呪われた城と十人の女たち

※轟くんがモブ女の子と付き合うくだりが何度も出てきます

 
 
 愛と憎しみは双生児である。愛すればこそ憎むし、憎むほどの想いがあって初めて愛するのだ。
 (野上弥生子『夫と妻』)

1.

「最初はさあ、ノリで、ほんとに付き合ってくれたらラッキー、って、そのくらいだったのに。なんであたし、君にコクったんだろう。こんなにつらいなら、コクんなきゃよかった。」(雄英高校一年/普通科)

 轟焦凍に彼女ができた、といううわさは、普通科の一年生から一気に広まり、一日にして雄英高校を覆い尽くした。ナンバー2ヒーロー「エンデヴァー」の息子で、体育祭で見せたクールだがどこか陰のある、圧倒的な強さと整った顔立ち。轟焦凍の名前は高校中に、いや、もっと言うと全国的に知れ渡っている。轟本人のあずかり知らぬところで、彼の名前は手の届かないブランド品のような、特別な扱いをされていた。

 その轟焦凍が、一人の女子からの告白を受けいれた。

 轟焦凍の「彼女」という枠を狙っている人間は数多くいたものの、誰も「告白」という一歩を踏み出すことができなかったのは、彼の家柄と、彼自身のもつ一種異様な近寄りがたい空気のせいだった。きっとわたしに彼の「彼女」なんて座は無理。どう考えても、難易度が高すぎる。女子たちは互いに牽制しあいながらも、あまりにも現実的でない「轟焦凍の彼女」というポストにめまいして、誰も一歩を踏み出せずにいた。
 その、じりじりとお互いをにらみ合いながら、少しずつ前へすすんでいく膠着状態から一歩抜け出して、轟焦凍に近づいたひとりの女が、また、よくなかった。
 雄英高校一年、普通科。
 特に家柄がよいわけでも、飛びぬけて美人というわけでも、個性が抜群にいいというわけでもない、普通の、しいて言うなら声が大きく、ややしたたかな、気の強い女子で、ほとんど「当たって砕けたらいいや」くらいの気持ちで、度胸試しに、轟焦凍に「付き合って」と言ってみた、それだけの女が、
「わかった」
 という非常にあっさりとした、簡潔な返答をもらって、驚かないはずがない。その女子は、例によって、大騒ぎし、うそ、ほんと? うそ! と大声を上げて、感激と驚きのせいで涙を流した。轟はその間、ただじっと彼女を見つめているだけだった。
 最初の女、という肩書きもあって、彼女は有頂天になった。有頂天になったあげく、「轟焦凍を見せびらかす」ことを選んだ。イケメンで有名人で、隣においておくに不満のない、とてもできのいい装飾品だ。彼女は轟をあらゆるSNSでさらし者にした。「彼氏」という一言を必ず添えて。そして、雄英高校には緊迫した空気が流れることになった。あんな子が。どうして。轟くんが。どうして。そして、轟焦凍を少しでも「ほしい」と思う少女たちは一斉に、
「わたしにだってチャンスがあるはずだ」
  と考えるようになった。

 轟焦凍に彼女ができた、という知らせは、雄英高校のちょっとした騒動になった。A組ももちろんその例に漏れない。渦中の轟焦凍は、同輩に何を問われても「別にかまわねえと思ったから」の一点張りで、詳しいことを話そうとはしなかった。
 「彼女ができた」
轟焦凍がそれを面と向かって打ち明けたのは、普段から仲のよい、緑谷出久と飯田天哉の二人きりだ。轟が二人にそう言ったとたん、二人の間にはさざなみのような静けさが漂い、「おっ、……おめでとう!?」と「とにかく何か言わなくちゃ」という焦りによって飛び出したとしか思えない、緑谷の素っ頓狂な悲鳴が先に出た。ヒャー、と緑谷はそわそわ叫んで、無意味に立ったり座ったりしはじめる。飯田天哉はうごかなかった。
まるでヒビが入って、動くと崩壊するのを恐れている、出来損なった塑像のようだった。
「ど、ど、どんな子!? 僕らが知ってる人!?」
「いや。知らねえと思う。俺も知らなかった。」
「えっ!? 轟くんの知ってる人じゃないの!?」
「ああ。昨日、放課後に、告白されて。悪いやつじゃなかったから、そういうのもいいかなと思って。告白されたことなんかなかったし。」
「ちょ、ちょっとまって、いろいろ突っ込みたいところがあるんだけど……!」
 興奮気味にまくし立てた緑谷が、何気なく飯田の方を見て、ハッ、と息を呑んだ。飯田は虚空を見つめて、スイッチが切れたようにぼーっとしていた。緑谷が視線を送らなければ、修行僧の瞑想みたいに、そのままずっと意識を飛ばしていたはずだ。
 緑谷が視線を送ったせいだろうか、飯田はびくっと我に返った。瞬時に瞳の焦点が合い、その目が轟焦凍を捕らえる。轟は黙って、じっと、不思議な色のふたつの瞳を、飯田のほうへ向けていた。
 まるで飯田の様子をうかがうように。
「……が、学生の身で! まだ高校生なのに。けしからん気も、するが、……祝福すべきだろうな。轟くん。おめでとう。」
 最悪に歯切れが悪い、「祝福」をするにはトーンを落としすぎる口調で、ぽつぽつと、飯田はつぶやいて、じっとうつむいていた。ぐいっ、と無理やり顔をあげたような動作があって、改めて、「いいか、きちんと親御さんに挨拶をして、正しいお付き合いをするんだぞ、轟くん。双方の合意と、両親の合意があってはじめて、交際は成立するんだ!」と、あまりにさっぱりとしすぎる、苦しい明るさでそう言った。
「……おお。」
 轟焦凍はそれだけ言って、「わりいけど、だから、今日からは一緒に帰れねえ。」と二人にそう言った。

 クラス中がお祭り騒ぎのようだった。
何しろ、轟焦凍の「彼女」という座を射止めた普通科の女子が轟焦凍と付き合っていることを大々的に発表し、SNSは昨晩から大盛り上がり、その上彼女が、告白したその当日に、轟と並んで下校することに成功したのだからなおさらだ。その際に、轟の腕に自分の腕をからませて、「おねがい、いま一緒に帰ってんのが夢じゃないって思いたいから」とねだる彼女を邪険にもできなかった轟と撮ったツーショットのセルフィが、SNS上で強烈な波乱を生んだ。
その上。
轟焦凍がクラスに現れ、飯田天哉と緑谷出久に「彼女ができた」と報告したすぐあと、教室に一人、女の子が飛び込んできた。彼女のことをよく知る生徒なら、「なんか今日めっちゃ気合いはいってんね」と探りを入れるであろう、うっすら、高校生らしいかすかな化粧をして、髪を念入りにセットした彼女は、
「轟くんいますかあ?」
 と教室へ入ってくるなり、少し間延びした感じで小首をかしげ、赤と白の目立つ髪色を見つけると、「あっ、いたあ!」と駆け寄って、ごめーん、会いたくて来ちゃったあ、と臆面もなくそう言う。さりげなく握られた轟の両手を見て、クラス中がぎょっとした。
 轟は、しかし、寄せられている視線に対してあまりこれといった反応もしない。轟が「ああ」とか「うん」とか言う間に、A組の誰一人顔を今まで見たことがなかった女生徒は、一生分しゃべりつくしたのではないか、というくらいしゃべって、始業前のチャイムで慌てて教室を出て行った。
 轟の表情は変わらない。あまりに彼が平淡なので、クラスの誰一人、彼に何をどう聞けばよいのかわからなくなって、「あの子が本当に彼女なの?」と聞くことができなかった。緑谷は、去っていた女生徒の背中を見送り、ほう、と安堵したようなため息を吐いたあと、飯田の方を見て、
 あっ、と、思った。
 飯田は拳を深く握り、その拳が震えていた。しかし、前の席の麗日が、「すごい勢いや……、恋する乙女って感じだね」と声を潜めてひそひそやると、不自然なくらいいつもどおりで、拳を開き、シュバッ、と手を振って、「学生同士だというのに! 轟くんに限って、不適切な交際はしないだろうが……」と言う。その声がいつもより大きい。無理してるんだ。緑谷は直感的にそう思った。
 飯田がどうして無理をするのかを、緑谷は分からない。けれど、どことなくいやな予感を感じて、緑谷は、なんともない顔をしている轟の横顔に視線を送っていた。

「あ~~~、完全に先越された……」
「つーか張り合う前から負けてる感パねぇ」
 ぐったり机に突っ伏して、世の中顔か、やっぱ顔なのかよ、とドコドコ机を叩いている上鳴が、「轟くん帰ろ~」と教室に飛び込んできた女子と連れ立って、終業のベルの五分後には出て行ってしまった轟焦凍を見送って悲嘆にくれている。あまりに嘆くので、上鳴の頭をひじでぐりぐりやりながら、「ドンマーイ」と自分がかつてかけられた言葉で瀬呂が適当な慰め方をした。
「なんで!? やっぱイケメンクールで謎めいてるのにちょっと天然、ってのがいいのか!?」
「いい、っつーか、最強だよな。スペック高いし」
「ゆるさねえ……そんなこと興味ありませんみたいなカマトトぶった顔しやがって……」
 同じく机に頭を打ち付けている峰田も、上鳴に同意する。瀬呂はSNS上でさらし者にされている轟をあらかじめ昨晩から目にしていたので、たいした驚きもなさそうだった。
「まあでも、クラス外でよかったんじゃねえの。下手に知ってるやつと付き合われたら俺、どんな顔すりゃいいのかわかんねえかも。」
 切島が呆れ気味に(彼は意外と、こういうクラスの四方山話は、興味がないものとあるものへの反応の差が激しかった。)言い、いいじゃねえかそっとしといてやれば。轟もけむてえだろ。と鞄を持って、立ち上がる。爆豪帰らねえの、と言うと、「勝手に帰れ」と爆豪が返事をした。
 そういう、普段から見ていた、そのクラス内の喧騒が、なんだか遠いものに思える。ちょっと、と言って、出て行ったきり戻らない飯田天哉を待って、緑谷と麗日は黙って座っていた。
「飯田くん、遅いね……」
 麗日がぽつんとつぶやく。なにが、とは言えないが、激しい胸騒ぎがするのはなぜだろう。仲良しだったうちのひとりが、永久に去ってしまったような感覚。そんなはずないのに、緑谷はこの「ばらばらになるかもしれない」予感に、ひやりとしていた。
「すまない、遅くなった。」
 教室に入って、投げかけられた声に目を上げた。あ、飯田くん、よかった……、と言ったとき、緑谷は息を止めた。麗日さん。気づいてしまったかな? いや、たぶん、気づかなかったみたいだ。普通に話してる。
 緑谷は、教室に差し込む西日が反射して、きらりと光った飯田天哉の眼鏡の内側に、不自然に付着したひとつぶのみずたまに、息を呑んだのだ。
(泣いてたの。飯田くん。)
(どうして。)
 自明なことなのに、どうしてもつながらなかった。突拍子がないように思えたからだ。飯田が、轟を。逆立ちしてもこのときの緑谷にはそのふたつがつながらなかったし、だからこそ、理由の分からない飯田の激しい感情の渦に戸惑った。
「大丈夫……? 飯田くん。」
 たずねた緑谷のことを、飯田はきょとんとした顔で見つめ、「何がだ?」と、やや、高圧的とも取れるような、有無を言わさぬ声音で押さえつけ、鞄を取った。
「さあ。帰ろうじゃないか、二人とも。」
 抜けた一人のことを、飯田は口に出さなかった。

 ねえ轟くん、……と、声をかけられるひとつひとつを、轟はよく覚えていない。しゃべり続ける隣の女子の言葉のひとかけらさえ、轟の耳には届いていなかった。
 悪い、とも思わなかった。そのくらい、轟にとっていま自分がやっていることは逼迫して「なしとげなければならない」大事な使命のように思われたのだ。する、と女子が絡めてきた手を握り返すと、やわらかい感触が指先に伝わった。
 きっと、あいつはこんな手の感触をしていない。
 轟が考える「あいつ」の手は、ごつごつしていて、おそらく自分より幾分かおおきい。爪を綺麗に、几帳面に切りそろえて、女みたいに長々伸ばしたりしていない。ささくれひとつない綺麗な手は、外から中へ入るたびに綺麗に洗われる。握ったことのない手。轟が考えるのはそればかりだった。
 彼女ができた。
 そう伝えた瞬間の、「あいつ」の顔が忘れられない。これっぽっちも相手にされていないと思っていたが、もしかしたら、同じ気分でいてくれているのかもしれない。轟にはそれが、天国の蓮の池から一本下ろされた、金色の蜘蛛の糸のようにみずみずしく見えた。
 飯田天哉。
 轟焦凍は飯田天哉が「あ!」と驚いた顔で轟を見つめ、そして、苦渋を飲み込むように、体を硬直させて、じっと虚空をにらむ顔を、胸のうちで反芻している。飯田。もしも、万が一でも。飯田が「そんなの嫌だ」と思ってくれるなら。轟の胸中にあるどす黒い、人が「恋」と呼ぶ物体がざわめいている。
 飯田がもしも、自分を好きだと思ってくれるなら。
 俺はどんな女の申し出にも答えられるだろう。
 轟焦凍の決意は固かった。飯田はその日一日うつむき、彼には珍しい憔悴した表情で、机の木目をじっと見つめ、友人たちの言葉にもどこかぼんやりした反応を返していた。
たまに、クラスメイトの輪の中で、ふたりきり、目が合うことがあった。目が合ったとき、轟の胸に起こる心地よいざわめきと、飯田がふと、かすかに微笑するのがたまらなかった。お互いのことをよく分かっている、という連帯感が生まれたのは、路地裏での戦いのあとか、それとも、もっと以前からだろうか。思えば、轟は初めからずっと飯田のことを視界に入れていた。飯田はどうだろう。轟にとってこれは、一世一代の博打であった。
 彼女ができた。そう言った瞬間の、飯田の「なぜ」という顔が忘れられない。
 あの瞬間だけは、「飯田は俺のことを好きなのかもしれない」という思いを少しばかりでも、確信に近づけさせられる。お前が好きだ、と飯田に打ち明ける勇気のない代わりに、轟は「もしかしたらこいつも」という思いを裏付けるためだけに、「彼女ができた」という言葉を、もっと飯田にぶつけてやりたいと思うのだった。

 恋は綺麗な感情じゃない。真っ黒で、わけのわからないかたまりだ。ときめき以外の成分が過分に含まれている。嫉妬。劣情。激情。怒り。不安。悲しみ。それらをこね混ぜて作られたものが「恋」なのだ。
 轟焦凍がそれに気づいたのは、つい最近のことだった。

 轟焦凍は、三日、同じ女と登下校をともにし、じんわりと湿った飯田からの視線が徐々に諦めの色を帯びてきたころに、そろそろだ、と、そう思った。
「わりいけど」
 轟の一言から始まる、さようなら、を凝縮した別れの言葉に、それまで溌剌とした色をまとっていた彼女の、目が突如として潤んできた。大雨に打たれた水はけの悪い道路のように、ずぶずぶと溜まった涙が溢れ出し、彼女は、やだ、と首を振った。
 けれど、轟焦凍は応じなかった。

 轟焦凍がもう踏みとどまる気持ちを持っていないということが分かると、彼女はぼそ、と恨み言を言った。
「最初はさあ、ノリで、ほんとに付き合ってくれたらラッキー、って、そのくらいだったのに。なんであたし、君にコクったんだろう。こんなにつらいなら、コクんなきゃよかった。」
 これらの恨み言を、たくさん背負って、俺はそれでもあいつを諦められないだろう。
 俺は呪われるのだ。たくさんの「さよなら」で、自分へ向けられた好意をいたずらに踏みにじった罰として。
 轟焦凍は、それでもいい、と思った。
 呪われたっていいから、俺は、飯田天哉を好きでいたい。
 (轟焦凍は決意に満たされた。)

[newpage]

2.

「轟くんがくれたやさしさは、わたしの告白をきいて頷いてくれた、それだけだったね。」(雄英高校ニ年/経営科)

 轟焦凍が一人目の彼女と破綻したのは、彼らが「付き合った」日から、たった三日後のことだった。
 もうやだ。むり。しんじゃいたい。
 連日SNSを埋め尽くしていた、轟とのツーショットセルフィが途絶え、その日一日、どんよりした言葉が彼女のタイムラインを埋めていたために、多くの人間は、「マジで?」「早くない?」「別れたの?」と邪推をし、そして、女生徒の大半が、
「やばいじゃん。チャンスじゃない?」
 とほくそ笑んだ。
 轟焦凍は突然フリーになり、かつ、「コクってOKが出る可能性がある男」の位置に上った。以前の轟は、「かっこいいけど付き合えるはずのない男」だった。女はハードルの高すぎる男を敬遠する。手の届きにくい男をいつまでも追いかけるのは、現実味のない、バカのやることだ。だから轟焦凍は敬遠されていたのだ。けれど、いまやもう、轟焦凍は「パーフェクトかつ手の届く可能性のある現実的な存在」になり、
 ……いわゆる、入れ食い状態になった。

 広大な池の中に振り落とされた高級餌に群がる魚にも似たスピードで、轟焦凍は連日、女たちからの何かしらのアプローチを受けた。食堂で、「あっ、ごめんなさあい」とぶつかられるのは日常茶飯事、女子たちは固まって、何の用事もないのにA組の近くの廊下を通り、轟焦凍が歩いてくると意味深なクスクス笑いをして、ちらと目を向けられると、一番上等の笑顔を浮かべる。舞踏会に来たシンデレラが、プリンス・チャーミングに一目で見初められたように、自分も轟焦凍という王子にたった一目で見初められないかと期待するようだった。それらたくさんの視線、女子たちからの好意を浴びても、轟焦凍はどこか上の空で、なんとも思っていない様子だった。
「飯田くん」
 ハ、と目を上げて、飯田天哉は緑谷に向き直った。すまない、もう一度言ってくれないか? 飯田が人の話を聞いていない、ということは珍しい。けれど飯田は近頃そういうことが多かった。
 轟焦凍が彼女と別れた朝、轟は例によって緑谷と飯田に、
「別れた」
 という簡潔な報告をして、「え!?」と驚く緑谷と、ぽかんと口を開けて黙っている飯田の表情を、じっと見つめていた。まるで様子をうかがうように。自分が放った衝撃の波が、どのような効果を持っているか興味がある、そんな様子で。飯田は拳を握り、ぎり、と奥歯を噛んで、
「いくらなんでも、早すぎる。きちんと真剣に考えた上で交際していたのか、君は? 信じられない」
 と怒りをあらわにした。まるで自分が振られたのと同じ、というくらい、飯田の言葉は冷たい。緑谷がぎょっとするほど、飯田の口調はさめざめとしていた。しかし、彼の表情や目つきには、どことなく「安堵」も浮かび上がっていた。
「わりい」
 轟は全く悪びれていない様子で、しかし真摯にその言葉を受け止めたように謝罪して、飯田の表情をじっと見つめていた。触れれば怪我をしそうなほど尖った、鋭利な切っ先で、飯田の喉に狙いを定めている。そんな感じ。緑谷はふたりの、緊張に引き伸ばされ、弾くとビンと音を出しそうな空気に、ごくりと息を飲み込んだ。
(どうしたんだろ……? ふたりとも)
 けれどそんな様子も一瞬で、轟は以前のように、緑谷と飯田のところへ戻ってきた。飯田の表情も、元の通り、きりっと引き締められた、厳しいが温かみのある普段どおりの態度になって、三人が、もとの場所に戻った。

 けれど、それも一日だけだった。
 三人で靴を履き替え、さて帰ろうというときになって、ほら、行っといで、という女子たちの意味深な笑い声が届き、タタタ、とローファーの音が近づいてきた。走ってきたのは、見るからに上級生、といった大人っぽい顔立ちの、少なくとも本人ですら「わたしはある程度外へ向けても恥ずかしくない外見をしている」と自負しているであろう、端的に言えば「美人」だと分類できる女生徒が、轟焦凍へ一直線に走り寄ってきた。
「ごめんね、かえるとこなのに。轟くん、ちょっとだけ時間いいかな?」
 呼び止められた瞬間には、何が行われるのか、緑谷と飯田にも分かった。二人目の挑戦者だ。綺麗な茶色い、胸くらいまでの巻き髪を耳にかけるしぐさをして、不快でないちょうどいいレベルの薄い化粧と、かすかに彼女からかおってくる香水のにおいが、まるで異次元の生き物みたいだった。轟は物怖じせず、まるでそうなることを予期していたかのように、頷いた。
「わりい、二人とも。先行ってくれ」
 「待ってようか」と口を開きかけた緑谷を置いて、「わかった」と飯田が先に答えた。突き放すような、つっけんどんなトゲのある言い方で、飯田はふいと顔をそむけ、行ってしまった。
「あ、飯田くん!」
 ごめん、じゃあ轟くん、また明日ね! 緑谷は慌てて飯田を追いかけ、飯田に並んだが、声をかけることはできなかった。飯田があまりにも、切なそうな顔をしていたせいで、緑谷は飯田にかける言葉を失った。どうしてそんなに、と尋ねようと思っていたのに、緑谷の言葉は外へ出る前に蒸発して消えた。
 轟は突っ立って、飯田の背中を見つめていた。
 ごめんな、と、もっとその顔を見せてくれ、という、二つの相反する感情にもみくちゃにされて、轟焦凍は不器用な、追い詰められた獣みたいな微笑みを浮かべ、彼女に向き直った。
 彼女の体から甘いにおいがする。このかおりはなんだろう。ココナッツか、それともパッションフルーツか。
 けれど、この女の体からする甘いかおりよりも、走りきったあと、隣で着替えながら、轟くん、さっきの授業は、……と張り切って、楽しそうに話す飯田のふともものエンジンが漂わせる、ほのかなオレンジのかおりの方が、ずっと轟には官能的だった。

 轟焦凍に彼女ができた。

 翌日朝、「わりいけど、また別のやつと帰る。」そう言って来た轟を見て、さすがの緑谷も、「これはなんだかおかしいぞ」という嫌な予感にさいなまれた。飯田は、彼のどこにそんな部分が隠しもたれていたのか不思議に思うくらい、聞いたことのないような底冷えする声色で、
「興味がない。勝手にするといい」
 と言い放った。轟は、挑戦的に彼を見上げ、自分の席から動かない飯田を見下ろして、負けないほど冷たいが、どこか熱っぽいものを秘めたような顔で、じっと飯田を見つめていたが、ふいと背を向けて行ってしまった。外には、轟を待ってじっと足元を見つめている、上級生の美人の姿があった。
「ま、まじかよ……、間髪入れず……! チクショー……!」
「ヒュ~~、モテるね~~!」
「しかも超美人! でもペース早すぎじゃない? 断るってことを知らないのかもね、轟」
 教室の窓から乗り出して、峰田、芦戸、葉隠が轟と、轟の「彼女」になった女生徒の背中を見送っている。上鳴がまた机に頭を打ち付けてわめいていたが、緑谷は、それどころではなかった。
「だ、大丈夫……? 飯田くん……」
 飯田天哉。声の大きな、いつでもはきはきと姿勢の正しい男だったが、今は、その影がない。怯えるように体を丸めて、拳を握り、今にも人を殴ってしまいそうな衝動に耐えている。ぎり、と噛み締めた奥歯を緩め、彼は、無理に緑谷の方を向いた。いつもどおりの表情が、かえって不自然だった。
「大丈夫だ。……しかし、すまない……、用事を思い出したから、今日は先に帰ってくれ」
 ごめん。飯田が見せた笑みの底にある、困惑と怒気の大波について、緑谷は何も言うことができなかった。飯田は立ち上がり、鞄を持って、教室を出た。
 分からない。どうして彼にこんなに腹が立つのか、わからない。飯田は途方にくれて、ただただ歩いた。目的もなかった。どこに向かっているのかも分からない。飯田の足が勝手に、最上階の、移動教室でしか使われていない、めったに人の来ない旧視聴覚室に向かっていた。暗幕で覆われ、幕の破れたところからひとすじ、ふたすじほど光の差し込む、埃っぽい教室だ。
(いまの僕にはお似合いだ)
 飯田は中へ入るなり、扉を締め切り、何も映っていないスクリーンをじっと見つめ、次第に瞳を潤ませた。
(みっともないぞ。僕は男子じゃないか。)
「ウッ、……うう、……っ」
 涙がぼろぼろ勝手に転がり落ちる。この間もそうだった。なぜ悲しいのか分からないまま、どうにも抱えきれない喪失感に、勝手に嗚咽が漏れ出てしまう。
(泣き止むんだ。子どもじゃあるまいし。どうして泣くんだ)
「あ、……ウッ、…………っぐ、」
 机に伏して、飯田天哉は思うさま泣いた。なぜ泣くのか分からぬまま泣いた。手の中をすり抜けていく轟焦凍という存在が、憎くてたまらなかった。けれど彼を憎らしいと思うたびに、彼をどうしても好きなのだという、目をそらしきれない事実が目の前に迫ってくる。もしかしたら。もしかしたら彼も同じかもしれない、と思う瞬間があったから、だから、それだけにどうしても嫌だった。誰かに轟をとられてしまうのがただひたすらに嫌だった。

「ねえ、轟くん」
 もうすぐ駅だ。この女とはここで別れる。轟がそんなことばかり考えていたのを知らずに、ココナッツのかおりの女は言った。彼女のくちびるは、噛むと味がしそうなほど、つやつやと輝いている。
「……キスしたいな」
 彼女のその言い方で、この女はすでに「キスする」ということに慣れ親しんでいるのだろう、と察することができた。轟はじっと、照れも物怖じもしない態度で彼女を見つめ、首を横に振った。
「……わりいけど。」
 ココナッツ女は予想したとおり、という得意げな顔をして、ねえ、轟くん、ほんとに女の子と付き合ったことなかったんだね。わたし、疑ってたの。絶対嘘だって。でも分かった。キスも初めてでしょ。ココナッツは笑う。徐々に、轟くんのこと、もっと知れたらいいなあ。彼女は微笑んで、ごめんね、突然キスしたいなんて言って。と謝った。この女は、本当にただ俺のことが好きで、好きだと言ってきたのだろうなと直感的に分かった。
 罪悪感。ないわけがない。けれどそれを凌駕してしまうくらい、激しく飯田を欲しがるのだ。轟には、自分を想わせる方法が、「飯田天哉を傷つける」ことしか思い浮かばなかった。まるで麻薬のようにクセになる、「嫉妬」と「怒り」の表情を見つめて、悦に浸るしか、もう轟には「恋」を咀嚼するだけのすべが思い浮かばない。
 じゃあね。轟くん。また明日。
 女はきっと、明日も明後日も、轟と一緒に下校して、いつかキスを許してもらえるまで、一緒に歩くことができると思っている。
 美人で、やさしく、申し分ない。なぜ俺はココナッツを好きになれないのだろうと思った。もしも、彼女を好きになれたら、もう少し楽になれたはずなのに。
(飯田。俺のせいで、泣いてくれねえかな)
 あわよくば。……轟はふうとため息を吐き、緊張した体を弛緩させて、電車に乗った。座ったとたんに、スコンと眠くなり、轟は目を閉じた。

[newpage]

3.

「ゆめから覚めた、ってかんじ。そりゃそうだよね、コクってOKもらったとき、ゆめだって思ったもん。」(雄英高校一年/開発科)

 二度あることは、三度ある。緑谷出久の脳裏に浮かんだのは古い言い回しだ。大体、古くから伝わる「慣用句」っていうやつは、的を射ているものが多い。先人たちの経験が生んだ、教訓のかたまりが「慣用句」なのだ。
 轟焦凍が、この前まで彼女とともにしていた昼食をあっさりやめて、当たり前のように緑谷と飯田のもとに戻ってきたとき、緑谷は混乱の渦の中にいた。様子のおかしい二人の友人。そして、絶対に「そういう性質の男」じゃないのに、女の子をとっかえひっかえする轟焦凍。絶対に、何かおかしい。轟焦凍の三人目の恋人が、轟焦凍の手によって、四日でお別れになった日のことだった。
「あ、あのさ、轟くん……」
 飯田が黙りこくって、さっきから一言もしゃべらず食事をしているので、普段より沈黙が重苦しい。飯田くんがしゃべらないだけでこれだけ空気に圧がかかるのか、と改めて実感させられた。轟も何も言わない。声をかけた緑谷に、チラと目をあげた轟は、普段どおりの様子で「なんだ」と首をかしげる。
「……何かあった? あの、……別れた、ってこと以外に。」
 様子が変だ、と思ったのは緑谷だけではない。A組のみんなが、「さすがにおかしい」と轟に不審な目を向けはじめた。轟は確かに、ヌケてるとこもあるし、ちょっと冷たいところもあるけれど、さすがにそんなやつじゃない。何かあったはずだ、と深刻な顔をし始めた。
 轟の、めまぐるしい「交際」の嵐があっても、轟を追いかけるのはもうやめようという空気は流れなかった。女子たちは「きっと付き合ってから後悔して、もしくは女の方がヘマをやって、轟焦凍を幻滅させているんだ。次こそは私が、」という思いですがりつくように群がるのをやめない。だからこそ、雄英の女を全部食いつくしてしまうのではないか、という緊張した空気が校内には流れ、轟焦凍はその渦中にいるにも関わらず、表情ひとつ変えなかった。
「いや。別に何も」
「……本当に? つらいこととか、……悩みとか……」
「いや。」
 轟は黙々とA定食の味噌汁をすすり、きょとんととぼけた顔をしている。緑谷は眉を下げ、まあ、何もないなら、いいけど……。と打ち明けてくれる様子のない轟に、引き下がった。
「わりい。迷惑かけて」
 轟は、自分と一緒にいることで、「あ、轟だ」と好奇の視線を投げかけられることを気にしてか、謝罪した。ふん、と飯田が隣でかすかに鼻で笑い、あざけるような調子だったのが緑谷には気になった。飯田くんも、変だ。なにかおかしい。
「先、行く。俺がいると飯がまずいだろ」
 棘のある言い方で、食べ終わったトレイをもち、轟は一瞬だけ視線を飯田に落とし、立ち上がった。
「そ、そんなことないって! 轟くん!」
 慌てて立ち上がった緑谷を、轟は振り返らなかった。一人、トレイを返却口に返して、食堂を出て行く。轟の様子に驚き、戸惑って、突っ立ったままの緑谷に、飯田がため息交じりの言葉をかけた。
「緑谷くん。轟くんのことは気にしないでおこう。彼はそういうやつだったんだ」
「飯田くん……」
 飯田の食べているのはC定食。でも一向に減っていない。喉を通らない食事を無理やり押し込んで、飯田は苦しそうに飲み込んだ。
「俺は。彼を許せない。友人だったが、もう、友人でなくなった、と考えてもいいかもしれない。緑谷くん。俺は……」
 緑谷は飯田の隣に座り、うん、と頷いて、飯田の言葉を待った。
「俺は。……人の好意をああやって踏みにじるようなことをする、彼が、本当に、許せないんだ……。」
 飯田天哉の握り締めた拳が、ふるふると、小刻みに震えていた。

[newpage]

4.

「轟くんが私のことを好きじゃないことはわかってた。それでもよかったの。轟くんのカノジョ、ってポジションがどうしても欲しかったから。」(雄英高校三年/普通科)
「利用価値があると思って付き合ってたのはお互い様よ。でも、捨てられて悔しいと思ってしまった、私の負けね。」(雄英高校三年/経営科)

 強烈な痛みで目が覚めた。あれはステイン戦のあと、三人で入院し、徐々に痛みも引いてきた夜だった。
 腕は後遺症が残るだろうといわれた。無茶をしてはいけないとも。動かすと沁みるような痛みがあり、たまにズキンと、うめき声が出るくらいの衝撃が走ることがある。その夜もそうだった。傷口がえぐられるようで、アッ、と喉につまった声が出た。
 押し殺しても、うめき声が出る。脂汗が浮いて、これは今までで一番酷い痛みだな、とあせった。ナースコールを? しかし手を伸ばす元気もない。見ると、寝返りを打った際にいためてしまったのか、傷口にじくじくと血がにじんでいた。
「ウッ、……くぅ……」
 耐えて、痛みが治まるのを待とう。そのうち、眠気が勝るはずだ。点滴のチューブを一心不乱に見つめて、動けないままで祈った。痛みにさいなまれ、どうしようもないときは、祈るしかない。
しかし、シャ、とカーテンが開く音がして、とす、とす、とスリッパを履いた足音が近づいてきて、ぺら、とカーテンをめくる指先が見えたとき、飯田は(よかった)とわらにもすがる思いになって、とたん、泣けてきた。じわ、と涙に濡れた目を向けて、情けなさに落ち込みもしながら、そちらを向く。見ると、轟焦凍が立っていた。
できれば緑谷くんであって欲しかった。轟くんにこういう情けないところを見られるのははずかしい。
なぜ自分がそう思ってしまうのか、飯田にははっきりと理屈が分からなかったが、涙でにじみ、痛みに耐える目が、轟とかち合ったとき、(はずかしい)という思いと、(よかった)という安堵が一緒くたになって、はじけた。
「大丈夫、……じゃねえな。痛えか」
 ぽろ、と思わず、制御しきれなかった涙が目元から落ちてしまったのを、ぬぐうこともできなかった。不安げで、助けを求める目つきをしていたのだろう。轟焦凍は迷わずベッドサイドのナースコールボタンを押し、大丈夫、もうすぐ来るから、と飯田を落ち着かせるように、髪をぽんぽんとやさしく撫でた。
 たぶん。それが、「瞬間」だったのだと思う。
 頭を撫でられる、というのが、飯田にとってはこれまで兄の天晴くらいにしかされない特別なものだった。その天晴が、不自由な手をあげて、「天哉」と頭を撫でようとしてくれるのが、たまらなく悲しくって、もう僕の頭を撫でてくれる人はいないのだと思っていた。
 轟は看護士が来るまで飯田の横を離れず、落ち着かせるように、やさしく髪を撫でたり、胸のあたりをトントンとやったりして、歯を食いしばって痛みに耐える飯田を励ました。看護士はすぐやってきて、鎮痛剤が切れた上に、傷が開いたみたいだ、よくがんばったね、と飯田に声をかけ、その場で麻酔が打たれ、応急処置された。
 あのあとどうなったか、飯田は覚えていない。麻酔ですぐに眠ってしまったからだ。けれど、応急処置の様子を見ていた看護婦から、
「お友だちがずっと横で手を握っててくれてたから、安心して眠れたでしょう。お礼を言っておいてあげてね」
 そう言われて、飯田の感情は明確になった。

 轟は飯田に、「俺とお前は似てる」と言った。「だからほっとけない。俺を見てるみてえで、はらはらするし、……手え、貸したくなる」。彼は路地裏の戦いのあと、飯田にそう言って、照れ隠しの微笑を見せた。俺も緑谷にいろいろ教わって、いろいろ気づけたことがある。まだ未熟だし、わからねえことばっかりだけど、お前を助けたいと思った。そう言って、轟は飯田を見つめた。不思議なふたつの目の色が飯田を照らした。
「……お前は、俺より、ずっと素直だし、ずっとしゃんとしてるだろ、飯田。だから、きっとお前はお前の足で立ち上がれる」
 大してたくさんしゃべる仲でもなかったし、仲良くなりそうな兆しもなかった。だからこそ、うれしかった。飯田は轟に手を差し出し、
「俺たちは、友だちだな。轟くん」
 と言った。ああ、と轟が答えて手を差し伸べたのを、握手して、引き寄せて、力いっぱい抱きしめた。轟は少しぎょっとした様子で、「おい、」と言ったが、やめなかった。
「俺はうれしい!」
 たった一言、それだけの言葉が、全てを物語っている。友だち、っていうのはとてもいい。「友だち」というのが、僕は最高に好きだ。飯田は轟という新しい存在を迎え入れることができたことに、ものすごく感動していたのだ。

 様子が違ってきたのはそれからだ。
 大勢の輪の中にいるとき、目が合うことが多くなった。目が合って、ためらいがちに、お互い確かめ合うように見つめる時間を長くすると、徐々に彼をどうしても意識してしまうようになりはじめた。じ、っと目を見る。逸らす。その瞬間、体が不自然に熱くなり、鼓動が早くなる。喉がつまるようなもどかしい感じがあって、じめついた、嫌な気持ちも一緒に沸く。誰かとふたりで楽しそうにしている相手を見ると、ぎゅっと胸が痛くなる。それが恐ろしくて、思わず相手を避けてしまう……、それら、これが恋愛好きの女子ならば一瞬で「恋!」と結論付けてしまいそうなあらゆるものが、飯田の胸に降りかかってきた。
 轟のことはわからない。目を見て、意味ありげに視線をとどめてくることも多かった。ふたりになると、轟はなんとなく、歩くのが遅くなるように思う。けれど全部、自分の都合のいい解釈で、全部うぬぼれなんじゃないかな、とも思う。飯田は言うまでもなく、「恋」とかいうものをするのは初めてだった。

 飯田天哉にとって、「恋愛」そして「結婚」というのはいわば定められた進路のようなものであった。高校、そしてプロヒーローへ、それと同じくらい明確な進路だ。しなければならないものだという義務感というと大げさだが、飯田にとっては何の特別性もない、「当たり前に将来あるもの」だった。
 それが、思っていたようにいかなかった。
 好きになってはいけない、好きになるべきじゃない、という思いと、自分は同じ男を好きになる男だったのか、という驚きが、飯田を支配してぐちゃぐちゃにする。轟焦凍。絶対に、好きになるべきじゃない相手だ。考えなくても直感で分かる。飯田はけれど、恐ろしく大きな波に飲まれて、はじめて「恋」という現象と向き合った。
 恋はこわいものだ。
 人の意志なんてお構いなしに襲いかかってくる。僕は間違っていた、と飯田は認識を改めざるをえなかった。恋は進路じゃない。定められたものでもない。
 恋は呪いだ。突然襲い掛かってくる、理由の分からない強力な呪いだったのだ。
「飯田」
 考えこんでいた飯田のことを、なんと思ったのか、轟が声をかけてきた。今日は緑谷がいない。オールマイトに話すことがある、と言って、二人を先に帰らせたのだ。二人でいると、落ち着かない。しかも轟は、ことさらにゆっくり歩く。こそばゆい気持ちにどうけりをつけるか、飯田にも分からない。
「は、……すまない、轟くん! 何の話だった!?」
「珍しいな。おまえがぼーっとしてんの」
「申し訳ない……。気が抜けているのかもしれないな!」
 何の話だった? と飯田が言うと、いや、別にたいした話じゃない。と教えてくれない。気になるじゃないか、教えてくれ、と押し問答になった。轟は「教えてくれ!」と詰め寄る飯田自体が楽しかったのかもしれない。聞いてなかったんだろ。どうでもいい話だったから。とかわざとらしくいじわるを言って、頑として教えてくれない。
「轟くん、もう、君は……!」
 四階渡り廊下、人の気配が消えた。誰もいないがらんとした、まぶしい夕暮れの廊下に差し掛かったとき、轟の持つ空気が一瞬、ぶわ、と熱した気がしたのは、気のせいではないはずだ。お願いだから、教えてくれ、と彼の肩に手を置いたとき、明確な熱がそこにあって、轟は、整いすぎた、と言っても過言でない顔を少し崩して、飯田の手を引いた。その場にとどめるために手を引かれたのだと、指先で分かった。
「飯田」
 彼のくちびるから漏れる「飯田」の三文字が、たまらない慈しみで溢れていることが分かって、飯田の歩みが止まってしまった。轟焦凍が次にしたことに、大して驚かなかったのも、飯田が感じ取っていたからかもしれない、轟がもしかしたら、自分を好いているのかもしれないということ。うぬぼれなんかではなかった。
 轟の、おそらく人生ではじめてであろうキスが、飯田のくちびるにささげられた。飯田にとっても、はじめてだった。そして、くちびるが触れ合った瞬間に、「はじめてするのが彼で、喜ばしい」という満足感に満たされるのが分かった。轟のキスは一瞬で、まるで衝動的に動いてしまった自分を恥じるように、轟は、飛びのいた。
「わりい」
 ぶん殴られても文句は言えない、という、追い詰められたような顔をした。飯田も言葉を失った。キスの瞬間にはちきれそうだった喜びが、一瞬で爆発し、空中分解したようだった。
「……っ!」
 驚いて、後ずさった飯田のことを、「拒絶」だと思ったのだろうか。真っ赤になって、口元を押さえ、凝固している飯田を見据えて、轟はくちびるを噛み、
「わるかった。……わすれてくれ」
 そう言った。
 何もいえなかった。ぎょっとした顔で、その場に根をはった飯田が、「あまりのことに言葉も出ず愕然としている」と思われても仕方がない。それが、「突然初恋が叶ったせいで」ではなく、「思ってすらいなかった相手に突然キスされたせいで」だと勘違いしてしまった轟を責めることもできない。あのとき、「俺も君の事を」と言えていたなら、きっと現実は違っていただろう。

 パァンッ!

 鳴り響いた、皮膚と皮膚のぶつかる生々しい音を前にして、飯田は鞄ごと取り落とした。きっと、あのとき、「俺も好きなんだ」「待ってくれ」と、飯田に背を向けて一人帰ってしまった轟に言っていれば、きっとこんなことにはならなかっただろう。
 あの日、轟にキスされた渡り廊下。夕方になると人気がすっかりなくなるその場所で、轟が強烈な平手打ちを浴びた。その瞬間に、飯田は運悪くその場所に居合わせた。……いや、実を言うと、キスをされてから、飯田は、しょっちゅうここを通ってしまうようになっていたのだ。体が吸い寄せられたように、ここへ来てしまう。だから、その瞬間を見てしまったのも、必然だった。
 何人目だったのか、わからない。五人か、六人、……だったような気がする。同世代の、気の強そうな開発科の女の子だ。派手な金髪を振り乱して、泣いている。平手をうった彼女の方が、傷つき乱れた顔をして泣き、うたれた轟のほうが、じっと黙って表情を崩さない。

「泣いてすっきりして、アンタのことなんか忘れてやるから。」(雄英高校一年/開発科)

 叫ぶように彼女はそう言って、走り去っていった。夕日を浴びた轟焦凍が、その場に一人残された。
 ざまを見ろ。そういうあざけりの気持ちが来るべきだった。そう思って、嗤いたかった。なのに、先に悲しみが来た。どうして君はそんなことをするんだ。君はそんな男じゃないはずだ。憤りと、困惑。立ち尽くす飯田が、背後にいることを、たぶん轟は最初から知っていた。
 振り返った轟が、自分の鞄を拾って、飯田を正面から見た。飯田は落とした鞄を拾いもせずに、そこへ立っていた。轟はじっと、飯田を見つめて、そして飯田に背を向けた。
 行かないでくれ、と言えればよかったのに。
 飯田にはどうしても、言えなかった。

[newpage]

5.

「女は元カレを引きずらないってよく言うけど、ウソだよね。わたしこの恋一生引きずっちゃう。」(雄英高校三年/ヒーロー科)

 ぽた、ぽた、と落ちていく涙の滴が、床にぶつかるたびに花が咲く。彼女の個性は何もない空間へ花を咲かせる能力だ。制御が利かなくなると、こうやって勝手に花が咲いてしまう。悲しくて仕方ないのに、こんなに綺麗が花が咲くなんて皮肉なものだ。轟は、「轟くんのことが好き」と、おずおず、ためらいがちに、おそらく最大限の勇気を振り絞って言ったのであろう彼女に向かって、「わかった。」と了承した際に咲いた、おおつぶのサイネリアの花を思い出した。今咲いているのは黄色い水仙。涙を拭いた彼女が、「花言葉は、『もう一度愛してください。』なのよ」と教えてくれた。
 涙をハンカチで一生懸命拭きながら、ありがとう、一緒にいてくれて、とても楽しかった。そう言って、サイネリアの彼女は廊下の向こうへ消えていった。同じ場所で、つい二日前に轟焦凍は平手打ちを食らったのだ。涙に濡れて、怒りにまみれた女の呪詛をここで浴びた。轟焦凍は、自分は呪われるべき人間だと、自分でよく分かっていた。
 廊下に落ちた水仙を拾い、ひとつぶ、ポケットに入れた。もう一度愛してください。なんてぴったりの言葉なのだろう、轟は表情をゆがめ、また前を向く。ここで取り返しのつかないことをした。そのせいで、「友だちだ」と言って笑ってくれた、最も愛する男が自分のもとを去ってしまった。あの、驚愕に見開かれたふたつの目と、いつかあいつが好きになった女にささげるはずだった最初のくちびるの感触を奪われて、呆然としている飯田天哉の表情を見て、轟は「とんでもないことをした」と思ったのだ。
「……友だち、だって、……」
 飯田の呟きが耳に届き、その瞬間、轟は驚くほど冷静になった。血が青く冷えていく感覚。友だちだと思っていたのに、その関係を壊されてしまった飯田の絶望的な表情を、それ以上見ていられなくなった。
 わりい。わすれてくれ。
 それしか言えなかった。轟はどんどん、溢れてくる涙をこらえて、早足に校舎を逃げ去り、帰宅途中の薄暗い小路の奥で、ゴミ箱の陰に隠れて嗚咽した。しゃがみこみ、ぼたぼたと両の目から落ちていく涙のせいで、余計に悲しくなって、轟は泣きじゃくるたった五つの少年のころに戻ってしまったようだった。

 その轟のところへ、一人の女が現れた。
 臆面もなく、あなたのことが好きだと言う、その女の無邪気な、まるで「女は男を好きになり、こうやって告白するのは当たり前のこと」だとでも言いたげな表情に羨望を覚えた。轟は憎らしかった。その女が、いやもっと言うと、自分にも、ひいては飯田天哉にも、「好き」と臆面なく言うことができる「女」の全てを呪わしく思った。
 恋っていうのは、こわい。
 轟焦凍は自分がとんでもなく酷いやつに成り下がろうとしていても、「恋」という灼熱のために、急き立てられるように行動してしまうものだと理解した。恋はのろいだ。恋はやまいだ。恋はこわいものだ。できるなら、自分の気持ちをリセットして、ゼロに戻ることができればいいのに。

 飯田天哉は轟焦凍を見なくなった。会話もなくなった。二人の間には埋めようのない溝が冷然と横たわり、二度と修復が不可能な関係になったように見えた。クラスメイトたちは二人の変化を感じ取って、何かできないかと気にかけたが、結局は、みな肩を落とし、諦めてしまうばかりだった。
 飯田は怒っているのだ。不純な交際をする轟に。
 轟はどうでもよくなってしまったのだ。迫ってくる女の子たちにノーの返事をいちいちすることが。
 クラスメイトたちはおのおのそう理解して、二人のことをそのまま放っておくことにした。人間誰だって、触れられたくない傷口というのはあるだろうから。ただ、二人がどうしても元に戻らないせいで、離れていってしまった轟焦凍と、轟のことなどいなかったものとして口にも出さない飯田天哉にはさまれた、緑谷出久がずっと彼ら二人に気をもんでいた。

「やだよ。別れたくない。」(雄英高校二年/経営科)

 八番目の彼女は粘った。わりいけど、と別れを告げた轟に、いやだと泣き喚いて、恨み言を十人分くらいぶつけた。轟が頑として譲らないので、最終的には彼女が折れるしかなかった。最低だね、あんた。もっといい人なのかと思ってた。ほんと最低。涙ながらにそう怒鳴り、髪を振り乱している彼女を見つめて、轟はただ、「ごめんな」と言うだけだった。
「地獄に堕ちろ!」
 彼女は轟にそう叫んで、走り去った。そう。俺は地獄に堕ちるのだ。地獄の鬼は聞いてくれるだろうか。最愛の男を傷つけることでしか自分を保てなかった哀れな男の身の上話を。

「さよならの前に、本当は誰のことがすきなのか、教えてくれませんか?」(雄英高校二年/ヒーロー科)

 九番目の女にそう問われたとき、轟は返答に詰まった。彼女は「やっぱりね」という顔で、悲しそうに微笑み、涙を浮かべた。俺にはもったいないくらい、優しいやつだった。轟は去っていく彼女の背中を眺めながらそう思った。あなたはわたし以外の人のために、わたしと付き合ってる気がする。彼女はいつもさみしそうだったが、それでもあなたに好きだと言わなければ気が済まなかった。そう轟に打ち明けた。轟にはその気持ちが痛いほどわかった。

 十番目、となると、いよいよ女たちは怖気づきはじめるころだった。付き合ってはくれるものの、轟焦凍は気に入らない女だと三日と待たずに捨ててしまう。そういううわさが、さすがに全校生徒に知れ渡って、轟に告白する女と言うと、よっぽど勇気があるか、自分に自信があるか、捨てられてもいいというくらい肝を据えて轟のことを好きな女子、に限定されるようになった。その中で、堂々と一年A組に現れ、
「轟くんいらっしゃる?」
 と物怖じせず言い放ち、A組のクラスメイトたちの前で、轟に「わたしの男になってちょうだいよ」と言った、彼女は別格に肝が据わっていると言える。
 クラスはしんと静まり返った。誰もが彼女と轟のやりとりを聞いていた。彼女は三年生のヒーロー科。同じA組で、A組の面々はあとで彼女がミス・雄英コンテストの本年度グランプリであることを知った。今まで轟に挑んだ女子たちがかすむほど、彼女は堂々とした美人だった。自分が美人であることを自負して、自分の美しさを尊重している、そういう「女」だった。
「わたしの男になってちょうだいよ」
 その後、語り草になるほどその告白も強烈だった。けれど、轟焦凍も負けないほど、物怖じしなかった。
「わかった。」
 轟が返したのは、簡単な了承の言葉だけだった。
 だからいっそう、衝撃的だった。轟は考える前に口が先立つ、というふうに、間髪入れず返事をし、みな、ぽかんと口を開けてそれを見ているばかりであった。
「ありがとう。今日、放課後一緒に帰りましょう。玄関ホールで待ってるわ。」
 彼女の方も、轟焦凍がイエスと言うことを確信していたように、自然と受け入れて、微笑した。
 その衝撃的な告白ののち、その日一日を、飯田天哉は一言もしゃべらずに過ごした。こんなことは初めてだった。飯田天哉がしんと静まり、押し黙っているせいで、クラスはいつもの二倍も静かなように思えた。大丈夫か、飯田、と声をかけられても、飯田天哉はかすかに頷くだけで、じっとどこでもないどこかを見つめて黙っているのだった。
 断筆を宣言した小説家に似ている。
 これは反乱だ。リベリオンだ。断固として意志を主張するためにひとこともしゃべらないぞ。そういう、てこでも動かない感じが飯田にはあって、緑谷でさえ、飯田をそっとしておいた。何より、しゃべることすらつらそうに見える飯田の口を、無理やりこじ開けるような真似の方が、よっぽどつらい気がして、しゃべりかけることもためらわれた。
 丸一日の沈黙を破って、翌日には、飯田はすっかり元通りになっていた。昨日はすまない、ちょっと調子が悪くて、……空気を悪くしてしまって申し訳なかった。飯田はあっけらかんと、自分を気にかけて声をかけてくれた同輩に一人一人謝り、もう大丈夫、といつものきりっとした顔つきで朗々と声をあげた。あまりにいつもどおりすぎるその様子が、かえって浮くくらい、飯田は普通の「飯田」に戻っていた。
 轟のほうも変わらない。十番目のミスコン女が、轟を毎時間迎えにやってくること以外は、たいした変化もない。意外と、彼女と轟は長く続いた。「魔の三日」と呼ばれる三日目を過ぎても、轟は彼女を振ろうとしなかった。
 轟の体から常にかおりたつマルメロの甘い香りは、ミスコン女の香水のかおりだろう。轟は一ヶ月間でいろいろな女のにおいを体にしみこませた。けれど轟はどことなく、いつどこにいても「ひとり」のように見えた。

 ちょうど、ミスコン女と一週間を過ごした日のことだった。
 考えたくないのに、飯田天哉の頭の中には、珍しく続いている轟焦凍とミスコン女子の交際のことばかりがよぎっている。たいてい、三日間前後で終わることが多かった。最初はそれを許せないと思い、憎らしく思い、そんな風にとっかえひっかえ気持ちを踏みにじれる轟に憤慨した。けれど、ミスコン女子がもう一週間、轟の隣を確保していることが、かえって飯田を不安にさせた。
 本当に、好きになったのでは?
 あの女子は美人だ。しかも年上で、恋愛のなんたるかを知っている感じがある。挑発的で、堂々としていて、轟くんの気持ちをひきつけるだけの魅力を十分持っているだろう。もしも、轟くんが、彼女のことを本気で好きになり、交際を真剣に続けようと決意したとしたら?
(喜ばしいことだ。……あんな、女子に失礼な交際をしていた彼が、成長したのだから……)
 必死でそう思おうとした。けれどダメだった。どうしても、飯田は、毎日教室に現れ、ついに轟を「焦凍」と呼び始めたあの女を、早く、一刻も早く捨ててくれと願う自分を無視できなかった。
(僕は最低なやつだ)
(轟くんをののしっておいて、僕はよっぽど、……)
 授業中だというのに、突然泣き出したくなることが増えた。これまで全然しなかったようなミスを頻発するようになった。休み時間、一人で手洗いに出て、鏡の前で泣いてしまうようになった。いよいよ、だめになっている、そう思った。
 飯田は重い足取りを教室へ向け、いつものように朝一番に登校する無人の教室に足を踏み入れる、つもりだった。
 ガラ、とあけた扉の向こうに、まさかこんな早く、人がいるとは思わなかったのだ。

 中にいたのは男と女。
片方はまぶしい豊かなブロンドだ。綺麗にセットされた長い髪。しかしもうひとりはもっと目立つ。赤と白に分かれた不思議な色合いの髪。その髪を、女の細くしなやか指先が触って、もう片方の腕は男の肩にしなやかに置かれている。目を閉じていたふたりは、教室へ入ってきた飯田に気づき、同時に目を開けた。
「あら」
 女の方はさっぱりしている。ひっつけていたくちびるを離して、照れたように微笑み、身を引いた。男の方はぼうっとしている。飯田をじっと見て、何か言いたげな、けれど何も言うことはないという不思議な表情で、飯田を見つめていた。
「早いのね。……あなた真面目そうだものね。驚かせてごめんなさい。」
 うふ。彼女はそのまま、ねえ焦凍、またあとでね。と笑った。笑って、教室を出て行った。彼女のマルメロが飯田のもとにもふわりと香ってきた。
「君は、……」
 ぐら、と煮立つ鍋が沸騰し、火を噴いた。飯田の目の前が真っ赤になり、怒り以外、何も見えなくなった。
「……ッ最低なやつだ!」
 悲鳴交じりの怒号を飛ばして、飯田は荷物をかなぐり捨て、机の上に乗り上げ、キスされたときの姿勢のまま固まっている轟につかみかかった。胸倉をしめあげても、轟は動かない。じっと、冷たい目をしている。
「……誰でも、いいんだな……!」
 搾り出した飯田の怒号が、これまで飯田を悩ませてきた気持ちそのものを形にして、はじけた。それらは飯田がずっと心のなかで反芻してきた「もしかしたら」という恐怖の塊だった。
「誰でもいいんだろう! 男でも女でも!! 特別なんて、ないんだろう!? ただ試してみたかった、もてあそんで楽しみたかった、それだけなんだろう、君は! 僕はだまされやすいから……ッ、さぞ、……楽しかっただろうな……ッ!」
 胸倉をつかむ手を、轟がつかみ返した。激しい熱を持った左手だ。轟の目には炎が宿っている。なんでおまえはわからねえんだ、という、憎しみの炎が。
「おまえに、関係ねえだろう。俺が誰とどうしようが」
 その言葉が、飯田の炎に油を注いだ。いまや横転したフォーミュラワンカーさながら、飯田はもがき、タイヤをスピンさせ、どうにか炎上を免れようともがいているが、横転したショックで車体は粉々になり、ひび割れている。もう走れない。誰かが修理しないと、このスーパーカーはもう二度とサーキットに戻れないだろう。
「……ッ! 君の、その、言い草はなんだ……ッ!」
「俺のことなんかこれっぽっちも知らねえくせに!」
 声を荒げたことなど少ない轟が、アアアーーーッ、とわめき、叫ぶように吼えたのが、飯田をさらに刺激した。逆上か! 君が悪いのに! 君が悪いんだ! なのに! 飯田に轟の怒りの炎が燃え移り、二人の炎が交じり合った。胸倉をつかみ、飯田が先に手をあげた。轟の頬をとらえた飯田の拳が彼を吹き飛ばすと同時に、飯田のわき腹にも、重い蹴りが叩き込まれていた。
 轟音を上げて、教室の机と椅子が吹き飛び、それでも二人はやめなかった。相手を殴って、いっそ粉々に跡形もなくしてしまえばこの苦しみから解放されるとでも言うかのように、つかみあい、殴り、蹴り、わめいた。途中から二人とも泣いていた。どうしてこんなに好きな相手を殴らなきゃならないんだ、という、恋という理不尽を思って泣いた。
 クラスメイトが入ってきたときには、机や椅子は教室の隅にぐちゃぐちゃにひっくり返り、二人は口の中を切ったり、痣を作ったりして、生傷を負っていた。最初にクラスに入ってきたのが爆豪、切島、瀬呂、上鳴の四人で助かった。女子ならどうにも止められていなかったはずだ。
「ちょ、ちょい待ち!?」
「なにやってんだよ!?」
 クラスメイトが入ってきても気にしたそぶりもない。慌てて切島、上鳴が轟を、瀬呂が飯田を抑えた。二人の間に割って入り、マジでやめろ、落ち着け、と腕をつっぱる上鳴と、二人の腕を後ろから抱えて引き止める切島と瀬呂が、一向に手伝う様子のない爆豪に、オメーもなんかやれ! と泣きついた。
「おはよ~、って、ちょっと、何!?」
「飯田!? 轟!? なにやってんの!?」
 続いて入ってきた耳郎と葉隠も、あまりのことに足がすくんだ。二人はそれでもやめない。ああああ、と言葉にならない声をあげて、殴りあおうとする。
「おはよう、……えっ!?」
「いいとこに来た! 緑谷ッ、こいつら止めてくれ!」
 続々とクラスメイトが集まってきたのち、緑谷が姿を現した。瀬呂が、暴れ続ける飯田を押さえながら、悲鳴を上げて助けを呼ぶ。そ、そんな、何してんの二人ともッ、とすっ飛んで言って、二人の間に入った緑谷は、二人の目が泣きはらした後のように真っ赤に充血していることに気がついた。
「あ゛―――――ッ! うるせえッ!!」
 ドォンッ、と轟く爆発音。放ったのは爆豪勝己だった。手の中で小爆発を起こしただけのようだったが、静まりかえるには十分の大きさだ。爆豪は一瞬、動きを止めた飯田と轟の首根っこをむんずとつかんで、二人を引きずり、教室の扉を蹴りあける。
「うるせえんだよクソナードども! 頭ァ冷やして死ね!」
 どさっ、と廊下に放り出された二人に、爆豪はじろりと視線を落とした。
「周り見てやれ。常識だろうが」
 爆豪の言葉が、ふたりの頭を横からぶち抜いて、正気に戻す弾丸になった。
 ふら、と立ち上がった轟が、「わりい」と飯田を助け起こし、教室に入って、飛び散った机や椅子を片付け始める。飯田も黙ってそれに従った。二人が黙々と教室を元に戻すのを、誰もが黙って見つめていた。誰も動けなかったし、誰も話せなかったのだ。
「爆豪」
「爆豪くん」
 二人が爆豪(一人で先に自分の机と椅子だけ直して座っていた)に近づいても、爆豪はそっぽを向いていた。まるで興味がない、という顔をしている。
「……わりい。ありがとう。」
「すまない。爆豪くん。……ありがとう」
「うるせえ。しゃべりかけんなクソモブ」
 二人はクラスメイトに向き直り、「わりい」「みんな、すまなかった」と言ってから、二人、別々に教室を出た。どこへ行く、とも言わなかった。爆豪がフンと鼻を鳴らす。それがクラスメイトの緊張の糸を解きほぐすきっかけになった。
「緑谷ちゃん」
 最初に蛙吹が口を開いた。
「轟ちゃんを追いかけて。ちゃんと話をしないといけないわ。二人は全然納得してないもの。頭は冷めたかもしれないけれど、ここでちゃんと手を打たないと、二人はずっとこのままよ。」
「うん……。少し前から様子がおかしかったんだ。もっと早くちゃんと二人に話を聞いておけば……」
「過去のことはいいのよ、緑谷ちゃん。私は飯田ちゃんを追いかける。みんなはもし先生が来たら、事情を説明しておいて。」
 そして蛙吹は爆豪に向けて笑った。
「爆豪ちゃん、とってもかっこよかったわ。」

 
 拳に残った感触と、逆上から冷めた瞬間の喪失感は何だろう。飯田は、旧視聴覚室にたった一人で座って、じっと宙を見つめていた。授業が始まるまでに戻らなくては。けれど、今日一日、座って言われる気がしない。授業をサボるなんて、言語道断だ。そう思っても、両目からこぼれる涙を止められない。どうしてこんなことになってしまったんだろう。クラスのみんなに迷惑をかけて。好きな相手にすら暴言を吐いて。殴り、蹴り、君が憎い、君なんて大嫌いだ、と叫んだ。本当は全部逆なのだ。
 いっそひとすじの光もない、真っ暗闇の部屋であればよかったのに。飯田にはうっすらと差し込む視聴覚室の光でさえまぶしすぎた。闇に飲み込まれたってかまわないのに。いまなら、どこへでも……。
 バカらしい考えに埋め尽くされそうになった飯田を、教室のドアが開くかすかなスライド音が制止した。立っていた小さなシルエットに見覚えがあって、飯田は顔を上げた。
 涙で濡れた目を誤魔化せなかった。ぐしぐし、と腕で涙をこすったが、蛙吹梅雨が正面に座るまでに、証拠を隠滅することはできなかった。
「飯田ちゃん」
 蛙吹の表情と、声音は一切よどみがない。動揺も、ためらいもそこにはない。あるのは深いやさしさだ。蛙吹はスカートをきれいに広げて目の前に座り、じっと飯田を見た。
「蛙吹くん、……」
「梅雨ちゃんと呼んで」
「……つ、梅雨ちゃんくん」
 蛙吹は肩をちょっとすくめた。まあ今はそれでもいいわ、というように。
「すまない、迎えに来てくれたのだな……。ぼ、俺は、すぐ、行くから……」
「いいえ。飯田ちゃん。強がりはだめよ。あのね、言いたいことを全部言ってしまわないとダメだわ。問題が解決しないもの。押し殺してたらいつまで経っても解決しないわよ。言いたいことがあるでしょ?」
 蛙吹の大きなまるい瞳は、きっと地球の裏側、物語の深淵まで覗き込んでいるのだろう。君は強いな。俺はとても、と声を詰まらせた飯田に、蛙吹は微笑んだ。飯田ちゃん。みんな弱いのよ。人間はみんな弱い。でもそれでいいのよ、飯田ちゃん。
 視聴覚室の真っ白なスクリーンに、二人分の影が伸びている。こんな教室あったのね、と蛙吹は興味深そうに周囲を見回して、立ち上がり、とことこ教室の前方に歩いて行った。スクリーンの前に移った蛙吹の影が、ぐにょんと伸びて大きくなる。興味深げに映写機を触る蛙吹に、いけないぞ梅雨ちゃんくん、勝手にさわっては……! と立ち上がった飯田を、蛙吹は満足そうに見上げた。
「飯田ちゃん。やっぱりいつもみたいに、うるさい飯田ちゃんが一番いいわ。」
 きっとみんなそう思ってる。轟ちゃんも。蛙吹の言葉に、また涙が出そうになったのを、こらえた。言いたいことを全部言ってしまわないとダメ。一番、分かりやすい答えなのに、一番見えにくくなっていた。けれど、きっと生きている中で、こんなこと、たくさん起こることなのだ。
「ありがとう、梅雨ちゃんくん。」
 
[newpage]

 
6.

「私が一番じゃないと気付かせてくれてありがとう。轟くん。」(雄英高校三年/ヒーロー科)

 先に教室へ戻ってくれ、授業にギリギリになってしまいそうだから、と飯田は蛙吹と教室の前で別れ、轟を探しに行った。探す、というのは語弊があるかもしれない。もうどこにいるか、場所は分かっているのだ。飯田は真っ先にそこを目指した。
 夕日差し込む渡り廊下。今は朝日が差し込んで、人の通りも多少ある。登校してきた生徒たちが足早に過ぎ去る渡り廊下の、窓の近くに彼らはいた。緑谷出久は轟のななめ後ろに。轟は一人の女子と向き合っている。彼女は、例のミスコン女子だった。
「わりいけど」
 その言葉から始まる別れの言葉を、ミスコン女子は最後まで聞かなかった。いいのよ。焦凍。言わなくていい。わたし、分かってるのよ。不思議なほど穏やかに彼女は笑って、轟焦凍の「さようなら」をすべて聞こうとはしなかった。
「理由だけ、教えてちょうだい。わたしの駄目なところ、知っておきたいの。」
「……お前が、駄目なんじゃない。俺が、駄目だった。俺には、好きなヤツがいるから。」
 飯田の足は完全に止まり、立ち尽くした。誰も飯田がそこにいることに、気が付いていなかった。
「あら。そうなの。なのにわたしの告白を受けたの?」
「ああ。わりい。逃げようと思ってた。別のやつと一緒にいれば、紛らわせるかと思った。それと、……気づいてほしいとも思った。俺が、そいつを、好きなこと。」
「ヘタクソね。あなたはとっても下手だわ。頭はいいのに、もったいない」
 くすくす、と彼女は笑って、初めて、背後に立つ飯田天哉に気が付いた。彼女は楽しそうだった。まるで、飯田の顔を見ただけで、ことの次第をすべてわかったと言う風に、彼女はうなずき、ため息を漏らした。

「私が一番じゃないと気付かせてくれてありがとう。轟くん。」(雄英高校三年/ヒーロー科)

 彼女が最後にした挙動が、飯田の意識にひっかかった。フウ、とてのひらに乗せた何かを吹きかけるように、彼女は轟に向かって息を吐いた。ミスコン女子はあっさりときびすを返し、廊下をわたって三年生の校舎へ向かっていく。気が抜けるほどあっさりしていて、拍子抜けしたくらいだ。飯田が歩き出す前に、轟と緑谷が振り返り、
 轟の目が正面からかち合った。
 どうして分からなかったのだろう、と思うほど、視線が合致すると、解きほぐれるのは一瞬だった。轟の不思議な色の目が飯田に巻きついた途端に、視界が晴れ、澄み切った。ごめん、と吠えるように叫んだ飯田と同時に、轟も叫んだ。おそらく、わりい、とか、悪かったとか、そういう類のものだろう。わん、と廊下に響いた二人の言葉がもみくちゃになり、消える。誰よりも先に緑谷が泣き出した。もう、二人とも、と緊張の糸が切れてしまった緑谷が、わんわん泣くのを、大慌てで慰めた。

「よかった、もう、ふたりとも、ほんとに、けんかなんてもうやめてよね……!」
 まだぐすぐすやっている緑谷を両側からはさみ、教室に向かう。不安だったんだ。何もできなかったし、何も聞かなかった僕のせいじゃないかって。緑谷がそう言って涙ぐむのを、二人は目を合わせて微笑する。緑谷はいつも、二人のことを自分のことのように思ってくれる。それが二人には、まぶしすぎる。
 これで、あとは教室のみんなにきちんと謝って、この喧嘩を終わらせよう。飯田は、ずっと沈んでいた気持ちがようやく浮上し始めて、やっと意識せずともいつものように話せるようになっていった。よかった。ずっとこのまま、轟くんと話せなかったらどうしようと思っていた。飯田の安堵が伝わったのか、轟の肩の力も抜け始めている。まだきちんと根本的な話し合いができたとは言えないが、きっとそのうち、話せるようになるはずだ。

 ……だから、早く言いたいことをはっきり言わなきゃ、って言ったのよ。

 のちに、蛙吹からそう叱られることになる。あと少しで教室へたどり着く、というときだった。

 轟が膝をついた。

 ぺしゃん、と倒れ込むような、唐突な倒れ方だった。ひざをついて、驚いたように目を見開いている。そして、ウッ、と息を詰まらせたあと、ぺしゃ、と床に大量の液体がこぼれた。
赤い!
 肝が冷えた。吐血? どうして、突然。こんな大量に。べったり汚れた轟の制服が、真っ赤に沁みこんで冷えていく。赤い、けれど、かすかに香りがする。マルメロだ。いやというほどかいだあのにおい。轟はかろうじて倒れ込むのを耐え、床に手をついた。腕がガクガク震えている。あまりに唐突で、あっけにとられた緑谷と飯田だったが、彼の名前を叫んで、彼を助け起こした。
 粘り気のある赤い液体。大丈夫、血ではなさそうだ。けれど、これはなんだろう? ぶすぶすっ、と今度は奇妙な音がして、轟の左胸がもりあがり、そこから鋭い棘の生えたツタが生えた。制服を突き破り、とぐろを巻いて、そのツタは轟をしめあげるように巻きついていく。棘が容赦なく轟の体を刺した。皮膚を突き破ったその棘が、今度こそ轟に赤い血を流させる。
「いッ、……っう!」
「轟くん!!!!」
 声が勝手に出た。ほとんど悲鳴に近い飯田の呼び声をきいて、A組、次いでB組からも生徒が出てきた。ツタはどんどん長く伸び、飯田は手に棘が刺さるのも構わずに、半狂乱でそのツタをちぎった。
「轟!?」
「轟ちゃん!」
「轟くん!?」
 やめてくれ、誰がこんな、と泣き叫び、飯田は手を血ぬれにしても、ツタを引きちぎった。轟の体は飲みこまれてゆき、ツタには花が咲き、実がみのった。マルメロの実だ。轟はそれを見て、痛みに顔をゆがめながら、微笑を浮かべた。
「……すげえ。」
 轟のその言い方は、何もかも分かっている、という決意に満ちたもので、飯田はぎょっとした。もしかして、死期を悟り、受け入れたように見えたのだ。待って、だめだ、轟くん、と飯田の両目から涙がはじけると、轟はツタをかき分けて手を伸ばした。
「飯田。」
 腕も、足も、体全体をきつく棘のある植物にしめられて、轟の制服はボロボロに破れ、いたるところから血が流れている。伸びたツタは飯田をも飲みこみ、パニックが起きた。A組のみんなが、飯田と轟を覆うツタを引きちぎる。ちぎっても、ちぎっても、植物は育った。まるで恨みを込めたように。
「飯田。」
「ど、ッ、どうして、君は……ッ!」
 そんなに穏やかに笑っていられるんだ。叫んだ飯田の頬を、轟の手が撫でた。その手首にまでツタがからまり、棘が食い込む。呪いをかけられた城で、百年の眠りにつく眠り姫も、きっとこんな気持ちだったのだろう。
「……飯田。お前だけ、聞いてくれ。」
 轟の手が飯田を掴んだ。ツタで覆われた秘密の城の中で、轟は飯田の耳にささやいた。痛くて、たまらないだろうに、轟ははきはきと一言ずつ、ゆっくりかみしめるように言った。それは、轟が初めてする、一世一代の告白だった。
「……飯田。おまえが、すきなんだ。世界で、いちばん。」
 
 轟の告白した「本当のきもち」に反応するように、ツタが突然、おとなしくなり、轟の胸を貫いて生えていた太い根元から、ざらざらと砂になって落ちていく。崩れていく呪われた城が、廊下いっぱいに広がる砂の絨毯にかわるまで、数分もかからなかった。最後にそれらは、さっき轟が吐き出した真っ赤な液体に吸い込まれ、ぎゅうっと小さな種に凝縮した。真っ赤な、心臓のような形の、不思議な種だ。
「お前ら、何してる」
 廊下に出て、半狂乱だったA組の生徒たちが、砂まみれであっけにとられているところを、担任の相澤が通りがかった。あと数分で授業が始まるのだ。相澤は、手を血まみれにして砂だらけになっている面々と、泣きじゃくる飯田、ずたずたに切り裂かれてなお、どこか満足そうな顔をしている轟、そして床にひとつぶ落ちた種を拾って、無表情につぶやいた。
「アウロラか」

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7.

「君は、俺のとても大好きな、……憎くて、わるい、……大好きな、男だよ。」(雄英高校一年/ヒーロー科)

 ねえ、あなたにどうして私が近づいたか、分かる? 分かるでしょう、本気で付き合ってほしいなんて、私が思っていないこと。もう、分かってるんでしょう、轟焦凍。
 アウロラ、としか彼女は名前を言わなかった。たぶん、ちゃんとした名前があるのだろうが、彼女がそうとしか言いたがらないので、轟も彼女をアウロラと呼んだ。三年生、ミスコングランプリの、「呪い代行屋」だと言った。
「私、個性がちょっと変わってるのよ。あなたのは、氷と炎でしょう。私のは、おまじない。もっと端的に言うと【呪い】に近いわね。ヒーローになりたいっていうのは本当だけど、表に出て仕事ができるような個性じゃないわ」
 彼女と付き合ってその日のことだった。彼女は放課後に轟を引っ張って、小さなカフェに入った。
 店長たった一人の、さびれているが、レトロで趣のあるカフェだ。スフレケーキがおいしいのよ。彼女はそう言いながら、ホイップの乗ったスフレを食べ、香りのつよいアールグレイを飲んでいた。店内にかかっている雑音交じりの「サムシン・エルス」が耳にこびりついて離れない。
「あなた、もうこんなことやめた方がいいわ。あなたがそっけなくした女の子たちから依頼を受けてね。告白を断った子もいたでしょう、たくさん。いろいろな方面から、呪いをお願いされたのよ。だから、わたしを最後にして、やめるのね。こんなこと。あなたみたいに、お坊ちゃん育ちの世間知らずができるような芸当じゃない」
「……やりたくて、やってるわけじゃねえ」
「あら。そうなの?」
 お砂糖いかが? 彼女は聞きながら、轟の返事を待たずに角砂糖をカップに入れた。轟はとけていく角砂糖をじっと見つめている。
「好きなやつがいる」
 なぜか、口からすらりと本音が出た。轟にはもう、限界だったのかもしれない。飯田を傷つけること。飯田への想いを守ること。または、殺すこと。このとき、轟にとって、飯田天哉という男への恋心を守ることは、恋を殺すことと同義だった。彼は袋小路のどん詰まりにいて、もがき、苦しみ、途方に暮れていた。
「……おやまあ。」
 アウロラはひとくちアールグレイを飲み、興味深げに眼を見開いた。マルメロのかおりがつよい。彼女はこの香りをいつも纏っていた。まるで衣服のように。
「おまえは、わざわざ忠告するために、俺を誘ったのか」
「いいえ。おもしろそうだったから。話を聞くのもいいかと思って。あなたがどうしようもない男なら、そのまま呪いをかけてやってもよかったし、話せる相手であれば、忠告して差し上げようと思ったのよ。」
 そしてあなたは後者だった。アウロラは冷静にそう言い、微笑む。轟は、その【呪い】に興味がわいた。
「呪い、ってやつ、どんなやつなんだ。」
「……言ってもいいけれど、条件があるわ。」
「……なんだ?」
「わたしと一週間おつきあいしてちょうだい。」
 あなたに興味がある、っていうのは、嘘じゃないのよ。アウロラは美しい顔にとびきりの好奇心を乗せていた。彼女は本当に、興味と好奇心から動く危険なタイプのようだった。

 アウロラの呪いは、対象の人物への想い(それはどんな種類の想いでもかまわない、執着でも愛情でも、恨みでもなんでも。)の強さに比例して変化する。体を突き破るツタが対象をしばりつけ、全身をむしばむ。アウロラはけれども、その痛みを「精神が受ける痛みが肉体への痛みに具現化しただけのもの」と表現した。
「こころが受けるダメージは、肉体が受ける痛みに比べて、もっと衝撃的なものよ。それを知らしめるための呪いなの。わたしの呪いが反映されるには、あなたは私とキスをしなくちゃならない。もうひとつ、ひみつの仕上げもね。こっちは教えないわ。……でも、まだ、いいわ。私がしたくなったらする。あなた、ちなみに、好きな相手とのキスはしたの?」
「……した。」
 アウロラは目を見開き、
「わるい男」
 と笑った。

 呪いをとくには、簡単なこと。
 あなたが最も美しいと思うものに、あなたの秘密を打ち明けなさい。それは風景でも、物でも、人物でもいい。なんでもいいの。これだけ、教えておいてあげる。いつ、私の気がかわって、あなたに呪いをかけたくなるか、分からないから。
 ……語り終えた轟の手を握ったまま、飯田は涙ぐみ、なんとも言えない、戸惑った、微笑を噛み殺すような顔をした。君は、死ぬかもしれなかったんだ。飯田が叱責すると、轟は力なく首を振る。飯田は手を包帯で巻かれ、轟はしばらく安静にしなければならないらしい。リカバリーガールも、アウロラを知っていた。あの子は、根っからのヒーローだよ。悪い子は、アウロラに呪いのキスをされる。たった三年で言い伝えまでつくっちまった。……アウロラの呪いの規模は今までにないくらい大きかったらしい。応急処置を終えたA組のみんなが、一足先に戻るのに、飯田はもう少しここで休みたい、と言って居残った。
「悪かった、飯田……。」
「……ぼ、……俺こそ、……」
「何にも分かってなかった。馬鹿だな、俺たちは。」
「……いや、もっとはやく、……」
 俺が君に好きだと言っていれば。飯田がまた涙をこぼすのを、泣くなよ、と轟の手が伸びる。茨の棘に包まれた体が、痛々しいほど傷だらけになっていて、できるなら、飯田はその傷のひとつひとつ、優しく塞いでしまいたい。この傷は、轟の恋の痛みの数だけある傷なのだ。
「……飯田。」
「轟くん……。」
「返事。聞いてねえ。俺の、……さっきの、」
「ひどい奴だ、君は。女の子を、たくさん、おもちゃにして、……ひどい。本当に、いやなやつだ。ふってやろうかな、僕が……。」
 言いながら、嗚咽を上げる飯田に、轟はじっと視線を送っている。悪かった。ごめん。繰り返す轟に、飯田を首をふる。違う、謝ってほしいわけじゃない。ただ、欲しいのはたった二文字だけなのだ。
「君は、俺のとても大好きな、……憎くて、わるい、……大好きな、男だよ。」
 手を握り、呪われた城の死闘で、傷だらけになった飯田の王子に、今度は飯田から、キスをした。ベッドに眠ったまま、轟は目を閉じて、二度目の感触を味わう。ベッドの周囲にカーテンがひかれていて、誰も見ていなかったとしても、飯田と轟の鼓動はばくばくと跳ね上がった。
「飯田、……すきだ。すげえ、すき。」
 何度も投げかけられたのに、一度も正しい相手に言うことのできなかった二文字を言ったとき、轟にかけられた呪いは今度こそ本当に解けたと言っていい。
 恋はのろいだ。
 恋はやまいだ。
 けれど、いつでも、恋のときめきは、誰に対してもやさしい。

 

 終(「呪われた城と十人のおんなたち」)