誰にも秘密にして

一、まぼろしの社
 神社の砂利の上に、盛大に転んだ焦凍の体を抱き上げて、あー、痛かったねえ、大丈夫よ、と優しい声で余計に泣きじゃくった。お前は男だろ、泣くんじゃない、と父に叱られても、あの時は優しい母の手が、いつまでも撫でていてくれたから、焦凍は気にならなかった。めかしこんだ両親も、着飾った姉も、子ども用の袴を着せられた動きづらい体も……どうだってよかった。母がずっと一緒にいてくれると思っていたから。
「焦凍」
 母が焦凍の体をゆすって、顔を上げさせる。涙でぬれた目のせいで、母がどんな顔をしているかわからない。擦り傷で傷む膝小僧が、じくじくと傷んでいる。痛い、と訴えると、母は困ったように笑った。
「お母さんね、……行かなくちゃ」
 焦凍の体がすとんと地面に下ろされた。母は社へ続く長い階段をどんどんと登って行ってしまう。その階段はどこまでも、……無限に続いているように見えた。社の上にはたくさんの人が母を待っている。焦凍は、あの場所まで母が行ってしまったら、二度と会えないことを本能的に悟って、わんわん泣いた。父は母が社へ向かっていることに、なぜか気づいていないようだった。
 階段を上りたいのに体が動かない。
おかああああさあああああん!
と泣く焦凍の声が真っ白い空間にスウと吸い込まれて消えていく。父が焦凍を見下ろしている。お前のせいだ、と焦凍は叫んだ。力の限り叫んだ。しかし父は憮然とした面持ちで、息子がなぜ怒り狂っているのか分かっていない顔をしていた。……

二、午前三時は密会
「……ッ!!」
 起き上がると、真夜中の三時すぎであった。寮の自室で眠っている。轟焦凍はすこし暗闇の中呆然としてから、布団から起き上がった。
 もうしばらく見ていない、母の夢だった。体育祭の前後はよく見ていたが、もうすっかり見なくなっていたのに。のそり、と立ち上がって、寝巻のまま外へ出る。廊下はうっすらとした灯りがともっていて、壁伝いに談話室へ向かって行った。
 茶でも飲んで、落ち着こう。九月に入ったが、まだ暑い日が続いている。そのせいで変な夢を見たのだろう。轟は洗い場のかすかな灯りだけで冷たい麦茶をいれ、一人でソファに座ってぼうっと飲んでいた。
 物思いにふけっていたから、人の気配に気づかなかった。「わ!?」と相手が驚くのが先で、同時にパッと談話室の電気が灯された。見ると、パジャマ姿の飯田天哉が立っている。飯田は青いチェック柄のパジャマにナイトキャップをかぶって、轟のように裸足ではなく、同じ柄のスリッパを履いていた。
「驚いた! 君もいたのか……。お茶を飲みにきたんだな? 電気をつけないと目が悪くなってしまうぞ!」
「おお。わりい」
 むく、とソファから起き上がって、麦茶を注いでやった。飯田は「ありがとう! すまないな!」と恐縮して、一気に飲み干した。冷蔵庫からさらにオレンジジュースの紙パックを出している。本当はこっちを飲みにきたのだろう。
「珍しいな! 君が目を覚ますなんて」
 轟が夜ぐっすり眠ることはよく知られている。そういう飯田の方こそ、どちらかというと定刻になれば電池が切れたように眠ってしまう男だったのだが、珍しく飯田もこの夜中に目を覚ましたらしい。
 飯田は轟の隣に座って、グラスにたっぷり注がれたオレンジジュースをちびちび飲んでいる。飯田が飲んでいる様子をじっと見つめていると、「ん?」と飯田が轟に目を向けた。
「おまえも珍しいな。いつも起きねえだろ」
「君こそ」
 飯田が話題をあいまいに避けようとするのは、隠したいことがあるときである。飯田と仲がよくなったのはつい最近のことだったが、規則正しく順序立てて行動し、行動パターンに複雑性が比較的少ない男だったので、轟は飯田のことをもうよく分かっているつもりでいる。
 飯田の兄のことがあって、轟が感じた予感が的中して以来、「飯田のことはよく分かる」という感覚は強くなっている。飯田は飲みかけのグラスを置き、たたみかけるようにじいっと見つめる轟の視線に微笑を浮かべた。
「……嫌な夢を見たんだよ」
 観念して話し始めた飯田は、諦めるような、少し恥じ入るような、微妙な調子でぽつぽつと言う。轟はハッと押し黙った。
「兄さんが、二度と戻ってこなくなるような……。まぁ、いまは大分元気になって、病院でも起き上がったりできるようになっているんだけどな……。でも、どこかで俺は不安なんだろう。弱気で恥ずかしいばかりだが、最近そういう、嫌な夢を見ることが多くてな」
 隠し事を生来よしとしない飯田なので、話し始めると素直につらつらと、言いよどむことなく話し切ってしまう。同じだな。轟はうつむいて、飯田に親近感を抱く。方向性は違っていても、家族が抱える問題のため、轟は飯田にしょっちゅうある種の「親近感」を覚えている。同時に、飯田も同じだといいな、とそう思う。
「……俺も、嫌な夢で目ぇ覚めた」
「おお! そうなのか。……うん、もしかしたら、とは思っていたんだ。俺と同じだな」
 悲しげなほほえみを浮かべる飯田は、こういうときにしか見ることのできない貴重な飯田だ。いつもはクワッと大きく四角い口を開いて、よく通る声を張っている。みんなぁー! 注目するんだ! とかなんとか言って。
「お母上の夢かい」
「ああ。そんなとこだ」
「苦労するな。お互いに」
 とんとん、と飯田が轟の背中をやさしく叩いた。飯田はすげえな、と轟はおもう。緑谷に感じる「すげえな」とはまた種類の微妙に異なる感じだ。自分もつらいと感じているときに、別の人間にやさしさを与えられるところ。そういうところを「すげえな」と思う。
「変な時間に起きてしまったから、きちんと明日起きられるようにな! 轟くん、おやすみだぞ」
 飲み干したオレンジジュースのグラスを片手に、飯田はシンクで手際よく洗い、片手を挙げて自室へ戻った。轟も手を挙げて応じる。眠れるんだろうか。轟は眠れる気がしない。麦茶を飲み終わり、立ちあがったとき、ぴしりと嫌な痛みが膝にはしった。
「って」
 パジャマのズボンをめくり、膝を見やると、血のにじむ擦り傷ができていた。
 あの神社の、砂利の上で転んだような傷跡だった。

三、救う男とがまんできる男
「あれ、轟くん、怪我?」
 野外での実践訓練の前、着替えていた轟に緑谷が声をかけた。膝にバンッと貼っている絆創膏を見てだろう。
「ああ。擦りむいた」
「大丈夫? はがれかけちゃってるけど……」
「動くととれちまう。……苦手なんだ、こういうの」
「わ、結構血が出てるね」
 授業で? と問われたが、違うと言った。この傷ができたのは昨日の夜。夜中に目を覚ましたあのときからだ。神社で転んだ、七五三の時の夢。袴のまま盛大に転んで、母にずっとだっこしてもらっていたことをうっすら思い出せたくらい鮮明な夢だった。
「二人とも、準備はできたかい」
 ロッカーに着替えをいれ、ロッカーの扉からひょこっと顔を出した飯田が、轟の膝に目を向けた。めくれかけた、へたくそな貼り方の絆創膏を哀れに思ったのかもしれない。飯田は眼鏡を上げて、ムムッ、と傷口をじっと見つめた。
「大丈夫かい轟くん! 盛大に転んだな」
 転んだ傷だと見てすぐわかったのはさすがだ。これじゃあ授業でも痛むだろう、と飯田はしゃがみこんで、轟の膝の傷の状態を調べ始める。
「リカバリーガールのところへ行ったかい」
「いや、大した傷じゃねえ」
「うーん、でもこの手当てはお世辞にも上手だとは言えないぞ」
 咎めるような目をしている。応急処置もヒーローのスキルのうちだぞ、と表情がそう言っていた。轟は応急処置というやつが苦手である。全然必要がなかった、ということでもあるし、救助に関わることを熱心にやってこなかったせいでもある。わりい、と素直に謝った轟に、これから覚えないとな! と飯田はビシリと片手を挙げた。
「まだ授業まで時間がある! 俺が応急処置をしてやろう!」
「……飯田が?」
 轟の返事も聞いちゃあいない。飯田はすっかり決めてしまったようで、ロッカーの中をがさごそと探り、小さな救急箱を取り出した。
「飯田くん、応急処置セットちゃんと持ってるんだね。さすがだなあ」
「いやいや! さすがというほどでもないぞ緑谷くん! 女子が裁縫セットを持っているようなものだよ」
「女子力が高いってことだね……」
「じょしりょく。すげえな飯田」
「お褒めいただき光栄だぞ!」
 微妙に会話がズレているのには緑谷以外自覚的でない。飯田に促され、轟は更衣室に置いてあったパイプ椅子に座らわれた。飯田はその前にしゃがみこみ、応急処置セットを用意して準備万端の様子である。
「僕も見てていいかな? 勉強させてほしい」
「それほど玄人というわけではないから恐縮だが……。少しでも足しになるなら喜ばしいことだ!」
 さあ轟くん、絆創膏をはがすぞ。飯田は一言断ってから、ぺりぺりと優しく絆創膏をはがした。丁寧で、くすぐったいくらいやさしい手つきだ。ぶる、と轟は背筋を震わせた。飯田の手先が、皮膚に触れるのがこそばゆい。
「痛かったら遠慮なく言ってくれ」
 飯田は真剣な顔つきで、むき出しになった傷口に、消毒液をしみこませた脱脂綿をゆっくり当てる。ぴり、とひりついて沁みる感じが、子どものころから苦手なのだが、友人の手前、轟はじっと我慢した。正直消毒液のボトルを手に取った段階で、「沁みるのはいやだ」と主張したかったくらいである。
「消毒してから、軟膏を塗って、ガーゼを貼って包帯を巻こう」
「おおげさじゃねえか?」
「いやいや、そんなことはないぞ。これから運動するのだし、動きやすくしておかないと」
 飯田の手つきには迷いがなかった。くるくる、包帯を巻きつけていき、足を動かしてごらん、と言われると、なぜかグッときた。お医者さん、もしくはお父さん、いや、いっそお母さんのような優しい言い方に胸がつまったのだろう。飯田の、どこか頼りたくなる雰囲気はこの「お母さんっぽさ」のせいなのだろうか。
「強すぎないか?」
「いや。ちょうどいい。ちゃんと動く」
「すごい、飯田くん手慣れてるなあ」
 熱心にノートを取りながら見ていた緑谷は、終わると満足げに目をきらきらさせて、さっきの処置をブツブツ言いながら復習している。緑谷はナチュラルボーンの勉強家なのだ。
「病院で兄の包帯換えをしょっちゅう見ているから、よりうまくなったのかもしれない」
 にっこり笑おうとして、せつなげに眉を下げてしまった飯田に、緑谷は笑いかけた。何も言わずに、うんうん、そうだね。と、それだけでいいのだ。たくさんの言葉はかえって相手に傷をつけるかもしれない。緑谷はそのへんの機微をよくわかっている。
(飯田も、緑谷も、すげえな)
 二人といると、自分が持っていないものによく気付かされる。それで劣等感を感じるような打たれ弱さよりも、ならばその力を自分も手に入れてやろう、と負けん気を発揮する方なので、一緒にいて苦痛だと思ったことはない。ただ、二人にも何か自分は与えてやれているのだろうか、とは考えたりもした。轟はあまりにも、自分が持っているものが少なすぎると感じていた。
「ありがとう、飯田」
 ジャージの下に隠れた包帯の、かすかな圧迫感に慣れてきた。礼を言った轟に、飯田はにっこり笑いを見せた。
「礼には及ばないぞ! 友だちじゃないか」
 おお。思わず頷く。飯田はちかごろ、嬉しそうにこの「友だちじゃないか」という言葉を使った。

四、もう会えない
 長い廊下の果てに母がいる。怖いほど真っ白い病棟を、ひたすらに進んだ。さっきから長いこと歩いているのに、目的の部屋にたどり着かない。二階を上がればすぐだったように思ったのだが。轟はきょろきょろとしながら、病室の奥を目指し続ける。そう言えば誰にも出会わなかった。母はおろか、看護婦にも、医師にも。
 真っ白な世界に轟だけ色がついている。ぽつぽつと点在する病室の扉を覗き込むと、中には更に真っ白な廊下が続いていた。病室じゃねえのか、ここ。少しばかり不安に思いながら、轟はしばらく歩いてから早足になり、ややもすると駆け足になった。
「お母さん!」
 焦燥に駆られ、叫ぶと、ぅわん、と白い廊下の奥に叫び声は吸い込まれる。まだ廊下は延々と続いている。
 病棟を走ってはいけないぞ! と、いるはずのない飯田の叱り声が聞こえた気さえしたが、轟は止まらなかった。走らなければ、永遠に母の病室にたどり着けないような気がする。走り続けた轟の目線の先に、ようやく、ぽつんと何かの影がうつった。うっすらと白い霧の中に、誰も乗っていない無人の担架が置いてあった。
「……」
 無人の病院に一つだけある担架というのは不気味だ。からから……。と頼りなげに動いて、担架は轟の前に進んでくる。逃げ出したい、と本能が叫んでも、体が動かなかった。
「焦凍」
 不意に、耳に母の声が届いた。振り返るが、誰もいない。体を一回転させて、ぐるりと視界をもとに戻した轟は、あ、と声をつまらせる。
 無人だったはずの担架に母が乗せられている。体をしばりつけられ、悲しそうな目をして母はわらう。もう会えないかも。ごめんね。医師たちは轟を無視して母の体を運んでいく。轟は力を振り絞って叫んだ。何者かの手が轟をひっぱり、とどめようとするのを振り払って、足をもつれさせ、転びそうになりながら走った。医師に罵詈雑言を浴びせた気がするが、大きく体勢を崩して、ズキッと足に鋭い痛みが走った。頭から倒れ込む。床に引き倒された轟は、たくさんの手に押さえつけられ、ただ母を呼んでいた。……

五、誰か手を握っていてほしい
 ハッ! と飛び起きる。……まただ。この前、悪夢に飛び起きてから、まだ大して時間が経っていない。もうやや涼しくなってきた季節だと言うのに、轟はうすく冷や汗をかいている。お母さん。不安になって、轟は思わず携帯電話をつかみ、母にメッセージを送った。
「お母さん」
 迷って、こう続けた。
「なんともねえか? 元気?」
 母はこれを見て笑うだろうか。焦凍、突然こんなこと送ってきて、どうしたんだろ。と、含み笑いを漏らすのだろうか。
 のそ、と轟は起き上がり、二度寝る気にならず、部屋を出た。またしても午前三時。この時間は呪われている。轟は談話室に向かった。やっぱり麦茶が飲みたかった。
 この前と同じ真っ暗闇の談話室に、前回飯田に注意された通り、電気をつける。麦茶を入れて、ソファに座った。しばらくじっと動きたくなかった。
 夢見が悪いのは時期や体調のせいだろうか。ちゃんとこれまで通り週に一度は見舞いに行っているし、母との会話もスムーズになってきた。笑って寮に帰ってくることがほとんどなのに、夢に出てくる母はいつだって悲しい顔のままである。俺の心の中に、まだ不安があるってことか。轟は黙って麦茶を飲みながら、じいっと、そんなことを考えている。
 ギッ、と音がして、今度は轟も気が付いた。暗い廊下の向こうから、やってきたのは飯田だった。青い顔をしている。飯田はハッと立ち止まり、「轟くん」とつぶやいた。また君か、という顔をしている。飯田の表情から、また嫌な夢を見たのだろうというのは明白だった。
「おお」
「……」
 飯田は黙って、今度は自分でオレンジジュースを注ぎ、「隣に座っても?」と尋ねる。「ああ。どうぞ」と少し詰めると、ソファがグッと深く沈んだ。
「……また夢か」
 轟が尋ねると、飯田は力なく頷く。どうしてだろうな。季節柄か、または体調のせいなのか……。と轟と同じように考えている。飯田はこの前見たときよりずいぶん参っているように見えた。
「大丈夫、……じゃねえな」
「いや、大丈夫だよ」
「……無理すんな。友だちだろ」
 飯田がいつも言う言葉をそっくり返してやる。飯田は目を上げて、ため息を吐いた。
「俺は駄目だな。君はいつも気丈で、強いのに」
「いや。飯田の方が、すげえだろ」
「とんでもない。君や、緑谷くんの方が、よっぽど強い。僕は足を引っ張ってばかりいる。君たちのように考えることがどうしてできないんだろう、……知識ばかり、僕は頭でっかちに……」
「……ぼく」
 悲しみのせいだろうか。「僕」と自然にこぼしている飯田をからかってそう言うと、飯田は照れ笑いをして、それから、うるっ、とたまらなく目を潤ませた。
 あ、泣くかな。轟は身構えて(何しろ人の涙に慣れていない)、思わず飯田の背中をとんとんとやった。こういう優しさがかえって相手を泣きたい気持ちにさせるということを轟は知らなかった。飯田は眼鏡を慌ててはずし、ぐいと手の甲で目元をぬぐったが、間に合わず、ぼろっと滴がこぼれた。
「……っす、すまない……」
 ごめん。飯田は言って、うつむき、黙っている。黙っている飯田は落ち着かない。轟はそっと飯田の肩を引き寄せた。
 轟の腕の中で飯田は肩を震わせている。飯田の腕をゆっくりさすって、髪からかおる健康的なにおいを感じている。飯田はひとしきり、ひくひくしゃくりあげるのが止まるまで泣いたあと、
「……誰にも、言わないでくれよ……」
 と顔を上げた。
「どんな夢だ?」
「……え?」
「夢。怖ぇ夢、見たんだろ」
「……」
「……俺は、お母さ、……母さんのことがあってから、病院って、すげえ苦手で。できたら行きたくえんだけど、そこに行かなきゃ母さんに会えねえから。だから行くしかない。もう慣れたかと思ってたんだが、慣れてねえみてぇだな。今日見た夢も、前に見た夢も、母さんが遠くへ行って帰ってこねぇ夢で、また目ぇ覚めちまったんだ」
 飯田はじっと、轟の話に耳を澄ませて、轟の肩に預けていた頭をそっと離した。別にずっとそうしていてくれってよかったのに。そう思っている自分がいて、轟は「妙だな」と考えている。
「俺も、……似たような夢だった。兄さんの容態が悪化して、どうしても間に合いっこないのに、ものすごく遠い場所から兄さんに会いに行こう、助けようと走り続けている夢なんだ。こんなときなのにエンジンは動かなくて、足が妙に重たくて、段々泣けてくる。兄さんの声がして、天哉、ごめんな、って、……兄さんは何一つ悪くないのに、ずっと謝ってくるんだ。俺は兄さんにたった一言でも伝えたくて、走るしかない。兄さんは謝ることなんてない、謝るのは俺の方なんだ、って……。そして、俺も午前三時に目を覚ます。君と同じだな。不思議だな」
 兄さん、と言うたび飯田の目がうるむ。轟が感じていた「自分だけが弱い」という不安を、飯田も持っていたと知ってどこか安心した。飯田が泣いたり、笑ったりすると、胸がギュッとつまる。できたらずうっと笑っていてほしい、とそうも思う。眼鏡が曇っていることに気づいて、眼鏡を外して拭いているときの、真剣な凛々しい目つきも好きだ。
 ……好きだ……?
 轟がハッと気づいたとき、ぴきっ、と足首に痛みが走った。
 さっきの夢で走っていたとき、足をひねったような痛みが走ったことを思い出した。「っゥ」と声を上げた轟に気づいて、飯田もパッと体を離して顔を上げる。パジャマのズボンをめくってみると、足が青く、痣になって偏食していた。
「ひねってしまったのか?」
「……みてぇだな」
「いつから? 授業からじゃないだろうな! 我慢しすぎだぞ!」
「いや、授業のときじゃねぇ」
 でも、夢の中でなんて言えないよな。轟は口をつぐんで、まあいい、湿布貼って寝れば治るだろ、と楽観的だ。
「テーピングをこまめにしないといけないじゃないか! ちょっと待っていてくれ。このまま寝るなんていけないぞ」
 飯田は有無を言わせず自室に戻り、ややあって、ロッカーに入れていたものの一回り大きな救急箱を持って戻ってきた。ソファに座った轟の前に跪き、丁寧にかかとを持ち上げ、痣の様子を見ている。また、例の、ゾクッとしたくすぐったさが背中を走った。
「痛いかい? 大丈夫?」
「ああ。大丈夫」
「痛かったらちゃんと言ってくれよ」
 足先を飯田に触られているっていうのは、なかなかない体験でくすぐったい。きれいにカットした湿布を貼って、やっと包帯がとれたばかりだったというのに、今度は別の場所にまた包帯を巻くことになってしまった。動きやすいよう関節を避けて包む丁重なやり方で、轟の足首がきれいにカバーされている。おお、すげえ、と言うと、飯田は得意げにふふんと鼻を鳴らした。
「最近は兄さんの包帯替えを手伝わせてもらっているんだ。うまくなっただろう」
「ああ。すげえ」
 お母さんみてえ。とはやっぱり言わない。小さい頃、よく転んだ傷を消毒してもらって、痛い、やだあ、と泣きべそをかいていたらしい。これは姉に聞いた。轟は全然覚えていないし、覚えていても覚えていない振りをするだろう。
「ほら、安静に。明日の実践授業の前に一度湿布を取り換えてあげような」
「わりい。飯田」
 いいんだ。誰かの役に立てているかなと思えると、俺は元気が出るから……。そう言って、目を細めて笑う飯田は、残っていたオレンジジュースを飲み欲し、轟の分のグラスもシンクで洗ってくれた。
「轟くんといるとな。……同じ気持ちを共有しているからだろうか……。なんとなく、俺の弱いところも、正直に見せられるような気がする。俺は、……」
 飯田が振り返って、轟を正面から見つめた目つきが、「ふつうと違う」と、さすがの轟もそう思った。というか、これは、恋に落ちた一組の人間同士にしか分からない「きらめき」なのかもしれない。飯田はきっと俺と同じ気持ちだ、と確信が持てた。目と目が合ったとき、恋に落ちる……なんて、昔話のプリンセスたちはこういうことなんだろう。造詣が深まった。
 だから、行った。実際にはこのとき、轟には頭であれこれ考えていられる余裕なんてなかったが、この衝動と、瞬間的な理解に背中を押されて轟は動いた。飯田は驚いて、シンクを背中に両手をつき、目を閉じることも忘れた。
 ぅちゅ、とくちびるをくっつけるだけの、特段色気があるわけでもないキスだったが、まぎれもなくそれはキスだった。十五歳のおぼつかないキスは、しかし十五歳同士にはとんでもない大事件であった。
「……ッきみ!?」
 飯田が驚きの声を上げた途端、轟はさっと体を翻して、背を向けた。後で飯田に「逃げるなんて卑怯だ」と散々罵られることになったが、逃げたのではない。「やり遂げたからその場を去った」だけである。轟は急いで自室へ戻り、無理やり布団に入って目をつぶった。そしてそのまま朝まで眠れなかった。
「信じられない……」
 無人になったあと、シンクからずるずると崩れ落ちて、飯田は一人きりで息をひそめている。轟が眠れずにじっと布団にくるまって、頭を真っ白にさせているときのことだ。
 飯田はしばらく立てずにいた。初めてのキスだった。誰ともしたことがないし、こういうことには順序があるとばかり思っていたから、突然盗まれるなんて思いもしていなかった。
「……そんな」
 けれど、飯田の目にあるのは絶望や怒りの色ではない。高揚だ。信じられない幸運に見舞われて、文字通り「信じられない」という、潤んだ瞳が眼鏡の奥で揺れていた。
「……告白が先じゃないのか……!」
 嫌とか、拒否とか、とんでもない。飯田天哉だって轟焦凍を「いい友だち」で、時々ふっと「好きだな」と自然に思う瞬間があったのだ。でも、……飯田は信じていたのだ。好き合ったのちに、告白があり、告白ののちに、ファーストキスがある。正当な順序だ。とつぜんキスした轟焦凍は、飯田にとって、歯磨きしてからご飯を食べたり、遊びほうけてから宿題をするような、そんな「ありえない」逆転のように思われたのだ。
「……ふ、不良」
 とっさにそんな言葉が出て、思わず笑う。彼ほど不良に遠い男もいない。よく寝て、いつもどこかぼおっとしているが、やるべきことはちゃんとやる。もしかしたら、恋愛のちゃんとした手順を分かっていないのかもしれないぞ! 飯田は、自分のことは完全に棚に上げて、やおら張り切った。
 彼にちゃんと教えてやらないと! 彼は何しろ、結構世間知らずなところがあるからな……。

六、何事にも順序がある
 強引にキスをしたことが突然一気によみがえって、その朝、轟は今世紀最大の「学校いきたくない」病に襲われたが、仕方がないので定刻通りに教室に顔を出した。入った瞬間飯田に胸倉つかまれて怒鳴られる可能性も考えたが、飯田はいつも通りの手の動きで、「轟くん! おはよう!」と声をかけてくる。まったくいつも通りというのもなんとなく気にかかったが、どうやら胸倉をつかまれることはなかったようだ。一時間目、二時間目、三時間目と順調に過ぎ去って、飯田はもしかしたら昨日のキスの意味を分かってねえのかな? それか嫌すぎて無視されている? など、ぐるぐるとかえって頭を悩ませることになった。
 四時間目が終わり、昼食の時間になった。昼休みをはさんで次は実践授業だ。ここまで普段通り接してきた飯田が、ここぞとばかりにつかつかと近寄ってきて、轟は肝を冷やした。
「轟くん! 足の調子はどうだ? 湿布を貼りかえてあげるから、早めに更衣室に来てほしい」
 ああ、うん。なんとなく気のない返事をしたように思う。今度こそ胸倉つかまれるかと思って気を揉んでいたのだ。
 体操着に着替え、また更衣室のパイプ椅子に座らされる。飯田がしゃがみこみ、丁寧に包帯を取る手つきがやっぱりどうしようもなく好きだ。轟はじっと飯田のつむじを見つめながら、シューーッ、とアイシングする手つきに見とれているふりをして、飯田の目元を見つめている。
「……腫れがひいてる。よかった」
 嬉しそうに微笑む飯田の優しい笑顔に、轟はウッと胸を詰まらせた。……飯田。どういうことだ? なんでキスしたことを一言も言わないんだろう。でも、昨日までは絶対見せなかったような優しい笑みを浮かべているのは、どうしてだろう……。
「君は言わないから」
「え」
「君は、痛かったり、悲しかったり、……そういうことを、なかなか言わないから。友だちなんだから、……もっと頼ってほしかった」
 過去のことを語るようにしみじみと言う飯田の口調に肝を冷やし、じっと固まっている轟のことをお構いなしで、飯田は続ける。くちびるにはやっぱり笑みが乗っている。ものを知らない五歳の子どもに言い含めるような口調だ。
「……でも、今度からは余計に言わないといけないぞ」
「……飯田?」
 何の話だ、と口を滑らせなくてよかった、と心底そう思う。ぎゅっ、と丁寧に包帯を巻き終えて、飯田はしゃがんだまま、轟をじっと見上げて、眉を吊り上げ厳しい顔をした。
「轟くん。物事には順序があるんだぞ。正しい順序が……。本当は、これが正当なんだ」
 コホン、と飯田は改まって空咳をした。轟はきょとんと眼をまるくしていた。
「……俺と交際してくれないか、轟くん」
 ぎゅ、と握られた手を、しばらくそのままにしていたが、轟も握り返した。轟が黙っているので、それまで自信満々だった飯田が、じわじわと額まで赤くなる。目が、「早く答えてくれ!」と切実に訴えてきて、……かわいい。
「……ともだち、……やめないか。轟くん……」
 飯田が消え入りそうな声でつぶやいたのが、とどめになった。ずっと前からそうなりたいと願っていたのだと、轟はようやく自覚した。
「……よ、ろこんで……」
 轟が返事をすると、飯田は突然立ち上がって、
「授業だ! 授業へ行こう! 早くいかないと!」
 と叫んで出て行った。まだ授業開始まで三十分以上あるし、他の生徒たちはまだ着替えにすら着ていないことを、飯田は忘れてしまっていた。

七、目覚め
「どうやら二年の先輩の個性だったようだ! ずっと体調を崩されていたみたいで、個性が均衡を崩していたらしい。結果、同じ寮にいた俺たちに、眠っている間過去の記憶やそのときの不安などを怪我の形で具現化する風に影響してしまっていたらしい」
 轟の膝小僧に出来た新しい擦り傷に消毒液をしみこませた脱脂綿を当てながら、飯田は説明を続ける。
「まさか俺たちが悪夢を頻繁に見ていたのも個性のせいだったとはな……。体調を崩し続けると、個性が妙な形で他に影響を与えたり、逆に弱まったりしてしまうそうだ。先輩はぜんそくで寝込んでいたのが悪影響したようで……」
 話しながらやっているので、飯田の手つきはいつもより優しくない。びりっ、と沁みて、
「いてえ」
 と文句を言うと、飯田は厳しい目をして言った。
「痛いのは治っている証拠だぞ! 我慢するんだ、轟くん」
 君は痛みに強いと思っていたんだけどなあ。飯田がこぼすのにもお構いなしで、轟はちょっと沁みると、「いてえ」と足を引っ込めようとした。
「前はもっと優しかったのに」
「何が?」
「飯田の手つき」
「そうかい?」
 とんとん、とまた強くやられる。
「まあ、これで怖い夢を見ることも、夢の中で怪我をすることもないから、安心だな。毎晩続いたときはどうしようかと思ったが……」
 饒舌な飯田の、わくわくした様子がなんだかかわいくて、トントン、と肩を叩いて上を向かせた。
「?」
 なんだい。というツラだ。けれど、轟が、キスしてやろうと頬に手を添えかけた途端、ぶるぶるっ、と頭を振るって振り払ってしまった。
「順序!」
 真っ赤になって怒る飯田が、そういえば「告白してから二ヶ月正しい交際が続いたのちにしかるべきタイミングで次に進むのが正しい手順だ」と熱弁していたのを思い出した。ああ、わすれてた。まあ、いいや。きっと隙が見つかるだろう。そのときに、隙を狙ってキスしてやりゃあいい。飯田は「不良か君は!」と激怒するだろうが、こいつは箱入りだから、ちょっと世間知らずなくらいは仕方がないのだ……。

 轟と飯田の恋愛は、しっぽを追いかけて遊ぶ子犬に似ている。ずっとぐるぐる追いかけあっていて、そして、自分のしっぽを噛んではきょとんと尻もちをつく。しばらくしてまた立ち上がり、またぐるぐる追いかける。その様子はかわいらしい。
キスより先に進むなんてとんでもない、まだ脳裏にも閃いていない飯田はうきうきと週末の、清く正しい初めてのデートについて思いをめぐらせ、健全かつ健康的な高校生男子である轟は、どうやってこの飯田天哉の隙をついて、キスより先に持ち込むか、あどけない顔で虎視眈々とねらっているのだった。

八、病室の母
「焦凍、メッセージありがとう!」
「元気です。今日の朝は炊き込みごはんでした」
 冬美に教えてもらった方法で写真をとって、息子の焦凍に送った。しょっちゅうメッセージを送ってくれるので、もう大分使い方も分かってきた。焦凍の返事はその日の夕方に返ってきた。
「よかった」
 シンプルだが、焦凍のやさしい声が聞こえる気がして、母は焦凍からのメッセージを読むのが好きだった。
 たいてい一言で返事は終わるので、もうこれきりだろうと携帯をベッドサイドに置いた母は、ピロ、という音で振り向いた。画面にメッセージが表示されている。送ってきた相手は轟焦凍。あら珍しい。覗き込んだ母、ハッ、と息をのんで、そしてみるみるうちに笑顔がこみあげた。
「あと」
「付き合ってるやつができた」
「それだけ」
「誰にも秘密にして」