丘の上のファウスト

昨日

 
 島の中心に立つ教会堂のもっとも高い位置に設置された大きな鐘は、毎日決まった時間に音を立てる。現在は、電動式のモーターで鐘をスウィングさせ、打鐘させるような無粋な鐘が増えているそうだが、その島の鐘は正真正銘、人の手が突く鐘の音であった。
 鐘を突くのはまだ幼い兄弟だ。けれども打鐘の仕事が染み付いているのであろう。下手な大人が打つよりよく響く、規則正しい、乱れの少ない打鐘は、島の空気を心地よく震わせ、停泊してまだ数日しか経たぬトラファルガー・ローの耳にも自然となじんだ。下手な打鐘は騒音になる。けれどこの鐘の音は、やかましくもなく、かといっておとなしすぎることもなく、理想的な鐘の音であった。

 トラファルガー・ローが新世界に向かってようやく舵を切ってから、この島はもう数十の停泊地のうちの一つに数えられる。ハートの海賊団の航海はペースを増し、「賞金のかかった海賊の心臓を百個」という目的を果たすまでは止まれぬという意気込みであった。
 目当ての海賊はすでにこの島の中にいた。賞金は一億と少し。せっかく心臓を送るのだからある程度名の知れた海賊でないと値打ちがないが、あまりに額の大きなやつを狙いすぎると戦闘に時間と兵力がかかってコストパフォーマンスが悪い。一億前後、とおおよそめぼしをつけて、ローは海賊でありながら海賊狩りをした。ときにロー一人で、ときにクルーとともに、ときにはクルーのみがその仕事を行って、ようやく目標まであと十を切ったところである。
 一億の首くらいなら、新世界にはごろごろいる。そういう首を狙って、海賊たち同士での狩り合いもあれば、賞金稼ぎや人攫い連中も虎視眈々としているわけだ。生半可な、グランドラインで幅を利かせていただけの人間はここで淘汰される。新世界は海賊たちの蟲毒のような海だ。食い合い、潰しあって、強いものだけがそこに残る。生き残るために誰かの下につくことを選ぶか、それとも蟲毒に挑んでいくかのどちらかしか道はない。ローは無論、後者であった。
 
 そもそも、新世界にゆく一番の目的は、「過去との決別」だ。ドンキホーテ・ドフラミンゴを潰し、過去から現在まで背負ってきた大きな荷物を降ろしにゆく。たとえドフラミンゴと相打ちになろうが、ローは自分が死んでもあの男を道連れにして地獄へ落ちるつもりがあった。いわば、この日のために、ここまで生きてきたと言っても過言ではない。
 そのため、まずはある程度の権限を獲得するため、ローには「地位」が必要だった。七武海にいれば、その「地位」と「権限」が手に入る上、ドフラミンゴの動向を探るにもよいだろう。そのための目的が「百の海賊の心臓集め」だった。
 そろそろ、ナマの心臓が貨物室に詰め込まれていることに対して船員たちから「キモい」と不平が上がってきたころだったので、この島以降海賊狩りのペースはいっそう上げるつもりでいた。ここで長居をしているわけにはいかない。停泊はあと三日と決めて、クルーたちはそれに合わせて船体の修繕や物資調達に駆け回っているようだった。

 狙っていた海賊のかしらの居所は割れている。今夜どの酒場で飲むかさえ分かっていた。勝ち戦ほど面白みのないものはない。ローはすでに、今夜の狩りに興ざめしきっていて、ひっそり静まり返った教会堂の鐘を見上げてのち、酒場にふらりと足を踏み入れた。
 島でも有数の規模をほこる、肉感的な女給仕の多い酒場である。バカが選びそうな店だ、とローは瞬間、眉をひそめ、しかし平然と店に入った。ローはひっそりと目立たぬカウンターの角に座り、オリーブの漬物を食っていると、しばらくローの顔をじっと見つめていた酒場の店主が、
「なァ、あんた、ローだね」
 と聞いてきた。
 店主はまだ三十の坂を越えたばかりだろうという男で、ぴったりとポマードで髪をオールバックにし、見た目だけで言えば娼館の客引きのような風体であった。
「あァ」
 隠す必要もないので、そうだと頷くと、店主は興奮気味に声をひそめた。ローが一人でここへ来ていることを、人目を忍び足を運んでいるものと理解して、そうするのだろう。それが自然とできるのは、これまでに多く海賊の相手をしてきた者に限られた。
「すごい偶然だ。実は、あんたの話をまさにこの席で、やったんだよ。昨日のことだが、あんたも知ってるだろう、ユースタス・キャプテン・キッドの一味が……」
 そこまで聞いて、黒ビールが喉に詰まった。ッぐ、とむせこんだローに、おい大丈夫か、と店主が気を利かせる。ローは出された水を飲み干して、「なんでもねェ。それで?」と先を促した。
 店主の話はこうである。
 ユースタス・キッドの一味が昨日の深夜に店にやってきた。ものものしく客たちを追い出し、人払いをし、店主にドンと金を渡した男(仮面がどうのと言っていたのでおそらくキラーだろう)が、がらんとした酒場にまずユースタス・キッドを引き入れた。キッドの様子に、店主がハッと息を呑んだのは、キッドがコートを脱いだ際に、キッドの片腕が、肘下から綺麗になくなっているのが見えたからである。つい先日まで新聞記事に書きたてられていたキッドには、たしかに両腕がついていた。失ったのは最近だろう。まだ痛むのか、コートがこすれると顔をしかめる。どさりと、カウンターの後ろに設置されたソファ席を陣取って、酒、とけだるそうに言った。
 店内はキッド海賊団の大所帯に占領され、さすがは「最悪の世代」の貫禄か、笑い声や騒ぎ声、上機嫌で冗談を飛ばす男たちの声に満たされても、どこか張り詰めた空気が流れていて、何かあればすぐにピストルを抜ける、そういう雰囲気だ。あらゆる従業員たちを借り出して、何一つ粗相のないようにと背筋を正していた店主に、仮面の男はやおら、カウンター席に座り、尋ねたのである。
「トラファルガー・ローを見なかったか」と。
 トラファルガー・ローが数日前から停泊していることは店主も知っていた。けれど、ローは一度もこの店に来ていない。そういうことを、できる限り丁寧に説明した店主に、相手はかすかにため息を吐き、そうか、ならいい、騒がしくて申し訳ない、ということを言った。男はかたくなに、どんな酒でもストローを使って仮面の穴を通して飲んでいた。

「もし見かけたら、ここにキャプテン・キッドがいると伝えてくれと言われたんだ。その男に」
 差し出された紙には「ゲーテ」と書いてあり、簡素な地図がメモしてあった。宿屋だろう。波止場の近くにある、ひっそりとした場所のようだった。
 この店主は金でも握らされているのか、成功報酬でも約束されているのだろう。えらく熱心に、ここへ行って、この紙を仮面の男に渡してくれとうるさかった。
「おれを呼んだのは、キャプテン・キッド本人じゃなく、仮面の男なんだろう?」
「え? あァ。そうだな。キャプテン・キッドはずっとあの席、……あんたの後ろのソファ席にいたからね。一言もしゃべらなかった。たまに笑ったが、始終顔をしかめてたな。不機嫌なんだろうと思ってたが、ありゃ、腕がまだ痛むのかもしれねェな。」
 あんた、海賊同士だろう。いざこざか? と問われたが、ローは微笑だけ浮かべて黙殺した。あらかた、事情は分かった。ローがここにいるということを事前に聞いて、仮面の男……、つまりキラーは、意地を張らずにローに診てもらえとそのつもりなのだろう。キッドが腕を失ったというのは初めて聞いた。この海に生きていればまあそういうこともあるだろう。ただ、キッド抜きで話をしているあたり、キッド自身はローを呼ぶことに抵抗を感じているに違いない。
 キッド海賊団の船医の腕が悪いわけではなかったはずだが、ローになんとか話をつけたいと思うくらいの状況なのだろう。「ゲーテ」。場所はここからさほど遠くなさそうだ。ローは紙をポケットにねじ込んで立ち上がり、カウンターにお代を置いて、立ち上がった。行くのか、と店主が問うので、あァ、からかいに。と笑った。店主から見ても上機嫌そうな様子であった。

 ローは一億の首を待っていたこともすっかり忘れて、宿屋「ゲーテ」に向かって歩いた。「ゲーテ」はひどく小ぢんまりしたぱっとしない宿屋で、おそらくお忍びで、キッドはここに一時隠れているのだろう。それほど悪いのか? ローはいぶかしみながら、宿屋の扉を開けた。
 宿を守っているのは一人のばあさんだった。泊まりかね。と尋ねられて、いいや違う、人に会いに来た、と答えると、見るからに不機嫌になり、それぎり一言も口を開かなくなった。余計な問答を避けられたローにとっては願ってもいないことである。ローはばあさんの背後にかかった客室の鍵をざっと見て、埋まっているいくつかの部屋の前まで尋ね歩いた。一つは静か過ぎ、一つはうるさすぎた。もう一つは中から女の喘ぎ声がしたので、さすがに腕の痛みで逼迫しているキッドが女を抱く余裕はないだろうと判断して、最後に残った一室をノックした。
「誰だ」
 どんぴしゃだ。中から聞こえた声は、聞きなれたキャプテン・キッドの相棒、キラーの声である。己の頭の良さに我ながらくらりとしつつ、ローはにやついた笑みをおさえきれない。ことキッド相手になると、どうしてもにやつきが止まってくれないのだ。
「トラファルガー・ロー」
 言ったとたん、扉が開けられるのと、「どうやってかぎつけやがった!」と熱狂的な怒鳴り声が浴びせられた。キラーが呆れ顔で(といって表情は分からないが)「おれが呼んだんだ。大人しく頼れ、お前の馴染みだろ、キッド」とため息をつく。自分の信用の置ける相棒が自らローを呼んだことに、キッドはきょとんとしたのち、部屋に入ってきて、まっすぐキッドの座っているベッドの前に歩いてきたローに苦々しい顔をした。
 片腕は肘から下のない状態で、断面の傷跡も生々しく、投げ出された状態だった。見たところ止血と雑な縫合の痕のほかまともな治療の痕跡がない。てめェ、と噛みつかんばかりのキッドを無視して、ローはつかつかと歩み寄り、傷口にじろりと一瞥をやった。
「焼灼止血をやったのか。原始人か、てめェは。船医がこんなこと許すわけねェだろう」
 黙って歯をむいたままのキッドの代わりに、大きくため息を吐き出したキラーが説明した。
「……キッドが腕を失った戦いで、船医が死んだ。長く連れ添った船医だったんだが、残念なことをした。戦いには勝ったが、船医がいないのと、かしらがこんな状態だというのを外に漏らすわけにはいかないしで、応急処置しかやってない。お前を探したのもそのせいだ」
「別に探しちゃいねェ。てめェに見てもらわねェでも自力で治せる」
「キッド! 黙ってろ」
 ぴしゃりとキラーに吼えられ、ぐるる、と獣のように歯を剥いてキッドが上体を起こす。キラーがここまで強く言うのは、かしらのことを想うからこそだ。しかしキッドにもプライドがある。特に、ローには見られてはいけなかったのだろう、キッドの性格的に。
 ローは、長らくの友人、というわけでもない二人の性質の機微が手に取るように分かる自分にややこいつらに馴れすぎたという感覚を覚えながら、にやけ笑いをくちびるに浮かべた。というか、ローがこういうスタンスであるほうが彼らも気が休まるであろうというローなりの気遣いである。こっちの気持ちも汲んで欲しいもんだと思いながら、ローはキッドの腕に手を伸ばした。触られることを恐れてか、ぐ、とキッドの体がのけぞったが、何をいまさら、という目でローがじっとキッドを見つめると、にらみつけながらも大人しくなった。
「痛みは」
「ねェ」
「うそつけ。傷口をあぶったんだろ? 死ぬほどの痛みだったはずだ。大昔に廃れた医療だぞ、焼灼止血法なんてのは。縫合はしたのか?」
「……」
 キッドが答えないので、キラーが「した」と答えた。
「よく耐えたじゃねェか、ユースタス屋。片腕ぶっ飛んで断面を焼いた段階で死んでてもおかしくなかった。幻肢痛は?」
「……あ? ゲンシツウってェのはなんだ」
「腕がねェのになくなった部分が痛ェ、っていう現象だ」
「……」
 ごつ、とキラーに肘でつつかれて、ようやくキッドは「ある」と答えた。注射が怖くて医者を嫌がるガキのようで、ローは愉快でたまらなかった。
「かわいそうに。いてェだろう」
「心にもねェことを言ってんじゃねェ、トラファルガー」
「腕が取れてから五時間以内ならくっつけてやれねェでもなかったんだが、運が悪かったな」
「いらねェよ。片方なくなって男が上がっただろうが」
 フン、と鼻で笑ったキッドの表情に、ようやく余裕が戻ってきている。しかしまだ額の脂汗が消えない。普段どおりを装っているものの、いまも痛みが続いているはずだ。
「……処置してやる。だが、もちろん、タダってわけにはいかねェ」
「てめェ、」
「承知の上だ。お前の要求にできるだけ従おう」
 口を開いたキッドを遮って、キラーが答えた。キッドは今度は憎まれ口を叩かない。叩かないが、不服そうにじろりとキラーをにらみつけている。こんなやつの言うなりになるのか、という目だ。キラーは意に介した様子もなく、腕組みをしたままだった。
「要求は二つ。一つは、処置が終わり、おれたちがこの島を出て行くまでの三日間、この部屋に入るのはおれとユースタス屋だけにしろ。処置はおれの能力を使う。誰にも見せるわけにはいかねェからな。もう一つは、処置が終わり次第、……おれの見込みじゃ一日あれば十分だが、……ユースタス屋が、一人で、この島に停泊してる一億の首《鷲(じゅ)獅子(じし)グライフ》を生け捕りにしておれの前に連れて来ること。この二つが呑めるならやってやる」
「その程度でいいのか」
 てっきりもっと素っ頓狂なことを求められると思っていたらしいキラーは、キッドが口を挟む前に「わかった」と返事をしていた。金も物資も事足りている。そんなことより、ローは「もっと楽しいこと」のため、その二つを要求したのだ。
「キラー! てめェ、勝手に……」
「ろくに戦えない体でいつまでも無理してるよりはいいだろう、キッド。もちろん、トラファルガーが不穏な動きを見せればおれだって本気で迎え撃つ。お前も、まったくダメになってるわけでもあるまいし」
「ただただムカつくんだよ、こいつの言いなりってのは……!」
「ガキみてェなことを言うな」
 キラーは頑として取り合わない。治療は今すぐやってくれるのか。あァ、すぐにでも。キッドを差し置いて、ローとキラーは二言三言交わし、ローは部屋にあった花瓶と入れ替わりに自室においてあった道具一式を取り寄せた。自室の中で花瓶が粉々になっているだろうことと、突然島全体が不思議なドーム状の膜に覆われたことで島民がややざわついているであろうということを除けば、上々の手際であった。
「電伝虫を置いていく。キッドの無事を確認するために一日二度、朝と夜にはかけさせてもらう。キッドが出なかったらこちらから赴く。キッドに預けていいな?」
「あァ。好きにしろ。ちなみにうちの船は北側の港に停めてある。何かあったときの担保だ」
「……」
 キラーは黙って引き下がり、部屋から出る前、
「世話をかける」
 そう、言い残して言った。キラーの言葉には、海賊という立場を超えた、大事な男を信頼のできる医者に任せるただの男としての重さがあった。
「……おまえには出来すぎた部下だな、ユースタス屋」
「ハッ、おれにだから、キラーはああなんじゃねェか」
 二人になると、キッドの様子がやや落ち着いた。キッドはローといるとき、「ふたり」にこだわる。恋愛沙汰の感情を抜きにしても、ローを交えて第三者の前で立ちまわることにキッドは漠然とした「照れ」をずっと持っているのだ。特にキラーの前では、普段意図して横暴に、相棒であるキラーに甘えて頼っている部分と、ローの前で「キャプテン・キッド」らしくあるその二つの信条がぶつかって、キッドは混乱する。だから怒鳴り、歯を剥き、駄々をこねる子どもみたいになってしまうのだ。そういうところが、かわいい。ローはキッドのまだ青臭いガキらしいところが好きで、それが見たくてどうしてもキラーを交えて話すとき、からかい揚げ足を取るやり方になってしまうのだ。

 傷口を見ながら、素人の縫合痕を見て、抜糸した上で縫い直しだな、だの、そのまえにまず断面のやけど痕をなんとかしねェと、とあれこれ考えながら、ローが手早く処置していくのを見て、キッドはいぶかしげな顔を見せた。
「治療に能力使う、っつってなかったか」
 キッドはローの能力をおおよそ知っている。その上で、処置に能力を使うということは、例のドーム状の膜を張って、なんらかの処理を一瞬でやってしまうということなのだと考えたようだ。
「……能力を使う、ってのは嘘だ」
「あ?」
 めら、とドスの利いた声が燃え上がった。取引後すぐに「嘘だ」と言われれば、誰でもそうなるだろう。
「口実だ。部屋におれとてめェだけにしろ、っていう条件に、もっともらしい理由がいるだろうが」
 ぶっきらぼうに言い放ったローが、一体何を考えていたのかを理解したらしいキッドは、怒りの炎を鎮火させると、打って変わって、静かになった。見れば、じっと押し黙って、拗ねたようなくちびるのゆがめ方で、ローをじっと見ている。ローは含み笑いをして、
「久しぶりに会ったってェのに、おれの大事な男の腕が消えちまってるとはな」
 そう言った。目をつぶる暇なく、キッドのくちびるがローのくちびるを撫でていた。

「……いてェくせに、無理しやがって」
「ハ、もうほとんど完治だ」
「うそつけ。バランスとれるのか? おれが乗ってやろうか、ユースタス屋。それとも、今日からおれが抱く方になろうか」
「ほざいてろ」
 ミシ、と片腕で覆いかぶさったキッドの額からぽたりと汗のしずくが落ちる。いつもより余裕がないのは、腕が片方、まだこすれるだけでしびれる痛みを伴うからだろう。治療を待たずにことに及んでしまうのは、人間が持っている欲望というやつの物理の力がいかに大きいかの証明だ。
 キッドの肩口を支えながら、ベッドに寝転がる。むき出しの、肘の切断面がこすれるだけで、びくんとしなるキッドの体の振動を感じて、ローまで興奮してきた。キッドは膝立ちになり、ローの足を開かせると、肉食獣のくちもとに笑みを浮かべた。
 悪辣な顔つきは変わっていない。傷が増えたせいで、より一層悪魔めいた顔になってきたが、根本はローのよく知るユースタス・キッドのままだ。シャボンディ諸島で出会ったときの、いまより少しばかり若く、いわばあどけなさを残した顔立ちに、もう悩みや迷いはのこっていない。この新世界に来て、キッドはさらに研磨された魔物になったのだと思った。
 だからこそ腕が惜しかった。ちぎれた腕のその指先の美しさを、自分以外に誰がいちばん理解しているだろうか。丁寧に塗っていた爪紅を、もう塗る手間は半分になり、ローの体をほぐすのも、決められた片方だけになってしまった。
「ンッ、……あっ、……てめェ、いきなり……」
 脱がされたズボンと下着を床に放られ、まだ慣らしていない、それどころかキッドとシャボンディで別れてから実際一度も性交に使われていない尻のいりぐちをなぞられて、ローの体が反射的にすくんだ。キッドは意外そうな顔をした。
「……せっかくほぐしてやったのに、こりゃァおれのモノの形ももう忘れてやがんな」
 愉快そうなのがくちびるに現れている。癪だが、ローは押し黙ったままでいた。
「治療もしねェままで患者と寝るなんざ大した医者だぜ、トラファルガー」
「へへ……。おれがろくな医者じゃねェのはてめェだって知ってるだろう。それに、今やめたらてめェの方がかわいそうだ。処置中勃起チンコをそのままはいくらなんでもな」
「ハ、言いやがる」
 噛みつき合いの会話がすんなりと胸におちた。フリースタイルで韻を踏み合ってもいい線いくはずだ。ディスり合いの心地よさを味わえるのはこの男が唯一で、ローが最もあくどくなれるのもこの男が相手だった。
「てめェは嫌な野郎だ」
 キッドはそう言いながら、ローが誰にでもこういう態度をするわけではないと知っている。スカして、ツンとして、冷静であろうとするローの体面は、キッドの前で崩れていく。キッドをからかい、ガキくさい言い合いをして、へらへら笑っているトラファルガー・ローは、ユースタス・キャプテン・キッド相手でしかお目にかかれないことを、キッド自身がよく知っている。
 くぷ、と指先が入ってくると、ひくっ、とのどが震えた。爪先に塗られた赤の表面がつるつると内側に当たって、ああ、キッドの指だ、と思う。自分の指だとこうはいかない。
 キッドは容赦がない。これくらいが一番ギリギリだ、という地点を知っていて、そのギリギリをいつも狙ってくる。ずぶ、とねじ込まれた指の動きも、「痛い」と「もどかしい」のちょうど中間地点の、「ぶっとびそうな気持ちいいところ」をギリギリで押さえてくる。経験則、というより本能的なものなのだろう。
 セックスで精神まで丸裸になれる男は多くない。キッドはその一人だった。そして、精神を頑丈な鎧で覆おうとするローの鎧をべりべりめくって丸裸に剥くような男もキッドその人だった。
 乱暴だ。遠慮がない。いたわりも思いやりも、ないことはないがひどく少ない。丁寧でもない。誠実でもない。レイプと合意の中間地点のセックスだ。けれど、そのギリギリの毒にあてられると、もう別のものではだめなのだ。そのギリギリが好ましくなる。ローはもうそういう体になっていた。
「あッ、……んっ! てめ、……ッ、加減しろ、……ッ!」
「ツラみせろ、トラファルガー」
 いつもはローの顎を掴み、自分の方を向かせていたキッドの片腕が、伸びてこない。ローはそれなのに、ぐい、と自発的に顎をのけぞらせ、キッドの方を向いた。キッドはなくなった腕を意識で動かすように、ローの体に教え込む。
「……いいツラだ」
 くちゅっ、くちゅっ、と粘膜の音をさせ、尻にすべりが出てくると、キッドはほどほどのところでやめて、自分のモノをあてがってくる。凶暴すぎるモノのひとつきでイかせたい気分のときもあれば、手マンで延々といじめぬきたいときもある。奉仕とはまた違う、キッドの好き勝手な、支配的な責め方が好きだった。
 ぴと、と入口に、待ち望んだ、太い雁首が当たると、腰がうねった。
「おォ、てめェ、自分から腰振るようになったか、トラファルガー?」
「へ、……入れたくてたまらねェのはてめェだろ、租チン野郎」
「ハ、言ってろ。その租チンでイかしてやる」
 ずん! と重い一撃が来て、アアアッ、と悲鳴が上がった。めりめりっ、と狭い通路をいっぱいにして、キッドのモノがごりごり削ってくる感覚はたまらない。みちみちといっぱいになった腹の奥をえぐるように、一度入口まで抜かれたあと、またずぶっ、とひとつきが来る。
「アッ! あ、あっ、すげぇ、……っん♡ あっ、ああ、くそ、……いい、ッ♡」
「久しぶりにチンコ食えて、うれしいだろうが、トラファルガー、……ッ! ケツしめすぎなんだよ、ッ」
「しめられすぎて、っ、すぐイくんじゃ、ねェぞ、……ッ」
「ハハッ! 何時間でもやってやる、てめェのケツが二度と閉じなくなっちまうぜ、トラファルガー」
「アッ、……! いまの、……ッそこ!」
「ここか、てめェのGスポは? あ?」
「あああっ♡ そこ、……ッ、あっ、は、……! もっと、気合入れて腰振れ、ッ、……ユースタス屋ぁ……っ♡」
「久しぶりで、ため込んでやがったかよ! もうガマン汁垂らしやがって」
 ぱつっ、ぱつんっ、と肉のぶつかる音が部屋中に響いている。これは向こう三部屋まで筒抜けだろう。文句が言えるなら言ってみろ、くらいの気持ちで、キッドは鋭いスラストを叩き込み、ローはわき目もふらず喘ぐ。罵り合う言葉でさえ、二人の興奮を煽る起爆剤になった。とろ、と雁首の先から透明なカウパーがあふれている。一度目はドライでイかされそうだ。どうせなら射精したいが、キッドは何度もローをメスイキさせて、射精を許すのは自分がイくタイミングまでお預けにする。わるくねェ、何もかも投げ出して、性欲のるつぼに身投げできるのは、こいつとだけなのだ。
「あっ、ああっ、……すげえ、……っ、いい、……!」
「ガン突きされて、メスみてェにイくのが好きなんだろうが、てめェは……ッ!」
「へへ、……っ、てめぇこそ、……おれのケツに種仕込むのが、っ、いちばん、好きなんだろうが、……ッ!」
 ごりっ、とたまらないところを突いた瞬間の、びりびり脳天に響く衝撃は言葉にならない。そのとき、ベッドサイドボードの上で電伝虫が鳴った。キッドはためらいなく、手を伸ばして取った。
『キッドか? 無事だな? 治療は?』
「いまやってる!」
「あっ、っぐ! あ、つきすぎ、てめぇ、……はっ、ん♡」
「ケツアクメしてェだろがッ! おら、もっとケツあげろ、トラファルガー!」
『キッド! てめェ! 治療してんじゃねェのか! ヤってる場合か!』
「主治医がしてェっつーんだから、仕方ねェだろうが!」
 怒号を飛ばしたキラーからの電話をとっととぶち切り、キッドは悠々とローの腰を片手で引きずった。
「種仕込んでやるよ、トラファルガー」
 ニ、と笑う、うすく真っ赤なくちびるが、ローの一番好きなくちびるの形だった。

今日

 精根尽き果てたぶつかり合いののち、キッドに麻酔を打ち、寝かせると、ローは一通りの処置を済ませて、キッドのそばに丸くなった。セックスのあとに、……しかもキッドとの、一番激しく体力を消耗するセックスのあとに……、治療を残しておくのは得策ではない。泥のように眠り、睡眠の浅い方であるローは、一度も目覚めぬまま朝を迎えた。二日目の朝である。
 目覚めた理由は電話のせいだ。キラーからの電話。きちんと朝夜一回ずつかけてくるところはあの男の性格らしい。手を伸ばし、受話器を取った。
「おれだ」
『キッドは?』
「麻酔を打って処置を終わらせた。まだ寝てる」
『証拠は?』
「……ユースタス屋」
 げし、と隣のキッドの足を蹴ると、いてぇ、ぶちころす、という寝ぼけた返答が返ってきた。キラーは納得したようであった。
『トラファルガー。キッドをあまり甘やかすなよ』
 昨日のことを言っているのだと分かった。
「甘やかしてねェ。むしろ厳しくしつけてやってるくらいだ」
『どうだろうな』
 呆れ声で、キラーはため息をつき、お前といるときのキッドはおれの知ってるキッドとはまた違うキッドだ、と、意味深なことを言った。そして、明日の夜電話をかけて、そののち引き取りに行く、ということを言い残し、電話を切った。
 眠るキッドを見つめて、ローはこもった部屋の空気を鬱陶しく思った。昨夜の激しい戦闘のせいで、よたつく体とけだるさを引きずって窓をあけると、ふわ、と風が吹き込んできた。カーテンを翻して、部屋にいっぱいになった風が、キッドの素肌を撫でている。
「……くそ、」
 ローが苦々しく呟いたとき、背後でキッドが唸った。ベッドで隣に眠っていた、誰かを探すような腕の動きをさせて、いまはもうなくなってしまった肘の先がぐいと不自由に動いている。
「……ハ、てめェ……」
 何の夢を見ているのか、キッドは幸福そうに笑い、いつもローに見せる悪辣な笑みで、寝返りを打った。ローはまるで雷にでも打たれたような衝撃を感じた。
 ユースタス屋。
 本気になるつもりか?
 やめておけ。
 ローは窓から入ってくる潮風を浴びながら、自分のこれからの航路について考えている。パンクハザードを通過し、スマイルの工場を破壊してからドレスローザへ。すべてドフラミンゴの長い努力の成果をぶち壊して、そしてあの男を道連れにしてやろうと思うローの心のどこかに、「おれはドレスローザで死ぬかもしれない」という考えと、「けれどコラさんのために死ねるなら」という考えが巣食っていたことを、キッドの微笑のために思い出した。キッドはあんなほほえみを見せるほどに、ローがこれからも存在し続けることを疑わない。キッドの片方の腕がなくなったと聞いて、ひやりとした気分を味わったローの方も、キッドがこの陸から永遠に姿を消すことについて、微塵も真剣に向き合っていなかった。
 平和ぼけ?
 それとも違う。
 相手の平穏無事を祈る自然な、自然すぎる人間的な「愛情」だ。それを持ってしまった時点で、おれたちの関係は海賊同士の一時の楽しみ、という領域を超えてしまった。
 ローは息を飲んだ。

 フォン、という不思議な風の音を残して、窓を開けはなったままの部屋から、トラファルガー・ローの姿が消えた。部屋には割れた花瓶が転がって、ローの立っていた場所には花瓶の破片が散らばっているばかりである。ユースタス・キャプテン・キッドがそれに気が付いたのは、麻酔がすっかり消えて、腕の断面に残っていた鋭い痛みがひいていることに気づいてからだった。
 部屋の中にローはいない。窓が開いていて、部屋には潮騒のかおりがいっぱいになっていた。床には乾いた花瓶の破片が残っており、それがはじめ、この部屋にあったものだと理解したとき、トラファルガー・ローは逃げたのだ、という激しい感情が、キッドを支配した。
「トラファルガー!」
 びりびりっ、と壁がしなるような大声を出したが、返答はない。隣の部屋から悲鳴が上がった気がしたが、キッドは構わなかった。あの野郎。わけがわからねェ。きれいに処置され、包帯を巻かれた腕をかばった。そこにしかトラファルガー・ローの痕跡がないことに、キッドの脳みそは沸騰した。

 時刻は、日ののぼり具合を見て昼前だろう。乱暴に電伝虫を掴み、キラーにかけた。キラーは二コールですぐに受話器を取った。
『どうした?』
「キラー! トラファルガーは!」
『うるせェ、声を落とせ。音が割れてる』
 これが落ち着いていられるか、あの野郎逃げやがった、そう煮えくりかえる想いをなぜ抱くのか、キッドは自分でもよく分からないまま、吠える。吠えるたびに壁がミシミシと音を立てていた。
『便所にでも行ってるだけじゃないのか』
「ちげェ。なんとなくだが、分かンだよ。あいつは逃げやがった。意味がわからねェ、あの野郎、三日はここにいる、っつったんだ、取引の条件はそれだったはずだ……」
 受話器の向こうが楽しそうに笑っている。てめェキラー、何笑ってやがる、と怒鳴ると、
『お前はトラファルガーを本気で気に入っているんだなと思ってな』
 と、返ってきた。それがまたキッドを余計にイラつかせた。
 
 処置に能力を使うとわざわざ嘘をついて二人きりになったのだと打ち明けたローの言葉に、がらにもなく、ぐっときた。そんなことを言う男ではなかったから、ああ、おれはゆきずりの男という以上の存在にどうやらなれているらしい、と自尊心を温めたのはつい昨晩のことなのだ。だからこそ腹が立った。まるで金をもらったら手が切れたとばかりに部屋を後にする娼婦のような転身だった。
『傷はどうなんだ、キッド』
「あ? ……胸糞悪ィほどきれいに治ってやがる。痛みも大分引いた」
『そりゃよかった。やはり名医だな。性格に難ありだが』
 船医を早く仲間にいれないと、と何やら思案しているキラーを遮って、キッドはひとつ思い当たることがあった。
「おい、アイツの言っていたもう一つの条件、なんつった?」
『……あ? ああ、鷲獅子のグライフとかいう、一億の首をお前が生け捕りにして連れていくことだ。トラファルガーについての噂は本当だったんじゃないか? 賞金首を狩ってる、っていう……。意図はわからんが。その海賊について調べたが、この島にはまだいるようだ。おれたちが初日に行った酒場によく現れてる。ゾオン系の能力者で、鷲獅子、という名前のとおり、能力は《グリフォン》だ』
「グリフォン? ってェのはなんだ」
『幻獣系能力だろうな。半身は鷲、半身は獅子の伝説上の生き物だ。ただ、これだけの能力を持っていながら新世界で一億、っていうのは、使い手が大したことのない証拠だ』
「トラファルガーの野郎はそいつを生け捕りにしろ、っつってんだな?」
『あァ。お前、条件をちゃんと聞いてなかったな?』
「お前が聞いてるから別に聞かなくてもいいだろうが」
 呆れた、というため息を吐き、キラーはとにかく、トラファルガーが逃げたという確証はないのだからおとなしく安静にしてろ、まだ完治したわけじゃないんだから、と釘を刺し、三日分の食糧は置いてある、と付け足して、電話を切った。なるほど、保存食だが、部屋にはキラー置いて行った酒と水の瓶、そして簡単な食い物が麻袋にひとつにまとめられていた。
 ばりっ、と硬い干し肉を噛み千切りながら、イラつきついでに、生ぬるいケストリッツァーを瓶から直接飲み干す。甘い果物の味のする、普段は結構気に入っている黒ビールも、今のキッドにはただの液体だった。
(胸糞悪ィ)
 むしゃくしゃしたままキッドはいてもたってもいられなくなり、酒を空にしてしまうと、立ちあがった。コートを着て、ゴーグルをつけ、ナイフとピストルを腰に差す。そろそろこの二つも手入れでは限界になってきた。気に入りの二つだったが、新しいのを探すべきかもしれない。
 キッドは戦闘に武器をめったに使わない。使うのは自分の体と能力だ。鉄くずをあつめ、武器の形に濃縮して振り回すことはあっても、ピストルやナイフを使うのは必要のあるときだけだった。けれども、キッドは武器を持ち歩く。単純に「武器」というもののフォルムや造形が好きだからである。ナイフの切先へ続く優美な曲線や、磨き上げられたピストルの、銃身やリボルバーの放つ危険な光がキッドは非常に好きだった。
 かっこいい、という単純な理由で好きになるのはよいことだ。キッドはそう考えている。キッドの美学は「複雑な考え方をしない」ということだった。考え込みすぎることはよくない。脳みそというのは案外バカなものである。キッドが信用するのは自分の本能と直感だ。脳みそを使うのは必要なときだけでいい。自分が腰に差したピストルとナイフのように。
 のし、と階段を下り、不愛想なばあさんの前を通り過ぎて、キッドは部屋をあとにした。「ゲーテ」は昼でも夜でもどんよりしている。みすぼらしい外観で、湿気もひどいが、窓をあけると入ってくる潮のかおりだけは評価できる美点であった。
 ぎらつく太陽が頭上に上った昼日中、キャプテン・キッドが歩くと町はざわめき、悲鳴すら上がり、誰もが彼のために道を開けた。キッドはその上ムシャクシャしていて、その不機嫌さが表情や雰囲気ににじみ出ていたせいで、歩く人々はこわごわと、機嫌の悪いキャプテン・キッドを避けていく。
「チッ」
 何もかもに腹が立って、キッドはいっそこの島ごとぶち壊してやろうか、と突拍子もない考えに走りかけたが、
 ゴーン……、ゴーン……。
 と、低い音を立てて鳴る、教会堂の鐘の音に、歩みを止めた。
 
 あの鐘が鳴るということは十二時ちょうどのはずだ。毎日決まった時間に、町中に響く優雅な音で鐘が鳴るので、あの薄暗い宿屋の一室にこもっていたときも、時間だけは分かった。キッドはあの鐘の音を心待ちにして、さて昼だ、もう夜か、ああ朝か、と数日やってきたのだ。
 見上げると、塔のてっぺんには二人の兄弟が、交互に打鐘しているのが分かった。キッドは懐の麻袋(いくばくかの、子ども二人には多すぎる金貨が入っている)を鋭く投げ上げた。麻袋はずしりと重い金属音をさせ、遥か頭上の教会堂へ投げ入れられた。規則正しい鐘の音のあと、ワッ、と歓声があがり、少年ふたりが身を乗り出した。
「にいさん!」
「おめぐみをどうも!」
 けらけらけら! と息を合わせたように笑う。年のころは同じくらいで、顔がよくよく似ているところを見ると、ふたごだろうか。彼らはおもわぬ収入に有頂天になりながら、笑い声を響かせて、教会堂のてっぺんを駆け下りていった。
 キャプテン・キッドを捕まえて、にいさん、とは、肝が据わっている。キッドはフンと笑って、ああいうガキは嫌いじゃない、と少しばかり不機嫌を落ちつけた。

 鐘の音が鳴り終わったとき、ほのかな違和感が鼻をくすぐったのは、キッドの野生的なカンのたまものだろう。キッドの姿を見て人々が逃げ去ったというだけにしては、嫌に気配が少ない。まるで、意図的に気配を殺し、この石畳の教会堂広場にキッド一人を押しやったような、そういう嫌な雰囲気がした。
(囲まれてンな)
 なんとなく、そう思った。もちろんカンだ。ぐるりと周囲一体を大人数に囲まれている感じがする。しかもおそらく海軍ではない。海軍連中の持つ空気よりなんとなく小ざかしい感じのする気配だ。
 教会堂を見上げたまま、鼻先をひく、と動かして、空気のにおいを嗅いだキッドは、あァ、海賊のにおいだ。そう考える。けれど、あの、逃げ場をふさがれて絶体絶命のときに感じる研ぎ澄まされた危機意識もわきたてられない。
(たいした連中じゃねェな)
 くあ、と思わずあくびが出た。新世界ってのはどこへ行ってもこうなのかよ?

「おーおー、殊勝なこって。キャプテン・キッド、部下も連れずにえらく余裕じゃねェか」
 ようやくだ。背後から聞こえた声に振り返ると、キッドは額にぴしりと青筋を走らせる。やはり思ったとおりだった。囲まれている。キッドが一人でなければこいつらは来なかったはずだ。その程度の力量の、烏合の衆だった。
そいつが何者か、見ればすぐにわかった。獅子のようなたてがみに、もうすでに一段階目の変形をしているのだろう、鷲の翼と鋭いかぎづめを持つ大男が、広場をぐるりと取り巻く数の部下をつれて、キッドの周囲を取り囲んでいる。
「こんなしみったれた島でもいいことはあるもんだ。キャプテン・キッドが一人でうろついてやがるとは。多勢に無勢だ、キャプテン・キッド。しかもてめェは片手を失くす大けがで、えらく弱ってるそうだなァ? ここでてめェの首を取れば、おれの懸賞金は一気に跳ね上がる!」
 この島で、キッドが腕を失くしたことを知っているのは酒場の店主くらいだろうから、あの男がこいつに漏らしたんだろう。どちらにしろあの店主のことだから、遠からず宿の場所も漏らしていたはずだ。キラーの言うとおりになった。相手が海賊だろうがトラファルガー・ローだろうが、金に目がくらむタイプの男だろうから伝達役にはちょうどいいが、他の海賊や賞金首にキッドの居場所をもらす可能性は大。それを承知でキラーがあの酒場の店主を利用したのは、この島に、たいして警戒の必要な連中がいないからである。
ここでこの鷲獅子のナントカに会わずとも、宿でどちらにせよやりあいになったに違いない。または別の賞金稼ぎが近いうちに寝首をかきに来ていたはずだ。いまのキッドには、ノコノコ現れたこのバカがちょうどいい憂さ晴らし相手になった。その上、探していたエモノがちょうど見つかって、めら、と炎を燃やしている。
「てめェか、鷲だの獅子だのいう野郎は」
 ゴウ! とキッドが低く吼えると風が吹いた。ちりちり、肌が逆立つような怒気が空気をふるわせる。
 キッドの気迫に押され、すでに部下どもはへっぴり腰になっていた。覇気で半分は減らせるだろうが、それだと面白くない。どうせなら暴れに暴れて、ここでムカつきを晴らしてやろう。キッドはニヤリと微笑して、
「てめェごときぶち殺しても、おれの懸賞金はミリもあがらねェ。普段なら見逃してやってるところだ。だがな、てめェは運が悪ィ。おれもてめェをちょうど探してたところだ……。」
 叫んでいるわけでもないのに、キッドの声はよく通り、地獄から響く低い唸り声が、教会堂広場に緊張の糸を張る。びりびりと空気の振動に押されているうちに、キッドの片腕がむき出しに晒された。肘から下を失った片手である。そこへ、吸い寄せられていくように、町中のあらゆる鉄製品、そして海賊たちが持っていた銃器が集まっていく。あらがい難い引力に、手からダガーやサーベル、ピストルをもぎ取られて、圧倒的な力の前に海賊たちは言葉を失った。
 巨大な手。金属で創り上げられた、ユースタス・キッドの巨大な義手だ。指先をギュルルルッとドリル状に研磨する。金属片や銃器をどのように組んでいくかもキッドの力加減によって変わるのだ。キッドの苛立ちと連動したのだろうか、いまやキッドの片腕は、ロックドリルのいでたちで、人間どころか石畳ですらひとたまりもなく掘削のできるほどの鋭さを持っている。
 さすがにトラファルガー・ローは名医だった。昨日まで片腕は痛みのためまったく使えない状態だったが、施術後の腕の断面もいまはほとんど痛みはない。キッドは、チクリとした微弱な痛みしか伴わなくなった片腕に満足し、そして、いよいよ、不自由だった腕が解放されたことに歓喜し、自然、振りかぶる腕の動作が大きくなった。
 凶悪な音を立て、振りかぶった腕の先が、石畳を粉々にし、近くにいた者をその衝撃だけで数十人吹き飛ばした。キッドの額に浮いた青筋と、ようやっと自由に腕を使える、という開放感にキッドが浮かべた冷笑が、じろりと連中を正面から見据えていた。
「準備運動くれェにはなってくれんだろうなァ?」
 それだけで数人漏らした。

 ほとんど一手目で、勝負はついていた。
 町は阿鼻叫喚であった。逃げながら、人々は口々に、「キャプテン・キッドが」「サウスの悪魔が」と叫び、どんどん伝播していく。広場は半壊になったが、教会堂の鐘だけはきれいに残ったままだった。夕刻六時の鐘を鳴らしに来た兄弟が、広場の荒れようを見て、けらけらけら! と笑ってしまったほどである。
 ずる、ずる、とキッドはそんな喧騒もお構いなく、図体だけは一丁前にデカい、鷲獅子男をひきずり、歩いていく。探している男がいるのだ。ちゃんと言いつけ通り、殺してはいない。半殺しにはしたが、息はある状態だ。キッドは片手で男を引きずりながら、くそ、あの野郎、どこにいやがる、とそろそろ半日歩き回ったムカつきがまた脳みそに充満していた。
 鷲獅子男との勝負は二分で決着がついた。二分でもよく耐えたほうである。鷲の羽で空を飛ばれなければ一分以内にカタがついていた。また、ぶち殺していい、ということであれば、もっと早かっただろう。
 散り散りになった部下どもは放って、キッドはむんずと鷲獅子男の首根っこを掴み、白目をむいて昏倒している男を引きずったまま町を歩きはじめた。人々はそれを新しいタイプの市中引き回しなのだと思って逃げ惑ったが、キッドはただ、頼まれた荷物を届けに行く配達人の気分で、トラファルガー・ローを運んでいた。
 宛名のない荷物を届けるのは至難のわざだ。キッドは、いつも宛名のないキッド海賊団の居場所をつきとめて、毎朝新聞を運ぶニュース・クーを、うるせェと怒鳴りつけるのは金輪際にしておいてやろうと改めた。
 あの男の行きそうなところなど分からない。あてもない。ただ、直感に従ってキッドは歩いた。考えない方がいい、こういうときは。本能に従って歩き、引き寄せられるようにキッドは海岸沿いを歩き続けた。小高い丘が見えている。あの場所が怪しい気がした。
 もうすぐ日が暮れる。夕刻が過ぎ、すきっ腹で余計にイラついてきたキッドの耳に、低い歌声が聞こえてきた。聞いた声だ。しかも、聞いたことのある歌だ。あれはどこで聞いたのだったか。北の海の歌だと、誰かに聞いたはずだ……。

 かぜにたなびく…………丘陵に………鐘の音がひびく……

 丘の上に座り、ともすれば風に負けてしまいそうな声で歌う男の姿を見つけて、キッドは立ち尽くした。トラファルガー・ローの、うまくもへたでもない歌を聴くのは、初めてではなかった。あれはシャボンディ諸島で過ごした夜だった。眠たくなってきたローを揺さぶって、もう一発やらせろとうるさいキッドを黙らせるつもりで、子守歌でも唄ってやろうかとふざけたローに、唄ってみろ、てめェの歌なんざおぞけが走る、とからかったのだ。ローは突然歌いはじめた。案外、優しい、よく通る声だった。

 Ring……dong……
 Ring……dong……

 単調で、静かなたったひとつの声のふるわす夜の空気に酔っ払って、キッドは本当にいつの間にか眠っていた。ローは翌朝、三歳のガキみてェに爆睡してたぞ、とにやついたが、ふと真面目な顔をして、自分もかつてあの歌で眠ったのだと言った。
「母親か」
「いや。おれを育ててくれた、命の恩人に。歌が最悪にへたくそだったが、毎晩うたってくれた。おれの大好きな、北の海の歌なんだ、ロー。お前も北生まれだもんなあ、って、言いながら。」
 それが、キッドが聞いた唯一の、ローの生い立ちらしい生い立ちだった。

「トラファルガー」
 
 呼ぶ前に、後ろにいることは、気が付いていたのだろう。ローはゆっくりと振り返り、大きな男の屍を引きずって、丘を登ってきたキッドに向き直った。
 トラファルガー・ローの悪い癖なのだという。ふらりと突然、いなくなりたくなる。誰も知らない場所で、歌でも歌って、昼夜を問わず、ふらふらしたくなる。彼の放浪のくせが、あの夜、突然ふっとあらわれたのだ、とローはのちに弁明した。

明日

 トラファルガー・ローは丘の上で、キッドの引きずってきた鷲獅子の男の胸を一気に貫いた。それを見るのは初めてであった。心臓を抜き取るローの術だ。一億の男の心臓を、衝撃を吸収する特殊な材質で作られた箱に入れ、鍵をかけて、船室に送った。もうあと残すところ四つ、というところまで来ているのだと言う。
「つーことは、てめェの船には九十六も心臓があんのか」
「あァ。そうなるな」
「きめェ」
「クルーもそう言ってる」
 へへ、と笑いながら、ローは用済みになった鷲獅子男を蹴り転がし、あっさりと丘の上をあとにした。ローの奇癖(本人は趣味だと言い張っている)はつまり、放浪である。ふらっと風のようにどこかへ行って、誰にも居場所が分からないまま過ごしたあと、またふらりと帰ってくる。理由はないのだとローは言ったが、キッドはうそをつけと内心思っている。ローのような、「脳みそで考える」タイプの男が理由もつけずに放浪をするはずがない。自身で気づいていない理由であっても、そこにはきっと何かの影があるはずだ。キッドは深く追求しなかったが、とにかく、ローの奇癖には理由があると結論づけた。
「てめェは条件を破ってやがるだろうが。落とし前はどうつけんだ?」
「? 何言ってる、おれは、部屋にお前とおれ以外誰も入れるなとは言ったが、三日間一歩も外に出ねェとは言ってねェ」
「……ってめェ……、患者放り出して出ていく医者があるかよ……!」
「患者の自覚があったのか、ユースタス屋。案外かわいいな」
「てめェ……」
 ぶち、と青筋のいっぽんぶち飛ぶ音がしたような気がするが、耐えた。ローといることで、かなり自制心が身についている気がする。キッドは歯噛みしながら、ローの手際のいい処置を黙って眺めていた。
 包帯をかえて、傷口を確認する。減らず口を叩き合いながらも、処置するときのローの顔つきは打って変わって医者の顔になる。キッドは、滅多に見れないそのローの表情が嫌いではなかった。縫合痕を眺めながら、満足そうに微笑む。へたくそな処置をされていた傷口が、自分の処置の結果きちんと整っているのが単純に満足なのだろう。
「痛みは?」
「大分マシだ。ほとんどねェ」
「そりゃよかった。幻肢痛はまだあるだろう」
「あァ。夜中にたまにな」
 綺麗にふさがり、火傷の火ぶくれがおおかた引いた傷口に、またローは丁寧に包帯を巻いていく。こういうとき、ローは意外とマトモに医者をやるのだと気付かされて、はっとする。悪くない。へらへら笑ってからかってくるときのローも、悪くないのだが、こういう引き締まった顔を見ると、ああこいつはツラがいい、とキッドは改めて感じるのだ。

 なぜこの男と関係を持ったのかわからない。まるで運命に支配されていたように自然にそうなった。細かいディティールも記憶から吹き飛んでいる会話のふしぶしに、それでも何かあらがいようのない官能があった。欲のためだけに開いたと思っていた箱の中に、そのほかさまざまなものが入っていたと分かった時には、もう戻れないところまで来ていたのだ。
 尻の軽い、ヤク中野郎だと思っていたのが、案外生い立ちに暗いところのある、たまにさみしい顔をする男だと分かった。ローはローで、キッドのことを、頭の悪いケダモノ男だと思って近づいたが、キッドの底に眠る理性と、世の中を斜めに見る皮肉げな孤独感に触れ、あ、こいつは一筋縄ではいかねェな。そう思われた。お互い、これ以上は、これ以上は、と思いながら、先へ先へと踏み込んでいき、もう戻れない領域に来てから、てめェなんでこんなとこまで連れてきやがった、とお互いをののしるのだった。
「仕上がった。動かしにくいところは?」
「ねェ」
「なら、処置は一通り終わりだ。あとは包帯を毎日変えることと、包帯をつけるまえに軟膏をぬることだ。塗らねェと化膿する。渡しとく」
「ありがとよ」
 瓶に入った軟膏を受け取り、キッドはコートの内ポケットに入れた。軟膏は不思議な薬草のにおいがした。
「完治するのに三日はいるかとおもったが、三日も必要なかったな。お前の治癒力もバケモノ並なんだろう、ユースタス屋」
「ハ。そりゃどーも」
 くちびるで笑うローが、用は済んだと部屋を出て行こうとするのを、キッドの腕が引っ張った。よお。トラファルガー先生よ。三日は面倒みてくれんじゃねェのか。キッドがふざけてそう言ったのを、ローはすうっと目を細めて見つめ、どこかくすぐったそうにした。
 官能がうずくのだ。この男といると、調子がくるう。いつまでもこうやっていたいと思ってしまう。ふたりはお互いに、そういう苦々しい愛情を抱いて、お互いを見つめた。

「暴れるな、ユースタス屋。せっかくふさがりかけた傷がひらく」
「てめェが上に乗りてェんだろうが」
 くらくらとむき出しのランプが天井から揺れている。ベッドの上に、でんと王様めいて座ったキッドの上に、ローがまたがる。キッドの足がローの背中をつかむようにしめつけ、すっぽりおさまってしまう。正直なところ最初は体で選んだ。こいつとなら寝てもいいか、と本気でそう思ったのだ。キッドの体は鍛えた結果出来上がった観賞用の肉体美とはまた違う、荒波と潮風にもまれ、研ぎ澄まされた野生の肉体だ。ミシ、とその腕がベッドに置かれ、軋る音をさせたとき、ローはふと、モノにされたいと思う。その抗いがたいキッドの色に、ローは五体を解放してしまうのだった。
 キッドの膝の上に乗り、尻を股ぐらの間にねじ込む。尻の谷間のあたりでキッドのモノをこするようにして、キッドの肩口や、首筋をてのひらで確かめていく。目があって、キスをした。視線が絡むとキスしたくなるこの男の持つ独特の雰囲気は何なのだろう。キッドの片腕がローの頭を抱くように引き寄せた。大きなてのひらは、ローの頭を片手でつつむことができる。
 キッドは片方の腕が失われていることにまだ慣れていない。たまに忘れて片方を使おうとし、そして一瞬、「あァ、こっちの腕はもうねェのか」という顔をする。ローはキッドの腕の喪失を、悲しいとは思わないものの、一度「死」がキッドの腕をつかみ、体ごと持っていこうとした事実と、それを振り切り、片腕だけは「死」に与えてやったキッドにひやりと肝を冷やすのだ。
 後先を考えない、無謀さがあり、その無謀さを「男らしさ」だと思っているユースタス・キッド。命を粗末にするタイプではないが、命と誇りを天秤にかければ、誇りが勝ってしまう男だ。この新世界では苦労する性質だろう。誰かの下につくことを、死よりも深い屈辱だと考えている。
「ユースタス屋」
「あ?」
 キスをはがして、突然ささやいたローに、キッドは興をそがれた顔をした。いい気分だったのに、ジャマすんじゃねェとでも言いたげなツラだ。
「……日が昇ったら、てめェとやりてェことがある」
「……? なんだ、いきなり。てめェは」
 別にいいけどよ。何がしてェんだ。キッドは不思議そうにそう言う。ローが感傷に浸っていることも知らずに。
「……放浪だ。今度は、てめェと」
 
 キッドのくちびるに、微笑みが浮かんだ。悪辣でもない、凶悪でもない、ただ「ほほえみ」としか言いようのないそのほころんだ表情に、ローははっとした。
 それはいつくしみだった。

 中断されたキスの続きをはじめると、あとは坂道を転がっていく要領で、ふたりは性欲のるつぼへ身を投げる。はむ、はむ、とものを食べるようにくちびるを動かし、舌先を絡める。細く目を開けて、キッドのまつげを見つめるのが、ローは好きだった。目を閉じているキッドの、人より狭い鼻筋に、悩ましいしわがよっているのがセクシーだった。ちゅっ、とくちびるのまじわる角度を変えるたび、くちびるから勝手に「んぅ……っ」と悩ましいため息が漏れる。
 ジーンズごしに強く股ぐらをつかまれ、揉み解されているうちに、だんだん肌が熱を帯びてきた。ジーンズを脱ぎ落とし、キッドのズボンも取り払った。くに、くに、と下着越しに感じられるやわらかいモノの感覚がたまらない。
「まだ勃たねェのか」
「ケツこすりつけられただけじゃなァ」
 ハッ、と余裕の表情で笑うキッドが癪に障った。片手でしかマスもかけねェくせに。ローが揶揄すると、いよいよキッドの笑みが深まった。
 ずる、と体勢を下げ、またぐらに覆いかぶさって、猫が飼い主の足元にすりつく要領で、すり、すり、と鼻先でやわらかい性器をくすぐる。いまはやわらかいこの肉の塊が、興奮してくるとギンギンに勃起するのだから分からない。あむ、とくちびるで下着の上から咥え、やさしくもみながら、片手を尻に添え、穴をほぐす。キッドの、片方しかないてのひらが、ローの黒髪をくしゃくしゃと撫でた。
「なんだ、えらく奉仕するじゃねェか、トラファルガー」
「へ、五体が欠けたんじゃ、ヤるのも不自由だろうしな。これからは二人以上いっぺんに女をさばくのも難しいぞ、ユースタス屋ァ」
 すぐにでも屁理屈が返ってくるかと思っていたが、いつまでもキッドはローの髪をなでているばかりだ。あむ、あむ、とくちびるで性器をかわいがり、くちびるではさみ、味わっていたローが、いやに大人しいなと目を上げたとき、キッドがなんとも言えないほころんだ顔で、ローを見下ろし、髪をなでているのにひやりとした。
「……抱かねェよ、女なんざ」
 キッドがぽつんと吐き出したのが紛れもない本音で、そして曲げようのない事実であることを、ローは問わずとも理解してしまった。

 抱きがいがねェんだよ。おんななんざ。
 おれを罵って、ムカつく言い方で煽って、そのくせ、ちゃんとヨさそうにしやがる、てめェみてェのを抱いちまったら。
 もう無理だろうが。

 ぺた、とキッドのてのひらがローの頬を覆った。しゃぶってくれんだろ、トラファルガーセンセイよォ。言われて、柄にもなく、ローは鳥肌が立つほどに「燃えた」。

 ずぶっ、と奥まで咥えたあつい塊を味わい、しなやかな猫のポーズで、ローは口蓋にぶつかる太い血管の感触にくらくらとしていた。ぐっ、と絶妙のタイミングで頭を押すてのひらのせいで、ごぷっ、と喉まで咥えてしまうが、離すのも一瞬なので、餌付くほどの苦しさもない。その、喉が空気を飲み込む瞬間、喉のいりぐちがしまるところへ、雁首がちょうど吸い込まれるのがイイのだろう。自分勝手なくせに、いやにテクニックがあって、腹立たしい。
 ちゅぽん、と雁首が解放されると、もういよいよ勃起した性器の先端が、鼻先をびたんと叩く。いれてェだろ、とローが指先でカリをいじめながら尋ねると、キッドは鼻を鳴らして、いれてェのはてめェだろうが、と憎まれ口を叩いた。
「ほぐれたかよ、トラファルガー」
「あ? あァ、忘れてた」
 フェラに夢中で片手がお留守だった。キッドは呆れ、おれがやってやる、とローを膝の上に乗せ、勃起した性器はローの手でしごかせたまま、尻たぶを手でひらく。
「膝で立て。ほぐしてやるから」
「足がだりィだろ」
「文句言うな。おれの手をケツで敷くんじゃねェよ」
 膝立ちしたローの股の間に指が差し込まれる。ぬぷぷ……、と指が根元まで飲み込まれていく。キッドの太い指だと、二本入ればぎゅうぎゅうになるが、キッドは三本入れてゆるめたがる。てめェとヤってると尻がガバガバになる、とローが文句を言うのもかまわない。
 ぬちゅっ、ぬちゃっ、とわざと水音を立ててほぐしながら、指がローのいちばん「イイ」ところを攻めてくる。ごりっ、こりっ、とGスポットをえぐる指の腹に思わず身をよじっても、尻の穴が貫かれていては身動きが取れない。
「てめ、……っもういい、……ッ、指はいいだろ……ッ!」
「手マンでイくのが好きだろ、てめェは」
「くそっ、……っんあっ♡ あっ、……、ユースタス屋っ♡」
「どこまでいれてェ? まだ奥まで欲しいだろ?」
「てめ、……ッ、んあっ♡……アアッ、くそ、……いい……ッ」
 がくっ、がくっ、と足が震え、キッドの肩をつかみ必死で崩れ落ちないように耐えても、鼻から抜ける喘ぎ声をとめられない。脳天を突き抜けそうなほど気持ちいい。だが、四肢を投げ出して感じまくれるほどまだ吹っ切れられていない。脳みそがちらつかせる「敵船船長」というキッドの立場を知らせる警告と、「弱みをさらけ出していいのか」というためらいが、ちゃんと自分に残っていることにむしろ安心した。

 てばなしで。
 てばなしでこの男を愛せるようになってしまったら、おれはダメになるだろう。人間のかたちを保っていられるのかさえ自信がない。だからむしろ、よかったのだ。
 
「ああっ♡ あ、やめ、っろ、てめえ、……っあっ♡ は、たのしんで、やがる、っだろ……っ」
「すげェ。潮吹きそうだだな? ちゃんと立てよ、トラファルガー」
 じゅぽっ、じゅぽっ、とキッド以外に踏み入れたことのない前人未到の場所を攻められ、目から星が飛ぶとはこのことだ。必死で腕をつっぱり、がくがく震える足をつっぱりながら、頭をまっしろにする。どうせあとからまた、思考の海にふけるのだし、脳みそから不要な感情を全部捨て、いまは全部をキッドにゆだねよう。そう思い切った瞬間に、ローの中でタガが外れた。
「あああッ……~~~~ッ♡」
 するどく、悲鳴に近い喘ぎを漏らし、ローがのけぞった。ぐぽっ、じゅぷっ、と尻が立てているとは思えないヤバい音がして、それが余計に興奮を掻き立てた。
「イくか? トラファルガー?」
「あっ、やべえ、……っ、も、やばい、……♡ ああっ、あ、あ、あっ♡ だめだ、……もう、いく、いく、いきそう、……」
「いいツラだ」
 ちゅ、とやわらかいくちびるがローの頬に押し当てられた。キスされた。そう思ったとき、背筋に電流が走ったような衝撃があった。額の汗より、乱れきった呼吸より、激しく体内を刺激するキッドの指先より、頬へのキスが最後の一撃を与えた。
 駄々子が泣くような声で叫んで、ローの体がくったりと弛緩した。キッドが指を抜いたあとに、ぼたぼたぼたっ、と潤滑オイルと腸液がまざって泡だったものが流れ落ちたせいで、いっそう、メスになったような感じがあった。
「ヨかったか」
 ふふん、と、おれのテクはどうだ、というツラで、自慢げにローを見上げて、悦に入るユースタス・キッドの、無邪気な様子をずるいと思った。

 結局、つながるまでに二度三度、手マンでイかされ、くたくたになった体に鞭を打たれた。まるで本当に、しばらく誰も抱かないからいまのうちに抱きだめだ、という勢いでヤられた。ローはふたたび、久々に一度も目覚めない眠りに突き落とされた。
 目が覚めたのは朝六時の鐘の音だ。何時に寝たか覚えていないが、十分眠ったのは明らかだ。体の疲れは綺麗に飛び去り、隣でまだ男が眠っている。おい、と小突くと、すんなり目を開けた。
「早ェな」
 くああ、と大あくびをして、キッドは裸の体のまま、のしのしとシャワールームへ歩いていき、頭から水を浴びている音が聞こえてきた。ローはキッドと違ってすぐに動くつもりになかなかなれない。眠りは浅いが、寝覚めは悪い方である。
 ぼふ、ともう一度シーツに寝そべったローを、シャワールームから出てきたキッドが、髪からしずくをたらしてじろりと見やる。なんだ、てめェ、放浪すんじゃねェのか。きちんと昨晩の話を覚えているようだった。
 残された時間は日没までだ。日没にはローもこの島を出る。ローはしばらくぼうっと天井を見つめ、ようやっと起き上がった。
「放浪、つって、何するんだよ」
「やることも目的地も決まってねェから放浪っつーんだろ」
「そりゃまァそうだな」
 キッドはさっさと衣服を身に着け、ローもそれに引っ張られてベッドから降りる。キッドはローと正反対だ。深い眠りに落ち、濃密な睡眠をとるかわり、覚醒は早い。ローは浅く泥のような眠りの中に漂うだけの睡眠のせいで、覚醒までの波が遅く、いつでも微弱な眠気とけだるさを纏っていた。
「てめェのだ」
 ぼふっ、と上着を投げられる。続いてジーンズも。こういうことは滅多にない。そもそも船室だと一人で目覚め、一人で眠るからだ。ローはふと思い出して、にやついた。
「なァ、ユースタス屋。」
「なんだてめェ、……なにニヤけてやがる」
「……女を抱けねェってのは、本当か?」
 へへ、と半笑いになったローを、じろりとにらみつけて、キッドはツンとして答えない。その反応は、本当だろう。ローはいよいよニヤついた。
 ローはもともと、大して性欲が強くないほうだった。と、自負していた。女を自ら出向いて抱くことを、「無駄な労力」だと思っていた。けれど、一度ユースタス・キッドと性交したのち、自分は性欲が強いほうだったらしいということに気がついた。手当たり次第引っ掛けてヤるようなことはしなかったが、夜中に、うずいて仕方がない日が、周期的にやってくるようになった。
「行くぞ。腹減った」
 キッドはまだ上着を着ている途中のローを置いて、それだけ言い捨て、さっさと部屋の外へ出て行った。
「……照れてやがる」
 ガキめ。こんなに愉快な気持ちになったのは、久しぶりだ。ローは着替えながら、一人きりのみすぼらしい部屋で、ニヤニヤ笑いをもう噛み殺す努力もやめてしまった。

 店にかかっている古い音楽を聴いて、蓄音機の針が悪ィだの、盤はいいのに機材がダメだ、だのと腹を立てるキッドが、音楽趣味があることを始めて知った。意外なほどキッドの音楽に対する好みは繊細だった。曲だけではなく、それを演奏する楽器や、機材にまであれこれこだわりがあるようだった。
「似合わないな。クラシック趣味か?」
 あいにく、ローはクラシックだのオペラだのが好きでない。原因はローの因縁の相手が好んでそういうものを聴いていたからである。ツラやナリに合わないのは、あの男もキッドも同じだった。
「クラシックだけ、ってわけじゃねェ。全般だ。そりゃ、好みじゃねェジャンルもあるが、大体何でも聴く」
「へェ」
「だがまァ、人が手で弾いてンのがいい。最近は、アー、何つったか、新しい機材で、シンセサイザーだの、なんだの、妙なのが出てきやがった。エレクトロニカなんつー機械音まで音楽になる時代だぜ」
「へェ」
「いまかかってンのはちなみにクラシックじゃねェ、ジャズだ。ブライト・サイズ・ライフ、つってジャズ・ギターじゃァ最高の……」
「へェ」
「てめェ、全然聞いてねェだろ」
 ガツッ、と腕を殴られ、いてェな、音楽ゴリラ、と罵ってから、ローはなおもまだ蓄音機の調子がどうのと不満げなキッドを見つめ、この男について新しい一面を知ったことを喜んだ。
「食わねェのか」
 ん、とパンの山盛り入ったバスケットを差し出したキッドが、「パンは嫌いだ」
 とバスケットを押しのけたローを見て、ローのパン嫌いをはじめて知り、悦に入ったのも同時である。知らないことの方が実際は多い。体のことを先行してあれこれ知ってしまったから、お互いの性格や、生き方に影響するこまごました情報を手に入れるたび、なぜか新鮮な思いに満たされた。人がそれを「恋」と呼ぶことを、ふたりは、分かっていない。彼らは海賊だからである。
「あてもねェんだろ」
「それが放浪だ」
「何がおもしれェんだ」
「目的を作ったほうがおもしろくねェ。行けるとこまで行く。それだけだ」
「ハ」
 キッドは半分かじったシュリンプサンドを一口で平らげると、おら、行くんだろ、メシに時間かかりすぎだ、と立ち上がった。片手にトニックの瓶を持ったまま、早く食えとせかす男。キッドは食うスピードも速く、一口のサイズもローより断然大きかった。
 町中に鐘が鳴り響く。教会堂広場は復興の只中である。誰がやったんだろうな、とわざとらしく尋ねるローをにらみ、キッドは悪びれず広場を横切っていく。「ユースタス・キッド」「トラファルガー・ロー」というささやき声が二人の耳に届いたが、二人は意に介さず、また広場が壊されるのではと戦々恐々とする人々の間を、何事もなく通り過ぎて行った。
「おお、すげェな。こんなとこにあったのか」
 キッドが突然立ち止まった。見ると、ダウンタウンの通りの一角に、一軒の武器屋が建っていた。そろそろナイフとピストルにガタがきていたから、探していたのだとキッドは言い、勝手に入っていった。ローの了承を得るつもりもないらしい。
 小ぢんまりしている割に、品揃えはよい店だった。豊富にそろっているというより、こんなものが置いてあるのか! とマニアなら唸るであろうという品揃えだ。キッドのあとに、ローが店に入ってきても、店主の爺さんは見向きもしなかった。海賊に慣れているのだろう。
「いいな、これ」
 純粋に、キッドのくちびるから喜びのため息が漏れる。ローは海に出てからこの鬼哭一本でやってきた。だから他の武器にたいした興味もなかったが、キッドは単純に、武器というそのものが好きなようであった。
 まっすぐに研ぎ澄まされた、コバルト・ブルーの光を帯びる短剣である。キッドはそれをいたく気に入ったようで、爺さん、こりゃ売れるモンか? と尋ねた。武器屋には、商品として並べられておきながら、「売れない」と言われるものもある。そしてたいてい、そういうものは、値打ちが高い。キッドの問いかけには、武器屋で品を長く見てきたのであろう、慣れた様子がうかがえた。
「しかしアンタは買うつもりだろ?」
 てっきり、話を聞いてないように見えた店主の爺さんは、きちんとやりとりを聞いていたようで、ぼそぼそ、と新聞の影からそうつぶやいた。やはり、本来は売れない品のようだ。だが、キャプテン・キッドは売れない品でも意に介さず買おうとするだろうということも悟られている。キッドはだまって笑みを浮かべていた。目は、まだその短剣に注がれていた。
「海の悪魔リヴァイアサンが刀身に宿っていると言われてる。一人の鍛冶職人が生涯すべてをかけて鍛錬したシロモノだ。船旅にゃおすすめしないね。そいつがどれほどの船を沈めてきたことか」
「なら、おれの船に乗せるしかねェな。おれとコイツの、どっちが悪魔か……」
 どう思う? とキッドはその短剣をローに見せた。いつもならこの役回りはキラーがやっているのだろう。ほのかに青白く光る短剣が反射して、キッドの瞳の血のような赤がいよいよ映えた。
「てめェがコイツにやられて沈むのが待ちきれねェな」
 ローがそう言って短剣を返すと、キッドはくちびるをほころばせた。「買えばいいんじゃない?」という意味に受け取ったようだった。

 ピストルはどうやら気に入るものが取りあつかわれていなかったようで、キッドはしばらくロー相手にこの曲線がどうの、この造形がどうの、刀身はいいのに柄がだせェだのあれこれやって、やはりリヴァイアサンの宿る短剣を手にして店を出た。ガレオン船が一隻買える値段の短剣を、食パンでも買うような気軽さで買ってしまうところがまた、キッドらしい。
 ふらふら、町をさまようだけも、たまにはいい。憎まれ口の叩きあいで一日があっというまに過ぎてしまう。誰もが二人の姿を見て、悲鳴を上げて退くので、町を歩くにも静かでよかった。
 徐々に、足が自然と港のほうへ向いていく。目的のない放浪も、時間的な制限があれば自然と終わりに向かっていくのだ。キッドも分かっていたようで、何も言わずにローの足が向くまま放っておいた。
 港へ近づくと土産物を売る店が増えてくる。けばけばしい色の屋根がずらりと港町を彩っていた。市場には港から水揚げされてすぐの魚介類が流れ込み、競りの声高く響いている。途中、出港準備をするクルーたちと出くわした。キャプテン! と声をかけて、隣を歩いている男を見て「やべっ」という風に肩をすくめた。
「デート中だよ」
「聞こえるぞ!」
「あとで挽き肉にされちまう」
 ぎろっ、と鋭くにらみつけたローを見て、「キャプテ~ン! 出港は六時っすからね~!」とわざとらしく満面の笑みで応じたクルーに、キッドは機嫌よく笑った。ローは対して不機嫌であった。
 午後の鐘がなれば出港だ。ぼんやりと視線をめぐらせていたローは、屋台のひとつの前に立ち止まった。キッドも合わせて立ち止まる。ローが見ているのは、どの島にも必ず置いてある、その島の国章が刻印された「記念メダル」であった。
「こんなもんが好きなのか、てめェは」
 自分の趣味を棚に上げて、キッドはメダルをひとつ手にとり、指でぴんとはじいた。頭上に上がったメダルをキャッチして、裏か? 表か? と古典的な賭けをしかけてくる。
「表」
 バスケットの中のコインをあれこれ物色しながら、適当に答えたローは、キッドの「アー」という声で自分の勝ちを知った。
「もらうぜ」
 キッドは屋台へ向かってそう声をかけ、記念メダルの代わりに金貨を一枚バスケットへ放り込んだ。手に入れた記念メダルをローに差し出す。ローはまだ自分がメダル集めに凝っているなど一言も言っていない。しかしキッドの中では、ローにはメダルの収集癖があるということで決まったようだ。
「別に集めてねェ、と言ったら?」
「うそだな。てめェのそのツラは、欲しそうなツラだ」
「……ふん」
 ローは笑って、受け取った。まったく、勝手な男だった。このくらい身勝手でないと、海賊のかしらはつとまらないのだけれど、まったく、自信満々で、憎たらしいほど勝手な男だった。
「集めてンのか」
「あァ。ガキのころからずっと」
「じじくせェ趣味だな」
「……うるせェ」
「なんでまた、ンなもん集めてんだ」
「……」
 船着場に到着し、浮上したポーラータング号のハッチに乗り込む。キッドは動かない。そこから先は敵の領域だと認識しているのだ。海賊はこういうものだ。だからこそ、ローはキッドを呼んだ。
「寄っていけ。見せてやる」
 キッドは一瞬、意外そうな顔をしたあと、くちびるを吊り上げて、堂々とハッチにあがった。

 ローの乗るポーラータングは、かなりの改良を施された最新鋭の潜水艦である。と言っても、それが潜水艦であることに変わりはない。キッドが考えていたより内部は狭い。ジャンバールが身動きできるレベルの大きさではあるので、かなり巨大な潜水艦なのだが、ガレオン船で生活するキッドにしてみれば、窮屈そうだと感じるのは当然だろう。
「狭ィ」
 入って数秒で文句を言うキッドに、潜水艦なんだからこれが普通だ、むしろ広いほうだ、とローは一蹴し、自室へ向かう。クルーが時折すれ違っては、キッドを見て「敵襲~~!」と叫ぶので閉口した。クルーたちも分かってやっているに違いない。
 スペースが限られている船内で、いろいろと生活する知恵があるようだ。魚の燻製や、皮のついたままのソーセージが、船の中に干されているのは、貨物室が小さいためだろう。
「うちはまだ真水が使えるからマシだ。改良されてねェ旧型の潜水艦だと、真水に限りがあるから風呂も便所も使えねェ」
「地獄だな」
「軍艦だともぐり始めて数ヶ月は浮上しねェこともザラだ。密室で大人数と生活するせいで、適性のねェやつはブリキ病って精神病にかかることもある。あと何より艦内が臭ェ。それに比べりゃうちは天国だ」
「よく知ってるじゃねェか」
「ガキのころもぐりこんだことがあるからな。これだけ快適な潜水艦は他にはねェはずだ。海軍の軍艦でもこれ以下だろう」
「ンな機密事項をおれに見せていいのかよ」
 ハ、と笑ったキッドを振り返って、
「お前を信用してる」
 ローは誰にも言ったことのないことばを言った。キッドの笑みが、飲み込まれて消えた。
 ボイラーの音だけが残った。

 ローの船室に入り、ローはがっしりとした金属の箱を取り出した。船員たちが三段ベッドで眠るところ、ローの船室には一人用のロフトベッドがあり、デスクが一つ、そして海底と海上の動きを探るための音響ソナー探査機が取り付けられている。潜水艦での戦いは水中音響戦だ。水中での音波の動き方をローがあれこれ説明したが、キッドには何を言っているのかさっぱり分からなかった。
 ローのベッドに腰掛け(そこしか座れる場所がない)、ローが箱を開いて見せた。中にはずらりと、ありとあらゆるメダルが封じ込められていた。
 三段になった収集箱だ。メダルを入れるための箱なのだろう、黒い、メダルの大きさのくぼみのある、クッションが敷かれた箱だった。へえ、と、その見事なコレクションにキッドは思わず感嘆を漏らす。海賊であるならこそ、この趣味はここまで荘厳なものになる。
 今日手に入れたメダルを一番上の段の空きにはめ込む。一番古いものでも、さび付きもなくまだ美しい。はじめのメダルには美しい雪山が描かれている。この国章は、いまは亡き王国だ。
 名前はフレバンス。
 キッドはその国とローがどのような関係なのか、このときはまだ知らなかった。
 順を追って、どんどんメダルは海を進む。この箱を見ればどういう航路をたどってきたか、海図が作れそうなほどだ。けれど、ある期間、航路がめちゃくちゃであることに気がついた。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。あてもない放浪の旅でもしているように、メダルは散り散りになっている。
「このあたりで、てめェは放浪癖を身に着けやがったんだな」
 キッドがからかうと、ローは虚を突かれてハッと目を見開き、じっとメダルを見つめ、物思いにふけるような顔をした。その、驚愕とせつなさをまぜこぜにした顔つきに、キッドも驚かされた。
「……たまに、ユースタス屋がバカじゃねェことを理解させられて、驚くことがある」
 まさに今だが。ローが重苦しく息を吐き、懐かしそうにメダルを眺めるので、誰がバカだと憤慨するのも忘れた。
「おれはこの期間、おれの命の恩人と、あてもない旅をしてた。目的はあったが、どこへ行くのが正解か分からなかったという点で、あれは確かに放浪だった」
 その命の恩人が、ローに子守唄を歌ったのだろう。絶望的にへたくそだ、とローがいとおしげに語る子守唄の主を、キッドも自然、夢想した。
「人目を避けての旅だったから、宿にすらほとんどとまれねェ、その日の食事にも困ったが、あの人はおれに必ず、訪れた島でメダルを買ってくれた」
 ローが思い出すのはあの陽気で、深い優しさをたたえた声だ。
 ……ロー! あのなあ、お前、旅の醍醐味っつったら、記念メダルじゃねェか! 病気が治ったら、おれと世界中のメダルを集めような!
「……それから、おれはずっとメダルを集めてる」
 ローが大切に抱きかかえた箱の一点に、シャボンの舞う大きな木の国章を見つけた。丁寧に磨かれたシャボンディ諸島のメダルだ。長いローの旅の、ある一点を示したメダルに、キッドは、疎ましいような、憎らしいような、けれどもいとおしいような、複雑な気持ちに苛まれた。

 遠くで鐘の音が鳴っている。ゴーン……、ゴーン……、という低い鐘の音に、そろそろ出港だ、とローは立ち上がった。
「てめェを外に出す。そこに立て」
 能力で外へ放り出すつもりなのだろう。お別れの時間だ。キッドはローを引き寄せた。残った片腕でも、充分ローを抱くことができる。ちゅ、と重ねる程度の、ローに言わせれば「ヒヨった」キスをして、キッドはローから離れて立った。
「ルーム」
 不思議なドームがキッドを包んだ。いつかこいつとやりあいになったら、この能力はめんどくせェな、とキッドは常々そう思っている。
「シャンブルズ」
 ポン、と軽やかな音がして、キッドの体が一瞬浮いた。次の瞬間には屋台の前だった。屋台のりんごと交換されたのか、キッドの体は屋台の林檎のバスケットに激突して、てめェ、あの野郎! とキッドが吼え、屋台の店主は突然現れたユースタス・キャプテン・キッドに目を回した。

 しかしキッドのたくらみも成功したようだ。
 手の中に握り締めた、冷たい銀色のコインを見て、キッドはにやりと悪辣な笑みを浮かべる。国章はマングローブ。ふわふわと飛ぶシャボンの絵柄だ。
 潜水しかけたポーラータングが動きを止め、ハッチが音を立てて開いた。怒りか、あせりか、頬をやや赤く染めたトラファルガー・ローが中から顔を出し、「てめェ! 返せ!」と吼え声を上げた。
「返してほしけりゃ、取りに来い、トラファルガー」
 吼え返し、キッドはシャボンディ諸島のメダルをはじきながら、ポーラータングに背を向けた。次に会うときまでこれは預かっておく。追ってくる様子もないので、ローは理解したのだろう。大事なメダルを取られたという理由で、いつでもまた会えるように、キッドがそれを持っていったのだということを。

 磨かれたメダルには、傷一つなかった。大事に持ち主に手入れをされたのだということが分かる見た目をしているだけで、キッドは満足だった。
 規則正しい鐘の音が終わり、町には静寂が戻ってきた。一隻の海賊船が去ったあとの港は、また活気を取り戻し始める。悪ィな、とキッドはぶち壊した屋台の店主に金貨の袋を投げてやって、港町を後にした。

 腕が痛んでいたことを、キッドはもう忘れていた。

未明

 湿った牢獄の床は海水に覆われている。さっきまで水牢だった狭い密室の中で、キッドは血を流しすぎ、ぐらぐらとめまいのする脳みそをなんとか正気に戻そうと意識をつないでいる。足を拘束されているが、拘束があろうがなかろうがいまは指先すら動かせない。
 ざまァねェな、ユースタス屋ァ。
 こんなときでもトラファルガー・ローのからかい声が思い浮かぶ。いっそからかい声でも聞かせてくれればと思うくらいだ。どろ、と生ぬるい血が額をすべり、くちびるまで落ちてきた。頭のどこかが切れているのだろう。もはやどこを傷めたのかすら良く分からない。
「もう一本もイっとくか?」
 キッドの残った片方の腕をさしての揶揄も、受け流せなかった。ダメージが大きすぎて、そして圧倒的な力の差に目の前が暗くなるのは初めてだった。

 バカだったのか? おれは。
 無謀だった? 無鉄砲だった? 向こう見ずなただの荒くれだったのか?

監獄の中でぐったりと敗北しているキッドをあざけり、嗤う声が、カイドウのものなのか、それとも別の連中の声なのか、それすらもう判別がしにくい。

いや。
反芻するな。後悔などおれには必要のねェ感情だ。
いまは耐えるしか、他にない。
 
キッドにとって、服従を受け入れ、膝をつくことは、死よりも重い屈辱だった。命を投げ出してでも抗いたかった。それはキッドの「誇り」だ。それを疑うのは、もう自分すら疑うに等しいことだと、キッドはいらぬ考えを振り捨てる。
「さっさと海軍に突き出してやれ」
「でけェ置物だ。場所を取るだろうが」
「ここで首をはねてやってもいいな。海軍どもの手間も省けるだろう」
 好き勝手に罵られても、反撃ができない悔しさを、いつの日かすっかり忘れてしまっていた。これも自分の高慢のせいか。キッドは、血と水のにおいで充満した、冷たい牢獄を見渡し、ローの言っていた「旧型の潜水艦」のひどい環境のことを思った。
 
 なァ、これよりひでェのか、軍艦は。トラファルガー。

 動かすこともままならぬ腕で、キッドは懐を探り、一枚のメダルを探り当てた。シャボンディ諸島の紋章のある記念メダルだ。ローの大事にしていたメダルが、キッドの額からこぼれた血に汚れた。
 磨いて返さねェとな……。キッドはうっすらと笑みを浮かべ、これを返すまで、死ぬわけに行くかと思った。