いつまでも、お鍋で煮込むみたいに


The day before

 ほんっとに助かった! メガネのお兄さんありがとう! 
 頭を何度も下げながら、心底安堵した様子でそう繰り返す新米ママらしい女性に、いえいえ、当然のことをしたまでですから。赤ちゃんは大丈夫ですか? と問い返す。坂道を猛スピードで疾走するベビーカーを、ターボエンジン付きのその足で追い、大通りに出る前に危機一髪助け出した飯田天哉は、元気に、いっそ楽しそうに笑う赤ちゃんを見て、スカッと晴れがましい気分になったのだ。
 涙ぐんでお礼を言う彼女は、個性のためか、片方の目が常にぴったり閉じていて、眉が困ったように下がっている。赤ちゃんはすっかりいまの遊びが気に入ってしまったらしく、坂道を指さして、あー! あうー! と大騒ぎしている。
「いのちの恩人だ~、ほんとにほんとにありがとう! 何かお礼したいんだけど……」
「いえいえッ、本当に気にしないでください! これでも、ヒーローを目指す身ですから、かえってお礼なんて恐縮です。ヒーローは困っている人を助けることが仕事ですからね!」
 といって、ヒーロー仮免許を取得できたから、個性を使って赤ちゃんを助けることができたのだが、飯田はその四角い小さな許可証が、いよいよ誇らしかった。

 お礼を言い、まだ頭を下げながら、ベビーカーを引いて去ろうとする彼女が、突然ワッと声をあげた。
「どうしましたか!?」 
 近づいた飯田は、さっきまでぴったり閉じられていた、彼女の片方の目を、正面から見つめることになった。
 不思議な眼だった。
 らせん状の模様のある、深い底抜けの海のような目だ。彼女はしばらくじっと飯田を見つめてから、
「……メガネのきみ、ほんとに、お礼させて。」
 そう言って、飯田の頭を二度、ぽんぽん、と優しく叩いたのだった。

 個性使ったこと、黙っててね。害になるような個性じゃないから。
 夜になれば、きっと分かる。あたしの個性はちょっと変わってるの。きみの未来を勝手に見たこと、許してね。でも、ほんとに、助けてくれたきみが、このままじゃ不幸になるなんて、ちょっとあんまりだと思うから。
 効力はたった一週間、きみが寝ている間の時間だけ。あたしの母さんなら、もっと効き目があるんだけど。
 干渉できるのは「人」以外だよ。自分ができることだけ、やってみて。こんなへんてこなお礼しかできないこと、許してね。
 メガネのヒーローくん。

 

Day 1.

 はじかれるように身を起こして、見回すと知らないワンルームだった。硬い感触はさっきまで寝ていたらしいソファの肘かけだ。自宅にあるものでも、寮の部屋にあるものでもない。そもそも、寮の自室で眠ったはずなのに、そこは自分の部屋ではなかった。
 見たことがない部屋だが、なぜか落ち着くのは、自分が部屋にかざるならこれだというものがたくさんあるからだろう。カーテンは四角いチェック模様、壁にはメガネがかけてある。テーブルクロスも青いチェック柄だが、この時代には珍しい、小さい畳の二畳間がある間取りだった。人ひとりゆったり座るのがやっと、くらいの小さな畳の間だが、掛け軸と、生け花のある、純和風という佇まいの空間だ。掛け軸の字に見覚えがある。掛け軸には、「夫婦生活は長い会話である。」という言葉がしたためられていた。
「……轟くんの字か……?」
 時計をみるとまだ真夜中の二時過ぎだ。家の中はひっそりと静まり返っており、パジャマ姿の飯田の、ぺたぺたいう足音だけが、ひっそりとした二人暮らしの部屋に響いている。
 椅子も、コップも、ソファの大きさも、……ふたり分にあてがわれたものだとすぐに見て分かった。
 ここがどこなのか、うろうろ歩き回る必要はなかった。静まり返っていた廊下の奥から、飯田と同じ、裸足のぺたぺたする音が聞こえて、ぱっと明るい電灯がつく。身を隠さないと、と思うひまもなかった。飯田の正面にある扉が、音もなくすっと開いた。
 ひゅう、と胸の奥がおどろきでいっぱいにつまる。のっそり、眠たそうに入ってきたのは特徴的な髪の色をした、二十代半ばくらいの男であった。彼は目の前にいる飯田の姿にいっこうに気が付かない様子で、リビングルームを手さぐりに進み、冷蔵庫を探し当てる。廊下の向こうの、扉が開いたままの部屋は寝室だろう。くああ、と彼は大きな欠伸をひとつして、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出した。
 んぐ、とのどを鳴らす音が聞こえる。白い髪が彼の額の上をすべり、反対側の真っ赤な髪には、くしゃくしゃに寝癖がついている。グラス一杯の麦茶を飲み干すと、彼はぐるりと部屋を見回した。誰もいない、がらんどうの部屋を見て、彼はひとつため息を吐きだした。
「……おせえな」
 ひとりごちて、男はグラスを丁寧に洗い、またのっそりと部屋に戻っていく。飯田の存在は、まるで何も見えていないようだった。
(……轟くんだ)
(……それも……。なぜだかわからないが、……ずっと大人になって……)
 大人になった轟焦凍は、背丈が少し伸びて、顔立ちがうんと精悍になった。丸くてすべすべしていた輪郭が、こころもちシャープになっている。鍋の底に残っていた少年らしさがゴムベラでこそげ落とされて、すっかりぴかぴかになった銀食器のような凛とした美しさだった。順当に、健康に、健全に大人になった証をしている若い彼に、飯田はどきりと肝を冷やした。
 大人になった彼は、いよいよ、女の子が放っておかなそうだ。立派になった体つきと、凛々しい表情は、聞かなくったって彼がプロヒーローとして功績をあげ、活躍していることを確信できるものだった。けれど、飯田は喉につっかかる不安感が飲み下せないでいる。大人になった轟は、暗い夜霧がからみつくように、何か不穏な空気を帯びている。まるで、必死に振り払っても取れない、何か厄介な悩み事でもあるように……。
 轟が部屋に引っ込んでしまってから、ややもせず、玄関扉ががちゃりと開いた。当たり前のように鍵を差し込んで、部屋に入ってきたのだから、同居人か、恋人か、それに準ずるものには違いない。飯田はもう一人、入ってくる人間を待った。きちんと鍵を閉めて、ただいま、と律儀に無人のリビングへ声をかけて、電気をつけた男の姿を見て、飯田はその場に崩れ落ちたくなるほどに、安心した。
 飯田天哉。
 まぎれもない自分だ。
(ああ、……)
(よかった。)
 大人の自分は、まだ伸びしろがあったのか、と驚くほど背が高くなっていて、眼鏡を外すとドキリとするほど兄によく似ていた。けれど、目元を見ればすぐに違いがはっきり分かる。兄のように目じりの垂れた穏やかな目つきではない、ギリッと厳しく、生真面目に見開かれた目が変わっていない。自分の姿を正面から見るのは非常に奇妙な感覚だが、しっかりしめたネクタイの胸元をはだけさせて、我が家に帰ってきた、そういう顔をする未来の自分に、飯田少年はゆるく息を吐きだした。
 安堵。ほっとしたのだ。
(よかった。……よかった。轟くんは、まだ、俺と……。)

 轟と飯田の交際が始まったのは、ちょうど高校一年の夏だった。暑い日、みなが寝る前のひと暴れ、という風に、バタバタと外へ出て行ってしまった二人きりの大部屋で、轟はぽつりとつぶやいた。飯田。おまえがすき。飯田は、みんなが帰ってくる前に答えなければ、と、焦って、俺もだ、好きだぞ、君が好きだ! 轟がぎょっとするほど大きな声を出した。合宿の夜、星の満ちた山奥でのことだった。
 あれから十年近く経っているだろうに、自分たちはまだ恋人関係にあるらしい。しかも、ちゃんと二人で家を構えて、同じ家に帰ってくるような関係だ。飯田はそれが心底うれしかった。よかった。轟くんはまだ、少なくともこのころまでは、俺のことを好きでいてくれるらしい。同じ男と、それも、学生の身で。やったことのない恋愛とかいうむつかしいものを囲んで、手探りに、とろ火でじっくりと煮込むあいま、火の加減をそわそわ見つめているだけの関係だったから、飯田は余計にうれしかった。
 
 疲れた様子の飯田青年は、
「……寝たかな」
 とつぶやいて、冷蔵庫から冷たいオレンジジュースを取り出した。急いで帰ってきたのかもしれない。飯田青年はしきりに太ももを気にして、熱されたエンジンを冷やすように風を送っている。スーツをきちんとハンガーにかけ、飯田青年は足早にバスルームへ消えて行った。大人の自分はかなり遅くまで働いているようだ。兄も、夜の高速道路をパトロールし、夜警のような活動をやっていたから、自分もそれを引き継いでいるのだろう。立派になった自分を見るのはくすぐったく、奇妙だったが、誇らしい気持ちがぞくぞくと飯田少年の胸をくすぐっている。
 この不思議な状況は、今朝助けた女性の個性なのだろう。夜の間だけ効力があると言っていた。夢かまぼろしか知らないが、こんな素敵な夢なら十分なお礼をもらったはずだ。飯田は目が覚めるのを待とう、と最初に目を覚ましたソファに座り、家族と一緒によそさまの家へお邪魔したときと変わらぬ礼儀正しさで、じっと座って待っていた。

 とす。
 廊下の奥から音がして、ぱっと明るい灯がついた。のそりと起きてきたのは轟だ。眠たそうな目で、飯田が帰ってきた気配を察したのだろう。飯田少年はわけもなくそわそわして、そうそう、轟くんはこういうやつなんだ。眠たそうにしているくせに、ちゃんと気配を察して、俺を出迎えてくれる……。
「飯田?」
 リビングに入ってきた轟が、小さく声をかけた後ろから、風呂へ入ろうと、下着一枚の飯田青年が現れた。あんな格好で出てくるということは、よっぽど轟と過ごす時間が長かった証拠だ。現在、付き合っているとはいえ、飯田少年はあんな格好で轟の前に出ることはない……。
「……ああ。起こしてしまったな」
「……。」
 おかしい、と思ったのは、二人の目が合って、声のトーンを聞いたときだ。飯田少年はそわそわと腰を浮かした。それほど、飯田青年の声は低すぎ、轟青年の表情は硬すぎた。あんな格好をしている飯田を前に、少年時代の轟は、「すげえ」「胸でけえな」「さわりてえ」とかなんとかわがままを言って、すぐ「そういうこと」に持ち込もうとするんだから、困ったものだ。けれど、今目の前にいる、青年期の二人は違う。おかえり、も、ただいま、もない。ただ、お互いの姿に一瞥をくれるだけだ。
「……明日も早いんだろう。先に寝てくれ」
「帰ってこれねえのか。」
「忙しいんだ。夜回りもある……」
「……先月で終わるって、言ってただろ」
「先月と今月はまた状況が変わるだろう! 君だってヒーローの端くれなら分かるはずだ」
「……端くれ?」
「……。言いすぎたよ。忘れてくれ」
「……逃げてんだろ、お前は」
「なんだって?」
「……別に。なんでもねえ」
「言いたいことがあるなら……!」
 バタン。飯田の言葉を遮って、寝室の扉が閉まった。飯田青年は怒りを噛み殺すように唇を引き結んで、フン、と鼻を鳴らし、バスルームに入る。少年の飯田は、立ちあがって、その光景をぼんやりと見つめていた。口を挟むすきもなく、笑い飛ばせる瞬間もなかった。止めようと宙を浮いた手が、飯田少年の意志を持って動く前に、スッ、と視界が暗くなった。

 ……目が覚めたのはけたたましい目覚ましの音。飯田はハッとおおきく息を吸い込んで、見慣れた寮の自室で起き上がる。ギュウッ、と心臓をつよくつねられたような、息苦しさで肺がどくどくと波を打つ。パジャマのボタンを外す手が震えた。いつもの朝がどんよりと暗いのに、打って変わって空は晴天だ。制服姿で自席に座り、じっと手の甲を見つめてみんなが来るのを待っていた飯田の肩を、トン、とからかうような手が叩いた。
「はよ。飯田。……早え」
 微笑む轟焦凍の輪郭がつるんと丸くて、飯田は泣き出しそうにほっとした。

 

Day. 2

 二度目にソファで目が覚めたとき、飯田は「一週間しか効力が持たない」と言われた言葉を思い出した。個性の影響はまだ続いているらしい。今度は晴れの日、まだ夕方くらいの時間だった。弾かれたように飛び起きて、飯田少年はまず部屋の中を見て回ったが、今度こそ誰もいなかった。
 未来の僕らに、一体何が起こっているんだろう? 決して、仲睦まじいとは言い難い雰囲気だった。そりゃあ、僕たちだって、喧嘩くらいするが……、でも、そんな険悪な喧嘩なんて、したこともないし、よもやするとも思っていなかった。
 飯田も轟も、少年期の自分の姿は見えないようだ。恐る恐る、パジャマ姿のまま外に出てみたが、外の人々も飯田少年の姿は見えていないようで、誰にも一瞥もむけられず、通り過ぎる人々の体はぶつからずにすりぬける。けれど、不思議なことに、「人」以外のものには触れられる。ドアとか、転がった石ころとか、その他もろもろ……。
 時刻は日が落ちかけた、午後七時。まだ日が高いので、どうやら夏の時期のようである。大人の飯田と轟が暮らしているマンションは、近くにスーパーもコンビニもあり、駅から徒歩五分の利便性のよい場所だ。不思議と道に迷う不安もなく、飯田はなんとなく、呼ばれるように駅前のコンビニに入る。中に大人の飯田天哉の姿を見つけても、驚きはしなかった。
 大人の飯田は、今日は早く帰宅してきたらしく、じっとコンビニでそばのパックを見つめている。横顔は静かで、さみしげだ。手に持っていたそばを置いて、飯田は自分の分のハンバーグ弁当だけをレジに持って行った。

 飯田青年の後を追い、飯田少年はもと来た道を足早に戻る。大人の自分の歩幅は大きく、そしてきびきびと早かった。大人になるとあんな冷たい歩き方になるのだな。気をつけなければ。そう考えながら、マンションのワンルームに帰ってくる。飯田青年はさっさと食事をし、さっさと洗濯を済ませ、食器を洗って掃除をして、風呂に手早く入るとすぐに寝室へ入ってしまった。決められたこと以外はやらないぞという頑とした意志を感じ、自分の姿であると言うのに、飯田少年は肝を冷やした。
 ヒーローらしくない。あんなに険しい顔をしていては!

 飯田青年が眠ってしまって、しばらくのち、午後十時を回ったくらいの時間に、轟青年が帰宅した。へとへとになっているようで、彼はスーツのままソファに直行する。飯田少年が、轟くん! 皺になるぞ! ちゃんと着替えてから……。と、聞こえないのも承知で小言を言うが、届かない。轟はぐったりとソファに体を横たえて、物憂げに宙をにらんだ。からっぽのテーブルの上に、埃をかぶったドライフラワーが乗っている。食事はない。轟青年は小さく呟いた。
「……はらへった」
 あんまり、悲しいつぶやきで、飯田少年は鼻の奥をつんと切なくした。

 

Day. 3

 
 三回目に、この部屋に来たくらいで、飯田少年は徐々に彼ら、未来の自分たち二人の状況を、なんとなく理解し始めた。授業中も、トレーニングの間も、この不思議な夢のせいで調子が悪いし、飯田少年は薄々これが夢ではなくて本当に起こり得る未来の話なのだということも、感じ取っていた。三回目の訪問は、真夜中だ。いつも起き上がるソファにはすでに先客がいて、飯田はハッと床で目を覚ました。
 轟くん。
 ソファで眠っているのは轟焦凍だ。ここで眠ってしまった、というわけではなく、自分の意志でここで寝ているようである。起きてくれ、と飯田少年が言う前に、廊下に電気がともり、一人の男がのそりと入ってきた。大人になった飯田天哉だった。
 飯田青年は、ソファで眠っている轟青年をじっと見つめて、長いため息を吐く。
「……そんなに、嫌か」
 自問するように唱え、かみしめるたびに涙が出るのをこらえている顔をした。
「……そんなに、俺の隣で寝るのは嫌なのか」
 ぱたん。静かに扉が閉まったあと、ソファで眠っていたはずの轟が、ゆっくりまぶたを開けた。飯田少年は一言も言葉を発せずにいる。訳も分からない焦燥感で、飯田少年は気が狂いそうだと思った。
「……嫌なわけ、……ねえだろ」
 轟青年の声も、飯田に負けずと劣らず、震えている。何がきっかけか分からないが、未来の自分と轟焦凍は、どうやらかなり危ない状態になっているようだった。お互いのことを好きだと思う気持ちはあるのに、一向に素直になれない。大人になって、いろんなことを飲みこむようになった。少年期に笑って話していたことが、大人になると言えなくなった。いろんなことを飲みこんで、ついに胃袋はいっぱいになり、二人は、同じ食卓を囲むどころか、一緒に眠ることもしなくなったのか。
 ……そんなのって、あんまりだ。
 飯田少年の目の前で、うろんな瞳に影をおとして、ソファの背もたれへ寝返りを打った轟青年の、さみしそうな背中を指先で撫でてやると、感触もないはずなのに、彼はぶるりと猫のように体を震わせた。暑い夜だと言うのに、彼はきっと寒さを感じている。誰かが火を起こさないと、きっとこの部屋は氷漬けになってしまうだろう。

 飯田は、轟と合宿中に過ごした、飯盒炊爨の夜のことを思い出した。ごとごと、石でも煮えるような音を出して炊ける飯盒の、おこげのにおいを嗅ぎながら、轟の調節する小さな炎を見つめている。丸太に腰を下ろして、飯田はしょっちゅう別の生徒をたしなめる声を上げたが、轟が微笑むと、必ず視線を彼に戻した。
「すげえ」 
 ぶくぶく、泡が飯盒からあふれてくる。もうすぐ炊けそうだ。カレーの方は切島を筆頭にして他の男子が一生懸命煮つめていて、女子たちは食器を準備している。
「……じっくり、……炊くんだな。時間がとってもかかる」
「……どうした? 飯田」
「いや。笑わないで、聞いてほしいんだが……。君と、ぼ、……違う、俺みたいだと思ったんだ。じっくり、煮つめるところが……」
 轟は、たまらないという風に微笑んで、なあ、飯田、おまえかわいいな。そう言った。

 それを、飯田はこの冷たい部屋でじりじりと肌が熱するほどつよく、思い出した。

 

Day. 4

 すっくと立ち上がってからは早かった。
 最初に、時間を確認する。今日は午後九時。轟青年は飯田天哉からの、「悪いが、今日は遅くなる」というメッセージが表示されたスマホ画面を見て、無表情に立ち上がり、風呂へ入って、少しの間ソファでぼんやりしてから、寝室へ引っ込んだ。相変わらず、規則正しい自分は置いておいても、轟すら大人になっても早い時間に眠くなるようである。
 飯田は轟青年が寝静まったのを確認してから、大急ぎで準備にかかった。不思議と冷蔵庫の中身はきちんと整えられている。まるで飯田の作りたいものが分かっているように。寮生活になる前、自炊をしながらひとりで暮らしていた時期があってよかった。東京の実家を離れて、雄英高校近くで独力、過ごしてきたことはここで役に立てるためだったのかと思うくらいに、まだ十六になったばかりの料理人の腕が鳴った。卵を多めに三つ、使って、飯田が大好きな……、ビーフシチューには負けるけれども、……とろとろのオムライスを作る。ご飯はバターライスの方が好みだった。大人になって味覚が変わっていなければいいが、と思いながら、静まり返ったキッチンで、飯田は一心不乱に火をおこし、卵をとぎ、バターライスを包む手つきに汗がにじんだ。
 とろん、とお皿に乗った、我ながら出来のいいオムライスに、急いでケチャップを準備する。がちゃ、と鍵の開く音がして、大慌て、時計を見るともう夜がとっぷり更けている。飯田はややいびつな形になったこともやむなしで、大きなハートマークの描かれたオムライスを丁寧に机の上に置いた。間一髪、ラップをかけた終わった瞬間に、飯田青年がリビングの扉をあけた。
 部屋にたちこめたオムライスのにおいを感知したのだろう。飯田青年は机の上を真っ先に見た。そして、ぎょっとしたように目を見開き、覗き込む。がたついたハートマークの、不格好なオムライス。飯田少年がどきどきと見守る前で、飯田青年は、眼鏡をぐっと眼がしらに押し付けた。
(ああ。ぼく。)
(泣きそうなんだな。変わらない癖だ。)
 飯田青年は眼鏡を慌ててはずし、ネクタイを解いて、一度廊下へ出てみたが、寝室が静まり返っているのを感じて、扉をあけるのをためらった。結局、諦めて彼は椅子に座り、長い間ラップをかけられたオムライスを見つめている。
「……彼ときたら……」
 声が潤んでいて、自分が泣くのを見るのはなんだか一層泣けた。飯田少年も、ぐっと眼鏡を眼がしらに押し付けた。(不思議なことに夢の中で飯田はいつも眼鏡をかけていた。)
「……下手な、……ハートマークだな、……」
 あはは。笑いを漏らして、飯田青年の涙が止まらなくなった。ああ。ううっ。大人特有の、わんわん大声あげられない分苦しそうなうめき声をしばらく上げてから、飯田はゆっくりスプーンを取り、ひとくち食べて、おいしそうに笑った。
「……俺の好きな、バターライスだ……」
 ぽろ、ぽろ、と涙が落ちる。飯田青年はもぐもぐ噛みしめて、ハートマークをどうしても崩せない。ためらいながら何度もスプーンをいれかけて、やっぱりやめてしまう。食べるのがもったいなくて、駄目だった。
「……明日、かならず、謝ろう……」
 飯田少年は、ああ、俺はいいことをした。そう思った。

 

Day. 5

 次に降り立ったとき、部屋には飯田青年一人だった。彼は何度か、そわそわ携帯を見たが、連絡はない。飯田はしばらく粘っていたが、ようやく眠ろうと腰を上げ、その瞬間に電話が鳴った。慌てて、飛びつくように取った飯田青年が、どれだけ轟の帰りを待ちわびていたかよく分かる。
 「もしもし!」
 「ああ、……俺」
 「轟くん、やっぱり遅く……」
 言いかけた飯田が、グッ、と息をのんだ理由が、飯田少年にもわかった。しょうとさん、二軒目行きますよねえ? 甲高い女の子の声だ。轟は返事をせず、飯田、とつづけかけたが、飯田青年はぶつりと電話を切ってしまった。開きかかっていた扉はまたじっとりと霜を下ろして、しばらく開くことはないだろう。飯田少年も、じわりと手に汗をかいていた。
 馬鹿。馬鹿なことをやった。轟くんときたら、やきもちを妬いてほしいときは、いつもそうなんだ。女子と言わず、誰彼かまわず、妙に他の子とべたべたして、
「君、俺はやきもちをやくぞ!」
 と怒ると、にへら、と満足そうに笑うのだ。轟焦凍の馬鹿なところだった。よく知っているはずじゃないか。未来の僕よ。けれど、飯田少年の想いは届かない。頭に血が上った飯田青年は轟を待つのをすっぱりやめた。きっと、轟の方も、今のは不可抗力のはずだ。タイミング悪く、ちょうど一緒にいた人間の声が入ってしまっただけ。それが飯田青年には悪く伝わった。彼のような男が、器用に浮気なんてできるわけがないとよく分かっているからこそ、飯田少年にはもどかしい。
「飯田」
「ハッ! すまない、聞いてなかった」
「ひでえ」
 笑いながら、おまえ、最近眠そうだな。大丈夫か。尋ねてくる少年姿の轟を、毎日日中に見ている飯田少年にとって、こんな喧嘩、まったくお笑い草で、バカバカしいばかりだ。
 未来の俺たちはこんなバカみたいなことで喧嘩して、泣いたり、わめいたりするのか? 信じがたい。考えすぎなんだ、二人とも……。
 飯田少年は決然として立ちあがり、キッチンに向かった。もはや、飯田の使命はそれだけだった。未来の自分たちが円満であるように、飯田少年にできることは、ただただ、愛情を目に見える形で置いておくことだった。
 おあつらえ向きに、冷蔵庫には蕎麦がある。大根おろしと、温泉卵もある。自分に作った時よりずいぶん手間が少ない。蕎麦をゆがいて、ごりごり、大根をおろし金にかけていく。さらさらの白いふかふかした塊をそばつゆに添えて、温泉卵を硝子の容器に移しかえる。
 またもや、飯田少年はやり遂げた。轟青年が柄にもなく急ぎ足で帰宅してきた音と同時に、ラップをかけて完成だ。今度はラップの上にメモを添えてある。
「やきもちをやくぞ!」
 それだけ書けば、昔のことを思い出すだろう。案の定、息を切らして、リビングへ入ってきた轟は、机の上に乗っている蕎麦の皿を見て、はあ、はあ、と激しい息を整えた。メモを見て、轟は、しばらくじっとしていたかと思うと、ぎゅっと手の中に握り締める。こぶしが震えていて、轟青年は小さく嗚咽を上げていた。
「……は、」
 涙で潤んでいても、微笑は美しい。柔らかく笑って、飯田、轟青年は小さくそう呼んだ。
「飯田」
 鞄は空いたままで、中から持ち物が零れ落ちる。ああ、そんななりふり構わず帰ってきたのか。でも、君は、俺の前でそんなところを見せないから。だから、俺が勘違いして、君は俺のことをなんとも思っちゃいないなんて思うんだぞ……。
 飯田少年が隣ですすり上げていることも知らないで、轟青年は微笑み、しゃくりあげた。
「飯田……」
 まるでそれしか、世界から言葉がなくなったように、轟青年は何度もそう言った。
「飯田、……飯田。……飯田……」

 

Day. 6

 長い旅が終わろうとしている。飯田少年が例のソファで目を覚ましたとき、時刻は朝、二人とも珍しくリビングに居た。彼ら二人の顔つきには笑みが戻っていて、しきりに、昨日とその前の夜に起きた、不思議な出来事について話しているようだった。
「不思議だなあ。俺はてっきり、君がつくったと……」
「俺も、おまえが作ったと思ってた」
「すごくおいしいオムライスだったんだ。すごく懐かしい味の……」
「俺のも、そうだ。すげえ、うまかった。お前の作るやつと同じ味だったから、てっきり……」
 飯田少年は思わず、くちびるをほころばせた。手を挙げて、二人の間に割って入りたい。俺だよ、作ったのは。俺なんだ! 懐かしい味だって。そりゃそうだ、過去の君とおんなじ味なんだからな!
「妖精がいんのかな」
 ぼそ、と言った轟青年の言葉に、飯田少年と、飯田青年の快活な笑い声が重なった。
「妖精! 轟くん、君は素敵なことを言うんだな!? でも、案外、そうかもしれない。俺と君がずっと意地を張っていたから、神様が妖精を送ってくれたのかもしれないぞ」
「すげえな。そうかもしれねえ」
 二人はしきりに、きっと妖精だと言い合って、しばらくすると一緒に準備をして、連れ立って外に出て行った。きっと昔のように仲良く、デートにでも行くのだろう。たいてい、映画か、水族館か、近所の公園か、……きっとこの調子だと高校生のころと同じようなデートをしているに違いない。
 ああ、よかった、よかった。未来の俺たちはどうやらうまくやれそうだ。飯田少年は安堵して、あまりにほっとしたから、途端に緊張の糸がほぐれた。どさりとソファに座り込んで、うるうる、感極まってあふれてくる涙をがまんして、飯田少年は思うのだ。
「轟くんに会いたいなあ……」
 早く目が覚めて、轟くんに会いたい。昨日も、彼はお昼ご飯をシャツのところにこぼして、俺がハンカチで拭いて挙げたんだが、彼ときたら、一人でご飯を食べるときは、そんな粗相一回もしないらしい。まったく、こまったやつなんだ……。

 

Day. 7

 今日が最後の日だと気付いたのは、目を開けてすぐ。七日間の長い旅路が終わり、幸福の王子から預かったさまざまなものを、貧しい人々に配りまわったツバメのように、飯田少年は心地よい疲労感を感じていた。
 あの、個性を使ってくれた女性に感謝を伝えたいくらいだ。助けたつもりが、助けられた。彼女が、「不幸にならないように」とかけたくれた個性は、おそらく、もっと先まで見通していたに違いない。このまま、この喧嘩を放置し続けていたら、未来の二人がどうなっていたのか、考えもしたくない。飯田はがらんとした誰もいない轟/飯田家のワンルームの、テーブルの前に座って、じーん、と目頭を熱くしている。眼鏡を押し上げて、ぐっ、とくちびるを噛みしめる。幸せで、泣けるっていうのは、すばらしいことだ。悲しくて泣くよりよっぽどいい。
 テーブルには二つ、料理が乗っていた。まだ朝の四時を指している時計と、誰もいないリビングのおかげで、おそらく二人は同じベッドで眠っているのだろうと予測ができる。白い朝日が差し込み始めた、清々しい明け方だった。
 片方は、小さ目の器に入ったビーフシチュー。昨日の夜から煮こんでいたようで、とろとろにとろけた甘い香りがたまらない。もう一つは、小鉢に盛られた冷やし蕎麦。からりとあげた海老とタコのてんぷらが乗っている、少年期の飯田が轟と蕎麦屋に行くたびに食べたてんぷら蕎麦が、いまテーブルの上に乗っている。グラスには冷たいオレンジジュース。ラップをかけられた二つの料理に、ふたつのメモが貼ってあった。
「妖精くん! ありがとう! 感謝するぞ! 飯田天哉」
「妖精ありがとう。もう喧嘩しねえ 轟焦凍」
 ああ。君たち、いや、俺たちか……。俺たち、バカだなあ。でも、俺も、轟くんも、互いのそう言うところが、たぶんたまらなく好きなんだ。十六歳の飯田天哉は、二十代半ばになった未来の自分たちからもらった手紙を丁寧にラップから剥して、パジャマのポケットにしまい、妖精さんへと彼らが準備した朝食を、ありがたくいただくことにした。不思議とそれらを目の前にしたとたん、おなかが減ってきて、飯田はぺろりと食べてしまった。
 からっぽになった皿を片付ける前に、朝五時を告げるアラームとともに、飯田青年が起きてきた。慌ててテーブルから離れた飯田少年の姿をよそに、きれいに平らげられた皿を見て、飯田青年は目を丸くし、
「轟くん!!!」
 朝五時から、はた迷惑な大声を出していた。
「轟くん!! 大変だ!! 妖精だぞ! 妖精くんが、食べてくれたんだ……!」
 
 彼らの会話を最後まで聞かないうちに、飯田天哉を叩き起こしたのは、朝五時のアラームの音だった。

 

Good morning.

 朝っぱら、まだ五時だというのに轟焦凍は飯田天哉の大声で叩き起こされた。すまない! こんな時間に起こしてしまって! でも聞いてくれ! 飯田はまだパジャマのままの格好で寮を上がってきたようで、そんなこと滅多になかったので、轟はのろのろと起き上がってきた。
「聞いてくれ! 俺は、とってもいいことをやったんだ……!」
 飯田の手には力強く、二枚の紙切れが握られていて、飯田のその剣幕に轟は呆れたように笑いながら、寝ぼけた目をとろとろしばたかせた。
「……おまえは、いつもしてるだろ。」
 いいこと。おまえは、えらいから。轟は眠たい目をしょぼしょぼさせながら、自分より少し背の高い男の、まだセットされていない髪をそっとなでてやるのだった。
 飯田天哉は、たまらないという顔で、滅多に見せないこぼれそうな笑顔を浮かべ、俺はいいことをやったんだ。
 かみしめるようにそう言った。