ひみつを食べて、その花は育つ

 
 
 「砂漠が美しいのは
  どこかに井戸を隠しているからだね」
 (サン・デグジュペリ『星の王子様』)

 1.
 
 登校してすぐに、「おはよう! 轟くん!」という、よく通る明朗な声が轟を出迎える。どういう時であっても、飯田天哉の挨拶がはじめに向けられる。誰よりもはやく、飯田天哉は入ってきたものに挨拶をする。思わず「おはよう」と返してしまう、スコンと明るくて、どこか威圧感のある挨拶だ。
 
 その飯田の声が遅れた。轟焦凍が教室に入ってきた瞬間に、飯田が息を呑む「間」があって、その「間」のために、飯田は先を越された。おっはよ~! という、芦戸の元気な挨拶が、一番初めに轟を出迎えた。
「あ、」
 飯田はそういう口の動き方をさせて、
「お、おはよう。轟くん」
 とやや元気のない挨拶をすると、そそくさと、自分の席に戻ってしまった。

 轟の表情は微動だにしない。「ん」と短く答えてから、一番後ろの席に座った。通りがかる、飯田の席のあたりから、ふいと視線を感じたが、轟はあえて無視して、いつものようにかばんを置き、いつものように、席に座った。
 かばんの中身を机にしまいこみ、授業まであと五分の予鈴を聞く。無表情だった轟は、何気なく、持っていた携帯の画面をスイとスワイプさせて、そこで、もごもご、とくちびるを動かした。ともすれば盛大に緩んで、しまりのない顔になりそうなのを、必死でおさえて無表情を保とうとするような動き方だった。

 その日、飯田天哉はどこかそわそわと落ち着きがなかった。
 腕の動きに落ち着きがないことはいつものことだが、しょっちゅうきょろきょろして、居心地が悪そうに、下を向いたり、考え込んだり、クラスメイトに声をかけられた肩をびくつかせたりする。どうしたの、と聞かれても、特に何も、普通だ、と言い張るくせに、目に見えて飯田は落ち着きがなかった。一度、十分休憩の間に、麗日と話していた飯田が、ちらと轟の方を向いたが、轟はその視線を正面から受け取りながら、すっと視線をはずして、知らないふりをしてしまった。
 一時間目、二時間目、……と、続いて飯田はそわそわしていて、緑谷から「大丈夫?」と三回声をかけられていた。飯田はそのどれにも、「大丈夫だ」ときっぱり、しかし答える前に不自然なワンテンポを置いて、返事をしていた。

 昼休みに入り、食堂へ行こうと誘われて、緑谷と飯田、轟の三人で食堂へ向かった。ステインの一件があってから、三人でつるんで歩くことが多くなった。「つるむ」なんていう表現を使ったら、飯田は「そんな表現は不適切」と言うだろうが、轟はそう思っている。緑谷はいつも弁当なのに、轟と飯田を食堂に誘うのも緑谷だった。
「僕、席取ってるから、二人とも買っておいでよ」
 弁当の入った袋と、水筒を抱えて、緑谷は混み合う食堂へ先に消えていった。ぎこちないまま、二人で列に並ぶ。緑谷がいれば、がんばって平常心を保って、いつもどおりの顔をしようと努力しているが、二人になると駄目らしい。飯田は眉を下げ、困ったような顔をして、もごもご口を閉じたり開いたりしていた。
「飯田」
「ほあ!?」
 素っ頓狂な、変な声を出して、飯田が飛び上がった。その声の大きさで、周囲の数人が振り返る。あ、非常口の人だ。そんなささやきがいくつか聞こえた。
なんっ、なんだ!? と明らかな動揺を隠そうとして、親指と人差し指で眼鏡をあげた飯田に、我慢していた轟のくちびるがついに緩んでしまった。こらえきれない、そういう笑みが盛大に漏れ出してくる。
「……挙動不審すぎるだろ。逆に怪しまれてんぞ」
「だ! だって!」
 ババッ、と両手がカクカク動く。轟は轟で、とろけるようなにやにや笑いがとまらず、たまに肩を震わせながら、首を後ろへひねって笑い顔を飯田から隠すようにした。
「ちゃんと画面設定してんのか」
「……し、……してる……」
「マジか。すげえな」
「きッ、! 君が言い出したくせに!」
 見せて、と言った轟を、全力で拒んで、こんな人がたくさんいるところで、と飯田は抗議する。人がいなかったらいいのか。と言うと、それも違うと言う。めんどくせえな。ため息をつくと、飯田は「大声出して怒りたいが、なんと言って彼を咎めればいいのかわからない」という顔をして、くちびるをわなわなと震わせていた。
 日替わりランチAセットはパスタ、Bセットはどんぶりだ。飯田はパスタの方、轟はどんぶりにした。シーフードジェノベーゼと、すりおろされた山芋がとろとろにかけられたマグロどんぶりのプレートを持って、緑谷のいる席に集合した。緑谷は律儀に、弁当のつつみも開かないまま待っていた。
 いただきます。と手を合わせる。三人で食べるようになる前までは、ひとりで食べていた。食事なんて誰と食べても同じだと思っていた轟だったが、三人で、とりとめない話をしながら、たまに笑って、たまに驚いて、たっぷり時間をかけて食べるのは、一人で食べるよりも全然違う味がすることを分かるようになっていた。

 どんぶりの中身もあと三分の一、というくらいのとき、話がどういう風に進んだか、緑谷の携帯の新しい待ちうけ(オールマイトのオフィシャルサイトで期間限定配信というやつ)を見せてもらいながら、スワイプ三ページ分のワイドサイズの壁紙の設定をどうやるのか、飯田がたずねた。やってあげようか、という話になって、インゲニウム事務所もワイドサイズの壁紙があって、設定のやり方がわからなかったから云々……、と何気なく自分の携帯を手渡した飯田に、「おい」と轟の驚いた声が重なった。いいのか、それ、渡して。という、轟の「おい」に込められた意味を、瞬間、理解した飯田が、「ああッ!」と叫んで緑谷の手から自分の携帯をもぎ取った。自分から渡しておいて、明らかに不自然だ。自分の不自然さにさすがに気づいて、飯田はひやりと冷や汗をかいた。緑谷の「え?」という困った顔もそれに拍車をかけている。
「す、すまない、ッ、ごめん、緑谷くん、……ちょっと、まずい、」
 まずい、はねえだろ。さすがにへたくそすぎる。嘘が絶望的に下手な飯田に呆れながら、轟は黙って笑いをかみ殺し、ごめん、緑谷くん、また今度教えてくれ、とへどもど答える真っ赤になった飯田天哉の横顔を見つめた。眉間にしわが寄って、矢尻の下がった困り眉と、あたふた答える最中に、「なんとかしてくれ、君のせいだぞ」と抗議するように投げかけられるふたつの瞳が、轟の胸をぎゅうとつかんだ。きびきびして真面目な男の、あたふたして慌てた表情はたまらない。それを知ったのは最近になってからだった。

2.

 轟焦凍が飯田天哉という男に目を向け始めたのは、体育祭が終わり、轟自身が少しずつクラスメイトたちへ目を向けるだけの「余裕」が出てきたころだった。轟はそれまで、自分のことだけで精一杯で、誰かとつるむことも、クラスになじもうとすることも、とにかく他人と関わる全てが二の次だった。轟は「視野が狭くなった」状態で、多感期の十年を過ごしてきた。それが一気に、広くなったのだから、今まで目を向けることなく浪費してきた毎日が、驚きにあふれていることを知って轟はひとつ大人になった。
 徐々に他人への意識を持ち始めた轟に、はじめに飛び込んできたのが飯田だった。最初はどうしてあの男なのか、分からなかった。真面目でお堅い委員長だが、クラスの結束を担う男だったため、轟に比べてずいぶんクラスになじんでいる。
 体育祭で飯田を選んだのは「勝つ」というただそれだけの理由だった。「飯田」の「エンジン」が「勝つ」ために必要だった。飯田も、緑谷と袂を分かち、戦う機会を欲しがっていた。いわば利害の一致でチームに飯田を選んだのだ。そこに特別性はない。だから体育祭では、飯田天哉という男自体より、飯田の持つ「個性」を見てあの男を選んだのだ。
 思えば、そういう選別の仕方をするところが、根本的に父親に似ているのかもしれない。轟は、視野を広げてのち、今になってそう思い返す。意固地になって、向こう見ずになって、やけくそを起こしていた。怒りと恨みだけが、轟焦凍を強くする燃料になると思い込んでいたのだ。

 視野が広がったから、もしくは、飯田天哉が自分と似たような顔つきをしていたから、理由はいくらでも後付けできるが、突き詰めると、結局は「カン」だった。飯田が笑う、飯田が声を張り上げる、その一瞬一瞬に違和感を感じた。
 いつもの飯田とちげえな。
 気がついたのは轟と、それから、彼と親しい麗日、緑谷の二人だけだろう。飯田はうまく隠したが、飯田の上に降り注ぐ、木々の間に落ちるやわらかな影のようなものが、もやもやと轟の中に残り、あいつ、変だな。様子が変だ。そう思うようになった。

 飯田天哉の兄がヒーロー殺しにやられ、飯田が彼の兄の勤め先であった「保須市」の事務所を職業体験場所に選んだ段階で、轟はぴんときた。飯田に感じていたもやもやが何なのかも、だんだん理解ができるようになっていった。
 似ているのだ、自分と。
 恨みつらみの衝動にまけて、飲み込まれながらもがき、苦しみ、ふつふつと煮えたぎる怒りの中にいる。そういう人間のことを、轟は知っている。まさしく、自分だ。轟は飯田を見て、「俺に似てる」とそう思った。
 かみ殺したような、今にも叫んで暴れだしたいのをこらえて、「自分」というツラの仮面を必死でかぶっているみたいだ。飯田天哉の「無理している」感じが、轟にはどこか痛々しく、自分を見ているようで苦しくなった。
 それから、職業体験に行くまでは、飯田に目を向けるように注意をしていた。妙な兆しがあったら釘をさしてやろうと思ったのだ。けれど飯田は、表面上いつもの飯田でい続けた。案外冷静に、どうにかこうにか、現実を噛み砕いて、咀嚼しようと努力しているのかもしれない、と轟は落ち着かない気持ちをもてあましながら、そう納得しようとしていた。

 そんな轟が、職業体験中、緑谷からのメッセージを受け取ったとき、一気にプラグがつながれ、電流が通ったみたいな「ひらめき」を感じたのは、飯田が持っていた「違和感」のせいだろう。恐れていたことがおきてしまった、そう直感的に感じ取り、轟は、持ち場を離れて逆方向へ走った。
 わりいけど、俺は行く。
 飯田を助けるのは、過去の俺を助けるのと同じだから。
 サイドキックたちへ指示を出し、立ち回る父親の背中にそう投げかけて、轟は走った。

 路地裏での戦いは、緑谷、飯田、轟の三人と、彼らに関わった大人たちだけの「秘密」になった。三人で分かち合った「秘密」の存在が、三人の関係を親密なものにした。
 轟の方へ飛んだナイフの切っ先を、腕を伸ばしてかばい、自分の腕に傷を負った飯田、飯田を殺そうと襲い掛かってくるステインと、飯田との間に立ちふさがった轟の、奇妙なつながりがそこに残った。
 戦闘、っていうのは頭でやるものじゃない。体でやることなのだ。だから、必要なのは身体能力と経験則だけ。経験則が体に教えてくれる。このときはどう動くのが最善か、どう動けば自分を守れるか……。これは轟が父親に、小さいころからうるさく叩き込まれた考え方だ。だから父親は、その考えに基づいて、轟をズタボロにした。こう動けばこうなるのだ、と体に教え込むために父親はそうやって鍛練をさせてきたのだ。ステインと対峙したとき、轟は、体に叩き込まれた「経験則」に初めて感謝した。
 だから、轟が飯田の前に立ちふさがったのも、飯田が轟をかばって腕を差し伸べたのも、全部、「体が勝手に」としか言いようがない。染み付いた自分の性格とか、相手との関係性とか、そういったものが不思議な作用をして、その瞬間爆発的に現れる。「俺と似てる」とそう思って、一方的に飯田を気にかけていた轟には、飯田が咄嗟の判断で、自分をナイフから守るために腕を伸ばしてくれたのが、なぜだかとてもうれしかった。

 飯田もそうだろうか。轟が自分の前に立ちはだかって、叫んだとき。そう思ったのだろうか。そうだったらいいな。轟は飯田を助け起こして、ぼろぼろ、大粒の涙を流し、すまない、ごめん、と繰り返す飯田に、
「もう終わったから。全部終わった。だから大丈夫だ」
 と慰めてやるしかなかった。

「なりてえもんちゃんと見ろ!」
 あれは、自分に向けて言った言葉でもあった。轟はあのときのことを振り返って、そう思っている。轟がまさに緑谷によって「なりたいものになれ」と叱責をされ、底から引きずりあげられたその強い言葉を、飯田にも投げてやらねばならなかったし、その言葉を言うことは、かつての自分への弔いでもあった。
 
 地面にはいつくばって、涙をこぼした飯田の顔を、上に向けてやりたかった。
 飯田の名前に隠された「天」の文字は、飯田が上を向き、いつものように快活に、からりと晴れた空のように笑う、そのためにあるのだから。

 戦闘において考えている暇はない。「考える暇」をいち早く捨てて動いたほうが勝つのだ。それを、あの薄暗い、ゴミとヘドロのにおいがする場所で覚えた。緑谷も、飯田も、轟も、あの場所でやったことのほとんどが、自己防衛のために反応した「無意識」の動作で、全てが終わったあと、取り残されたような放心が、三人の中に残った。

 それからかもしれない。轟は、飯田が元通り、笑えるようになってからも、飯田のことがどうしても気になった。抱えた「秘密」が飯田を美しく見せるのかもしれない。俺たちは、特別な友だちだと思わせるのかもしれない。あれこれ考えたが、結局は、「飯田を見てると胸がつまる」という感覚のみが答えであった。
 ともに行動することが増え、傷ついた肉親を背負う分、二人でぽつぽつ、病院でのことだとか、思ったこと、感じたこと、つらいこと、きついこと、しんどいこと、そしてうれしいこと、あれこれ話すようになった。放課後、みんなの提出物を持っていくから、と教室を出て行った飯田が、職員室から帰ってくるまで、たったひとりの教室に居残り、西日を浴びている轟に、戻ってきた飯田が驚いて、「待っていてくれたのか!? すまない、遅くなって!」と駆け寄ってくるのが、好きだった。

「好きだ」
 自然、そう思うようになって、轟はぎょっとした。自分のこころの中に根を張った、厄介な植物が、大きくなるまで気がつかなかった。鎌首をもたげ、つたを絡ませ、心臓をぎゅうぎゅうに締め上げるその植物の花が咲くとき、自分がのっぴきならない状態になることが分かっていたから、こんな花、焼き払ってやろう、と思うのに、轟が花を始末するために立ち上がると、飯田天哉がその花のそばに立つのだ。
「立派な花だな、轟くん」
 そういいながら、飯田が水をあげる。飯田は水をあげながら、路地裏で轟に見せた大粒の涙をこぼす。その涙がさらに植物に水を与え、轟は思う。
「好きだ」
 
 飯田天哉の一挙手一投足が轟の花に水を与える。花は急激に成長し、轟の心臓をひと呑みできるくらいに大きくなった。轟はその巨大で危険な花を眺めながら、「おお」と思っている。「やべえな」とも。ぱか、と口を開いた捕虫葉のあぎとが心臓を食おうと口を開け、とどめる暇もなかった。轟はあんぐりと、心臓が、美しい花に食われるところを黙って見つめていた。
「好きだ」
「そう、すき、……ッえ?」
 いつもの放課後だった。例によって飯田を待ち、教室で西日を浴びていた轟は、さて帰ろうか、待たせてすまない、と荷物をかつぎ、帰宅準備を整えた飯田と一緒に立ち上がって、不意に、そう言った。飯田は、今日やった授業の内容について、あれはよかった、これはどういう意味があるのだろうな、これは予習が大変だと思う、とか言っていた最中だったので、反射的に「そう」と返事して、それから、ぎょっとした。
 言ってしまった言葉はもう戻っては来ない。轟には不思議と後悔もなかった。それよりも、職業体験が終わってからぎりぎりと締め付けられていた痛みと、もやもやがスウッと消えたことに満足して、逆に、轟が感じていたその痛みを、受け取ってしまったらしい飯田の驚愕の顔つきに「してやったり」とすら思うのだった。
 告白っていう制度は誰が考えたのだろう。言ってしまった方が強いに決まっている。緊張はするけれど、相手に「まさか」という衝撃を与えて、自分は、じっと返事を待つだけだ。相手は考える。受け入れるなら簡単だが、拒絶するにはものすごく言葉を選ばなければならないし、自分も、相手も、傷つくことは目に見えている。
 飯田はそれぎり声をなくして、ぱく、と口を開いたあと、真っ赤になってうつむいた。これは、駄目だな。轟はそう思った。告白したこともされたこともなかったが、「駄目らしい」という予兆はなんとなく感じ取れる。たぶん、これは、駄目なやつだ。轟はうなだれて、さあ早く一思いにやってくれ。俺の最初の告白で、最初の失恋がお前だ、と、白く美しい首筋を、断頭台に乗せ処刑を待つ囚人の気持ちでいた。
 飯田は眼鏡をぐいと上げて、何か言おうと口を開き、また閉じた。ごめん、と吐息交じりの一言目がこぼれたので、轟は、ああ、と肩を落として、帰ったら泣こう。と思った。
 けれど、飯田はさらに続けた。
「……少し、考えさせてくれないか……」
 苦しみ、悩んだ結果の、あえぎあえぎつないだ言葉が、轟の一縷の光に変わった。轟を傷つけないための逃げ口上だという考えは起こらなかった。
「いつまで」
 せっついてしまったな、と言ったあと反省したが、轟のその言葉に、飯田は制服のズボンの膝の辺りをぎゅっと握り締めて、
「明日まで」
 と、きっぱりそう言った。

 その日は、自然、別々に帰った。轟は帰り際、家までの道を急いだ。安堵のせいか、それとも、死刑執行が延びたせいか、自室に入ったとたん、手が震え始めた。極めつけに、心臓が痛いほどばくばくと跳ね、片目からひとつぶ、涙が出た。慌ててぬぐい、
「あー、……」
 と低く唸り声を上げる。ベッドに寝転がり、自分のこぼしたひとつぶの涙で、轟の心臓を食べる植物がみるみるうちに肥大するのを呆然と眺めていた。

3.

 はじめて告白された相手が、自分の好きな相手だった。そんな、普通ならもろ手を挙げて喜べる状況に置かれて、飯田天哉は頭を抱え、思い悩んでいた。いつもなら変わりなくはかどる明日の予習も、今日の復習も、いつもの三倍進みが遅い。どうしよう、どうしたら、という混乱の渦に巻き込まれて、飯田はふと我に返る。また、ぼーっとしてしまっていた。
「好きだ」
 なんて。あんな唐突に言われて、驚かないわけがない。轟焦凍とはいろいろありすぎた。ありすぎて、飯田はすでに、彼に対して自分はどうありたいのだろうということがぐちゃぐちゃになって、分からなくなってしまっていた。入り組んだ道の中で、何度もぐるぐる回っている。
「好きだ」
 と言われたとき、俺もだ、と言いかけるのを飲み込んだ。ともに路地裏で戦ったとき、しびれて動かない腕をかばって、立ち上がろうとした飯田に手を差し伸べ、
「ひとりでがんばったな、飯田」
 と言った轟焦凍のその一言が、何日も尾を引いた。轟はどうして、自分が「いま」「まさに」欲しい言葉を、的確に投げつけてくれるのだろう、と不思議だった。
 
 飯田の帰りを待って、一緒に下校してくれるようになった轟焦凍。いつも無表情で、ともすれば「冷たい」とすら誤解されがちな、二枚目というより美人に近い、そういう顔立ちをしている轟が、たまに向ける微笑みがとてもいいと思った。原因と過程と結果を順序だてて、理論的に整理したいタイプの飯田には、けれど、そうしたただの「友達」の間にも十分起こりえる普通の交流が、なぜすべてを飛び越えて「好き」になってしまったのか、自分のこころが理解できなかった。
 相手は轟焦凍。かなうはずがない。そもそも、これが「恋」に分類される「好き」という気持ちかも定かではない。同世代に、「とても仲がいい」と思える相手がいままで少なかったから、こんな気持ちになるのだろうとも考えられて、飯田は諦めに近い気持ちで、轟と一緒に下校していた。
 その轟が、突然、「好きだ」と飯田に言った。

 告白された、と脳が理解するまで大きなブランクがあり、理解したとたん飯田の気持ちは捻じ曲がった。
 轟のことを好きかもしれないと認識したときに、飯田の熱情を打ち消そうと、「理性」の小部隊が突撃して攻めて来た。飯田にとっては耳に痛い言葉を投げつけ、城壁がどんどん崩されていく。
「高校生から交際とはいかがなものだろうか」
「交際したのち、結婚があり、将来を誓った仲ならばまだしも、君たち二人は結婚できるのか?」
「そもそも世間の目はどうだろう」
「相手にだって家がある。エンデヴァーという立派な名が」
「お前にだって家がある。インゲニウムという立派な名が」
「それをつぶすのか」
「子孫も残せないのに」
「ただふしだらになるだけではないのか?」
 飯田を攻める「理性」のつぶてが、城壁を打ち、崩していく。飯田は城壁の中でひとり、閉じこもって、残された「恋」という、小さく弱いかたまりを抱き、心配しなくていい、僕が守るから。と弱々しい約束を吐き出している。容赦なく攻め込んでくる「理性」の小部隊は、「恋」を抱えてひとり閉じこもっていた飯田を見つけ、取り囲むのだ。
「親不孝ものめ」
 理性の槍が飯田を刺した。部隊は勢いをつけて、次々に槍をさしていった。
「祝福されない恋をしてどうする」
「父の気持ちは? 母の気持ちは?」
「兄の気持ちは?」
 飯田を貫く無数の槍は、けれども、飯田が必死で守った小さな「恋」を、突き刺せなかった。

「轟くんを好きになって、何が悪いんだ」

 飯田天哉は泣きべそをかきながら、手の中でトクトクと音を立てる「恋」を抱き、槍を刺されたまま、意地でもそこから動きはしなかった。

 翌日、教室に最後まで残った。
 轟も、当然のように教室に残った。クラスメイトたちがいなくなるまで、「じゃあまた明日」を繰り返し、最後の二人になるまで粘った。二人きりになると、突然、空気の層がさらに重く重なり、緊張の糸が二人を縛ったように思えた。轟は爪をじっと見つめている。飯田は押し黙ってそこに立っている。言おうと思っていたことが全部吹き飛んでしまった。うまい文言を考えていたのに。そんなことはこれまで一度もなかった。飯田天哉は、雄英高校の入試会場のように、とんでもない数の生徒の前でも、はきはきと質問したし、中学時代壇上に立ち、選挙演説をしたときでも、言いたかったことが全部飛んでしまったなんて体験はしたことがなかったのだ。
「あの、」
 轟くん。おずおずと呼ぶと、轟が飯田の方を向いた。真正面から、色の違うふたつの瞳で見つめられると、今言おうと思っていることが全部間違いなのではないかという不安に駆られる。轟は黙って待っていた。どうして彼はこんな、俺がこんな不安に駆られているときも、普通の顔が出来るんだろう。と、飯田は轟の瞳の強さに気おされた。
「……俺は、」
 ぐ、と飲み込んで、くちびるを引き締める。駄目だ。何と言うつもりだったのだっけ。結婚を前提に? ちょっと気が早すぎる。まだ俺たちは高校生で、……からはじめるとなんだか断りの文句みたいだな。ぐちゃぐちゃになった脳みそを、慌てて片付けながら、「これ」という言葉を探していた飯田を見据えて、轟は細いため息を吐き出した。
「飯田」
 その目が悲しげな、不安げな色にゆれたとき、飯田ははっと気がついた。仲良くなって、分かってきたはずだったのに、自分は何一つ分かっていなかった。轟は無表情で無感動な男ではない。表情の変化が乏しいわりに、内心は、めまぐるしく動く自分と同じ年の普通の男の子なのだ。
「……無理、すんな。分かったから」
 もう、分かったから。飯田の返答を聞かないで、この一世一代の告白を終わりにしてしまおうとする轟が、どれだけ、「好きだ」の三文字を言うために、時間をかけたか良く分かった。まって、と手を伸ばす前に、轟は飯田に背を向けて、机の上のかばんをひっぱりおろし、教室を出て行こうとした。
「待ってくれ!」
 切羽詰った叫び声が、わん、と教室に響き渡った。振り返った轟焦凍は今にも泣き出してしまいそうで、飯田まで苦しくなった。
(そんなに好きでいてくれるのか。僕のことを)
 飯田は轟の手を握って、ぎゅっ、とつないだ。

「ぼくも」

 たったそれしか、いえなかった。昨日この場所で投げかけられた「好きだ」という言葉に、一日遅れて投げ返す「ぼくも」が、こつんと轟にぶつかって、こん、こん、こん……。と転がっていく。轟はぽかんと口を開けていた。自分から言い出したくせに、「お前何言ってんだ」みたいな顔で、まったく間の抜けた顔をしていた。

 
 それから、轟焦凍と飯田天哉は恋愛関係になった。こいびと、というには照れがあるので、「ちょっと行き過ぎたともだち」ということにしている。相変わらず食堂には緑谷と三人で行き、飯田はクラスメイトたちに真っ先に挨拶をし、轟は誰に話をふられても微妙にずれた回答を大真面目な顔でやって、笑われた。何一つ変わらなかった。拍子抜けするくらい、二人は変わらず以前の二人でしかなかった。
 表面的には。

 二人は二人で抱えもつ「ひみつ」の美しさにくらくらとする日々を送ることになった。クラスでは普通にする。学校を出ると二人は変わる。親元を離れてひとりで暮らしている飯田の部屋に入ってしまうと、二人を覆っていたふつうの「飯田天哉」「轟焦凍」の皮ははがされる。好きだと告白しあって、次の日に轟は飯田の部屋に行った。そして、さあそろそろ帰るか、というとき、
「なあ、飯田」
 と飯田を呼んで、轟は玄関口でキスをした。
 驚いて、半開きになった飯田のくちびるはやわらかく、飲んだばかりのオレンジジュースの味がした。

 転がり落ちるようなスピードで、二人はどんどんステップを重ねていった。飯田が「ちょっとこれは、まずい気がする……!」と理性の槍を構えても、轟がそのくだらない槍をへし折って、「やりてえのか、やりたくねえのか」という、飯田の「意志」を問う質問を投げかける。そのせいで飯田も、いやだはと思っていない自分の意志に嘘をつけずに、手を引かれ、一緒にどんどん駆け上がっていってしまう。思いつくありとあらゆることをやって、ついに、二人は、「性交」という巨大なハードルへたどりついた。

 セックスは冬の博物館だ、と表現したのは誰だったろう。二人は冷え冷えと聳え立つ、雪にまみれた未開の博物館の前に立ち、轟がはじめに、凍りついたチケットブースでチケットを買った。学生、二枚。受け付けは頭を下げ、高校生ですから、十分気をつけてお進みください。と口ぞえをする。飯田は轟に手を引かれるまで、その博物館を見上げて、恐る恐る、立ち止まっていた。
「飯田。ほら」
「……あ、……轟くん、……ほんとうに、するのか……?」
「ん。準備も、しただろ。さっき」
 ずり、と靴底が、霜が下りた床を踏む。ぱきぱき、と鳴る博物館の廊下を進み、まず正面には大きな恐竜の骨が飾ってある。あまりにも大きなそれに、あっけにとられて、くらっとめまいがした。しかも、見たことのない恐竜の骨だ。案内表示を見ても、聞いたことがない名前。
 奥へつながる廊下は暗く、灯りのひとつもない。手探りで進むしかなさそうだ。飯田の手を引いて、轟が進む。手をつないでいると幾分かマシだ。たまに、
「いたくねえか」
「大丈夫か」
 と思い出したようにたずねる。

「っは、あ、……ぐ! いや、っだ、とどろきくッ、ん!」
「わりい、……いてえよな……」
「っ、ごめ、ッ、ごめん、っ、ちがう、ちがうんだ、……」
「いき、くるしいな……、飯田……」
「うん……っ、……んあっ、ああっ……」
「いたかったら、やめる……」
「ちがう、とどろきくん、……」
 やめないでくれ。ほんとは。続けたいんだ。怖くて、つい、言ってしまう。やめて、って。
 轟の裸の腕にすがって、涙でぐしゃぐしゃになった飯田天哉が、とぎれとぎれにそう訴えたとき、轟焦凍の半身が真っ赤な炎のとぐろを巻いた。
 冬の博物館が焼け落ちていく。轟の放つ熱に当てられて、ごうごうと燃え上がり、博物館は劫火に舐めつくされる。ふたりに投げかけられる言葉はもうひとつも届かない。
 親不孝、世間体、血筋、家柄、すべてが二人の頭から吹き飛んだ。それらは博物館に展示された、めずらしい生き物の標本や、古書、へんてこな装置と一緒に、ガラスケースに入れられて保管されていた展示品だったが、二人はそれを焼いてしまった。それらを捨て去ることはできない。無下に扱うこともしたくない。二人とも、家族や友だち、そのほか、大切なものがたくさんある。それらを捨て去るわけにはいかないし、それらを忘れ去ることもできはしない。
 だから今だけ、焼き払う。いまだけは二人きりにして欲しい。轟にとって、いまいちばん必要なのは、苦しい息を吐き、ひいひい喘ぎながら、轟のくびねっこにしがみついて、
「もうだめ、だめだ、とどろきく、だめだ、だめ、おねがい、へんなんだ、おかしい、まって、まってくれ、とまって、……!」
 と訴える飯田、それだけなのだ。
 手を握って、ごめん、俺もよゆうねえ、と搾り出した。冬の博物館なんて、誰が言ったんだ。そんな静かで、底冷えする不思議なものじゃない。
 まるで燃えさかる家だ。汗だくになって、必死で逃げて、必死で迎えうって、呼吸もおかしくなり、窒息しそうに息ぐるしくなり、炎にあぶれらたかのように皮膚を熱くする。

 セックスは燃えさかる家だ。
 何もかも舐めつくす炎が、もつれ合う二人を真っ黒な消し炭に変える。何もかも飲み込んで、燃えている間は、二人を取り囲んでいた全てのものも、一緒に灰になってしまうのだ。

 はひ、と苦しい息を吸って、吐いて、ようやく呼吸が整ってきた飯田と轟は、火照って真っ赤な顔で見詰め合っているとどうにも落ち着かず、照れくさいので、もぞもぞと薄いシーツをかぶった。冬の博物館は真っ赤にたぎる炎に焼かれ、くずれおちて焼け野原になった。だが、きっとまた轟と飯田が「冬の博物館に行きたくなったら」、博物館は元のように、聳え立つだろう。
 寝そべって、飯田の剥き出しの肩口にてのひらをやると、ぶる、と飯田の皮膚が震えた。ぺた、ぺた。と体を触ると、もう寝よう、お願いだから、と飯田はいっぱいいっぱいになって懇願する。轟も夜に強いタイプではないので、とろとろ、まぶたが重くなってきた。
「あのな、飯田」
「……なんだい、轟くん」
 服も着ないまま、二人はすっかりシーツの上にからめとられてしまって、もう動く気力も残っていない。飯田のくびすじに手をやって、尖らせたくちびるを近づけると、キスをねだられているということが分かった飯田が、ぎゅっ、と目を閉じる。
 お前から来いよ、っていうのは、いまの飯田には酷なので、しばらく慣れさせてからにしよう。轟は内心でそう考えて、飯田の頭を引き寄せ、キスをした。この頭の固い委員長は、そのくせキスが嫌いじゃない。キスをするとき、体の力がふにゃりと抜けることを、轟は知っている。
「……やりてえことがある」
「……? やりたいこと? なんだ?」
 このキスも、飯田をなだめすかすためのキスだとあとでバレてしまうだろう。轟は片手でベッドの端をあさって、充電器から伸びた二人分の携帯電話の、片方を手に取った。
 手になじむ自分の携帯を起動させて、す、と、手をまっすぐ天上へ向ける。画面には、ぽかんと口を開いた飯田天哉と、よからぬことをたくらんでいる轟焦凍が写った。
「なっ! と、とどろきくんッ! 何してるんだっ!」
 驚いて、慌ててババッと両腕で顔を隠した飯田のせいで、盛大に写真がブレた。不服そうにくちびるを尖らせる轟に、飯田が思わず飛び起きる。
「写真撮りてえ」
「しゃ!?! シャシン!?!? 君、そんな、ッ、」
 そんなふしだらな! と素っ頓狂な声で叫ぶ飯田の、裸の体を指差して、「ふしだらな格好してんのに」と言うと、飯田はババッとシーツを引っ張り上げて体に巻きつけた。
「どうしてそんな……!」
「記念」
「記念!? そんな記念聞いたことないし、第一何の、」
 何の記念なんだ、と言いかけて、ごくんっ、と飲み込む音がした。そんなことを言ったが最後、「初めてセックスした記念」とあっさり言われるに決まっていると飯田はそう察したので、あらかじめ飲み込んだ。
「ほんとは最中に撮りたかったけど、我慢した」
「さいちゅう!?!」
 あっけらかんと言い放つ轟に、飯田はいよいよぎょっとして、シーツをグイッ! と喉元までひっぱりあげた。その大げさな(飯田は大真面目だが)リアクションが面白くて、思わず轟は吹き出した。
「そういうもんだろ、男なんか」
「……ッ」
 ふどうとく、ふてきせつ、いくつかの「不」のつく単語が飯田の口からこぼれたが、一枚だけ。一枚だけくれ。ベッドに寝転んだまま、飯田の腕や頬や髪を撫でて、甘えた声を出し続ける轟に、飯田の引き結ばれたくちびるが、わなわなと震え始める。もう少しだ。もう少しでたぶん押し切れる。
「なあ」
「……そ、そんな顔してもだめだ、轟くん!」
「飯田」
「……だめだ、」
「一枚だけ」
「駄目だ!」
「…………」
「悲しそうな顔しても駄目だぞ」
「…………一緒に寝て、こんなことするなんて、最後になるかもしれねえのに」
 轟がけだるそうに、シーツに寝そべったまま言うと、飯田は、「どういうことだ?」と不思議そうにする。轟の漠然とした不安は、はちきれそうに大きかった。
「こんなにお前のこと好きなのに、明日、何が起こるかわかんねえだろ。それでなくても、俺たちは、いろいろあって、ギリギリ生きてるみてえなとこ、あるし。だから、一枚だけ、いま撮りてえ。お前と〈こういうこと〉した、っていう、証拠がほしい」
 なあ。飯田。お前はどうなんだ。轟が言うのを、飯田は黙って聞いていた。そして、わなわな震えて、
「君は、ずるい……」
 と搾り出すように、つぶやいた。

 シーツを巻きつけた飯田天哉が、轟焦凍の隣に横たわる。ぷい、と照れて横を向いてしまうので、轟が飯田に腕枕して、頭を抱くように引き寄せた。飯田の肩口に頭を寄せて、密着する。轟焦凍はセルフィーを撮るのは初めてだったが、彼は本能的に、どう撮れば「うまい」か分かっていた。
 カシャ、と小さいシャッター音のあと、ちゃんと撮れているか確認して、一枚収めた。乱れたシーツの上に横たわる二人の男。白い肌がむき出しになっていて、まだらに赤いのが生々しい。飯田は真っ赤になってそっぽを向いていて、轟はじっとカメラを見つめている。一枚、収めたその写真に満足していた轟に、
「あの。……轟くん」
 おずおず、飯田が声をかけた。
「どうした?」
「……それ、……」
 画面を見ないように、努力しながら、まだ赤くなる余地が残っていたのか、というくらいキュウーッと赤く、沸騰して、飯田はぼそぼそ、申し訳なさそうに言った。
「……ぼ、……俺も、……欲しい……」
 消え入りそうな飯田の声の端を拾って、轟は、しばらく経ってから、ボンッ、と爆発した。

 ずるいのは、お前だろ。

 轟は無言で、飯田天哉にショートメッセージを送った。写真が一枚だけの、なんの挨拶もないメッセージ。それを、目の前の男が恐る恐る開いて、写真を見るなり噴火して目をそらす。お互いだけが知っている、お互いの「ひみつ」を入れて、てのひらに収まるサイズの小さな箱は、何気ない顔をしたままでいる。

 朝のアラームも、友だちとの通話も、いまの二人には意味がなかった。