71%の忘れられない味を探して

1.

 入ったことがないわけではないのに、はじめて足を踏み入れるようにたどたどしい一歩だった。セーフ、と隣の男が笑いを含んだ独り言を漏らす。最後の一部屋だった。やはり連休前の夜は部屋もすぐ埋まる。
 パネルを操作して、「こっち」と男は反対側のエレベーターへ向かおうとしていたローを引き留めた。来たことがない場所で迷うのは言い訳がつく。だが、できるだけ、こういう場所自体にはなれっこなのだという顔だけでも作っておかねばならなかった。
 トラファルガー・ローにとって辛気臭い繁華街のごみごみしたピンク通りにあるラブホに入ることなど問題ではない。というツラをしなくてはならない。相手は自分のことを「遊んでる男」だと思っているのだろうし、だからほいほい挑発にノってきたのだ。狭いエレベーターの中に二人で入って、いつもなら減らず口のひとつでも叩くくせに、こんなときに限ってお互い一言もしゃべらない。五階までのぼる少しの時間が異様に長く感じられた。
 エレベーターを降りて正面右にある部屋が、今日の現場になる予定だ。扉をあける手つきが雑で、入れよ、と顎で中をぐいと指し示す男の態度が、こなれたようで憎らしかった。
 相手の男はユースタス・キッドといって、ローとはもう長い付き合いだ。そして、間違っても、一緒にホテルに入るような仲ではなかった。……いままでは。キッドの方は、そもそも本気にしているのかもわからない。冗談でここまで来ないとは思うが、ベッドに腰掛けて、「いやマジではやらねェだろ、バカか。早く寝ようぜ」と笑い飛ばされて終わる可能性も、まだないとは言えない。
 キッドはブーツだ。脱ぐのにもたつく。ローは先に中に入って、コートを脱いだ。後から入ってきたキッドに片手を差しだしてやり、キッドのコートをハンガーにかけてやった。こういう細かい挙動が大切だ。今のはなんとなく、手慣れたように見えなくもない。
 内装は普通のホテルに近く、普通じゃないところがあるとすれば当たり前のようにベッドがひとつであるところ、ベッド以外にはテレビくらいしかものがないところ、トイレとバスルームに続くドアに鍵がついていないところ、そしてベッドのヘッドボードにコンドームとむき出しの電マが置いてあるところだ。AVのパッケージが派手に印刷された番組表も置いてある。標準装備で電マがあるとはなかなかサービスのいいホテルだ。
「ローションがねェな」
「あ? ……あァ」
 一瞬、ちらついた動揺を飲みこんで耐える。キッドはベッドに座り、先風呂行ってこい、とローに言ってから、フロントにコールをした。ローションを取り寄せるつもりらしかった。キッドはローが彼にアプローチをしたとき、微妙な表情をして見せたくせに、男同士のセックスに手慣れたような様子もあって、余計に困惑する。
 
 ラブホテルのバスタブにはたいてい色のつくライトがついているが、ここの風呂にはついていなかった。だだっぴろい洗い場には、シャワーと一つのスツールしか置いていない。扉ひとつ隔ててすぐそこはベッド、という狭い廊下で服を脱ぎ、その場に服を置き去りにした。脱衣所のたぐいはない。ドアから風呂まで直通で、ラブホテルはどこまでもセックスに機能的に作られている。
 無駄なものは省いて、できるだけ多くのつがいがいっぺんに交尾できるように、シンプルに。ローは、見た目のせいでよく意外だと言われるが、ラブホテルという場所が嫌いではない。ものすごく効率の良い、計算された設計に好感が持てるからだ。機能性の高い空間づくりは、ローの好みとするところだった。
 備え付けのシャワージェルパックを一つ取り、シャワーコックをひねる。ぱたぱた、としずくが数粒おちたあと、サッ、と静かなシャワー音が床を叩いた。さっき二人で入っていた居酒屋の、煙草のにおいと酒のにおい、食ったばかりの子持ちししゃもの塩っ辛い味を全部注ぎ落せるように、ローは念入りに、シトラスミントのかおりのジェルで首の後ろまで丁寧に洗い、わざわざ風呂の中まで持ち込んだ歯ブラシでシャワーをしながらシャコシャコ歯を磨きはじめた。
「、へ」
 ガチャ、とかすかな音で扉があけられるまで、キッドがドアの向こうに立っていることに気が付かなかった。思わず目をそらしてしまうくらい、キッドは堂々と裸になり、立派なモノを隠しもしないで、風呂場に入ってきた。
「ヤる気満々じゃねェか」
 歯を磨いているローを、キッドは機嫌がよさそうに笑って、目をひん剥いているローには構わない。勝手にシャワーに入ってくることを想定していなかったので、ローは後手を取ってしまった。
 シャワーに打たれるローの体をてのひらでじっくりなぞってから、自分のてのひらにもシャワージェルを垂らし、シトラスミントのかおりで体を洗いはじめる。ハッ、と我に返って、壁に片腕を押し当て、覆いかぶさっているキッドの体をやんわりと押し返した。充分に洗いこんだとは言えないが、ここでおっぱじめられると困る。
「逃げんのか、トラファルガー」
 振り返ったキッドの体を、上から下までじっと眺めた。いまからこのオスと交尾をするのかと思うと、燃えた。
「……風呂でヤるのは好きじゃねェ」
 好きじゃねェ、どころか、やったことがないというだけなのだが、こんなぴかぴかした照明の下でクソビッチのマネがうまくできるとは思わなかった。

 口の中にたまったキシリトールの泡を吐きだして、白い歯がちらりと洗面台の鏡に反射する。完璧だ。ルックスには自信がある。相手の男が萎えないように、男くさいにおいは全部消して、ひげも整えた。体つきもいい。ほどよく引き締まった体つきに、ケツの形は自分でも自信がある……。
 シャワーの音が止んだので、ローは慌ててベッドルームの扉をしめきり、ベッドのふちに座って、別に何を見たいわけでもないのに、携帯の画面を見つめている。ベッドに入って待っているのは違う気がする。待ち焦がれているみたいで。歯を磨いているのを見られたのは失敗だった。だが、生来から歯は風呂で磨くのだと言えばごまかしがきくだろう。
 問題はここからだ。まさかここまできて、電気を消し、ケツにねじ込む段階で「処女」だと分かったら、キッドは「重い」と思うだろう。その気もないのにホモの処女喪失に利用されたと怒るかもしれないし、ローが本気なのだと察して拒絶するかもしれない。男相手に恋愛するつもりはない、とキッドはそう言うはずだ。だからローは、あくまでも、キッドを大勢の中からたまたま選んだだけの、ノンケとヤりたいクソビッチのマネをする必要がある。そうすれば、……もしかしたら、体だけなら、二度目もあるかもしれない。
 我ながらさびしい考え方だ。ローが女なら。もしくは相手が女なら。または相手が自分と同じセクシャルマイノリティであれば……。まァ、しかし、アプローチして、ラブホテルに入るというところまで口説き落としたのだから、それ以上の贅沢を言うべきではない。
 
 キッドが部屋に入ってきた。
 ぺらぺらの部屋着を着ているローとは違って、キッドはホテルに置いてある部屋着を着ず、腰にタオルを巻いただけだった。どうせ脱ぐから、というつもりなのだろう。キッドは手早く冷蔵庫から無料ドリンク二本を探し出し、茶か、コーラか、とローに選ばせた。
「茶」
「だろうな」
 キッドは麦茶の缶をローに投げてよこし、どかりとベッドの反対側に腰掛けた。
 ヘッドボードにはローションボトルが置いてある。コンドームもふたつ。サイズはMで大丈夫だろうか? さっき見た感じで言うと、到底キッドにMサイズは入るように思えない……。
「トラファルガー」
「……ん」
 携帯の画面は真っ暗だ。けれどかたくなに視線を落としてしまう。キッドは続きを言わずに、ごそごそとシーツに入ると、邪魔、とばかりに腰のタオルを壁際に投げ飛ばした。
 やっぱり、ヤらずに寝るつもりだろうか。そりゃ、そうか。拝み倒した本人が、背中を向けて「どうでもいい」というような態度を取っていれば、当たり前かもしれない。その方が、いっそよい気がする。この男に手を出そうなんて考え、甘かったのだ。まだ、自分には……。
 ぐい、と強く肩を掴まれて、後ろに体がのけぞった。キッドが自分によくやるように、首のあたりを腕でホールドされて、ひっぱられる、強引な引き留め方で、ローは体勢をくずした。ベッドの上に転がり、手から携帯が落ちた。
 ゴトッ
 床にぶつかる携帯の音より、引き倒した相手に覆いかぶさって、片手でローの顎と頬を掴む、キッドの方が問題だった。
「……おしゃべりしにきたわけじゃねェんだろ」

 キスしたとき、ふっと香ってきたのは、ホテル備え付けのシャワージェルとはまた違う、キッドの髪のかおりだった。くちびるの間から、たまに漏れるキッドの「ンッ」というつまる声がたまらない。いま、本当におれはユースタス屋とセックスしてんのか? ローは信じられない思いで、キッドの背中にしがみついた。
 キッドは考えていたより積極的に動いた。女とするときも、いつもこうなのかもしれない。そのくせ、愛撫の時間が長い。耳たぶのあたりをくちびるで噛み、耳元で聞こえる「……ハァ、」という息遣いの音で背筋が粟立った。キッドの肌は暖かく、足先をからませると「つめてェな」と笑う。ローの部屋着の前に手を入れて、刺青だらけの肌をなぞる。キッドの手はおおきかった。想像していたより熱を持って、おおきかった。
「……っはァ、……っん……」
「トラファルガー」
 覗き込む目は真っ赤で、髪も赤く、ライトを消した部屋の中でもよく分かる。キッドは知らない。年上で、大学一の変わり種の、トラファルガー・ローが、正真正銘の新品で、男と最後までいくのは紛れもなく初めてであることを。
 知っていたらやらないだろうな。処女はめんどうだ。肉体面の精神面も、ヤりなれたやつより面倒くさい。だが、ユースタス・キッドと出会ってしまったから、適当なやつで処女を捨てるということができなくなってしまった。初めて目にしたときに、こいつで捨てよう、そう決めてしまったから、あとには引けなくなった。
「いいにおいすんな、てめェ……」
 くん、と鼻を近づけて、すんすんにおいを嗅いでそう笑うキッドの顔を見て、もしこれが漫画なら、おれは今目のハイライトをハートマークにしていたところだろう、とローは目を細める。何がいいとか、理由をはっきり考えたことはない。とにかく、ユースタス・キャプテン・キッドは、何もかも満点だった。

 
 2.

「バイト先の人たちでしょ~、ゼミの子たちと~、あと一応教授と~」
「あっ、あたしも教授忘れてた」
「……あとまァ、キッドかな」
「マジ? 渡す? あたしも渡すつもりなんだけどさ~」
「うっそ、マジでやめて、あいつ数多いと誰からのか覚えないから」
「チョコ以外のモンあげたらいいじゃん」
「駄目だって、キッド、チョコ好きだもん」
「マジで?」
 ラボから別棟へ向かう途中、耳に入ってきた会話は別の学科の女子二人のものだった。キッド。耳が勝手に単語を拾う。もうその名前はうんざりだ。そう思うほど、この広い大学内で、「キッドにチョコを」という言葉を山のようにきいていた。
「……バイト先に買った?」
「買ったよ~、えらいから」
 ……まただ。
「えら~い! バレンタイン来週だし、まだいいかなとか思って」
「でも結構チョコ売切れてるから買ったほうがいいよ」
「マジか~、つかキッドくんに買ったの?」
「ん~、……てゆか、作る」
「うっそ! 本気じゃん」
「イエ~イ! マジで狙っていきま~す」
 またキッド。ローの知る限り今週で七度目だ。この回数は異常だと思う。そもそも、ローのいる医学部にキッドなんて名前のやつはいない。別学部の連中がこぞってキッドという男の話ばかりしているのは、どう考えてもおかしい。
「いや、ローさん自分を棚にあげて何言ってんすか」
「ローさんにチョコあげる云々の話、おれ今週二百回は聞きましたよ」
「二百回は盛りすぎだ、シャチ」
 フン、とローが鼻を鳴らしてあしらっても、二人はやれやれという顔で不服そうである。
 謎の男、キッドの話をしてみたところ、ペンギン、シャチから返ってきた返事はそれだった。ペンギン、シャチは同じラボの同期だが、年は彼ら二人の方が上である。ペンギンは二つ上、シャチは一つ上だが、二人ともローに敬意を払うことは忘れない。なぜだか知らないが。ローは幼少期から医学に触れて育ってきたことを受けての異例の飛び級で二人と同じラボに所属しており、ペンギンが一年遅いのは、一年間の留学のためだ。ここで三人が同じラボにそろったのも何かの縁なんで、ローさん早く独立しておれたちを雇ってくださいね、とかなんとか、二人は適当なことばかり言って、それでも学部内で何かと遠巻きにされがちなローのそばから離れなかった。ローさんはおれたちがいねェと便所飯だからな~、とかなんとかからかってはいるものの、友人と呼べる人間がほとんどいないローを心配してはくれているのだろう。
「まーなんたって大学じゃ有名なイケメンすから」
「変人だけど」
「変人要素が勝りすぎて、イケメンなのに遠巻きにされてるっすけどね」
「だからラボにあんた宛てのチョコが解剖用の臓器に紛れて入れられてたりすんだよ」
 ぎゃーぎゃー言っている二人を無視し、ローはそれからもあらゆる場所で「キッド」とかいう男にチョコを渡すかどうか、女たちの話を聞くことになった。アイドルみたいにキャーキャー騒がれているわけではないようだ。ただ、友だちの延長で、またはもう少し複雑な関係へのくぎさしのように、そして、純粋に愛情を伝えるための贈り物として、キッドという男の話が、不思議なほどローの耳を通り過ぎて行った。

 バレンタインデー当日、ローは面倒を避けるため、前日からラボに泊まりこみ、一日中ラボから出ないように心掛けていた。ラボまでチョコレートを渡しに来るつわものはいたが、ペンギンとシャチがどれだけ拝み倒されても、ローは顔の一つも見せない上に、ペンギンに言わせると「悪徳マルチ商法でも断るみてェな顔で」、それは受け取れないとつっぱねた。そもそも甘いものは嫌いだし、知らない人間からもらった、何が入っているかもわからない食べ物など口に入れられるはずがない。
 だが、一度だけ、別棟で講義を行っている教授のところへ資料を取りに行く用事ができて、しぶしぶ外で出た。足早に歩き去るローを慌てて捕まえ、数人の女子がチョコレートの袋を押し付けてくるのに、問答が面倒くさくて、あとでラボの連中にやればいいかと仕方なく受け取ると、ローが袋を一つ持っているだけで、「渡しても受け取ってくれる」サインだと思った女たちが、絶え間なくローの腕にチョコレートの小包みを滑り込ませた。
 やっとのことで資料を受け取り、さて引き返すぞというときに、ローはひとつの単語を聞き取った。
「キッド」
 またか。何気なく振り返ったとき、最初に度肝を抜かれるほど迫力のある赤が視線にぶつかって、ローは口をぽかんと開けた。
「あ?」
「やばくねーか? これ全部もらったのかよ!」
「うるせー、モテんだよ、おれは……。アッ、てめェ食うな! おれのだ」
「ケチケチすんじゃねーよ!」
 話しかけているのはピンク色の髪の女で、学部棟入口の待合室のテーブルをチョコレートの箱で山盛りにしている赤毛の男に、胡散臭げな視線を送っている。
「なんでテメーはそんなツラでこんな山ほどもらえんだ?」
「ツラがどうした、ボニー、てめェも一応女だろうが、チョコねェのかよ。くれよ」
「やるか! あったらウチが食ってる!」
 あーあ、ウチも男に生まれたかったぜ……。と言いながら、ひょいっ、と一箱まるごと平らげて、キレる赤毛を残して女が立ち去った。そのとき、ローは自分が取った行動の意味を、いまでもよく分からないが、あのときああしていなければ、キッドと話すことも一生なかっただろうと今では前向きに受け止めている。
「……おい」
 両手にチョコレートの包みを山ほど持った、刺青だらけの白衣の男に、仏頂面で声をかけられるとはゆめ思わなかったのだろう。キッドは相手の柄の悪そうなところを見て、眉根をひそめ、「あ?」と威嚇する顔をした。その顔に、ローは胸の奥がギュッと痛くなるのを感じた。(このとき感じたのが俗称「ときめき」と呼ばれる胸の病気であることが、のちの調べで発覚する。)
「やるよ。好きなんだろ」
 ローは、知らない女からもらった山のような量のチョコレートを、男の前にすべておいて、黙ってきびすを返していた。
 
 ラボに帰ったとたん、全速力で走ってきたかのようにばくばくと心臓が鳴るのを感じた。おれは何をやった? 分からない。分からないが、とんでもない一歩を踏み出してしまったような気がする。上の空で実習を受けるローに、ペンギンとシャチは何事かと顔を見合わせたが、天才の脳みその中は自分たちには理解ができなほど複雑怪奇なものなのだと、二人は勝手に納得して、それ以上触れようとはしなかった。
 
 バレンタインが過ぎ去ってから、ローがその事件について忘れ去ろうとしていたころに(正直に言うと、あの出来事をどう調理すればよいのかローには判断がつかなかったので、忘れようとがんばっていたのだったが)、ローは突然、呼び止められた。もうあと数メートルで大学から出る、という場所で、呼び止めたのは男だった。
 ほとんどの学生が帰宅した時間帯だ。ローもラボで実験をしていて遅くなった。相手の男はローを待っていた様子で、待ちくたびれた顔をしていた。
「ツラかせよ」
 見まがうこともない赤い髪と、そびえたつほどのガタイのよい体。バレンタインデーにローがチョコレートを(他人からもらったものだが)すべて渡してやった「キッド」だとすぐに分かった。
「どうしてだ。理由は」
「ちょっとてめェに用がある」
「……理由になってねェ」
 内心、また例のばくばく言う心臓に悩まされてはいたものの、なんとか平常の顔を保つことができている。相手の男は「なんだこいつめんどくせェな」という顔で、ぎろりとローをにらみ、いいから来い、めんどくせェ、と吐き捨てた。
 ずんずん遠ざかっていくキッドの背中を見ながら、ここで見捨ててついていかなかったらどうなるだろう、と考えつつ、渋々後をついていく。たとえ相手が自分をぶちのめそうと考えていたとしても、苦戦はするだろうが大丈夫だ。ローも喧嘩は弱い方じゃない。
 キッドは英米語学部の校舎の裏側、一目につきにくい場所までローをひっぱってきて、ようやく足を止めた。穏やかじゃない。ローは感謝はされても恨まれるようなことはしたつもりがなかったので、キッドの行動の意図が読めずにいる。
「……てめェ、トラファルガーだろ」
「? ……あァ」
「バレンタイン前はうぜェほどてめェの名前を聞いたぜ」
「そりゃ、……ご愁傷様」
「……ッハハ! ツラはいいが、トラファルガー、てめェは女はおろか人間にすら慣れてねェって感じだな」
 キッドは遠慮なくローを笑い、からかったが、不思議とムカつく感じはしなかった。相手があざけりの気持ちからではなく、心底おもしろいと思ってそう言っているからだろう。
「わかんねェな、てめェは」
 キッドはニッとくちびるを吊り上げ、ローに袋を手渡してきた。ローがきょとんとしていると、キッドは無理やり、手にその小さなショッパーを握らせてきた。
「……バカか、てめェ、そんなツラすんじゃねェ。ホワイトデーだろうが」
 おれがバカみてェだろ。キッドは照れたように後ろ頭をかいてから、きびすを返し、じゃあなと片手を上げて去って行った。
 ……ありえねェ。
 ドッ、と一気に体中に血がめぐり、耳の裏でドクドクッ、と心臓の鼓動の音が聞こえる。顔が真っ赤になっているのが自分でもよく分かる。体温の上昇も顕著だ。息が苦しくなり、胸がぎゅうっとつかまれるような不思議な感覚があった。心筋梗塞か? ローの脳裏に病名がいくつかサッとちらついたが、本当はそれが何の症状か、気が付かないほど世間慣れしていないわけでもなかった。
 小包みについたカードには、署名があった。ユースタス・キャプテン・キッド。あの男には似合わない、きれいなつなげ字の署名の、「キャプテン」という文字が最も力強く、雄々しい筆圧でしたためられていた。

3.

 ユースタス・キッドという男が、かくして、ローの生活の中につながってきて、ローの日常が一転した。ラボから出てきた白衣の男に、たまたまでっくわして「よお、トラファルガーじゃねェか」「辛気臭ェツラしてやがんな」となれなれしく肩に手を置いてくる人間は、その赤毛の男しかいない。
「おれあいつ見たことあるっすよ。文化祭でバンドやってたでしょ」
「学部どこだろうな? どこなんすか、ローさん」
「あ? 知るか」
「えー、ダチなんでしょ? そんなことくれェふつう聞くでしょ!」
「ダチじゃねェ、知らねェやつだ」
 云々、ペンギンとシャチには「あんなやつ知らない」を通して誤魔化していたのに、困ったことに、頼りのペンギンとシャチの方が先に、「よかったっすねおれら以外にも人間の友達ができたじゃねーっすか!」などと、キッドはおろか、キッドの友人であるという面々と仲良くなってしまった。キッドは彼らに、いろいろあってローと知り合いになった、という自己紹介をしているようで、ローも「知らないやつだ」と押し通すことがむずかしくなった。
 ユースタス・キャプテン・キッド。大学二年。二十歳になったばかりで、ローより三つ年下だ。学部は音楽芸術、作曲コースの中でもポピュラー・インストゥルメンツの学科にいて……、と説明してくれたが、医学部医学科、という分かりやすい専攻にいるローには、未知すぎて理解のしがたい分野であった。
「端的に言やァ作曲だ。楽器もやるし、パソコンでも作る」
「へェ」
「トラファルガーは院生みてェなモンだろ?」
「いや。医学部は六年必修だ。さらに研修があるから医者になるのはまだ先だな」
「すげェな。おれは卒業した瞬間フリーだぜ」
 ぎゃはは、と笑うキッドの横顔には、しかし微塵も悲観した様子はなく、かといって楽観した様子もない。将来自分が何になるかは自分で決める、という一本筋の通った気構えがうかがえて、ローはそんなキッドのことを率直に「よい」と思った。こういう男は、とくに昨今、少なくなっている。自分のことは自分で決めるのだ、という、当たり前のようでいてむつかしい覚悟を決めることができる人間が、そもそも非常に少数になっているのだ。
「お前みたいなのが芸術とは、世も末だな、ユースタス屋」
「あ? てめェこそ、刺青だらけの医者がいるかよ」
 音楽、というより、芸術という分野全般に明るくないローにとって、キッドのような、感性だけで生きている人間は珍しく、奇怪に映った。キッドはキッドで、ローのことを「変なヤロー」だと評価し、自分の理解の及ばない存在ほど面白いものはない、それは何かしら、自分の世界観に影響を与えるからだ、と言った。キッドは自己を揺るがすことなく、他者からの影響をうまく自分の血肉として取り込むことができる人間だった。

 出会い方は別として、キッドとローはその後、世間の言う「ともだち」と言える関係におさまった。大学で出会えば軽く挨拶を交わし、減らず口を飛ばし合い、じゃれ合いが小競り合いに発展し、たまに激論を交わしても、翌日にはけろっと忘れて「よお」と声をかけあう間柄だ。ローは、そういう相手は、キッドがはじめてだった。
 
 キッドが好きな曲を覚えた。キッドが好きな色、好きな食い物、好きな場所、……相手の個人的なスペースに踏み込んでいくことを嫌うローでも、自然に手に入るキッドの情報を手放したいとは思わなかった。そして、ふとしたとき、キッドの気に入っているラウドロックのメロディを口ずさんだり、キッドの好きだと言っていたものの前に立ち止まったりするようになった。
(これはまずい傾向だ)
 初めて出会ったバレンタインの季節に、踏みにじって忘れ去ったはずのものが、また萌芽しはじめている。思えば、そろそろ一年が経つ。またあの浮かれた季節が来るだろう。ローはキッドの好きな食べ物を知っている。湯気のたつ、コンソメスープをたっぷり吸った、キャベツ多めのロールキャベツ。喉を通り過ぎるとき、火を噴きそうに度数の高いブランデー。そして、できるだけカカオ本来の味を保っている、何の味付けもされていない、純度の高いチョコレート。
 キッドがあれだけチョコレートをもらっていたのには理由があった。広く顔のきくキッドが、バレンタイン前になるとはばかりなく「チョコレートが好きだからくれ」と女たちに公言するからである。それを本気にして、あまつさえ本命らしいチョコレートを押し付ける女たちがいることも事実だが、ある者は冗談半分、ある者は義理で、ある者はその場のノリで、キッドにチョコレートをあげると約束する。キッドは律儀にくれた者全員にちゃんとお返しもするので、評判は悪くない。何より、「キッドにあげても損がない」と女たちは判断する。キッドは「ただのお返し目当てだろ」と一蹴しているが、ローは、いわばバレンタイン季節には決定的な隙のできるキッドに、ここぞとばかりに懐にもぐりこみたい女たちが口実を作って渡してきているとしか考えられなかった。
「確かに、ガチっぽいやつもあるけどよ」
 探りを入れるローに対して、キッドは笑うばかりだった。
「……死ぬほど嫌われてさえなけりゃ、結構、もらえるモンだぜ。高校ンときは、完全な不良だったからな。女に話しかけられることも少なかった。だがまァ、大学にゃ不良なんて概念もねェし、もらえねェよりもらえる方がうれしいだろうが」
「……おれは迷惑だ」
「そりゃてめェが甘ェモンが嫌いだからだろ? バレンタインには異性に白米を贈る、とかいう習慣なら、好きでも嫌いでもねェ女からでももらっただろ」
「……白米ならな」
「ハッハ! 現金なヤローだぜ」
 てめェこそ、山ほどもらうくせによ。スカしたいけすかねェツラしてやがるくせに……。キッドはそう言うが、そのスカしたいけすかねェ野郎から、突然チョコレートをもらって、ホワイトデーに返す気になったこの男は、本当に分からない。分からないから、こんなに惹かれるのかもしれない、とローは困惑を持て余している。

 キッドに感じていたふわふわした感情が一体何なのか、ごまかしが利かなくなってきている。直面するのが面倒で、見えないふりをしていたが、それもそろそろ限界だ。生まれてはじめて、どうこうなりたいと思った相手がこの男とは、いっそ空でも仰ぎたい。選ぶことならいくらでもできたはずだ。だが、神というやつは、いつでもヒトに試練を与える。ときに、恋というやつはむつかしい課題だ。簡単にS評価をもらえないようにできている。たいていどんなことでもS評価で通過してしまうローにも、神は無理難題を与えたいようだった。
 キッドが、たまたま廊下ですれ違った別の学部の女に、「やっほー」「おつかれ~」と声をかけられて、「よお、チョコはくれんだろうな?」と絡んでいくのを見て、ムカッとくるようになった。変なイラつきを踏み潰そうとしているうちに、「キッド会うたびそれ言ってくるじゃん! あげるって!」「いろんな子にそれ言ってるくせに~」と追い打ちがくる。女たちがキッドの腕を、ネイルした指先でひっぱったり、叩いたりして、「バーカ!」「もっと女として扱ってくれなきゃやらねーから!」とからかわれていたりなんかしたあかつきには、キッドを置いてそのままその場所から消え去ってしまうくらいに腹が立った。
 ……なぜ腹が立つ?
 ……あいつは男なんだから。メスにフェロモンをふりまいて何が悪い? オスっていうのはそういう生き物だ。
 ……オスはメスと交尾するために生まれてくるんだから。
 そう考えようと思っても、どうもうまくいかない。ローはこれまで、女とつきあったり、セックスしたりすることについてそう割り切って考えるようにしてきたし、釈然としない何かを感じながらも、女と付き合ったり、生殖活動をすることに一定必要性すら感じてきていたのだ。それが、途端にしっくりこなくなった。これまでどうして釈然としなかったのかも、なんとなく理解できるようになってきた。
 おれはメスを性欲の対象として見ていない!
 ……らしい。
 困ったことになった。

 キッドの隣で悶々と、変わらず仏頂面で過ごしつづけたある夜に、ローは思いもよらなかった形で糸口をつかむことになった。

 バレンタインをあと数日に控えた夜である。キッドの誘いで、近場の居酒屋でくだを巻いていたとき、突然、ふと気になって、自分で買えばいいのに、なんだってそんなにバレンタインのチョコにこだわるんだ、と尋ねてみた。キッドはしばらく考えたのち、
「バレンタインの時期に、チョコレートエキシビジョンって催しが、百貨店とかであんのを知ってるか?」
 そう、やおら切り出した。
「……いや。知らねェ」
「アー、まァ、百貨店の催事場でやってる、チョコレートの展覧会みてェなモンだな。バレンタイン時期にやってて、世界中あらゆる有名店のチョコレートが並ぶンだよ。どこの百貨店でも最近やってる」
「へェ。それがどうしたんだ」
「……それに行きてェんだが、おれじゃいけねェだろ。このツラで、このナリだ。女がいるわけでもねェし、そんなことのために口実つくって女誘う気もねェ。が、チョコレートは食いたい」
「……」
「だから、手当り次第言えば、何人かはおれの食いてェチョコレートを買ってくるかなと」
「……え? バカなのか?」
「うっせェ!」
 あまりにも拍子抜けする答えにきょとんとしているローに、キッドはもごもごと、言い訳がましく聞こえないように努めつつ、例の、照れたような頭のかき方をした。
「おれが高校のころ、たまたまもらったチョコが死ぬほどうまくてよ。……探してンだよ。もう三年くれェ。チョコレートエキシビジョン、って名前の入ったショッパーに入ってたから、その会場で売ってたっつーことは確かなんだ。だから、まァ、いつかは当たるんじゃねェかと……」
 アッ、……。ローは息をのんで、ぐえ、と胸をつまらせた。キッドのばかばかしい話にあっけにとられた、というわけではない。……まあ、それもなきにしもあらずだが、何より、三年も、おいしかったチョコレートを探し回って、そのくせ、女の行事だから恥ずかしくっていけない、なんてアホみたいな理由でチョコレートの祭典には行くことができず、手当り次第に女の子からチョコレートを貰って食っているこの男の、遠まわしでバカなところに、直接心臓に鉄槍をぶっさされたような衝撃がローの体を襲ったのだ。
 無理だ。もう無理。こいつ無理。一瞬真っ白になった脳みそが、そう悲鳴をあげている。デカいナリ、凶暴なツラ、その風体で一体何を言っているのか、分かっているのか? ローはヒッ、と息をのんでから、
「お前が好きなんだ」
 と、突然そう言っていた。

 は? という、キッドのぽかんと口の開いたマヌケな表情と、居酒屋の喧騒のせいで、ローの思考は徐々に落ち着いていった。何か言わなければ。いつもの冷静なローであれば、一瞬で声のトーンを落として、「……とでも言うと思ったか? アホかてめェは」と切り捨てることができただろうに、その日のローには無理だった。口をついて出た言葉に、「これがおれの本音だったのか」と納得して、そして硬直した。ローの、「ついに言ってしまった」という表情と、言い逃れできない嫌な間のせいで、ローはあとに引けなくなった。
 ……性的マイノリティを打ち明け、かつ、相手がそういったものに理解のある人間かどうかも分からないまま、突然友人の壁を越えてくることなど、普通はない。普通はこの流れで「お前が好きなんだ」とはならない。まだ酒も二杯しか飲んでいない状態で、「酔っていた」という言い訳も使えない。そもそも、その告白で、「自分はキッドが好きだったらしい」と気づいてしまったというあたり、逃げ場がなさすぎる。
 何か言わなければ、とローがつむいだ言葉は、どんどんローを追い詰めていった。ローは自分が何を言っているのか、途中から理解が追いつかなくなった。自分はラボでも有名なレベルのゲイセクシャルで、はずみで寝た人間は山ほどいる。だからお前が好きだというのは単に思ったことをそのまま言っただけで、深い意味はない。……言えば言うほど、じろりと射抜くようにみつめるキッドの赤い瞳に我慢できなくなって、ローはごくりと生唾を飲みこんだ。
 バカかおれは。どうしてこいつ相手になると、おれは、おれ自身にも予測できねェ行動ばかりとっちまうんだ。
 キッドはだんだんと頭が冷えてきた様子で、じっと手元のグラスを見つめたまま黙っている。せっかく仲良くなれたと思ったのだが、自分の暴走のおかげでおしゃかになった。居酒屋で殴られなかっただけ、まだましかもしれない……
「で」
 キッドは深い息を吐きだし、重々しく呟いた。
「……てめェはヤりてェのか、おれと」
 ローはぐっと息をつまらせ、くちびるをぎゅっと真一文字に引き締めた。キッドはそれを、イエスと取ったようだった。
「……場所、変えンぞ」
 静かに立ち上がったキッドに、どこへ、と尋ねると、キッドは鼻を鳴らし、てめェは慣れてンだろ。男とヤんのには。

4.

 キッドの手が膝の裏をもちあげると、いよいよ、その時がきた、そう思った。キッドの体が徐々に下腹部へおりていき、ぎゅっ、と根元から強く性器を握りこまれる。シーツの中で触り合っていた段階で、正直なところギンギンに勃起しているので、ぎゅっとやられたとき思わず喉がンッと甘い声を絞り出した。
「……すげェ、……興奮しすぎだろ」
 ニ、とキッドが浮かべる微笑が、どこかいじわるだ。キッドは不快そうな様子もなく、当たり前のように、姿勢を低くし、ローの硬くなった性器にくちびるを寄せた。ぬる、と大きな口に飲みこまれると、思わず「ぅお、」と驚嘆の声が出た。
(い、いやじゃねェのか、こいつは……)
 キッドのようなプライドの高そうな男が人のモノを自分からしゃぶるとは思っていなかったローにとって、キッドのフェラチオは身がすくむほどの驚きだった。柔らかく、キッドの頭が上下する。ずぽっ、ちゅぽっ、とちいさい音を立てて、キッドのくちびるが摩擦するたび、何とも言えない音が響いた。ひくっ、とふとももが痙攣すると、キッドの手がそこをなぞりながら、満足そうな目でローを見つめる。ずるっ、と口から一度性器を抜き、また先端を強く吸われて、ゾクッと腰がくねった。
「カリが弱ェのか、トラファルガー」
「……ッん、……」
「……いつものスカしたてめェはどうしたよ、……嫌にしおらしいじゃねェか」
 何を言われてもへらへらしておかねば、そう思ったのに、キッドの肩口にしがみついて、ぐちゃぐちゃの顔面を隠すしか手立てがない。このままでは、と思いながらも、手慣れた様子など作れるはずがなかった。
 ローがペースを狂わされ始めると、逆にキッドが水を得た魚だ。キッドの体からめらりと炎がたちのぼるように、なまめかしい蜻蛉が感じられた。キッドの指が、ローの尻の入口を強く、グッグッと二度ほど押して確かめてから、ミチミチと広げて中に入ってくる。一本目はなんなく入った。入ったとたんにぎゅうぎゅう締め付けてキッドの指を飲みこんでいく感触と、
「すげェ、……締まンな……」
 と、ヘッ、と笑ったキッドの顔に、額まで真っ赤になった。

 くち、くち、……とやわらかく掘り進められた尻の穴の中が、ローションと腸液でぬるぬるにほぐれてくると、キッドの指の動きが激しくなりはじめる。ぐちゅっ、ぐちゅっ、とキッドが中を強くかきまぜるたび、ベッドがギッギッと苦しそうな音を立て、ローの体が揺さぶられた。ローはもう息をするだけで必死だった。
「ンッ、ああっ、……あっ、……た、! ……、ッタス、……屋……んあっ、……!」
「……いたくねェか、……?」
「……んっ、……ん……! ……アッ、……」
 いたくない、という五音を発すると、ヤバイ声が出そうで、ローはこくんと首を縦に振る。ドッ、ドッ、ドッ、と奥までねじこまれるキッドの指の感触が激しい衝撃になり、腹の奥まで響いてくる。痛みより、「ヤバイ場所を突かれている」という感覚の方が勝って、勝手に声が喉から漏れ出した。おさえられない、というのがどういう感覚か、正直分からなかったが、はじめてわかった。
(……これは、……っむりだ! おさえられねェ……ッ!)
 あっ、おおっ、……あんっ、……断続的に漏れ出る低い喘ぎは、苦しんでいるようにも聞こえる。けれど、ローの顔つきを見れば、気持ち良くて出している声であることが明らかだ。キッドはローがもっと「バグる」場所を探している。キッドの激しい息遣いも、ローの興奮を更に煽った。
「ンアッ、……あっ、ああ、……っぐ! あ、あ、やめ、……も、……ヤバイ、……ッから、……! やべ、……えっ、……ああっ、……ゆ、……スタス、……!」
「いきそうか」
 ベッドシーツでできた、人肌のかまくらの中で、キッドの声が悪魔の声のように、低く響いた。耳元でつぶやかれた、吐息のまじる「いきそうか」のせいで、ローの絶頂の波が限界を超えた。
「ツラ、見せろよ……」
 ぐい、と顎をつかまれるのも、たまらない。しっくりくる、というより、塗り替えられる、という感覚だった。キッドの手で、既存のセックスが全部新しいものに塗り替えられていく。いままでおれのやっていたことはなんだったのだ、と思うほど、キッドが「これがセックスだぞ」と教え込むように、強くローの体に杭をうがつのだ。
「……ッあああッ!」
 でる、でる、……やばい、……! 訴えたあと、キッドのてのひらがローの性器を刺激した。絞り出すように、ぎゅっ、ぎゅっ、と握られて、シーツの上に大粒がぱたぱたと零れ落ちた。

 一度イった体に鞭を打つために、キッドは「おれもイきてェ」と一言言うだけでよかった。
「手マンだけでイっちまうか、トラファルガー」
「……ッ、べつに、……いいだろうが、……」
「あァ。イキやすいのは悪いことじゃねェ」
 ハ、とキッドは鼻を鳴らし、勃起した自前のモノをローの入口にひたひたと当てて、「こいつがいまから中に入りますよ」と知らしめる。いたい、とわめいて場をしらけさせないだろうか? 相当痛いだろうと覚悟はできているが、……。ローが考えていることも知らずにか、キッドはゆっくり、先端をうめこんだ。
 ぬぷ……。と粘膜がまじる。息をのむほど先が大きい。膨らんでいて、血管が浮いた太いモノの先だけでこの質量だ。
「ンッ!」
 歯をつよく噛んでも声が出る。痛ェか? キッドはもう一度尋ねた。ヴァージンの反応だと察知されても困るので、ぜんぜん、と薄目を開けて、挑発した。
「……ハ」
 キッドの微笑みのあとはろくなことがない。じゃァ、遠慮なくいくぜ、とキッドは断ってから、ローの両手を掴み、そのまま体を一気に自分の方へ引き寄せた。
 ずどんっ、と体を貫かれたような衝撃だ。一気に奥へ入ってきた熱い肉の棒で、ローは目から星が飛んだ。ああああっ、と悲鳴をもらし、キッドにしがみつく。痛いとか痛くないとかじゃない。重い! 熱い! それが先だ。
「……わりい、いてえな、トラファルガー」
 ぎゅ、とローの体を抱きしめ、キッドは落ち着かせるように、ローの首筋にやわらかくキスをしはじめる。なじませるためにじっと動かず、ちゅっ、ちゅ、とキスを連打したあと、ローの呼吸がおちつきはじめると、ようやく体を持ち上げ、ずる、と半ばまで性器を引き抜いた。
「……んあ……?」
 完全に自分の声とは思えないような、ヤバイ声が出た。抜けるのを惜しいと思っているような、なまめかしい声だ。キッドはそれを察知して、「抜かねェよ……」と髪を撫でてくる。いつものてめェからは想像もできねェツラだ、とキッドは夢見るようにそう繰り返した。
 ずっ、……ずちゅっ、と、ゆったりしたスラストがはじまると、徐々に声がまた押し上げられる。うそだろ、うそだろ、という考えばかりが頭をめぐった。こんなに気持ちがいいとはきいてない。痛くて圧迫されて死ぬ、二度とやりたくねェとすら思うと思っていたのに。キッドのモノはでかいし熱いし、そりゃあ挿入時は痛かったが、じっくりと形を整えて、やわらかい土をやさしく手で掘りすすめていくようなやり方で、ローは徐々にどうしようもない気持ちよさを体に与えられ始めていた。
(……やっぱり、……おれは、コッチ側の人間らしい……)
 ずっ、ずっ、とモノが出入りする感触と、奥を探るキッドのやり方で、ずっと声が出っ放しだ。キッドがどんな顔をしてこっちを見ているかすら、気に出来なくなった。
「……あっ、は……!」
 ずる、とモノが抜けかけて、慌てて手を伸ばした。
「……どうした?」
 体勢を変えようとしたキッドの腕をつかんで、制止する。まだあと少しはこのままでいたい……。
「……ぬ、ぬくな、……ユースタス屋、……ッ」
 まだ、……。訴えは聞き入れられた。キッドのくちびるが、クイと上機嫌に上がる、その顔が好きだった。

 ローの腰を両手でつかみ、激しく最後のスパートに入る。ローはもうクソビッチのマネだのなんだの、していられなくなった。キッドの汗ばんだ皮膚の感触をたしかめ、奥に直撃する性器と、押し上げられる獣のような咆哮を噛み殺すことに集中しよう。そうじゃねェと、……。
「んあっ、ああっ、あ、あ、あ、や、やべえ、……ッ、から、……ユースタス、屋……ッ、ああっ、んあ、は、は……ッ!」
「アー、……くそっ、……まじで、加減、できねェぞ……!」
 ひと突きごとに両目から星がさく裂する。ごりっ、ごりっ、と「ヤバイ場所」を押し上げられ、ぐりぐり削られている感覚は、今まで味わったことのないものだ。おれはおかしくないだろうか? ゲイらしく振舞えているだろうか? ……などと、考える余裕も失せた。ただただ、キッドに振り落とされないように、しがみついて、強制的に引き上げられる絶頂へのメーターが爆発しないように、耐えるだけだ。
「……ットラファルガー、……!」
 ユースタス・キャプテン・キッドのイキ顔はなまめかしい。眉根をよせて、はらりと落ちた赤い前髪が、へにゃりとこっちに向かって垂れている。ローの頭の両脇に、柱のごとくそびえたった彼の両方の太い腕に、ぴしぴし走った筋肉の筋が、てめェの中にぶちまけんぞ、と脅すようにひくついている。
「……ツラ、見せろ、つっただろ……」
 ぐい、と顎とつかまれ、赤いのと眼があった。間違いない、いま、これが漫画なら、おれの目のハイライトはハート型になったことだろう……。
「……んあっ、……ッき、そう、……いく、ユースタス屋、……!」

 BEBE REXHAの「No Broken Hearts」は近頃のキッドのお気に入りのクラブチューンだった。ハァ、ハァ、とまだ呼吸を整えて、汗ばんだ体をベッドに横たえているローをよそに、キッドは機嫌がよさそうで、iTunesから再生しているメロディを口ずさんでいる。
「No broken hearts in the club(クラブで傷ついても)
More drinks, pour it up(もっと飲んで、あふれるくらい)」
 そんなナリして、歌もうまい。楽器もできるし作詞もできる、クラブで踊りながら、この男が口ずさむポップスも、さぞこころを揺さぶるのだろう。
「’Cause we gon’ get it poppin’ tonight(今夜はブチかましてやるから)
We only got one life(人生は一度きり)」
むくり、起き上がって、茶でも飲もうと手を伸ばしたローは、キッドとこのままどうなるのだろう、と不意に不安になった。ローは、この一夜を終えて、おそらく決着のつかないまま何事もなく友人に戻ることはできないだろう。決別か、それともキッドと手に入れるか、二者択一しか道はない。けれど、そのためには始まりが悪かった。自分はこういうことには慣れていて、一夜だけの利害の一致なんて、これまで山ほどやらかしてきたと自分の口から吐いてしまったのだ。
キッドを見つめると、上機嫌に歌っていたキッドも、ローの視線に気が付いた。
「なんだよ」
 へ、と笑う。何か言いてェことがあんのか。そういう顔だ。この男は、自分が初めて男と夜を迎え、そして、しかも「これだ」という手ごたえがあって、あわよくば、お前といい仲になれればなあ、などと考えていることを、ぜんぜん、知らないのだ。
「……ユースタス屋」
「……あ? どうした」
「……おれは」
 No broken hearts……、とメロディが繰り返される。キッドのくちびるがまだリフレインの余韻をなぞっている。
「……おれが言ったのは、……おおよそ、だいたいは、……嘘だ。ユースタス屋」
「……は?」
 キッドは眉を顰め、ローに向き直った。
「一から説明しろよ。何が言いてェんだ」
「……全部だ。お前に言ったこと、ほとんど全部……。ラボではゲイで有名だとか、男とヤリ狂ってるとか、はずみで寝た奴が何人も……だとか。だからお前とヤるのも大した問題じゃない、とか……」
「…………」
 キッドは、上機嫌だった表情を曇らせて、居酒屋で見せたのと同じ、厳しい目つきをしてみせる。がりがりと頭の後ろをかいて、何が言いてェ、と脅すようにつぶやいた。
「……」
「黙ってねェで、言えよ。トラファルガー」
「…………」
「てめェ」
 ブチ、とキッドの額に青筋が走る。相手を怒らせるつもりはない。今、必死で、言うべきことを考えているのだ。けれど、ローの結論を待つ気はなさそうだ。言葉で飾るのをやめて、思った通りに正直に吐き出すしか、キッドの怒りを抑えられる手段はない。
「……トラファルガー! 何とか、言……ッ」
「おれは処女なんだ」
「は?」
 
 毒気を抜かれたキッドが、ぎょっとした顔で硬直し、ローの言った言葉の意味を反芻している。その隙に、ローは一気にたたみかけた。
「おれは処女で、慣れてるなんざ、真っ赤な嘘だ。てめェがはじめての、……男とセックスした相手だ。好きだというつもりもなかったが、てめェが、……チョコレートの話を、……似合わねェツラで、しやがって、……あまつさえ、照れやがるモンだから、気持ちが先走って、つい、言った。もっと別の言い方で誤魔化せばよかったんだが、おれもいっぱいいっぱいだった。だから、……口から出まかせを。……お前がノるとも思ってなかったしな……。だが、正直なところ、こんな形でお前とヤらねェ方がよかったんじゃねェかと、……反省して、……一応、真実を伝えておいてやったほうがいいだろうと思った。あと、……できれば、これっきり、おれとはもうかかわらねェか、それとも、……密接にかかわるか、どちらかを選んでくれねェか、ユースタス屋」
 ぽかん、と口をあけて、しばらく固まっていたキッドは、徐々にふるふる肩を震わせて、くちびるを緩ませた。
「……うそだろ、オイ……」
 言いながら、キッドの顔は、明らかに「爆笑」の形へかわってゆき、間髪入れず、声にも出して「爆笑」した。
「てめェ! 何がおかしい! おれは真剣に……!」
「ハハハハッ、アーッ、くそ、ハッ、……アーヤベェ、……っぐ、ゴホッ、オエッ、」
「むせるな」
「処女! 処女だと……、てめェで自分からそれを言うのかよ、……トラファルガー! ……ヤってりゃなんとなく分かるし、そもそも、部屋に入ったときからテメェはずっと目が泳いでンだよ、バレバレに決まってンだろうが……、真剣なツラして、まさかおれとヤりてェ云々も嘘かよ、とかビビったおれが馬鹿だったぜ」
「ユースタス屋!」
「アー、腹いてェ、……まァ、おれが好きンなったのは、てめェのそういう意味のわからねェところだけどな」
「だから……! ……は? 好き?」
「んあ。おれァてめェに仏頂面でチョコもらったときから、てめェに惚れてる。じゃなきゃ、こんな意味のわからねェ唐突な告白で、尻軽クソビッチだったのかよクソムカつくぜ、だが据え膳は食っとくか、っつーテンションでてめェとヤるわけねェだろ」
「……は?」
 理解するために、トラファルガー・ローは夜明けまでの時間を要した。

 
 5.

 バレンタインが近づいている。キッドは例によってチョコレートをねだる姿勢をやめないが、去年、ローと出会ったころと違ってユースタス・キッドはフリーではない。トラファルガー・ローという決まった相手がいるのだが、それとこれとは話が別、という様子で、キッドはチョコねだりをやめなかった。
 ローとキッドがどうこうなった、ということを知っているのは彼ら二人の友人のうちでも少数のみなので、女子たちはもちろん知らずに今年もキッドへのチョコを用意している。キッドは相変わらず、昔食った忘れられない味のチョコを探している。ローは、正直なところ、やはりバレンタインというものが忌々しくて我慢ならなかった。
「ということでだ。おれがてめェの、その、忘れられないチョコとやらを探してやる。覚えている限りのチョコレートの特徴をおれに言え。ユースタス屋」
「あ? なんだそりゃ。めんどくせェな」
 たまたま、また偶然巡り合う、っつーのがいいんだろうが。探しちまったら意味ねェよ、そうばかばかしい持論をほざくキッドに、端的に不愉快であることを伝えたところ、キッドはなぜか少し機嫌をよくした。ローがやきもちを妬いているらしい、と判断したようである。
「アー、……板チョコだった」
「あァ。それで」
「……ちょっと苦めだったか。かすかに甘い、ぐれェの……」
「……それで」
「……ンアー、……箱入りの板チョコだった」
「……ほかには」
「……もう覚えてねェよ」
「馬鹿かてめェは? それだけの情報で分かるはずがねェだろうが! 食ったら分かると思ってンのか?」
「いや、食ったら分かる。これはマジだ」
 一度食ったものの味は忘れねェし、うまかったもんは確実に当てられる。自信満々に言い放ったキッドに、彼の相棒である男、キラーも助け船を出す。確かにキッドは、「うまかったもの」に対する味覚は恐ろしく鋭いのだと。
「……まァいい。てめェが高校二年のときに開催していたチョコレートエキシビジョンで、てめェの通ってた高校の女が買いに行ける範囲の百貨店を絞る。そこで取り扱われてる板チョコをさらに絞り、カカオ以外のフレーバーチョコレートも全部除外する」
「……マジだな、トラファルガー」
「おれのが当たってたら、今年は誰からももらうな。全部ドブに捨てろ」
「…………」
 ローさん、本気っすよ。成分から調べ尽くすと思います。シャチとペンギンが「ご愁傷様」という顔でキッドを一瞥し、ローはすでにiPadを使ってチョコレートエキシビジョン出展のショコラティエの選別を行っていた。

 板チョコレート、エキシビジョン出展、フレーバーのついていないもの。過去五年間のデータを絞り込んだ結果、マックスブレナー、ピエールマルコリーニ、ガレー、カカオサンパカ、ラ・メゾン・デュ・ショコラ、Bean to barが候補に挙がった。その中から、カカオ以外の味のついているものを除外していく。そして箱の形状でラッピングができるものを更に厳選する。すると、板チョコレートを単品で箱にいれることができるのは、カカオサンパカもしくはピエールマルコリーニのみに絞り込まれた。
「あとは味だ」
「かすかに甘くてちょっと苦め、でしたっけ」
「ダークチョコレート全般その味じゃね?」
 横槍を入れるペンギンとシャチを無視して、ローは勇み、ラボを足早に抜け出した。向かう先は決まっている。ペンギンとシャチ以外のラボ仲間たちは、いつも人より遅くまでラボに残る男が、颯爽と帰っていく姿にどよめきを隠せない。
 チョコレートエキシビジョン2017。我ながらものすごい執念だ。ユースタス・キッドと出会うことがなければ一生来なかった場所だろう。男一人で来ているとさすがに浮くが、ローはなりふり構っていられなかった。
 まずはピエールマルコリーニ。板チョコレート、というには形状がひっかかる。正方形の板チョコなのだ。他は定番の「板チョコ」らしい形をしていたから、これだけ他と見た目が違う。はたして、キッドがこの特徴を覚えていないことがあるだろうか? 板チョコの形状がそもそもたくさん種類があるならまだしも、板チョコというには珍しい形をしているこの特徴を、キッドが忘れるようには思えない……。
 じいっと、食い入るようにガラスのショーケースの中を見て、選別している男の姿はさぞ奇妙にうつっただろう。ご試食されますか? と差し出されたチョコのかけらを、三種類分念のため試食したが、ひとつはミルクすぎ、ひとつは甘すぎ、ひとつはダークすぎた。キッドのあの言い回しでこの味は違うように思う。ローは思慮深げに顎に手を当て、しばらく考えたあと、
「ピエールマルコリーニは違う」
 と結論を下した。
 自分のここまでの読みが正しければ、カカオサンパカの板チョコレートが正解のはずだ。だが、せっかくこの会場まで足を運んだのだから、他の選択肢が間違いであることも確かめておきたい。すでに三かけらのチョコレートで胸やけしかかっているのに、ローは重い足を無理やり向け、まず手近のマックスブレナーへ向かった。
 マックスブレナーの板チョコは、ナッツ&キャラメル、もしくはソルト&キャラメルのフレイバーだ。一口食べてどちらも違うと分かった。
 ガレーの板チョコは、ひとつはキャラメルの風味があってすぐに除外できたが、もうひとつが難しい。ほろ苦さのあるダークチョコレートで、たしかに近いような気もしたが、調べたところガレーは例のエキシビジョンでは当時初日の数時間で板チョコレートがすべて完売しており、平日、学校の授業が普通にある時間帯だったため、学校をサボりでもしていない限り買いにはこれないはず、と期待値薄めで除外した。
 ラ・メゾン・デュ・ショコラには参った。カカオの数値が違うだけのダークチョコレートタブレットが全部で六種類。ひとつずつ試食して、吐き出しそうな甘さにもだえつつ、ひとつはカカオ百パーセントの砂でも食べているような苦さに除外した。ミルクは甘すぎる。除外。カカオ六十パーセントも、キッドが「かすかに苦い」と表現するには甘すぎる。となると、カカオ六十八パーセントのタブレット・アコソンボが候補に残るが、これはキッドがチョコを貰った時期には開発されていなかった種類のチョコレートのため、除外した。
 Bean to barの板チョコもフレイバーが多いが、数種類試食した途中で、特徴的な密封パッケージに入っているチョコレートの風体と、キッドの「箱入り」という証言が矛盾していることに気が付き、除外した。六種類分も試食したあとだったので、己のバカさに歯噛みした。
 やはり間違っていなかった。キッドが食べたのはカカオサンパカで間違いがない。店の前に意気揚々と立ったローが、しかしすぐに顔を絶望の表情に変えたのは、カカオサンパカのチョコレートの種類の多さである。ずらりとワゴンに並んだ、数パーセント違いのチョコレートフレイバーの多さと、すべて板チョコレートで統一されたショーケースに、いっそ拳で叩き割ってやりたくなるほどの怒りを覚えたのは言うまでもない。
 ネグロ(ダーク)、レチェ(ミルク)、ブランコ(ホワイト)、シンアスーカル(シュガーレス)の四種類の展開があり、ネグロだけで九種類。馬鹿じゃねーの? と思いながら、ミルクチョコレートとホワイトチョコレートのラインはまず除外して、ネグロと呼ばれるダークチョコレートのラインを選別しはじめた。モラ、フランブエサ、カフェアラビカはそれぞれベリーやコーヒー豆のフレイバーチョコだ。これは除外。エクアドル百パーセントも、カカオ百パーセントで甘みがない。除外。しかし残りが問題だ。エクアドル七十一パーセント、グレナダ七十一パーセント、マダガスカル七十一パーセント、パプアニューギニア七十一パーセント、ベネズエラ七十一パーセント。
 ……馬鹿じゃねーの?

(いかん。一瞬気が遠くなった。……やるしかねェ。ユースタス屋の気持ちになって考えろ。あいつの脳みそが、「ちょっと苦めでかすかに甘い」と思うような味だ……)
 ひとつぶ、ひとつぶ、店員に差し出されるまま試食する。店員もまさか、目の前の男が、好きな男がかつて食ったという「すげェうまかった」板チョコを探すためにここへきているとは思うまい。ベネズエラは……カカオが強すぎる。気がする。グレナダは香辛料のせいか、複雑な味がして、ユースタス屋の舌に合いそうにない。パプアニューギニアも独特な味で、最も可能性が高いのは、マダガスカルとエクアドルのどちらかだ。どちらもカカオの味が強いが、どことなく甘い、フルーティな味がする。恥を忍んで、その二つだけもう一度試食させてもらい、じっくり時間をかけて悩んだ果てに、……
「エクアドル七十一パーセントをくれ」
 ローは決断した。あのとき、顔を上げたローを見ている、女性店員の顔を、ローは死ぬまで忘れないだろう。

「で、買ってきたのがこれか」
「あァ」
「すげェな。まじで買ってきやがった」
 ヒュウ、と短く口笛を吹き、キッドは差しだされたカカオサンパカの、ネグロ・エクアドル七十一パーセントを前に、のんきに「コーヒーでも淹れっか」と立ち上がる。あと数秒でバレンタインになるという夜だ。ローは前日にして、もうチョコレートで胸やけしている。
「パッケージはどうだ? 見覚えは?」
「いちいちパッケージなんざ見て食わねェからなァ」
「脳筋カスゴリラ」
「あ?」
「さっさと食え」
 キッドは、ローが苦労して探し出してきた板チョコレートを豪快に二つに割り、一つをローの前に置いた皿に乗せた。もうチョコはうんざりだからいらないというのに、キッドは気にせず取り分ける。
「じゃァ食うぞ」
「あァ」
 ……意地でやっていただけのはずだが、ここまでやるとさすがに緊張する。祈るような気持ちで、しかし素知らぬ顔でコーヒーをすすり、ローは、答えが出るのを待った。これで、やっぱり覚えていないとか、分からないとか言われたら、こいつのことをぶち殺してやろう、とローはキッドの処刑方法を考えながら気を紛らわせた。
「……んお」
 もぐ、と噛みしめて、キッドは二度、三度と噛んでから、ごくんと飲み干した。まだ一かけ食っただけだが、キッドはローの肩を掴んだ。勢いよく掴まれすぎて、コーヒーがあやうく喉につまるところだった。
「……てめェ、……マジで、すげェな」
 ……どうやら正解だったようである。

 我ながら自分の執念と分析力、特定能力に稀有なものを感じつつ、すげェな、やべェ、と連発するキッドに、まァこのくらい頭が回れば、とかなんとか、かわいくないことを言う。しかしキッドの方がもっと上手だ。なにしろ、ローのような男を、一年もそばで転がしながら、見つめてきた男なのだから。
「……おれのこと好きすぎかよ、てめェは」
 ローがどんなことばでカッと赤くなり、どんなことばで怒りはじめ、どんなことばで自分の方に向くのか、キッドはよくよく分かっているのだ。

 むっ、と息が止まった。くちびるにやわっこい感触があって、ぬろりと舌が入ってくる。キッドの胸倉をつかんでいた手を緩めかけたが、今度はキッドの手がローの肩を抱いた。
「……ハ、口ン中、死ぬほど甘ェ」
 カカオの風味とフルーティな甘み。ぴりりとするかすかな苦みが余韻を残す、この味はエクアドル七十一パーセントだ。

了(『71%の忘れられない味をさがして』)