恋とはちがう、恋に似たもの

 聞いてくださいよォ、とノックもせず部屋に飛び込んできたシャチに、「ノックしろ」とトラファルガー・ローは不機嫌に言い、鼻先でぴしゃんとドアを閉めなおした。
 矢継ぎ早に、ドドドドンッと扉がノックされ、「入れ」が終わらないうちにシャチはどやどやと部屋に体をねじこんできた。
「うるせェぞ」
「ひでェなオイ! クルー同士の揉めごとを華麗に解決すんのもキャプテンのお仕事でしょうがァ!」
 ポーラータング号の元来手狭な船長室に、図体のデカい男が二人もいれば、余計に部屋は狭く感じられる。早く出ていけというオーラを隠さない船長を無視して、クルーの一人であるシャチは、部屋に転がり込んでくるなり縷々切々と訴えた。
 訴えの内容はこうである。ハートの海賊団紅一点であるイッカクが、近ごろ陸で大人気の俳優男に大ハマりした。ローも朝食の時間がかぶるたびにうんざりするほどその話を聞かされるので知ってはいたが、ほとんど相手にしたことがなく、そのすさまじい熱狂っぷりを知らないでいた。不運にも、イッカクとここ数日見張り当番をともにしていたシャチに、そのはけ口が一気に向かっているらしい。
「も~~~交代で仮眠の時間さえくれねェんすよ!? あいつは楽しいだろうけどおれは知らねェ男の情報過多で死にそうっすよ! もう二千本くれェ動画見ましたし! 全然どうでもいい男のツラがまぶたの裏に焼き付いてはなれねェんすよね! おれ陸で遭遇したら斬りかかりそうっすよマジで! ていうかあいつにスマート電伝虫供給したやつ誰なんすか!? キャプテン許可したんすか!? おれもまだガラ電(※ガラパゴス電伝虫)なのに! 四六時中陸のご家庭のテレビ回線傍受してドラマ見てますよあいつ! 人様のルーター経由してネットに不正アクセスして公式ブログだのなんだの見てるんすよ! ねえ! キャプテンからもイッカクに言ってくださいよォ! おれがいくら言ったってあのアマ微塵も話聞きゃしねェんだから! しかもちょっと文句言っただけで意識トぶくらいヘッドロックかけてくるんスよ! ゴリラが恋すんなって言ってやってくださいよォ!」
「あ? それくらいてめェらで解決しろ。おれは命が惜しい」
「おれだって命惜しいんスよねェ!!」
 くわっ、とシャチはいつになく必死の形相である。紅一点というと聞こえがいいが、正直なところ能力を用いない純粋なスポーツとしての殴り合いを行った場合、イッカクを倒せるのはクマの筋力を持つベポくらいだろう(それでも胆力でイッカクに押し負ける可能性さえある)。ローも一度、酒の席でへべれけになったイッカクに肩をバシィンッと叩かれた後遺症がその後数週間残った。
「明けても暮れても男の話、そいつがいかにイケメンでいかにドラマの配役が神でいかにスパダリかを一晩中! っすよ! ねェ! 敵船来たらどうするんスか!」
「うちはガレオン船じゃねェから目視で周囲を警戒しねェでもレーダーに映るだろうが」
「ハ~~~~~正論の刃~~~」
 ポーラータング号の夜の見張りはガレオン船で海賊たちが行う一般的な見張りとは違う。上るマストもないし、戦うデッキもないため、夜の海底をゆっくり進む潜水艦の中で、レーダーが異変を探知しないか、何か妙なものが映らないかを画面で確認する。見張りは交代制、二人一組で交互に仮眠を取る形式を取っており、いまのところ夜襲に合ったこともない。
 どこぞの誰かは「チキン」とのたまったが、ローはこの潜水艦での渡航を非常に効率がよく頭のいい作戦だと我ながらそう思っている。敵船との遭遇率は非常に少なく、発見した脅威は先手を打って魚雷で確実に沈めることができる。ポーラータング号にとって海王類や魚人たちとの遭遇にさえ気をつければ、海を走るのは割合に静かなものだった。
「わかんねェな。おれたち海賊は海で殺し合うモンじゃねェのかよ」
 ローの脳裏にひらめくのは、聞きなれたあの男の嘲弄である。こっそり進む? 戦闘を避けて? ハ、チキン野郎じゃねェか、と鼻で笑ったあの男は、どこまでも非効率を好み、「ロマン」とやらを大切にした。そのくせ、妙なところはリアリストで、近ごろの若い海賊らしく、伝統的かつ儀礼的なものを面倒くさがったりする。
「おれが嫌ェな言葉を教えてやろうか。《踏襲》。《現状維持》」
 見た通りの言い草だな、と笑ったのが懐かしい。あの男は、常に変化を好んだ。古く長く続くものを壊し、革命を愛した。ふいに反応の悪くなったローに、シャチはぶんぶん目の前で手を振って、「戻ってこォ~い」と言う。ローは「そうかお前と話している最中だったな」というように、ゆっくり焦点を戻した。
「まァたユースタスのことっすか」
「あ?」
「割とわかりやすいッスよねキャプテン」
 ずず……、と茶を飲んで、シャチは真剣に聞いてくれないキャプテンにがっくりと肩を落としている。
 ユースタス・〝キャプテン〟・キッド。それがトラファルガー・ローと並々ならぬ関係であることを、両船のクルーたちはよく知っている。はじめ、当人たちでさえ互いの関係がよく分からず、言及しないままであったが、次第にどうでもよくなって、クルーにも隠さないようになった。キッドが自分のことをどう説明しているのかは知らないが、少なくともローはクルーたちに、キッドと何度か〈事故った〉ことがあるとは説明している。
「思えば、キャプテンってなんでユースタスにしたんですか?」
「ユースタス屋に〈した〉ってのはどういう意味だ」
「いやそのままの意味ッスよ」
「おれは別にユースタス屋に決めてるわけじゃない」
「え~、でも行きずりって割には続いてるじゃねェすか」
 そう言われると、言い返すことができない。確かにユースタス・キッドとは、シャボンディ諸島以来意外なほど続いていた。行きずりで名も知らない人間と寝た経験はあっても、名の知られた、しかも同業者である相手と定期的に会い、酒を飲み、そのまま寝ては、明け方あくびを噛み殺しながらともに自船へ戻る生活などキッドと出会うまでは想像もしていなかった。
「体の相性がいいんだろう」
「ウワー、全然聞きたくなかったっす」
「それ以外ねェからな」
 好きだ、嫌いだ、そういうのではないとローは思っている。惚れた腫れたではなくて、体の相性がよく、一晩過ごしても不愉快でない。それなりに名の知れた海賊団の船長となると、相手を探すのにも一苦労だ。後に面倒があってもいけないし、つけこまれてもいけない。敵船の船長との肉体関係など面倒の最たるものだと思っていたが、ユースタス・キッドの方も同じようにロー相手を悪くないと思っているからこそ、ここまで続いているのだろう。一度つつがなくヤってしまえば、二度目以降は見知った相手だ。三度目以降は雰囲気を探ることさえやめて、酒を飲んだらとっととベッドに入って、海上での憂さを晴らすように朝までろくろく寝ずに交わった。
「おれも恋したら変わるんすかねェ~。かわいい子とヤりてェな~とは思うけど、つきあうまでは考えられねェしな~」
「いや、おれのは恋じゃねェと言ってるだろ」
「おれも敵船の誰かと恋するかな~。するなら麦わらんとこのナミちゃん一択だな~」
「オイ、聞け」
 恋、という単語を思い浮かべて、ゾワッとした。ユースタス・キッドと「恋」。ぞっとする組み合わせだ。少なくともローが知る限りの「恋」とかいう甘ったるいやつと、自分たちがやっていることは天と地ほどにも離れたものであるように思う。
「もし、ユースタスが陸で大人気の若手男優で、そのユースタスにもしキャプテンがハマっちまったら、ユースタスの出てるドラマとか公式ブログとか死ぬほどチェックします?」
「いきなり何だ? 気でも狂ったか? おぞましい想像をさせるなよ」
「も・し・も、の話っすよ!」
「前提からありえねェ話は時間の無駄だ。仮定にもなってねェぞ。あいつが男優なんざ、ポルノぐらいしか道がねェ」
「ワハハ。確かに」
 言葉に出すと話が長くなりそうなので、ローは結局口にすることはなかったが、ローとキッドが互いに対して持っている感情と、イッカクが俳優を日がな一日追っかける感情は、また別個のものなのだと思う。シャチはくどくどとイッカクについて文句を言って、ローから何の解も得られていないというのにどこか満足した様子で船室を去っていった。書きかけの日誌をもう一度開いて、さて再び続きを書くかと机に向き直る。
 もしキッドが陸で大人気の若手俳優だったら。……ローは先程シャチが言ったおぞましい仮定についてもう一度考えてみた。キッドはああいう手合いの男だから、俳優として万が一デビューしたとして、酒だのクスリだの女だの、スキャンダルに絶えない男になるだろう。そもそも、デビューする前から品行方正に頑張るということなどできるようなヤツではないので、やっぱりどう考えたって無理だ。そもそも、キッドがカタギで生きている姿を思い浮かべろという方がむちゃくちゃな注文だ。ローにとって、ユースタス・キッドは生粋の海賊で、あの男がお天道様の下を堂々と歩ける生き方をしているところなど、想像しろという方が無理だった。
「やっぱりあいつは海賊で正解だな」
 つぶやいて、ローはふと、デスクに並んだもののうち、便箋の束と封筒を目にとめた。ブックスタンドに本といっしょにつめこまれて、小さくなったシロモノだ。いつ買ったんだっけか、と思い出そうとしたが、はっきりと思い出せない。うっすらと青みがかった、紺碧という名のついたインク瓶が手にぶつかる。万年筆が机を転がり、ローの左手に当たった。
 ――……手紙を書けよ。
 なんとなく、一連の出来事がローをそうそそのかした。手紙。しかし一体何を書けというのだろう? 誰に? どこへ? ローはしばらくじっと万年筆を見つめ、浮いた手をそのままの形にしていたが、そっ、と筆を取りあげた。
 ――……手紙を書けよ、トラファルガー。
 脳みそをつつく声が、ユースタス・キッドの半笑いの声に変わった。腹の立つ嘲弄まじりの声だ。けれど、くちびるの端をクイッと持ち上げる笑い方と、皮肉まじりのキッドの声が、ローは案外好きだった。
(恋、ねェ)
 頬杖をつき、まァたまには、普段やらねェような気まぐれを起こしてやるか、とローは便箋を一枚、べりりと破り取る。長い手紙を書く気はない。そもそも長い文章を読む根気がキッドにはないからだ。手紙にするなら一行で。長ェなら電伝虫で。キッドはそういうやつだった。
 手紙にはこう書いた。
「お前とおれがしてんのは、恋だとおもうか?
 トラファルガー・ロー」
 キッドはこれを読んでどんなツラをするだろう、と考えると、少し気分がよくなった。

 トラファルガーから手紙だぞ、とキラーに言われ、キッドは差し出された簡素な封筒を二度見するハメになった。
「ア? 手紙? だれが?」
「トラファルガーだと言ってるだろ」
 てめェの耳は節穴か、とキラーはずいぶん機嫌が悪い。後々面倒になるからやるな、と言われていたのに、情報収集のためひっ捕らえていた海軍本部の若造を三名ほど、無礼なことを言った罪でブチ殺したせいだろうか。
「どういう風の吹き回しだよ」
 言いながら、キッドは受け取った手紙をすぐには開けない。他のどうでもいい荷物は差出人を確認もせずその場で開けるくせに、ローからの手紙はふところにしまう。あとで自室で見るのだろう、とキラーはフンと鼻を鳴らした。
「あんだよ」
「何もない」
「ンだよ、妙に突っかかンな、テメェ」
「誰のせいで航路をぐるっと旋回させたと思ってンだ。今夜中には港に着く予定が二日遅れるぞ」
「あ? いいじゃねェかそのまま行きゃァ」
「バカ! てめェが捕虜をぶち殺してくれたおかげで港周辺のマークがキツいんだよ、今このタイミングでおれたちが到着すりゃ嫌でもおれたちが殺ったと分かるだろ」
 つかんだのは海軍のこの海付近の巡回ルートと物資補給ルートの詳細だ。この情報だけでしばらくは略奪に困らない。商船がいつどこを通過するというのも一目瞭然で、これが海賊に回ったとなると海軍はルートをすべて洗いなおさざるを得ないだろう。キッドの海賊船にとっつかまり、拷問の結果口を割った若い兵三名をどう秘密裏に抹殺するか考えていたところだったのに、何を言われて挑発されたのか、キッドが早々にブチ殺し、あげく海に捨てたという。死体は海軍に回収され、次に着く港のマークも厳しくなった。キッドはこういったことにはまだまだ配慮が薄い。そのまま強引にねじ込めばいいと考えているのだ。しかも、それがリスクを分かった上での考えだから性質が悪い。キッドは多少リスクが高くても、海賊として誇らしいかどうかで自分の行動を決めた。だから、この隠密と暗躍の、昨今の航海時代において、海賊ですッ! と主張するようなド迫力のガレオン船に乗っているし、町中でも目立たない格好をしようなどとは微塵も思わない男だった。
(これがなきゃ、完璧なんだがな)
 キラーはフウとため息を吐く。といって、キラーも、キッドのそういうところに惚れて海までついてきたのだから始末が悪かった。
 不服そうにキッドはくちびるをとがらせたが、「アーアー悪かったよ」と片手を挙げて、さっさと船室に引っ込んだ。手紙を早く見ようというのが本音だろうが、ここで引き下がれるようになったのは、ここ二年でだいぶん落ち着いてきたおかげだった(以前なら殴り合いに発展してモメていたことだろう)。
 
 キッドは言い争いを避けて船室に戻り、ふところから手紙を取り出した。ぱす、とベッドの上に放り投げる。先にキッドはグラスに酒を注ぎ、レコード盤へ針を落とした。
 ぶつ、ぶつ、とぶつ切りの録音音源から女のささやき声が流れてくる。キラーにすら、この趣味はあんまり理解されないが、キッドは演奏するより音楽を味わうことを好む男だった(演奏ももちろん好きである。現に、あらゆる種類の楽器がキッドの部屋には並べられていた)。その時の気分に合う音楽と酒を用意して、部屋では時間さえ忘れた。部屋に入るのは寝るとき、日誌を書くとき、一人でやるべき重大な用事があるとき、それからふて腐れたときくらいだが、キッドはひとたび部屋にこもると次に部屋を出る時間がくるまでは、ただ一人きりの空気を十分に咀嚼する。
 ベッドの上の手紙が気になって仕方がなかったことは事実だが、酒を一杯飲み、たっぷり十三分、音源を聴き終えるまでは手に取ることがためらわれた。気分がノってきて、さてトラファルガーのことでも考えてやるか、という気になったとき、やっとキッドは手を伸ばす。薄っぺらい封筒で、便箋は数枚も入っていないだろうと手触りで分かった。
 キッドの予想した通り、中には一枚の手紙が入っているきりだった。ローの特徴のある癖っ字で、青いインクがなめらかに光っている。二つ折りの便箋をひらくと、中身はたった一行だった。だが、そのたった一行を、キッドは何度も読み返した。
――……お前とおれがしてんのは、恋だとおもうか?
 キッドは、いまここにトラファルガー・ローがいなくてよかった、と心底そう思う。
 もし即座の答えを求められたら、キッドは少なからず、顔を熱くしていただろうから。
「……ンだよアイツ」
 ちくしょう、と舌打ちをして、手紙を放ろうとしたが、やっぱりやめた。代わりにもう一度読み直した。ンアー、と唸り声が出る。恋? 気持ちがわりィことを聞くなよな。キッドは額に手を当てて、じっと毛足の長い足元のラグを見つめた。一体何を考えてやがる。……だが、キッドがローの奇行の意味を真に理解ができたことなどこれまでに一度もなかった。
 返事を書くことはできない、と思った。返事に困る内容だし、文字で表現できるとはキッドにはとうてい思えなかった。キッドがローに感じているのは、ひとことであらわせられるような単純なものではない。いろんなものが混ざり合った結果できたものがローへの気持ちだ。
「恋」
 キッドはつぶやき、オエ、と胸をわるくした。
「バカ言うなよ、……恋なわけねェだろ、コレが」
 ンな単純なモンじゃねェんだよ。キッドはようやく、普通の顔ができるようになって、手紙をデスクに仕舞いこんだ。オークの木でできた、重量感のあるデスク。眠る前に呑む葉巻と、これまでに書いてきた日誌、鮮血という名のかすかな赤みのあるインキ、筆立てに置かれた万年筆。酒瓶が何本も乗っているせいで、デスクの半分は埋まっていたが、手紙ひとつしまうくらいは、余裕のある場所だった。
「わかってねェな、トラファルガー」
 つぶやくと、ニッ、とくちびるが笑った。そうだ。分かってねェのだ、トラファルガーは。


 
 予定した通りの日程で、小さな港町に停泊したハートの海賊団たちは、時を同じくしてユースタス・キッド率いる海賊団が港に到着していることを知った。行き合わないようにあえて日をずらしたのに、かち合うとはおかしいな、とそれとなくペンギンに事情を聞いてくるよう言ったが、すぐ帰ってくるものと思ったペンギンはたっぷり一晩キラーにつかまって、翌朝酒浸りで戻ってきた。
「いやぁ~、ご立腹だったぜキラーのやつ。ユースタスの気まぐれで航路を旋回して、二日遅れで物資補給に入ったんだと。先を急ぐってのにあのバカは、って調子で愚痴飲み会に引っ張りこまれてな……。ってことで、ユースタスたちは明日夜までここに停泊予定らしいっす」
「また渡航予定日をずらしたのか。おれなら死刑にしてる」
 ローはペンギンの報告を鼻で笑い、あいつらしいな、とくちびるを緩める。キャプテンに会うためじゃねェんすか、と新人クルーが口を挟んだが、ローが答える前にベポが答えた。
「そんなわけないよ。うちもあっちも海賊業が優先なんだから、ただ会うためにそこまでしないよ、さすがのユースタスも」
 なるほど、と新人は納得した様子で頷く。ローはベポに答えられたことを何とはなしに気恥ずかしくも思ったが、その通りなので黙っていた。キッドとローはあくまでも海賊だ。お互いの欲を優先して日程を合わせたことはこれまで一度もないし、互いに微塵もそんなことをしたいなどとは思っていない。たまたま出会って、たまたま寝るから燃え上がる。そういうもんだ。だから、ローにもキッド海賊団の渡航の遅れは単にキッドのポカミスだろうということは分かった。しかも、キッドの気まぐれで渡航日がずれるのは、これまでにもよくあることだった。
 もらっていない手紙の返事のことが、ふっと脳をよぎった。行き合ったのだから、今夜はキッドに会うだろう。向こうもそう思っているはずだ。だが、なんとなく、あんな手紙を送ったあとだからか、どういう顔をして会えばいいか、わからない。
 ま、酒場で会うだろう、とローは深く考えないようにひととき忘れ去ることにした。

 ローの考えた通り、キッドはやはりその夜ローが向かった酒場で先に飲んでいた。何も言わずに隣に座ると、キッドがじろりと目を向けてくる。酒場の親父は大物二人が隣り合ったことで、今にも腰を抜かしそうだった。
 北の米酒を瓶で頼む。キッドは拗ねたように黙ったままでいた。よオ、とローが声をかけると、やっとキッドは口を開いた。
「うめェのか、それ」
「あ?」
「それだよ」
 ひょいひょい、と手で「よこせ」とやって、キッドはローの米酒をひったくった。ぐいと飲み、「クセ強ェな」と言って返す。勝手に口をつけられた酒瓶に赤いルージュがついていて、ローは飲むときそれを直接舐めて飲んだ。キッドはじいっとその様子を眺めている。何か言いたげな顔だった。
 どうやらなじみらしいと分かって、酒場の親父は気を利かせて二人の近くから場所を移動した。カウンターのはじっこで、億越えが二人、どうでもいい話を肴に酒を飲んでいる。酒場の荒くれたちが妙に大人しいのは二人がいるせいであろう。
「キラー屋に大目玉喰らったらしいな」
「ア? 喰らってねェよ。多少揉めただけだ」
「へへ。多少揉めただけ、って感じじゃなさそうだったがな」
 キッドが先に食っていた燻製肉を勝手に横からつまんで食う。オイてめェ、とにらまれるが、けちけちする男でもないので、それっきり何も言わない。
 追加で酒を頼み、腹が減ったので何かコメの料理を出せと親父に無茶を言った。出てきたのは、メニューにないものを言われ無理やりひねり出したような簡素なチャーハンだったが、ローはそれで十分だった。味が薄い、と言いながらがつがつ食っているローに、「なァ」とキッドが声をかけ、顔を上げる。
 くちびるの端に、キッドのボルドーの爪先がかすめたとき、一体何をされたのか、にわかには反応ができなかった。
 キッドは、ローのくちびるの端から米粒を指先でかすめ取り、「がっつくなよ」と笑いながら、ぺろ、と指の腹についた米粒を食った。なんだこりゃ、味しねェな。ブタ箱の飯かよ、と眉をひそめたところは彼らしいが、今の行動はあまりにキッドらしくない。
「なんだ、おまえ」
 気でも狂ったのか? と聞きかけたが、キッドはうっすら笑っているだけだった。
 そのあとも、その日のキッドは妙だった。ローがあくびを一つ噛み殺すと、「眠ィか」と微笑して(微笑! あの南の悪魔が微笑するのだ!)頭を撫でてくる。やめろ、と言うと、照れンな、と言って頬を軽く触り、飲むか? と酒をついだ。キッドが人様に酒をつぐなど天変地異の前触れかもしれない。ローは何をたくらんでやがるのか、気が気でなかったが、キッドは妙に手つきや表情が優しい以外は、普段と変わりのない〈ユースタス・キッド〉だった。
 そろそろ行くか、という頃になって、店を二人並んで出た。見れば分かるレベルのイチャイチャムード(ローは思い浮かべてゾクッと体を震わせた)に、酒場の親父も二人の関係を察したような有様である。人前でイチャこくことを悪いとは言わないが、キッドのような男がこういう楽しみ方をするとは思っていなかったので、度肝を抜かれた。
「ラリってんのか、ユースタス屋」
 道すがら、そう言うと、キッドは眉間にしわを寄せる。
「ア? そりゃテメェだろ」
 シャブ中野郎、とキッドは鼻を鳴らした。
 いつもなら、一定の間隔をあけてあてもなく歩き、スッと自然に宿に入って一発シケこむ二人だったが、ピンク街へ向かう路地で、人通りのないのをいいことに、キッドがぐいとローを引っ張った。突然のことで、ローは抵抗することも忘れた。
 メキョッ、とローの頭の横のレンガ塀に指がめりこんでいる。キッドはまだくっついている方の腕を、ローの進路をふさぐようにして塀につっぱっている。これは噂の壁ドン、とローはイッカクが大はしゃぎしていた俳優の話を思い出した。スパダリと言えば壁ドン、とかなんとか言っていたが、通常の壁ドンは壁に指がめりこみ塀全体にひび割れが起こるようなものではないということだけは分かる。
 キッドは片腕をなくしても、ローの体を自由に扱うすべを持っていた。そうする手指を失っているのに、ローは失われた反対の手で、キッドが顎をつかみ、上を向かせたように思った。そしてローはその感覚に従って、上を向いた。しかし目を閉じることは忘れた。
 キッドがそっと触れるようなキスをしたのはこの時が最初で、そして最後でもあった。キッドは黙ってキスをした。くちびるが離れるとキッドは笑い、「何バカみてェに口開けてんだ」と言う。ぐい、と壁に押し付けるように迫り、ローをとじこめたキッドの毛皮のコートから果実のにおいが漂っている。いつもキッドがしている香水のにおいだ。
「かわいいな」
 その、キッドの言葉に、ローは白目でも剥きそうだった。
「ユースタス屋、てめェ、……何を……?」
「こっち向けよ」
 ミシッ、と耳の横でレンガ塀が粉になっている。パラパラ……と瓦礫が音を立てて転がっていった。恐ろしい壁ドンもあったものである。ぐい、とやや強引に、深く口づけてきたキッドのせいで、喉奥から「ンッ……」となまめかしい声が漏れた。キッドは、唖然としているローを見て、からかうような、半分馬鹿にしたような笑みを浮かべ、壁に置いていた手をローの肩にやって、ぐいと引き寄せた。
「恋したかよ」
 キッドがそう言ったとたん、キュウッとローの顔に血液が集まった。これが漫画なら、ボンッとやかんのように沸騰していただろう。何を、言ってんだ、馬鹿野郎……、と絞り出すように言ったローに、キッドはみるみる「我慢できねェ」というような笑いをかみ殺す顔になり、ついにギャハハッと笑いだした。
「恋してェなら、させてやるぜ、トラファルガー」
 キッドはどうやら、ローの手紙を受けて、ローをからかってやろうとしたらしい。そうと分かっても、ドクンドクンと体全体に鼓動が走っている。ローはうろたえた。盛大にうろたえた。
「しっかしこれが恋っつゥなら疲れンな」
 真っ赤になった顔を腕で半分隠したローの肩をぐいっと引っ張って、ムードもへったくれもないオンボロ連れ込み宿を指し、「茶番はやめにして一発ハメようぜ」と言ってくるこのユースタス・〝キャプテン〟・キッドという男が、若手俳優をやっていなくて本当によかった、とローは心底そう思う。
 この男が若手俳優なんざやっていたら、自分は昼夜を問わず、公式ブログにはりついたり、全ての公演に足を運ぶような、ガッツのある追っかけになっていたに違いなかった。

〈終〉2018年発行・キッドくんスパダリアンソロ寄稿物