いのりは必ず届くもの

   〈一〉

 帰宅したら楽しみが待っている。雄英体育祭の録画はばっちり録ったから、飯田天哉くんの雄姿を見届けようとルンルンだった。定時の五時半ちょうどにタイムカードを押して、今日は誰からも声をかけられるわけにはいかない、と殺気立って退社した彼女に、幸い誰もお茶に誘う者はいなかった。彼女は体育祭の録画を見るにあたって、さて何を飲みながら見ようか、ちょっとおしゃれな夜ご飯をつくってみたりして、シャンパンでもあけてしまおうか……なんて思っていたのに。彼女は怒涛のように送られてきていた友人たちからのメッセージと、一通のニュースの通知で、電車の中で崩れ落ちそうになった。
「インゲニウム緊急搬送 〈ヒーロー殺し〉ステインによる被害相次ぐ」
「インゲニウム事務所に〈ヒーロー殺し〉襲撃」
 きちんと立っていただけでもまだよかった。彼女は思わず車内を見回したが、見たところ、誰もが普段通りの様子である。
 嘘だよね? え? なに……。なにこれ、嘘だよ……。
 慌ててロックを解除し、震える手でまずインゲニウム、もとい……飯田天晴の広報用ツイッターを確認する。更新は昨夜が最後だった。「明日雄英体育祭です! 俺の弟が出てますのでぜひ」とピースサインの絵文字つきの投稿が最後だった。インスタグラムの方も、三日前に新しいランニングシューズを買った写真を最後に更新はない。信じたくない、見たくない、という思いでニュースサイトを開いた。まず最初にでかでかと見出し文字が目に入った。
「インゲニウム事務所に〈ヒーロー殺し〉押し入り インゲニウム意識不明の重体」
 ガタンッ、と取り落とした携帯電話を慌てて拾った。息がつまりそうで、ハッ、と大きく彼女は息を吸い込む。嘘だ、という思いと、ただ機械的に記事を読み進める自分の意識が乖離している。
 まもなく、谷戸市役所前……、谷戸市役所前……。降りる駅はまだ三つ先だというのに、どっと降りていく人波に呆然と身を任せて一緒にホームに吐き出されてしまった。続々と人々が出口へ向かい、エスカレーターの方へ吸い込まれていくのにも、取り残されて立ち尽くす。歩いて行った大学生くらいの女の子二人が、エッ、と声を上げた。
「ねえ! ヤバイ、インゲニウム重体だって」
「ウソ!? 何? ヴィラン?」
 その声で一気に事件は現実になった。神さまがわたしだけに見せた悪い幻覚かもしれないと考えることもできなくなった。なんで? 彼女はよろよろとふらつき、ベンチに倒れ込む。
 なんで? 嘘だよね? インゲニウムが? 天晴さんが? どうして……。
 ゴーーーッ、と次の電車が到着する。彼女はしばらくその場で動けず、何本も列車はホームを行き過ぎていった。

   〈二〉

 二十一歳の春、免許を取って母と祖母を乗せ、ドライブをしに行った。彼女は不慣れな運転に緊張しながら、母に何かの時は代わってもらうつもりで、ドキドキと運転していたものだ。祖母がどうしても初めてのドライブについていきたいと言ってくれたから、緊張したけれど、彼女は一時間程度の小旅行で、高速に乗ってドライブする計画を母と一緒に立てたのだ。
 そんなことしなきゃよかった。心底そう思って、大渋滞に陥り、怒号と悲鳴が飛び交う新東名阪高速で、彼女たち三人を乗せた小さなクーペは前にも後ろにも進まない。
「ど、どうしよう……」
「どうしようもないでしょ、進めないんだし、落ち着いて」
 母さん、運転代わってくれないかな……。と震える手でハンドルを握りながら、けれどいつ何が起こるか分からないから、母も車を一度降りるのをためらっているに違いない。祖母は後部座席でじっと手を合わせて無事にここから帰ることができるようお祈りをしている。祖母は熱心なクリスチャンでもあった。
「おばあちゃん、ごめんね、こんなことになって……」
「いいのよ、いいのよ。一番怖いのはあなたなんだから」
 祖母は微笑して勇気づけてくれたが、祖母だってきっと怖いはずだ。祖母は小さい頃ヴィランに襲われた経験があり、いまでも足を少し引きずるようにして歩く。二度とあんな怖いものに出会いたくない、といって、この年までヴィランと遭遇することを免れてきた祖母が、初めてのドライブでこんなことになるなんて。彼女はもうどうすればいいのか、ただただ緊張して、じっとりと湿ったハンドルを握りなおすばかりだ。
 先頭車両はどうなっているのだろう。ヴィランが暴れるたび、じりじりと高速全体が揺れ、恐怖が増す。かなり近い。横倒しになった自動車が数十メートル先の反対車線に見えている。中に人が乗っているらしく、救出作業がずっと続いていた。
 車が蹴散らされた跡がそこここに見える中、どの運転手も自分の身を守ることに必死で、ともすれば小競り合いになり、煽り合いになり、無理やり車をつっこんで前へ進もうとする者すらいる。初めてのドライブがこんなだったら、二度と運転なんかできない。彼女は泣きわめきたい気持ちを抑えて、とにかく無事に帰らないと、と涙ぐんでいた。
「ヒーローは? 誰が来てるんだ!」
「早く車両を動かしてくれ!」
 怒号が閃くたびに体をすくませる。救助隊の声を聴くために窓を開けて運転していたが、こう嫌な怒鳴り声が多いと、窓を閉めてしまいたい気持ちになるのは仕方がない。
「どうしましょう、運転代わりたいけど……」
 外に出るのは危険です、動かないで! と叫んでいるサイドキックたちの声を真剣に聞いていれば、なんとなく運転を代わるのも気が引ける。そろそろ音を上げたい、と彼女がくちびるを震わせたときだった。
「落ち着いて! インゲニウムです! ヴィランはすでに捕縛しておりますので、前の車両に続いてゆっくり進んでください。道路にひび割れがありますので、必ず徐行運転で進んでください! この先の二十三号佳南橋線ICから一般道へ出てください!」
 インゲニウムが車両の間を縫いながら声を張り上げて叫んでいる。車の窓から声をかける人々の一人一人に応えながら、インゲニウムはてきぱきと車両を進めていく。初心者マークをつけた彼女の車までやってくるまでに時間はかからなかった。
「すみません、通行止めになっている場所はありますか?」
 母が窓から顔を出し、インゲニウムを呼び止める。テレビで見る彼の姿はいつもフルフェイスのヒーロースーツ姿だったが、今は顔を出している。思いのほか優しそうな、やわらかい顔立ちの青年で驚いた。予想していたよりうんと若い。
「今のところはありません。道路はヒーローたちの手で可能な限り補強を加えていますので、そのまま進んでもらって大丈夫ですよ。明日以降一部通行止めになるところがあるかもしれません」
「ありがとう、それと、運転を……」
「母さん! 大丈夫。わたし運転できる」
 あのときなぜそう言ったのか分からない。でも、やらなきゃならないと思ったのだ。自分と同じくらいの歳の青年が、こんな危険な場所で自分を顧みず頑張っているのだ。わたしだって家族の命を守りたい。彼女はそう思って決然と言った。大丈夫。まっすぐですよね。
 彼女が正面からインゲニウムを見据えると、彼はまっすぐ、誠実に見つめ返してきた。
「まっすぐです。大丈夫ですよ。我々が必ずみなさんを無事に一般道まで誘導しますから、信じて進んでください」
 インゲニウムは後部座席の祖母に気づき、祖母が祈っているのを見て、かえってにっこりと笑った。
「もしおばあ様が体調を崩されたり、ご病気を持っていらっしゃったりするようであれば、事務所の搬送車両でお送りいたします!」
「いいえ、大丈夫、大丈夫よ。わたしはこの車で帰りたい」
 祖母がそう言ったので、彼女は涙ぐんだ。絶対に生きて帰ろうと決意した。
「わかりました。最善の判断だと思います」
 インゲニウムは力強く笑った。祖母は祈っていた手をほどき、インゲニウムに手を差し出した。
「お兄さん、無事に帰れるように手を握ってもいいかしら」
 祖母は手から伝わる力、というものを信じている。スピリチュアルでなんとなく胡散臭い、と彼女は思っていたのだが、この日からそんな風には思わなくなった。もちろん! と差し出された手を握った祖母に続いて、彼女も思わず手を伸ばした。
 すがりたくなるような力強い青年だったのだ。彼が強く握った手を彼女は忘れない。母も祖母も、「あの人のおかげで怪我ひとつなく帰ることができた」と、一般道に出、ようやっと我が家に帰りついてから言い合った。彼女もそうだと思っている。
 あの時どうしてインゲニウムという存在に目を向けていなかったんだろうとのちに後悔することになった。家に帰り、彼女はまっさきにインゲニウムという男の分かる限りのことを調べた。本名は飯田天晴。年は当時二十五歳。十五歳年下の弟がおり、一族が「エンジン」の個性を持つ由緒正しいヒーロー一家だ。インゲニウムという名前を代々世襲して、彼も父から名を受け継いだ当時若手のヒーローであった。

 五年前のあの日から、彼女はインゲニウム最推し飯田天晴追いオタクの道を歩み始めた。

   〈三〉

 推しヒーローに実際に救助されたことがあるオタクとそうでないオタクの間には大きな差が生じる。地位の問題ではなく愛にその差が現れるのだ。オタクたちはみなフラットな状態で交流したり拮抗したりしているが、救助されたことによって「追い」になったオタクのことを、ヒーローオタク界隈では俗に「救助済み」と呼んでいわば特別な体験をした者としている。
 オタクの大半は救助を受けたことがないが、ビジュアルやキャラクターでヒーローを追っている「未救助」である。結果、これは界隈で問題になっていることでもあるが、推しのために事件現場に駆けつけて、そこで事件に巻き込まれてしまうことによる後天的「救助済み」と呼ばれる現象もあり、ヒーロー事務所はファンが現場に押し掛けることをよしとしていない。偶然居合わせたならまだしも、現場に押し掛けヴィランと交戦中の危険場な場所にまで推し活のために現れるファンは、界隈の中でもマナー違反のオタクとして敬遠されていた。
 飯田天晴最推しオタクである彼女には、二人のオタク仲間がいる。一人はオールマイトこと八木俊典を推し、人生をかけて愛する女性である。彼女はオールマイト夢小説をインターネット上で大量に執筆している人間でもあり、ヒーローを追いかけるファンのマナーには人一倍厳しい。オールマイトというナンバーワンヒーローを推す人間のサガであろう。彼女はあまりに彼を愛するあまり彼のことを「俊典」と呼ぶが、本人を一度目の前にした際、「俊典」と気軽に呼び捨てている自分を恥ずかしく感じ、またそんな風に呼ぶなんてめっそうもないと恐れ入った経験の後は、かたくなに「オールマイト」と呼び変えるようになった。
 最初、ミーハー心で野次馬に加わり、サインをもらったことがあり、その際サインにあまりうまいとは言い難いうさぎさんのイラストが添えられているのを見たのがファンになったきっかけである。
 もう一人はナンバーツーヒーローであり、アンチも多く抱えるフレイムヒーロー、エンデヴァーを推す女性である。彼女はエンデヴァーのことを、親愛を込めて「パパ」と呼び、最初の彼女とは違ってBLを好み、エンデヴァー受け作品を大量に生産、活動を続けている絵描きである。新刊を見せてもらったことがあるが、とんでもなくエロくて刺激が強すぎた。既婚者であり子どももいる「パパ」にこんなエッチなことをさせている自分にたまに罪悪感が湧くそうだが、むちむちと筋肉質に豊満なエンデヴァーの体を見るとどうでもよくなるらしい。そんな彼女ももとはアンチの一人だった。愛想も悪い、言い方もきついし、なぜこんなヒーローがナンバーツー? と思っていた彼女は、しかしある日遭遇したヴィランによる事件で、大混乱の商業施設の中、人々の波によって倒された棚に下敷きになって動けなくなっていたところを、エンデヴァーによって発見された。誰もが自分を見捨てて逃げていくのを見て、もう助からないかもしれないと泣きじゃくっていた彼女を見つけ、棚をどかし、歩けない彼女を抱えて救護班に引き渡した。エンデヴァーはすぐ去ってしまったが、去り際、「しっかり気を持ちなさい。弱気になるな」とどこか優しさのある叱責を受けて、これまで何も知らずにエンデヴァーを嫌っていた自分を顧みた。そして、今では顧みるどころかエロ本を描いている。
「パパは不器用なの! 愛情をまっすぐ伝えられないわけ。ほんとシコい」
 というのが彼女の常々繰り返される主張だった。

 仮に、彼女ら二人をそれぞれ「俊典オタ」「パパ女」と呼ぶことにする。天晴追いである彼女とはもう長い付き合いで、よく三人で公式ファンミーティングや、非公式同人誌イベント、またはグッズの物販などに赴いては、萌えを語り合っている。
「で、この前のインゲニウム握手会どうだった?」
「推し触ったんでしょ~!! いいな~。パパ全然公式イベントやらないんだよね。ファン嫌いだもん」
 二人にせっつかれ、彼女は飯田天晴が初めて行ったファンイベント、握手会の模様を報告する。控えめに申し上げても最高のイベントだった。やってほしいと声が多かったのもあって、満を持しての開催だったが、運よくチケットを手に入れることができたのは奇跡に近い。最大四枠のすべてを使って手に入れてよかった。会場で、彼女は数年ぶりに飯田天晴に会い、正面から応援メッセージを伝えることができた。プレゼントを送ったことはあるが、どうしても気恥ずかしくて、名前を書いたりしたことはない。中には「リア恋」というヒーローたちにリアルな恋愛を求めるファンもいて、LINEのIDを描いたり、プリクラを貼ったり、いろいろと返事を直接貰うための工夫をしているようだったが、彼女は飯田天晴がそういったファンとの直接的なコンタクトをしない真面目さを持つ男だと解釈していたし、そもそも照れくさいのでそういうことをしようとは思わなかった。
 彼女は厳密には「リア恋」ではない。ただひたすらに応援をしたいのだ。もはやすべてが大好きだった。最近始めたインスタグラムに、うれしそうに写真を載せ、最愛の弟の話題ばかり更新する弟思いのところも、彼女は一人の人間として飯田天晴のことを大好きだった。
「オールマイトなんか握手会しようもんなら秒もかからずチケットなくなるよ。ヤバいオタ多すぎて人海戦術使わなきゃとれる気しない」
「逆にパパは売れなさそうでほんとつらい……。わたしが三億枚買ってあげるから開催してほしい~~」
「エンデヴァー、握手会やったら生卵とか投げられそうだもんね」
「は? 投げたやつわたしが直々に■すから」
 物騒なことを言うエンデヴァー過激派のパパ女をなだめ、そそのかされるままインゲニウムの握手会についてさらに話す。インスタグラムを始めたインゲニウムは、写真を撮るのにハマっているようで、買ったものや食べた物、ランニングしている途中の景色や短い動画なんかもあげた。コメントに丁寧に返事をする律義さも、弟が中学にあがって自分よりずっと頭がいいのだと自慢するところも、仲のいい同期のヒーローとの写真をあげるところも全部ひっくるめて好きだ。何もかも好き。でもやっぱり本人を前にするとうまく言葉にならず、しどろもどろで握手をした。何をしゃべったか八割がた覚えていないが、
「インゲニウムさんの、握手、力強くて好きです」
 と震えながら伝えたところ、
「ありがとう! 緊張してたんだけど、そう言ってもらって俺も安心しました。パワーもらいました!」
 と真っ白い歯を見せて笑ってくれた。

 インスタ見てます、と言うと、照れ笑いをする。弟さんと仲良いんですね、ほほえましいです、と言うと、弟かわいいよ~、俺と違ってしっかり者なんです、とすかさず弟自慢をはさむところも理想の飯田天晴だった。理想、というか、勝手に妄想だの解釈だのしてあなたを形作っていてすみませんでした、本物が正義でした、と土下座したくなる勢いである。必死に歩いて会場の外へ出た自分を褒めてあげたい。握り締めた強い力を忘れたくなくて、そっとポケットに片手をいれた。
「握手会、来てくださった方ありがとうございました! プレゼントもたくさん恐縮です……。力をもらいました!」
 更新されたツイッターを見て、自然と顔がゆるむ。ハア~~、大好き~~~、と文字にならできるのに、本人を前にするとどうも何も言えなくなるのは不思議な現象だなあ、と彼女は最寄駅まで帰って来てやっと一息つけたのだった。

 雑誌、グッズ、他社とのコラボで出された商品……。毎日のように更新される何かしらの情報を、必死に追いかけるだけで日々が過ぎていくくらいだ。仕事の前と後は必ず飯田天晴のインスタグラムとツイッターをチェックして、ファン同士でつながっているツイッターのタイムラインで取りこぼした情報がないかも確認するのはもちろん、ニュースサイト、目撃情報掲示板、ありとあらゆるインターネットの力を駆使して取りこぼしがないようにしていたし、できるだけイベントやファンミーティングの類は休みを取ってでも行くようにしていた。追いかけて五年目、弟が雄英高校に合格しました、と嬉しそうに、初めてインスタグラムにツーショットで載せられた兄弟の写真は、三億万回いいねを押したって足りないくらいだった。
 眼鏡をかけ、兄の天晴と似た眉の形をしたあどけない少年だ。まだ制服が大きくて、なんとなく「着られている」感のあるところがまたかわいらしい。体つきは大きい方だろう、179cmだそうだが、兄が182cmとたった三センチ差の兄弟だというのに、弟はどこかうんと幼いように感じた。
「天哉に身長抜かれそう! やばい笑!」
 と家の柱につけたしるしをくらべて載せていた写真のことも思い出して、にやにやとくちびるが緩んだ。まだ中学生だからとメディアにも出していなかった弟が、雄英高校に入学すれば自然とメディアに露出するだろうことも予想してだろう、入学初日の飯田天哉の写真が、弟として公に顔が分かった最初の日であった。

「見た!? 天哉くん!!」
 次のオフ会の日、パパ女が開口一番発したのは飯田天哉くんのことからだった。見たに決まっている。そう言う彼女に、興奮気味にまくしたてた。
「ちょっとハチャメチャにかわいくない!? 高校一年生であのガタイは最高だよね!?」
 間違ってもエロ本描かないでね!? と声を上げると、しないしない、とさすがに笑われた。
「だってまだ十五歳でしょ!? わたしもまだ児ポでつかまりたくないわ」
「でも確かに弟くんかわいいね~~。真面目そ~~」
「あと五年育ったらエロ本描けるわけよね」
「やめて! 天哉くんをそういう目で見ないでよ!」
 詰め寄る彼女に、とにかく推しはエッチな状態にしてやりたいパパ女は肩をすくめる。この子にかかればどんな人でも汁まみれになってしまうのだからたまったもんじゃない。
「界隈でも話題だよ、はじめての顔出しだもんね」
「体育祭楽しみだなあ~、天哉くんががんばってるとこ見れるんだもんね」
「よかったじゃん、推しが二人になったし忙しいね」
 ほんとそれ~~、と笑いつつも、あのとき、彼女にはまだ飯田天哉は単なる「天晴さんの弟」だった。弟の天哉くんがかわいい、というより、弟大好きな天晴さん、にかわいさを感じていたという方が語弊がない。だから雄英体育祭も、天晴さんが見ているだろうから自分も、あわよくば飯田天哉くんが兄のことでも話してくれれば……。くらいの気持ちで録画したのだ。

 更新されなくなってちょうど一年が経過したインスタを、彼女はそれでも毎日見続けている。最後の投稿はいつ見ても「明日は雄英高校体育祭……」のままだ。わたしの時間も、天晴さんの時間も、この時のまま止まってしまったみたい。同じように〈ヒーロー殺し〉の事件で命を落としてしまったヒーローだっているんだから、命があるだけまだ……、と思おうとしても、今後ヒーローとしての復帰が難しいと報道があってから、余計につらく、わたしの推しは死んだも同然だ、と生きる気力を奪われたようだった。
 ニュースの翌日、仕事を休んだ。休んだって何もならないことは分かっていたが、部屋にこもって思うさま泣いた。母は「気持ちは分かるけど……」とあまり気に留めていなかったが、もうかなりの高齢になる祖母は、「あなたが泣いてばかりいても意味がないのよ」と言いながら、その日は一緒に天晴さんのために祈ってくれた。
 どうか。神さま。彼は本当にいいヒーローなのに。どうして神さまは、そんな人をお見捨てになるのですか? 祖母の寝室にある、小さなマリア像に向かって彼女は呪うように訴えかけていた。

 何度も、「オフ会しよう」「元気出して」「話聞くよ」と連絡をもらっているのに、どうしてもそういう気になれなくて、友だち二人と疎遠になりつつあるのも悲しい。何をやっていても天晴さんのことが頭にひらめいて、わたしばかり楽しい気持ちなんて裏切りみたいだ、とさえ思った。
 体育祭の録画はまだ以来見ることができていない。本当はあの日の夜、シャンパンでもあけて見るつもりだったのに、いつになれば見ることができるのだろう、とハードディスクの中に保存された、体育祭のライブ配信データはずっと埃をかぶったままだ。

   〈四〉

 寝ぼけまなこで歯磨きをしながら、もうクセになっている「飯田天晴のインスタグラムの確認」という日課を行った。最後の更新から一年。「明日は雄英高校体育祭……」の見出しももう見慣れてしまった。
「一年ぶり! 弟とリハビリ中!」
「……エッ!?」
 驚いて声を上げたのは初めてだ。泡のついた歯ブラシを取り落として、エッ? とまた言う。そのあとすぐ、ツイッターの通知が入った。飯田天晴の公式アカウントからの通知だった。
「ご心配をおかけしてすみません。ようやく手を動かせるようになってきて、お医者さんにもリハビリになるからやってもいいと許可をもらったので、久々のツイッター! 今日は天哉がお見舞いに来ているので、車いすで散歩です」
 読み、宙をにらみ、また読んで、悲鳴を上げた。何事かと母が飛んできたが、泣きながらツイッター画面を見せてくる娘に呆れ顔である。しかし、祖母はぎゅうっと彼女を抱きしめて、「よかったねえ、よかったねえ」と言ってくれた。大泣きしている間にどんどんLINEが届く。友だちからの「ツイッター見た!?」「天晴さんが更新してるよ!」の連絡だ。一年も疎遠になっていた友達に真っ先に連絡してくれるなんて、彼女らはなんて優しいのだろう。泣きながら、二人に、一年もごめんね、ほんとうにありがとう、と何通もメッセージを送った。
 インスタグラムの写真には、困ったような笑い顔の天哉くんが、天晴さんの足を動かすリハビリを手伝っている様子の動画が上がっていた。
「兄さん! ちゃんとやってるか?」
「やってるやってる、ちょっと休憩しよう天哉」
「あと五分しなきゃいけないんだ! トレーナーさんに聞いてきたんだぞ!」
 シュビ、シュビ、と手を振り動かす動作が特徴的だ。アハハハ、と笑い合う声が元気そうで、また涙があふれてくる。よかった、よかった、よかったよお、と泣きじゃくると、母も呆れながら、よかったねえ、と最後には同意した。
 翌日の仕事を休んでやろうかと思ったけれど、やめた。天晴さんががんばっているのだから、わたしもがんばらなきゃ。そう思ったのだ。天晴さんがリハビリをがんばっているならわたしもあらゆることをがんばれる。彼女は途端、生きる力を貰ったように思って、飯田天晴という存在のなんと偉大なことだろう、と一年ぶりに呼吸をしたような気持になった。
 その日から、どうやら入院生活が暇なのか、飯田天晴の怒涛の更新がはじまった。毎日のようにリハビリの様子や、自分がいまやっていることを更新してくれるようになり、毎日供給があふれて追いつかない。一年ぶりに会った二人の前で大号泣したオフ会では、俊典オタの彼女も、パパ女の彼女も、一緒に抱き合って泣いてくれた。いい友達を持ったと心底そう思う。
 ぐんぐん元気になっていき、写真をあげるたび笑顔の飯田天晴が見れるのが幸せだった。週末には必ず現れる弟天哉が一生懸命兄のリハビリを手伝う様子があまりにいじらしくて、わたしは一年も何を、弟の天哉くんの方がうんと悲しかっただろうに、と自分を改めた。それまで出すのをためらっていた応援のファンレターを頻繁に送り、早く良くなることを祈っている旨を毎回のむすびにした。力を貰ったのはわたしも同じ。彼女はそう考えて、今度は自分が飯田天晴に力を少しでも送る番だ、と思ったのだ。
 兄が引退なら、弟がインゲニウムを継ぐのだろう。そう界隈では噂されて、筋金入りの天晴追いだった彼女は、微妙な思いもしていたものだった。弟は弟、兄は兄だ。わたしの推しがいなくなったことに変わりはない。……けれど、いまやそんな考えも消えてしまった。兄弟が幸せであれば一番だ。そのためならなんだって犠牲にできる!

 ようやく、封印していた体育祭の録画を見る勇気が湧いて、一年ごしに録画を見た。数日後にオフ会を控えていたから、先に予習しておくべきだとも思ったのだ。体育祭では一年生の天哉くんの奮闘ぶりが映されていて、もうすぐ二度目の体育祭の時期だった。障害物競走でのなりふり構わぬ一生懸命さにアハハと笑い、かわいい~、と胸をぎゅうっとさせられた。騎馬戦ではここぞというときの勝負力と、鋭い目をした格好よさに胸打たれた。トーナメント戦で轟焦凍くんに負けてしまったあと、インタビューに対して、「最善の戦いをしましたが、兄に報告するには少し悔いが残りますね……。来年は優勝しますッ!」とカメラにビシッと腕をふり、アピールしたのにも悶絶する。そしてそのあと、ハッ、と息をのんだ。
 この直後に、兄の悲報を知ったのだ。もしかしたら体育祭中だったかもしれない。当時の飯田天哉の心境を思うと、なんでわたし、一年もこんな状態になって。天哉くんの方が、よっぽどつらいにきまってる。がんばらなきゃ。兄弟を支えなきゃ。いよいよそう思って、うるうるっ、と目が潤み、オタク心に火がつく勢いだった。

「ああ~、もうほんと焦凍くんかっこいい、イケメン、イケメンの極み」
 飯田兄弟尊い……。とつぶやく彼女の斜め前で、パパ女の頭の中はいつの間にか、体育祭で初お披露目となったエンデヴァーの末の息子、轟焦凍くんのことでいっぱいになっている。
「十五歳は児ポなんでしょ」
「いや、焦凍くんは攻めだから大丈夫」
「大丈夫って何!?」
 雄英高校体育祭の後、メディアにちょくちょく高校生のヒーローの卵たちが露出するようになって、一年ぶりに会う彼女らはすっかり若手の話に盛り上がっていた。パパ女は危うく焦エン(焦凍くん×エンデヴァーのカップリング)を新刊にするぞと息巻いていたが、モラルもクソもあったもんじゃないと周囲に止められ、焦凍くんが成人してから出す、と謎の譲歩をしたばかりである。
「わたしは出久くんが気になってる! 戦闘スタイルがちょっとオールマイトに似ててさ、本人もオールマイト大好きっ子みたいで、かわいくない!? 憧れてんのかな~~って思ったらほんとほほえましくて!」
 すっかり「出久くんオールマイトの弟子」説を推す人になった俊典オタも盛り上がっている。
「しかもさ、焦凍くんと出久くん、天哉くんの三人って仲良しらしいよ! めっちゃかわいくない!?」
「ええ~~~仲良くしてるところ見たいよ~~」
 雄英高校は何度かヴィランの襲撃に合っている。そこから、生徒の情報を守るため、ツイッターやSNSの使用は全面禁止になったようだし、体育祭以来は何の情報も上がらない。頼みは他のプロヒーローたちの発信だが、飯田天哉は兄の投稿にたまに出てきても、他の子たちはヒーロー事務所への職場体験写真に現れて以来、音沙汰がなかった。
「でもさ、わたし焦凍くんと天哉くんも怪しいと思ってるんだよね」
 ずずい、とパパ女ちゃんが身を乗り出してそう言う。飯田兄弟尊さのあまりよこしまな眼で見ることができなくなっている彼女だったが、その勢いに気圧されて思わず聞く体勢になってしまった。
 パパ女ちゃん曰く、よく一緒に歩いているところを目撃される上、目撃情報が何かと距離の近い、ちょっと勘繰りたくなるようなものらしい。もしかしてほんとに付き合ってるんじゃないの? と一部は盛り上がっているようだが、個性社会で異形婚だのなんだのと議論になる世界になった今では、同性婚なんて大して珍しいことでもなかったから、ありえないとは言い切れない。実際に、同性婚をしたプロヒーローだってけっこうな数いたはずだ。
「でもさ!? 焦凍くんと天哉くんが恋人同士だったらやばくない!? 完全に天哉くん受けだよね」
「も~~~!! すぐそういう話にする!」
「あー、でもエンデヴァー受け好きな人って天哉くん受けにしそう」
 わははは、と笑い、言い争ったり、感極まったり、それでもやっぱり一年ぶりにこうして語り合えたのは本当にうれしいことで、なんだかどうだってよくなってきた。散会前、「みんなと友だちでほんとによかった」とつぶやいたところ、二人は無言でぎゅっと抱きつき、またやろうねえ、と笑い合って別れた。
 飯田天晴が緊急搬送されてから一年と四か月ののち、彼はついに退院した。車いすのままではあるものの、「わー! 外だぞー! 空が青い!」とはしゃいだ様子で空の写真を載せた投稿には、いいねはもちろんスクショも画像保存もした。仕事の休憩時間に泣き出した彼女のことは、今でも社内で話題になる。

   〈五〉 

 プロヒーロー、インゲニウムが正式に弟天哉へ襲名され、デビューを果たした日、彼女は今度こそシャンパンをあけ、体育祭の録画を再びゆっくり見直した。飯田天晴は裏方に回り、事務所の運営に当たる仕事をしていて、弟はついに今日が初仕事だった。インゲニウム、現着! と兄の掛け声を引き継いで、現場に急行し、集団暴走するチンピラたちを残らず捕縛したのが最初の事件になった。
 インタビューを受ける天哉くんの顔立ちは、精悍で男らしいものになっている。高校一年生のときはあんなにあどけなかったのに、と感極まり、また泣けた。なんだか涙腺が脆くなっている気がする。
 184cmまで成長した天哉くんに、ついに兄は身長を抜かれた。兄に倣ってインスタグラムを始めた弟は、誇らしげに兄と並んで(両手杖をついて立ち上がれるようになるところまで天晴は回復していた)「兄を抜きました笑。」と笑う笑顔が兄そっくりで、また泣ける。そのころ、彼女は仕事で部署の部長になっており、パパ女ちゃんには小学生の娘がいて、俊典オタちゃんはつい一年前結婚したところだった。三人の時間が流れていくとともに、幼かった少年たちは、みるみる成長を遂げていった。
「今度天哉くんの握手会があるんだよ」
 オフ会で興奮気味に彼女はそう語った。デビューから最初の握手会までかなり時間のかかった天晴のときからの反省なのか、天哉の握手会は非常に早い段階で企画された。ぜひ来てくださいッ、とツイートされたあと、不慣れな僕ですので……、と長文でフォローのつぶやきが入ったのも天哉くんらしい、と彼女はもちろんチケットを入手した。デビューして間もないが、幅広い年代から人気を得ていると言える。真面目一辺倒で、とっつきづらそうな初見だが、彼はよく通るはきはきした声で、いつでもまっすぐ、熱心だった。そういうところが人気を得るのだろう。純粋に応援したくなる子だと彼女は思っている。
 よし! と意気込んで、何を話そうかな、とじりじり考えながら、ついに握手会当日になった。お手紙を書いてきたので、直接渡そうと思う。席につくと、結構人が入っている。最初に挨拶と、天哉くんからのファンへのメッセージ、今後の活動などの宣伝があったのち、ついに握手会が始まった。みな、シューズやTシャツ、グッズなんかを持って、サインをもらい、握手を求める。ずらっと並んだ列を一人一人丁寧に対応していく姿は、どこかまだしどろもどろで、不慣れな感じが更に慈しみを煽った。
 とうとう自分の番に来たとき、最初に手紙を渡した。
「あ! ありがとうございます!」
「応援してます……!」
 くわっ、と大きな口を開いて感謝を述べる天哉くんに、彼女は「応援している」と伝えるだけが精いっぱいだった。何を話そう、とさんざん考えてきたことも頭からすっ飛び、真っ白になる。
「遠いところをわざわざありがとうございますッ! 恐縮です! まだ未熟者ですが……」
「お! お兄さん! リハビリしてるんですか!? 毎日!?」
 天哉くんの口上を遮って思わず言ってしまった! 彼女が、支離滅裂に叫んだその質問を早くも後悔しはじめたとき、しかし飯田天哉はみるみる顔をほころばせ、にっこり笑うと、
「してますよ! 毎日僕と寝る前にストレッチをして、最近はエンジンの方はもう調子が戻って、走れないのにアイドリングなんかしてるんです。お姉さん、兄のことを応援してくださっていたんですね!」
 こく、こく、と大きく頷くと、飯田天哉はぎゅうっと彼女の手を握り締めたまま、うる、と目を潤ませた。
「うれしいですッ! 兄はずっとヒーローなのでッ! これからも応援お願いしますッ!」
「は!! はい!! 応援してます! もちろん天哉く……インゲニウムも!! 応援します!!」
「ありがとうございますッ!」
 はい、ありがとうございました~、とスタッフに剥がされて、ちょっと呆然とするくらいちゃんと話せなかった。けれど、彼女のこころに後悔はない。握り締めてくれた優しい手。お兄さんと一緒だった。天晴さんとおんなじ握り方だった……。彼女は、しばらく自分の手を抱きしめ、さめざめと泣いた。

 徐々に兄が動けるようになってくると、ファンミーティングにサプライズで兄が登場するということも増えてきた。そのたび、参加していた彼女は卒倒しかけるほど興奮し、喜んだのだが、昔のように「飯田天晴が好き」な自分ではなく、「飯田兄弟が好き」な自分に成り代わって、二人が元気で並んでいることに何よりの感動を覚えるようになった。そのころ、彼女にも、結婚、退職、引っ越しと、いろいろな私事が降りかかってきたが、その中でも飯田兄弟を応援する活動はやめなかった。どんなに忙しくったってイベントにもファンミーティングにもオフ会にも行く時間を作った。

   〈六〉

 轟焦凍と飯田天哉が怪しい、と言っていたパパ女ちゃんに、先見の明が備わっていたようだ。
 轟焦凍ことヒーロー、ショートと、飯田天哉改めインゲニウムが、正式に交際を発表し、結婚する予定をメディアで報告した。あの日、最速で情報を仕入れたのはパパ女ちゃんだ。彼女は今や、エンデヴァー最推しの轟飯(ショート×インゲニウムのカップリングの名前だそうだ)推し女としてバンバン同人誌を発行し、本人たちにばれないようにナマモノジャンルでBLを謳歌し続けていた。轟飯界隈は祭りっていうか呆然って感じなの! マジだったの!? っていう! しかも公表してからあけっぴろげになってさあ、デートも堂々とやるんだよ~~! もう公式が最大手って感じご結婚おめでとうございま~~~す!! と居酒屋で酔っ払って大声出したパパ女ちゃんの気持ちが分からなくもない。
 飯田天晴の弟が二人になるのだ。美貌の人気ヒーロー、ショートがまさか本当にインゲニウムと付き合っているとは思わなかった。でも、結婚指輪を照れくさそうに二人で見せて、並ぶ姿はお似合いだと素直にそう思う。ショートの女性ファンが泣き叫んでいることは事実だそうだが、一周回って、どこの馬の骨とも分からないモデル上がりの芸能人女と結婚するくらいならインゲニウムと結婚した方がいい、と落ち着きはじめているようである。
 長い文面で丁寧に結婚報告を書いた天哉と違って、焦凍の方はたった一行、「飯田と結婚することになりました。ぜったい幸せにする」とだけあるのが、いやに頼もしい。ねえ、おばあちゃん、天晴さんの弟くんが、結婚するんだよ! まるで自分の結婚したときのように、祖母にそう報告した。もう祖母はいまやマリア像の隣に、写真となって飾られるようになってしまったが、祖母の優しいほほえみは、よかったねえ、とあの時のまま、祝福しているみたいに見えた。

 世界にもっと同性婚を広めたい。そういう思いで、二人は結婚式のライブ配信に踏み切った。二人の晴れ舞台として、二人だけで小さくやりたい、とも思っていたのですが、他に同性婚へ踏み切れない人たちへ、勇気になればと思って。そういう彼らはやっぱりヒーローだ。結婚式には雄英高校時代の同級生たち、恩師たちも多数集まるようで、もちろん両家の両親たちも集まるので、パパ女ちゃん(いまでは轟飯女ちゃんだが)、俊典オタちゃんと三人で集まり、休日のある日、ライブ配信をいまかいまかと待ちわびている。
「どうしよう、もう泣きそう……」
「わかる……わたしももうヤバイ……!」
「ウウ~~、おめでたいねえ……。俊典来るかな……」
 そう言い合う間に、配信が始まった。最初から最後まで泣きっぱなしだったが、涙の頂点は、新郎の退場の際に極まった。
 まず、焦凍がスピーチを始める。飯田天哉への想いと、家族への感謝の気持ちを語りはじめたとき、嬉しそうに泣く母と、ハンカチで目元を拭いている姉のとなりで、うる、と目をきらめかせるエンデヴァーの姿が一瞬写って、パパ女ちゃんが泣き出した。パパ、パパ、うれしいよねえ、確執もあったのに、「あらゆる意味で、親父がいなければ、いまの俺はありません」なんて言われたら、無理だよねえ、とわんわん泣くのにつられて、彼女も涙が浮かんできた。
 しかし、彼女にはそれも序章になってしまった。天哉にマイクを代わったとき、ワッ、と会場がどよめいた。天哉があんぐり口をあけて、ぼろぼろっ、と涙を流し始める。倒れ込みそうになったのを、隣の焦凍がしっかり抱きとめて、微笑むせいで、彼女は「アアアア」と声なき声を上げて泣いた。

 兄である天晴が、車いすから立ち上がり、体の片側を杖に預けながら、一歩、一歩と進み始めたのだ。
 歩いている!
 立つのがやっとだったはずなのに、確かに、時分の足だけで、杖の支えなく、歩いている……。

 焦凍は知っていたようだった。秘密で、二人で特訓した、と後で明かして、「ひどいぞ、配信だったのにみっともないほど泣いてしまったんだ、俺は……!」と天哉が憤慨することになるが、このときは構っていられない。天哉のところへたどり着いて、天晴ががばっと体重をかけ、天哉に抱きついた途端、にいさあん、と天哉の泣き声をマイクが拾った。もうだめだった。女三人、ライブ配信がうつるテレビの前で、抱き合って号泣するしか方法がなかった。
「アアアア、にいさん、にいさああん、」
 天哉は五歳の少年のように大泣きした。スピーチは言葉にならなかった。天晴も泣いていた。世界一の弟が二人になりました、と天晴がそう言ったとたん、しっかり天哉を抱きとめていた轟焦凍が、ぼろっ、と涙を流して、くちびるをふにゃりとゆがめた。
「ファンの、……っみなさまに……! さ、さ、ささえ、られて……ッ」
 泣きながら、なんとかスピーチをしようとする天哉は、眼鏡をぐしょぐしょにして、ついに言葉を失ってしまった。天晴が車いすに戻り、抱き合い、天哉と焦凍はもう一度並んで、最後は笑顔で退場した。割れんばかりの大きな拍手とともに、ライブ配信が終わったが、女三人は泣きながら、いつまでも手を叩くのをやめなかった……。

   〈七〉

Mail to : ingenium_info@cco.jp〈インゲニウム事務所〉
Title :ご結婚おめでとうございます。
飯田天晴・天哉様
 はじめてメールを送ります。妙な文章になっているかもしれませんが、どうかご容赦ください。
 わたしは飯田天晴さんこと、インゲニウムさんのことをずっと陰ながら、応援してきました。はじめて天晴さんを知ったのは、ある高速道路でのヴィラン襲撃で、大渋滞になった日のことでした。
 自分語りになってしまって、とっても恥ずかしいのですが、わたしはあの日初めての運転で、大混乱の道路の真ん中で本当に不安で、心細かったんです。けれど、そんなときに現れたあなたに、とても勇気づけられ、その日からあなたの大ファンになりました。けれど、ヒーロー殺しにやられた、と悲報があった日から、生きた心地がせず、わたしもすっかり気力を失ってしまっていました。
 今思えば、弟の天哉くんは、そんな中一生懸命にがんばっていたというのに、自分が情けなくてたまりません。天哉くんのご結婚の報告と、結婚式のライブ配信を見て、いてもたってもいられず初めてファンメールを送ります。お返事をいただけるメール形式でご連絡をするのは、一ファンのわたしのただの応援メッセージに、大仰すぎるかなと思い、これまで控えていたのですが、意を決して送りました。ただ、気持ちを伝えたいだけですので、お返事は急ぎませんし、なくても全然問題ありません。ただ、本当に、あなたたちご兄弟を応援してきて、本当によかったと感謝の意を伝えさせてください。
 また、ご結婚、本当におめでとうございます。ライブ配信を見て号泣いたしました。天哉くん、素敵なパートナーで本当によかった。お幸せになさってください。(いまは新婚旅行中とのことで、楽しんでおられることを祈っております。)
 天晴さん、あの日、痛むでしょうに、足を動かして、歩いて行かれたときのこと、今もずっと目に焼き付いています。わたしはあなたに勇気をもらいっぱなしです。いつまでも、天晴さんはわたしのヒーローであり、天哉くんのヒーローなのだと思います。握手会で、天哉くんがあなたのことを「ずっとヒーローだ」とおっしゃっていたこと、お伝えしておきます。今後は二人になった弟と仲良く、楽しく、元気になされることを心から祈っております。
 あなたたち兄弟と出会えて本当によかった。わたしの光です。
 気持ちのこもりすぎた文面で大変失礼いたします。わたしの応援の気持ちが少しでも届きますように。これからも変わらず応援しております。

 天野(あまの)いのり

    ***送信完了***
 
Mail to : anikura_star@bmail.com
Title:Re:ご結婚おめでとうございます。
天野いのり様

 素敵な応援メッセージをありがとうございます。お返事が遅くなってしまい、失礼いたしました。
 インゲニウム事務所の、飯田天晴と申します。
 メッセージを読み、思い出しました。大渋滞の日、手を握ってくださったおばあ様と、お母様、また、いのり様の手の力強さに勇気づけられたことを覚えております。あの日は僕自身、混乱していて、何が最善か判断がつかずもどかしい場面がたくさんあった中、あなた方に勇気をもらい、やり遂げることができました。
 こんなに長い間応援してくださっていたと知り、大変光栄に思います。僕をここまで支えてくださり、応援し続けてくれた、いのり様のようなファンの方々があってこそ、今の僕があるのだと改めて気づかされました。前線からは退きましたが、僕は決してヒーローであることをあきらめてはおりません。あきらめると弟にも悲しまれてしまいますしね……笑。
 弟にも、このうれしいメッセージを転送しました。今は海外旅行中でこちらにおりませんが、弟の分も合わせてお礼を申し上げます。
 きっと、あなたたちご家族が祈ってくれたから、僕は勇気を捨てずにこれたのだとおもいます。これからも、僕ら兄弟、そしてインゲニウム事務所をどうぞよろしくお願いいたします!
 いのり様の平和をお守りいたします。

 インゲニウム事務所
 飯田天晴