ホワイトウエハース、疾走する

 
 
(一)轟焦凍、恋におちる

 人を好きになったことがないから、恋というのがどういうものなのかは分からない。
 けれど、もしこれが恋だとしたら、ずいぶん恋ってじめじめしてんな、と思った。

 好きな相手の声が、むやみに大きいから、たいていどこにいても意識させられる。好きな、というのも、正しいか分からない。気がついたら、じめっとした感情を持っていた。いいやつだな、と純粋に思う気持ち、ああ、見ちゃいられねえ、と思う気持ち、また、ムカつく、なんかわからねえが無性に腹が立つ、という気持ちも、あいつをどこか小さい部屋にでも閉じ込めておけたら、というような気持ちも、全部ぐちゃぐちゃにミックスされて、ひとかたまりになったみたいな、そんな感情だ。
 轟焦凍には、それがほんとうに「すきになる」というやつなのか、分からなかった。目でなんとなく追っていたり、相手の声がパンと空気を抜けて出てくるように聞こえる。誰かが名前を呼ぶと、ハ、となって目をあげる。
「轟くん!」
 おはよう! そうやって、ワッと大きな声をかけられると、勝手にくちびるが笑う。でも、何がそんなに愉快なのか分からない。
 
 友だちらしい友だちもいなかった。作るつもりもなかったし、必要だとも思わなかった。けれど、雄英に来て友だちが出来た。と思う。これが「友だち」といわないなら、他になんと言えるだろう。最初に、緑谷出久。次に、

 飯田天哉。

 友だち、と言うより、戦友だろうか。ヤバイ場面を一緒に乗り越えた。スコンと明るくて、バカみたいに真面目で、図形で言うなら四角形、そんな感じの男だったが、自分と本質の同じ傷口を持ってしまった。轟の傷は小さいころから時間をかけてじわじわ肥大した傷口だが、飯田のは、最近になってぱっくり開いた真新しい傷口だ。轟は自分の傷口を縫い合わせる手を止めて、飯田の傷をふさぎに行った。いうなれば、轟の古傷は、緑谷が無理やりこじ開けて血を流させ、ほら、縫わなきゃ、縫わなきゃ血が出るよ! という強引なやり方だったが、そのおかげで、やっと縫う気になったシロモノだ。飯田のは、それとはちょっと性質が違って、流れ出したまっさらな血が、空気を吸ってどす黒くなる前に、消毒液を塗って、ガーゼを貼って、特大の絆創膏でふさぎ、あとは自分で処置しろよ! という風にやってやらないといけない種類の傷だった。
 応急処置をしてやった程度だけれど、飯田はそのあと、自分でちゃんと傷口をふさごうとしている。生来、定規みたいにまっすぐな男だから、受け入れるのは、素直なんだろう。
「なにも、みえなくなってしまっていた……」
 友だちが泣くのはなんだか、見ていられない。それが飯田だとなおさらだ。この男があんなふうに、弱って、申し訳なさに押しつぶされて泣くのを見るとは、予測もしていなかった。
「しっかりしてくれよ。委員長だろ」
 やさしい言葉をかけるような柄じゃない。けれど、飯田は、「うん」と答えて、涙をぬぐった。それでもしばらくは、思い出しては目を潤ませていた。

 もしも、飯田が、いやむしろ、もし緑谷が雄英にいなかったら。そう思うとぞっとする。轟は飯田を助けなかっただろうし、それどころか、今でも半身のみで戦っていたはずだ。父の事務所にも絶対行かなかった。そして飯田はきっと人知れず、路地裏に冷たくなって、みなが知るころには飯田天哉はもう動かなくなっていただろう。
 緑谷はすげえと思う。
 たまたま、ばったり帰る時間が合って、飯田と、轟と、緑谷の三人で下校したときに、ふとそう言った。「ど、どこが!?」と飛び上がる緑谷に、追い討ちをかけるように飯田も「本当に、そうだ!」と勢い込んで賛同した。

 緑谷はすげえと思う。

 どうすげえのかは、轟にもよく分からない。ただなんとなく、すげえな、と思う。人を好きになったことがない轟に、その相手を与えた。そのつもりはなかっただろうが、それですらすげえなと思った。向き合って、本質が見えたからこそ、好きになれたのだ。上っ面だけのつきあいでは、絶対「こんなやつ」好きにならなかった。

 轟焦凍は飯田天哉が好きだった。

 クラスメイトが楽しそうに話す「レンアイ」の話が本当に理解できなかった。誰かを好きだと思う気持ち、片思いのときめき、フられた悲しみ、全部理解できなかった。フられて泣いている女子を見て、そんなに悲しいなら好きにならなけりゃいいじゃねえか、と思ったし、好きな女子と何を話しただの、彼女とどこへ行くだの、正解のない雑事のまわりをぐるぐる回っている男たちを哀れに思っていた。
 いまなら、過去の自分と殴り合いの喧嘩になるだろう。
 好きにならなけりゃいい? 出来るはずがない。こっちから近づいたわけではなく、向こうから飛び込んできたのだ。レシプロ、バースト。そんな感じ。エンジン全開で、飯田天哉が轟焦凍にブッこんできた。向こうはその気は、ないだろうが、そのせいで轟は凍りついたのち、燃え上がった。
 いまなら全部理解できる。
 好きな女の子のふとしたしぐさを見て盛り上がる男。かっこいい先輩の挙動に恋心を加速させる女。全部理解できる。問題は、相手が「飯田天哉」であるというところだが、それでも、轟は今まで鼻であしらってひっかけもしなかった話題の全てが、自分の理解できる身近なものになっていることにうろたえたし、照れくさかった。
 どうして好きになったのだろう? 泣き顔を見たから? 同じ傷を持っていることを知ったから? 一緒に死線を超えたから? どれも、ある気がするし、どれも違う気もする。むしろ、「よく分からないこと」しかない。「よく分からないこと」に囲まれて、片付けても片付けても出てくる用途不明のあれこれを、断捨離できずにめちゃくちゃに散らかった部屋の中でぼーっとしている、そういう感じ。

「轟焦凍」

 名前を呼ばれて、びくっとした。立ち上がり、教壇前まで行く。考えにふけっていて、すっかり、気を引き締めていなかった。見抜かれていたようで、担任の相澤に、「ぼーっとすんな」と背中を軽くたたかれる。
 受け取った細い銀色のチョーカー型発信機をつけながら、席に戻る途中、端の席から、
「飯田くん、つけたげよっか?」
 という、変ななまりの麗日の声が聞こえて、つい目をやってしまう。
「んぐっ」
 締めすぎたらしく、飯田が唸り声をあげた。太めの首に、チョーカーが食い込んでいる。麗日くん、し、しめすぎだ、と苦しそうに訴えた飯田に、「あっ、ごめんごめん! ちょっと待って!」とあわてて麗日がチョーカーを緩めていた。
(あの野郎)
 なんとなく、そう思う。飯田天哉。あの野郎。忌々しく思っていながら、千切れるぐらいいとおしく、苦しく思ったり、または、
(むらむらする)
 と思うこともあった。

 むらむらする、っていうのが、どんな気持ちかようやく分かってきた。かわいい子をかわいいと思う気持ちは分かっても、服をぜんぶ脱がせて丸裸に剥き、あられもない格好にしたいと思ったことはなかった。脱いでいようが着ていようが、そいつは単なる「他人」であり、知りもしない、なんとも思っていない女が目の前で裸になったって、轟にはジャガイモの皮が剥けたくらいの感動しかなかったのである。
 けれど、いまとなっては、轟はその気持ちもわかる。
 誰も見たことがない服の下に魅力を感じるみたいなところ。よく分かる。分かりすぎる。見たい。見たい。見たすぎる。今日び首の一番上までボタンを留めて、ネクタイもつめつめに結んだ飯田天哉の服の下。着替えているところを見ていないわけではないし、なんなら着替え時にパンツぐらい見たけれど、そのとき轟は飯田になんの気持ちも抱いていなかったし、女の裸ですら剥かれたジャガイモなのに、男の裸はそれ以下だった。
 チョーカーをつけるために、ボタンをひとつはずして、首元をあらわにした飯田天哉の、その鎖骨ですらいやらしく見える。この前、放課後に、クラスのにぎやかし担当たちが、女の子はスカートの下にスパッツを履くべきか否か(瀬呂だけスパッツ派で、他は履くなという意見だった)で盛り上がっていたのは、こういうことだったのかとすら思う。ぜったいこういうことじゃないけど、こういうことかと納得できる。飯田天哉のつめつめのシャツのボタンが外れるのは、階段をのぼるとき前を歩いていた女子生徒の、足を上げた瞬間に見えた三角地帯に匹敵する。もちろん、三角地帯云々は轟の発した言葉ではない。峰田が、スパッツ云々の話の流れで言っていた。放課後のバカ騒ぎ連中の話を、帰宅準備をしながら、(それな)と思って聞いていたことが分かったら、轟はどんな顔を向けられるだろう。
「なんでスパッツ履いちまうんだよ!!いらねぇだろ!!」
「いるってスパッツ!お前らぜんぜんわかってねえんだって、見えちゃったら意味ねえの!!見えないっていうのが興奮するんじゃねえか!」
「瀬呂キメェ~~~~上級者すぎるだろ……」
「スパッツとかパンチラとかいいから先に裸が見たい!! 先に裸を見たことによって(この服の下にあのカラダ隠してんだろぉ~!?)ってなりてえ!!」
「身も蓋もなさすぎだろ引っ込んでろエロ部長」
 ぎゃんぎゃんわめき散らす男たちがまるで存在しないかのごとく無視してかえる女子たち、そして、後ろの席でそれをなんとなく聞きながら、(全部理解)と思っている、轟焦凍。

 絶対見えない、っていうのに興奮するのも分かる。でもちらっと見えてしまった瞬間にも興奮する。わかる。先にカラダが見たい。それも、分かる。分かりすぎる。あのカラダがこの服の下にあるのか、っていうのを、考えてしまう。分かる。分かる。
 すげえ分かる。
 
 全員分のチョーカーが配り終えられ、ひとりひとり、銀色の、発信機の取り付けられたチョーカーをつけた。これから、明日の朝まで、「救命実地訓練」と呼ばれる特別講習が開始されることになっていた。
「二人一組で、今日の放課後、つまり午後七時から、翌朝七時までの十二時間、サバイバル活動をしてもらう。二年、三年とあがると、最大一週間のサバイバル訓練を行うから、今のうちに慣れておけよ」
 二人一組はくじ引きで決まる。別に誰が当たってもよい、と思っていたので、轟は配られたサバイバル指導プリントを眺め、なんとなく読みながら、自分の名前が呼ばれるのを待っていたが、
「轟焦凍」
 のあとに、
「飯田天哉」
 と続いた瞬間、ぽろ、とプリントを取り落とした。
「落ちたぞ」
 前の席の常闇がプリントを拾い上げる。ああ、わりい、とプリントを受け取って、ふらふら、前に行った。飯田はしゃきしゃき立ち上がっていたので、轟より先に教壇前についていた。
「轟、飯田ペアは、《ホワイトウエハース》」
 二人に渡された「ホワイトウエハース:全域図」と記された紙には、広大な雪原、そしてなだらかな斜面の雪山が描かれた地図と、救助ルート、支給されるいくつかの物品、そして、《ホワイトウエハース》の注意点がいくつか羅列されており、それをペアで検討・協議した上で、どのように対象を救助するか考えてから実地訓練に行く、というのが今回の授業の内容だった。
 授業、というより、課外実地訓練にあたる。今月から、数ヶ月に一度、泊り込みの訓練だ。金曜の夜から土曜日の朝にかけて行われる訓練で、先生たちはハッピーフライデーを返上してサポートに当たるようである。
 それぞれ席を離れ、散らばって、ペアと一緒に打ち合わせをしてからスタートだ。麗日の席を借りて、飯田の後ろに座ると、飯田は「よろしく!」と言った。飯田とペアになるのは初めてだったか。手を差し出してきたので、「ん」と言って握った。
「君の手は冷たいな!」
 改めて言われて、ぎょっとした。とっさにいつも、右が出る。常に冷え冷えとして、冷気を放つ片方の手。もう片方の手は炎。触れるとあたたかいが、轟はそちらの手を出すことに慣れていない。
「こっちはあったけえけど」
 言って、もう片方の手を出し、飯田の手を握った。ごつごつして、男っぽい手だ。やわらかくもなんともないし、細くもない、つめは優等生らしい短さに切りそろえられているが、女がやるようなそろえ方ではない。ぴかぴかもしていない。本当だ、すごいな! 冬と夏が同居してるみたいだ。飯田はなんともない様子で笑って、握っていた手を離した。
 たぶん、こいつは俺のこと、どうとも思ってねえんだろうな。
 轟は、つい飯田の手の感触を知りたくて、右左両方の手を差し出したことをすこし後悔した。相手の気持ちを気にすること。これも、飯田を好きになってはじめてやるようになったことのひとつ。
「ホワイトウエハース、とは、おいしそうな名前だな……」
「他のエリアも似たような感じだぞ。レーズンルインズ、オニオンオーシャン、……」
「俺たちのエリアは雪山と雪原か……君の独壇場になりそうだな」
 エンジンがちゃんと動く気温なのか心配だ、と唸って、顎に手を当てる飯田の、ぎゅっと引き結ばれたくちびると、くしゃっとなった顎先が、かわいい。なんとも言えない。エンジンは、あっためたらなんとかなるだろ。エンジンのしくみはよく分からないまま、そう答えた。
「逆に、あたためすぎるとよくないんだ。オーバーヒートするのが一番心配だからな」
「へえ」
 ルートは簡単だった。雪原のふもとから、雪山に入り、そのまま山頂へ向かう。山頂にあるチェックポイントで救助対象を保護し(これは人形がおいてあるらしい)、下山する。翌朝七時までに元の雪原へ戻ってくることと、救助後所定のポイントで午前五時まで夜を明かすことが条件だった。
 全員に配布されたチョーカー型発信機は、GPSと通信機、行動指示アナウンスが搭載されたもので、緊急信号を発すると、エリア中央で待機していた先生たちへ連絡がゆく。生徒たちが配置されるのは先生たちが待機している人命救助センター本部の周囲、クッキーカントリー・レーズンルインズ・オニオンオーシャン・ホワイトウエハース・ナッツヌーン・エッグエンジンズ・デンジャラスディナーの七つのエリアにちりばめられる。各エリアひとつひとつが広大なので、ひとつのエリアに二組以上が配置される場合もあれば、一組のみの場所もあった。ホワイトウエハースは轟と飯田ペアのみである。
「各エリアはのちのちペアを変えながら全て経験してもらう予定だ。だから、実地訓練後各ペアで各エリアの特徴や対策を報告してもらい、各自他エリアの対策を練ること。個性によっては苦手になるエリアもあるだろう。今回は初の実地訓練だから、お前らにはあらかじめエリアの特徴や構造、必要最低限の装備品を支給する。いわば《チュートリアル》みたいなもんだ。また、それぞれの個性にも合わせて、攻略が比較的簡単なように配置してる。逆に、今後はこれがどんどん難しくなっていくわけだ」
 ふむ、ふむ、と聞きながら頷き、角ばった強そうな字でカツカツ板書を取る飯田の手もとを眺めながら、轟はペンを持たず、聞いている。
「例えば、建物自体が狭く機械や爆発物、可燃性の物質が多く投棄されているエッグエンジンズは、爆豪の能力がほとんど発揮できない。轟も、炎の方だが、同じくだ。直射日光が照りつけ、日光をさえぎるものが少ないオニオンオーシャンは、常闇の能力が過度に弱まるし、活火山があり高温のエリアであるデンジャラスディナーは飯田のエンジンがオーバーヒートしやすい。いかに今後来るであろう自分の弱点になる地域を克服するかを考えながら、まずはサバイバルの初歩と救助の初歩を知るのが今回の目的だ」
「うわ~、俺火山地帯で爆豪とペアって敵も味方もデンジャラスすぎるじゃねえか」
「なんだとテメー! 消し炭にすんぞコラ!」
「爆豪くん! 救助活動だというのに味方を消し炭にしてどうするんだ!?」
 わんっ、と耳に響く大声が真隣から出た。爆豪と切島ペアはデンジャラスディナー、活火山地帯だ。頻繁に噴火活動があり、土石流とマグマが尾根に流れ出してきている。実際に、災害現場で活躍するヒーローは、こうした活火山地域への出動もありえるのだ。
「出発までにヒーロースーツに着替えて、七時に屋上集合だ。ヘリでエリアに向かい、八時には出発する。エリアに出てからは明日の朝までろくなもんは食えねえから、各自、夕食はきちんと食っておくように。説明は以上。解散」
 簡潔にそれだけ説明すると、相澤は扉を出て行った。そこからは、ワッと一斉に声が上がる。自己主張の激しい連中の集まりだから、いつも授業後はこうなるのだ。
「さっさとメシ食って、準備整えようぜ!」
「支給品のチェックもしないと」
「野営とか初めてだね!? テンションあがる~!」
 初めての実地訓練、しかも夜を徹した訓練に、それでもお泊り会的雰囲気が一切ないのがさすがに雄英生らしい。いい状態でぴりぴりと張り詰めて、みな一様に新しい「課題」に目を輝かせていた。
「轟くん! 食堂で夕食を食べながらでも、細かい打ち合わせをしないか?」
 結局あまり話す時間がなかったからな! と近寄ってくる、その首もとがあいているのがなんとも言いがたい。ぺろ、と何気なく、チョーカーのついているシャツの首元を指でめくった。「!?」と飯田がびくついたので、われに返った。
「きつくねえか、これ。食い込んでるけど」
「あ、ああ! なんだ、うん、大丈夫、このぐらいがちょうどいいんだ!」
 ぎょっとした様子だったが、飯田もやや、うろたえ気味に、笑顔を見せる。いきなり触るのは、よくなかったか。

 しかし、鎖骨。
 ちらっと見えた。
 鎖骨。

 ああ~~、と唸り声でも上げたいくらいだが、轟焦凍は、表情があまり変わらない性格にできている。いつもは欠点だと考えるこの性格が、このときばかりは、美点に思えた。

 男同士っていうのはこういうところがまた気兼ねない。そのくせ、男同士だとかなわないことのほうが多い。下心を投げても気づいてもらえない。気づかれたら気づかれたで、気味悪がられる可能性のほうが高い。面倒な、恋だった。なんでこいつを好きになってしまったんだろう、と思うばかりで、けれど、嫌いになることもできないのだった。
 恋っていうのはこんなにじめじめしてるのか。

 轟焦凍、十五歳。春、恋におちる。

(二)飯田天哉、疾走する

 ヘリで一時間弱、降り立ったのは広大な敷地面積を誇る、雄英の私有地「人命救助訓練本部」(JK本部と呼ばれる)に、雄英高校ヒーロー科一年生が到着した。一年の合同演習で、生徒・教師全動員の大規模な課外授業になる。ヒーロースーツを着て、飯田と轟は靴に12爪アイゼンを取り付けている。雪を踏みしだき、体を安定させて歩くための、鋭いトゲのついた装飾だ。支給品は、
・非常食(缶詰スープ)2缶
・ブランケット2枚
・トレッキングポール
・カラトリー(スプーン2本)
・スイスアーミーナイフ
・懐中電灯
・携帯ストーブ(対轟個性用改良済み)
・水筒(飯田用オレンジジュース入り+あたたかいお茶)
・コンパス
 以上を、雪山救助におけるヒーロー向けバックパック(荷物が最小限に圧迫され、激しい衝撃を吸収する素材で作られている)に詰め込み、背負う。たいした大きさにはならなかったので、ほとんど背負っている感じがない。
 降り立ってみると、目がくらむくらい広大だ。一面の雪原が広がっていて、本部からこのホワイトウエハースに来るまで車で二十分かかった。
 雄英の持つ力を見せつけられたような気分だ。学校から離れるとはいえ、私有地としてこれだけの施設を持っている。他のクラスメイトと離れ、たったふたり、雪原に降り立った飯田と轟には、よけいにその広さが迫り、おびやかされるようだった。

 トレッキングポールをさくさく雪の中に差し込みながら、ひたすらに頂上を目指す。登山が好きだという爆豪の方が、こういう根気はあるのかもしれない。飯田のエンジンも、轟の氷も炎も使わずに、ただひたすら登る。エンジンと氷はともかく、この雪原で炎は使えない。雪崩でも起きたらことだ。

 しゃべると体力を消費するから、という理由で、ほとんど言葉を交わさず歩いた。飯田が黙っていると、落ち着かない。轟はこれまで、黙っていて落ち着かないなんて経験をしたことがなかったのだが、どうも、そわそわした。くだらないことで話しかけてみたくなった。けれど、飯田天哉はきっと、「体力を使わないように、あまりしゃべらないでおこうと言ったじゃないか!」とたしなめるに決まっている。
 ふう、と吐いた息が、冗談じゃなく、ぴきぴき音を立てて霜に変わる。スーツをきちんと保温性の高いものにしてもらったが、それでも頼りになるのは自分の温度だけだ。飯田はアーマースーツという動きづらい構造のため、今日の訓練のためにアーマータイプではなく体にフィットするヒーロースーツを別注されてある。
 ただひたすらに歩いていく。たまに、自分たちの向いている方向が合っているか、コンパスを見て確認し、またそのあとは進むだけだ。かちかち鳴っていた歯も、もう鳴らなくなった。寒さに少し体が慣れ、麻痺してきているのだ。

「轟、くん」
 おや、と思った。飯田が口を開くのは、必要最低限のときだけだ。何か問題でもあったのだろうか。
「どうした」
 聞くと、飯田は、はく、と一度口を閉じて、真っ白い息を吐きだした。これだけ真っ白いのだから、さぞ、吐く息があたたかいのだろう。
「あ、いや、……そうか。すまない、体力を使うから、会話はしないでおこうと言ったのに……」
 雑談を、しかけたのだという。
「別にいい。しゃべってねえと、暇だし」
「……特に、大事な話があった、というわけでもないんだが、」
 轟はそれでも、少し、うれしかった。規則遵守が大好きな男が、自ら制約をやぶって、口を開いてくれたことが、うれしかった。なんだ、こいつも、しゃべりたかったのか。そう思うと、上機嫌になる。相変わらず、表情はあまり動かないままだが、轟は飯田の話を待った。
 昔、兄と登山に行った。そういう話だった。自分の個性が誇らしくて、森の中なのにエンジン全開で走り回って、いつの間にか兄とはぐれていて。まだ十に満たないころだったという。このまま遭難して、死んでしまうのではないかと考えて、泣きじゃくっていたのを、兄が探し出してくれた。
 それだけの話だったが、飯田の兄の話を、飯田が自ら誰かに話すということは少ない。少なくなってしまった、という方が、正しいだろうか。これは打ち明け話なのだ、と思って、轟も話した。秘密の共有のつもりだった。
 六歳だったか、小学校に上がってすぐのころに、身一つで山に放り出されたことがある。自力で下りて帰ってこいというのだ。どこかも分からぬ森の中で、丸二日、さまよった。父に隠れて、ヒーローチームに捜索を頼んだ母が、泣きながら、ごめんなさい、ごめんね、焦凍、と迎えに来た。ごうごう鳴る木々の音と、頭上を通る野犬の遠吠えのせいで、あちこちを逃げ回り、轟の走った後には氷の道ができていた。
 そのとき、轟を見つけたのはオールマイトだった。不安に押しつぶされそうだった轟の前に、「もう大丈夫。私が来た」と手を差し伸べてきた、大きな人を、一生忘れないだろうと思った。

「ヒーローってのは、なりたくてなれるもんじゃねえんだと、思う。ならねえと、と思ったときにしか、なれねえんだ。もう、雄英に入ってきたから、ずっと、『きっと助けに来てくれる』っていう、期待に応え続けることの重さを感じてた。だから、ここにきて、オールマイト、ってのがどれだけすげえかもわかった」
「絶対に自分を助けに来てくれる、と、安心させてくれるのが、ヒーローか……。俺にとっては、それが、兄さんだ」

 学校にいると滅多にこんな話はしない。事件があってからは、なおさらだ。けれど、飯田も、轟も、お互いに同じような傷を持っていて、それを知っているせいで、打ち明けるのには抵抗がない。アドバイスも、慰めも求めていない。へえ。そうか。なるほど、そうなのか。そうやって、ただ聞いてくれるだけの相槌で十分だった。
 話しているうちに、山頂にたどり着いた。体力消耗なんて、嘘だ。話しはじめてからの方が時間が進むのが早かった。見晴らしのよい、絶壁の展望台に立つと、昇ってきた山の斜面が、すそ野まで一望できる。山頂にはみすぼらしい山小屋があって、カンテラの灯りがゆれていた。
「ここだ」
「中に救助対象を模した人形があると聞いた。それを担いで、……」
 何の構えもなかった状態で、扉を開いてすぐに反応ができたのは、何度か死線を越えたからだろう。まだ入学して三か月も経っていないのに、大したものだと二人とも内心そう思った。中から、唐突に、大粒の水しぶきが飛んできた。
 ヴィランか!?
 そう思ったが、違った。対ヴィランを想定して作ったのだろう、巨大な大砲のようなものが小屋の中に設置されており、救助対象にあたる人形は置かれていない。首元のチョーカーからアナウンスが流れた。
「あー、到着したらしい二人。突然だが、今回の救助では、山小屋内に救助対象ではなくヴィランが潜伏しており、ヴィランを撃破したのち下山というプログラムに変更されてる。この場所で受けるとまずい攻撃を繰り出してくる相手だ。授業でやったサバイバル術と、このエリアの特徴を加味して対処しろ」
 相澤の声である。最初から、こういう内容の課外授業だったのだろう。破裂して霧散する水の玉が、すぐさま凍り付いてつららになる。浴びたらまずい。体温が一気に下がって、凍死の可能性も十分あり得る。
「飯田! 小屋ごと凍らせる。下がって、」
 指示を出しかけたとき、ドパァンッ! と予期しない方向から第二砲が来た。砲台が二つ! しかも、一つは全くの死角だ。やばい、水かぶる、と思った瞬間に、体がドッと宙を飛んでいた。
 体当たりされた衝撃を受けながら、空中で個性を発動したのはさすがとしか言いようがない。我ながらすげえな、と感心して、砲台ごと氷漬けになった山小屋と、自分の上に倒れ込んだ飯田天哉を見比べる。砲台、撃破。今度こそ、チョーカーが流したアナウンスは、機械音声だった。
「ミッション コンプリート! 所定ノポイントニムカイ、野営ヲシテクダサイ」
 何が、ミッションコンプリートだ。
 飯田の背中を受け止めた手で、彼の体を触ると、ぐっしょり濡れている。髪までずぶぬれだ。砲台の巨大な水泡をかぶったのだから、当たり前である。早くも、飯田はぶるぶる震えて、吐き出した息が凍りついた。

 雪山で遭難したとき、一番恐ろしいのは体温の低下だ。何らかの理由で体が濡れてしまった場合、衣服はすぐに着替え、温めなければならない。わざわざ授業でその内容をやったのも、雪山にこういう試練をくっつけたからだろう。一番いいのは、水をかぶらずにクリアすること。けれどもうそれは仕方ない。問題は、これからどうするかだ。

 所定のポイント、というのはすぐに見つかった。山頂の山小屋から少し離れた場所にある、さっきの小屋と大した変りのないボロ小屋だ。簡単なロッジになっていて、木造りのベッドが二つと、火のない暖炉。暖炉には燃やすための資材がない。轟は迷わず、バックパックを空にして、暖炉の中に空っぽのバックパックを投げ込んだ。
 ひだりの方で火をつける。ぼうっ、と柔らかい炎が起こった。
「わりい、かばってくれたんだろ」
「俺こそ、……逆に、轟くんの足手まといになってしまった」
 何にも変わってないな、俺は。と悲しそうに笑う、飯田がたまらなくて、ばか、さっさと乾かそう、と彼を暖炉の前にひっぱった。
「服」
「え、」
「脱げよ。濡れてちゃ、体温下がってくぞ」
「し、しかし、轟くん……」
「ブランケットあるだろ」
 ほら。言って、濡れたスーツのジッパーを下ろしかけると、あ、だめだっ、ととっさに手を掴まれた。
「すまない、その、……自分でやるから」
「ああ、ん、……わりい」
 変な空気になってんな。轟はそう思って、手を放した。自分はもとより、飯田が分からない。しどろもどろに答えて、あの、と言いにくそうにする。どうした、と問うと、数秒間の沈黙が落ちた。言いにくいことらしい。
「……馬鹿げた、ことなんだ、……」
 まゆを下げて、飯田は観念したように、首元のジッパーをおろし、胸まで下げると、ヒーロースーツを脱ぎ始めた。なんだか、妙に、生々しくて、じいっと見てしまっていた轟は、「そんなに見ないで欲しいんだが……」と言われて、あ、わりい。目をそらした。内心、バクバクしていた。
「馬鹿げてる、と、君は思うだろうが、……その。分からない。なぜか、君が見ているとものすごく恥ずかしい気がする」

 ひっ、

 と、轟の息も止まった。
 上を脱いで、下まで続きになったスーツを全部脱いでしまうと、ブランケットにくるまって暖炉のそばに座り込む。どうしても隠しようのないあらわな胸元や、眼鏡をはずした飯田天哉の、ちょっと居心地の悪そうな下がりまゆが、嫌に色っぽい。気がする。雪山、遭難、夜を明かすふたり。漫画みてえなシチュエーションだな、と、轟は黙々、アーミーナイフで缶を開け、スープを温めていた。
 ぶる、と飯田が震える。いくら暖炉の近くといっても、ものすごく寒い。さっきまで濡れて、外気にさらされ凍りつきかけていた体に、奪われた熱が戻るまでには時間がかかる。あったまった豆のスープを渡してやると、熱した缶の側面を抱いて、ああ、あたたかい。そう微笑んだ。
 ぶるぶるぶるっ、
 と、また体が震えている。たぶん、我慢しているのだろう。耐え難い寒さを、こんな小さな火ひとつ、薄いブランケットひとつで耐えられるはずがない。でも、弱音を吐いてもどうしようもないと思って、黙っている。ヒーローらしくないとか、思って。
 轟焦凍は飯田天哉のことが手に取るように分かった。
 轟焦凍は飯田天哉のことが好きだったから。

「山小屋で、俺とふたり、おまえは裸で、俺は豆スープをあっためてる。確かに、ヒーローらしくねえっちゃ、ねえ」
「……」
「寒いくせに、おまえは我慢して」
「寒くない、っ! 大丈夫、」
「なあ」

 轟焦凍のひだり手が、飯田天哉の頬を触った。あったかい。夏がそこだけ残っているような、いや、炎がゆったりと温めたあとの鍋の側面みたいな、じんわりしたあたたかさ。轟のひだり手が持っている熱はそういう種類の熱だった。飯田の頬が、思わず、ふるえたあと、すり寄ってきたのが分かる。
「君の手は、……あったかいな」
「みぎはつめてえけどな」
 へら、と笑って、轟は、飯田の近くに寄った。飯田は逃げなかった。見られるのが恥ずかしい、と、男同士だというのに脱ぐのをためらった飯田の反応で、轟はもう本当は答えを見つけていたのだけれど、初めてする恋というやつが未知で、あまりにも未知で、轟はいつもよりずっと慎重になっていた。
 ぐい、と飯田の裸の体に手を回す。ブランケットの下の肌はつめたい。轟がひだり手で触ると、じんわり、そこからあたたかくなった。細かい粟が肌に立つ。
 轟が上半身、スーツを脱いだので、飯田はぎょっとした。どうしたんだ、と問われても、答えなかった。言うと逃げられると思ったのだ。
 ブランケットの中に入り、手を回して飯田天哉の裸の体を抱きしめる。下着も濡れたから、全部脱いでいた。暖炉の前で干している。分かっていて、ブランケットの中にしのびこんだ。
「わ、轟くん、なに、を!?」
「じっとしてろよ」
 ひだり側で、飯田の体をぺたぺた触って、ぎゅっとやった。皮膚と皮膚がこすれる感じ。甘い感覚だ。駄目になりそう。あたたかくて、どこか後ろめたい。ぎゅう、と全身をくっつけると、右側があたる方の皮膚が、さむそうにぶるっとくる。
 ぺったりくっついて、あたたかい方を飯田に押し付けた。飯田も、初めはおそるおそる、遠慮がちだったのを、あたたかさに負けてよりかかってきた。
「……すまない、ありがとう」
 寒かったんだ。そう言った。知ってる。ばか。轟は自然、くちびるがゆるんだ。

 いつの間にか、としか説明のしようがない。いつの間にか、手指をからめて、じっとしていた。自然にそうなった。指先をからめたら、もっとあたたかくなるとでも言うように、轟と飯田はじっと暖炉の前で手をつないだ。
 ドッ、ドッ、ドッ、という規則的な音に気が付いたのはしばらくしてからだ。心臓の鼓動にしては大きすぎる。そして、何が音を立てているのか分かった。飯田のエンジンだ。
 ドッ、ドッ、ドッ、とアイドリングするように、規則正しい太い音がしている。まるで突き上げる心臓の鼓動のように。飯田はそれを自分で止められないようで、すまない、うるさくて、と何度も謝った。何度も謝るのはどうしてか、分かる。恥ずかしいからだ。
 これが勝手に鳴るのはきっと、おかしいのだ。飯田の反応を見ていればわかる。ついでに、顔も真っ赤だ。これだけ証拠がそろえば一目瞭然だった。
 ドッ、ドッ、ドッ、の音を聞きながら、飯田の肩にもたれかかって、つないでいない方の手で、飯田のアイドリングするエンジンのあたりを触っていると、ドクッ、ドクッ、と今度こそ鼓動が耳につく。
 だめなやつだ。
 これは、だめなやつ。戻ってこれなくなるやつだ。
 かわいそうに、飯田天哉は自分の体の変化に驚いて、がちがちに緊張してしまっている。
「なあ」
「っふぁ!?」
 動揺しすぎだろ。言おうとして、やめた。それはお互い様だ。
「さわりてえ」
 正直に言った方がよかろうと思って、正直に言った。飯田は、「どこ」のことだと思ったのか、案外あっさり「あ、ああ」と頷いた。エンジンに触りたいと言ったのだと理解したのだろうか? そうだとしたらマヌケすぎる。エンジンはもう触っているのだし、男っていうのは、「さわりてえ」なんて言い出したときには、だいたい決まったところを触りたいと言っているものだ。
 許可が下りたから、堂々と手を伸ばした。冷たい方の手で触ったので、余計にぴくんっと反応して、「アッ!?」という、びっくりした飯田天哉の声もかわいいと思った。
「ちょ、っと待ってくれ! と、轟くんっ!?」
 ぬめ、と手がすべる。ぎゅうっ、ぎゅっ、と握りこんで、自分でやるときと要領は一緒だ。自分でやるときなんてあんまりなかったけれど、最近はよくやる。頭の中で飯田天哉が何回も素っ裸に剥かれたけれど、これは、まぎれもない現実だ。
「は、んあっ、」
 ひい、と目を回して、飯田は口を押さえた。だめ、だめ、何だ今の声、そう自分を必死にいさめているのだろう。轟だって沸騰しそうだった。

 なんだよ、今の声。

 くちゅっ、ちゅっ、と指が音を立てるようになると、かぶっていたブランケットがはだけで、寒さなんか気にならなくなった。ひと肌であたためるのは正しいやり方ではないと聞いたことがあったが、嘘だ。やっぱりこれが一番手っ取り早い。体温、血圧、すべてが上昇して、飯田の足の4ストローク・レシプロエンジンが回りはじめる。吸入、圧縮、燃焼! のち、排気。ガソリンがオレンジジュースのせいか、排気されるとオレンジジュースのかおりがした。クランクシャフトが高速回転。ドルルルッ、と激しい音を出し始める。
「飯田」
「ん、っ、あ、……っ、あっ、」
 ぶるぶる、首を振るだけで、口を開けない。これでもかというくらい引き結んだくちびるを開いたら、ヤバイ声が出てしまうから、必死に耐えているのだろう。
「……まだイくなよ」
 ひぐっ、とのどを詰まらせて、「ひどいぞ」というちょっと潤んだ目が轟をとらえた。ひどい、ひどい、ひどい、君はひどい! 目がそう言っているが、拒否しない方が、悪いのだ。
 あたたかい方のひだり手が、飯田天哉の感じやすいところを覚えていく。どさっ、と勢い余って、木造りの床にあおむけに倒れ、飯田の髪がぱらぱら散らばった。見下ろし、のしかかると、手に入れた感じがして、とても気分がいい。
「はっ、……あっ、!」
 飯田の喉元がぐっと上がって、酸素を求めてひらく。汗のつぶが二人の肌に浮いていた。自分のモノと、相手のモノを、ぴったりくっつけて手の中で扱く。はあ、はあ、と息の音だけ、充満していた。あつい。くるしい。セックスっていうほどでもない、ただの触り合い(ほとんど一方的な)が、こんなに熱いのか。
 キスしてえ。
 手元を隠していた飯田の手が、おそるおそる外されたのが、「いいよ」という合図だと理解した。キスする。呼吸が止まる。こういうことしてるときに、どうやって息すればいいんだろうな。轟はぼんやりそう考えて、ひし、と抱きしめてくる飯田の腕を首のうしろにきつく感じていた。
「イきてえの?」
 いじわるだと思う。自分でも。分かりきったことを、震えている飯田天哉に問うと、くしゃくしゃになった目元で、ごくん、と、ひとつ頷いた。
「………うん、」
 この、飯田の、「うん」が好きだった。
 ドルルルルッ、とシャフトが回って、びくんっ、と足が跳ね上がる。
「アッ、ああっ、とどろきくん、……ッ!」

 ガキはめんどくせえ。
 もっと先までいきてえのに。
 轟焦凍のみぎがわまで、汗がふつふつとゆだっていた。

 
 *

 
 乾いたスーツを着なおして、午前五時、ぴったりに小屋を出ることにした。またあの長い道のりを下りていくのかと思うと気がめいったが、轟は異様に晴れやかな気持ちで明け方の陽を見つめている。まだ真っ白だ。遠くの尾根に日の出が見える。
「歩いて帰んの、めんどくせえな。燃料、残ってるか」
「あ、ああ。残ってる」
 あまりに轟の反応が普段と変わらないせいか、飯田は少しうろたえていた。その顔もまた、いい。顔全体に「昨日いやらしいことをしました」と書いてある感じがする。轟は笑みをこらえるのに全力を尽くす必要があった。
「一気に、おりるか」
 目の前に広がった真っ白な斜面を見下ろして、轟はそう言った。

「一速!」
 入る。ぐんぐんスピードが上がっていく。
「二速!」
 轟が乗った氷のボートがどんどん斜面を下っていく。
「三速!」
「いま!」
「レシプロバースト!」
 叫んだ瞬間、飯田のエンジンがバアンッ!と爆発し、意図的に起こしたエンジンブローのパワーで、ボートが滑空した。がしっ、と飯田の腕をつかみ、ボートにのせる。ボブスレーのボートのような、尖った細長い氷の船が、真っ白い雪の斜面をすべる。風を切り、ボートは斜面を下りていく。止まるときのことは考えていなかった。あまりの絶景と、あまりのスピードに、二人は叫んだ。あああああああッ、と、声が出る限り叫んだ。
 叫び疲れると、笑った。風にさらわれて額が全開になり、口の中が乾いている。何が面白いのか、よく分からなかったが、それでも笑いが漏れだした。最高だ。しあわせだ。なにもかもがないまぜになった気持ち。でも、いまはカラッと晴れている。
 ここから一気におりよう、と、ボブスレーの要領で斜面を滑り降りる計画を立て、飯田にボートを押してもらって、エンジンの力で出発することにした。うまくいくかはそのとき次第だったが、どうやらうまくいったようだ。行きには三時間かかった道のりも、これなら半分以下で下山できるだろう。一面白い雪の山道を、二人の少年が氷のボートで疾走していく。

「とどろきくん」
 後ろから声が聞こえた気がした。ぎゅう、と抱きしめられて、ぎょっとする。
「どうした」
 轟が、滅多に出さない大声で、風に負けぬよう叫ぶと、後ろの男がさらにぎゅっと抱きしめて、轟の背中に額をくっつけた。
「      」
「きこえねえ!」
 ゴオオオオッ、と風が二人の間を通り抜けていく。いつもは声のデカい男が、こういうときばかり、声が小さい。
 すう、と息を吸う気配があって、身構えたが遅かった。わんっ、と響く大きな声。それも、いつものはきはきした調子はなく、とまどったような、すがるような声だった。
「……きみを、すき、なんだ!」

 轟焦凍、十五歳。
 飯田天哉、十五歳。

 恋におちてしまった。

 了(2016.06/17『ホワイトウエハース、疾走する』)