最後にはひとつぶの小石

 波のひとつもない日だった。
 暑い日で、あらかじめファー地のコートは脱ぎ、身軽な格好で小舟に乗った。正直なところ、武器もない、コートもない、ほとんど丸裸の状態で海原のど真ん中に放り出されるのはいい気がしなかったが、もう相手の腹の底を探りあう時期は越えていた。長い付き合いになる。表面上はお互い警戒していても、内心では疑う気持ちももうほとんど持っていない。

 舟がひっくり返れば、長い海賊人生もここで終わりだ。あっけなく海へ沈んで二度と浮き上がってはこないだろう。そんなことは百も承知だし、相棒のキラーにあれこれどやされなくても理解していたが、キッドにはこの密会を拒否する選択肢などはなから頭には存在しなかった。言うまでもなくキラーは最後までこの密会に乗り気でなかった。
 いつ舟が沈められても助けに迎えるように、近くに停泊させろと詰め寄られたが、二人きりであおうと言っているのだ、無粋なことをするなと言って、頑としてゆずらなかった。こういうときどんなに揺すぶってもキッドが自分の主張を曲げないことは、キラーが一番よく知っている。
「くれぐれも気をつけろよ、キッド。軽率なことはするな。海楼石の手錠をつけて海軍本部に乗り込むようなものなんだ」
「あァ、分かった分かった」
 大きな体には不釣合いな、買い出し用の小舟に乗って、ユースタス・キャプテン・キッドは片腕でオールを操りながら、ぐんぐんと海の向こうへ漕ぎ出してしまっていた。
 
 よい天気だ。雲ひとつもない。言われたとおり、舟の上には小石をひとつ乗せておいた。指定された場所は次の島から南へ数キロほど離れた海の上で、相手から指針を託されている。この海域には、水位の上昇したせいで海に沈んだ島があり、その場所へのエターナルポースも存在している。渡されたのは沈んだ島を指すエターナルポースだった。
 引きずりこまれてしまいそうな海の藍色を眺めて、この下にドでかい島が沈んでいると考えると、ゾク、と耐えがたい興奮に見舞われる。とてつもなく巨大なものへの純粋な憧れがくすぐられるのだ。キッドはじりじりと焼け付くような厳しい太陽の視線に晒されながら、しばらく行くとオールを放り出し、漕ぐのをやめてしまった。約束の時間まであとわずかだ。あの男は時間に遅れることがめったにないから、もう間もなく来るだろう。こんな海のど真ん中にたった一人で捨てられたのは、航海に出てすぐのころ以来だった。
 船の上に投げ置いていた石ころが、がくん、と板張りの上を転がった。そろそろ来るか、と身構えたとき、ブゥン、と懐かしい羽音のような音色が聞こえて、耳元を鋭く風が切っていった。
 ぐら、と大きく舟がかしいで、小石の変わりに大分重量のあるものがキッドにのしかかってきた。このくそ暑いのにコートを着ている。バランスを崩したのか、「う、お」とつぶやいて、どさりとキッドの胸の上に倒れこんできた。
「トラファルガー」
 激しく傾いだ小舟の上でバランスを取り、舟の中にはわずかばかり海水が跳ね飛んできた。キッドの上に突然現れた男は、舟が揺れないように、しばらくの間もがくのをやめて、おとなしくキッドの上でじっとしていた。
 小石と入れ替わりに、舟の上に現れたのは、トラファルガー・ローだった。帽子のつばをぐいと上げてやると、バランスを崩して倒れこんだことを恥じているのか、視線をそらして、ツンとしている顔が見える。わざわざこんなややこしい方法で、リスクを承知で密会せねばならない相手だが、キッドは、この男に会えばすぐ、そうしたごたごたをすっ飛ばして上機嫌になるのだった。
 初めて出会ったころはこんな風には行かなかった。何年もこういう関係を続けて、初めて踏み込んだ境地だ。どうせ短い間しか会えないのだから、意地も恥も外聞も、かなぐり捨てて好きなようにすればいい。
「悪ィ、こんなに狭いと思わなかった」
「そりゃ嫌味かよ」
「すぐどく」
 ぐ、と体を離しかかったローの手を引いて、腕の中に引き寄せると、キッドは暑苦しいコートに辟易しながらも、まずはその、なつかしいにおいを楽しんだ。海風にもまれながら、独特の薬くささを持っているローのにおい。片腕で腰もとを引き寄せ、すん、と鼻筋を頬に添えると、「嗅ぐな、犬かてめェは」と押しのけられた。確かに狭い。大きな男が二人で乗るだけでいっぱいになる舟だ。緊急時もしくは買出し用に設置していた小舟だったが、これは新装してやる必要があるかもしれない、と思わざるを得なかった。
「暑ィ。よくこんなモン着てられんな」
「くっつくからだ。脱ぐから、離せ」
 フン、と鼻を鳴らして、高慢そうに振舞うが、この男がこんな風になったのは、ここ最近のことである。二年前、出会ってすぐのときは、むしろローの方が飄々としていて、つかみ所のない、やりにくいヤツだった。いまとなっては、段々とローの表情は鋭く、剣呑としてきて、二十四から二十六への歳月が、彼にとって十年以上のものだったかのような、凝縮した老成をその表情から読み取れるようになった。それは、ローがまっすぐに見据えている、彼にしか見えない障壁をその目がとらえているからでもあり、それから、もうひとつ。
 互いが互いの前で「素」の状態でいるようになってからだった。
 研磨されたローの復讐がむき出しになるのは、おそらく宿敵の前と、キッドの前だけだ。
「お前にはもう隠すことはねェ」
 ローはそう言った。かつて、何度目かの小競り合いと、強引な愛のぶつかり合いのとき、ローは観念したようにそう言った。キッドがローの前で自分をむき出しにし、ローがキッドの前で隠し事をしなくなったのは、もう彼らにとっては昔の出来事になっていた。

「しかし暑ィな。遮るモンが何もねェ」
「漕げ、ユースタス屋。もう少し南へ行くといい場所がある」
「てめェが漕げよ、てめェにゃ両手があんだろうが」
「うるせェな。おれは体力を消費すると能力が使えなくなるんだ。帰れなくなったらどうする」
「そんなことで体力がなくなるタマかよ」
 言いながら、しかし頑としてローがオールを持たないので、渋々、キッドは片腕で器用にオールを繰り、海原をスィと進んで行った。海底のところどころに、まだ青いものが見える。それが何か、じっくり見つめているとわかった。木だ。生い茂った、うっそうとした木々。
「あれは、山だ。ユースタス屋。山の頂だ。海に沈む前、ここには山があり、森があった。だから、ほら、見ろ」
 海の向こうへ目を凝らすと、ある一帯に、木が生い茂っているのが見えた。海のど真ん中に木だ。徐々にくねり、海面に向かって斜面が生まれ、ある一点だけに木が生えていた。傘のように、葉に覆われ、そこにだけぽつんと葉影が落ちている。不思議な光景だった。真っ青な海の上に、たった一本の大木。
「あの中へ入れば多少はマシなはずだ。外からも見えない。このあたりにはもう船は大して通らないし、通っても、かつての島の名残を見て通り過ぎるだけだ」
「あそこまで漕げってェのかよ」
 結構あるぞ、と目を細めながら、それでもキッドは船を漕いだ。問答している時間ももったいない。会える時間は限られている。こんな波ひとつない静かな大海原でも、長くとどまって安全な場所ではないのだ。
 ミシ、ミシ、とオールが軋んで音を立てている。片腕ではどうにもバランスがとりにくい。だんだん右に寄って行き、舟は一回転して、それからまた元に戻った。なかなか思うように進まない舟にイライラして、キッドの顔がだんだん険しくなってくるのも面白いらしく、ローは声を立てて笑いながら、そのくせ全然手伝うそぶりは見せなかった。
「てめェ、片方だけでも漕ぎやがれ!」
「ほら、ユースタス屋、また右に寄ってる。このままだとあそこに着くのに日が暮れるぞ」
「うるせェな……!」
 額に青筋立てて、汗の玉を浮かせながら、じりじりと照る日の光に焼かれて、キッドは息を乱れさせていた。ローはコートを脱いだあとは涼しい顔をしていて、この熱いのに汗ひとつかいていなかった。
「代謝が悪ィんだ」
 おそらく汗のひとつぶもないことを聞いても、この男はそう言って笑うだけなのだろう。
 なんとか、片腕だけで舟をあやつり、垂れ下がるシダの葉にからみとられながら、海の真ん中に出来た大木の傘の下に入り、ヴェールのように垂れ下がった枝葉の籠の中に潜り込んだ。中はしんと静かで、空気が澄み切り、むせかえるような青草のかおりが充満している。そしてなにより、太陽から遮られ、冷たい水温がいっぱいになったかのように、冷えていた。やっとたどり着いた楽園の中で、キッドはオールを放り出し、腕を舟のへりに乗せ、フゥ、と長い息を吐いた。
「ご苦労」
「……てめェ」
 アー、くそ、とどっと汗ばんだ体をぐったりとのけぞらせて、キッドが舟に大きなからだを寝そべらせると、ローはキッドの足の間に自分の体をねじ込んだ。たまつぶの汗が額に浮いている。ローの影がさっと自分の上に覆いかぶさるまで、キッドは舟の上でくたびれた体を冷やすのに頭がいっぱいだった。
「あ?」
「じっとしてろ……」
 抜ける吐息が吹きかかった。ローはたまにこの声を出す。めったにないが、欲望が抑えられなくなったとき、キッドをすらも金縛りするような、愁いを帯びた吐息を放つのだ。いま、そのときだった。ミシ、と、今度は舟の底が軋んだ。確かに舟にガタがきている。買い出し船には滅多に乗らないので、こんなにポンコツだとは初めて知った。
 ローの舌先がチョットためらうように、そして焦らすように、キッドの肌を味わった。たまつぶの汗を舌でぺろりとひっかけていく。汗なんて舐められていい気分になるはずがない。汚ェからやめろ、と押しのけようとしても、ローは体をすりつけて、キッドのじっとり湿った額から側頭部、こめかみへ舌を這わせて、じゅる、と唾液の音すら立てた。
「今ならなんでもやれそうだ。てめェの体から出た不純物だと思うと興奮する」
「てめェな……。まどろっこしいことしてんじゃねェよ」
 ぐ、と腕で汗のつぶをぬぐい、別のとこからも不純物は出るだろうが、と冗談めかした。バカの言いそうなことだ、と一蹴されて、そのくせ、ローは狭い舟の上で体を猫のようにしならせ、キッドのまたぐらに顔を近づけた。
「口か手か?」
「どっちも却下だ」
 楽しそうに尋ねてくる年上の男を、体を起こして腕の中に引きずり込み、キッドは我慢ならないという様子で自分の上に引き上げた。ゆら、と不安定に舟が揺れる。この舟がひっくりかえったら、ふたりとも海の底にまっさかさまにおぼれてゆき、もがくこともなく沈んだ島の住民になるだろう。けれど恐怖はなかった。
「時間は?」
「あと五時間」
「上々だ。一時間ありゃてめェを天国に連れてってやれる」
「へへ……。娼婦みてェな言いぐさだな、ユースタス屋」
 身じろぎするたびに舟は揺れ、派手に動くと舟に水が入ってきた。大きく左右に振れる舟は、二人の運動とあわせて、右に、左に、ゆりかごのように揺れていた。
 
 約束の時間がやってきた。水平線の向こうに月の光が照り返っている。波ひとつない穏やかな海に、ぽつんと一艇のボートが浮かんでいる。
「キッド!」
「よぉ。キラー。上げてくれ」
 言って、船長の一言で、小舟はガレオン船に引き上げられた。くああ、と大あくびをしながら戻ってきた船長、ユースタス・キャプテン・キッドは、乱れた髪にくたびれたけだるい表情で、手には小石を握り締めていた。
「夕食は? 準備ができてるぞ」
「悪ィが、一眠りする。何もかも吸い取られた」
 あいつはインキュバスの生まれ変わりかなんかだぜ、とキッドは言い、おかしら、ボートがずぶぬれなんですけど、と文句を言われてもどこ吹く風だった。まったく、と聞えよがしのため息を吐くキラーに背を向けて、キッドは自室へ戻り、はじめにてのひらを開いた。
 中には川底で研磨されたような、丸みのある小石があり、キッドはそれを、ベッドのそばに吊るしてある、空のラム酒のボトルの中へ落とした。中にはもう、半分ほど小石が詰まっていて、それはすべて、トラファルガー・ローがキッドに残していったものだった。
 ユースタス・キャプテン・キッドには、その吊るされた瓶の中の、たくさんの小石の山を見るのが、一日で一番幸福な時間だった。