或る夜

   一、弥平
 
 午前二時を回って、旅籠の風呂場から人の影はなくなった。あらかじめ言い遣っていた通り、旅籠の丁稚奉公である、阿野内村の弥平はぺたぺた素足の音をさせながら、慎重に階段を下りて行った。誰にも見られてはならない。……とは、別に言われたわけではないが、自然と足音を殺さねばならないような気持ちになった。そうさせるような相手だったのだ。
 今夜の客は、普段よりずっと気を遣う相手だった。
 いつもなら、オロチの膝元でのうのうと暮らす高慢ちきで落ちぶれた(と弥平は思っている)侍たちか、カイドウの傘の下でいばりちらすチンピラたちくらいしか宿に客はなく、たまにきらびやかな花魁たちが羽を伸ばしにくることもあるが、それも特別のときくらいで、すっかり三下の相手がうまくなっていたから、かえって格式高い相手は手慣れなかった。
 真打ち、とその人は呼ばれていて、うんと異国のにおいが強い不思議な風体の人だった。

 これが女の髪ならきっとまぶしいくらい綺麗だったろう、と思うものの、二メートルを超す大きな男が持ち主なせいで、不気味にさえ見える金髪を腰まで垂らして、白いを通り越して不健康に青白い、ぬうっと大きな異国人だった。その人が、まだ十二、三の丁稚奉公を呼ぶ「ヤヘイ」という不思議な発音が、まるで自分の名前を普段と違う響きのものに変えてしまって、弥平はいつもその人に呼ばれると肩をすくめた。恐怖というより、むずむずするような違和感で。
 「真打ち」っていうと、偉いんでしょう、と尋ねると、彼は不思議そうな顔をした。さて、知らん、とあっさり言って、初仕事だからな。と付け加えた。初仕事の割に、彼はいつも慌てる様子なく、表情を変えなかった。
 しばらくの滞在になるそうだ。金になる客だからと女将は目の色変えているが、彼は座敷に花魁を呼べとも、酒におぼれて宴会をおっぱじめもしなかった。明らかに肩透かしを食らった女将だが、金の払いは悪くないし、遊女を寝床に連れ込んだせいで布団を汚されることもないと文句を言う様子も見せなかった。
 兄さん、名前はなんてェンですか、と尋ねると、彼はまた不思議そうな顔で、バジル・ホーキンスだとだけ答えた。名前を知っても、弥平は心の中でだけ彼を「バジル・ホーキンス」と呼ぶだけで、実際にはいつまでも「兄さん」とだけ呼んだ。
 バジル・ホーキンスは略奪者のくせに、なんだか略奪者っぽくなかった。何かを求めているというよりも、何かを奪われたような顔で、仕事が終わると宿に戻って、ただ座ってぼうっとしていた。お前が面倒を見よ、と女将にきつく言いつけられたので、弥平が彼の部屋に出入りしている。寝るときには布団を敷き、彼が帰る前に寝間着を用意し、食事を出し、尋ねられれば村やワノ国のことを教えた。バジル・ホーキンスはしばらくすると履き物を脱いで畳に上がることにも慣れて、一人で部屋にいるときは、気楽に足を崩すようになっていた。
 朝飯を食ってから、宿を出ると夜まで帰ってこない。夜に戻ると疲れた顔で、風呂に入りたそうにする。どうやら風呂が好きなようだったが、彼は来てすぐのころ、本当にあっという間の行水で、逃げるように風呂から上がっていた。

 そんなバジル・ホーキンスが、風呂に長く浸かれていないことに耐えられなくなったのか、ある日弥平を内密に部屋へ呼んだ。茶を淹れてくれとか、布団を敷いてくれとか、そういう普段通りの要望だと思っていた弥平は面食らった。
「宿の者が寝静まったころに、風呂をあけてくれるか」
 バジル・ホーキンスの願いはこうだった。
 女将に何を言われるか、ということよりも、この穏やかそうな真打ちが、自分の願いが通らなかったとき、どんな悪逆非道に転じるのかも恐ろしくって、弥平はあっさり首を縦に振った。どうせ一番遅くまで起きて店の番をするのは自分だし、女将や他の奉公人はさっさと離れで寝てしまう。宿の者が来ない時間など弥平はよく知っていた。
「へえ。兄さん、でも何用で?」
 尋ねると、バジル・ホーキンスは当然のような顔で、
「風呂に入りたい」
 と、分かり切ったことを言った。

 そう頼まれたので、弥平は真夜中の宿屋の階段を降り、部屋でじっと待っている異国人のため、大浴場に湯をためている。立派な、由緒ある旅籠なので、風呂桶に湯を張るタイプの大浴場のほかに、外にかけ流しの露天風呂があった。そっちにすれば、と薦めたが、いや、中の方がいい。と、何か事情があるようだった。
「兄さん、湧きましたぜ」
 弥平が呼びに戻ると、よし、とバジル・ホーキンスは立ちあがって、花鼓柄の浴衣をかかえて、おとなしく弥平のあとを従った。勇ましくたすき掛けした弥平が、素足で濡れた浴場の中を進み、湯加減を見ている間に、バジル・ホーキンスは衣服を脱ぎ落した。男の弥平が見てもほれぼれするほど立派な体で、ところどころに目立った傷がある。これが海を渡る外国の男かと、弥平はあんぐり口をあけていた。
「入っても?」
「ええ。そりゃもう。おれは外にいってますんで」
 弥平は慌ててそう言って、彼をおいて外へ出た。

 たっぷり一時間待ったあとに、がらと浴場の戸が開いた。肌から湯気を立ち上らせたバジル・ホーキンスが、脱衣所を覗き込んでいる。うつらうつらしていた弥平はハッと目を開けた。
 風呂の作法を知っている珍しい外国人だった。ちゃんと長い髪をゆるくアップにして、惜しげもない全裸で、彼は弥平におかしなことを言った。デッキブラシを貸してくれと言うのである。なぜ、と問うと、掃除するから、という。恐る恐る中を覗いた弥平は、あっと息を呑んだ。

 湯は工業地の廃油をぶちまけたような、どす黒い色に染まっていた。早く始末しないと浴槽が痛む、とバジル・ホーキンスは見られても動じた様子がなく、弥平は慌てて浴槽の栓を抜いた。てらてら光る、コールタールみたいな湯は、排水溝へ流れていく際、オオオ……、と低いうなり声のようなものを上げていた。
「兄さん、ありゃあ……」
「驚かせてすまなかった。あれはおれの身体から出る〈死者の膿〉だ。湯船につかるのが好きなんだが、おれの命が削れた後はアレが出る。掃除をするから、道具を貸してくれ」
 弥平は慌てて掃除道具を取りにゆき、自分も手伝った。バジル・ホーキンスとデッキブラシっていうのは、彼をよく知らない弥平から見ても、なんだか深い違和感を感じて、無感動なまま広い浴槽の床をこする彼の姿がどこかひどく悲しく見えた。しばらくおれの秘密を共有してくれるか。とそう頼まれて、弥平は気圧されるように頷いていた。それどころか、二度、三度とそういう日が続くと、彼に掃除をさせることがひどく苦痛に思えて、弥平はバジル・ホーキンスから掃除を取り上げた。
「兄さん、どうか、おれが掃除をしとくんで、その間露天風呂にでも行っててくださいな。見てらんねえや」
「そんなにおれは掃除が下手だったか」
「いンや。そうじゃねェけど……。基督様が拭き掃除してるみてェでいやンなるんです」
 弥平がそう言うのを、バジル・ホーキンスは興味深そうに見つめ、それ以上食い下がらなかった。そうして、弥平は、彼が浴槽で〈呪い〉を吐き出したあと、せっせと湯船を掃除し、その間にバジル・ホーキンスは露天風呂を楽しんだ。
 
 放っておけない人だなあ。弥平は素直にそう思った。手を貸したくなる、何とない頼りなさがある。けれど、案外一人でしゃんと立っている。たぶん、単純に、誰かに世話をされているのが似合う人なんだろう。弥平は彼の代わりに浴槽を掃除し、夜中の二時に風呂を開けることが、特段苦にはなっていなかった。
「ヤヘイ」
 バジル・ホーキンスが自分を呼ぶ時の、異国人みたいな自分の名の響きにも慣れてきた。
「へい」
 そう答えると、バジル・ホーキンスは懐から銭を出して言う。
「これで何か食うといい。腹が減ってるんだろう」
 丁稚奉公はいつだって腹が減っている。わずかなメシで思うさま働かされるからだ。いつも世話になっているからな、と変わらぬトーンで恥ずかしげもなく言うバジル・ホーキンスだから、いよいよなんだかありがたさが増して、じんと胸に刺さって、弥平は「旦那、ありがとうございます」と受け取った。いつしか彼は「兄さん」ではなく、親しみを込めて「旦那」と呼ぶようになり、バジル・ホーキンスも特に何も言わなかった。弥平は銭を貰うと一目散に表へ駆けて行って、串に刺さったみたらし団子や、芋なんかを買うのだった。

   二、手を貸したくなる男、手を借りさせない男

 真打ち、バジル・ホーキンスがカイドウ傘下に下ってしばらく経過した。部下もつけずに一人で村に放り込まれて、ひとつ任務を片付けろと雑な言いつけを受けた割に、彼はうまくやっているようだった。はじめは、本当にあの魔術師がちゃんと言うこと聞くのかと不安視する声が多かったのを裏切って、バジル・ホーキンスは不気味なほど従順だった。すっかり心を折られたのだろう、という嘲弄気味の声がかかっても、ホーキンスは無頓着な態度を貫いた。
 もうずいぶん一拠点でがんばっているらしい。そろそろ引き揚げだ、とホーキンスの手柄でほぼ殲滅された浪士どもを、生き残りはのこらず採掘場送りにして、珍しく飛び六胞のディエス・ドレークが彼のもとを訪れた。別の任務で立ち寄っただけだが、同じ旅籠を使おうと思ったのだ。あの村に居心地のいい旅籠が少ないせいもあったが、囚われた最悪の世代の姿をこの目で確認しておこうと思ったせいでもある。
 どうやら血の気の盛んなユースタス・キャプテン・キッドはまだ採掘場で駄々をこねているようだが、魔術師の方は、今は従って置くのが最善だと判断を下したらしい。一人残らず部下を取り上げられ、今まで船長船長と慕われていた男が、誰も懇意の者がいない孤独の地で「あれをやれ」「これをやれ」とシンデレラ姫のようにこき使われている。しかし相手は腐ってもフダツキで、シンデレラにしておくには仕事の手際も良すぎ、そして肝も据わりすぎていた。ホーキンスは心を折られたと他の連中は言うが、ドレークには、機をうかがっているだけのようにしか見えない。
「何しに来た」
 ホーキンスは、再会したドレークに、初めは多少棘を見せていた。おれを笑いに来たか、とまでは言わなかったが、お前がここへ来る理由は何だと詰め寄る雰囲気を見せていた。ドレークは単に、「取った宿がここなだけだ」とだけ言って、それ以上彼に関わりはしなかった。
 
 ドレークが旅籠に泊って、意外だったのはホーキンスの世話を言い遣っているらしい丁稚奉公だ。粗野で育ちもよくなさそうな少年だったが、彼の中の何かが、ホーキンスを手伝ってやりたいという気持ちをくすぐるのか、彼は熱心にホーキンスの世話をして、「旦那」なんて呼んでいた。籠目柳の寝間着を着て、兵児帯の締め方もサマになっている。いっちょまえにお洒落なんて楽しんでいるのか、ホーキンスは毎夜ちがう浴衣を着て、羽織の色も合わせて変わった。今夜は深いあさぎ色の羽織を羽織っていた。
「旦那は最初こそ、着方なんてわからなかったンですぜ。ズボンの上に、ガウンみてェに浴衣を羽織っちゃってさ。おれが着方を教えたンです」
 丁稚は誇らしくそう言って、ホーキンスは彼のおせっかいを嫌がる様子もなかった。いまだにブーツを脱いで上がる畳の感触に慣れぬドレークと違って、ホーキンスはもはやこの和式の宿にすっかりなじんで、素足で畳の上を滑るように歩く姿もサマになっていた。

 そんな日が二日、三日続いて、てんで不審な動きも、反乱の意志も見せないホーキンスに、そろそろ自分も持ち場へ戻るかとドレークが腰を浮かせた頃合いだった。ふと真夜中に目をあけて、ドレークは本当に、急に風呂に入りたくなった。そんなことは滅多にない。そもそも、ドレークにとって風呂は単なる汗流しで、それ以上の意味もそれ以下の意味も持たない。この時、ドレークはホーキンスの特筆すべき風呂好きについて、まだ知る由もなかったのだが、本当に珍しく、真夜中二時を回ったころ、急に汗を流したくなった。
 むしむしと暑い夜だったのだ。寝つきが悪く、嫌な夢を見た。自分の頭をスッキリさせるために、ぜひ熱いシャワーを浴びてしまいたかった。こんな夜更けに風呂は開いていないかもしれない、と思いつつ、しかし開いていたらラッキー、湯船に湯がなくても、自分はシャワーだけで十分だからとドレークは旅籠の階段を下りたのだ。
 誰もいないはずの浴場に、ほのかに灯りがついていた。ドレークはピンと直感が閃いて、なんとなくこれはホーキンスの仕業だと思いついた。だから、ドレークは静かに扉に手をかけ、中に誰もいないことを確認して、脱衣所へ入った。
 へたくそな着方だったが、ドレークも浴衣に着替えていた。脱衣所で服を脱ぐより先に、灯りの灯る浴場で何が起こっているかを確認するのが先だと、帯も解かずにドレークは浴場への戸へ手をかける。能力者はいい。丸腰で敵地に入っても、肉体が強力な武器になる。だから刃物を一つも持っていなくても、ドレークは堂々と戸を開けることができた。

 ――湯船には男がいた。

 金髪の長い髪を束ねて、静かに背を向けている男がホーキンスであることは自明であった。たすき掛けの、裾をまくり上げた着物のまま、逆さに向けた桶の上に座ってうとうと居眠りしている丁稚奉公の少年が中にいた。さっきまで話し相手をしていたのだろう、そんな空気がそこには残っていた。丁稚奉公はハッと目を開け、わあっ、と叫んだが、ホーキンスの方はゆっくりとドレークの方を振り向くだけで、何も言わなかった。
 ドレークにはそれより、もっと目を引かれるものがあった。

 湯の中は恐ろしいほど真っ黒だった。うねるように、嫌な油のようなものが浮いた水面には、まだらに紫色が混ざって、ホーキンスの外見の、ノースブルーらしい美しさとはかけ離れた、工場汚水みたいなえげつなさが広がっている。ホーキンスはじっとドレークに目を向けたまま、丁稚奉公が慌ててドレークを押し返した。帰ってくだせえ、兄さん! 旦那は誰にも見られたくねェんです、これを!
 ならばなぜ貴様には見せている、と、ドレークは十二歳の少年に向かって、そう噛みつきそうになった。この時の衝動、衝撃は、口に表わすには非常に難しい。押しても引いても動かぬドレークに、ホーキンスはゆっくりため息を吐いて、「構わない」とだけ言った。
 湯からざばりと立ち上がり、ホーキンスは気安い口調で、「ヤヘイ、掃除をしよう」と言った。ドレークは、ホーキンスが奉公人の名を知っていることにまず驚いた。弥平と呼ばれた少年は当然のように脱衣所へ出て、デッキブラシを持って来た。自分のしか持って来なかった少年に、「おれのは」とホーキンスが尋ねたが、旦那はあっち行っててくだせェ、と少年に追い払われ、ホーキンスはすごすごと露天風呂の方へ向かって行った。
 コールタールが排水溝へ流れていく。ウウウ、とも、オオオ、ともつかぬうめき声が響いて、ウ、とドレークは目を細めた。怒り、悲しみ、恐怖、その他もろもろの嫌な感情を詰め込んだような断末魔の声だ。ホーキンスは湯船に何を残していったのか? 立ち尽くすドレークに、丁稚の少年は怒ったような、咎めるような目を向ける。
「兄さん、風呂入るならちょっと時間がかかりやすぜ。露天なら、旦那と相風呂ですが入れます。シャワーなら勝手にやってくだせえ」
「……これは一体なんだ」
「…………」
「なんでお前が掃除してる? あいつが汚したんだろう。あいつにやらせるべきだ」
「旦那に! とんでもねえや」
 ぶる、と身を震わせた奉公人を置き去りに、ドレークは浴衣のままずかずかと露天風呂へ出て行った。のんびりと湯につかって、遠く鬼が島の方を見つめているホーキンスの腕をつかんだ。ホーキンスは驚きもしなかった。
「貴様! 自分で汚した湯船だろう、自分で洗え! 子どもはさっさと寝させてやるべきだ」
「…………そうだな」
 意外にも、ホーキンスはあっさりと応じて、風呂から上がり、浴衣に着替えた手にデッキブラシを持って戻ってきた。確かに、自分から「掃除しろ」といった手前言わないが、ホーキンスにデッキブラシはなんだかひどく哀愁があった。

「ああ! 旦那、そんなの、いいのに」
「いや。おれも手伝おう」
 ムッとしたような奉公人の目を交わして、ドレークはじっと湯船のふちに腕組みし、監視する体制になった。軍人上がりで、よく清掃をさせられたり、清掃を見張ったりしたドレークには、これは一種の癖のようなものだった。自分で汚したものは自分で洗う。これも海軍時代からしみ込んだ規律の一つだ。しかし、確かに、長い髪を優雅に垂らして、まだ濡れたままの毛先から水滴をこぼし、デッキブラシで浴槽をこするホーキンスの姿は、「見ちゃいられない」ものがあった。
「もっと力いっぱいこすれ、ホーキンス」
「…………」
 ホーキンスはじろりとドレークを見て、けれど文句を言わずに力をこめた。ところで一体、さっきのはなんだったんだ、と、ドレークは一番気になっていたことを聞いた。こういう、なんということのない単調作業の合間に尋問をやると、案外ホシがあっさり口を割ったりする。ホーキンスは予想の通り(というか、最初から隠すつもりもないのだろうが)、「おれの能力の代償だ」と答えた。
「代償?」
「……ああ。おれの持つライフが失われたとき、おれの知らぬところで人が死ぬ。その罰は一部おれに跳ね返ってくる。体の中に膿となって溜まった不浄を、風呂で洗い流す。そういうことだ」
 ホーキンスが言っていることの半分も意味が分からなかったが、人の命をもてあそんだ罰が彼に降りかかるということだろう。呪いは呪いの形で必ず返ってくる。風呂で流せるなら簡単なものだ、とホーキンスは淡々と言った。丁稚奉公は何か言いたそうに、不安げにホーキンスを見ていたが、それ以上言わず、ドレークが「子どもは早く寝ろ」と叱るままに裸足で浴場を駆けだしていった。
「あんな小さな子どもをこき使うとは。見損なうぞ」
「……いや。使ったわけじゃない。ヤヘイが手伝うと言ってくれた。これまでは、掃除は部下がやってくれていたからな。……目もあてられん掃除だったんだろう」
 案外、ホーキンスの口調は強かった。「これまでは」というところと、「部下」ということばに、ホーキンスの静かな怒りと、不安げな炎が揺れているようで、ドレークは不覚にもこの正体不明の男に、なんとなく同情心のようなものが湧いた。

 ある意味でこいつはカリスマなのだろう。手を貸してやりたくなる、そんな男なのだ。しっかりと両足で立っている安定感と、何にも動じない不屈の感じがちゃんと体からしみ出しているのに、なぜか手を貸してやりたくなる。そんなヤツなんだろう、とドレークは思った。そして、だからこそ、おれはコイツに厳しく当たってやる、とも思った。普段甘やかされたホーキンスが、自分でやれと言われたときに見せる、困ったような雰囲気が、ドレークの胸にちらりと意地悪な灯をともさせていた。
「ほら! 手を動かせ! 夜が明けるぞホーキンス!」
「……もう十分綺麗になっただろう」
「バカ言え、四隅が真っ黒だ。ほら手を動かせ!」
 ドレークがパンと両手を叩く音が、浴室に木霊して、ホーキンスも結局のところ、本気で嫌そうにはしなかった。

 或る夜の話であった。

   〈了〉