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 人生で一番気に障った言葉は何かと問われれば、「いいよなあ、なんでも思い通りになってそうで」だと、即答することができる。トラファルガー・ローは実際に、クラスメイトからそう言われたことがある。高校の頃、成績も、容姿も、ほぼすべての面で彼は頭ひとつ抜き出ていたし、進路、恋愛、何もかもが、ローのために道をあけた。確かに、人と同じものを求める男であったなら、なんでも思い通りになったのだろう。ローはそう、振り返って、苦々しい気持ちになる。何一つ、おれの思い通りになったものはこれまでなかった。と、彼自身はそう考えていた。

 大学に行く前に、必ず寄るのは地元の駅の、やや寂れたカフェである。そこでキャラメルナッツラテを買い、電車に乗って十分以内で大学最寄りの駅に着く。大学付近の学生マンションを選ばなかったのは、利便性よりも、大学の雰囲気からある程度離れた落ち着きを求めたからであった。夜中に大騒ぎをする学生の集団から逃れられるのであれば、やや電車の乗り降りが面倒でも、ローは駅を使うことを選んだ。
 駅から大学まで歩いて十五分ほどかかる。くたびれた商店街と、学生向けのバルや飲み屋が並ぶ大学通りをまっすぐ進めば、ローが通う赤レンガ造りの大学が見える。大学附属の高校、中学、小学校まである名門なので、大学入試組の学力と、小学校から一貫で内部進学している連中の学力に差が出ているが、規模も大きく名前も売れた私立らしい大学であった。
 ここへ入学するに当たって、教師や両親からの熱烈な進路指導と、反対意見をもらったが、ローは何もかもを押し切ってここへ入学を決めた。大学が気に入っていたとか、そういう前向きな意思があったわけではない。ただ、思い通りに行かないものへの何らかの反抗をしなければならないと考えたのだ。ローにはこの大学に入ったのちの、明るいヴィジョンは何一つなかったが、大学での最初の基礎ゼミで、ローは自分のこの選択が間違っていなかったのだと感動すら覚えることになった。
 三年以降での本格的なゼミでの研究に先立ち、一年からゼミの形式で基本的な知識を学ぶ、という名目で、毎週金曜日の昼からは、二限続きで基礎ゼミが行われる。ゼミのメンバーは基本的には四年間持ち上がりで、返せばこのメンバーで四年間やっていかなければならないということだ。ローが最初に研究室に入ったとき、中にいたのはまだ二人だった。片方は女だったように思う。少し髪の色と化粧が派手で、どちらかというと頭は悪そうな、女子大生らしい女だ。ただ、彼女の印象がゼロに近いものになってしまうほど、彼女の隣に座っている男がローの視覚情報のほぼすべてを埋めてしまった。
 赤い髪に、赤い瞳、目つきは悪く、柄も悪いし、何よりでかい。附属高校が確かなんだったかのスポーツの名門だったが、きっと彼は附属高校でスポーツ推薦でももらったのだろうと直感的にそう思った。そしてその考えが、後に的中していたことも判明するが、ローは何よりその男を見て、……腕組みをして、やや皮肉っぽい笑みを浮かべながら、おそらく知り合いではなかったのであろう、初対面の女と早々に仲良くなっているその男を見て、肝を冷やしたのだ。恐ろしいとか、そういう感情から息を呑んだのではなく、この後この男のことを、自分は忘れることができなくなるだろうという予感に肝を冷やしたのだった。
 「よお」
 男は、見た目に反して気さくであった。入ってきたローを見て、腕組みを崩さないまま声をかけてくる。ローは、初対面の人間に「よお」とまるで普段から知っている相手に言うような気軽さで声をかける男を知らなかった。微妙に会釈をして、四角く並べられた会議室風の席の、彼らから一番遠い席を選んで座った。女がローの方を見た。初対面の女にありがちな、値踏みするみたいな目つきを一瞬見せて、「こんにちは~」と彼女もローに笑顔を見せる。
 「どうも」
 愛想もクソもないな、と自負するほど、つっけんどんな一言で挨拶だけ返し、にべもなく着席したが、男のほうはそれを気にした様子もない。わざわざ遠くに座ったというのに、席の向こうから声をかけてきた。お前、名前は?
 「トラファルガー・ロー」
 「あァ、なんかお前トラファルガーって感じだな」
 長い名前を揶揄してそう言ったのだろうが、その男のからかいを含んだ話し方は不愉快ではなかった。男は「ユースタス・キッド」と名乗って、この学部男少ねェから、大学来てマトモにしゃべったのお前だけだ、と屈託なく笑った。たぶん、きっかけは、そこだったのだと思う。この男を、「思い通りにならない、とんでもない男」だと思い始めたきっかけは。

 ゼミのメンバーがすべて集まってから、どう見渡しても男はたった三人しかいなかった。一人はユースタス・キッド、もう一人は留年したらしいひとつ上の男だった。ほかは四人組、三人組、二人組にそれぞれ分かれた女子グループである。二人組の片方は、キッドとはじめに話していた女だった。女とは早いもので、大学生活が始まってまだ一週間と経っていないのに、もうグループで行動している。派手な女は派手な女と、地味な女は地味な女とつるみ、どのグループがどういう雰囲気なのか、彼女らの外見を見れば一目瞭然だった。
 「おっつ~」
 「おっせ~、早めに来るっつってたじゃん」
 「ごめんごめん、寝坊した~、てかキッドくんももう来てるし」
 「おれはお前と違って寝坊してねェから」
 「つってあたしがラインして起こしてやったんだかんね」
 女二人並んで座ればいいものを、後から来た方の女はキッドの隣に座った。一人の男を挟んで座る派手な女ふたりに、いつもなら感じない苦々しさのようなものを感じた。まだ大学生活が始まったばかりだというのに、男は女たちとなじんでいるようであった。隣、いいですか? あとから来た四人組の、いかにも女子大生という感じの女たちが、ローの隣にあいた席を指してそう尋ねてきたが、ローは「あァ」と曖昧に頷くだけで、ろくな返事もしなかった。
 ゼミメンバーへの最初の印象は、こうした調子でそこまでいいというわけではなかった。自己紹介と、シラバス内容の説明、そうしたこまごました内容で導入は終わり、教授が研究室を出て行くと、ゼミのラインつくろーよー! だの、親睦会しよー! だのが始まる。ラインしてねェ、というローの言葉にひとしきりのどよめきがあり、国民的なSNSツールを利用していないことに対してのリアクションとしては大きすぎるだろうと、毎度うんざりさせられるローだったが、手からスマートフォンを抜き取られ、思わず反応が鈍くなった。彼の手からスマートフォンを取り上げたのは、ユースタス・キッドであった。
 「連絡用だと思って、いれとけよ。おれがいれといてやる」
 ユースタス・キッドは軽やかに親指だけで画面をタップする。細いわけでも器用そうでもない親指一本で、よくあれだけ手馴れた操作ができるものだと感心するばかりで、ローはぽかんと口を開けたまま彼を見守っていた。ん、とスマートフォンを返され、緑色のアイコンがトップ画面に増えているのをぼんやり眺めていた。半ば強引に、自分のふところへ押し入ってくるキッドのやり方は、彼でなければずうずうしさすら感じられるものかもしれないが、キッドの態度の自然さのせいか、ローは新鮮な驚きにぎゅうと胸を締められた。
 「おれのいれといたから。グループも。あとでアドレスとか送る」
 「……ん」
 たった一音、返しただけでも及第点である。

 
 ユースタス・キッドはそれからも、ローに対して、またはその他の誰に対しても、一貫して彼のスタンスを変えなかった。無防備とすら思える人への接し方に、ただ自分を常に開いているだけなのかと思っていたが、時折見せる彼の「絶対に受け入れられないものに対しての明確な拒否の姿勢」も見えてくると、ローは彼を一筋縄ではいかない男だと感じるようになった。
 「よお」
 出会ってから、この「よお」の言い方はずっと変わらない。最初はこうやって、まるで長い付き合いであるかのように声をかけてきて、ローの隣の空いた席にわざわざ座ってくるキッドのことを、何のつもりなんだといぶかしんでいたが、何のつもりも何もないのだと分かってからは、いちいち気にすることもやめにした。一度でも話した相手なら、とんでもなく嫌いな人間でない限り、キッドは同じように接してくる。ローが迷惑そうな顔をしても、わざと隣の席に荷物を置いてもスタンスは変えない。置いてある荷物を勝手に持ち上げて、「おれの席空けとけよ」と笑われた日から、ローは荷物を置いて抵抗するのもやめにしていた。まるで当たり前みたいに、キッドはローの隣に座った。
 ローに対してだけ、そんな風に振舞うなら、まだ疑う余地もあったのかもしれない。キッドはローに対してだけでなく、誰に対しても、……それが女であろうと男であろうと、同じことをした。現に、ローが先に席についていないときは、別の女だったり男だったりの荷物を勝手にどかして、「よお」と言いながら座る。「どかすなよ~」と笑われているときもあれば、「遅いよキッド」と彼のためにむしろ席に荷物を置いて待っていた女も少なからずいるのだった。そして、当の本人は、自分の自由意志でそれらを行っているのであって、女たちがまさか自分を待って席に荷物を置いているのだとは気づいていない。
 思い通りにならない男だった。誰もが少なからずそう思っているはずだ。ローはもう隣に荷物を置くのをやめていたので(女たちのシステムに気が付いたことも理由のひとつだった)、キッドは勝手にローを見つけて勝手に隣に腰掛ける。ローがいれば必ずローの隣に座るので、どことない優越感のようなものを、ローは感じていた。
 「またテメェ、しゃれたモン飲んでやがんな」
 ローのジンジャー・チャイを一口飲み、あー、おれがわざわざ買ってまで飲まねェと思ってる味だ、と皮肉げに笑って、ローの方へチャイを押しやると、いつものように足を開いて、どかっと席に座る。ローは大学の中で、決まってつるむ人間もなかったし、作るつもりもなかったのだが、この男は知り合って一週間と経たぬうちに、その「決まってつるむ人間」の枠に収まってしまった。キッドが意識してそうしたわけでも、ローが意識してそれを受け入れたわけでもなく、気がついたらそうなっていた。そして、周囲が彼らを「二人セット」で扱うようになってから、キッドとローは自分たちが二人でつるんでいるのだということを徐々に認識し始めた。
 「テメェまたその薄っぺらい鞄持ってんだな、なんも入んねェだろうに」
 「財布と携帯とボールペンぐらいしか持つものねェからいいんだよ」
 ローが持っている、SHIPSのクラッチバッグを眺めて、キッドはからかうような口調で笑う。キッドは大き目の黒い鞄にあらゆるものを詰め込んでパンパンにしてくるタイプだが、ローは荷物を持ちたくないタイプの人間だった。タブレットに講義内容を記録して、教科書類は家に帰ってから読む。キッドはその場で適当に教科書に線だけ引いて二度と読み返さない。
 「キッド、ローくん、おはよ~」
 前から歩いてきた殺人的ヒールの女が、講義室の一番後ろの席に陣取っていたキッドとローを見つけて、カツンッ! カツンッ! と威圧的な足音をさせて近寄ってきた。前の席に座って、タイトなレザーのミニスカートを履いた足を組む。キュッ、と音でも鳴りそうな組み方だった。
 「おう」
 「二人とも早くない? まだ十五分以上あるじゃん」
 「前の講義が早く終わったんだよ」
 「前の講義なにー?」
 「フラ語」
 「えっ、なにキッド、フラ語取ってんの? ローくんならフランス語とか似合いそうだし分かるけど、キッドはないわ~」
 「うっせェ、こいつと一緒にとってりゃ単位もらえるからとってんだよ」
 お前第二言語なんだっけ、えー、あたしスペイン語、と、そのあとも彼らは第二言語の講義の話を続けたが、ローは黙ってジンジャー・チャイのストローに口をつけているだけである。ローは出来うる限り、女と会話をする時間を使わないように、心がけていた。「ローくんならフランス語似合いそうだし」という類のことは、この女に限らずよく言われていた。ローのイメージはもう、大学の中でも固まり始めている。スマート、インテリジェンス、クール、ミステリアス。ロー本人はそこまで意識していなかったが、彼は大学の連中にとって初めて見る希少価値の高い宝石のような男なのだった。
 誰もローのことをブランドイメージが高いとか、パーフェクトだとか、直接には言わない。他人にあまり興味がないせいで、他人からの評価にも疎いローは、周囲の評価が極上であるにも関わらず一切彼らの好意に気が付いていなかった。そういうところも、「クール」だと言われるゆえんなのだろう。だから、ローにとって、彼に唯一直接的な評価を下すユースタス・キッドの言葉だけが与えられる事実であった。
 キッドはローのことを、周囲と同じようには評価しなかった。彼のスマートさ、隙のなさ、あらゆるものの完璧さを、きちんと受け入れて称賛しながらも、あまりにできすぎたその整い方を揶揄してからかうところもあった。いつもシャレた飲み物を飲んでいて、物の入らないクラッチバッグを持っている。着ている服は女たちから「完璧」「オシャレ」「センスありすぎ」と五つ星評価を得ているが、キッドは「またコムサデモードか」とばかり言う。カジュアルでおしゃれな服は全部コムサデモードだと勝手に決めつけているのである。違ェよ、と苦笑気味に否定すると、ローの服の首のところにある、メーカータグを引っ張って、メーカーの名前を確認するのだ。AMERICAN RAG CIE? 難しい名前だな。……そんなことができるのはキッドだけだった。そしてローがそんなことを許すのはキッドだけだった。
 「ローくんそれ、SHIPSのクラッチ? 前Lui’sのやつ持ってなかった? ほら、黒の、皮のやつ……」
 「あァ、今日はこっち」
 「何だよお前、その薄っぺらい鞄まだ他にも持ってやがんのか? 前のと違ェやつなのかそれ?」
 「”薄っぺらい鞄”って言うのやめてくれるキッド、マジうけるんだけど!」
 クラッチ流行ってるんだから、覚えなよ、そう女に肩を叩かれながら、笑われているユースタス・キッド。ローは彼が心底から好きだった。
 思い通りにならないものばかり欲しくなる。ローはくちびるをゆるめて、鞄のことで女と騒いでいるキッドのことを、机に片腕で頬杖をついて見つめていた。いつも同じような胸元がざっくりあいた緩めのカーディガンを着て、インナーは冬でもタンクトップで、アウターを足すだけで乗り切れる男。開いた胸元に下がるスカルヘッドのネックレスは、きっと風呂に入る時も面倒くさがって外さないのだろう、ところどころ錆びている。ゆったりした黒のサルエルを履いて、レースアップブーツ一足でだいたいの季節を乗り切り、夏だけ諦め気味にスニーカーを履く男。ローは彼が好きだった。思えばはじめて会ったときに感じていたキッドへのちょっとした拒否感は、自分の気持ちを殺そうとする無意識の抵抗だったのかもしれない。ローはもう長い間、女と恋愛ができないと自分のことを理解して長かったが、といってここまで明確に男に惹かれるのも初めてだった。
 「ほんとローくんとキッドって反対だよね」
 「どういう意味だそりゃ」
 「ほら、キッドっていい意味でも悪い意味でもおおざっぱだし、男っぽいじゃん? ローくんはほんと、指の先まで神経使ってるというか、非の打ちどころがないんだよね」
 女がローの目を直視してそういったので、「どうも」とだけ返しておく。この、一見冷淡な対応も、どんどん彼の評価に「クール」という得点を加算する仕掛けになっていることにローは気が付いていなかった。
 「おれには非の打ちどころがあるっつーのかよ」
 「むしろ非の打ちどころしかねーよ!」
 バーカ、と言ってから、女はケラケラ笑い始める。キッドも大口開けて愉快そうに笑った。キッドが笑うので、ローも一定、口角だけ上げて話を聞いておいたが、キッドはよく女たちの意味もまとまりもない話にここまで積極的に笑えるなとぼんやり考えていた。キッドはそういうところが、「隙だらけ」だ。現に、ローを褒めちぎる目の前の女は、絶対にキッドの前の席を陣取り、キッドが講義に出てくる日は絶対に、服装も爪の色も髪型もメイクもその他の日の五倍は気を遣ってやってくる。他人からの好意に疎いローだったが、他人がキッドへ向ける行為には過敏だった。そんなわかりやすい女へ、髪に手を伸ばして、「なんだテメェ髪色変えたか」などと言って、少し微笑むユースタス・キッドは、とんでもない男だと思っていた。気づくのおせーよ、と言いながら、女はうれしそうに目を伏せて、少し赤くなっていた。
 
 隙だらけの、すがすがしいぐらい無防備で、パーフェクトでないユースタス・キッドを、手に入れようとは思っていなかった。大学の四年間の間だけでも、こうして隣にいられればいいと思っていた。ローは半年が過ぎるまでに幾人かの女から恋の告白を受けたが、そのどれもを、「好きなやつがいる」と断った。嘘ではないし、眉を下げて深刻な声音でローにそう言われた女は、ショックを受けもしたが、ローをいよいよ本気で好きになって、彼のうわさを女同士で囁いた。
 「ローさん、好きな人いるって。ふられちゃった」
 「うそ!? 誰!?」
 「聞けるわけないじゃん! でも、なんか、あたしふられちゃったのに、ああやっぱりローさんが好きだなって、かっこいいなって、なんか思っちゃったんだよね~……」
 そういう噂が、さざ波のように静かに広がっていく中で、勇敢な女も現れた。好きな人の正体を暴こうとして、積極的にローを問い詰める女である。ね、ローくんって好きな人いるの? ローはいつも、うんざりした顔で、それでも言葉少なに「あァ」と答える。決まってその会話はキッドがいないところで行われたので、おれは幸運だ、とローは救われた気持であった。彼がいたとき、正直に答えられる気がしない。なんだお前好きなやついんのか、誰だよ? あの皮肉っぽい笑顔でそう問われたら、きっと、「おまえ」と答えてしまうに違いない。
 誰? 言えねェ、の押し問答が続くと、女は諦め気味に、その恋って叶う? と八つ当たりのような感じで、ローを責めたてた。けれど、ローの答えを聞いて、女は彼を長い間質問攻めにしたことを一気に後悔し、悲しい顔で「ごめん」と答えるしかなかった。ローは恋が叶うかを聞かれると、目を少し開いて、しばらく沈黙した後に、
 「叶わない」
 と、紙に一滴のインクを落とすような静かさで、そう呟いた。じわり、と濃紺のインクが紙の上に滲み出した。女たちのうわさはまたもや、そのせいで過剰になった。叶わない恋をしているトラファルガー・ローほど女たちの心をくすぐるものは存在しないとでもいうようだった。
 講義が始まるとキッドはあくびばかり連発して、たまに思いついたときだけ、教科書に線を引っ張っていく。ぐにゃ、と線が曲がっても大して気にしていない。思わずローが笑って、「ちゃんと線引け」とタブレットに書いて見せてやると、キッドは机の下でローの足を蹴る。講義中にふざけ合ったり、軽口を叩ける相手は、ローにはキッドが初めてだった。パーフェクトなローに対して、誰もが尻込みをしてしまう中で、キッドだけがローの部屋のドアを勝手に開け、勝手に中に居座った。ローはそのキッドのやり方が心地よかった。だから慣れてしまうと、キッドが来る前にローは部屋のドアを開け放って待った。
 「そういや、お前、六日誕生日だよな」
 教授が「~なのであります」を六回繰り返したときに、キッドが何気ない口調でそう切り出した。ローは思わず持っていたフリクションボールペンを落としてしまって、机から転がったそれを、前の席の女に拾ってもらうはめになった。ちょっと微笑んで、「はい」と渡してくる女に、「悪い」と返して、ローは釈明を求める目つきをキッドに向ける。キッドは実に単純に、誕生日は祝うものだとまっとうにそう考えているようだった。
 「暇か、その日」
 「……いまのところは」
 いまのところも何も、キッドとの予定が入る見込みがあるなら永遠にその日は暇である。
 「なら空けとけ。酒持って行ってやるから」
 思わず「ん」とだけ返したが、じわじわと聞きたいことがやまのようにあふれ出てきた。「行ってやる」ということは部屋に来るつもりなのだろうか。そもそも一人暮らしだと彼に告げた覚えはないが、そういえば何かの話のはずみで、女に聞かれたので一人暮らしだと答えたような気もしないでもない。その時キッドはその場にいなかったが、それを伝え聞いた可能性はある。キッドが大学の近くの学生マンションに住んでいることは本人から聞いていたが、直接的に、ローの住まいについて言及することはこれまで一度もなかったのだ。「空けとけ」と言うからには、祝ってくれるのだろうが、誰か連れて来るつもりなのかも、ありがちな「誕生日パーティ」をやるのかもわからない。ローはほとんど講義が終わる時間になってから、キッドにやっと一つだけ尋ねた。
 「……お前一人で来るのか?」
 「……おれ一人じゃ嫌か?」
 腕組みをし、憮然とした面持ちで、何を当たり前のことを、とでも言いたげな表情でそう首を軽く傾けたキッドに、ローは歯をかみしめて、ぐっと言葉をなくし、くちびるがにやけそうになるのを必死で押し殺したあと、「大勢はうるせェから」と言い訳をするようにそう呟いた。そう言うだろうと思ったぜ、とキッドは何の気もない口調であった。
 本当に、何の気もないのだ、この男。

 一年目の十月六日が来る前夜から、キッドはローの家に上がりこんだ。日付変わる瞬間がいいだろ、祝うってのは、と言って、本人は大して好きでもないのにワインを買ってきた。どうせお前ワインのが好きだろ、とキッドはローの好きなものをいつのまにか把握していて、ワインボトルだけ持ってローの家にやってきた。入ってくるなり、「アァ、テメェの家って感じだな」と揶揄を含めた笑みを向けられ、確かにキッドにとって、部屋にオブジェがあったり、壁にアートボードが飾ってあったり、フロアランプがフローリングの床に置かれていたりすることが、「ローらしく」感じられるのだろう。
 「物少ねェな、おれの部屋とか壁中にギターかかってっから落ちてきたら死ぬ覚悟だぞ」
 「あァ、お前の家は確かに物が多そうだ」
 「のわりに、いらねェような妙なモンが幅利かせてやがる」
 言って、グラスにワインを注ぎながら、机の上の意味深な小瓶を指でコンコンとはじいている。その小瓶に昔はアートフラワーを入れていたが、面倒になって今は放置している。少しほこりをかぶっているので、机の上からどかさないとと思っていたところだった。
 床に座っているキッドに、ベッドの上のクッションを投げてやって、自分もクッションをひいてフローリングの床に座る。小鉢に乗せた料理をいくつか作った。
 「このトマト乗ってるやつ、なんだ?」
 「それはカプレーゼ」
 「あ? カプ?」
 「カプレーゼ」
 「わかんねェ、チーズにトマト乗せてんだろ?」
 「まァそういうことだな」
 「おォ、すげェ、なんかすげェ綺麗に巻いてあんな、ハムか?」
 「プロシュート」
 「いちいちシャレててむかつくなテメェ、料理までシャレてんのか」
 写真撮るわ写真、と大笑いして、スマートフォンのカメラで写真を撮り、キッドはすぐに大学のメンバーも見ているツイッターに写真を載せた。「トラファルガーの家でメシ。むかつく料理が出てくる」と端的にツイートして、撮り方も何もあったものではない写真を載せているので、これじゃうまそうに見えないだろ、とカメラアプリで加工した料理の写真をローがもう一度ツイートした。大学に来るまでこういう類のSNSはやっていなかったが、キッドがしているので、ローもアカウントを作った。ローはというとキッドくらいにしか話しかけないが、二人の写真が同時に上がったので、共通で見ていたらしい大学の友人たちが、二人のIDに向けてリプライをしてくる。
 「二人の写真のクオリティ全然違ェ!」
 「おいしそう、いいな~」
 ローはそのリプライにいちいち返事を返さないが、キッドは返す。すげェ、お前のこと一個呟いただけで女からやべェ数の反応くる、とキッドは楽しそうだった。冗談めかして「お前と並んでっとおれがアホみてェだろ」と言うこともあるが、キッドは基本的にローと自分を比べて勝手に劣等感を抱くことがなかった。ローは今まで、誰と並んでもそういう感情を持たれるために、決まった友人がいなかったのだと思っている。もっと早くお前に会っていたら。骨付きラムを歯で強引に骨から引きちぎって食べている豪快なキッドの食べっぷりを見ていると、ローはそれだけで腹がいっぱいになった。
 「こっちは?」
 「タコとカリフラワーをバジルソースで炒めてる。ボジョレーに合うかと思って」
 「やべえ、お前が何言ってんのか殆どわかんねェ」
 「じゃあ聞くな、バカスタス屋」
 バカスタス、というかダサスタスだな、とからかって言うと、テメェはシャレファルガーなんだよ、どんだけシャレてんだ、台所に豆の瓶あるやつ初めて見たぜ、とやり返される。ダサスタス屋、あれは豆じゃねェ、カシューナッツ。ローが言うとキッドははじかれたように大笑いをして、ローもつられて笑った。爆発するように大笑いができるのは、キッドと二人でいるときばかりだった。キッドはよく食べ、よく飲み、よく笑って、ローのために買ってきたボトルワインをほとんど自分で飲んでしまって、ビールの方が好きな男のくせに、ローより機嫌よく酔っぱらった。おれの誕生日だろうが、とローがコーヒーテーブルの下から足を蹴った時には、背後のベッドにもたれかかって、ほとんど目を閉じていた。酔っぱらうと彼はすぐに眠ってしまう。ゼミの最初の飲み会でもそうだった。
 キッドが寝てしまったので、ローは食べ終わった皿を片づけ、ワイングラス二つと残った料理を寄せ集めてプレートに少しずつ盛りなおしたものをテーブルに置いたまま、シャワーを浴びた。キッドはローがシャワーから上がってもまだ眠っていたので、ローはキッドの隣に移動し、彼と同じようにベッドに背を預けて手持無沙汰にスマートフォンを取る。開きっぱなしのツイッターに、リプライがさらに届いていた。どれも女からだった。

 @law1006 ローさんって料理も作れるんですかー! すごすぎ!
 @law1006 ローくんの料理やばい! あたしこんなの作れないんだけど!
 @law1006 おしゃれすぎ~>//<
 @law1006 @E_C_KID キッド料理の写メクソ下手なんだけど(ワラ
 @law1006 わたしもローくんのお料理食べたいな~vV

 うんざりして、スマートフォンをクッションの上に放り投げて、隣で寝ているキッドの肩にこっそりと寄り添った。女はいい、こうして男と寄り添っても許されるのだから。ローはキッドの投げ出された腕をなぞり、指先にはまったスカルヘッドのリングを指で触って、ぼそりと吐き出した。
 「ユースタス屋。おれ、ゲイなんだ」
 返ってきたのは静かな寝息だけだった。それから、いつの間にか眠りに落ちていたローは、しばらくして起きたらしいキッドに起こされ、ベッドに移動した。キッドはローが寝ている間にシャワーも浴び終わり、ローがベッドに上がると当たり前のようにキッドもベッドに上がってきた。ソファもないし、床に寝かせるわけにもいかないから仕方がないのだが、ローはそういう無防備で、隙だらけで、ともすればしたたかなキッドの性格を少しだけ恨んだ。けれど、電気を消して、フロアライトの灯りだけになった室内で、隣で寝ているキッドに視線を向けながら眠るのは、とてつもなく幸福だった。眠っているキッドの手をこっそり握った。誰と間違えているのか、それともただの反射反応なのか、ぎゅっ、と一瞬だけ握り返された。大きな手。ローの肩をつかんだり、ふざけて頭をおさえつけたりしてくる、いたずらな手だった。

 その年から、ローは毎年ひとつずつ、キッドにカミングアウトをすることを決めた。毎年自分の誕生日に、キッドへひとつ打ち明けごとをする。彼が眠っているときにしか行われなかったが、それは密事めいた、胸を切なく締め付けられる行為だった。四年間ある。四つおれはユースタス屋に打ち明ける。そう決めて、ローは二年目の十月六日、今度は自分からキッドを誘った。メシ、食いに来ないか。キッドは「なんだよ、おれから言おうと思ってたのに」とその年はワインを二本とついでに缶ビールも買ってきた。そのくせ、酒の量が二倍になっても飲むスピードは落とさないので、キッドはあっさり眠りに落ちて、ローはキッドが部屋に来るたびに笑い転げる件のカシューナッツの瓶からナッツを食べながら、
 「ユースタス屋。好きなんだ」
 そう言った。キッドは今度は最初からベッドに倒れ込んで眠ってしまっていたので、ローは彼の手を握るのに、ベッドへ上らねばならなかった。眠っているときのキッドは、顔から少し剣呑さが殺がれて、より一層無防備に瞼を閉じている。
 「来年は、酒じゃなくて、キスとか、欲しい」
 馬鹿らしい。そう思いながら、忍び笑いをする。ローはそのあとすぐキッドの横に寝そべって、すぐ眠りに落ちてしまったが、翌朝目覚めると、あれだけ笑ったカシューナッツを、朝飯代わりにとキッドがほとんど三分の二ほど食べてしまって、「これうめェな」とナッツを豪快に歯で何個も噛み潰していた。その尖った歯が好きだ。目つきの悪さも、口の悪さも、態度のでかさも、隙の多さも、全部、何もかも、好きだ。ローは次の誕生日にキッドに告げたいことをもうすでに思いついてしまっていて、来年までいうことのできない欲望を、こころの底に碇をつけて沈ませた。

 三年目の十月六日、前夜にゼミの飲み会が重なった。ローは自分の誕生日を誰にも告げていない。キッドしかおそらく彼の誕生日を知る者はいない。キッドはローの誕生日を、彼の学生証で知ったと言っていた。たった一回、学生証を忘れて図書館に入館できないキッドに貸しただけで、ローの生年月日を覚えてしまったらしい。キッドも、ローが自分の誕生日のことを言いださないのと、大勢に祝われたりするのが性格的に嫌いであることを感じ取っているのか、誰にもそれを明かさなかった。キッドは粗野で、荒っぽく、繊細さとは程遠い男のように見えるくせに、そういうところの気配りが非常にうまい。うまいというか、鼻が利くのだろうか。特別配慮をするわけでもないのに、キッドは直感的に、ローがどう感じてどう動いているかを察知することができるし、その上ローのその動き方に合わせることができる男だった。
 (テメェはよっぽどおれよりデキる男だ、ユースタス屋)
 飲み会の場所を相談して談笑している彼と女たちの横顔を見ながら、ローはよく自分と並べられて、三枚目のポジションを押し付けられている彼の、本当を知っているような気持ちになって幸せだった。
 「キッド、どうせ超飲むし食べるでしょ? 飲み放題がいいよね?」
 「あ? まかせる、メシとビールがうまけりゃなんでも」
 「あれはー? この前行ったスペインバル」
 「あー、いいじゃんいいじゃん! キッドがあたしの膝使って寝た店」
 「古い話を持ち出してくんじゃねーよ」
 ハハハ、と大口開けて笑っているユースタス・キッドは、その女が暗に何を言いたくて、周囲の女にどう思わせたいのかを分かっていない。恋愛に疎いタイプでもないのに、そういう機微には非常に鈍感だった。だからキッドは、ほとんど自分の家に帰らず、ローの家か女の家を転々とする生活を平気で送るし、ローに「自分の家があるだろ」と言われても、一人の家はつまんねェだろ、云々と言って勝手に部屋に上がりこむ。キッドはそのせいで、女の部屋の合い鍵を六つも持っていた。ローはせめてもの抵抗にと彼に鍵を渡していなかったが、あっけらかんとした顔で、「お前の家入る時あいてねェとダリィから、合い鍵くれよ。おれのもやるから」と鍵を差し出された。誰にでもやってやがるんだろう、タラシ男め、と思っていたが、キッドは自分の家の合い鍵をたった一つしか持っていなかったことを後になって知らされ、内臓を吐き出すかと思うほど、うれしかった。
 女たちは誰がキッドの「ほんとう」なのだろうと探りながら周囲に目を凝らしている。ゼミが同じで、最初にローがキッドと出会ったとき、彼と話していた女が見たところ一番キッドに気を許されている。ただ、それは、ローの偏見と期待の入り混じった目で見なくても、「友達」の域を超えていなかった。キッドは男であろうが女であろうが、おおよそが「友達」の感覚である。キッドが昨日あたしのベッドで勝手に寝てさあ、と女子同士で固まって話をしていた女たちが、どれだけ騒ごうがそれはただの「友達」扱いなのだ。ローは同じことを自分もされているからこそ、それが痛いほどよく分かった。
 「キッド無駄にでかいから、寝るの超狭くて」
 「えっ、何アンタ、キッドと一緒に寝たの?」
 「寝たけど、マジなんもしてないから、マジで」
 「えー、それでも、もう付き合ってンじゃん!」
 「違うって、絶対キッドはあたしのこと女として見てないし、だから一緒に寝ても手ェださないんだよ」
 と言いながら、女の目は期待に濡れている。もしかしたら、あたしが一番? ローは黙って講義室の後ろの席で、彼女らの話を聞きながら、(それは残念ながらユースタス屋の”ダチ”扱いだ)と彼女を憐れんだ。現に、女の家に一泊し、ベッドを勝手に使ったユースタス・キッド本人は、教室に入ってきた途端女に近寄って、「なァ、おれお前ん家にスマホの充電器忘れてねェか?」「忘れてないって、だってキッドあたしのやつ勝手に使ったじゃん」「アー? そうだっけか」という会話をしてから、ローのところに一直線にやってきて、「今日お前ん家行くから」と隣に座ってくる。彼はとんでもない男だった。やっぱつきあってるって、と遠くで女たちはくすくす楽しそうに笑っている。
 (ちなみにユースタス屋。充電器、おれの家に忘れてるぞ。)

 ローがそうやって過去の記憶を手繰り寄せている間に、スペインバルで飲み会をすることで話はまとまったようで、五日の夜にゼミのメンバーはバルの前に集まった。オレンジ色のライトで照らされた木造のバルで、雰囲気はとてもいい。テーブル席に通されて、女六人、男二人という妙な比率でゼミの飲み会は始まった。もう一人いたはずの留年男はいつの間にかドロップアウトしてしまっていて、三人組の女たちはいつも集まりが悪かった。派手な女二人組、女子大生らしいきらきらした女四人組、そしてキッドとローというメンバーで、ローの誕生日前夜の飲み会が始まった。席順をくじ引きで決めたために、ローはテーブルの一番端、隣と前に四人組女のうちの二人が座り、斜め前にキッドが座った。キッドの隣の席には例の派手女が座ったが、彼女が二人組の相棒に、こっそり席を変えてもらってキッドの隣をゲットしたことをローは分かっていた。
 キッドと女二人の生中ジョッキが最初に到着し、女四人のファジーネーブル、カシスオレンジが次に到着した。最後がローの頼んだアプリコット・リッキーだった。キッドはグラスが来るなり大笑いして、お前それいつものやつじゃねーか! シャレてるやつ! と嬉しそうにする。
 「てかローくんごめんね、普通にうちらがいつも来てる居酒屋にしちゃったけど、いける?」
 「あァ、大丈夫」
 「ローくんってあんまり居酒屋来なさそうだね」
 隣の女がグラスを両手でしっかりつかみながら、きれいに上向きにカールしたまつげを小鹿のようにぱちぱちさせた。そうだな、と笑いながら、ローはキッドが早くも一杯目の大ジョッキをほぼ空にするのを横目で眺めている。今日もいい飲みっぷりだが、飲み会の後におれの家に来るまで、起きてられるのか? ローは思わずくちびるをほころばせた。
 「いつもローくんってどこで飲んでるの?」
 前の女が身を乗り出す。
 「ん……、居酒屋より、だいたいショットバー」
 「えー、バーとかかっこいい! わたしもバーとか行ってみたくて~」
 「どこのお店がおいしいのー?」
 「アレだろ、ほら、地下にあるやつ。水槽で囲まれてるとこ、すげェシャレてんだよ」
 話の途中でキッドが笑いながら投げかけてきた。一度キッドを連れて、アクアリウム風のショットバーに飲みに行ったことがあった。キッドはもっぱら居酒屋派で、大して腹に溜まるものも食べられないのに、ローがいつも行っている店に行きたがった。案の定腹が減ったと結局別の居酒屋で食べなおしたが、ローは単純にキッドが自分の行っている店に興味を持ってくれるのがうれしかった。キッドと飲むようになるまで、ひとりで飲むのが好きだったが、二年経つとキッドなしではだめだった。
 「えー、素敵、ひとりで行くの?」
 「ひとりか、コイツと行く」 ローはキッドをあごで軽くしゃくった。
 「ローくんってめっちゃモテんのに、女っ気ない感じ。彼女とか作らないの?」
 「んん……」
 作らないんじゃなくて、作れねェんだよ、とよっぽど言ってやりたいと思ったが、ローは黙って静かに微笑むばかりで口をつぐんだ。いつ頼んだのか、二杯目のジョッキを煽っているキッドが、女たちとの会話の合間に「トラファルガーはおれのこと好きだから作らねェんだよ」とあっけらかんと爆弾を投げつける。ぎょっとして表情を失くしたローのことをなんと解釈したのか、ローくんめっちゃ引いてるじゃん! と女たちはキッドのジョーク(と彼女らはとらえている)に大笑いする。違う。ずるい。ユースタス・キッド。ぶち殺してやりたいほどお前はとんでもない、思い通りにならない男だ。ローはうろたえ、目の前の皿に手を付けようとして何度も迷ってしまった。
 次の料理がいいタイミングでやってきたので、それを受け取りながら、スモークサーモンだとワインの方が……、と心の中で思ったことばが、なんとなく口から出てしまった。
 「これはワインの方が合うな」
 呟いたローに、ワイン頼む? と隣の女が声をかける。あァ、そうする、とローは通りがかった店員を呼び止めた。グラスワイン。言ってから、隣の女がワインを頼もうと言い出したのに、おれだけ頼むのはどうか、と思って、隣の女に「ワイン、飲むか?」と尋ねると、女はどうしてかサッと頬を染めて、あ、はい、と突然敬語になって大きく頷いた。
 実際、グラスワインが二つ届いても、隣の女はワインが飲めなかった。途中までしか飲めなかったワインで酔っぱらっている女に、氷をたくさん入れた水を頼んでやる。普段こんなに気遣いをしないローだったが、その日は、このあとキッドを家に連れて帰ることができるという優越感からなのか、自然にそういうことにも手が回った。
 終電の時間も考慮して、日付が変わる前に飲み会はお開きとなった。キッドこのあとうちくる? 結局最後までキッドを離さなかった派手女がそう言って彼を誘ったが、いや、今日はコイツんち、とあっさりローを親指で指し示して、駅で彼女らと別れた。終電に乗ってローの家の最寄駅で降り、駅の近くのマンションまで歩く。冷たい秋の風が、ローの頬を覚まして行った。あと三十分足らずでまた一年が回ったことになる。誕生日を意識し始めたのは、キッドと出会ってからだった。
 キッドは珍しく静かで、ローの部屋にたどり着くまで黙って彼のあとをついてきていたが、部屋に入ると「眠い」とだけ発して、シャワーも浴びずにローのベッドに転がり込んだ。ローはあきれ顔でシャワーを浴び、部屋に戻ると上着を脱ぎ散らかして、タンクトップとサルエルで眠っているキッドの姿に幸福を感じた。ベッドから足がはみ出している。無駄にでけェから、とローは彼をどかして、布団にもぐりこんだ。まだおめでとうも言ってねェじゃねェかよ、とあと五分少しで変わる日付のことを考えた。
 少しまどろんだあと、目が覚めたのは人の体温のせいだった。目を開けて、目の前に人の顔があったせいで、ローは肩をびくんとすくませた。暗がりに目が慣れてくると、それがキッドだということがわかって、「なんだよ」と寝ぼけた声を投げかける。キッドはフロアライトに手を伸ばして、ぼんやりした灯りをつけると、ベッドのヘッドボードに置かれていた時計を指さした。
 十月六日。キッドと出会って三回目の誕生日が来た。
 「おめでとうございます」
 ふざけた口調でキッドがそう言うので、改まったわざとらしい口ぶりに「へへ」と笑った。もう寝るものだと思っていたので、重いから、どけ、と覆いかぶさっているキッドの脛を軽く蹴ったが、キッドはどかなかった。それどころか、彼はぐっと距離を詰めて、ローの鼻先に吐息がかかったころにはもう、ローに、キスをしていた。
 舌でくちびるを割り開けられ、歯茎をゆっくり舌でなぞられたとき、何をされているのか自覚した。
 「ンッ、ん!!」
 驚いて思わずキッドを押しのける。キッドは笑っていなかった。
 指で顎をくいと固定され、くちびるをそっとこじ開けられる。舌が入ってくると、開かない歯に焦れたのか、顎を引く指の力が強くなった。ぬち、と唾液をひいてローの口が開くと、キッドは舌をやわらかく差し込み、「ん……」と深いため息を喉の奥で吐き出しながら、ローの舌を自分の舌でからめとった。舌が合わさると、独特の、くすぐったいような、微弱な電流が舌先に走る。ドクッ、ドクッ、と暗闇の中に自分の鼓動がこだましていた。拒否できるわけもなかったし、押し返そうとキッドの胸に触れていた手は、いつの間にか、キッドの胸の隆起を撫で、たくましい筋肉質な体を確かめていた。
 「ンッ……ん……ふっ……!」
 「ン……ッ」
 お互いの、鼻から抜ける切ない息が、音が、頭にひとつひとつ差し込まれていく。キッドがくちゅっ、と音を立てて舌を抜くと、もうローのくちびるは閉じられなかった。親指の腹でキッドはくちびるに付着した二人の唾液を軽くぬぐい、からかうようなそれでもなく、むしろいつくしむような、初めて見る顔で笑った。
 「去年、やれなかった。欲しかったんだろ」
 
 去年、キッドに何を言ったか、ローはほとんど忘れていた。好きだと言って、キスをねだった気がする。起きていたのか。きっと、この男のことだから、最初の年から起きていたのだろう。ローの告白を聞いて、三年も、焦らして楽しんでいたのだろう。ローがぐっと言葉に詰まると、キッドはもう一度軽くくちびるをついばんで、
 「嫌なら早くぶん殴ってくれ。勘違いしちまうぞ」
 そう言って、ローの体を掬い取るように右腕一本で抱きしめた。
 「お、まえ……」
 「去年の分はやったから、今年の分を早く言え。日付が変わる前に去年の分をやれなかった」
 「……おまえ、ほんとに、分かってんのか……」
 「何をだよ」
 「おれが、……」
 「ゲイだってことか?」
 うろたえて、キッドの下に寝転がったまま、口を開いたり閉じたりしているローは、まるでクールでも、ミステリアスでも、パーフェクトでも、インテリジェンスでもない。裸になるより、もっと今のローは精神的に裸で、強烈な羞恥心を感じていた。真っ赤な瞳に、一枚ずつ皮をむかれていく気分だ。
 「お前が二年前の夜、あんなこと言いやがるから、おれは二年もテメェに踊らされた。何言っても動いてこねェし、おれだって動けねェ。結局おれをからかってあんなこと言ったのかとも思ったが、ちゃんとテメェを見てきたつもりだ。おれの気持ちも固まった。今日、飲み会のとき、女嫌ェのくせに、女にやさしくしてやがっただろ。なんかムカついて、やっぱりおれはテメェが好きなんだろうなと思った。だから、好きにしろよ、おれを」
 人の上に覆いかぶさって、身動きできないように腕を掴んだまま、「おれを好きにしろ」なんて言うべきではないとローはぎゅっとくちびるを噛んで、何か言い返してやろうと思ったが、思い通りにならない男が、訳の分からないまま手に入ったことで、ローは言葉も忘れてしまった。女にやさしくしてやがったから、ムカついただと? それを、お前が、言うのか。そう憤ったが、それも出てこなかった。イケメンが、台無しじゃねェか。ほとんど泣き出しそうなローを気にしてそう言ったのか、キッドは困ったように眉を寄せ、ローの顎を指で挟んで、頬肉をぎゅっと押す。
 「なあ、今年のおねだりはなんだったんだ、トラファルガー」
 キッドの手が外れて、とがっていたくちびるが元に戻ると、ローは耐え切れなくなって、キッドの首に腕を巻き付けて抱き寄せた。自分の上に大きな男の体が降りて来る重さが、どうしようもないくらいローに幸福感を与えた。
 「セックスしてェ、ユースタス屋」
 四年目の十月六日には、「気付いてほしい」と言うつもりだった。なあ、一年分早くもらっちまったけど、どうすりゃいい、そう問いかけたローに、ユースタス・キッドは、「”ずっと一緒にいて欲しい”に変えとけ」と、当たり前のように言える、とんでもない男だった。

// 13’10/15(10/6)