きみのデュークを愛する

 
 ※轟飯/好きになってすぐ
※教科書を音読中に感極まって泣いてしまうてんや

(一)

 吹き込んでくる風がまだ肌にすずしく、いやなじめついた汗もすぐに乾いてくれる。そのくらいの気候だった。カーテンがそよいで、ふわふわとゆれている。窓のすぐそばには八百万百。吹きかかった髪を、ゆったりと耳にかけている。
 静かな午後だった。一つ前の授業で、個性を利用したチーム対抗ドッジボールがあり、体力の消費が激しかったことと、昼食を食べてすぐの授業だから、満腹感のせいで睡魔がみなに等しく襲ってくる。眠っていないのは優等生たちくらいで(それでも一部例外がいるが)、轟焦凍も、ほとんどまぶたを閉じていた。
 授業は現代文。昼食後、そして個性の授業の後にこれはカリキュラムとして間違っているとすら思える。せめて逆にするべきだった。すぴぃ~、と幸せそうな寝息すら聞こえている。十中八九芦戸の寝息だろう。
 教科書を開けたまま、筆者と物語についての説明を、こくり、こくりとやりすごしていたせいで、さて、新しい小説だから音読を、というときまで、ほとんどきちんと記憶がなかった。この音読が、また眠い。抑揚のない、ただ読むだけの生徒の音読ほど、他の生徒の睡魔をあおるものはないのだ。
 (といって轟も、人のことはとやかく言えない。おそらくクラスの中でも一番の平坦さで、淡々とした彼の音読は、多くの生徒を眠りに誘った。轟の音読が一番ねみぃ、とはよく言われている。)
 誰にあたるか、これが結構大切だ。目を覚ませるか、そうでないかが変わってくる。現国の、セメントス、もとい、ここで彼は完全に、ヒーローではなく教師なので、正式には石山先生が、
「じゃあ、みんな眠そうにしているから、飯田くん」
 と指名した。口元がちょっと笑っていた。

 飯田天哉の音読といったら。
 評論文ならまだいい。評論文がテーマの場合、彼はまるで学者のように生真面目に、自分が手がけた研究テーマですと言われても信じられるくらいの誇らしさで、自信満々に音読をする。この日のために何度も練習してきました、と学会で大勢を前に大演説をする学者みたいに。けれど、それでもまだマシだ。
 飯田天哉の文学作品の音読といったら、ない。
 十中八九、気持ちのこもるシーンで寝ているものが起きてくる。そして、ちら、と飯田の方を見て、ああ、なんだ飯田か……。と言うふうに肩をすくませる。一つ前は『城の崎にて』だったが、
「……なかなか当たらない。カチッカチッと石垣に当たって跳ね返った。見物人は大声で笑った。ねずみは……」
 の、カチッカチッ、のところが、本当に石でもぶつけているのではないかというくらいの気合の入りようで、大声で笑った、にいたっては、「おおごえ」に抑揚が込められすぎて、ヒッと小さくおののいて麗日お茶子が後ろで跳ね起きていた。
 飯田天哉の音読といったら。朗々と響き渡り、他のクラスも飯田天哉の音読を知っている。「先生よりデカい声出してた」とB組に言われるくらいの声量だ。先生たちから評判はいい。立派だし、堂々としているし、何より生徒がよく起きる。

 飯田が教科書を掲げて立ち上がったのを、斜め後ろから見ていた。二つとんで先の列だが、轟からその背中がよく見える。背筋が整っていて、背中に定規でも入れているみたいだ。立ち上がると、ぴし、とまっすぐ聳え立って、彼の大きな体がいよいよ大きく見えるのだ。
 今日から新しい小説だ。『デューク』というタイトルの、そこまで長くはない短編小説。轟はあまり小説に詳しいほうではないので、作者も、タイトルも、授業が終わってしまえば忘れる。でもふしぎなことで、作者もタイトルも覚えていないのに、小学生のとき音読した物語はなぜか、記憶の端にひっかかって忘れられない。
「歩きながら、私は涙がとまらなかった。」
 飯田の音読が始まると、二つ前の席で寝ていた瀬呂がもぞ、と身じろぎをして、頭を上げる。上鳴はまだ起きない。切島も、体は起きているが、肩肘ついてたまに頭をぐらぐらさせるのは、睡魔と闘っているからだろう。
「二十一にもなった女が、びょおびょお泣きながら歩いているのだから……」
 びょおびょお泣く、なんて妙な言い方だな。轟はぼんやり、飯田の背中を眺めながら、教科書を一向に見ないで聞いていた。飯田の音読を聞いていれば十分、物語を理解できる。ちら、と、視界の端でゆれたカーテンを捕らえ、ふいと窓の外を向いた。

「……デュークが死んだ。私の、デュークが、死んでしまった。私は悲しみで……」
 っぐ、と不自然なつまりがあって、おや、と目を上げると、飯田の背中がふるえていた。轟は飯田の顔を見ることができなかったが、この声ではっと起きた切島と、前の席の蛙吹はふたりして、ぱ、と振り返ったとたん、「あ」という顔をして、また前に向き直った。
 飯田の眼鏡の奥のりりしい目がぐにゃぐにゃになって、ゆるんでいた。十人中九人は、この顔を見たら、「泣きそうな顔」と言うだろう。飯田天哉がしていた顔はそれだった。
「……悲しみで、いっぱいだった。」

 よどみない音読をする男だった。
 雄英の授業は、ヒーロー育成の名門校だけあって、普通の学校にないようなカリキュラムが多い。けれど、だからといって、まったく一般教養をしないというのはヒーローの知性にも関わる問題だ、とかなんとかいう理由で、文科省は、雄英のカリキュラムにいくつかケチをつけ、「歴史」「英語」「数学」「国語」「理科」に関しては、必修科目としてカリキュラムにねじ込んでいる。一般常識の範囲内で、ということなのだろう。座学より体を動かし、実戦練習をしたい連中が多いので、この四つの授業はよく寝息が聞こえる。
 ただ、前述のとおり、飯田天哉が読み始めると、その声の大きさに、寝息を立てていた生徒たちが、ハッとして起き上がる。堂々として、読み違えも圧倒的に少ない。というか、今まで読み違えたことがない。昔から、そうだったのだろう。きっとここまでの人生においてすら、読み間違いをした経験すら乏しいに違いない。読めない漢字があった経験もないはずだ。彼が聡明中学にいたころ、どんな風だったのか知らないが、きっと彼のこの音読は、小学生のころ、いや、もっと小さい、まだ絵本しか読めなかったころから変わらないのだろうと分かるくらい、貫禄が感じられた。
 

 けれどいまは、その音読が、よどみによどんでいる。飯田の音読の音量のせいで目を覚ましたほかの連中も、おや、と思ったのだろう。
 飯田天哉が泣いている?
 死んでしまった「デューク」(筆者の犬の名前らしい。のち、先生の解説で分かった。)の物語が進めば進むほど、飯田天哉のつまり声がひどくなっていった。今にも泣き出しそうなのに、耐えて、耐えて、のどが震えている。
「わが家にやってきた時には、……っまだ、生まれたばかりの赤ん坊で……、廊下を走ると、手足がすべって、っぺたん、と開き、すうっとおなかで滑って……、しまった。それがかわいくて、名前を呼んでは……、何度も、廊下を、はしらせた。……」
 ぐず、と決定的な音が聞こえたが、誰も言及しなかった。というか、それが本当に泣き声なのか、誰も飯田の顔を直視することができずにいたのだ。彼の顔を見て、彼が泣いていたら、「飯田天哉が泣いている」ということが、ほんとうになってしまうから。
 確かに、胸にぎゅうとくる物語だ。愛犬「デューク」を老衰で亡くして、悲しみに暮れる主人公が、涙を止めることができず、何をするにも手につかない様子、それが感情的に続いていく。情に厚いところがあると、一緒に泣き出しそうになってもおかしくない。
 女流作家の、やわらかくて感情的な文章に引っ張られて、飯田天哉が泣いている。みな、そう考えて、クラスには「興味」と「面白半分」の空気がふくらみ、膨張していた。誰かが割れば爆発しただろう。針でつつけば爆笑の渦だっただろう。けれど妙に緊張もしていて、誰も何も言わなかった。後ろの席で麗日お茶子が、「大丈夫?」とはらはらした目で飯田の背中を見つめている。
 轟焦凍と緑谷出久とともに、飯田天哉が退院してきてまだ日が浅い。腕がまだしびれるのだろう、彼は慎重に、片手で本を持ち、しびれる方の手指で、一枚ずつページをめくる。
 みんなが、笑わないのは、それが理由だ。飯田天哉がどうして感極まって泣いてしまったのか、もしかしたらそれが関係しているのではないかと、誰もが勘ぐった。だからみんな、からかって笑い飛ばしてやったほうがいいのか、それとも神妙にしたほうがいいのか分からず、知らないふりをしてやりすごしている。
「……そうして、デュークはとても、キスがうまかった。」
 うなるように、搾り出すように読むその声が、いつもより覇気がないせいで、飯田の声を聞きながらですら、再び眠りに落ちるやつが、今日は多い。ひとつ前の授業で体力をかなり消耗したから、こくん、こくん、と頭が沈むのが、ちらほら見えた。轟は、それより、「とても、キスがうまかった。」のところの、おびえるような、読むのをためらうような飯田の発音が、妙にひっかかって、うつむいた。こっちまで恥ずかしくなる。
 はい、そこまで。そう言われて、飯田の音読が終わったあとも、耳の後ろがじくじく熱くなるような、奇妙な感覚が残った。ちら、と、めったに授業中、他へ視線をめぐらせない男が、轟の方をふりかえった。
(ばか)
 くちびるの動きだけで、そう言う。こくん、と頷いて、静かに飯田は前を向いて座った。飯田天哉が泣いている、という静かな驚きのさざ波は、『デューク』が進んでいくにつれて、霧散していった。
 誰も、飯田天哉の小さな変化に気がついていないことはわかっている。その変化に、気がつくようになったのは轟だって最近だ。いつだって底抜けに明るい、底抜けにまじめな、クラスに一人はいるような男だとしか思っていなかった。声が大きくて、きびきびしていて、「個性」も彼のその性格を体現しているような。時に相手に威圧感すら与えてしまうくらい、まじめすぎる男。まっすぐで、直線的で、きびきびしているその男。

 『デューク』は、愛犬「デューク」の死について、悲しみに暮れる「私」の前に、突然端正な顔立ちの少年が現れ、それがまるで「デューク」の生まれ変わりであるかのように描かれる。いわゆる報恩譚と呼ばれる物語だ。
「でも、本当にその《読み》が正しいかは、人それぞれだ。こんな風に、」
 石山先生が、黒板につかつかと図を書いていく。大きな、頑丈そうな体つきからは想像ができないくらい、彼は近・現代小説に詳しい。だから現代国語の先生になっているのだろうが、彼は「テストのために《読む》」ことよりも、「物語理解のために《読む》」ということを好んだ。(簡単に言えば、「余談」がものすごく多い。解釈、という名の。)
 黒板に書かれたのは「デューク」=「少年」の文字。ノートは取らない。まだ、これが余談なのかそうでないのかの判断が出来ていないから。轟は、それが余談でないと分かってからノートを取った。石山先生は黒板をすぐ消さないし、話に夢中であまり黒板を書かないので、たいてい、書き漏れることが少ないのだ。
 けれど、飯田は、書く。
 カツカツカツッ、と人一倍筆圧の強い、元気のよい音が聞こえたら、たいていそれは飯田の出している音だ。先生を追い越すペースで板書をする姿が、優等生そのものだ。
「デュークは少年のことだろうか、ほんとうに。もしかしたら、死んだデュークのことを思うあまり、悲しみのあまり、デュークとは何の関係もない少年……、しかも、出会ってすぐの少年と、デュークの喪に服していたはずの自分が、あっけなく恋に落ちて、あっけなくデートをしていることへの罪悪感から、少年をデュークの生まれ変わりなのだと思い込もうとしているんじゃ……、とも、考えられたりする。」
「せんせ~、それは穿ちすぎじゃねぇの?」
「大好きだった飼い犬がイケメンに変身して最後に大好きだよって言いに来るなんて、素敵じゃん?」
 はいはーい、と手を挙げて、瀬呂と、芦戸が意見(というより、文句に近い)を言う。自己主張の激しい面子のせいで、授業が討議なしで進んだことはゼロに近かった。けれど、雄英はそういう「自分で考えて意見を述べる」ことをむしろよいと考えていて、座学でも、読み聞き書く、より、発言する時間のほうが多かった。
「《可能性》の話だ。どちらにも読めるから、小説はおもしろい。もしかしたらこうかもしれない、という《可能性》があるほど、おもしろいんだ。『デューク』を読んで感動するのは、《愛した対象を一から愛しなおす》というか、大好きな犬とすごした日々を、「少年」と追体験するところにもあるんじゃないか。」
 へえ~、とか、先生ロマンチストだな~、とか、いろいろの声があがったが、おおむね反対意見はあがらなかった。轟は、それより、『デューク』を読んで感動したであろう一人の、定規みたいに姿勢のよい背中から目を離せなかった。
 飯田。優等生のあの男が、先生の言っている「解釈」について、ノートをとっていない。いつもは黒板に書いていなくったってノートをとるのに、飯田は食い入るように、先生を見つめて、じっとしていた。

(まさか、あいつ)
 轟のいやな予感は、さっきの先生の解説に起因している。「出会ってすぐの少年と、デュークの喪に服していたはずの自分が、あっけなく恋に落ちて、あっけなくデートをしていることへの罪悪感」……。もしかして。あのばか。轟は二度目の(ばか)を飯田に送った。なんて率直な脳みそだろう。または、よく言えば、感受性豊か。
 あいつが泣いたのは、ただの「もらいなき」が原因じゃない。
 轟にはよく分かった。
 小説を読んで泣いた経験なんてほとんどないが、何か強い衝動に突き動かされて、無性に泣きたくなったことは、たまにある。ままならない大きなもののなかに放り出されたとき、どうしようもなくなって、泣いて、逃げ出したくなる。自分がとてつもなく無力で、とるに足らない存在で、それなのに、自力しか頼るものがないとき、泣きたくなるのだ。
 たぶん、それを思い出した。
「デュークが死んでしまった」という、ただの一文で、飯田はそのときのことを思い出したのだ。
 はじめて直面する濃厚な死の気配の前で、なすすべなく転がるしかなかった。無力感と、虚無感と、自分自身へのどうしようもないイラつき、それから、助けに来た仲間すら、憎らしいと思ってしまうことへの申し訳なさと、それでも肥大する「僕(俺)のことなんか何も知らないくせに」という気持ち。分かる。すべて、分かる。轟だって同じ経験をしたから分かるのだ。緑谷出久に、そういう思いにさせられた。けれど、今では、緑谷に感謝しているし、あいつ、すげえな。そう思ってもいる。
 兄が襲撃されたと聞いたとき、飯田にとっては「兄が死んでしまった」と言われたも同然だっただろう。「デュークが死んでしまった」の一文は、それを飯田に思い出させるに十分の威力を持っていた。だから、飯田は読みながら、泣いた。たぶん、そうだ。しかも、「キスがうまかった」とか、石山先生の解説のせいで、別のことまで絡めてしまった。
 お前を見てると、歯の奥に、取れそうで取れない何かめちゃくちゃにうっとうしいものが挟まってるみたいな気持ちになる。と言ったとき、うっとうしいなんて、酷いな!? と驚かれた。悪口のつもりで言ったわけではない。思ったとおりのことを言った。飯田が胸にしまっている、壊れやすくてすぐ破片が指に刺さる、取り扱いに注意が必要ななにかを、轟も持っている。同じものを持っているから、その厄介さが分かるのに、手助けをすることができない。轟はその上、饒舌なほうでもない。だから、いよいよ、うっとうしいとしか言いようがなかった。

(二)
 
 慣れない病衣のまま、真夜中、病室を抜け出した。ふと目が覚めたのだ。起き上がって、散歩でもしようかと思いカーテンをあけると、ちょうど飯田も起きだしてきた。緑谷も誘おうかと言い合ったが、カーテンの隙間からのぞくと、気持ちよさそうに熟睡していたから、そっとしておいた。真夜中の、静まり返った院内は、気味悪くもあったがどこか落ち着いて、居心地がいい。娯楽室に二人で歩き、自動販売機のかすかな光のもと、飲み物を買った。
 しびれる方の手を咄嗟に使ってしまったからか、うまくボタンが反応せず、手の甲で押したところ隣のボタンを間違えて押してしまった。がしゃこん、と転がり出てきたのはサイダーで、あ、と声を上げた飯田が何か言う前に、いい、俺が飲む。お前、オレンジジュースだろ。と言ってサイダーをひったくった。
「すまない」
「いいから」
 二度目は轟が押した。冷えたオレンジジュースとサイダーで、簡単に乾杯をした。手がうまく動かないというから、プルタブをあけてやる。のめるか、自分で。問うと、大丈夫だ、飲めるから、と慌ててオレンジジュースをひったくっていった。
 悪かった、とか、申し訳ない、とか、その類のことは言うなよと釘をさしてあったので、飯田は何も言わなかった。謝ったり、謝られたり、得意じゃない。特に飯田は。こいつは、なんだか、からっと笑ってがみがみ言っていたほうが、落ち着くのだ。しょぼくれて、謝られたって、困るだけだ。
「轟くんは、病院は、好きか?」
「いいや」
「俺もだ。病院なんか、大嫌いだ」
 おや、と思った。大嫌いだ、なんて、単刀直入な拒絶の言葉を発する男ではなかったように思っていた。飯田の方を見ると、彼はうつむいて、一向にオレンジジュースを飲んでいない。いやな予感がするな、と思ったとたん、
 ぽた、
 ぽた。
 と、水色の病衣の、ひざの辺りが青黒く染みになっている。泣いているのだ。飯田天哉はいつでも、厳しい目をぎりりっと吊り上げているか、ムッとしたような、真面目なりりしい顔をしているか、それとも快活に笑っているか、そのどれかだった。だから、飯田が泣いているところを見たら、俺はどうなるんだろう、そう思うほど、轟には飯田の涙を見ることが、ものすごくためらわれた。
「……す、すまな、……」
 ばか、しゃべるなよ。しゃべったら、泣き声になるだろ。遮って黙らせると、飯田はほっとしたように口をつぐんだ。そして、黙って泣いていた。隣で、ぐずぐず鼻を鳴らしている。轟は何も言わずに、サイダーばかり飲んでいた。そのせいで、サイダーは数分もするとほとんど飲まれて、底のほうにわずかばかりたまっているだけになった。
 めがねの間からぼろぼろ落ちてくる水滴を、ごしごし一生懸命止めようとしているのが見ていられなくなって、轟は無意識に、飯田のめがねを指でつまんで、はずしてやった。あ、と声が上げられたが、そのとき勢いよく流れ出してきた涙の第二波のせいで、飯田は慌て、片手ですっかり顔を覆ってしまった。
「ばか」
 まるで自分を見ているようでむずがゆい。兄が倒れてからの飯田天哉はいつも轟をそういう気持ちにさせた。家の名前と、重圧と、責任と、自分の中にあるヒーロー像と、世間と、そういう目に見えない壁に四方八方迫られて、押しつぶされそうになっている。全部俺だ。俺そのものだ。見ている方向が少し違うし、苦しみのベクトルも違うが、スタンスは、全部俺だ。轟は飯田を見ていると、まさしく奥歯にものがはさまった「うっとうしい」感覚を持つのだった。
 泣くなよ。泣いたってはじまらねぇだろ。そういうことを言おうかと思ったが、自分がもし、同じ理由で泣きたくなって、飯田のように泣いてしまったとき、それを他人から言われるとどんなにか腹が立つだろうと思って飲み込んだ。泣いたってはじまらねぇというのは自分でも分かっていて、それでも涙が出るのだ。仕方がない。
 だから、泣いているのを見られたくないだろう、という心遣いのつもりで、轟は飯田の頭にそっと手をやって、自分より大きな男の頭を、胸に引き寄せて、ぎゅう、とやってやった。泣き止め、落ち着け、という意味でやったのに、抱きしめてやったとたん、飯田のからだの震えが、比べ物にならないくらい大きくなった。
 うっ、ぐ、と嗚咽が聞こえたときには、肝が冷えた。やめておいたほうがよかったか、と後悔したが、轟の病衣にしがみついて、飯田はいよいよ本格的に泣き始めた。我慢して、我慢して、我慢していたのだろう。めがねがせき止めていたのかもしれない、と思うくらい、土砂崩れを起こしていた。轟はその土石流の前で呆然として立ち尽くしている。
 ぐしゃ、と飯田の髪を指で触る。一人でなすすべもなく泣いたこともあったのかもしれない。ぺた、ぺた、とほほを触った。ぬれている。そりゃそうだ、土石流が流れているんだから、ぬれているに決まっている。飯田はびっくりした顔で、轟を見上げた。涙でぐしゃぐしゃになっているまるくておおきな瞳が、いつもやや上から見下ろしてくるその瞳が、いまは自分の視線の下で、光を受けた湖畔みたいに、プリズムを放ってひかっている。
 泣いてるところは、案外かわいい。
 うるさくて、くそまじめで、俺より少しでかいくせに、存外かわいい。
 そう思って、咄嗟だった。そんな衝動に突き動かされたのは初めてだったので、轟だって、驚いた。

(え?)

 目がそう言っていた。ふか、と触れるくらいのキスだったが、お互いに、「え?」と思っていたのは間違いがない。言い訳もできない。自分からしてしまったのだから、轟は何食わぬ顔をした。何が悪い? というくらい開き直った。
「わるい。つい」
 なにが、「つい」なのか。われながらまずい言い訳だったが、飯田はそれどころではないようで、しゅわしゅわと、サイダーみたいに音を立てて頭まで沸騰した。涙も引っ込んだようで、轟は、
「びっくりしたら、泣き止むかと思って」
 とこじつけた。実際、涙は引っ込んでいた。
「と、っ、どろき、……くん……!!」
「こら! 誰かいるの?」
 ぱち、と電気がついて、まぶしさにぎょっと目をつぶってしまう。人の話し声に気づいて、看護婦が見回りに来たようだ。怪我をした二人の少年が、薄暗い娯楽室で夜更かしをしていたことに、看護婦はいい顔をしなかったが、飯田の眼がどう見ても泣きじゃくった後、というのを察してからは、いくぶんかやさしくなった。痛む? 大丈夫? 夜は傷が痛むことが多いから、痛かったらナースコールしていいのよ。そう言って、看護婦は二人を病室まで送り届け、二人がベッドに入ったことをきちんと確認してから、扉をしめた。

(三)

「飯田」
 現代文が終わって、あ~、ねみぃ~、次も座学じゃねぇか、数学だ~、終わった、云々、好き勝手に言い合うクラスメイトたちの間を縫って、轟は一直線に飯田に向かった。誰も、飯田が音読で泣いていたことは言わなかった。飯田も、そんなそぶりかけらも見せず、麗日に「宿題はやってきたか?」と聞いていたところだった。
「ちょっといいか」
 ぽかん、と、麗日も飯田もあんぐり口をあけていたが、飲み込むのは当事者のほうが早かった。飯田は、「ああ、うん、大丈夫だ……」とあせり気味の返事をして、先に立ち上がった。なんとも言っていないのに教室を出ていく。
「わるい。借りてく」
 麗日に断ってから、廊下に出た。廊下で待っていた飯田の腕をつかみ、引きずるようにして歩いていく。なんだ、ちょっと待ってくれ、用件を、とうるさいので、屋上へ続く人通りの少ない階段を数段上って、ぐい、とひっぱった。ブレザーの袖をひっぱってかがませないとキスできないのが無性に腹が立つ。
「んっ、……む!」
 短くキスして、そして放した。何事もなかった顔をつくって、階段を下りる。飯田はぽかんと口を開けて、じっと立ったままになっている。
「君は、何を……ッ」
「泣きたいときに泣くのが、すげぇしんどいことなのはよく分かる。だから、泣けばいいとは俺も言わない。でもな」
 飯田はいまさっき、触れたところのくちびるを、確かめるように指で触っていた。
「俺はお前が泣いても、なんで泣いてんのか、それくらいなら理解してやれると思う。分かってるやつの隣で泣く方が、人前で泣くより、ラクだろ」
 唖然としている飯田を置いて、轟はさっさと教室に戻りながら、振り返って、
「それだけ言いたかったんだよ」
 と言って背中を向けた。

 うそ。
 うそだった。真夜中の病院で、自分にだけ見せた土石流の、その片鱗でもみんなの前であらわになるなんていやだと、そう思ったのだ。でもそんな、わがままに聞こえないように、轟は回りくどい言い方をした。

 もし、飯田天哉が、デュークと俺を重ねて、どきりとしていたなら、それって、《そういうこと》じゃないか。
 《そういうこと》だろ?
 そう思ってしまった自分が、そして、めちゃくちゃな理由をつけて「いますぐキスしたい」という欲望を満たしてしまった自分を恥ずかしく思って、せめてもの抵抗で、轟は木枯らしくらいの速さで逃げ去った。
 先に教室に戻ってきた轟を見て、あれ、飯田くんは? と麗日が聞いた。さあ。置いてきた。そう言う。うそはついていない。席について、先生が入ってくるわずか数秒前に、飯田が滑り込んできた。おっせぇぞ委員長、委員長のくせに遅刻ギリギリかよ、と笑われて、これにはわけが……! と憤慨した。その目が轟を捕らえて、
(ひどいぞ! ばか!)
 と言っていた。

  少年は私の前に立ち、私の泣き顔をじっと見ている。深い目の色だった。   
私は少年の視線に射すくめられて、なんだか動けないような気がした。
  そして、いつのまにか泣きやんでいた。
  江國香織『デューク』