恋とはすなわちチョコレートの滝、あるいは冷たい鴨せいろ

 

1.

 
 みんなでここへいこう、あれへいこう、と計画して、週末に遊びに行く頻度が増えてきたのは、クラスが徐々に打ち解けてきた証拠だ。誰かが言い出して、じゃあみんなで行こう、ということになり、結果、その日都合の合う人数で目当ての場所に出かける。テーマパークだったり、ケーキバイキングだったり、場所も参加者も様々だが、どの待ち合わせでも、飯田天哉が一番乗りだった。

 飯田天哉についていくつか。
 真面目で、筋張った委員長。顎のラインも体つきも、眼鏡の形も真四角で、ちょっとやりすぎぐらいの真面目さを持つ男である。体は健康的に育っていて、背も高く、肩幅も広い。いかにも頭のよさそうな顔立ちと、体格のよさがややアンバランスな、休日遊びに行くとポロシャツばっかり着ている男である。
 ポロシャツの背中のタグをめくったら、POLOだの、ラルフローレンだの、ポールスミスだの、……そういう男だ。兄さんにもらったんだ、とか、上等のポロシャツだと知らずに、三千円のノーブランドと同じ扱いで着ている。高校生には上等すぎるポロシャツを、休みの日に家族サービスするお父さんみたいな着こなしで着て現れる、飯田天哉。
 轟焦凍はその飯田天哉が好きだった。

 飯田天哉を好きになった理由、と聞かれると困る。たいした理由もない。こいつのこういうところに惹かれて、とか、明確に言語化できるようなものじゃない。「なんとなく」。が一番正しい。轟焦凍はなんとなく飯田天哉を好きになった。今まで同級生にカケラの興味もなく、友だちも作らず、きゃーきゃー言われても彼女もつくらず、きゃーきゃー言われていることにも気づかない、そんな男だった轟焦凍は、飯田天哉の今日のポロシャツの色にさえ一喜一憂する。ワッ、と目に迫ってくる真っ青(青らしい青、というか。青とはこうでなくては! みたいな青)のポロシャツを着て、集合時間一時間前に、駅の改札前に立っている飯田天哉を見て、
(よかった。ちゃんといる)
 と安心し、歩みを速めてわくわくと近づいていく轟焦凍のことを知れば、中学時代、彼を見て「イケメン」「かっこいい」「クール」「パーフェクト」「冷たそうなとこもいい」とか思っていた女子たちが、こぞって地団駄踏むだろう。
「飯田」
 よお。そんな、さりげない風を装って、轟焦凍は飯田の前に立った。まだ集合まで一時間もあるというのに、飯田はそわそわ、今か今かと友人たちが集まってくるのを待っている。みなをきちんと一番はじめに迎えて、自分は委員長なのだから、一番初めに集合場所についていなければ、という自負があるのだろう。
「轟くん!」
 飯田はぱっと笑顔を見せて、君が一番乗りだ、と自分を抜かしてそう言う。たまたま、早くついたから。と適当な嘘でごまかして、轟は、この時間にちゃんと到着するように、朝も早く起きて、計画してきたそぶりも見せなかった。
「すげえな、飯田。いつもこんな早えのか」
 飯田が一時間前に来ることを十分知った上で来たくせに、轟は一貫して、「たまたま」を装った。自然、そうなった流れが必要だ。飯田はまっすぐで、融通のきかない四角形の男なので、「たまたま」「そうなった」という状況設定が綿密にいる。これも最近になって分かってきて、飯田をうまく動かすために轟はいつも頭をめぐらせ、必死になって、たくさんの罠を飯田のまわりにはりめぐらせた。
(これが「好きになる」ってやつなんだろうな)
 轟は「好きになる」とか「片思い」とかいう現象の尻尾をつかんだ気持ちがした。
 これがそうなら、「好きになる」っていうのは、結構楽しいもんだ。轟はくちびるが緩むのを、がんばって耐えて、いつもどおりの顔を整えた。
「みんなが集合してきて、集合場所に誰もいなかったら不安だろうからな! 俺が一番にいれば、きっとみんな安心するはずだ」
 うれしそうに、そう言って改札の向こう側をいまかいまかと眺める飯田とは逆で、轟は、まだあとしばらく来ませんようにと祈るような気持ちでいる。
「いつも一時間前に来てるのか?」
「ん? ああ! たいていは一時間前までに来てるな」
「一時間、何して待ってんだ」
「何して? いや、何もしてないぞ。ただ《待って》るんだ」
「ヒマじゃねえのか。一時間も待つの」
「そうだな……。ヒマと言えば、ヒマだが、《待つ》っていうのは結構楽しいぞ、轟くん。今来るか、いつ来るか、そうやってみんなの姿を探す、どきどきする感じが、俺はなんだか好きなんだ」
 へえ。そうか。轟は、飯田の《待つ》ことへのわくわく感を、なんとなく分かる、と思いながら、でも俺は、《待つ》ことよりも、相手の姿を見つけて、「あ、いる。」と思いながら、《会いに行く》瞬間の方がどきどきするな。と思う。
「暑いな、今日は……」
 ぱたぱた、とポロシャツ(今日はラコステだ。胸のところにラコステのロゴが入っている)の首元を仰いで、じんわりと汗のかいた首筋に風を送る様子に、なんか、いいな。と劣情がふわついて、じいっと轟の目が、ひるがえる首元を見つめている。それに気づいて、飯田は動きをとめ、ちょっとまごついた様子で、轟くん、どうかしたか? とたずねてくる。
「いや。なにも」
 ぼーっとしてた。わりい。そう弁明をして、轟はまだ数分しか進んでいない、駅の広場に聳え立つ時計塔を見上げた。

 雄英高校から電車で二十分程度。かなり都会らしく改修されて、新幹線、在来線へと乗り換えるコンコースはぴかぴかに磨かれたリノリウムの床。入り組んだ構内には、乗り換え誘導のための案内があちこちに張り巡らされ、しつこいほどに訴えかけてくる。こっちが新幹線乗り場、あっちが在来線ホーム。まるで飯田みたいだ。轟は、整然として誘導まみれのコンコースを眺めて微笑を浮かべた。
 この近辺では初上陸の、ナントカカントカというチョコレートバーがオープンしたから行こう、と言い出したのは砂藤だった。「チョコレートバー行こう~♡」とわざとらしくハートマークつきで、「きめえ」「何キャラだよ」と言われながら、女子たちに賛成されて、「女子会だから男は来んなよ」とか言っている。巨体のくせに、個性のせいなのか本質的になのか、甘いもの好きな砂藤の提案は、女子からの支持率が高い。A組、と名前の付けられたSNSチャットグループに、未読七十件、と出ているのを見たのは母の見舞いが終わってからだった。うげ、と思うのは仕方ない。七十件のうちの五十件くらいは意味のないやりとりだ。けれど、轟は、それでもきちんと既読をつける。今までならそもそも、チャットグループにすら入っていなかった。けれど、A組なら、まあいいかな。そういう気持ちがあった。
するする、親指でスクロールしていくと、インゲニウム事務所のロゴのアイコンが、たまに目に留まる。するとそこで指が止まってしまうのだから不思議なものだ。
「では中央改札口の時計塔の下で集合だ!」
 この男のメッセージの下には、たいてい、みなの思い思いのスタンプで、「了解」とか、「OK」とかがずらっと整列している。爆豪のがないが、既読はちゃんと人数分ついているので、一応見ているところがあいつらしい。爆豪は大丈夫だ。クソモブどもの集会になんざ行くかよ、といいながら、毎回切島が引きずってくるのだから、心配はない。
 最後が轟だったようだ。轟は悩んで、スタンプを押した。

スタンプなんか全く使ったことがなかった轟が、「これって何なんだ」と、緑谷にたずねたことがあった。
「スタンプ機能っていうのがあって、こうやって返事のかわりに出来るんだよ」
 ぽんっ、と緑谷が押したオールマイトのスタンプ。へえ、すげえ。と自分のからっぽのスタンプ履歴を見ていた轟に、なんと思ったのか、その夜緑谷からメッセージが届いた。
「《緑谷》からスタンプのプレゼント!」
 画面に表示された文字を見て、ちょっとくちびるが緩む。見ると、ゆるい絵柄の、かろうじてこれは雪だるまかな? というよく分からないキャラクターのスタンプだった。
 それ以来、その一種類をずっと使っている。というか、スタンプがこれしかないので、それしか使わない。溶けかけた雪だるまが片手で○印を作っているスタンプを押して、
「了解」
 の意を示す。既読が一気に十七件。みな、グループトークを開いたままなのだろう。
「轟くんっぽいスタンプだな!」
 ぴろりん、と耳なじみの深い音が手の中で鳴る。送ってきたのは飯田天哉。文面だけでなんだか真面目だ。いま、リアルタイムで、轟のメッセージを受信して、誰がコメントするよりも早く、飯田からメッセージが来たのが、轟にはヒュンと胃袋が落ちる感じの、不思議な浮遊感になった。
 ぽん、と一つスタンプを押す。雪だるまがちょっと腹の立つ顔をして、「いいだろ」と言っているスタンプ。押したらまた既読がついた。以前なら面倒で仕方がなかったこういうやりとりも、なんだか、少し、楽しい気がする。
 ぴろん、ぴろん、ぴろりん、と連続で、スタンプだのメッセージだので流れていくチャットメッセージの中に、インゲニウムのアイコンを拾って、目がそこへ自然と吸い寄せられる感覚は、ものごとに疎い轟でさえ、ぴんとくる。
「好きになる」っていうのは、このことだ。

チョコレートバーの店舗があるのは、駅からすぐのバカでかいショッピングビル街で、向き合った二つの背の高いビルがツインタワーモール、真ん中にどんと位置しているのがグランドタワーモール。三つの商業施設がこの駅前の目玉だと言っていい。グランドタワーモールの中にチョコレートバーが入っていて、チョコレートとマシュマロまみれのピザが有名な、ニューヨークが発祥の派手な外見が、すでにどのウィンドウよりも目立っている。窓広告だけで場所の分かるチョコレート店を遠くに眺めて、あれだ、あれが目的地らしいぞ、轟くん。と飯田天哉の指先が、ぴしり、と空を切った。
「君はチョコレートフォンデュ、食べたことはあるか?」
「いいや。ない」
「よかった。俺もだよ、轟くん! チーズならやったことがあるんだが、チョコレートは初めてだ! イチゴとか、マシュマロとかを、チョコレートの滝に浸して食べるそうだ」
「チョコレートの滝」
「ああ。信じられないけれど、あるらしいぞ! 楽しみだな!」
 にかっ、と笑うのは太陽のひかり。楽しそうだな。そう思うと、ぎゅうっと胸がいっぱいになった。立ちっぱなしもなんだと言って、時計塔下の噴水の、ふちに座って話し始める。ピザとチョコレート。すごい組み合わせだ。どんな味だろうな? と、手をぶん回してにこにこしゃべる男の話を聞いているだけで腹がふくれる。胸焼けするくらい、店の中は甘いチョコレートのにおいでいっぱいに違いない。たくさんは、食えねえだろうな。もうすでにでろでろに甘い気分なのだ。「好き」とかいう名前の、特大の砂糖菓子をほおばっているせいで。

 一時間、という時間は涙が出るほど短いのだとその日、まざまざと知らされた。話している間に、あっというまにあと十分になり、十分前に女子軍団がやってきた。示し合わせて来ていたらしい。あー! 轟と飯田! もう来てる! と手をぶんぶん振って、駆け寄ってきた芦戸を先頭に、女子たちがおおよそ集まってしまうと、轟焦凍はくちびるをへの字にまげて、
(飯田ひとりじめ、タイムアップ)
 と静かにむくれた。

 

2.

 
 一時間前に集合場所に来てしまうのは、体に染み付いた習慣みたいなものだ。待っているときのわくわく感と、誰かが最初にやってきた姿を見て、あ、来た! と思う瞬間の喜び、そして誰よりも早く来ることで、集合場所ここであってるかな? 大丈夫かな? と不安になる人間がいなくなるように、飯田天哉は一時間前に集合場所に到着する。
 これまでは、一番乗りしてくる人間は、まばらだった。意外な人が一番に来たり、大人数でまとまって来たり、まちまちで、飯田は誰が来てもひとしく、手を挙げて、親愛の情を表すのが楽しかった。
 
 轟焦凍についていくつか。
 凛として整った、氷の彫像のような、表情の動かない少年、というのが、多くの人間の第一印象になるだろう。口数は多いほうではないが、無口、というには口調のきつい、芯のしっかりした男で、その第一印象のせいで、人に誤解を与えやすい。個性のために、赤と白にまっぷたつ、分かれた髪の色がまぶしく、通りがかる人々の大半が、彼のほうを振り返る。それは髪のせいでもあるし、彼の美しい顔立ちを半分損なうやけどの跡のせいでもあるし、それでも緩和されきっていない端正な美しさのせいでもあった。
 「非の打ちどころがないという悪徳」を持つ男。轟を言い表すにふさわしい言葉だと、飯田はまずはじめに有名な小説の一節を思い出した。けれど、それも徐々に消え去っていった。轟焦凍が人に与える初めの「冷酷な」印象は、彼を知っていくにつれ溶けてゆく。轟焦凍は非の打ち所のない模範的なエーミール少年ではなく、意外とかわいいところがあって、無表情の下にとぼけたところを持っていて、はっとするほど美人なのに、変なところで間の抜けた、まぎれもない「轟焦凍」でしかなかった。
 
 その、轟が、近頃はいつも一番に飯田の前に現れる。
 みなに伝えた集合予定から一時間前ちょうどに、轟は飯田の前に現れ、当たり前のように、一時間を一緒にすごす。たいてい、どんなに早くても他の連中は十五分から十分前にしか現れないので、実質五十分くらいは、轟と二人きりで過ごす時間がある。とりとめない話をして、たまにぼんやり黙って、轟くんは毎回こんなに早く来るけれど、僕と二人で話しているだけで楽しいのだろうか、と、自分が集合時間の一時間前に到着することは棚に上げて飯田はそれが不思議だった。

 今日は、誰が何を言い始めて集合したのだっけ。ボルダリングをやろうという話になって、体力づくりにもなるし、楽しそうだし、と予定の合うもので集まった。轟は、母の見舞いとみんなで集合して遊ぶのと、半分ずつくらいの参加率だが、基本的には予定が合えば断らない。動きやすい服で、というので、みなで雄英の体操服を持って、動きやすい靴を履いてきた。轟も、現れたとき、片手に体操服の入ったかばんを持っていた。
「ボルダリング、やったことあるか?」
「いや、ない」
「俺もない。爆豪くんと芦戸くんはやったことがあると言っていたな!」
「ロッククライミングみてえなやつだっけ」
 言いながら、集合時間一時間前。当たり前のように二人で集まっている。いつもなら、こうやって集合場所の近くに座り、とりとめなく話すだけで終わるのだが、その日、轟はいつまで経っても飯田の隣に座らなかった。ずっと立ったまま、飯田の前をぶらぶらして、たまに立ち止まり、じっと、見つめてくる。
 轟の瞳は不思議だ。
 両方がこちらを向くと、ぎゅ、と胸が痛くなる。ガラス球みたいな、人形にはめ込んだらものすごく映えるだろう、という風な、大きな目。ほとんど白に近い、うっすらとアイスブルーの髪の間から見える瞳は、ぎょっとするほど精密な球体だった。
 何か言いたそうに、轟のくちびるがもごもご動くと、また閉じられる。そして全然別の話をする。たぶん、それが轟の予定していた内容とは全然違った話なのだとは、なんとなく察された。ままならない。ぼんやりとだが、飯田はずっと轟との会話に何か大きな意味を取り逃している気がしていて、ままならない、とそう感じるのだった。
「飯田」
 轟が呼ぶ声には、ふたつ、種類がある。
 ひとつ、なんとはなしに、呼んでみた。そういう、あっさりとした呼び方。
 ふたつ。何かしらの意味があって呼んだのだけれど、結局、押し殺して、いつもどおりの声音を出している、そういう呼び方。
 今のは後者だった。
「ん?」
 顔を上げると、ジャケットのポケットに手をつっこんで、ぶらぶら歩いていた轟が、立ち止まった。時計を見る。あと四十分くらいでみんなが姿を現し始めるだろう。
「……腹減った」
「! 食べてこなかったのか、轟くん」
「ああ」
 これから体力を使うのに。朝ごはんをしっかり食べてきた飯田には、腹が減ったままボルダリングなんて、信じられないくらい過酷なように思える。大丈夫か、と聞くと、なんか食いたい。と轟はちょっと甘えたように言う。
「……そうだなあ……」
 今日集まった駅は、都心というわけでもない、コンビニに行くにもやや歩く必要のある駅だ。ぐるりと周囲を見回した飯田の前に、いつの間に、轟が立っていた。
「付き合ってくれねえか。食いてえもんがあって」
「え? あ、うん、ああ、いいが、もうすぐ……」
「じゃ、行くぞ」
 まくしたてるみたいな、切羽詰った感じは、思い違いではないと思う。轟は問答無用で飯田の手をつかみ、立ち上がらせると、あ、おい、ちょっと、轟くん、と遮る飯田を無視して、駅からどんどん遠ざかり、まっすぐ道を進んでいった。

 駅から五分ほど歩いて、到着したのは小さなそば屋だった。おそば屋さんか。君はそばが好きだと言っていたもんな。と言ったはいいが、集合時間が迫っている。時計を気にする飯田と、飯田がはめている腕時計を交互に見て、轟はつんと視線を尖らせた。
「三十分で食うから」
 言って、中に入り、二人がけの席に通される。轟はもうちゃんと食べるものまで決めていたらしい。鴨せいろ。言うと、注文をとりに来た、上品そうな奥さんが、あら焦凍くん。久しぶりねえ。大きくなって、と微笑んだ。
「知り合いなのか?」
「いや。昔よくここに食いに来てたから」
「そうなのか! 俺はここにくるのは初めてだったから……」
 お友だちはいいの? 問われて、僕は食べて来ましたので、と答えると、奥さんが、
「焦凍くんの友だちっぽい感じねえ。大人びてて」
 と飯田を褒めた。声がうるさいとか、挙動が暑苦しいとか評されることのほうが多い飯田だったので、「大人びてて」なんていわれて、ちょっとうれしくなった。

 ずるる。冷たいそばをうまそうにほおばって、黙々と食べる轟を眺めながら、たまに目があって、たまに短い会話をする。盛り上がりに欠ける、と周囲が見れば思うかもしれない。けれど、飯田は不思議と、轟との沈黙が怖くなかった。
 居心地がいいというか。自然体でいられるというか。あんまりしゃべっていなくても、轟なら、別に気にしないだろうという自信めいたものもあって、飯田はゆっくり背もたれにもたれ、轟が食べているのを見つめている。冷えた麦茶一杯と、目の前で、表情は変わらないものの、頬袋をつくって、うまそうに、むしゃむしゃ口をうごかしている轟を見ていれば、なんとなく腹がいっぱいになってきた。
「おいしそうだな」
 鴨肉をひときれ、はく、と食べた轟に、ついそう漏らした飯田は、「いるか?」と問われて、いや、いや! いいんだ、食べてくれ。と慌てた。ひもじそうに思われたかもしれないと照れくさかったのだ。
「やるから。一口」
 俺だけ食ってんのもなんか恥ずかしいし。そう言って、轟は鴨肉を一枚、箸でかかげて、
「ん」
 と差し出した。

 食べろって? これを? 君の箸から?

 と、一つでも言うべきだったのに、飯田はとっさに、
「あ」
 と口をあけて、箸ごと咥えた。もぐ、と一噛みしてから「あっ」と我に返った。時すでに遅かった。轟が耐え切れないというようににんまり笑って、うまいか、飯田。とささやく声が、耳元でどなられたくらいのレベルで、飯田の頭を揺らして響いた。
「……おいひい」
 もご、と口を動かして、あ、食べながらしゃべるのはよくない、と思い直したのも時すでに遅い。ぶんぶん、と首を縦に振って答えて、轟はさらに微笑を深めた。楽しんでいるな、轟くんときたら。と恨めしく思った。
 轟は自分が食べるより飯田に食べさせるほうが面白いと思ったのか、そばも、そばつゆも、「ん」とか言って、差し出してくる。抗いようのないなぞの力がそこに加わっていて、飯田は口を開けてしまう。もご、もご、と口を動かして、言い知れぬ感覚を噛み締める。噛んでいるのはそばではない、別の感覚なのではないかとすら思う。もご、もご、と噛み締めて、
「うまい?」
 とたずねる、美しいエーミール少年。

「はッ」
 時計を見たのが幸いだった。集合時間まであと五分! ここから歩いて行っては数分遅刻してしまうだろう。轟くんッ! 早く! とせっついて、最後まで平らげさせ、せかしてせかして、外へ出た。こういうときに限って、轟はのんびり財布を出し、のんびり会計をして、一向に急ごうとしなかった。
「も、もうみんな来てしまっているぞ!? 俺としたことが……」
 渡りかけた信号が点滅して、轟くん、早く、と振り返ると、
「待って、飯田」
 そう言って、轟は元来た道を戻った。見ると、遠くに、彼の携帯が落ちている。轟が戻ってきたころには、信号は赤になり、集合時間が来てしまっていた。
「しまった、遅刻……」
 だぞ、と言おうと、轟の顔を見て、ごくりと喉が鳴った。轟は微笑を浮かべて、至極満足そうな、見たこともない顔をしていた。飯田が立ち止まり、横断歩道を踏みしだいて車が行き来しはじめると、轟はようやくもとの表情に戻った。
「轟くん、……?」
「……わざと、落とした」
 轟はぼそりとそう言って、何事もない、無表情のまま、飯田の隣に並んだ。ぴろん、ぴろん、と携帯が鳴っている。おおよそ、クラスメイトたちからの、「遅刻だぞ」の連絡だろう。
 飯田天哉は、轟の言葉が発された瞬間に、時間が凍り付いて、何もかも停止したかのように感じた。「わざと落とした」携帯を、取りに戻った轟が、微笑んでいた意味の本当の深さを知って、飯田は氷漬けになった。
 これは、轟が溶かさなければ、溶けてくれない氷なのだ。
「あと五分。な。飯田」
 轟焦凍は飯田天哉の腕をつかんで、腕時計を見えないように、隠してしまうのだった。
 そして、飯田は轟の顔をまともに見ることができずに、じっとうつむいて、氷漬けになったままでいる。

「おっせー!」
「委員長のくせに遅刻かよ~!」
「こッ、これには深いわけが……!」
 集合場所にはすでに全員集まっていて、信号の向こうから駆けて来た飯田と、それをひっぱって歩みを遅くするかのように、腕をつかんだままかったるそうに引っ張られる轟の姿が現れた。クラスメイトたちにどやされながら、仲間の輪に入る。轟焦凍は瞬間、ゆっくりと飯田をつかんでいた手をほどいた。

 飯田天哉はまじめで、融通のきかない、四角い男だったが、
 轟焦凍がどうしてこんなことをするのか、いくらにぶくたって、気づかないわけにはいかなかった。

(飯田、ひとりじめ、タイムアップ。)