……それを逆手に取るのだ。
 ホメロスは机の奥深くにしまっておいた、今月の当番表を見た。メイド長から受け取った、各役割ごとの当番表だ。普段ほとんど見ないが、急場のさいに把握していた方がよかろうと、毎月受け取っている。それがこんなときに役に立つとは。ホメロスは表にざっと目を通し、ニッとほほ笑んだ。細めた目の奥が、キュッと引きしまり、獲物を見定めるコンドルのように尖った。
 ホメロスは手早くズボンと下着を脱ぎ捨て、洗濯用のバスケットに突っ込んで、ついでにシルクのローブも脱ぎ捨てた。素っ裸の体に、上質なシーツがつるつると心地よく滑る。ゆうに二人は寝られるこのベッドもいいが、やはり、下級兵士時代の、板張りの固いベッドが好きだった。隣にグレイグが眠っていたから、なおさらだ。

 次にホメロスが目を開けたのは、すっかり太陽が昇ってからだった。むくりと起き上がると、彼のギリシア彫刻もかくやという肉体に、するするとシーツが滑り落ちていく。髪をかきあげ、眠たげに目をしばたかせながら、ホメロスはカーテンを引いたままの窓から漏れる日の光と、机の上に散乱したままのワイングラスを素早く見た。
 時刻はばっちりだ。まもなく、メイドがホメロスの私室を掃除しに入ってくる時間だった。
 水差しの中の水を一杯のみ、あとは残らず植木に注いだ。メイドに言いつける用事をできるだけ多く作っておきたい。話す機会が増えるだろう。ホメロスは準備を整えると、再びベッドへもぐった。
 コツ、コツ、と、控えめにノックの音がした。
「ホメロスさま、おはようございます」
 若いメイドの声だ。例の、グレイグに気を持っているらしい下女が、今日から七日間、ホメロスの部屋の清掃係だった。ホメロスはほころびかけたくちびるを引き結び、「深酒していてうっかり寝坊し、いま起きたところ」という顔を作って、「ああ、入れ」と返事をした。
 起き上がり、半裸の体にペンダントだけを身に着けたホメロスを視界にいれて、若い娘はかわいそうなほど赤くなり、飛び上がった。「すみません!」と謝って、慌てて部屋を出ようとする娘に、ホメロスは柔らかい笑みを向ける。優しいほほえみだ。女をオトすときにしか使わぬ彼の秘技だった。
「いや、私の方こそすまなかった。寝坊してな。遠慮なく清掃してくれ。……だが、すまない、着替えをしたい。先に窓の方をやってくれるかな」
「え、あ、あ……、はい……」
 ぼうっと赤面して、娘はモップを握りしめたまま、それでも照れくさそうに半裸のホメロスをちらちらと見た。男の身体に興味なし、ということではなさそうだ。むしろ、興味津々か。楽に〈仕事〉を成せそうだ、とホメロスは彼女が後ろを向いてる間、深く笑みを刻んでいる。
 カーテンを開け、娘が窓ふきを始めると、ホメロスは裸を恥じることもなく、優雅に着替え始めた。窓ふきを命じたのも意図的だ。照り変える窓に、ホメロスの裸体はきちんと写り込んでいることだろう。メイドはきっとそれを見ている。興味津々で。
 髪を束ね、服を召しかえてから、ホメロスはメイドに昨夜の惨状を笑いながら話した。バスケットに散らばった衣服、転がったワインボトル、汚れた机、つまみの残った皿……。仕事を増やしてすまないな、と、普段冷徹そうな分、ホメロスの優しい声掛けは、下女をみるみるうちに饒舌にさせ、下女は嬉しそうにはにかみ笑いを浮かべ、この状況を楽しんでいる。
(ほうら、見ろ、グレイグ。この女はメギツネだ)
 フン、と鼻を鳴らし、内心で彼女をさげすみながら、ホメロスは普段王前で見せる彼の姿とは想像もつかぬほど、気さくで、優しかった。メイドたちが、「ホメロスさまとこんな話をしたのよ」「ホメロスさまが私にこんな話をしてくださって」と口々に自慢し合い、いかに自分がホメロスさまと親しいか、陰で張り合っている理由がなぜなのか、若い下女はわかった気になった。
「仕事を増やしてすまないな。昨日グレイグとここで飲んでいて……、ああ、ボトルはいい、私がやろう」
 いいえ、とんでもない! メイドの仕事です。下女はにこにこと愛想がよかった。ホメロスの内実を知らず、声を弾ませ、目が合うたびに目を潤ませた。ホメロスはうすぎたないドブネズミめ、と思いながら、優しい笑みを一切崩さなかった。
「あいつと飲むといつも悪酔いする。片付けもせずに、寝間着を着るのも忘れて、すっかり寝坊してしまった。だらしないところを見せてしまって、恥ずかしいな」
「ホメロスさまでも寝坊するって知って、かえって親近感が湧きましたよ」
「それならよかった」
 うふふ、と嬉しそうな娘に、ホメロスは微笑を返す。今の自分の笑顔を見れば、グレイグなら必ず「お前、何か企んでいるのか」といぶかしんだはずだ。社交界でもこんな完璧な笑顔は見せない。わざとらしいほどだ。だが、この女にはこれでいい。デルカダールの双頭の鷲、両翼に愛される女! なんとうっとりする肩書だろう。女はきっとそうした考えで頭がいっぱいのはずだ。あのカタブツなグレイグ将軍をあと一歩でオトせそうな上、軍師ホメロスと突然の急接近。彼女がホンモノのメギツネなら、これで食いつかぬわけがなかった。
 仕事があらかた終わったあと、ホメロスは娘に言った。
「たった一週間だが、よろしく頼む」
 娘は一礼して、ほころぶような笑みを残していった。

 ホメロスは、宣言した通り、彼女が清掃係として働く間の六日間、彼女と親しく会話を試みた。何くれと声をかけ、世話を焼き、時にはグレイグとともに彼女に声をかけた。グレイグはホメロスの行動を、酒の席で言った「お前の恋を応援する」というたぐいの行動だと思ったらしく、「余計なことを」と目で気まずそうに訴えたが、ホメロスは無視した。城には当然、「デルカダールの軍師と将軍を手玉に取る女」の噂が瞬く間に広まり、ホメロスはたびたび、他のメイドたちから、「あの子と仲がいいのですね」と探りを入れられるようになった。
 下女は目に見えてメイドたちとうまくいかなくなっていた。城の下女は、町娘と違って最低限教養のある女たちだから、目に見えて陰湿なイジメはしないし、仕事に差しさわりの出るようなことは控える賢明さを持っている。それでも、新入りメイドを遠巻きにする空気が、城の中に漂い始めた。若い下女も負けてはいない。彼女は大っぴらに寂しげな様子を見せるようになり、時には、ホメロスや、グレイグの前で恥ずかしげもなく涙を流した。
 グレイグは当然、女の涙に慣れていない。大慌てで「どうしたというのだ」「泣くな、何があった?」と彼女を理由もわからず慰める姿が見かけられれば、メイドたちのささくれだった気持ちに余計火が付く。あの男の鈍感さは天井知らずだな、とホメロスは呆れながらも、これ幸いとそれに乗っかり、みなの目のある前で、泣いている下女を慰めた。
「このホメロスがついている。悩みがあるなら私を頼りなさい。お前の味方だよ」
 とまで言った。

 デルカダールの双頭の鷲に寵愛される、ということは、こういうことなのだ。ホメロスは、残酷な悦びに身をやつし、気に入りのワインを飲んでいた。目線の先には、居心地の悪そうなグレイグ将軍の横に座って、しんみりと音楽を聴いている、あの女。
 デルカダール王国の建国記念日、城でささやかな祝いの宴が開かれた。中庭を全部使った立食形式のパーティだ。この日は下女も好きな服を着る。華美なドレスは禁物だが、めいっぱいのおしゃれをして、兵士たちも同様に、こうした宴の日に、普段話す機会の少ないお目当てのメイドとかかわりを持ったりする。ホメロスは王に酌をし、少し話をしたあと、方々を回って交流を図った。メイドたちの集まるテーブルに引っ張られると、一時間以上その場を離れさせてもらえなかった。
「ねえ、見て、また」
「わっ、ほんと。やあねえ」
 ホメロスがその場にいてもお構いなく、彼女らの話題の矛先は、例のメイドに行き着いた。もはや彼女とおおっぴらに仲良くしようという者はいなかった。身だしなみを整え、こじゃれた町娘風の衣服を着た娘は、いかにも純朴そうで、男の食指が動かされるあどけなさがある。宴が始まり、しばらくして、部下たちと楽しそうに飲んでいたグレイグ将軍のところへ、おずおずと下女が近づいた。部下たちはメイドの噂を当然知らない。グレイグ将軍にやっと春が来た、といっそ喜んで、どうぞどうぞ、将軍はお譲りします、と気を遣ってみんなはけてしまった。グレイグはひとり取り残されて、音楽隊の陽気な演奏を聴きながら、女とぽつぽつ会話をしている。
「ねえ、ホメロスさま、ホメロスさまもあの子のことを、かわいいと思いますか?」
 むすくれた様子で切り込んできたメイドは、比較的ものをはっきり言う方だ。もう何年も城で働いていて、よく話をする相手だからこそ、ホメロスにも聞ける。実際、ホメロスが彼女をなんと思っているのかは、メイドたちの好奇の的であり、これまでいろいろな種類の女性とスキャンダルのあった(そのくせソツなくどれも収束させた)ホメロスさまが最後の良心、とでも言いたげな様子でいる。事実、グレイグ、ホメロスの部下である騎士たちはみなこの手のことに鈍感だった。率いているのがグレイグだからかもしれない。
「かわいくないとは思わないな」
 内心で、このメギツネ、とさげすんでいることをおくびにも出さず、ホメロスはやんわりと回答した。えーっ、と不満げな声がいくつか上がり、女たちの間で小突き合いが始まった。言いなよ、えー、あたし? ……云々、ひそひそ声が重なって、一人のメイドが、意を決してホメロスに耳打ちした。
「ホメロスさま、こんなこと言いたくないんですけれど。あの子、最近おおっぴらにこんな話をしてるんです」
 メイドは忠告めいて声をひそめた。
 …………グレイグさまを狙っていたけれど、ホメロスさままで傾いてくれている。手に入りそうな方を選ぼうかな。
 なんて。
 あの女。

 ブルックナーの「ロマンチック」が演奏され始めると、場の空気はいささか色っぽくなってくる。酒もまわり、王は先に席を辞した。この後は無礼講、と王直々にそう宣言なされて、騎士たちはお目当てのメイドと一緒に消えていく者、仲間と一緒に歌い騒ぐ者、酒や食事を楽しむ者、さまざまだ。ホメロスは演奏を聴きながら、ちらりと横目でグレイグの動向を伺っていた。グレイグはさっきから、じりじりとメイドが距離を詰めていることもわかっているだろうに、じわり、じわりと彼女から身を引いている。このへっぽこ、だからお前はむっつりスケベなんだ、と苛立ちつつも、なぜかホメロスは優越感に浸っていた。
 グレイグがあの女になびきそうにないことを、俺は喜んでいるというのか?
 ホメロスの空になったグラスに気づいて、メイドの一人が「ホメロスさま、ワインを」と注いでくれた。このメイドも、「今から部屋にこないか」と一言誘えば、瞬時に俺のものになるだろう。だがそれではだめだ。だめなのだ。

 あの女でなければだめなのだ。

 グレイグは、なんと言い訳を考えたのか、下女に何か言って、席を外した。ホメロスはその瞬間を見逃さなかった。酔った、とか、風にあたってくる、とか、なんとか言って逃げたのだろう。空いた席に滑りこみ、ホメロスは素早く女の隣に収まった。
 他のメイドたちの視線がこちらを突きさしているのがわかる。それも当然、計算のうちだ。
「楽しんでいるか?」
 突然、ホメロスに隣に座られて、女は期待に満ちた色の目をひらめかせたが、すぐ消した。グレイグさまが、と彼女は将軍の心配をした。ご気分がすぐれないそうです、と聞かされたが、ホメロスには嘘だと分かっている。あの男がワイングラス三杯で気持ちが悪くなるはずがない。
「グレイグなら大丈夫だ。もっとひどい状態になったこともある」
「……そう、ですか……。それなら……」
「…………いい曲だ。酒もうまいし、食事も」
 浮かぬ顔をする女を覗き込み、ホメロスは優しく囁いた。距離をつめ、彼の膝が女の膝にぶつかった。女は体をひっこめなかった。
「君はグレイグに恋をしているのだな」
「えっ」
 あれだけわかりやすく行動しておいて、女は驚いた表情を浮かべて見せた。ホメロスは、意図的に、どこか傷ついたような、切なげな笑みを見せる。ワイングラスからちびちびと飲んで、ふう、と重いため息をついた。
「わたし…………」
「いいや。言わないでくれ。君の気持ちがよくわかる……。私も同じ気持ちだからだ」
 ホメロスは女の目を見、女はホメロスの目を見た。
「私の気持ちはかなわぬのだな」
 細められた目。切なげに寄せた眉根。ホメロスはどこか泣き出しそうな顔をしている、……ように、女には見えた。ホメロスはすべて諦めたように、遠い目で、音楽隊の旋律をなぞっている。高らかにホルンが天を突いた。
「……私はいつだって、グレイグにはかなわない」
 つ、と、膝の上に置いた手に、娘のやわい手が触れた。その手が接触したとたん、ホメロスは彼女の手をテーブルの下で強く握りしめた。強引に手を握られて、女は身を引いたが、真っ赤に火照った頬を、どこか嬉しそうに上気させて、ぴったりくっついた足を動かしもしなかった。女の手を握ったまま、ホメロスは視線を正面に戻し、低い声で囁いた。
「……期待してもいいのか」
 音楽隊の奏でる「ロマンチック」が、彼らの会話をかき消している。女はじっと下を向いて、黙ったままでいた。
「私にもチャンスがあると、思っていいのか」
 つかんだ手指がほどけ、そして、甘く絡められた。つないだ手は、女の緊張からくる汗に、しっとりと濡れて密着していた。
「私の部屋に来てくれないか。夢が醒めてしまわないうちに」
 指をほどいて、ホメロスは立ち上がった。返事も聞かずに彼は城へ戻り、歩を進める。後ろから女がついてきていることは、振り向かずともわかる。メイドたちはぎょっとしたように、目を開いて、彼らが去っていく様子を目で追った。そして、がらんどうになったテーブルに、ようやく戻って来たグレイグを見た。
 娘がどこへ行ったのか、グレイグが視線を切った先に、城への扉を開けて中に入る、美しい金髪の男と、若い娘の背中が見えた。グレイグが手に持っていたワイングラスの表面に、ピシ、と冷たいひび割れが入った。

   (三)あの女

 宴席を抜け、のこのこ部屋についてきた下女を、ホメロスはわが物にした。衣服を剝ぐように脱がせ、大きなベッドに投げ出して、恋の炎で我を忘れた男のふりをして女を抱いた。女のまたぐらに押し入ったとき、「こいつやはり処女じゃないな」と口角が上がった。処女のような顔をして、純朴なふりをしていただけだ。結局、デルカダールの双頭の鷲、どちらかの種が欲しかっただけの、尻軽だった。
 女はうるさく喘ぎ、あくまで「ホメロスさまに言い寄られ、押し切られた」ふうな反応をして見せた。ホメロスはホメロスで、「グレイグが好きだったんだろう」「私でいいのか」「友を裏切りたくないのだ」など、友情と愛情のはざまで揺れる男を演じて見せた。
 抱きつぶした女に手早く衣服を着せ、深夜、廊下へ出した。自分の部屋で寝られたくないという気持ちが当然圧倒的だったが、「私たちの関係はしばらく秘めておこう」などと適当を言ってその気にさせた。女はいつだって「ただならぬ関係」に燃えるものだ。
 ホメロスの思惑通り、メイドはホメロスに抱かれて以降、ホメロスと「ただならぬ関係」であることをほのめかす行動をとるようになった。ホメロスも、彼女の態度をたしなめなかった。夜、まだ人目のある時間にホメロスの私室を訪れたり、城で二人きりになる瞬間があれば、少しでも触れたがった。ホメロスさま、とうるんだ目で見つめる、恋する女の様子は、当然城中に広まり、「ホメロスさまがやられた」「まさかグレイグさまでなくホメロスさまがやられるなんて」とメイドたちの失意は普通ではなかった。
 さすがのグレイグも、めっきり会話することがなくなったあの下女の様子と、晩酌の時間も取らず、自分を避けてばかりいるホメロスの態度のせいで、何が起こっているか勘づいた。ある夜、グレイグはアポイントなしでホメロスの部屋に来た。幸い、その夜はホメロス一人だった。
「ホメロス」
 肩を怒らせ、何か言いたげなグレイグの様子を、ホメロスは執務机の正面にかけたまま、気づかわし気に(これも演技だ)見上げた。
「俺に怒っているのだろう、グレイグ」
 予想外に、しおらしい様子のホメロスのせいで、グレイグは完全にペースが狂った。もっと「寝取ってやったぞ、お前がうかうかしてるからだ」などと嗤われるものだと思っていたし、なんなら、グレイグが怒っているのはあの女のことではない。周囲は「グレイグ狙いの女がホメロスに鞍替えした」と騒ぎ立てているが、グレイグは彼女のことなどもう念頭になかった。ただ、悔しいのは、友が一切晩酌に応じなくなり、立ち話さえわずかになったことだった。やはり俺は友の恋を応援できない、……ただその怒りだけに駆られて、衝動的に部屋に来たのだ。グレイグは、自分が一体ホメロスに何を言いたかったのかを見失い、言葉をなくした。
「……応援する、などと言って、自らお前の恋を邪魔立てするとは、笑えないな」
 ホメロスの様子は、まさに、グレイグという友の存在と、恋した女への恋慕で揺れる、悩める男そのものだった。この反応は、グレイグには当然意外だった。そして、ホメロスの苦悩の表情を見て、グレイグはぐっと歯噛みした。お前の恋を応援したくないという気持ちを、なぜぶちまけられようか? 友がこんなに苦しんでいるというのに!
「なじってくれていい。批難してくれ。俺を見限ってくれていいんだ、グレイグ」
 なんという才能だ、城中を騙す俺の演技力。役者になればよかったな……、と、ホメロスの内心はこうである。グレイグに目を合わせると、グレイグはなんともいえぬ、切なげな顔をして、どかりとカウチに腰を下ろした。ホメロスも執務机を立ち、カウチへ腰を下ろす。
「……すまん。別に、そういうことじゃないんだ、ホメロス。そもそも、俺はあの娘に恋していたわけではないし、お前があの娘がいいなら……」
 応援しよう、とは嘘でも言えず、言葉を濁す。
「ただ、お前との時間を以前のように、少しでも取れればと思うのだ、俺は。当然、お前とあの娘の時間は邪魔したくないのだが」
「我が友、グレイグ。こんな俺を許してくれるのか」
 ホメロスの目が、正面からグレイグにぶつかった。許しを請う目つき。瞳の奥が濡れている。グレイグはじっと彼の目を見つめ、ホメロスは一体、あの娘をどのように暴いたのだろう、とあらぬ考えを起こしかけた自分をいさめた。友が女を抱く光景など、想像するものではない。だが、振り払おうとすればするほど、この美しいホメロスが、純朴そうな田舎娘を抱いている光景が、まぼろしとなってグレイグの前に現れ、離れなかった。
 女への恋慕がそうさせるのではない、と、もはやグレイグにもわかっていた。友への思慕が、こんなはしたない夢を見せるのだ。だが、考えに至ったときにはもう遅かった。友は一人の女に手に入れられてしまったのだ!
「許すも許さぬも、ない……」
 絞り出すようにそう言って、グレイグは無意識に、胸元のペンダントを触った。ホメロスはそんなグレイグを眺め、得も言われぬ快感に身を焦がしている。

 ズタボロにしてやったのだ。この男の恋を踏みにじり、メギツネの化けの皮を剥ぎ、この男に芽吹く恋をすべて摘み散らかしてやる。グレイグの恋を察知すると、ホメロスが否応なくそうしたくなる理由は、彼自身にもよくわからなかった。だが、グレイグに近づく女が現れると、決まって同じことをしてしまう。グレイグは気が付いていないだけで、始まる前に終わった彼のたくさんの恋は、ホメロスの手によって葬り去られたものだった。

 グレイグの幸福を奪いたいから、こんな意地の悪いことをやっているのだと思っていたのだ。
 ホメロスは、この時まで、本気でそう思っていたのだ。

 お前に熱をあげて、社交の場ではお前にべったりだったあの貴族の女がぱったり消えたのは覚えているか? グレイグ。あれは俺の仕業だったのだ。俺があの女を手に入れ、あの女は俺に狂った挙句、私財をなげうったが、俺はあの女を捨てた。ダーハルーネの女だったが、もうあの町にはいられなくなった。
 お前が町に出るたびに、熱心に出迎えてくれた町娘はどうなったと思う? あの女は俺が口説き落とし、一時期燃えるような恋をした、……振りをして、折を見て捨てた。あの女が二度とデルカダールに戻らぬように、根回しをして、父親へソルティコに新しい職と豪華な邸宅を用意してやったのも俺だ。つまらぬ亭主も見繕ってやった。今頃、俺との恋はあの女の唯一の武勇伝になり下がっていることだろう。
 お前に恋したあの女。
 あの女。
 あの女……。

 ホメロスと下女の道ならぬ恋は、しばらくのち、静かに終わっていった。ホメロスが入念に根回しをして終わらせたのだが、真相はホメロス以外知らない。女は権力に弱く、また名誉を持つ立派な男に弱かった。危険な仕事に従事し、いつ死ぬかもわからぬ身の上である騎士のホメロスやグレイグより、近国の、道楽貴族の若い男が合っていた。ホメロスの根回しで出会ったとは知らず、女はころりとそちらになびいた。ホメロスの方も、じわじわと彼女と距離を取りながら、敢えて危険の多い戦場に身を置き、負傷して帰ってくる姿を見せた。けろりと貴族との結婚を決め、破格の身分差恋愛を押し切って城をやめていった面の皮の厚いメイド女は、「やはり私では不安だったろう」と自分を責め、友であるグレイグを傷つけてしまったうしろめたさに落ち込む(もちろん演技)ホメロスを輝かせるとともに、そのうち忘れられた。女遊びにおいて、ホメロスは決して失敗をしない。どんなに卑劣な手をつかっても、ホメロスに落ち度のあるスキャンダルは絶対に起こさない。お相手の多いホメロスだが、デルカダールにおいて、「女たらし」の烙印を押されたことはなかった。

 月日が失恋の痛みをいやすように、ホメロスは徐々に元気を取り戻し、ぎこちなかった二人の騎士の間に再び遠慮のないやり合いが取り戻され、城の者たちはほっと安堵した。ただでさえ、王の寵愛のせいで溝が広がりつつあった二人が、こんなつまらぬ女に引っ掻き回されてはたまったものではない。下女が辞め、平和になったデルカダール城のメイドたちは、しばらくすると彼女の噂をすることも、めっきりなくなった。
 ホメロスも、決して彼女を悪く言うことはなかった。半ば二股をかけられる形で貴族に鞍替えされたというのに、ホメロスはどこかすがすがしい顔で、「いい娘だった」と笑う。グレイグも、一抹のもやもやを秘めたまま、「そうだな」とだけ返した。

 いい娘だと!
 あの女が?

 グレイグ、ホメロス両名が、内心ではそう思い、歯噛みし、ほほえみは、互いに別の方向を向いたとき、ちらりと怒りの表情に変わる。それを二人とも知らない。バルコニーに吹く風を浴びながら、グレイグとホメロスは、かつて宴会をした中庭を眺めながら晩酌している。グレイグは力強く拳を握って北を向き、ホメロスは不快そうに眉根をひそめて南を向く。

 ………………あの女!

   (幕)始まるには遅すぎる

 ホメロスのひとつの恋が終わり、グレイグ、ホメロスのだらだらした晩酌がまた再開された。グレイグはいつになく、下女が辞めてからは上機嫌だった。
「飲みすぎた」
 ひく、と喉を鳴らして、グレイグは大の字に、カウチからはみ出る勢いで寝そべっている。ここはホメロスの部屋だ。やはりピノ・ノワールの甘酸っぱい赤。クラッカーにチーズとキャビアを乗せたつまみが真っ白い皿に乗せられている。食い散らかされた皿の上は、もはやかけらしか残っていない。
「おい、汚い足をあげるな」
「何? お前だって俺の部屋に来たら足上げるだろう」
「俺はいいんだ。貴様と違って足まできれいに洗っている」
 まるで俺が足をちゃんと洗ってないみたいじゃないか、と憤慨しかけたが、確かにホメロスの素足は美しい。いつも見惚れる、あの足だ。ホメロスはシルクのローブ一枚になって、一人掛けのカウチにふんぞり返っていた。あっちもだいぶん酒が回っている。
 グレイグは、ホメロスの様子を慎重に伺いながら、もうずいぶん言うか言うまいか迷った言葉を、ひとつひとつ紡ぎ始めた。あの下女が現れてから、いや、実はもっとずっと前から、胸にくすぶっていた気持ちだ。
「今回のことでよくわかった。俺は、……ホメロス、お前の恋を応援できない」
「……何を突然。俺の選ぶ女が気に食わないのか?」
 へら、とホメロスは挑発するように笑った。酔いの回った体を起こして、グレイグはグラスを置き、のっそりと立ち上がる。ホメロスの座っているカウチのひじ掛けに両手をついて、彼に覆いかぶさるようにして、におうだちした。
「……ちがう」
 ぬう、と目の前に壁のように現れた男を見上げ、ホメロスは一瞬ぼうっとなっていた。珍しいこともあったものだった。
「……こういう、ことだ」
 グレイグは跪き、目線の高さを合わせて、ホメロスが二言目を発する前に、やんわりとくちびるを押し付けた。顎髭が触れて、ぞくっ、とホメロスの背に何かが駆け抜けていった。ちゅ、ちゅ、……と柔らかい音が耳に届いて、ようやく、「キスされているのだ」と意識が追い付いた。
 酔った、ワインくさい息の、ふたりとも正気でない状態でするキスなど戯れでしかない。覚えていない、で貫き通せるもろいシロモノだ。よりによってこんな最悪のタイミングを選んだグレイグを、嗤ってやれればよかったものを、ホメロスは嗤うことも、拒絶することもできずに、バカみたいにぽかんと口を開いて、友からのキスを受けていた。

 分厚い舌だ。探りさぐりのへたくそなキスだが、仕込めばもっとうまくなるだろう。何しろこの男は英雄なのだ。体が密着し、グレイグの武骨な手がホメロスの手の上に重なった。宴席の夜、女の手を握ったときの乾いた感触が嘘のように、手のひらから、びりびりと劇的なしびれが体を伝う。頭の先までしびれさせる、悦びの感触だ。
 なぜこの男に?
 なぜこの俺が!
 このホメロスが、グレイグなどに……!
「っん……、ん…ゥ………!」
「ん…………」
 手指をからめられる。ぞわぞわと興奮が沸き起こった。恐ろしくて目をぎゅっと閉じていた。キスしているとき、緊張で目を閉じたなんて、ホメロスには初めてのことだった。我に返って、強くグレイグの肩を押しのけた。グレイグは目を伏せ、それでも手を放そうとしない。
「今夜はここで寝てもいいか」
 グレイグの、懇願するような囁き声が、耳を甘く揺さぶった。イエスと言えば、この男と一線を越えることになるだろう。何をトチ狂って、なんて、ホメロスには言えなかった。ずっと自分たちがやって来た、女をめぐる数々の戦いは、この場所へ集約していたらしかった。
「ホメロス」
 グレイグは立ち上がり、今にもホメロスを立たせようとする。そのまま強引にベッドへ入る魂胆だろう。わかっている、わかっているのだ……。手慣れぬくせに、ベッドへ女を誘った経験も浅いくせに、腹をくくれば一直線にぶつかってくる、この男が憎らしかった。そして、その相手が自分であることを、たまらなくうれしいと感じている自分が許せなかった。
「で、…………出ていけ!」
 ホメロスははじかれるように立ち上がり、グレイグの背を押した。まなじりを引き上げ、怒りの表情で、ホメロスは叫んだ。グレイグはぎょっと驚いたあと、「すまなかった」とおとなしく引き下がった。ホメロスに背を押されるままに部屋から閉め出され、グレイグはしばらく扉の前に立っている気配を見せたあと、こつ、こつ、と、落ち込んだような、さみしげな靴底の音をさせて、遠ざかっていった。
 そこで引き下がるのが、貴様の悪いところだ。
 ホメロスは閉じた扉にすがって、ずり落ちた。床にへたりこみ、ハ、ハ……。と、乾いた笑いを二度上げた。大声で泣けたら、もっと楽だったかもしれない。けれど、三十を越えた男は、もうそんな簡単に涙がでるようになっていない。床の冷たさが、ホメロスの唯一のなぐさめだった。

 この強い、揺さぶられるような感情の爆発を、「恋」と言うらしい。
 デルカダール王国の英雄グレイグと、軍師ホメロスは、この日初めて思い知ることになった。誰にも向けたことのない、とてつもなく大きな感情のかたまりを、彼らは三十年近くかけて、もはや取り返しのつかない大きさに、彼ら自ら育て上げてしまっていたのだった。
 
 
 グレイグからの口づけを受ける前夜、ホメロスは、王の正体を知った。
 彼の身体は、このとき、すでに魔王のものだった。

   〈了〉

 なりたかった自分になるのに、遅すぎるということはない。
        ―ジョージ・エリオット