ジェイル・ハウス・ロック

※海賊/謎の時空
※モブ女とキッドくんの性描写があります

1.

 目が覚める瞬間というのはどうも不思議なもので、ユースタス・キッドはハッと目を開いた瞬間、それまで自分が一体何をしていたのかを、すっかり忘れ去っている感覚に襲われた。

 部屋の中はきれいに整えられていて、見慣れぬ古びたモーテルにいるようだった。古びた、と言っても、古い館に特有の荒廃したかんじはなく、むしろこざっぱりとして、年代物の家具がきれいに磨かれて鎮座している様子は穏やかですらある。
手入れの行き届いた居心地の良い部屋で、大きなベッドがひとつあり、ベッドの横にはニスが黒々と輝いている木製のエンドテーブル、その上には水差しがあって、もう水はぬるくなってしまっていた。変わった形のコートハンガーに、毛足の長い赤と黒のファーコートがかけられていて、ソファにはズボンと腰布、ベルトホルスターがきれいにたたまれ、重ねて置いてある。机の上にはピストルとダガーナイフが並べて置かれていた。
 自分はあんな風にきれいに衣服を脱がない。キッドはその整然とした自分の持ち物を見て、直感的に、誰かが、しかも「女」がそれらを片付けたのだと考えた。昨晩のことをほとんど覚えていなかったにも関わらず、ユースタス・キッドは生まれ持った野生の勘と、死線を幾度かくぐってきた経験則で、自分が昨晩夜を過ごした相手が女で、その女がご丁寧にそれらを片付けたのだと理解した。
 夜を女と過ごしたということが特別なわけではない。知らないモーテルの一室で飛び起きることが特別なわけでもない。ユースタス・キッドにとってはいまの状況はさして異常というわけではなかった。けれど、彼はその整然とした部屋のなかに、尋常でない何かの気配を感じ取って、寝ざめの悪さをかみしめていた。
 ずるり、とシーツが体を滑り落ちていき、彼の胸がまっさらな朝の空気にさらされた。筋肉のすじがくっきりと浮かび上がったたくましい胸の右半分が、やけどの痕と古い傷に覆われている。彼が異変を感じたのはその胸にであった。ずきずきと沁みるような痛みを感じる。手で触るとみみずばれになっていた。
 起き上がり、壁にかけてあった美しい額縁の鏡の前に立った時、キッドは自分がやはり何か異変にさらされているらしいことをはっきりと飲みこみ、鏡の中の自分と目を合わせた。
 彼の胸には、何か尖ったもので切り付けられた痛々しい傷口があり、その傷口が、うっすらと文字をかたどっていた。

「覚えられることは三つまでと思え」

 意味深なメッセージだ。自分でつけた覚えはない。ただ、キッドは「胸に何か書いてある」ということと、「自分はモーテルに泊まっているらしい」ということ、「覚えられることは三つである」ということを記憶の中に蓄えた。

窓の外を見ると鳥がさえずっていた。
 朝の陽光が窓から差し込み、外は鬱蒼と生い茂るみずみずしい森林の群れだった。地平の見えないほど重なり合った木々の向こうにかすかに湖畔が見える。キッドはとてつもなく目がよいので、かなり遠くまで見渡すことができた。彼の野生の獣のような目が、日の光を照り返す湖畔のかがやきをとらえたのだ。キッドはそこが森の奥で、湖畔の近くにあるモーテルであることを記憶した。
 そして、キッドは自分が素裸であることを意識し、畳まれた衣服を拾い上げてひとつひとつ身に着けて行った。全部を体にまとうと、非常に体になじむ感覚があり、安心した。コートを羽織るといよいよその安心感はふくらんだ。
 鳥のさえずりに引き寄せられて、キッドは窓を開けた。窓を開けて、さてここはどこだ? キッドは再びそう考えた。そして自分のいる部屋をもう一度ぐるりと見渡してみる。
 ここはどこだ?
 どうしてここにいる?
 キッドは部屋の中を行ったり来たりして、ぐるりと何かないか見て回ってみたところ、壁にかかった鏡を発見した。そして、自分の胸に書かれている文字に気が付いた。先ほどから胸のあたりがじくじくと沁みるように痛かったのだ。鏡の中のいぶかしげな自分がこっちを見つめ返している。胸には何か尖ったもので切り付けられたような痛々しい傷口があり、その傷口が文字をかたどっていた。
「覚えられることは三つまでと思え」
 なんだこれは? キッドがそれについて考えようとしたとき、キッドの目に湖畔のきらめきがうつった。どうやら湖があるらしい。窓が開いていた。誰があけたのか、それともさっきからあいていたのか判断がつかないが、開いた窓から鳥のさえずりと森林のみずみずしい木々の香りが入り込んでくる。どうやらここは森の奥にあるらしかった。
 キッドは飢えた獣のように、部屋の中をうろうろと、何度も行ったり来たり繰り返し、鏡と窓に何度も目を奪われた。たまにテーブルの上の酒のボトルや、エンドテーブルの上の水差しに目をやって、ひとくち飲むと、また窓や鏡を行き来する。そしてまた水差しや酒のボトルからひとくち飲む。ついに酒のボトルと水差しは空になり、キッドは何度も空のボトルを傾けることになった。
「おはようございます」
 静かに部屋の扉が開いて、中に一人の女が入ってきた。女は女中の格好をしていた。年のころはまだ十代に見える、若々しい女だった。彼女の方を振り返り、キッドの脳みそに新しい人間が記憶された。女だ。若く、黒々とした長い髪を持つ、おそらくメイドだろう。彼女は手に持っていた朝食の盆を机に置くと、あら、お水とお酒がないですね。持ってまいります。そう言って、ボトルと水差しを回収して行った。
 キッドは女と朝食を認識し、そして朝食を食べるという新しい行動の糸口を見つけた。朝食の前に座り、焼いたばかりのふかふかしたパンケーキと、コップ一杯のミルク、鴨の刺身が乗ったサラダ、端のあたりがかりかりに焼かれたサニーサイドアップ、それらが綺麗に盛られたプレートを、ひとつひとつ空にしていく。料理の味は悪くない。男ばかりのキッド海賊団で、男のコックの粗雑な味になれたキッドは、ひさびさに女の手によって作られた女らしいやわらかさのある食事を味わった。
 女中はすぐに部屋に戻ってきた。水差しの中にたっぷり水を汲み、新しい酒のボトルをエンドテーブルに置くと、彼女はベッドメーキングをして、部屋の乱れを少し整え、それから改めて、キッドの座っているソファの向かいに腰掛けた。キッドがぎろりと目を上げると、彼女はにっこりと微笑み返してくる。よくもまあ、この強面の男が食事をしている前に自ら座って、そんな顔ができるものだとキッドは半ば感心した。
「何か用か」
 キッドが青々と水をはじいているサラダ菜をばりばりと歯で噛み砕きながらそう言うと、女中は少し顔をあからめた。ひどい人ね、というニュアンスを含んだ顔つきだった。
「……覚えていらっしゃらないの?」
 彼女が声を潜めてそう言ったとき、キッドの深い部分に根を下ろしている直感が、自分が昨晩、相手に選んだのはこの女だったらしいと告げていた。といって、まったく記憶にはない。女の顔すら覚えていなかった。髪が綺麗なこと以外は、特筆すべきところもない平凡な女中だ。頬がふっくらとしていて、ばら色に輝き、健康的な若い女中。それだけだ。自分は酔いに任せて、泊まったモーテルの女中をベッドに引き込んだらしい、とキッドはなんとなく気がついて、照れ隠しにパンケーキを丸ごと一枚口にねじこんだ。
「……明日の朝も来てもいいって。言ってくださったから。覚えてらっしゃらない?」
「……いや、……昨日のおれは深酒してたか?」
「お泊りになってからはボトルを一本だけ。その前にたくさん飲んで来られたんじゃありません?」
 キッドは昨夜のことを思い出そうと、黙ったまま食べ物を租借した。昨夜、というと、体の感覚に違和感がある。もっと長い時間が経っているような……。このモーテルに入る前、酒場に行ったことはなんとなく記憶にあった。この島に上陸してから、最初にキラーたちと酒場へ行き、そして翌日は適当な店で拾った女を数人囲って宿に入った。それから翌日、一人で路地裏のバルに入ったのだ。細長い、ろくろく席もないバルだったが、適度に静かで適度にさびれたいい店だった。古い円盤が回り、針が悪くなった蓄音機がくぐもった死にかけの音を出していて、キッドはそこでグラスを磨く以外にやることのなさそうな店主とふたりきり、ひたすら酒を飲んでいた。
 そして、しばらくして……。
 このモーテルで目を覚ましたのだ。あの酒場からモーテルへ移動した経緯の部分は根こそぎ消えている。誰に会ったかも覚えていないし、どうやってここまで来たのかも覚えていない。その部分だけ抜き取られたように真っ白だった。あのあと深酒してごっそり記憶が抜けたのか? キッドはすぐにその考えをありえないと打ち消した。簡単に酒でつぶれるような体にはできていないし、キッドは記憶を根こそぎぶっ飛ばしたことはいままで一度もない。あいまいでも、酩酊に至るまでの記憶は残る。酩酊しても記憶も足取りもしっかりしている自信もあるし、そもそも安心しきって深酒することなどないに等しい。どのタイミングで寝てしまったのか覚えていないことはあっても、どうやって宿へ行ったのか覚えていないことはいままでなかった。キッドの本能的な部分が、「ありえない」と警鐘を鳴らしている。この場所に、記憶を失うほどの酩酊のまま一人で来ることはありえないのだ。
 そして更に、この女。抱いたことを覚えていないほど酔っていたというのもにわかに信じがたい。どれだけ酔っていたって、女の趣味は本能に従うはずだ。けれど目の前にいる女中は、キッドがこれまで興味を示したことのない、他愛もない女だった。愛嬌はあるが、格別美人でもないし、ものをはっきり言う女が好きなキッドにとってみれば、こういう物腰の丁寧な女はあまりそばにおかない。そして小柄すぎる。肉付きもよくない。どちらかというとキッドは適切な場所に適切に肉がついている女が好きだった。こんな抱きしめたら折れそうな華奢な女は間違っても抱かないだろう。いつもの自分なら。
「ここはどこだ」
「あら。やっぱり覚えてらっしゃらないのね。見ての通り宿屋です。といっても客間は四つしかないし、お客さんもいまはあなた一人ですけど、いちおう、宿屋です。その様子じゃ昨日のことは覚えてらっしゃらないのね」
「おれはどうやってここに来た?」
「歩いて」
「歩いて?」
「ええ、歩いて。」
「そういうことじゃねェんだが、……誰かと一緒に来たのか、それとも……」
「お一人でしたわ」
「ところでてめェは誰だ」
「やっぱり覚えてらっしゃらないのね? わたしはここの宿屋で給仕をやってる、メモリです。ひどいわ、やっぱり覚えてない。」
「悪ィ、今日は……、いや、昨日は特に……。ところで、ここはどこだ」
「宿屋です。名前はゲデヒトネス。へんてこな名前でしょう? もう今は亡くなりましたが、先代の主人がおつけになったのよ」
「……そうか……。宿屋、……おれは昨日深酒してたか?」
「お泊りになってからはボトルを一本だけですわ。ハートランドを一本。」
 キッドはふつふつと胸に起こってくる不安感、違和感に気を取られながら、むき出しの胸にあるみみずばれの痕を何気なく触っていた。怪我をしたのか、ひっかいたのか、何かぼこぼこした感触と、沁みるような痛みがある。女中のメモリはその傷跡を見て、にいっと嫌な笑い方をした。
「あら。ひっかき傷ね。森の木々で引っかいたんでしょう。破傷風なんかになってもいけないから、消毒するわね」
 女中は立ち上がり、壁にある豪華な額縁の鏡をはずして、部屋を出た。なぜ消毒するために立ち上がったのに、鏡をはずす必要があったのかは分からない。自分の胸を見下ろすと、確かに傷跡が並んでいた。何か文字のように見えるその傷跡をじっと眺めているうちに、メモリが戻ってきた。
「見せて頂戴」
 メモリはキッドの前にしゃがみこみ、案外と豊満な胸元を、開いたシャツの間から見せ付けるようにしながら、キッドの足の間に体を押し込んで、消毒液を浸したガーゼをキッドの胸にぺたぺたと押し付けていく。じく、と沁みたが、それも一瞬で、メモリはそのあと薬草を練って作った軟膏を塗った。傷口はなだらかに、見えにくくなった。
「これで大丈夫」
 メモリはそう言って、ぴと、と胸をキッドの体に押し付けて、キッドを見上げた。
「わたし、昨晩のことよく覚えてます。どんな風にあなたに暴かれたかも。だから思い出して、キャプテン・キッド。ほかの事は覚えていなくて大丈夫。わたしはメモリ。わたしのはじめての男はあなたよ。わたしはメモリ。あなたのものよ。あなたの女。ねえ、わたしの名前を言って」
 抗えない魔力のようなものを感じて、キッドは「メモリ」と名前を呼んでいた。記憶がぐちゃぐちゃにかきまわされ、キッドの頭の中に残っているのは、彼女が「メモリ」であるということ、そして彼女の処女を奪ったのは自分で、彼女と昨晩ベッドに入ったらしいということだけだった。キッドは自分がどこにいるのかを忘れ、どうしてここに泊まっているのか不思議に思っていたことを忘れ、ただその三つだけを刷り込まされた。
「もう一度言って」
「メモリ」
「そう。わたしは誰?」
「メモリ……、おれの女だ」
「ねえ、大好きよ、キッド」
 抱いて。言われるまでもなかった。キッドとメモリはソファにもつれ、朝の日差しが差し込んでくる窓をあけっぱなしに、激しいセックスをした。メモリは自分の腹の中にキッドの精が注がれることをねだり、欲し、はしたない嬌声を上げてキッドを求めた。
 なにか重大なことを忘れている。キッドはセックスの間中そう考え続けていたが、メモリから与えられるメモリについての記憶が次々とキッドの思考を奪い、そしてメモリのことだけを記憶した。
 セックスが終わると、キッドはシャワーを浴びるために服を脱いだ。出てくると今度はメモリがベッドで待ち構えていた。キッドはシャワーを浴びている最中、外が森林と湖畔のある静かな場所であることと、自分はどうやらモーテルに泊まっているらしいということ、そしてここへ来るに至るまでの記憶がないことを「記憶」していたので、ベッドに横たわっている女が誰なのか分からなかった。彼女は、昨晩のことを忘れてしまったキッドに「ひどい人」と言い、そして、ベッドに誘った。どうやらこの女と昨晩からここへ泊まってセックスしていたようだった。
 彼女はメモリと名乗った。そしてユースタス・キッドに処女を奪われ、彼の女になることを誓った。キッドは誘われるがままにベッドに入り、その間メモリのことだけを記憶した。

 

2.

 新世界に入ってしばらく経ったが、あまりに代わり映えがしないので、トラファルガー・ローは早々に航海に飽き飽きしてしまっていた。上陸した島も、大して変わったところはない。ただの島だ。特筆すべきところがあるとすれば、先に悪名高いキッド海賊団の連中が寄港していたことくらいであろうか。
 一度シャボンディ諸島で不本意な共同戦線を張ったことがあり、あのユースタス・キッドとはいろいろ悶着があったが、この島は広く、噂で彼らが滞在していることが流れてくるくらいで、顔を合わせることもなかったので、自分から会いに行くのも癪だと、ローは彼らと遭遇しないようにこころがけて陸での日々を送っていた。ログは一週間もあれば溜まる。物資の調達は終わったし、あとは今後のことを綿密に打ち合わせてから、しばらくまた陸上とおさらばだ。海に出る前に打ち合わせておく必要があったため、ハートの海賊団はログが溜まってからもこの島に停泊していた。
 トラファルガー・ローが新世界に入ったのはキッド海賊団より幾分か時期が遅い。取った航路も違うので、ばったりここで鉢合わせたのだろうが、それにしても彼らの航海のスピードは遅かった。ローたちの方こそそもそもこの島に長居しているというのに、もう次の島へ向かってもよさそうなものを、キッド海賊団はさらに長いことこの島に滞在している様子である。
 着々と方々を領地にし、規模を拡大して新世界を進んでいるキッド海賊団とは違い、ハートの海賊団は隠密行動を取っていた。ローが当座の目的地としているパンクハザードとそこへ至るまでに必要な「七武海」の地位の獲得を画策して、ローたちはあまり表舞台に出ないように気をつけていた。海賊らしく立ち回るより、ローは「何をしでかすか分からない存在」として政府の脅威たろうとした。現に、北の海出身の海賊、死の外科医トラファルガー・ローは彼の部下たちとともに潜水艦で謎の人体実験を行っているとか、ローが新世界に入ってから起こった誘拐事件の六割はローの手によるものであるとか、そういったうわさがじわじわと広がっている。確かに新世界に入ってから人体実験を数回したし、誘拐というより襲ってきた海賊船を沈めたついでにモルモットを何人か連れ去ったのは連れ去ったが、うわさに尾ひれがつきすぎだ。しかし事態はうまい方向へ進んで行っている。そうした数々の黒いうわさや事件のせいで、ローの賞金額もより一層高額になった。あとは、海賊たちの首を段ボール箱にでもつめこんで空の便でマリンフォードに送りつければなにもかもうまくいくだろう。
 という、今後のおおまかな計画を頭の中で整理しながら、ローは朝のにぎやかな通りで、テラス席を陣取り、朝食を食べていた。朝食にはシリアルかパンケーキばかり出す他の店と違って、このカフェーはコメ料理があった。この島で一番気に入っている場所はどこかと聞かれれば、ローはこのカフェーだと答えるだろう。ローの好きな銘柄のコメではなかったが、細長くて粘り気の少ないイースト米ではなく、ワノ国で生産されているという、白くてふっくらした、粘り気のある白米を使ったコメ料理が出るのだ。ローはカレーだのチャーハンだの、調理しなければ食べられないイースト米よりも、塩を振って握るだけでうまいワノ国の白米がとても好きだった。そしてまさしくこの店は握り飯を出した。
 プレートに乗った三種類の握り飯に、本当は緑茶があれば一番いいのだが、この店では花ノ国産の花茶を出している。球状の茶葉は、ポットに湯が入れられると、ゆっくりと開いて中に仕込まれていた千日紅とジャスミンの花が開くように作られている。見た目も美しい、かおりもよい上質な花茶だった。花ノ国の工芸品として輸出されているらしい。
 茶を飲みながら、ベポの書いた海図を眺め、どのルートで海賊たちの首を収集していくかを考えていたローの前に、ふらりと影がかかった。誰かが前に立った気配で、ローは目を上げた。目の前にいたのは見知った男だった。
 
 例の仮面は二年経っても変わっていないらしい。二年前は割と細身だった記憶があるが、いまはその面影もなく、筋肉質で大柄な体に変化していた。仮面がなかったら、一体誰だか分からなかっただろう。ローがこの男と直接話したのは二年前、シャボンディ諸島で数度だけだ。苦労人タイプの男だが、自分のボスの手綱を注意深く握っておく思慮深さを持った男だと認識していた記憶がある。
「……おれに用か、殺戮屋」
「……戦意はない。ひとつ聞きたいことがあって来たんだが」
「二年ぶりだって言うのに、挨拶のひとつもねェのか。長くなるならかければいい」
 ローの不遜な言い方に、キラーはため息を漏らしたが、何も言わずに前の席に座った。話はどうやら長くなる類のものらしい。
 二年前、キッドとやりあった後、いろいろ悶着があったが、そのときもずっとキラーはローに対してあまりよい印象を持っていないようだった。信用ならん、とキッドに対して苦言を呈していたのも覚えている。だが、必死になって止めてこないあたり、相当な脅威としては考えていないようでもあった。ウェイターが彼に何か必要なものはあるかと尋ねたが、彼は腕組みをしてローに視線を送ったまま(仮面のせいで定かではないが)、いや、いい。と簡潔に断った。
「で? おれの朝食を邪魔してまで話すに値することなんだろうな」
 挑発的なローの物言いも、キラーは反応しなかった。受け流して、彼は言葉をえらんでローに話し始めた。
「キッドが消えた」
「……ユースタス屋が? モーテルで女とヤり狂ってるんじゃねェのか。それとも酒場か、または……」
「キッドが消えてから二週間経つ。あいつはログが六日間で溜まることも知っているし、決して何も言い残さずに停泊期間を伸ばすこともしない。お前が思っているよりキッドはバカじゃない」
「……誰もユースタス屋をバカだとは言ってない。浅慮なだけだ。あいつは実際、アタマは悪くない」
「すまん。おれも言葉が過ぎたようだ。……とにかく、あいつが断りなくこれだけの期間消えることは絶対にない。だからお前に話を聞きに来た」
「なぜおれに?」
「……お前がキッドの居場所を知っているんじゃないかと思ってな」
「さァ、知らねェな」
「……もっと端的に言おうか。お前がキッドをどこかへ連れて行ったんじゃないかとおれは疑ってる」
「……へへ」
 言葉遣いは丁寧だが、キラーの体からは怒りが立ち上り、キッドが消えたことについてかなり深刻に考えているようだった。そして、その容疑者としてローが挙がってきたわけだ。あの男が囚われの姫よろしくさらわれるタマか? とからかってやろうかと思ったが、話がこじれても面倒なので黙っておいた。いまのキラーはその類の冗談をあまり面白くは思わないだろう。
「そう考えた根拠はあるのか?」
「まず、お前がこの島にやってきたのがちょうどおれたちが上陸して三日目だ。そしてその三日目の夜、キッドは一人で飲むと言っておれたちと別れたきり、今まで戻ってこない。キッドが消えてからもう十日経ってる。あいつが十日もひとところに閉じ込められたままだとは到底思えない。あいつをねじ伏せて閉じ込めておける可能性のある人間は、この島にはいまお前しかいない。お前とあいつの戦闘のやり方はあまり相性がよくなさそうだからな。その上、お前は海賊の首を集めているとうわさされている。お前が海賊狩りの真似事をするとは思えないし、おそらく権力のアピールか、政府への取り入りだろう。そのためにはいま懸賞金を伸ばしているキッドはちょうどいいカモだ。しかも、あいつはお前に」
「惚れてる?」
「そうだ」
「ッハ! それこそ根拠のねェ話だ。だがいい推察だとは思う」
「おれが見抜かないと思うか。お前はともかく、あいつは隠し事は得意じゃない。それに、カモメ便を受け取るのは主におれだ。あいつにたまに小包が届いているのを知っているし、キッドはそれが届いたらたいてい中身をその場で開けずに自室へ持ち帰る。うれしそうにな。しかもあいつの方もたまに何か送ってる。まさかキッドがカモメ便の出し方を覚えるとは思わなかった」
「……かわいいやつだ」
「だから。お前はキッドを利用して政府に取り入ろうとしているかもしれんとおれは考えた。二年前に出会った日から準備していたのかもしれんと……」
「かしらの色恋沙汰に首を突っ込むのか? とんだおせっかいだな、殺戮武人。お前はおれの母親かとユースタス屋に言われたことはねェか?」
 むっとした様子で黙ったキラーの様子を見て、どうやら言われたことがあるらしいと察し、ローはくつくつとのどで笑った。しかし、ユースタス・キッドが消えたというのは紛れもない事実だろう。そして、ローはキッドをとっ捕まえてなどいない。そもそも狭い潜水艦にあの大きな男を押し込めるスペースもない。しかし、あれこれ言い訳を並べても、キラーは信用しないだろうと考え、ローは微笑んだ。このときローは、正直なところキッドが消えたという事実に関して興味半分、からかい半分くらいの気持ちだった。
「何をすればおれの容疑が晴れる? 囚われの姫を見つけ出して奪い返せばいいのか?」
「ふざけるのはよしてくれ。おれがお前に話したのも苦渋の選択だったんだ。トップが消えたことがどれだけ緊迫した出来事か、お前も船長の端くれならわかるだろう。お前と一戦交える心づもりもある。だからおれが来たんだ」
「……なるほど」
 ローはぎらぎらと敵意に燃えているキラーに肩をすくめ、飲みかけの花茶に多少の名残惜しさを感じながら席を立った。何か面倒事に巻き込まれているのかもしれないが、キッドなら自力でなんとかするはずだ。だが多少気にもなる。キラー自身が示唆したように、キッドはローに「惚れて」いるし、ローだって、それは同じだった。気にならないわけがない。だからこそこの島で鉢合わせになりたくなかったのに。(キッドの方はそうは考えていないかもしれないが。)
「分かった。時間をくれ。ユースタス屋を見つけておれの容疑が晴れるなら見つけてやるよ。二日あれば十分だろう。もう少し待て。おれたちがトンズラして逃げられないように、船の停泊場所を教えておく。島の南東、第一ポートだ。船員を人質に取ってくれてもいい。おれがペンギンに一筆書くから、これを持ってペンギンに会いに行け。ペンギンはおそらくクラブ・アルパで女と寝てる。おれから二日間連絡がなかったら船を沈めていい」
「……まるでメロスだな」
「メロス?」
「いや、いい。おれたちも引き続きキッドを探すが、何かわかったらこの番号に連絡してくれ。お前が本当にキッドを連れ去っていないなら、キッドが見つかったあと、おれたちも誠意を見せよう」
「あァ。じゃァ、二日後の朝八時、この店にまた来い」
 刀を担ぎ、黒いロングコートを翻して朝の通りに消えていくローを見送りながら、キラーは肩透かしを食らったような気持でいた。まさかここまですんなり協力を買って出てくれるとは思っていなかったのだ。正直なところ、ローに対して疑いを持っているというのは嘘だった。キラーが自分で言っていたとおり、二人の関係性が見抜けないはずがない。だからわかる。長く航海してきたが、キッドは本気だ。ローの方がどうかは分からないが、今の態度を見ていると向こうも案外本気なのだろう。キラーはローのことを試すつもりで、話を持ちかけた。何しろ、ああいう謎めいた、アタマの切れる男でないと解決しがたい事件に思えたのだ。キラーは自分の試みがうまくいったことを感じて、とにかく女と楽しんでいるらしいペンギンに事態を知らせるため、クラブ・アルパへ向かった。

 キラーと別れた道すがら、ローは頭の中でキッドの足取りを整理しながら、市場を颯爽と歩いていった。するすると客引きの手を逃れて、くだものや獣の肉がふんだんにならび、活気づいた市場を抜けていく。キッドは一人で飲むと言って消えた。キッドは一人で飲むとき、少しくたびれた、隠れ家のような場所で飲むのが好きだ。まずはその場所を探すのが一番だろう。市場を抜けて袋小路に入り、街の周縁部に近づくと、だんだん娼館がぽつぽつと見えてきた。石造りの美しい、古めかしい街並みだが、娼館はどこにでもあるものだ。まだ朝方の娼館には、疲れ切った紳士がみだらな恰好の娼婦に見送られて外へ出ていく様子があったり、起きたばかりの娼婦が窓を開けて空気を入れ替え、あくびをしている姿が見られるばかりだった。
 見送りを終えた娼婦にふらりと近づくと、営業時間を終え、いまからまた一人寝を楽しもうとしている娼婦はちょっと嫌な顔をする。ローは構わず、彼女らひとりひとりに同じ質問をぶつけた。「ユースタス・キッドが店に来なかったか?」。
 あたりはなかなか出なかったが、ある娼館の前でそう尋ねたとき、髪のぼさついた、煙草のにおいの沁みついた小柄な娼婦が、
「あァ、来たよ。ちょっと前だけど。一週間、……いや、もっと前かな? 赤い髪の、海賊だろ?」
 お兄さん火ィもってる? 彼女はそう尋ねて、ローのジッポからオイルをもらった。ふか、と白い煙を吐き出して、彼女はひとつ大きなあくびをした。
 彼女ら、港町の娼婦は、海賊の相手をよくやるせいで、たいていの札付きについては顔を覚えている。ユースタス・キャプテン・キッドとなるとなおさらだ。彼女は手配書を一度確認してから、あァ、やっぱりそう、来たね。あたしが接客したんじゃないけど。と言った。
「接客した女はここにいるか?」
「いるよ。三人いるけど、一人はまだ客と寝てる。二人は朝飯に行ったか、もう一度寝たか……」
「呼んでくれねェか」
 ローが涼しい目元をすこし細めて、女の体に手を回し、彼女の薄いベビードールをめくってその下のパンティにベリー札をひとつかみ挟み込むと、彼女は煙を吐くのをやめた。
「ワオ」
 尻の方へ手を回し、札束の感触に彼女は感激の声を上げてから、ローの顔をまじまじと見た。
「アッ、ちょっと待って、ねえ、アンタ、ローじゃない? トラファルガー・ロー」
「そうだ」
「すごい。手配書で見るよりいい男だね。どうしてキャプテン・キッドの相手をした女をさがしてんの? あたしには興味ない?」
「いまはセックスに興味がねェんだ。また興味が湧いたらお前を指名する。だからその女を呼んでくれ」
「分かった。寝てたら叩き起こして来てあげる」
 女は美しく整えられた爪先の指でローの顎とあごひげをくすぐり、身をひるがえした。彼女はほどなくして一人の娼婦を連れて戻ってきた。支配人には黙ってあるらしく、彼女らはローに裏口へまわれと言って店の裏側へ連れて行った。彼女らはふたりとも、ベビードールの上からガウンを羽織っていた。
「ほんとだ。手配書よりクールね。ねえねえ、ホントのところ、いくつなの?」
「二十六だ。本題はそこじゃねェ」
 年齢についてきゃあきゃあ騒いでいる二人の女をいなしてから、ローはキッドについての話を聞いた。女は化粧のとれかけた眠たそうな目で、それでもいきいきとその夜の話をした。
「キャプテン・キッドがこの店に来たとき、最初は酒場にいたの。わたしたちははじめ酒場で客引きをしてから、寝る気があるならこっちに引っ張ってくるのよ。酒場とわたしたちの店のオーナーが手を組んでるからね。キャプテン・キッドを誘おうって言ったのはわたしじゃなくて、マグノリアっていう子。彼女はちょっとクレイジーで、金に目がないから、一番リスクが高そうでも、危険を冒す価値があるって考えたみたいね。わたしともう一人は、そりゃあしり込みもしたけど、ヤバくなったら逃げればいいかと思って、彼を誘った。彼はしばらく酒場でわたしたちと飲んでたけど、そのうち、マグノリアが彼を娼館に誘ったわ。彼は誰か一人を選ぶかと思ったけど、三人一緒でいいって。すごいわよね。さすが『最悪の世代』。彼とヤって、彼は朝になったらすぐいなくなった。これまで相手した誰より金の払いが良くて、支配人も帰すのを渋ってたわ」
 ユースタス・キッドの乱交について聞いているうちに、ローは表面上眉ひとつ動かさなかったものの、胸のむかつきを感じ始めた。他人の女遊びなど大して衝撃でもないとローは考えていたのだが、それは誤算だった。何より、楽しそうにその夜のことを話す彼女の存在に対して、ローは胸糞が悪くなったのだ。せめて彼女が、ヘタクソだった、だの、乱暴された、二度とヤりたくないだの、そういう言葉でキッドをこき下ろしてくれたらもっと気持ちは楽だっただろう。キッドがそのあとどこに行ったか、彼女は知らなかった。だが足取りはつかめた。ローは彼女らが指した、キッドが消えて行ったという方向へ足を向けることにした。
 ユースタス・キッドの取りそうな行動くらい、ローには予測ができた。彼が以前と変わっていないなら……、女を抱いた後、もう一度どこかで眠るだろう。あの男は娼館のベッドでは熟睡しない。彼女らを食ったあとはほとんど寝ていないはずだ。おそらくだが、このあたりにキッド海賊団の船が停泊しているので、キッドは一度船に戻り、そこからまた夜になって陸上に這い出した。キッドたちが船を止めている第三ポートの近くまで行って、そこからローは、港町の奥へ進んで行った。
 まだ日が高いので、多くの酒場がまだ営業していない。酒場は夜に行くとして、街のカフェーでキッドが来なかったかを尋ねたが、一軒も当たりはなかった。ローは一度そこでキッドの探索をやめ、港町を歩いて自分のために必要な物資の調達をすることにした。

 新しい万年筆と、羅針盤つきの時計を買って(正直なところ時計は余計な買い物だった。)、ローは遅めの昼食を摂り、そろそろ沈み始めた太陽とともに行動を再開した。キラーに二日間で探し出すと言ったが、二日も必要がなかったかもしれない。あとはキッドが入った酒場だかバーだかを特定すればほぼ彼の最後の足取りはつかめる。あとはそこで、キッドが何をしたかだ。それはその場所を探し出せばおのずとわかるだろう。
 夕闇が街を覆い始めると、港町には灯りがともりはじめ、酒場がにぎやかになってきた。街頭でアコーディオンを弾く曲芸師の一団や、もう店じまいが近いアイスクリームパーラーを横目に、ローはOPENのプレートのかかった酒場にひとつひとつ入って行った。夕刻すぐはならず者の姿も少なかったが、夜が近づくにつれて物騒な顔がちらちらと店を出入りする。二度ほどくだらない喧嘩をふっかけられ、数える気も起きないほどの客引きを受けながら、ローは店から店を転々とした。思いのほかキッドに関する情報は少なかったが、一軒の酒場で、マスターがキッドのことを話してくれた。一人で静かに飲みたい気分だったのに、海賊の一団が現れ、店で大騒ぎしたあげく、キッドが一人だったことをいいことに、彼に喧嘩を売ったものだから、一人残らずぶちのめされたそうだ。酒を浴びせかけて火をつけたり、素手で首を折られたやつもいたという。店の修繕費と迷惑料を上乗せして支払ってくれたのはありがたいが、もう二度とあんな恐ろしい目には合いたくないね、と店主は肩を落としていた。
 彼によると、ユースタス・キッドは、乱闘を起こした詫びを支払ってから、一人で静かに飲めるところはどこかと店主に尋ねたそうだ。店主は路地の奥にある、たった五つしか席のない、このあたりでも知っている者の少ない穴倉のバーを紹介したらしい。あのバーの店主は元海賊だし、常連しか来ないような場所だから、と店のカードを渡した。キッドはそこに行くと言って、店を後にした。
「おれにもそのカードをくれないか」
「あァ。いいよ。あんたはなんだってあの男を探してるんだ? 海賊同士の小競り合いか?」
「いいや。おれはあいつと知り合いだ。ちょっと用がある」
「なるほど。場所はちょっとわかりにくいが、通りを三ブロック分進んで、家と家の間に入って行けば、路地の奥に看板がある。ケマンチェという店だ。まあよく探してみな」
「ありがとう」
 ローはカードをコートのポケットにいれ、店を後にした。店には陽気な音楽が流れていたが、キッドがここでひと暴れしたことが原因なのだろうか、客入りは大してよくなかった。
 
 店主の言うとおりに進み、家々の間をじっと注視しながら歩いていくと、古ぼけたハイネケンの看板の向こうに、人ひとりやっと通れるくらいの細い路地があった。灯りの一つもない真っ暗な細いデッドエンドで、一番奥にランプがともっている。ランプの下に小さな看板が見えた。
 ケマンチェ、と読みにくいつなげ文字で彫られた木造りのドアと、みすぼらしい小さな看板がある。看板にもケマンチェ、と書かれており、メニューらしきものが書いてあったが、不鮮明すぎて読み取れなかった。ドアを押し開けると、低いベルの音が鳴り、本当にたった五つしか座席のない、小さなバーが現れた。
 マスターはカウンターの中でグラスを磨いていた。ローが入ってきても特に気にした様子もない。ロー以外にはまだ誰も客がいなかった。スツールに腰掛けると、やっとマスターがローの方を向いた。いらっしゃい。何にしますか。
 なんでもいい、辛口のをくれ。そう言うと、ほどなくしてカクテルグラスがひとつ出された。無色透明の液体で満たされたグラスから、スミレのかすかな香りがしている。名前を聞くと、アティと答えた。
「あんたはトラファルガー・ローだろう?」
「そうだ」
「だからアティ(弁護士)。あんたはロウ(法)だからな」
「……へへ」
 マスターのまずいシャレでかすかに笑ったあと、しかしカクテルの味はよかった。ローはしばらくそこでローストナッツをつまみながら酒を飲み、マスターが幾分かローに慣れてきたところで、キッドの話を持ち出した。
「ユースタス・キャプテン・キッドを見なかったか?」
「キッド? あァ、キャプテン・キッドか。この店に来たよ。数日前だが……、一人でふらっと。おれが懇意にしてる酒場から移ってきたそうで、ひと悶着あったようだったな。人の多い酒場はうるせェ、って不機嫌そうだったが、おれがサウスの生まれだったのもあって、話してるとだんだん機嫌はよくなった。あいつは豪傑でいいねェ。おれも若いころを思い出した」
「ここで何かなかったか? 小競り合いとか、不穏な何か……」
「いや、特に……。おっと、待てよ、途中でうちの常連が来てね。打ち解けたみてェで、二人で出てったな。ちょうどそいつは自分でモーテルを経営してたもんで、泊まらせてやるとかなんとか言って……」
「そいつのことを詳しく教えてくれ」
「あァ……、いや、普通の女さ。モーテルをやってるんだが、自分一人でほとんど何もかもやってる。小さなモーテルで、部屋が五部屋しかねェから、何とかなるのかもしれねェが、昼間に掃除婦と、夜に料理人を呼ぶだけで、さみしいモンさ。ただ、両親が早くに死んでてね。唯一残ったものだから、と、ずっとモーテルを守ってる。キャプテン・キッドはその話を聞いてえらく感動したみてェで、店の売り上げに貢献してやろうか、なんて冗談を言ってたが、まんざら冗談でもなかったのかもしれねェな」
「女か……。どういう女だ?」
「断じて派手な子じゃねェ、キャプテン・キッドもあの子を女とは見てなかったように思うぜ。まだあの子は十八だ。子供くささが抜けきってねェし、美人は美人だが、なんというか、色気みてェなもんはねェな。一緒に出ていくのを見たが、かなり大目に見ても兄妹にしか見えなかった」
「なるほど。そのモーテルの場所は?」
「おいおい、あの子の店で何かもめごと起こす気じゃねェだろうな? 海賊同士の小競り合いにあんな若い子を……」
 そのとき、控えめなドアベルの音がして、一人、店に入ってきた。小柄な少女である。小ざっぱりとした飾り気のないワンピースを着て、エプロンでもつければ女中にしか見えない。きれいな黒髪を持つ少女だった。
「おや。噂をすれば」
「なに、マスター、わたしの噂をしてたの?」
 彼女は笑って、マスターにそう言ってから、ようやくローの存在に気付いたようだった。カウンターの奥に座った見知らぬ男の姿に、彼女はやや驚いたようだったが、二つ離れた席に座り、マスター、ハイネケンかハートランド何本か売ってくださらない? と言った。
「入用か?」
「ええ。お客さんが来てるのよ。たくさんお酒が必要になりそうなの。本当はウィスキーがいいんだけど、どんな銘柄がおいしいのかわたしには分からないから。お客さんに聞いてからにしようと思って」
「お客さんてのは、この前のユースタス・キャプテン・キッドかい?」
 彼女はキッドの名前が出たとき、一瞬ローにさっと視線をやり、やんわりと微笑んだ。
「いいえ、違うわよ。別の方。あの人はもうずいぶん前に船に帰ったわ。もうこの島にいないんじゃないかしら」
 ローは彼女が嘘をついていると、直感的に察した。まだ根拠のない直感だったが、その直感はおおむね当たっているだろうとローは考えた。
「だとさ。お兄さん、キャプテン・キッドを探してるんなら、海の上にした方がよさそうだな」
 マスターがからかいまじりにそう投げかけると、少女はスツールを回して、ローの方に向き直った。ローは黙ってナッツを食べていた。
「あら。あなた、キャプテン・キッドのお知り合いなの?」
「メモリ、この人は海賊だ。世間知らずじゃねェか、あのトラファルガー・ローだよ」
 メモリという名前らしい、とマスターの言葉を拾って、ローは否定も肯定もせずに黙っていたが、メモリの方は少なからず驚いたようだった。まあ。あの。キャプテン・キッドに何か御用があったの? 彼女は気軽さを装ってそう尋ねてきたが、ローには彼女の瞳の揺らぎが手に取るように分かった。
 正面から見た彼女の顔には、違和感があった。化粧気のない顔立ちに、唇だけが赤黒くきらめている。なまめかしくすらあるその色のことを、ローは知っていた。
 ブラック・ウィドウの四番。ダーティ・プリティという名のついた口紅だ。愛用している男のことをローは知っている。いつもあのふさふさの毛皮のコートの中に入れて持ち歩き、酒を飲んでくちびるの色が乱れれば、鏡も見ずになれた手つきで色を直すのだ。いつも間近に見ていたから、ローはその色をはっきり覚えていた。
「この島にいねェならしょうがねェ。また出会うことを祈ることにする」
「どうして彼を探しているの? 彼の船の乗組員でもないのに」
「ちょっとした知り合いだ。だが次に会うときは殺し合いだと言って別れてある。急ぎの用でもねェし、会って小競り合いになるのも目に見えてるから、またの機会にするさ。あんたはあの男を泊めたんだろ? 危ない目に合わなかったか」
 メモリはトラファルガー・ローのことを、キッドを探してはいるが、同業のちょっとしたつながりがある程度の、大して悪意のない男ととらえたようだった。いいえ。お気遣いありがとう。とても丁寧な人だったわ、見かけによらず。と彼女はくすくす笑って、マスターからレッド・アイを受け取った。真っ赤なトマトベースのカクテルを飲む彼女は、どこか官能的にすら見えた。
「いい色だな」
 ローが手を伸ばして彼女の顎をつかみ、上を向かせると、彼女は照れたように顔をそらした。マスターは喉の奥でからかうように笑って、いい男だが、あんた、海賊にうちの子はやれねェよ、と楽しそうに言う。
「あら。わたしマスターの子じゃなくてよ。それに、もう子供じゃないわ」
「子供ほど自分のことを子供じゃねェと言うんだ。とにかく、お兄さん、嫁入り前の淑女をからかうもんじゃねェぜ。モーテルに泊まりでもして、店に貢献してェならともかくな」
「泊まらせてくれるのか?」
 ローが微笑み、メモリを見たとき、はっきりとメモリはうろたえの表情を見せた。今夜はお客さんがたくさんだから……、とメモリは断ったが、一人でモーテルをやってるなんて女にはじめて会ったし、見ればまだ若いから、泊まらせてくれなくてもモーテルを見せてほしい、キャプテン・キッドがやったように援助をしたいとローが言うと、何も知らないマスターに、「そりゃいい、酒ならうちから出すよ」と言われて、引き下がれなくなってしまった。メモリはおそらく同じ手口でキッドをモーテルに連れ去っている。そして、キッドを喜んで迎え入れた以上、まったく同じような条件を出してきたローを断るのも不自然だ。彼女は悩んだ末、仕方なく、ローをモーテルに招待すると言った。
「夜道を海賊と二人きりで歩けるとは、肝が据わってるな」
 ローがそう言うと、マスターが豪快に笑う。
「この前、キャプテン・キッドと二人でモーテルに帰ると言ったときはおれもぶったまげたぜ。送ると言うのにいらないと言うし、見た目はまだまだ子供だが、強くなったモンだ」
 これが殺し文句になった。メモリはローと二人でモーテルに帰らざるを得なくなり、ローはバーを出てから、思わずくちびるをひくりとつりあげた。殺戮武人からそれ相応の「誠意」を見せてもらわなければ、とほくそ笑みながら、ローはメモリと二人、並んで夜の森へ進んで行った。
 森の奥、大きな湖畔のある場所に、少しばかり開けたところがあって、彼女のモーテルはそこに建っていた。こんな奥地に誰が来るのかと思うような場所だが、宿の灯りはついている。ローはサッと目を走らせ、入口から右へふたつ目の二階の窓の灯りがついていることを確認した。メモリは先に立って玄関を開け、一階の広間へローを通した。待合室の役割をしている部屋らしく、こざっぱりして趣味のよい装飾品に囲まれた大きな暖炉のある部屋だった。
 壁に掛けられた絵のひとつひとつを眺めながら、ローはソファに座った。メモリはローに紅茶のカップをひとつ出すと、お部屋を整えて来ますから、少しお待ちになって。と足早に二階へ上がって行った。二階にキッドをとらえている可能性が、これでかなり高くなった。
 ローは出された紅茶を残らず観葉植物の植木鉢の中へ捨てると、部屋の中を注意深く眺めていた。不可解なところはないと言える。きれいに整えられて、女のまめな手が入れられているとわかる暖かい部屋だ。ロビーの奥にダイニングがあり、カウンターキッチンが備え付けられている。そこで食事をふるまうのだろう。ロビーの奥には階段があり、二階はすべて客間になっているのだと聞いていた。メモリは一階にある、奥の部屋で眠っているらしい。腰をあげ、ダイニングとキッチンを横切って、さらに奥へ続く廊下の先にあるドアを確認したとき、メモリが二階から降りてきた。
「あら、おなかが空きましたか?」
「いや。便所はどこかと思ってな」
「こっちはわたしの寝泊まりしている場所です。お手洗いはこっち。お部屋にもありますから、ご案内いたしますね」
「あァ」
 メモリは水差しとハートランドのボトルを一本抱えて、二階へ上がって行った。ローの部屋は一番奥だった。きれいにベッドメーキングしてある、小ぢんまりした部屋である。ふかふかしたベッドと、タイル張りのぴかぴかしたバスルーム、バルコニーから湖畔が見えるいい部屋だ。他の部屋はお客様がお泊りになっているので、とメモリは断ってから、水差しとハートランドをベッドサイドのテーブルに置いた。
 部屋の説明を一通りすると、チェックアウトは明日の昼までだと言って、部屋のカギをローに手渡した。ハートランドと朝食、昼食込みで一部屋五千ベリー。部屋の状態を考えてもかなり割安だ。
「やっていけるのか」
 単純な疑問をぶつけたローに、メモリはにっこりと笑った。
「ここは人里離れていますし、お食事はおつけして嫌がられることはありませんからサービスです。ごひいきにしてくださる行商の方や、旅行者の方が多いので繁忙期はこれでも予約がいっぱいになるんですよ。海賊の方もたまに宿泊されますが、あなたやキャプテン・キッドのように気に入って援助をして下さる方もいるので、案外うまくいっているんです」
 ローは微笑み、明日の昼には出ていく、と言って、メモリにやや多めのチップを渡した。メモリは恐縮したが、ローは一度手を離れた金をもう一度受け取ることはしなかった。

 時刻はすっかり真夜中と言える時間になっていた。午前一時をまわっている。遅い時間まで悪かったな、もう寝るとする。ローはそう言ってメモリを部屋から追い出した。、バルコニーの扉を開けて外を確認する。いざとなればここから出て行けるだろう。身を乗り出し、三つ隣の部屋を確認すると、まだ部屋の灯りがついていた。他の客がいるというのは真っ赤な嘘だ。客がいっぱいだからとバーで嘘をついた手前、貫かざるを得なくなったのだろう。
 あの部屋にユースタス・キッドがいるとして、なぜ出て行こうとしないのか。あの女が何か企んでいるらしいことはよくわかるが、かといって非力な十八の女のひとり、キッドがどうこうできないわけがない。キッドの弱みを握っているか、彼が動けないほどの状態にあるか、それとも、
 すでに……。
 ローはその考えを打ち消した。そんなことがあるわけがないという自信の裏に、もしそうなっていたら? というかすかな不安もあった。
(ユースタス屋が死ぬ……、そういう事態に陥ったとして、おれはどうする? どうもしなくていい、ライバルが一人減っただけだ。この世にごまんといる海賊のうち厄介なのが一人消えただけだ。)
 言い聞かせるようにそう唱えたローだったが、灯りのついた部屋に向ける視線を外すことができなかった。彼が生きていることを前提にローは必死に考えを正し、もし動けないような状態だったとしても、抱えてここからROOMで森の中を抜け、なんとか街へ出ることはできるだろうと、いましがた抜けてきた森から街への道のりを整理した。
 体力は十分残っている。いざとなれば小型の電伝虫でシャチかペンギンに連絡をし、応援を呼べばいい。ユースタス・キッドが海楼石の手錠などにつながれて動けない程度なら、解放すればすぐ戦力になるし、とにかくキッドを連れだせばおおよその問題は解決するだろう。ローは長い息を吐いて、森から吹いてくるかすかな木枯らしを頬に受けた。
 鬼哭を担ぎ、音もなくドアを開ける。廊下には誰もいなかった。気配と音を殺して廊下を進んでいくと、三つ隣の部屋のドアから、かすかに灯りが漏れていた。扉に寄り添って、耳を澄ます。キッド以外の誰かがいるかを確認するためだった。
 沈黙が続いている。人のいる気配が感じられない。部屋のノブを回してみたが、案の定鍵がかかっている。念のため他の部屋もすべて試したが、全てに鍵がかけられていた。
 ローは部屋のドアの隙間から、ベポの書いた海図の端をちぎった紙きれを差し込み、部屋に戻った。ドアに鍵をかけ、バルコニーの扉もしめる。鬼哭を抜刀すると、ブゥン、とローのオペオペの能力で、薄い透明のドームが出現する。部屋を覆ったそのドームのなかで、ローはキッドのいるであろう部屋へ差し込んだ紙切れと自分自身が入れ替えるイメージを強めた。
「《シャンブルズ》」
 ローの体がシュッと音を立てて空間を行き来し、ローの部屋には羊皮紙の切れ端が残され、ローは灯りのついた三つ隣の部屋の入口に立っていた。

「……!!」
 部屋に入って、ローは言葉を失った。目の前に広がっている光景が、おおよそ通常では考えられないものだったからだ。ユースタス・キッドはベッドに横たわっていた。彼はうつろに濁った眼を、じっと天井に向けていた。
 その天井。
 天井のみでなく、壁という壁に言葉が書きつけられている。「メモリはユースタス・キッドの女である」「ユースタス・キッドの使命はメモリに次の海賊王を生ませることである」……。書かれていたのはこの二種類だけだ。これがいたるところ、目に入る限りの場所に書きつけられている。ローは思わず、足音を気にせずベッドに駆け寄った。ローが走り出した瞬間、物音でキッドはビクンと体を震わせて飛び起きた。その反射神経、戦闘能力はまだ失われていないようだった。
「……ト、」
 言いかけたキッドの口を、ローの手がふさいだ。シッ、とローにいさめられて、キッドはやっと自分が大声を出しかけていたことに気づき、喉をごくりと鳴らした。ぼんやりしていた彼の瞳にめらめらと色が戻ってくるのがわかる。キッドはどうしてしまったのか? ローはまずそれを探る必要があった。
「ユースタス屋」
 ささやくように、キッドのくちびるにそうささやきかける。キッドは噛みほぐすように、「トラファルガー」とささやき返した。
「……どうしておれはいままで忘れてたんだ、……ックソ!」
 キッドは意味深なつぶやきのあとに忌々しげな舌打ちをし、ローを片腕で抱きしめる。ローはキッドの体に腕を回して、感動の再会はあとだ、すぐここを出るぞ、と彼の体をかつごうとした。
「ちょっと待て、ここはなんだ? おれァ何してる」
「何言ってる、ユースタス屋。あの女にとっつかまってたんだろう、どうしておめおめつかまってやがったのか知らねェが、おれはてめェの救出を仰せつかってンだよ。くわしい話はあとで……」
「あの女? 誰のことだ? ちょっと待て、なんだこの……壁の……、」
 キッドは壁の落書きを見回し、愕然とした声を上げた。なんだもクソも、さっきまで眺めていたではないか。ようやくそこで、ローもキッドに何か異変が起こっていることに気が付いた。一つ、二つ、キッドは壁の文字を追って視線を泳がせ、そしてまたローに目を向けた。
「て、てめェ、トラファルガー……ッ!」
 今度は彼のデカい声をおさえられなかった。何言ってる、今さっき……、とローが言いかけたとき、彼の耳にかすかな足音が聞こえてきた。キッドの声を聞いて、階段を駆け上がってくる音。メモリだ。
「壁の文字を読め、ユースタス屋!」
 ローはキッドの顎をつかんで壁の方へ向かせると、自分はするりとベッド下へもぐりこんだ。キッドは素直に壁の文字を読んだらしく、メモリが部屋に入ったときにはもうそこにローがいたことを忘れていた。
「どうしたの!」
 あわてて入ってきたメモリを見て、キッドはいぶかしげな目つきを投げかけ、「てめェは誰だ」と言った。メモリは優しげな声で、「メモリよ」と言った。キッドはそれで納得したようだった。
「おれは……、おれは昨日確か……」
「ええ。バーにいたのよ。バーで飲んだあと、あなたはこの宿に来た。覚えてらっしゃらないのね。ずいぶん酔ってらっしゃったから……。そして、ねえ、本当に覚えていないの? わたしを抱いたの。わたしの処女を奪ったの。おれの女にする、って……、言ってくださったのに」
 ベッドの下にいるローは、彼らの堂々巡りの会話を聞いて、おおよそのことを把握した。おそらく、キッドは今どうやってかこの女に記憶を奪われている。しかも厄介なのは、すべての記憶ではない。過去の記憶はおそらく残っているのだろうが、いま現在記憶できるのが、たった三つか四つ程度に絞られているのだろう。脳みそをいじられたのか、それとも何かの能力か、そこまではまだ分からないが、キッドがここを出てこれなかったのはこのせいだ。出ようとするたびにこの女に記憶を塗り替えられたのだろう。そしてまた同じところへ戻る。だんだんと記憶が固定されているに違いない。だから徐々に忘れているのだ。「ここを出なければいけない」ということを。
 ギシ、とベッドが鳴った。ねえ、と甘い女の声が聞こえる。ローはじっと耐えるしかないと悟り、耳でもふさぎたい気分だったが、狭いベッド下ではそれもかなわない。キッドが別の女とセックスをしている事実に関しては百歩譲って目をつむろう。けれど、現物を見せられるのは耐え難い。ぎり、とローがくちびるを噛み、ギッ、ギッ、と細かく鳴るベッドの音にちくちくと刺す痛みを感じていると、ベッドの外へ投げ出されていた女の足がベッド上へ消えた。どさ、と柔らかいスプリングが音を立てる。
「もっとわたしを女にして、キッド」
 ちゅ、とくちびるが重なり合う音。女が甘い、官能のため息をあげ、アッ、とうれしそうな声を上げる。いっそ今殺せば、と鬼哭に手をかけたローだったが、キッドの低い声でとどまった。
「……でていけ」
「……え?」
 メモリは明らかに困惑しているようだった。どうして? 昨日は……、とすがったが、キッドはメモリをベッドから乱暴に蹴落とした。メモリは床に尻もちをつき、わなわなとふるえた。
「どうして!」
「違ェ。おれはお前を知らねェ……、お前は何だ? おれは……おれは別の、……クソ! 出て行け! 出ていかねェと……!」
 キッドの重たいブーツの音がゴツ、と床を叩き、立ち上がりかけたとき、メモリが短く悲鳴を上げて逃げ出した。バタン、とドアが閉まって、あとにはキッドの荒い息遣いが残った。
 静かにベッドの下から這い出したローは、体の奥を突き上げるようなよろこびに身悶えしそうだった。メモリの呪縛を打ち破って、あの女を拒絶した。これまでどうやってこの部屋で過ごしてきたのか分からないが、想像にたやすい。あの女の自信たっぷりの声音からすると、いままでキッドは応じてきたのだろう、あの女とのセックスに。
 キッドは片手にピストルを持っていた。メモリが逃げ出した理由はそれだろう。キッドは壁の文字を見てまた別の記憶を植えつけられ、混乱しているようだった。ローはささやいた。
「ユースタス屋」
 キッドがはじかれるように振り向いたとき、瞳の中にめらめらと炎がまた燃え始めた。キッドは眉をゆがめ、くちびるを引き結んだ。自分の身に起きている異常に彼はもう気づいているのだろう。
「トラファルガー……!」
 今度は大声を出さなかった。ゴツ、ゴツ、と近づいてきた彼を迎えると、力いっぱい抱きしめられた。
「教えてくれ。おれはどうなってる?」
 キッドは震える声でそう言った。めったに不安や怯えを見せない男がはじめてローに見せた弱さだった。
「……いろんなモンがなくなっていく。怖ェんだ、どうしててめェのことを忘れてた……? あの女は誰だ? 壁の、この文字は……」
「考えるな。ユースタス屋。いいか。これだけ、ずっと唱えてろ。《トラファルガー・ローと一緒にここから脱出する》」
「……ここから脱出する……」
「この場所がどこかも、あの女が誰かもどうだっていい。ここからおれと脱出する。それだけ、それだけ覚えていろ、ユースタス屋。大事なのはそれだけだ、ユースタス屋」
「いや、待て……、もう一つある」
「……なんだ」
「……おれは、てめェが、欲しい。おれが欲しいと思ったのはてめェだけだ。他の誰でもない」
「愛の告白か? ユースタス屋」
「違ェ。これも記憶だ。おれの記憶だ。お前と外に出る。そしておれはお前が欲しい」
 ともすれば赤面しかねないところを、仏頂面でやりすごしたことには及第点をやれる。少しの間黙ったローに、すかさずキッドは隙を見出して、ローの頭を片手で乱暴に引き寄せ、キスをした。熱い舌と唾液が混ざり合って、粘膜のぬめりが彼らを一層煽る。んっ、はァ……、と気持ちのよさそうな吐息がローの鼻からうっすらと抜けていった。

「ユースタス屋。お前はとにかくお前の二つの記憶をただ守れ。おれはお前をどうやって治すのか探る」
 くちびるに付着したキッドの唾液をぬぐって、ローはキッドに身支度をさせると、そっと廊下の外へ出た。外は鎮まり返っている。一歩外に出て、ローは奥の、自室の扉が開かれていることに気が付いた。静かに歩み寄り、部屋の中を見る。誰もいない。誰もいないということは。
 ローはキッドを連れて階下へ降りた。記憶回路がバカになっているというだけで、キッドは十分動ける状態である。戦闘になって不利ということはないだろう。階下は同じようにひっそりと静まり返っていた。灯りのついたままのダイニング。人ひとりいない。開け放たれたドア。ついいましがた、慌てて出て行ったかのような……。
「あの野郎」
 ローのつぶやきが部屋に響いた。
「……逃げやがった」
 メモリは跡形もなく部屋から消えていた。

3.

 二年前、シャボンディ諸島でのことだ。初めて顔を合わせたヒューマンオークションでの一件のあと、島を出るまでにさらにごたごたとひと悶着があった。あの日、不本意ながらもともに戦うという状況に陥って、足にバーソロミュー・くまからの傷を受けたキッドの応急処置をしてやった。あらかた海軍の連中を撒いて、一息つける場所へ着いたときだ。キッドは大したことじゃないと拒否したが、ローは有無を言わさず処置した。レーザー光線にえぐり取られたのだ。肉がめくれて焼け、放っておけば間違いなく化膿した。
「代わりに、恩に着ろ、ユースタス屋。おれに出会ったらいつでもおれに酒をおごれ。気前よくな。そして今後ずっと、おれに助けられたことを覚えておけ」
「チッ……。だからてめェの手を借りたくなかったんだ、このゲス野郎」
「何がゲスだ? せっかくおれが医者としててめェの処置をしてやってるのに」
 ローの皮肉っぽい言い方がキッドはお気に召さないようだったが、結局その日は逃亡後、夜に酒場でともに酒を飲んだ。そのときの流れでそうなった気がする。ただ、誓って言えるのは、あのときはまだキッドと寝るとはまさか思ってもみなかった。キッドも同じだっただろう。彼らは至って普通に酒を飲み、そして、意外と話が弾んで船長同士二人で二軒目に行った。
 食い足りないという点で意見が一致し、バーではなく、食事がメインのビストロを選んだ。鉄板焼きとビールがうまい店で、ローはハートランドを、キッドはハイネケンを飲んだ。キッドは歯ごたえのあるローストビーフや骨付きの仔牛のロースといった、肉料理を好んで食べたが、ローはここでもコメ料理を探した。その店にはイースト米しかおいていなかったが、イースト米のぱらぱらと崩れる触感を活かしたパエリアはなかなかうまかった。
 海老の殻をむきながら、キッドの方を向くと、骨付きの仔牛のロース肉をかじったキッドの歯茎と、頑丈そうな歯がむき出しになっているのが見え、彼がくちびるの端についた脂を指で拭き取ったときの、てらりとした脂のあとを目で追っていた。キッドの食事は獰猛で、ひどく色っぽいように思えた。ローは考えないようにつとめて、海老の殻むきを終えると海老の身を口にねじこみ、次はムール貝の殻から貝の身をはがす作業にできるだけ集中した。
 酒と料理をたらふく胃におさめたあと、そろそろ眠気に耐え切れなくなり、どちらからともなく宿に向かった。酩酊とまではいかなかったはずだが、二人は酔っ払って正常な考えをうしなったふりをして、同じ部屋に入った。ローがキッドと食事をしているときに感じていた、燃え上がるような甘い感覚を、キッドも同じように受け取っていたと、いま改めてローはそう考えている。キッドは部屋に入る前、軽くローの腰に手をまわし、部屋のなかに押し込んだ。ローが特に抵抗するそぶりを見せないことで、キッドはもう腹の探り合いをやめた。
「トラファルガー」
 拒むはずがないと、キッドはようやく部屋まで来て理解したのだろう。彼はのちに、モノにするのにあれだけ時間をかけたのはてめェが初めてだと言った。一日以上ついやして様子を見たことは、キッドにとって初めてだったそうだ。はたしてローの方も同じだった。寝るときはたいてい行きずりか、金を払っての一晩だったのだ。
 キッドに名を呼ばれたあとすぐに、視界が反転し、ローは天井と、覆いかぶさっているキッドを見ることになった。
「どうした? 酔って足がもつれたか?」
 からかったローに、キッドはクイとくちびるを上げて微笑んだ。
「本気で言ってンのか?」
 あの笑い方は好きだ。ローはキッドのキスを受けながら、半分目を開けて、自分のくちびるを熱心にむさぼっている男の様子を見つめ、悦に入った。猛烈な、ふつふつと湧く性欲だ。支配欲、征服欲、所有欲にも近い。むしろそれらすべてが交わったもっとどす黒い感情とすら言える。ローはキッドを手に入れたことに、満足していた。それがたとえ一晩のできごとでも。
「慣れてンな」
「まさか。本当にそう思うのか?」
「はじめてってワケじゃねェんだろ」
「……まァな」
「ハッ。おれにとっちゃ、慣れてるも同じだ」
 キッドのその言い方を、かわいらしく思って、ローはキッドのくちびるを求めた。キッドのくちびるは薄くて、ほのかに口紅のかおりがする。ブラック・ウィドウの四番だと、ローはこのあと知った。ブラック・ウィドウの四番はバニラのかおりがかすかにするのだ。
 くちゅ、とかすかに音が立つ。角度を変え、キッドのくちびるが深くローのくちびると合わさった。蝶番がぴったり合わさるように、二人のくちびるが密着し、中で音がしている。ンッ、んんっ、とローが喉を鳴らすと、キッドの手がローの衣服を少しずつ剥ぎ取っていった。
 キッドは見た目通りのセックスをしなかった。破りちぎる勢いで服を奪って、がつがつ尻を犯されるのだろうと思っていたが、キッドはまるで検査でもするように丁寧にローに触った。ひとつひとつ、ローの感じるところを探して、キッドの指があらゆる場所を検査するたびに、ローの体がひくひくと震えた。足に引っかかったジーンズと、びっしり刺青の入った裸の胸を晒してベッドに横になり、ローはただキッドだけを見ていた。
 空気にさらされた乳首がつんと張っている。キッドはそこにくちびるをつけ、こり、と舌でつぶしながら、丁寧に舐めた。その間にも彼の手はローの股の間に侵入し、睾丸をてのひらでくにくにと揉みながら、ローのふとももがひくひくと痙攣するのを楽しんでいる。
「タマ裏が好きか」
「……んっ、……アッ、! あ、あッ……、おとこなら、……だれでも好きだろ、……」
「そうか? おれはコレが好きだぜ」
 キッドはそう言いながら、勃起した性器を強く握り、ぎゅっ、ぎゅっ、と扱きおろしながら、指で雁首をこねる。ずくん、と脳みそまで電流が走る気持ちだった。
「アアッ! んあッ、あ、あ、それ、……ッすげェ……ッ!」
「だろ……? おれはカリがすきなんだ……」
「んっ、ふ……ッ、……あとで、いじめてやるよ……ッ」
「は、そりゃ、たのしみだな……!」
 キッドは乳首を舐めるのをやめ、ローを立たせると、その場に跪いて、勃起した性器に鼻筋をつけた。キッドの方も、男が初めてというわけではないようだった。ローはそれをやや残念に思った。
 海で生きているとどうしてもそうなる。突然の欲求に逆らえなくなって、陸で女を買う以外に、方法がないと男であっても欲情できるようになってしまうのだ。少なくともローはそうだった。別にそうなったことを恥じてもいない。キッドとこうなれたのならそれは決してデメリットではなかったと言える。
 キッドはローをチラと見上げると、鼻筋にぶつかっているペニスをゆっくりとくちびるにつけて、まるでふっくらした女性器の入口を、ペニスが割り割くように、閉じたくちびるの間へつぷつぷとねじ込んでいった。睾丸をやわらかく愛撫しながら、ずぷ……、とすべて口に含んでしまうと、キッドは頭を小刻みに動かして、根元から先端、先端から根元、と舌とくちびるでペニスをこすりあげる。ローは足の震えを耐えながら、立っているのがやっとだった。
「んんッ、あっ、……あ……、すげェ、いい……、ユースタス屋ァ……ッ」
 ひく、と腹筋が痙攣する。乳首は外気にさらされて、ぴん、と赤くなっていた。ここも指でつぶして、こりこりいじめられたい。尻の穴にも指をいれてほしい、立ったまま手マンで激しく中をかき混ぜられて、ガマン汁を垂らしてドライでイカされたい……、ローの頭の中があらゆる欲求で満たされ、けれどそれを分かっていながら、キッドは変わらずフェラチオだけを繰り返していた。
 フェラチオをしているうちに、気持ちがだんだん昂ぶってきたのだろう、キッドがフェラチオの合間にすこしくちびるを離して、低い溜息を吐くのがたまらなかった。ペニスの先をふるわせるねっとりした溜息だ。こみあげてくる性欲を押さえつけるようなアンニュイな、憂鬱そうな吐息。キッドは目を細めて、もう一度根元まで咥えると、ぐぐぐ、とゆっくり時間をかけて先まで引き抜き、また根元まで咥える。赤い髪が自分の股ぐらで前後に動き、キッドのネイルの指先が下生えをくすぐっているのを見ると、ローの背筋にあまい官能の気配が走った。くちびるを引き結んで声を殺しているローを見て、キッドがたまに満足そうに眼を上げる、その目つきもいい。責め苛まれながら、深くかわいがられている気がする。不思議な目つきだった。
 ちゅぽ、とくちびるが音を立てて離れた。キッドはローにベッドへ両手をつかせて、自分の方へ尻を向けさせると、ぐっと手で尻たぶを拡げた。
「ケツ穴を見るだけで分かンなァ、トラファルガー、めちゃくちゃ欲しいんだろ」
「……ッる、せェ……、分かるなら、……やれ」
「ケツ、洗っただろ」
「……」
「図星だな」
「……どうして分かる」
「語るに落ちてるぜ、トラファルガー。ただのカンだ。さっきの、便所にしては長ェなと思ってな。しかも飯のあと二回も。酒しか飲んでねェのに」
「……へ、……てめェは部屋に入ったとたんケツを振ってくるドーブツ野郎だろうと、……思ったからだ」
 ぷくりとうっすら赤くなって、ひくひくと外気に震えている尻の穴を、じっと見られているということに、身もだえするほど羞恥心を感じる。恥ずかしさを紛らわせるために挑発してみたものの、キッドは笑うだけで、言い返してこなかった。二軒目のあと、キッドと寝ることになるだろうと予感して尻を洗浄したとき、何をやっているんだおれは、という自嘲と、自分の予感が的中していますようにと願う期待がないまぜになって、ローは個室の中で赤くなり、顔を覆っていたものだった。手洗いから出たあとキッドの顔を見ると平常心でいられなくなった。キッドはそのときもう気づいていたのだろう。ローが「準備している」ということに。
「分かったのかよ、おれがヤる方が好きだと」
「お前が抱かれるタマには見えねェ……、人の上に立ちたいタイプの人間だからな」
「よく言うぜ。てめェこそそうだろ。おれはてめェがタチだったとき、どうやってねじ伏せてやろうか考えてた」
「は、……意外と、征服されるのも、悪くねェ……」
 ふぅ、と息を吐いて、キッドの指がつぷつぷと奥へ入ってくるのを感じて、背中を少しくねらせたローに、キッドは後ろから体重をかけ、ローの背筋に鼻を寄せた。そして顔をうずめた。
「いいな。いまの……。興奮した」
 れろ、とキッドの舌がローの背筋をなぞった。キッドの指がしばらく中を探っていると、尻の奥がむずむずとしてきて、中が濡れてきた。なぜ濡れるのか分からない。ローションや唾液とは別の、体の奥から湧き上がってくるぬるぬるした欲望の体液が体を満たしているような感覚だ。
「すげェな、トラファルガー。感じるとどんどんやらかくなる。ヤられんのが好きか」
「……っく、あ……ッ、……こ、んな……ッ」
「人を食ったようなツラして、スカしてやがるてめェが、感じて濡らしてやがると思うと、おれもガマンできねェよ」
 わざと、意地の悪い言い方をして耳元に息を吹きかけてくるキッドの低い声が鼓膜を小刻みに揺らすと、ローはいよいよ切ない声を上げた。それは体から否応なくせりあがってくる声だった。ローの体に棲みついている、性欲という名前のついたあさましい魔物が上げる声だ。
「こ、こんな、こと……、いままでは……ッんっ!」
「いままでなかったか? はじめてか? あ? こんなんになっちまうのはよ」
「…っあ、アッ! ん……、あ、あ、ああッ、イッ、あ、やめ……ッ、ろ、……ッ!」
「へェ。ここが好きか」
 悪魔が地底からささやきかけてくる、舌なめずりをして。その声がたまらない。どんどん堕落していくような気がする。ベッドに手をついたまま、ローはいつのまにか無意識に尻を高くつきだして、快感が与えられるたびに尻を動かしていた。キッドの指が二本入り、キッドはローが「やめろ」と訴えたり、うめいたり、分かりやすい拒絶をするポイントが、ローの「イイところ」なのだとすぐに見抜いて、そこにいたずらをした。イきそうでイけない寸前のところでいじめるのをやめるのもまたたまらなかった。
 しばらくするとローの頭の中は完全にキッドのペニスのことで支配された。なんでもいいから挿れて、突いて、激しく中をえぐって、奥に出されたい。中に出して、ケツから白いものを垂れ流してベッドに倒れ、むき出しのケツを平手で強くぶってほしい。手形がつくぐらい激しく。そしてそのあと、もう一度欲しいかと聞かれたい。……そうすれば、自分は恥も外聞もなく、激しく頷くだろう。
 頭を突き抜けて不埒な妄想が破裂しかけたところで、キッドは指を抜き、ローに言った。欲しいか、と。この男にはもしかして、頭の中を割り開いてのぞかれているのではないかとすら思ったタイミングの良さだった。
「ん……ッ、ほしい……、ユースタス屋」
 返事をしたあとすぐに、尻の肉が大きく割り開かれ、いりぐちに硬いモノが当たった。ぷく、と血管の浮いた、凶暴なモノが、べちんと一度尻たぶを叩く。ローションを垂らして塗りこみ、もうすでにローションと体液でぬれているローのいりぐちへ、狙いを定めた。
 今まで丹念に調べたのだから、中に入るときも同じかと思っていたのが間違いだった。カリが当たったとたん、ズッ、と遠慮なくいちばん奥の「ヤバイ」ところまで一気に入ってきたペニスを感じて、声を上げるのが一瞬遅くなったくらいだ。ひゅっ、と息が止まって、びりびりしびれた。強烈な質量と、当たったことのないところへ攻撃を受けた信じがたい衝撃。ローは目を見開いて、一拍あと、アッ! アアアッ、と悲鳴を上げた。
「アッ、うあ……ッ、んッ……」
「ハ、……トラファルガー……ッ、ケツの中の形が変わってくぜ。……すげェな……、熱ィ……」
「あ、あ、あッ、ユースタス屋ッ、……、まだ、だめだ……ッ」
 制止したが、キッドは聞かなかった。ローの制止や拒絶が、快感から身を守るための建前だともう見抜かれている。キッドは楽しそうに笑って、一気に引き抜き、また奥まで穿った。打ちこまれるたびにずぷずぷと肉が割り開かれ、「イイところ」が激しくこすられる。キッドは前を触らなかったし、ローが自ら手を伸ばさないように、ローの両手をひとまとめにしてつかんで、後ろでとらえていた。背中にまわさせられた手のせいで、バランスが取れずに、ふらついているローをつなぎとめているのはキッドのペニスだけだ。あつくて、ふとい、体を穿つ棒だ。とろ、と開いたくちびるから細長く唾液が落ちた。まだちゃんとベッドに寝かしてすらもらっていない。ひざが笑い、生まれたての小鹿のように、がくがくと震えている。
「アアッ、あ、……ッんあ、だめだ、そこ……ッ、あ、あ、ッ、やべェ、……ッんとに、……おかしく、な……ッる!」
「ちゃんと立てよ、トラファルガー……ッ! くたばってンじゃねェ」
「あ、あ、あ、イッ、いい、……っあ、アッ、ん……ッ! ゆーすた、ッ、す、……屋ァ……~~~~~~ッ!」
「んッ、……あァ……ッ、すげェ、いい……、」
「っぐ、……ッ! そ、そこが、……やべェ、っから……ッ、あっ、ああっ、でる、でる、でちまう……、ユースタス屋……!」
「……やべェ、……ッおれも、わけわかんなくなっちまいそうだ……」
 へら、と笑って、額に汗をかいたキッドの横顔を、首をひねって見やったときに、言い難い快感の波がついに爆発し、荒れ狂った。キッドの手を盛大に汚して射精したローは、わけのわからないことを口走りながらベッドに頭を預けて倒れ込み、キッドもそのあとすぐ、達した。片手をベッドにつき、ぽたりとローの背中に汗をひとつぶ落としてから、気持ちよさそうに唸ったキッドの声でローの一度霧散した性欲がまた盛り上がった。
 そのあと眠気がくるまで、覚えたての若造のように交わり合い、いつ眠ったかも覚えていないくらいだった。翌日、目覚めたころにはもう日は西に近づいており、宿泊代にはきっちり延長料金が上乗せされていた。精根尽き果てるまでセックスしたあとです、と顔に殴り書きしているも同然の二人の顔つきが、立ち並ぶ店先の硝子にうつるたびに二人で顔を見合わせて笑った。

 帰路の途中、キッドが口紅を失くしたことに気が付いた。バーソロミュー・くまとの戦闘の際になくしたのだろう。コートの内ポケットに入っていたはずの口紅がなくなっていたので、新しいのを買うといって、キッドは宿を出たあと店を探し始めた。ローもどうせ船までの道のりの途中だったので、彼につきあうことにした。平気で女物の化粧品が並ぶきらびやかな店に入るので、ローの方がむしろ鼻白んでしまったくらいだ。
 キッドは普段の海賊らしい粗雑さとは打って変わって、化粧品に対しては非常に細やかで、ちょっとした色の違いにも敏感だった。キッドが愛用しているのがブラック・ウィドウというメーカーの四番、ダーティ・プリティと名付けられた赤黒い(としかローには表現がしきれない)色のリップスティックだと知ったのもこのときだ。バニラのかおりがかすかにする、深い色のリップで、たしかに、女の化粧品にかなり疎いローでも、他の色よりその色こそがキッドに似合いの色だということはなんとなくわかった。
「ブラック・ウィドウは色のマット感がいい。赤というより黒に強いメーカーだから、ただの赤でも他のと違って、えぐみがある黒さがまざってるだろ? 強いて言うならバニラが余計だが、おれはこれが一番しっくりくる。他のも持ってるがこれが一番だ。一度、廃盤になると聞いたとき、メーカーに問い合わせて金まで送ったぜ。おれのために作り続けろとすら言ったな。確かに、この色は世の中の二割程度の女にしか理解されねェだろうがな」
 おびえきっている店員のことは無視して、ロー相手に実に楽しそうにリップスティックの品評をするキッドのことが、ローはおかしいのか、いとおしいのか分からなくなって、思わず、「あとでキスしてくれ。口紅を直したら」
 と言った。キッドは一瞬きょとんとして、そしてちょっとへたくそな笑みを浮かべた。照れくささをどうにかして余裕の表情に持っていこうとしたような顔だった。
 キッドは店を出るとすぐ、箱からブラック・ウィドウの四番を取り出し、スティックを指に当てた。親指の腹に当てたスティックが鮮やかな赤をいろどり、キッドは親指の腹をくちびるにぐいと押し付けて、引いた。鏡もない、歩きながら、話しながらの状態でよく塗れるなとローは感心したが、その何気ない、雑なやり方でも、きれいにくちびるに色が乗っていた。キッドには鏡など必要がないくらい、慣れ親しんだ行為なのだろう。
「指についてんのはどうすんだ」
「あ?」
 スティックを内ポケットにしまったキッドにローがそう尋ねると、キッドはかすかに色の残った指を眺め、ローのくちびるに手を伸ばした。指が顎をおさえ、親指がローのくちびるをぬぐう。
「こうする」
 ハッ、という人を馬鹿にしたような顔が、ローのお気に入りの顔だった。
 
 あのあと、島を出るまで、気まぐれに何度か会った。会うたびセックスをしたし、セックスをするために会っているようにも思えたが、会っていない時間に他人とセックスをしようと思う気持ちがかなり薄れた。そしてお互い別々に島を出たあとに、何の約束もせずに出てきたことを、後悔した。そんなバカげた後悔をしたことを、また後悔した。ローもキッドもお互いそんな調子だった。
 会わない期間はたった二年だったが、ローはある島でブラック・ウィドウの店舗を見つけたことをきっかけに、キッドへ小包を送るようになった。ブラック・ウィドウの四番、それ以外にも、ローがキッドに似合いそうだと思った色のリップを、上陸先で見つけるたびに送った。お前のせいで部屋がリップだらけだ、と一度返事のカードに書いてあったが、キッドも疎ましくは思っていないようだった。
 キッドからも小包が届いた。彼も停泊している島で、何かと見つけてローに送ってくるようになった。ローにはこれと言ってキッドのように決まった趣味があるわけではないので、毎回違うものが届いたが、たいていキッドが選んだ爪痕がある、どこか「キッドらしい」ものだった。らせん状になった砂時計。離れた二つの場所の時間を記録できるねじまき時計。瓶詰にされた帆船の模型。どれにも、「すげェだろ」というキッドの称賛の声が聞こえてきそうな雰囲気があった。
(自分の欲しいものを、単純に、欲しいと思って手にするタイプの男だな。お前は。それをおれに送ってくるんだろ、ユースタス屋)
 Kの宛名のついた小包を受け取って、開くたびどきどきする。何が入っているか予測ができないからだ。ローは自分が選ぶと妙に所帯じみた、ありきたりなものになることを恐れたので、いつも化粧品を送った。近頃はネイルのメーカーも覚え始めた。
 盗聴の危険が伴うので電話はしない。途中でカモメ便が検閲されて中を開けられても困らないように大したものは送らない。宛名もKとLだけだ。同封するメモにも一言二言しか書かないし、想いを伝えてくれるのは相手に贈る「物」だけだった。けれど、だからこそ、島を歩いているとき、相手のことを考えながら買い物をするのが楽しくなった。

 思えばバカなことをしている。ローは森の中を歩きながら、じっとこの二年間のことを考えていた。隣のキッドへいらぬ情報を与えないように、ローはさっきから黙りこくっていた。キッドも頭をからっぽにできるように、周囲を鋭く見渡しながら、一心不乱に歩いている。湖畔が見えてきた。もうすぐ森を抜けるだろう。歩いても歩いても、うっそうと茂った静かな森の中に、メモリの姿をとらえることはできなかった。
 キッドは今自身の野性的な感覚だけに頼って歩いている。記憶するのではなく、感じればいい。キッドはそう考えているはずだ。だから景色を覚えるのでも、メモリについて思案するのでもなく、ただひたすらに周囲の景色から読み取れる異変や、風のざわめき、空気のよどみだけを追っている。野生の草食動物のように耳を立てて警戒し、腹を減らして獲物に近づく肉食獣のように神経をとがらせ足音を消す。キッドはその両方が同時に出来る男だった。これだけ大きい体をしているくせに、キッドの足音はほとんどしない。たまにパキ、と小枝を踏む音がするだけだ。
 湖畔のきらめきと、静かな水面のかおりがしてきたとき、唐突にキッドが立ち止まった。敵かと思い、同じく立ち止まったローの肩をつかんで、キッドは、
「何か、尖ったモンを持ってねェか」
 と尋ねてきた。あたりに人の気配はない。ローはしばらく考えて、「万年筆なら」と答えた。
「それでいい。貸してくれ」
「かまわねェが、何を……」
 字でも書くのか、とからかいかけたローの手から万年筆がひったくられ、キッドは少しの間思慮深い顔で自分の腕(残っている方の腕だ)を眺め、息を深く吐いた。そして、万年筆の先端をためらいなく自分の腕に突き刺した。
 めり、と尖った部分が皮膚にめり込むのが見え、ローは無意識に息を止めた。キッドはローに構わず、歯をかみしめながら、刻み付けた。腕に文字を彫っているのだ。
「トラファルガー・ローとともに脱出する」
「おれが欲しいのはトラファルガー・ローだ」
 恥ずかしげもなくその二つを腕に刻み付けたキッドは、血の付いた万年筆を腰布でぬぐい、ローに返した。ペン先が鈍ったら悪ィ。そう言って、キッドはみみずばれした自傷のあとから血が流れるのを無造作に拭き取った。
「……どういう、」
 つもりだ? とつづけかけた言葉を、キッドが遮った。
「カンだが、おれはおそらくとっつかまってる間に何度か同じようなことをやったんじゃねェかと思う。体にいくつかひっかき傷がついてるからな。……こうすりゃ、忘れるなんて、ヘマしねェだろ。痛みがおれに思い出させてくれる。おれが何者で、てめェが何者かを」
「……ユースタス屋」
「この森を出たら、てめェが消毒してくれ。力加減を間違えたらしい、痛ェ」
「へへ、バカ力が」
 ようやく緊張状態から脱して、ローは微笑みを浮かべた。メモリが街に逃げ込んでいる可能性を考慮して、キラーとペンギンそれぞれに連絡もした。キッドを奪還したが、厄介なことになっているということも手短にだが伝えた。キッドの声を聞かせろとキラーが言うので、何か言え、と小型の電伝虫を近づけると、「よォ、キラー」とキッドはそれだけ言った。
 キッドが操作されているのは、上陸三日後からモーテルにいた間の記憶のみらしく、自分が誰で、何をしていて、ローやキラーが誰なのかはきちんと残されていた。それだけでも幸いだ。これで全部の記憶が失われていたらと思うと寒気がする。しかし、全て忘れるのではなく、記憶できる数が限られるというのは厄介だ。現に、キッドは森を歩いている間なんども、会話のうちに記憶を書き換えて、「何をしようとしてたんだったか?」とか、「探してるヤツってのは誰だ」とか、「なんでこんなとこ歩いてる」とかを繰り返した。そのたび、ローは、覚えておかなければならない二点だけを伝え、「トラファルガー・ローが欲しいんだろ」と言うたび赤面しなければいけなかった。

 湖畔の向こう側に、家というより小屋に近い、小さな建物を見つけたとき、ローは、ようやく、とそう思った。
 早くキッドの呪縛を解きたい。他の人間の自由になっているユースタス・キッドをゆるせないのだ。湖畔の小屋に向かって、ローの足は速くなった。早足のキッドの靴底が音を立てた。

4.

 無遠慮に扉を開けたことを後悔するほど、中にいた老婦人は穏やかだった。
 突然二人の男が小屋に押し入ってきたことで、彼女はうろたえたが、中に誰もいないことが一見して分かる狭い部屋で、小さな暖炉の前の安楽椅子に座っている老婦人に面食らったのはキッドとローも同じであった。確実に中にメモリがいることを予期して殺気立っていた二人は毒気を抜かれ、老婦人は事情が分からないなりに、彼らを迎えた。何かありましたかしら。お出しできるようなものはここにはございません。そう、やわらかく言った老婦人の言葉の調子に思い当たるふしがあって、ローは退散しようとしたキッドを引きとめた。
「メモリという女を知ってるか」
 老婦人が怪訝そうな顔をしたとき、ローは彼女の表情の動きで、「メモリを知っているらしい」と読み取った。ローに悟られたことを老婦人の方も理解したのだろう、一呼吸置いて、彼女は頷いた。
「知っておりますが、彼女が何か?」
「ここへ来たか?」
「いえ。もう数日、ここには来ておりません。しばらく前までは毎日のように来ていたのですけれど、仕事が忙しいのかもしれません」
 ローに下手な嘘を言っても無駄だと考えたのか、老婦人は丁寧に、肝心なことはうやむやにしながら答えた。年の功なのか、非常に駆け引きのうまい彼女に、ローは少なからずよい印象を持った。老女はおずおずと、二人に茶をすすめた。四人掛けの、木造りの小さなダイニングテーブルに、ローが向かったのを見てキッドは驚いた顔をしたが、彼も黙って従った。
「おれたちは今朝まで、メモリのやっているモーテルに泊まってたんだ」
「はぁ」
「ケマンチェ、というバーで会って、一人でモーテルをしていることを知ったんだが、話がはずんで、モーテルに泊まらせてくれることになった。おれたちもその礼に、気持ちばかりだが援助をしようと言ったんだが……。昨晩から、彼女がモーテルに帰ってこない。おれたちも、泊まるだけ泊まって宿代を払わねェというのは本意じゃない。だから森の中を探し回ってるんだが、結局、朝になるまで見つからなかった。何か事件に巻き込まれてんならことだ。この小屋を見つけたとき、てっきり中にメモリがいるだろうと思ってな。無遠慮に扉をあけたこと、悪かった」
「いいえ。そういうご事情でしたか。あの子がモーテルを開けるなんて、珍しい。心配だわ。あの子にはあのモーテルしかないのに……」
「あのモーテルしかない?」
 老婦人の言葉を聞きとがめ、ローはいぶかしげな顔を作った。この老婦人の知っている情報の中にメモリの能力に関するものがあれば、聞き出しておくに越したことはない。キッドは、こういうダマシならローの方が得手だと心得ているのか、それとも余計なことを考えないようになのか、腕組みをして黙りこくっていた。
「いえ、と言いますのも、メモリは早くから孤児だったのですよ。わたしも、隠居した身ではありますが、モーテルが近いものですから、たまにお料理を手伝ったり、あの子のモーテルにお邪魔したりして、彼女が小さいころから母親代わりをしていましたの。まあ、母親と言うより、おばあちゃんと言った方が近いかもしれませんが……。かわいそうなことに、彼女には伝えておりませんが、彼女の両親は、あのモーテルでちょっとした事件を起こしてまして。泊り客を、その……、特に遠くからの旅人や、行商人、消息を絶っても探す人間が少ないであろう方々を、殺害し、金品を強奪していたんです。事件が明るみになりましたころに、夫妻はまだ赤ん坊だったあの子をモーテルに置き去りにして、逃げました。あの子がモーテルから発見されたのは夫妻が消えて三日後だったのですが、あの子は生きておりました。あんな恐ろしい罪を犯してしまった両親でしたが、彼らが遺したメモリはとてもよい子です。素直な、やさしい子です。彼女の両親はすでにつかまり、死刑宣告を受けました。メモリは賢い子ですので、事件のあらましは知っているでしょうが、一度も両親のことを話しはしません。それがまた、かえって痛々しくて。ただ、島の人たちの援助もあって、彼女は健康に大きくなりました。小さいころはここでわたしと一緒に過ごし、十二を超すと、先述のケマンチェですとか、カフェーやバーで働くようになりました。聞き分けのいい子でしたが、彼女にとってもつらい場所だろうから、と、モーテルの取り壊しの話が出たときだけは猛烈に反発して、自分の両親が遺したものだから、と、自分で切り盛りしたいと主張したのです。バーやカフェーで働いたのは、そのための修行だったのでしょう。十六で彼女はモーテルを切り盛りしはじめましたわ。あの忌まわしい事件があった場所でも、メモリの働きぶりがあって、最近ではずいぶんよくなりました。お客さんも、忙しい時期はたくさんいらっしゃいます。小さいですが、いいところでしたでしょう?」
 老婦人が目に涙をためながら、ぽつりぽつりと、かみしめるようにメモリの人生を語るのを聞いて、ローは目を伏せた。その、けなげでやさしい女が、キッドを手に入れるために悪魔になった。ローはそれに底知れぬ恐ろしさを感じた。誰かを欲しいと思ったとき、鎌首をもたげる強烈な悪魔の存在を、彼らは二人とも知っている。だからいよいよ、メモリの中に巣食う悪魔の存在を感じてしまう。老婦人は目が悪いのか、たまにぼんやり遠くを見るようにして、目をしょぼしょぼさせた。札付き二人の姿も、はっきりとは見えていないのだろう。扉を開けた瞬間に大騒ぎされて海軍を呼ばれるよりはマシだが、老婦人のそういう所作を見ると、捨て去ったはずの人間らしい良心が多少きりきりと痛んだ。
「あァ。立地が多少悪いが、いい宿だった。バルコニーのある部屋の見晴らしが……」
 ローが言ったとき、老婦人は少し息をのんで、あなた、あの部屋に通されたのですか? そう言った。
「……そこで殺人があったのか」
「いえ、その……。……ええ。どうして、あの子そんな部屋を……。あの部屋で殺人があったこと、彼女は知っているんです。だからここは使わない、と彼女自身が言っていましたのよ。お客でいっぱいでも開けない部屋なのに……」
 背筋に走った寒さは、殺人事件に対しての寒さではない。女という生き物に対しての寒さだ。女からの強い恨みを感じての、寒さだ。ローはなぜか、それでも、メモリのことをとやかく追及する気にはなれず、「客がいっぱいだと断られたのに、無理やり泊まらせてくれと言ったおれのせいだろう」とあいまいにごまかした。
「あぁ、お優しい方で、わたしからも感謝いたします。きっとあの子に悪気はありません。ゆるしてあげてくださいまし。あの子は両親の死を知って、あのモーテルに一人ぼっちになったあと、少し変わったのです。強くなった、と街の人は言いますが、わたしは、それ以外のものを感じました。メモリに、一度、なにかあったのか聞いたことがありますわ。あの子、言いました。《わたしの分身がいる》《わたしを小さいころから守ってくれていた》《最近になってその存在に気付いた》……と。メモリは確かに、そう言い始めてから、元気になったようにも思いましたから、わたしも気にせずにいたのです。でも、あんなことがあって、それをたったひとりで背負うには苦しかったに違いないわ。……いけない。ごめんなさいね、こんなお話をして。あの子は普通の子ですよ。本当に。二年ほど前に、初めて恋をしたなんて言って、浮かれていたのがまるでつい昨日のようよ。それはそれは、一途で、やさしい……」
「恋? 二年前に?」
 初めて、キッドが言葉をはさんだ。老婦人ははっとしたようにキッドを見てから、微笑んだ。
「ええ。こんなこと、勝手にお話したら、あとで怒られちゃうわ。メモリは二年前、勉強のためにと言って一度グランドラインのある島に旅行へ行ったんですの。そこで、出会ったらしいですわ。一目ぼれしたの、見ただけで、彼が運命の人だってわかったわ、……なんて、大はしゃぎして。どんな方なの、と聞いたら、未来の海賊王よ、なんて言うのよ。あなた、まさか海賊が相手じゃあないでしょうね、といさめたわたしに、メモリは笑うだけで、教えてくれませんでした。けれど、あの子が一時でも、恋の幻想に気を紛らわせられるのなら、わたしに止める権利はございません。そんな、普通の女の子なんですよ、メモリは。たくさんのつらさを背負っているのに、片鱗も、それを見せようとしない、強い子です。だから、お願いですから、」
 老婦人はキッドとローを交互に見やった。
「お願いですから、あの子を危険な目に合わせないでくださいまし。お願いですから……」
 老婦人は、キッドとローが何者か知らないまでも、彼らとメモリの間になにか不穏なことが起こったことを悟ったのだろうか。それとも、消えたメモリをどうか見つけてくれというただの懇願だったのか……。ローはそれ以上老婦人を追及しなかったので、真実は分らないが、彼らは小屋を出てしばらく、嫌な後味の悪さを味わった。
「トラファルガー」
 少し歩いてから、キッドがつぶやいたので、ローは足を止めた。キッドはローが振り返ると、正面からきつく抱きしめ、うなだれた。
「トラファルガー、おれが覚えとくべきことは何だ?」
「ユースタス屋?」
「……記憶だ。いろんな、関係のねェことを、思い出して、爆発しそうだ。上書きすりゃ最後、おれはまた白紙に戻っちまう。分かってるんだ、おれが堂々巡りで、同じところを行ったり来たりしてんのは。だが、体で分かっても、脳みそがわかってくれねェ。トラファルガー。いまおれが信用できるのはてめェの言うことだけだ。おれは何を覚えてればいい? 教えてくれ」
 キッドの声が、いつもより気弱なことに、ローはおびえた。精神のやまいは、肉体の損傷よりはやく、人をむしばんでいく。恋と同じように。
「……ユースタス・キッドは、トラファルガー・ローを愛している。……それだけでいい」
 キッドはしばらくしがみついて離れなかった。何度かその言葉を口の中で咀嚼して、かみしめた気配があった。腕に彫った傷よりも、キッドは、自分の頭の中を信じることにしたらしい。それでいい。ローはそう思った。
「……それがありゃ、十分だ。ありがとよ、トラファルガー」
 キッドは真っ赤に燃える瞳を、前に向けた。もう迷うのはやめだ、そういう顔つきだった。

 湖畔をぐるりと一周する途中、木々がまばらになり、開けた湖岸を見つけた。ここで泳いだり、ピクニックをしたりするのだろう。木漏れ日の差すいい場所だ。そこに、女がひとりいた。
 メモリだ。
 メモリは裸足の足を水面にすすめ、湖畔の中央へ向かって水をかき分けているところだった。二人の男が背後に立ったとき、彼女は気が付かなかった。二人とも物音を殺していたし、彼女は水の跳ねる音ばかり聞いていたからだろう。
「おい」
 呼んだのはキッドだった。
 はじかれたように振り返り、メモリは濡れたワンピースの裾を波の中に落としてしまった。彼女は一瞬、並んでいる男ふたりを見て、ひきつれた怒りの表情を見せたが、すぐに表情を消した。もう膝上まで水につかっている。
「なにしてる」
 メモリはキッドにすごまれて、いちいち心をいためているように見えた。本当に、恋をしていたのだろう。どういう経緯があったのか知らないが、キッドも、メモリと出会ったときのことを、おそらく覚えているはずだ。ローは無意識にこぶしを握りしめていた。
「……すきなの」
 メモリはつぶやいて、自分のことばにさらに傷つけられた様子で、目をうるませた。水面に涙のつぶがこぼれる。もうキッドがメモリを、幻想でも、愛してくれないことをメモリ自身が理解してしまっていた。だから、逃避しようとしている。キッドを手に入れられないという現実から彼女は逃げようとしているのだ。
「だから死ぬのかよ」
 キッドは苛立っているようにも、悲しんでいるようにも聞こえる声で吠えた。メモリはついにッドより一層激しく泣き叫んだ。
「愛してよ!」
「甘えんじゃねェ!」
 キッドが叫び返した声で、森の木々が揺れ、鳥が羽ばたいた。びりびりと耳をつんざく怒号で、メモリは、涙すら流すのをやめて体をびくりとすくめた。
「満足か? 記憶のねェおれと行きずりでヤるだけで満足なのかよ、てめェは! てめェのは逃げだ! 甘えだ! 違ェか? 正面からかかってくる気がねェのに、愛してくれなんざ、甘ったれたこと言うんじゃねェ! おれは……」
 キッドは一度ローを振り返った。苦しげにゆがめられた目元に、ローはすべてを読み取った。
(おれたちは、真正面からぶつかりあって、それでも不自由に恋をしているのに。)
 キッドが苛立っているのはメモリに対してだけではない。性に対して。恋に対して。海賊という、自分で選んだ美しい生き方に対して。その生き方を愛していながら、別の愛を同時に感じてしまった自分に対して。そして、これでいいのかと正解のない問いに悩み続けなければならないるつぼへはまっていったことに対して。ローはそれが痛いほど分かったから、キッドの手を握った。大丈夫。ユースタス屋。おれがいる。
「教えろ。メモリ。おれを元に戻すやり方を」
 メモリは水の中に膝をつき、激しく嗚咽したが、嗚咽がおさまるのを待って、切れ切れに言った。
「……もう解けてるわよ……ッ。……あなたにかけたわたしのおまじない、とけたの……、記憶が「わたし以外のたった一つ」で埋め尽くされたとき、おまじないは……、っ……、とけるの! もう、とけてるのよ……」
 そのとき、二人の目に、メモリに寄り添う一人の女の影が確かに見えた。分身、とメモリが呼ぶ存在だろうか? 監獄の看守のような恰好をした、真っ白い髪の、強い目をした女。彼女は、空っぽの小さな鉄の籠を持っていた。扉があいている。あの中にキッドの記憶は囚われていたのだろうか。
「ジェイル・ハウス・ロック……、そういう名前なの。わたしが、……つけたの……。あなたのこころに鍵をかけられるように、……監獄、ロック……って……」
「いいか。メモリ。恋は監獄じゃねェんだ」
 言って、ユースタス・キッドは湖畔に近寄り、メモリに手を差し伸べた。メモリは濡れた髪を振り、何度か迷って、その手を取った。
「てめェのことを覚えてる。メモリ。ケマンチェで会ったとき、おれがすっかりてめェのことを忘れてたから、腹ァ立ったんだろうが。海賊王になる、それを嗤ったヤツを、あのときグランドラインで、おれはつるし上げにしてやってた。そのとき、それを見てたてめェがおれに言ったな。海賊王になるなんて、あなたの夢はとてもすてき。でも、その人たちにも子供がいるのです。家族がいるのです。だから、ゆるしてあげてください。……てめェみてェなガキの言うことをなんでおれがあのとき聞き入れたのか、おれは長いこと考えてたが、いつの間にか忘れた。記憶ってのはもろくて、頼りになんねェモンだ。ただ、あのときから、おれは夢を嗤ったやつをぶちのめさない。おれも嗤い返すだけだ。そのとき、確かにおれの頭ン中にはお前と、お前が言った言葉があった」
 メモリが声を上げて泣いた。ローがつないだ手をほどきかけたが、キッドが強く握った。
「あのとき、てめェがおれに、死ぬほどの勇気を出して言ったあの言葉が、愛だろうが。ちげェのか。そうだろ」
 キッドの肩にもたれて、ローは目を細め、ぼんやりと彼方を眺めていた。この男がこんな風に物事を考えて、何かに対して感情を動かしているのだということを、生々しく感じ取って、いろいろな感情でいっぱいになったのだ。
 メモリももう、元の、一途でやさしい、穏やかな少女に戻っていた。
「愛は、こわい。うつくしいけれど、時にこわいものですね。わたし、あなたのことを、本気で好きになるあまり、あなたがわたしをどう見るのか、それを考えていなかった。……わたし、あなたの子供を生む、なんて言いながら、……あなたのことをおもちゃにしている自分がこわくて、実は、お薬を、飲んでいたんです。……いつか、このままあなたをとらえて、あなたが本気でわたしを愛してくれるようになったら、本当にこどもをつくろう、そう思って……」
 キッドは無言でメモリを見下ろし、ローの手を強くつかみ、彼女に背を向けた。もう言うことはないらしかった。ローは、「こどもをつくる」という言葉を何度も反芻していた。
「……ねえ、待って」
「あ?」
「もし、……もし、このあと、別の方とわたしが愛し合うようになって、子供が、男の子が生まれたら……。あなたの名前をつけてもいいですか」
 キッドは振り向いて、鼻を鳴らした。
「やめとけ。悪ィ男になる」

5.

 カフェーに到着したのは午前七時をまわったごろだった。あと二十分ほどすればキラーがここに到着するだろう。あれから、キッドが相手の能力を打ち破ったこと、約束の時間までにカフェーに戻れることを伝え、時間に余裕があったにもかかわらず、二人は街に戻らなかった。メモリを置いて湖畔を去り、街に戻ったのは夕刻前のことだったが、そこから二人は一言も交わさないままでお互いが考えていることを見抜き、もつれるようにして、宿へ入った。もうしばらくモーテルへは入りたくないという意見も合致して、いたって普通の宿を取った。
 ロックが解けた瞬間はあっけないものだったが、それから徐々にキッドの頭の中へ、モーテルに閉じ込められていた間の記憶がよみがえった。キッドは宿に入る前まで激しい頭痛に悩まされていたが、記憶が戻りきってしまうと、その症状も治まった。寝ずに歩き通しだったこともあって、二人はくたびれ、すぐさまベッドで眠ってしまった。ローが目を覚ましたのは真夜中、あと数時間で夜が明けるという時刻で、ショートスリーパーのローでも覚醒まで時間がかかったのだから、キッドはもっとかかるだろうと踏んで、ローはむりやりキッドを叩き起こした。
「んあ……」
 寝起きのあまりよくないキッドは、それでも目を薄くあけて、ローを見、時計を見た。そして時刻を把握したとき、起きるべきだと彼もそう考えたようだった。
「……くそ、あと四時間しかねェ……」
「服脱げ、ユースタス屋……」
「脱がしてくれ、力がはいんねェ……」
 キッドはそう言って、ぐったりと枕に頭をうずめている。ローはキッドの腰布を引き抜き、ベルトホルスターをはぎ取って、ズボンのフライボタンに手をかけた。コートは壁にかけてある。さすがにコートは眠る前に脱いだらしい。
「あと四時間、となると、死ぬほど早くイったとしても三回。何がしてェ、ユースタス屋」
 ローがキッドにまたがり、ズボンを脱がしながらそう尋ねると、キッドはへらりと笑った。
「普通のでいい。できれば最初はてめェが上に乗ってくれ……、体が重ェんだ」
「へへ、……体力がねェな、ユースタス屋。勃つのか?」
「てめェが勃たせてくれりゃァいい話だろ」
 キッドがそう言うので、ローはするするとキッドの股ぐらに下りていき、自分のズボンも脱ぎながら、アンダーウェアの下に息づいているキッドのモノの形をなぞった。最初は鼻筋で、次は舌で。だんだん、微妙な刺激にキッドがじれてくると、ローはおもむろに下着を下ろして、半勃起したモノを直接口に含んだ。もどかしかった。会ってすぐでもヤりたい気分だったのに、あのモーテルにいて、キッドがあんな状態だったため、ずっと神経をとがらせるばかりだった。さしずめ、長い待てを食らっている空腹の犬だ。ヨダレでも垂らしそうな勢いで、ローはこのときを待っていたのだった。
 キッドはやさしくローの髪を梳きながら、体を起こした。なァ、トラファルガー。おれの上に乗れ。いつもは片方が寝転ぶか、立っていたり、四つ這いだったりするところ、キッドは二人で向かい合って座る体勢を望んだ。肌を密着させて、長いキスをする。キッドは何度も角度を変えて、ひさびさに食べる食事を味わっているかのようだった。
「愛は監獄じゃねェ、か……」
 ぽつりとローがつぶやくと、キッドは不機嫌な顔になった。
「やめろ」
「……てめェがそういうふうに、考えてたとは思わなかった」
「忘れろ。ありゃ口から出まかせだ」
「本当にそうか? お前はあんな逼迫した状況で嘘なんかつける男じゃねェだろ。それにお前は嘘をつくときは怒鳴ったりしない。お前は嘘をつくときくちびるの端をひくひくさせて笑う癖があるからな」
「……」
「怒るなよ。感激したんだ。もっと好きになった」
「……お前はどう思うんだ」
「ん?」
「トラファルガー。てめェの考えを聞かせろよ。おればかり不公平だろ」
 くちびるをちょっととがらせて、拗ねたようにキッドがそう言うので、ローはなんと言ってごまかしてやろうかと思ったが、やめた。ごまかさずに言おうと思ったのだ。
「おれは。……ユースタス屋。愛っていうモンを、遠い昔に、捨てたんだ。おれは愛に見放され、おれは愛に忘れられた。そう思ってた。家族からの愛、隣人からの愛、友人からの愛、それから……、おれの愛する人からの愛」
 キッドは黙って聞いていた。何のことを言っているのか、キッドは分からないはずだ。ローは自分の生い立ちについてキッドに打ち明けたことはない。その必要はないと思っているし、返せば、時が来れば自然と話すだろうとも思っていることだ。それに、キッドの方も、ローについて多くを詮索しようとはしない。キッド自身も自分の過去について多くは語らない。それでいいからだ。少なくとも二人はそう考えている。過去のことは過去だ。過去こそが監獄だ。けれどふたりでいるときは、その監獄から、少しでも遠ざかりたい。それが愛だ。ローはそう考えている。
「でもおれは愛を得た。いま、愛する人からの愛を得た。おれにとって、愛は、……なくしたくないものだ。大事なものだ。たったそれだけだ、ユースタス屋」
「トラファルガー」
 キッドが名前を呼ぶとき、言葉に尽くしがたい感覚にとらわれる。包まれているような、不思議な感覚だ。キッドが「トラファルガー」と名前を呼んでくれている限り、ローは自分の、「トラファルガー・ロー」という名前を好きでいられるだろう。
「おまえをおれにくれ」
 キッドはそう言って、ローの頬にキスをした。数年、この男とは関係を持ってきたが、頬にキスは、この日が初めてだった。

 それから四回。一時間に一回は達したことになる。ふたりはへろへろになるまで交わって、汗だくになり、けれどシャワーを浴びるひまもなく外に出た。カフェーに到着したのは午前七時四十分だった。

 キラーは八時ちょうどに店にやってきた。キッドの姿を確認して、いくつか質問し、それが紛れもなくキッド本人だと分かってから、ようやく胸をなでおろしたようだった。キッドとローはかいつまんで今までにあったことを話し、今朝までセックスしていたこと以外は、ウソ偽りなく説明した。と言って、キラーには、疲れてふらふらになっているうえに、髪も乱れ、かすかに汗のにおいもし、しかもズボンや上着に不自然な皺が寄っている二人のことを見れば、さっきまでセックスしていたことは目に見えて明らかであった。仮面があってたいそう助かっている。何しろ仮面をつけていれば無理にでもポーカーフェイスに見えるからだ。
「厄介な事件だったが、トラファルガー、巻き込んで悪かった。おれからも謝罪する。すまない。お前の言うように、おれたちもそれ相応の誠意は見せよう。お前がいなかったらキッドは囚われたままだった」
「だが、いいか、トラファルガー、てめェのやってやがる、海賊の首を集める云々の怪しいことには協力しねェぞ。めんどくせェからな」
「なんだユースタス屋。ちゃんと噂を知ってたんだな。新聞を読めるようになったのか?」
「おれが教えたんだ」
「なるほど」
「てめェ、キラー! おれは新聞は読める! 読んでねェだけだ、興味がねェからな! トラファルガー、てめェと違っておれは他の動向になんざ興味がねェんだよ」
「無知はいつか自分を殺すぞ」
「キラー! どっちの味方だ!」
「トラファルガーの言うことも一理あるとおれは考えただけだ。別にどっちの味方でもない」
 くそ、と、年上の相棒にさらりとそう言われて、キッドはふんと横を向いた。こういうところがまだまだガキだ、とローは微笑んで、おれがてめェらに見せてほしい誠意はひとつだ、と席を立ち、キラーだけを呼んだ。キッドはのけ者にされたことに腹を立てていたが、意地を張ってキラーとローの話の内容に興味がないふりを貫いた。
 キッドに聞こえない場所で、ローはキラーに耳打ちをした。キラーは心底、「やりたくない」という顔をして見せたが、ローの出してきた条件が、船の積み荷を全部よこせとか、船員を何人かモルモットとして差し出せとか、そういう類のものではなかったのもあって、キラーは素直に引き受けた。ローはいつになくうきうきしている。その証拠に、席に戻った後、拗ねているユースタス・キッドの髪を触ったり、手を握ったりして、彼を根気よくあやし、しかも目の前に大通りがあるというのに、彼の頬にキスをした。ユースタス・キッドは一瞬、顔を紅潮させたが、すぐにいつもの顔に戻った。
「外そうか」
 キラーがそう言っても、ローは「おれは別に構わない」と言い、キッドは知らんふりだ。耐え切れなくなって、キラーはついに正直な気持ちを言った。
「すまん。外させてくれ」
 キッド、そしてロー、同時にはじけるように笑った。からかわれたらしいが、キラーは不思議と、嫌な気分はしなかった。

 キッド海賊団が先に出航し、ローたちハートの海賊団はしばらく停泊してこの先のことを決めることにした。出航してからしばらくして、キラーは意を決し、ビッグ・マムの傘下の船を沈めてその夜は宴になった船の上、キッドに近寄った。キッドは楽しそうにクルーたちと大笑いし、カードゲームをしていたが、キラーと二人になると、ぐいぐい飲んで酔っ払った。キッドが安心して酔っ払うのはキラーが隣にいるときだけだ。そこだけは、気を抜いていいと本人が勝手にそう思っている。キラーは頼りにされていることをうれしくも思いながら、そういう、ちょっと隙の多いところは直さないとな、と呆れた。
 だがキッドが酔っ払ってくれたのはありがたい。キラーは持ってきたもの……、トラファルガー・ローに託されたトーン・メモリを手の中に隠して、キッドと話し始めた。

 陽気なアコーディオンの音と、歌い声、笑い声、話し声。そこにキッドの笑い声が入り、唐突に話は始まった。キッドはえらく酔っ払っているようで、無意味に笑ったり、たまにろれつが怪しくなった。
「トラファルガーのことだと?」
 キッドが笑いながら問う。なんでンなこと聞きてェんだ、という当たり前の疑問に、おれもそろそろお前たちのことをちゃんと知っておいて、理解した方がいいと考えてな、とキラーがうまく丸めているのが聞こえた。キッドは少し唸ってから、トラファルガー・ローのどこが好きか、という最初の問いに答え始めた。
「理由らしい理由は、あんまりねェんだけどよ。……まァ、強いて言うなら、んァ……、あいつが、……トラファルガーが、トラファルガーであることが、おれァすきだ」
「……ずいぶん哲学的なことを言うな、キッド」
「んあー、というか、なんて言やァいいのか、おれもわかんねェんだが、……トラファルガーってやつは、おれの前でも、誰の前でも、トラファルガーなんだよ。ゆるぎねェんだ。だからあいつのことを好きになる。もっといろんなトラファルガーがいるかもしれねェ、まだ知らねェモンがあるかもしれねェ、って、考えちまう。しかも、トラファルガーはそれを裏切らねェ。隠してるわけでもねェのに、あいつは、《あいつらしい》ところが、探せば探すほど出てくるんだよな。それを別に隠しもしてねェ。だからおれはトラファルガーを、また新しいあいつを知る。あいつのそういう、……乱暴に言っちまうなら、わけのわからねェところがおれは好きだ」
「……お前、そんなことを考えていたんだな」
「あ? おかしいかよ」
「いや……。お前も、知れば知るほど新しいユースタス・キャプテン・キッドの顔をする。きっとトラファルガーも同じことを思ってるだろう」
 ……その通りだ、殺戮屋。ローはシーツの上で振動するトーン・メモリから流れる、船の上の喧騒と、キッド、キラーの声を聞きながら、目を閉じていた。
 トーン・メモリはまだほとんど世に出回っていない、空島のダイアルを応用した録音器具である。ローが入手したのは一番新しい型のもので、いつか盗聴用にと思って取っておいたが、意外な用途で役に立った。
 ローがキラーに対して「誠意」として頼んだのは、トーン・メモリにキッドの音声をいれ、ローにそれを贈ることだった。ただの音声ではいけない。キッドに対して聞いてもらいたいことをメモした紙をキラーに押し付け、全部聞くように言った。そしてそれを小包にして送れと。キラーは心底嫌がっていたが、仕方なく引き受けた。引き受けざるを得ないことは前もって分かっていたことである。
 ローは、あの、湖畔でキッドが語ったことや、セックスの最中にキッドが言ったこと、そういう、「まだ知らないキッドの考え」に触れてみたいと思った。けれどそれには、短い時間しか過ごせないローには無理だ。だからキラーに頼んだ。そして、その音声が入った小包が、つい先日届いたのだ。
 ローはすでに七武海の称号を得ていた。キッドはそのことについてなんと思っているのだろう。この小包はそれより前に届いたので、知るすべはない。次に会うときに聞いてみるしか方法はないだろう。
「なら、お前はトラファルガーと何をしたい?」
「何を? 漠然としてんな。時間がどのくらいあるかにもよるぜ。短い時間しかねェならとにかくヤりてェ。どいつを抱いても物足りねェ、アイツの尻はちいせェんだ、ケツ穴もな。でもおれの形を覚えてるらしく、いれるとすんなり……」
「聞きたくない。やめてくれ」
「ッハハハハ! いやか? 今夜のズリネタにできるぜ」
「なるわけないだろう。その話はやめろ。セックス以外にしてくれ」
「んあー、そうだな。何をしたい、か。まァ、何も。別にしてェことはない」
「本当か?」
「あァ。だってそうだろ? あいつと何してェかと考えると、必然的に大前提として、あいつと会う、ってことが必要になるわけだ。おれたちはそんなほいほい会いに行けるような関係じゃねェし、ほいほい会いにいきてェとも思わねェ。おれとあいつは海賊で、生き方も航路も、率いてる船も違う。おれはそれでいいと思ってるし、あいつがあいつの好きなように生きてンのが、おれは好きだ。だから別に何したいわけでもない。セックス以外、ってなると何も。強いて言うなら会いてェな」
 ごく、とのどが鳴った。
「強いて言うなら会いてェ」
 その言葉が、どれほどの力を持っているのか知っているのか? ローは枕に顔をうずめて、ああ、くそ、おれだってそうだ。ローは誰もいない狭い船内で、思う存分真っ赤になった。一人きりの部屋というのは最高だ。誰にもこの顔を見られなくて済む。にやにや笑いをこらえきれず、しかも照れて真っ赤になったこのだらしない顔。
「お前も、いろいろ考えてるんだな」
「オイ、そりゃどういう意味だ」
「いや、おれはお前のことをバカだとは思っていない。特にお前が指揮を執るとき、おれは自分をひどく小さく感じることすらあるくらい、お前にデカさを感じてる。いつもそうだ。オイ、キッド! 真面目に言ってるんだ、へらへらするなよ。だが、そう、……お前がトラファルガーについてそんなにいろいろ考えてるとは思わなかった」
「ハ、おれだって考えたくて考えてるわけじゃねェよ。ただ自然と、……考えちまうんだ」
「……そうだな。」
 キラーはそこで沈黙して、ローから託された大量の質問リストを、もう無視することにしたようだった。くそ、殺戮屋の野郎、はしょりやがったな。ローはそう思ったが、キラーの質問ほど、ローが聞きたいものはなかった。
「じゃあ、キッド。なんでもいい。とにかく、トラファルガーについて話してくれ。お前が思っていることを、手当り次第に」
「あ? なんだそりゃ、そんなに興味があんのかよ」
「お前たちのセックス以外にはな」
「なんだ。聞かせてやりてェのはそこだぜ」
「いらん」
「あいつが一回、指マンで潮吹いたときの話だけどよ、あいつのイイところをわざとじらして楽しんでたらあいつ、おれにしがみついて、頼むからおれのいちばんイイところ突いてぇ、って死ぬほどエロい声で……」
「キッド!」
「へーへー。なんだよ、怒んなよキラー。まず、そうだな、あいつは、コメが好きなんだよ。おれァ何がいいのかあんまりわかんねェが、白い奴、そう、白米? つーのか。あれが好きなんだとよ。あれを食ってるときのトラファルガーは、いつもよりドカ食いしやがるんだ。こう、ハムスターみてェにほっぺた膨らませて、口いっぱいにして食うんだぜ。ガキみてェに。イーストのコメとは種類が違うらしい。そうそう、ワノ国のコメらしいな。どっちにしろコメなら隔たりなく食ってるみてェだが、おれはあいつのあの食い方が妙に好きで、あれをみてェからわざわざコメ料理のある店にあいつを連れていくことにしてる。リサーチしてんだぜ? あいつは全然気づいてねェようだがな」
「意外とマメだな、キッド」
「だろ? 惚れた弱みだな」
「トラファルガーは確かに見た目のわりによく食うな」
「あァ。あいつと最初にシャボンディで会ったときは、てっきりヤク中の危ねェヤローだと思ったんで、食い物は注射器で摂取してんのかと思ってたが、違ったな。あいつの目つきはいかにもヤバそうだからな……。だが、これは最近気づいたことだけどよ、あいつがあんな目をすんのは、あいつが背負ってるモンのせいだと思うぜ。あいつは荷物が多すぎンだ。持ってるモンが多すぎて、つぶれそうになってやがることに、気づいてねェ。だが、おれがその荷物を下ろしてやるわけにもいかねェ。あれはあいつが自分で背負って、自分で捨てることを望んでる荷物だ。おれが手ェ出すモンじゃねェ。だから、おれは、待つしかねェんだ」
「……」
「なに黙ってんだよ」
「……いや。なんでもない」
「かしら!」
 別の声が入った。
「あ?」
「かしら、スピードやりましょう! 次こそ勝ってみせますぜ!」
「おう、てめェ言ったな? まだおれはてめェ相手に本気出してねェぞ」
「やれやれ! 新入り! いいぞ! キッドのかしらを倒せば新王者だ!」
 キッドの声が遠ざかっていく。トランプゲームに戻るのだろう。キラーは呆れたようにため息を吐いて、トーン・メモリにメッセージを残していた。これを聴いているであろうトラファルガー・ローに向けてのものだ。
「……トラファルガー。お前は相当愛されてるらしい。あいつはガキくさいところがあるから、今言ったことは、お前には直接絶対に言わないだろう。だが、あいつはそれを隠しているわけじゃない。だから……」
 キラーも呼ばれた。どうやらさっきの新入りが早々にキッドに負けたらしい。こいつじゃ相手にならねェぞ! とキッドがげらげら笑いながら、楽しそうに浮かれている声が聞こえる。ローは微笑を浮かべた。見ていなくても表情まで思い浮かぶのだから、ユースタス・キッドは罪なやつだ。
「だから、お前もそのまま変わらないでいてくれ」
 キラーは最後に手早くそう言い残して、終えていた。キラーもとんだおせっかい焼きだ。あれだけいやな顔をしておいて、結局はこうやって、うまく取り持ってくれている。いい相棒を持ったな。ローはそう微笑み、メモリを大切にコートのポケットへしまった。船室を出て、コーヒーでも飲むかとダイニングに入ると、まだ船員たちが起きていた。
「なーんだ、キャプテン起きてたんすか! コーヒーっすか?」
「あの目はコーヒーだなァ~」
「キャプテン、マシュマロいれる?」
「ばか、ベポ、マシュマロいれんのはココアだけ! コーヒーにはいれねェの!」
 シャチ、ペンギン、ベポ、彼らを含めるハートの海賊団の船員たちは、ローの大事な相棒だ。キラーのような男とはまた別の、彼らなりの強さを持っている。ローはダイニングチェアに座り、ローの注文をきかずにすでにコーヒーをいれかけているシャチに、「おい、この目はコーヒーじゃねェ、緑茶だ」と言いつけた。シャチはおおげさにずっこける真似をした。
「いれっちゃったっす、飲んで!」
 湯気の立つマグ。これもひとつの愛だ。
「キャプテン、明日の夜にはパンクハザードに着くよ!」
「そうか。しばらく別行動だ。任せたぞ」
 島が近づいている。おれが背負っている荷物、か。ローは考えた。いまからそれを下ろしに行くのだ。積載制限ぎりぎりまで詰め込んだ荷物を、下ろしにいく。この荷物がなくなったとき、キッドは気づいてくれるだろうか。あの男は、めざとく気が付くのだろう。身軽になったローに、何をしてくれるだろう。ローはただ、頬にキスが欲しかった。やさしいだけの、大きな意味を持たないキスが欲しかった。

 愛は監獄じゃねェ、か……。
 ローはまたつぶやいた。なんだかえらくこの言葉を気に入ってしまった。血なまぐさいうわさのつきまとう、ユースタス・キャプテン・キッドらしくない言葉で、だからこそどきっとした。つぶやきはコーヒーの湯気にかき消された。潜水艦は静かに夜をおよぐ。
ローの眠気は当分、訪れないだろう。