この涙は知らない

 ひとに「愛される資格」が無くっても、ひとを「愛する資格」は、永遠に残されている筈であります。
 ひとの真の謙虚とは、その、愛するよろこびを知ることだと思います。
      (太宰治「ろまん燈籠」より)
   
   
   (序)
 
 最後の荷物には手を触れなかった。手ぶらで待っているホークスの前から、最後のひと箱が持ち去られる。躊躇いも、わびしさもなかった。きっぱりと覚悟を決めた雰囲気で、彼は最後の段ボール箱を持ち上げた。
「重いな」
 独り言めいて、呟いた彼の言葉を、彼の娘が聞きとがめる。
「ごめん、お父さん、それ私の本かも」
「構わん。ここに乗せるぞ」
「うん、ありがとう」
 去られる者よりも、去る者の方が未練があった。ホークスは彼らのわずかな表情の機微を、玄関の中から眺めている。一歩外に出ると家族の空間で、いまはすっかりがらんと物の減った玄関先に、自分はまだ引っ込んでいるべきだと感じたのだ。
「お父さん」
 彼の元奥さんである、柔らかな冬の初霜のような印象の、轟冷が振り返った。彼女が「お父さん」と呼んだのは、意図してのことだろうと思う。あなた、でも、炎司さん、でもない。とてもそうは呼べなかったのだろうと思う。ただ、「お父さん」であることは、これまでも、これからも、変わらない事実だ。
 轟冷の両手が、突っ立っている「お父さん」の背中まで回った。正面からぎゅっと抱きしめられて、彼はひどくうろたえているようだった。結婚して二十年以上経つのに、彼は一度も奥さんを抱きしめたことがなかったのだろう。ホークスは無意識に目をそらしていた。見てはいけないように思った、というより、見たくないように思ったのだ。完全に自分の勝手な感情だ。
「遊びに来てくださいね」
「…………ああ」
 重々しい返事を一つした彼に、笑って頷いて、冷はさっぱりときびすを返した。彼らの娘で、長女である轟冬美は、どこか寂しそうに、いつまでも父へ、一人暮らしにおける心構えのようなものをくどくど言い連ねている。
「困ったら、ホークスさんを頼ってね」
「なぜこいつに頼る必要がある」
「もう! お父さん。お父さんよりホークスさんの方が、一人暮らし歴は先輩なんだよ」
 冬美は玄関先に立っているホークスへ、ぺこりと一つ頭を下げた。こんなお父さんだけど、よろしくお願いします。……ホークスは心から恐縮して、いえいえ、何言ってンすか、お世話になってるのは俺ですよ、と慌てて言った。

 きょう、エンデヴァー、もとい、轟炎司のもとから、家族が去る。
 彼は住み慣れた大きな屋敷に一人残って、家族は少し離れた静岡の別邸へ移ることになった。ホークスがそれを聞いたのは、なんとつい昨日のことで、仰天したついでに、どうせ明日の夜は暇なんで、引っ越し作業手伝いますよと無理やり同行したのだ。日本を支えたナンバーワンヒーローの家族の引っ越しは、夜の時間帯にひっそりと行われた。新しい家にはエンデヴァーの次男と、末の息子が先に行って、到着したトラックから荷下ろしをしているところだろう。いまは、トラックに乗り切らないものを、車田の運転する自家用車で、冷と冬美といっしょに乗せていく前だった。

 さよならとは言わなかった。
 永遠のさよならではない。当然だ。彼らは本日をもって父と居を分かつが、父と母が離縁したからといって、血のつながりが消えるわけではない。
「過去は消えない」
 ホークスの脳裏に、エンデヴァーの長兄が言った言葉がよぎった。あの男の行動が正しかったとは決して言えない。あの男が人命を手にかけ、弄んだ過去もまた消えないのだ。だが、彼の言う通り、エンデヴァーが父として家族にした仕打ちも、消えることはない。ホークスはそこを擁護するつもりは、一切ない。
 どこまでいっても、父は父で、子は子だ。
 それが時に彼らを傷つけることもあるだろうし、時には安らがせるだろう。ホークスにはもう「家族はいない」。自分の父母に特別な感情を抱くこともなくなった。徹底的に管理された幼少期のおかげで、感情のコントロールはうまい方だと思う。その上で、両親への気持ちは、抑制せずとも凪いで平穏なままだった。
 エンデヴァーさんは、いまどうだろう? ホークスはふと考える。大きな男の背中が、ものすごく遠くて、小さいように見えた。寂寥感をまとった轟炎司の背中には、ナンバーワン・ヒーローであるときの威厳や威圧感は感じられない。
 置いて行かれる一人の男だ。ただの男の背中だった。
 車が発進する。冷が手を振る。彼女にも、エンデヴァーにも、どちらにも家族を築くには致命的な弱さがあった。けれど、エンデヴァーも、冷も、家庭を二人がかりでめちゃめちゃにしてしまったあの暗黒期に比べれば、うんと、強くなった。冷は、別れの瞬間も、決して「お別れ」の雰囲気は出さなかった。茫然と車を眺めているかつての伴侶のことを、まっすぐ見つめて、微笑んでいた。微笑んでいようとしていたのだと思う。長女は対して、不安そうだった。ずっと車の窓から少し顔を出して、小さくなっていく父の姿を振り向いていた。

 しばらく彼らはそこに立っていた。
「炎司さん」
 ホークスは玄関にのんびり腰をかけて、たっぷり二分、待ってから、エンデヴァー……、もとい、轟炎司の背中に声をかけた。彼は静かに振り返り、無言で扉を閉めた。
 家はがらんとしている。もとが広い屋敷だから、物がなくなると余計に広く見えた。家族の私物を撤去してしまうと、轟炎司の個人的な荷物がいかに少ないかがわかった。彼はほとんど個人的なものを持っていなかった。趣味も、娯楽も、特になかった。
 彼は長く公人として生きて来た。何よりも強さを求め、頂点へ上り詰めるために、泥臭く努力を積み重ねてきた。それ以外のことは何もしなかったし、何にも興味はわかなかった。エンデヴァーの喜びは、ストイックなまでに強さと自己研鑽の中にしか存在せず、そのくせ、その小さな喜びさえも、大いなる劣等感にかき消され、エンデヴァーはいつでも自分を痛めつけずにはいられなかった。
 この人は愛することも、愛されることも知らない。自分自身を底抜けに嫌っていて、常に人(これは頂点にいる人に限るが)と比べ、自分を貶め、それを原動力にしてさらに自分を痛めつけるしかない男だった。この人の、こういう不器用なところを好きになった。この人の私人としての顔を見たい、と思ったのだ。
「炎司さん」
 噛み締めるようにもう一度呼ぶ。エンデヴァー、……ではなく、轟炎司は、がらんどうの我が家の玄関口に堂々と座り、こちらを見上げている若い男を見下ろして、この異質な部外者に、いっそ驚愕しているような顔をした。

 彼の口がわなわな震えた。
 握りしめたこぶしがギュッと音を立てた。ホークスが立ち上がると、対照的に轟炎司はその場にふらふらと崩れ落ちた。膝をつき、玄関口にへたりこんでしまった大きな男の前に立ち、うなだれた彼のつむじを見下ろしている。
 ぽた、とひとつぶ落ちるとあとはザアザア振ってきた。八月のにわか雨のように、轟炎司は、くちびるを噛み締めて耐えていたが、こぼれて、あふれてくる涙を引っ込めておくことはできなかった。ホークスは彼の前にしゃがみこみ、とめどなく落ちてくる、透き通った熱い涙を両手で受け止め、彼の頬を包んだ。両手がじんわりと温かくなる。轟炎司は個性のおかげで、年中ずっと温かいのだ。
「泣かんで」
 頼んでも泣き止まなかった。彼は子どもみたいに泣きじゃくっていた。おそらく子どもだったころでもこんなに泣かなかっただろう、というくらい、彼は泣いていた。

 家族には見せたことがないだろう、濁流のような涙を、自分には見せてくれる。こんなときにふと優越感を感じた自分を軽蔑した。それでも、彼は自分だけは本当の気持ちをさらけ出してくれる、という自負を捨てることもできなかった。独占欲とも言えるし、返せば劣等感とも言えるだろう。こういうたくさんの感情を、ごちゃごちゃにこね混ぜて、一つにしたのが「恋」という難しい物体なのだ。
「泣かんで、炎司さん」
 頬を覆うホークスの手に、彼は目を閉じて、摺り寄せている。体の震えがホークスに伝わってくる。せき止めていた何年分もの思いが、一気に決壊したのだ。張りつめていた彼の緊張が全部ちぎれて、壊してしまった家庭、愛を与えてやらなかった妻、「作品」とまで思った子供たちへの冷たい仕打ち、失った長男、そういったすべてのものが、もう取り返しのつかないまま、永久にここに残り続けることへの覚悟のための涙だった。
 ホークスが、炎司の熱い額へ自分の額をコツンとぶつける。熱い涙がホークスの頬にあたる。顎から落ちていく、自分のものでもない涙にまざって、自分も泣いているのか、分からなくなってきた。家族と別れることへの悲しみがないわけがない。それでも、昔の彼なら涙も流さなかっただろう。だが、ここ数年の激動の時間を過ごすうち、彼は彼なりに変化して、だから泣けるようになった。家族への愛情と向き合い、「愛情」というものをどうにか形成しようと試みていたからこそ、別れるということが彼にできる最大の「愛」だったという結末に、泣けるのだ。
 ホークスはそれを疎んで泣いていた。自分に対して向けられる愛とは別個の、交じりがたい唯一無二の家族への愛着は、自分には得られないものであることが我慢ならなくて泣いていた。
 わがままでいい。傲慢でいい。「恋」をした人間がどれほど傲慢になるものか、ホークスはもう身をもって知っている。
 あなたの全部が欲しいのだ。どんな感情でも、あますことなくすべて。だからホークスは悔しくて泣く。炎司が家族のために泣くのが疎ましくて、だから泣く。炎司は一層激しく咳き込むように泣いた。家族が去ったあと、部屋に一人残ったホークスという男と自分が築き上げてきた、以後誰にも言えない関係性にも、戸惑って、それなのに手放せずに、苦悶して泣いている。
「俺がおるけん」
 こぼれていく涙にキスした。炎司はホークスの背中を力強く抱きしめた。羽根の付け根をまさぐる、太い指が、そこにホークスがいるということを確かめるみたいに、強く抱きしめていた。
「啓悟」
 ホークス、……もとい、鷹見啓悟の名前を呼んで、轟炎司はふたまわりも年下の、体つきも頭ひとつ小さい男の体にしがみつくようにしていた。啓悟は名前を呼ばれて、うっとりと目を閉じた。
「俺がここにおるけん、大丈夫」
「……啓悟……ッ」
「炎司さん」
 
 雨はしばらく止みそうにない。
 けれど今はこの雨に打たれていたい。

 一、キスもセックスも世界を消してはくれない

   (一)女神ガブリエル

 彼女のうなじから、シャネルのガブリエルがそっと香ってくる。ココ・マドモアゼルに浮気したこともあったけど、これが一番好きな香り。彼女は自信に満ちた顔でそう言っていった。
 気高い人が好きだった。
 自信に満ち、パーフェクトな人。女性は抜けている方がかわいい、と言われるが、ホークスは違う。抜けている子も確かにかわいいけれど、自分が恋人を作るなら、心から尊敬できる相手でないと、と、恋愛経験の少ないころから、漠然と思っていた。
 真新しいロエベのハンモックバッグは、新色の落ち着いたグレージュだ。上品だが大胆に背中の空いたドレスの後ろ姿はとても美しい。ホークスは身長一七二センチと案外小柄である。不遜な態度のせいか、いつも初対面で「思ったより小さい」と言われるホークスだが、そんな彼の隣に並ぶ、一六二センチの彼女が、高いヒールのパンプスが似合うきれいな足の持ち主なのに、ぺたんこの靴で来る細やかな気遣いもサマになっている。
 職業は今はやりのインスタグラマー。フォロワー数は十万人を誇る正真正銘のインフルエンサーである。仕事の撮影がきっかけで出会い、インフルエンサーという割に高慢さのない、さっぱりした気持ちのよい性格と、堂々とした立ち振る舞いが目にとまった。彼女はホークスのファンだというほどでもなかったが、たまたま年が同じで、撮影中も会話は弾み、打ち上げの席でさりげなく連絡先を尋ねられた。ホークスも、別に悪い気はしなかったので、それから数度、個人的に食事を重ねた。
 一緒にいてストレスがないから。彼女と交際している理由の大半を占めるのがそれだった。恋愛とはそういうものだとホークスは思っていたし、夜中に突然かかってくる電話の頻度も、用事もないのに送られてくるどうでもいいメッセージの頻度も、うざったい、と思うほどでないちょうどいい具合だった。そもそもそういった関係性を維持する行為を面倒だと思うホークスにとって、ストレスがない、というのは、イコール気が合っているのだということだと思っていた。
 好きで好きでたまらない、そんな熱量はない。でもこれが恋愛なのだ。そもそも、自分はマトモに激情をぶつけ合うような恋愛なんてできる人間ではないとちゃんと理解している。それでよかった。隣で支えてくれる人を、たくさんいる女の子の中から、上手に見つけ出すのが恋愛だと思っていたのだ。
「ホークスくん」
「ん?」
「今日、めちゃくちゃいい。私服。大人っぽくて、素敵。すごく似合ってるよ」
「マジ? ありがと」
「そのニット、ステディウスの?」
「そーそー。奮発しちゃった」
「欲しがってたもんね。綺麗に合ってる」
「照れるなあ」
 ニッコリ微笑んで、ロングドレスの彼女の手を取った。スーツというほど堅苦しくないが、それなりにフォーマルな格好をしてきた。着慣れないジャケットの袖が窮屈で、背中に開けられた羽根出し用の穴はちょっと小さかった。
「ホークスくんって、ほんとにグルメだよね」
「そお? 食い意地が張ってる、って言ってもいいかも」
「んーん、ホークスくんは〈グルメ〉だよ。おいしくてコスパのいいお店も、おしゃれで良いお店も、ジャンル問わず知ってるじゃん」
「おいしいモン食べると、やっぱ元気出るけん」
 東京で出会った彼女の言葉には、どの地域の訛りも感じられなかった。彼女は東京生まれ東京育ちで、インフルエンサーの仕事をしていると、やはり拠点も東京になる。だが、彼女はいま、ホークスにはまだ言っていないものの、居を福岡に移そうか迷っているところだった。敏いホークスには伝わっていた。
 心の奥が迷っている。彼女が不便を覚悟で九州に越して来れば、ホークスはもう彼女との関係を、ゆるく食事をして、仕事で東京にやってきたときに会える遠距離のカノジョ、という位置には置いておけなくなるだろう。交際、婚約、入籍、結婚……。二十二歳、早すぎると言われるかもしれないが、ホークスは正真正銘「速すぎる」男なのだ。
 ナンバーツーヒーローと、その恋人の来店ということで、店は慎重に配慮をしてくれて、人の目を避けられる裏口から店内に入ることができた。ホークスが頼んだわけではなかったが、さすがはなじみの店で、行き届いている。ホークスは見知った顔の料理長が、奥から少し顔を出して、片目を閉じるのを見て、微笑み返した。
 撮影で福岡に行くから、会えない? と言われ、もちろん。夜開けとくよ。と答えた。事務所の仲間も、ホークスがどうやら、世間的にも有名な美人さんと交際しているらしい、ということに気づきつつある。週刊誌にはまだ抜かれていないものの、ホークスの方も本気で隠そうとしていないので、噂にはなっているし、バレるのも時間の問題だった。彼女が匂わせをするような愚かな女ではないということもあって、不名誉な露出はしないだろうが、いつ情報が出てもおかしくはない。
 色恋営業をしているわけでもなく、芸能人でもアイドルでもない。ヒーローといえど恋愛に関しては一般人だ。若くて、ある程度女性人気があることもホークスは自分で理解していたから、多少厄介なことになる覚悟もあるが、といって、活動に支障がでるというわけではないので、知られたら知られたで、きちんと公表すれば良いことだと思っている。
 でも。
 なんなんだろう、この迷いは。
 このためらいは。
 世間にこの関係が明るみに出る前に、もみ消してしまった方がいいと警鐘を鳴らす自分がいる。バレたらまずい、というよりも、自分の心を裏切ってまで、「普通」に生きようとしていることから逃げられなくなる焦りだろうか。
「何食べたい?」
「え、おすすめある?」
 乗り出した彼女の、ふっくらとした胸のふくらみが、いやらしくない程度に、ちらりと見えた。きれいにネイルされた爪先。まっすぐ三つ並んだパールの小さな石と、冬めかしく、アーモンド色のニット編み細工になっているかわいらしいデザインだ。ネイル変わった? と、ホークスが言って、彼女の手を取ると、彼女は頬をちょっと染めて、「うん、かわいくない?」と笑った。
「かわいい。こういう系も似合うんね」
「どういう意味ー?」
「いつもクール系だったでしょ。珍しく甘めデザインじゃない」
「だって、デートだもん」
 えへへ、と、崩れると一気に愛嬌が深まる顔だ。普段は身長も高くって、足のすらりと長い、凛とした美女が、自分だけ見せるのであろうとろけるほどに甘くて愛らしい顔。贅沢だな、と思う。わかっている。わかっているのだ。
「先に飲み物頼もっか」
「あ、そうだね。ホークスくんビール飲むっけ?」
「飲む飲む。俺お酒はお手のものよ?」
「そうだった、最初に会った時もメチャクチャ強いねって話したもんね」
 わたしもビールで、と彼女が言い、お通しが来たタイミングでビールを頼んだ。やや敷居の高い創作和食の店だが、モダンな店内は和洋折衷の雰囲気で、とても洒落ている。ドレスで現れた彼女もしっくりとこの場にマッチしていて、セルフィーは遠慮したくなる趣があった。
「おしゃれな店なんて星の数ほど知ってるでしょ」
「そんなことない。たしかに、おしゃれなカフェとか、アフタヌーンティーはよく行くんだけど、……あとホテルのレストランとか。でも、こういう知る人ぞ知る、みたいな店はぜんぜん」
 メニューを眺めて、彼女はウーンと迷った。ここの料理はメニューから想像のつかないものが多い。額をつきあわせてメニューをのぞきこむと、彼女のガブリエルの香りの奥から、ふんわりと甘い髪の香りが立ち込めてきた。
「これね、イチジクの白和え、絶対食べた方がいいけん、秋やし、今しか食べられんし……」
「えーっ、おいしそう、それにしよ……、あとねえ、これは? 佐賀牛と雲丹のお寿司」
「ああ、それヤバかよ。一回食べたらもうほかで雲丹食えんなるよ。あと、活けカワハギのお造りは絶対食べてほしかね……」
 広い個室に、楽しい話し声が響く。大騒ぎではない、心地よい音量の二人分の声だ。彼女が目を上げ、ホークスも目を上げる。目が合って、彼女は優しく笑った。いたずらっぽい目が伏せられて、一瞬、黙ったホークスのくちびるに、とろっと熱い感触が重なった。…………

 店を出たのは午後二十三時ごろ。タクシーは事務所で直接契約している会社から、よく知っている運転手さんに頼んでいた。二人で車を降り、自室に向かう。パパラッチの気配はない。別々で家に向かってもよかったが、そこまでしなくてもいいか、と手を抜いた。
 部屋は最上階にある。できるだけ高いところがよかった。事務所から〈翼で〉二十分ほど、福岡の夜景を一望できる小高い場所にあるマンションだ。九州に、こういった部屋はいくつか持っている。その中でも、立地がよくて、一番生活感があって、女の子を連れ込んでもよさそうな部屋に招いた。
「どうぞ」
「おじゃましまーす。わっ、ねえ、おしゃれな部屋」
「いやいや、全然よ。死ぬ気で片付けたから」
「嘘お、そんなの気にしなくていいのに。私掃除好きだから、散らかってたら、やったげる」
 彼女を部屋に招いた段階で、ホークスの肚は決まっていたし、彼女の方も同様だろう。お風呂準備するから、くつろいでていいよ、と言って、バスルームに入った。
 鏡の中の自分は、奇妙に無機質な顔をしていた。かわいい女の子と、三回目のデートでお泊り。そしてセックスする。順調で、いいじゃないか。理想的な流れだ。まるで自分に言い聞かせているみたいだな、と思った。
 お湯張りボタンにあとを任せて、リビングに戻った。彼女は嬉しそうに、カーテンをあけて、外の景色を見ていた。
「きれーい」
「こっから飛んでけばすーぐ出勤できるからね」
「今日はオフにしてよね」
「大丈夫大丈夫、携帯出ないよって言ってあるから」
 とはいえ、緊急時にはそれも無視しなければならないことを、ホークスも彼女もよくわかっている。それでもこのやり取りをしたいのだ。だから応えた。ホークスは敏い男だったから。
「ねえ、ホークスくん」
「ん?」
「あのね。ずっと聞こうと思ってたんだけど……ホークスくんって、ヒーロー名しか公開してないじゃない?」
「ああ、うん、そーね」
 ホークスは言葉に詰まった。彼女はそれに気づいていない。
「……いやじゃなければ、なんだけど。本名、教えてほしいなって」

 ――啓悟くん。
 ――この名前とは今日限りでさよならだ。

 捨て去った名前に未練はない。けれど、名前を完全に捨てきることなど、できないのだと思う。ものには名前があって、えんぴつはえんぴつ、消しゴムは消しゴムであるのと同じ、別の名前をつけてみたとしても、鷹見啓悟は鷹見啓悟をやめることはできない。Takami-Keigoのシニフィエは、いま・ここに存在する、一人の男のすべてを包み込んで離さない。
 いわばホークスの、それは「根幹」にあたるものだ。魂の芯の部分を他人に渡すことを、ホークスは未だ躊躇ってしまう。
 誰にも渡したくない、たった一つの、本当の自分。
 
「俺の名前は、……ケンゴ」

 ホークスは、自分自身と、自分自身を指し示す「名前」という音声を切り離し、別個の人間となる。偽名を差し出すと、いつだってかならず自分は蚊帳の外になる。抱きしめている彼女が、知らない男、すなわち、「ケンゴくん」の名前を、呼ぶ。
 また俺は言えんかったな。
 ホークスはぼうっとそう考えた。今度こそいけるか、と思ったが、無理だった。自分には彼女に「タカミ・ケイゴ」を差し出せる度胸もなかったし、その覚悟もなかった。
 
 お風呂に入って、あたたまった柔らかい肌の感触が、自分の皮膚に伝わってくる。髪を撫でる、女の長い指はとてもやさしい。彼女の、均整の取れた、無駄な肉のない美しい体が、ベッドの上に広がっていて、自分はそこへ無礼にも押し入ろうとしている。それなのに、彼女は聖母みたいな顔で、微笑んでいた。
「いいよ、……来て」
 彼女の濡れた場所に、屹立した性器を押し当てる。勃起してよかった、と心底安堵した。
「………ケンゴ、くん………」
 先端が、ぬめりを帯びながらぶつかると、彼女は鼻から抜けるかわいい声を出した。中へどんどん入っていく。キュウッとキツく奥がしまる。意外に、あんまり遊んでいないようだった。膣の具合で男性経験がわかる特技なんてつけたくなかったが、分かるようになってしまったのだから、しょうがない。
 おわん型のきれいなおっぱい。
 乳輪は桃色で、ちくびは飾りものみたいに小さい。
 全身脱毛でつるつるすべすべの体。
 肌の手入れは行き届いていて、アソコの毛もつるつるだった。
 何が不満なのだろう? 何も不満などない。しっかり男の体は反応して、興奮しているし、体温も上がってきたのがわかる。けれど、どうしようもなく満たされていない。心の一番深い部分がからっぽだった。冷え切って、凍り付いていた。

 ネコは秘密の名前を持つという。
 T.S.エリオットの有名な詩に、そういう一説がある。猫には隠された本当の名前があって、人が気楽に呼ぶ名前とは別に、自分だけが知っている、自分だけの「本当の名前」を持っている……と、詩人はそう考えたらしい。
 
  猫は自分の名前について、
  うっとり瞑想に浸っている、
  考えに考えて、考えに考えぬいて
  いわく言い難い、言えそうで言えない。
  深遠で謎めいた、たった一つの名前を。
   (T.S.エリオット「猫に名前をつけること」より)

 猫ではないが、ホークスも同様に隠している。たった一つの、自分の名前を。女の膣に性器をつっこんで、濡れそぼったそこを優しく突き上げながら、彼女の形のいいへそを舌でなぞり、キスして、抱きしめている間も、心は蚊帳の外でいる。知らない名前の男が、かわいい女の子とセックスしている。そういう感覚が、「ケンゴ」と呼ばれるたびに、ホークスを正気にさせてくれる。
 ベッドの中で、ホークスの隠された名前を呼び、抱きしめて、心の芯の部分までいっぱいに満たしてくれる、かき乱してくれるような相手が現れるまで、ホークスはこの名前を手放したくないと思っているのかもしれない、と、自分でそう呆れた。そんな相手、一生かかっても見つからないと割り切っているはずの自分が、踏み切れないでいるのは滑稽だ。
 本気でもないのに、セックスしてしまった彼女に、心の中で懺悔した。あと何回会えば、彼女を大きく傷つけないように別れられるか、心はもうそんなことを考えていた。

   (二)月極姫
 
 一度女の子と行った店は、別の女の子は連れて行かない。
 これはホークスの哲学の一つだった。彼がたくさんの「うまい店」を知っているからこそできる芸当だったが、ホークスにとって食は奪われたくない楽しみであり、だからこそ、多くのフィロソフィーを彼は持っている。
 目の前で生きたまま捌かれていくカワハギが、その名の通り、頭からベリベリと皮を剥がれていくのを見て、ヤーン、怖いね、と隣の女の子が身悶えする。だが、ホークスはこういう食べ方について、古来から多くの人間が食の美を研究してきた結果としてある食べ方なのだから、忌避するべきではないと考えているので、その反応がカンに触った。
 彼女とは、そもそも出会い方も、あんまり良くなかった。
 前に付き合っていた女性と別れたあと、ホークスは東京のテレビスタジオで、彼女と初めて顔を合わせることになった。彼女は新進気鋭の若手モデルであり、ちょっと間の抜けた、愛嬌のあるコメントがテレビでウケて、最近よく地上波に姿を見るようになっていた。顔立ちはずば抜けて可愛いし、モデルだけあってとてもスタイルがいいが、よく言えば「女の子っぽい」性格で、洗練された美しさというより、手が届きそうな、じれったいくらいの身近さと、ちょっとおバカっぽい明るさが魅力だった。可愛い顔の裏側で、ネットでは何度か炎上沙汰を起こしており、反感も買いがちな女性だった。今までホークスが関わってきた女性とは全然違うタイプだ。なぜ、普段なら適度に距離を取るタイプの女性と近しくなったかというと、自分の、一向にうまくいかない恋愛について、「好みの認識がそもそもずれているのでは」とホークスなりに別の選択をしてみようと、気の迷いを起こした結果だった。
 彼女はカワハギに限らず、いろいろな面でホークスの神経を逆撫でした。こういう子を可愛いという男性は多いのだろうけれど、ホークスにはやっぱりなんだかしっくり来なかった。朝一番で市場から仕入れられた、なかなかお目にかかれないサイズのトラフグの白子を「えー、でもこれって、お魚のアレでしょ?」と笑うところとか、料理を食べる前に写真を撮る時間が異様に長いところとか。ホークスも写真を撮らないわけではないが、こういう、特に気に入っていて、足繁く通っている店では、かえってカメラを構えない。写真を撮られることを待っている料理と、そうでない料理がこの世にはあるとホークスは思っている。それも彼のフィロソフィーだった。
 美味い、美味しい、ではなくて、「うま〜」と間伸びした感じで、軽く言うところも、ちょっと引っかかる。もちろん、「うまい」自体はいい言葉だ。美味しいものを食べた時、自然と出てしまう感嘆のため息。それに近い。けれど、言葉にも時と場合というものがあって、彼女の発する間延びした「うまい」という言葉には、美味しい料理への純粋な感嘆というよりも、何かものを食べた時……特に、「男性と食事をしている時」に、愛嬌として条件反射的に発される音の感じが混ざっていて、現に、彼女は一口食べて以降、積極的に箸を動かそうとはしない。口に合わないのではなく、おそらく彼女に染みついた厳しい体型管理のためだ。食事をすること自体が、彼女にとっては罪なのだ。
 ホークスにとって、食べること、ひいては料理というものは、祝福だ。料理にはいろいろな種類の「うまい」が存在して、高級店、知る人ぞ知る名店はもちろん、下町にごみごみとひしめき合っている、安くて質の高い大衆的な料理や、日常にありふれている中で、味の洗練された料理に出会えることもある。「美味い」「美味しい」には「美」が込められている。食べるにあたって美しいと思うものに、またはそういった店に、「美味しい/美味い」を自然と使える人が好きだった。
 カワハギの、透明な身が、薄く切られて丸い銀の器に盛られて出てきた。料理屋の大将はホークスのことをよく知っていて、ホークスも一人でよくこの店に来ていた。大将はちょっと眉を上げてホークスを見て、「いやに趣味の悪い女を連れてるな」という顔をした。ホークスは肩をすくめるしかない。
「まだ飲んじゃう?」
「そーね。俺日本酒行こうかしら」
「ホークスくん、マジで酒豪だね。酔ったとこ見たことないし」
「いやいや、さすがに飲みすぎると酔うよ」
「ほんとかなあ」
「これでもセーブしてんの」
「酔っ払ってるホークスくん、見たいな〜」
 会話のテンポはとてもいい。確かにホークスの好みではないが、よく笑う、リアクションの大きい、愛嬌のある子だ。おじさんたちのお酌に一人いれば大人気になるに違いない。それもそのはずで、彼女は学生の頃、野球場のビアガールをやっていて、球場で一番人気だったそうである。チップめちゃめちゃ稼いでた、と彼女は自慢げに言っていた。美しくて細い足を惜しげもなく夏の太陽の下に丸出しにして、確かについつい目をやってしまっていただろう。太陽の下の、女の子の生足は眩しいものだった。
「私、あらごし桃酒、ロックで」
「んじゃー俺は月極姫にしよっかな」
 キープボトルにホークスの名前がかかっている。大将はよく喋る気のいいおっちゃんなのだが、馴染みの若造が彼女を連れてきた時は、寡黙に黙っている気遣いのできる人である。ボトルから注がれた、まるで水のような透明度の酒が、ホークスの喉を焼くと、この夜の間違いも、迷いも、一時的には消し去ってくれるような気がした。
「ああ、そういや、この前エンデヴァーが来てくれたよ」
 寡黙だった大将が、日本酒のグラスを手渡したあと、それだけ言った。エンデヴァー、という単語に、耳がぴくっと反応する。
「あれっ、そうなの、大将」
「そーそー。まあ、ホークスのご紹介のおかげだけどもね。ボトルも入れてくれてね」
「えーっ、俺と来た時は仕事だからって飲んでくれなかったのに! 誰と来たんです?」
「そりゃ秘密だよ。お客さんの情報だから」
「ま、そーでしょうね」
 確かに、気が付かなかったが、店の棚に並んでいるキープボトルの一つに、「轟」という札があった。ここでは木札に自分の名前を自分で書く。慣れない筆ペンで書いたホークスの字と違って、描き慣れた流麗な字体である。エンデヴァーさんの字は、そういや見たことなかったな、とホークスはうっとりその札を眺めた。
「ホークスくんってさ、エンデヴァーと仲良いの?」
 隣にいた彼女が身を乗り出した。ホークスは空笑いをする。あのねー、仲良いなんて恐れ多いって。大先輩よ? と茶化して混ぜ返す。そんな風に言いながら、ホークスは東京での仕事の後、美味しいとこがあるんですよ、と「大先輩」に取っている態度とは思えぬ馴れ馴れしさで、ウキウキとこの店に引っ張ってきたことを覚えている。エンデヴァーとビルボードで直接会ってしばらく経った後の、東京での仕事の後だった。とても「しっぽり飲む」なんて雰囲気ではなかったのだが、明け方までかかるかもしれない長丁場の束の間の時間で、飯でも行きますか、と短時間の食事だった。
 短く食べるには豪勢な店だったが、絶対に連れて行きたいいい店だったのだ。エンデヴァーはブツクサ言いながらついてきたが、食事はとても口に合ったようで、「軽食というには勿体無い店だったな」と言っていた。あれからまた来ていたとは。行きつけを作らない、こだわりの薄い彼が二度以上通うのなら、相当だろう。
「でもさ、ビルボードチャート以降仲良さげじゃない?」
「いやいや、俺がしつこく絡んでるのよ。先輩から技を盗もーってね」
「へー。エンデヴァーと飲んで何の話すんの?」
 ちくっ、と棘のある言い方だ。この言い方、エンデヴァーのファンはよく聞き慣れたものである。ナンバーワンになって以来、態度がやや軟化したとはいえやはりよく思っていない層の方が多いエンデヴァーに関する話題となると、穿ったような、嫌な響きのある言い方。ホークスはすうっと冷えた目を巧みに隠した。
「いろいろよ。どうでもいい話から、仕事の話まで……」
「大変だね。なんか、威圧感すごいじゃん。怖そうだし。そんな上司? 先輩? 的な立場の人と二人でご飯でしょ? 気ぃ使うよね」
「使わんよ」
 不自然なほど、彼女に被せるように強く言い返してしまって、オットット、落ち着け、俺、と戒める。エンデヴァーのことを心の底から深く尊敬していることを曝け出せるのは、関係性の出来上がった相手にだけだ。少なくとも、恋人に進展しつつあるとはいえ、まだ全然気を許せていないこの子相手には隠していたい。
「……使わんよ、エンデヴァーさんには。一緒に飲んでて楽しいけんね」
 心を落ち着かせて、平静に戻した声で、ホークスは静かにそう言った。彼女はホークスの方を見て、「そうなんだ。意外だね」と言った。ホークスのちょっとした変化には、特に気づいていないように見えた。
 
 ホークスはこころの核を他人に渡すのが苦手だ。
 誰にも知られない深い部分で、自分だけが知っていればいい。そういう秘密を、ホークスはたくさん持っていたい人間だった。居心地のいい自分の部屋のような、入り組んだ小さな「こころ」という小部屋の中は、ホークスの好きなもの、……大半はエンデヴァーのこと、でいっぱいになっている。

「えらいよね、ホークスくん。私なら気ぃ使っちゃうなー。前もさー、事務所の先輩とご飯行ったとき……」
 彼女の話が始まって、ありがたくその流れに任せる。エンデヴァーの話はこれで終わりにしたかった。女の子といるときは特に。ホークスはずっと見ないふりをして誤魔化していたが、女の子と一緒にいるときに、エンデヴァーの話をしたり、聞いたりすることになったとき、異様なまでの居心地の悪さを感じる自分には、もう気がついている。ただ、なぜそんな気持ちになるのか、ホークスは正面から考えてみたことはない。考えないほうがいい、と心のどこかで分かっているからだ。女の子とセックスしているときの、「自分を裏切っている」ような、理由のわからない漠然とした後ろめたさに似たものを感じる。ホークスにとって大切な核の部分に、誰にも触れてほしくないからだ、と思っていた。それはホークスの「名前」と同じく、ホークスの大切なものだけをしまっておく秘密の箱の中に収められていて、それを見られたくないから、居心地が悪くなるのだろうとホークスは解釈するしかすべがない。
 カワハギの透明な身に、深いコクのある醤油の味が染み込んでいく。肝あえも絶品だ。だが、肝が嫌なのか、彼女は全然手をつけていない。というか、よく見ると彼女はほとんどの食事にちょっとしか箸をつけておらず、食べているのは八割がホークスだ。彼女はモデルらしく、脂質や糖質をとても気にしている。皿に残されたカワハギの肝あえを、ホークスは自分の箸で全部さらった。

 脳裏にかつての会話が閃いた。あれは、エンデヴァーと一緒にこの店に来た時のことだ。
「ここのカワハギの肝あえ、絶品でしょ?」
「ああ。そうだな。臭みがない。鮮度がいい証拠だ」
「俺、後残り全部行きますね」
「……よく食うな」
 呆れ顔で言いながら、エンデヴァーはホークスから小鉢を取り上げた。ホークスはキョトンとした顔をしていたに違いない。エンデヴァーは見事な箸づかいで(彼はとても箸の使い方が綺麗なのだ)、残った肝あえを、ぺろっと全部平らげてしまった。
「えーっ、今のは俺にくれる流れじゃないんですか?」
「いつも俺の分まで食うだろう、貴様は」
「そうですけど」
「まだ食いたりんならもう一品頼むことだ」
「わかりましたよ」
 文句を言いつつ、ホークスは、小鉢を空にしたエンデヴァーを見て、ぎゅうっと胸をかきむしりたくなったのだ。美味しかったですか? 彼にそう尋ねた。カウンター内で大将が笑っている。エンデヴァーは「お前が作ったわけでもあるまいし」と怒ったように鼻を鳴らしたが、
「美味かった」
 と微笑した。大将は照れ臭そうに、「いやあ、光栄だね」と笑っていた。ホークスも、別に自分が作ったわけでもないのに、ニヤニヤが止まらなくて、頬が熱かった。これでお酒が飲めたら最高だったのに、彼らは残念ながら一滴も飲んでいなかった。
 
    ⧉
 
 ぱち、ぱち、と目の奥でスパークが弾ける。
 飲んだ後、足どりの怪しい女の子を連れて、都内のホテルに戻った。ホークスが東京に仕事に出てくる、というので、一緒に泊まるつもりで宿を取ったのだ。青山のど真ん中にあるおしゃれなインターナショナル・ホテルで、ロビーはティファニー・ブルーのソファが並べられ、統一感のある落ち着いた色合わせの内装がシックだ。オフモードのホークスが女を連れていることに驚きの色を表には決して出さないフロントマンのいる、行き届いたホスピタリティ。自宅に女の子を連れて行くときとはまた違うふわふわした気分がいつもなら味わえるのだが、今日はそんな気分にもならない。
「お腹いっぱーい」
「そりゃよかった」
「ホークスくん、本当にグルメだね。超おいしかったー」
「趣味が食べることくらいしかないけん、お店探す甲斐あるよ」
 ガラス張りのロビーを通るとき、ホークスは外へ視線を切らないように気をつけた。よりによって今か。東京は週刊誌の記者が多いのかもしれない。車の中でカメラのレンズが光っている。自宅へ女をいくら連れ込んでも取られなかったのに、東京に出てきて高級ホテルに泊まった途端これだった。
 エレベーターに乗り、部屋に向かう。エレベーターに女と乗った瞬間さえ押さえればばっちりだろう。いいタイミングで、彼女がホークスに腕をからめ、肩に頭を乗せた。お風呂先に入る? ……甘えた声で、そう尋ねてくる。ああ、なるほどそういうことね。ホークスは肩をすくめ、笑った。できる限り優しい、恋人にむける顔で笑えるよう、努力した。
 パパラッチに密告したのは彼女自身だろう。そういう流出ルートは、実はそう珍しくない。ホークスがなかなかスキャンダルの尻尾を掴ませないので、痺れを切らした週刊誌記者と、自己顕示欲の強い、ちょっとオツムの弱い女の子はものすごく相性がいいのだ。普段と違う路線の女の子に手を出してみよう、と軽い気持ちで踏み込んだホークスへの罰だろうか? 視界の端にフラッシュの光を捉えて、ホークスはエレベーターに乗る前、女の子の腰回りに手を回した。
 十五階のセミ・スイートに入るなり、もつれるみたいにキスをした。女の子の腕がホークスの髪を撫で、首に絡みつく。ヒールのパンプスを脱がせて、背中から手を入れた。プチン、とブラジャーのホックが外れる音がする。
 スパークが弾けている。
 女の子はすごくフェラが上手だった。レースのパンティーだけ履いた体で、絨毯の敷かれたホテルの部屋の、ベッドの前にしゃがみ込んで、半脱ぎで立ったままのホークスの腰に手を当てて、その美技を披露してくれた。女の子の、くちびるを彩る淡い色のこっくりとしたルージュが、艶やかに光っているのが見える。女の子の髪を手ですいて、潤んだ目で、性器を咥えたまま見上げてくる彼女に、ホークスは微笑を向けた。だだっ広い窓から夜景が広がっている。美しい東京の夜が、この場所から独り占めできた。
「激しくしていい?」
 ホークスが尋ねると、彼女は頷いた。喉をきゅうんと締めて、前後に動かしていた頭を、ホークスの両手が柔らかく抑える。顎をくすぐり、がつ、がつ、と勃起した性器の先で、女の子の狭い喉奥をぶつ。狭まる感触が、膣に入れているときのそれと近くて、気持ちいい。常に優しく、丁寧だったそぶりのホークスが、若者らしくガツガツと責めてくるのが、彼女の興奮材料にもなったらしい、苦しくない程度にイラマチオした後、ずるんと性器を抜き放って、ホークスは床にしゃがみこんでいる彼女の、ぱっかり開いた足の間に手を伸ばした。
 そこはぐっしょりと糸を引いていた。
「めちゃくちゃ濡れてる」
 ホークスが言うと、一層、膣は熱を持った。
 そこ立って。ホークスは言う。裸の女の子を窓の前に立たせて、両手をついた彼女の背中を眺めながら、パンティーをずらして性器を当てあがう。ぬるぬるで、すぐにでも入れられそうだ。とはいえ、前戯もなく挿入するのはホークスのフィロソフィーに反するので、指で濡れた場所をほぐしながら、ペチ、ペチ、と形のいい、ツンと上がったヒップに性器を押しつけ、優しく叩く。
 アソコは無毛で、つるつるだった。というか、ホークスが手に入れる女の子は大抵みんなアソコまでつるつるであることが多かった。指で三角のクリトリスをはじくようにくりくり撫でると、女の子は大きな声で喘ぎ、腰をくねらせる。彼女のリアクションの大きさ、愛嬌のあるそぶりが、セックスではよく活きた。男を喜ばせる、浅はかなほどの女の匂いが、彼女の一番の魅力なのだと、ホークスはクラクラした。
 規則正しく並んだ背骨を、ホークスの舌がなぞった。女の子は嬉しそうに体を震わせて、
「けんご、くん……っ」
 と、「知らないやつ」の名前を呼んだ。

 落下していく感覚。何をやっても俺はダメだ。滅多に劣等感を抱かないホークスが、深いるつぼに陥る瞬間。エレベーターで十五階まで登る、長い道のりの途中、彼女はホークスの名前を尋ねてきた。これからエッチする相手のことを、ヒーロー名で呼ぶなんてちょっと味気ないと、多くの人はそう思うみたいで、セックスする前に、ホークスはいつも必ず名前を尋ねられた。
 濡れているアソコの中は熱くて、けれどもどこか空虚だ。ホークスはバックで突いている女の子のお尻の形をじっと見ている。丸く張った、白くて柔らかいお尻。抜きかけた性器が濡れていて、まとわりついてくる膣壁の凸凹が性器を擦る。
 
 なぜ今そんなことを思い出したのか、わからない。ホークスはふと、一人の男の顔を思い出した。
 
 エンデヴァー。
 料理屋で彼の話をしたからか? 普通なら、女の子とセックスしている時に、他の男、しかも恐ろしい形相の、威圧的な、大きな男を思い出すなんて、萎えて然るべきなのに、ぐんっ、と女の子のお尻を掴んで、深く中を抉った時、女の子は甘えた悲鳴を漏らした。
 あ、……っ、おっきく、なった……ぁ
 ホークスはぎゅっと目を閉じる。でも消えない。これは良くない。わかっていても消せない。正直なところ、ちょっと前からずっとこうだった。女の子と何人セックスしても、どんなに違うタイプの子を抱いていても、途中であの人のことを考えてしまう。東京の夜景の前に手を突いて、あの大きくて、太い腰を掴んで、メチャクチャに突き上げている夢想が、ホークスの頭の中を支配する。低い唸り声に似た悲鳴が、夢想の中の彼の喉から、たまらずにこぼれ落ちていく。
 そうだったらどんなにいいか!
 ホークスは懺悔と、自分への軽蔑と、その他ありとあらゆる感情をないまぜにして、祈るように腰を振り続けた。この女に自分は興奮しているのだ、と、体に教え込むように。決して自分はエンデヴァーをそんなふうに見て、汚そうとはしていないのだ。
 だから、どうか忘れさせてください。

 どうか、誰でもいい誰か、「俺を普通にしてください」。

 二、夜間飛行

   (一)凍える風

「ホークス」
 ドスの利いた低い声で話しかけられて、ホークスはびくりと顔を上げた。見上げて、すぐにへらっと笑う。嫌味な笑い方ではない、自然な笑顔だった。
「なんです? エンデヴァーさん」
 エンデヴァー、と呼ばれた男は、威圧的に腕組みをして、仁王立ちのお手本のような姿勢で立っていた。現ナンバーワンヒーローだが、先代ナンバーワンとは対照的に笑顔が似合わない男である。ムッと引き締められた眉根は怪訝そうで、何か不本意でないことを言おうとしているときに彼が見せる、口元のヒクヒクが見られた。
「……このあと時間はあるか」
 ビルボードのあとのチームアップ、そこから案外順調に親しくなった。全国を飛び回っているホークスと、静岡から東京方面へチームアップ要請を受ける頻度の高いエンデヴァーは、彼ら二人ともの本拠地でない、東京で会うことが多かった。
「予定埋まってます、って言ったら?」
「ならいい」
「あーっ、うそうそ、ウソですって! バカヒマっすよ」
「バカヒマ、とはなんだ! 妙な日本語を使うな」
 軽口を叩ける程度には、距離が縮まった気がする。ホークスは、史上「最速」でビルボードチャート二位に躍り出たあと、自分がやりたかったことの一つである、エンデヴァーのプロデュース、という行動に熱を入れ始めた。
 エンデヴァーには伝えていないし、公安の一部しか知らない事実だが、ホークスは幼少期からエンデヴァーのファンだった。ファン、というと語弊すらあるかもしれない。彼の荒んだ幼少期の支えとなったのがエンデヴァーで、エンデヴァーという炎が灯ったランタンがホークスだ、と言っても過言ではなかった。ヒーローになるための厳しい特訓にも、ホークスが黙々と耐えられたのは、ひとえにエンデヴァーの存在があるからだった。
 自分の心をこんなにも明るく燃やす、そんな存在には金輪際出会えないだろう。たった一人の、唯一無二のヒーローだった。だが、ホークスはもちろん、そんなことはおくびにも出さない。ファンサが下手くそな先輩ヒーローに、果敢に絡んでいく若者のていで、ホークスはいつもへらへらとにやついている。
 エンデヴァー自身が過去言ったように、ホークスは、自分のようなタイプの人間を、エンデヴァーは最も嫌うだろうことも知っていた。知っている上で、このキャラを貫き通したのだ。楽観的でひょうひょうとした、スピードタイプのナンバーツーと、高圧的で不器用で、慎重なパワータイプのナンバーワン。凸凹のバディは気が合わないように見えて相性がいい。ホークスの思った通り、エンデヴァーとのコンビは、次第に世間に好意的に受け入れられ、エンデヴァー自身もそれにほだされる形で関係性が深まっている。
「メシでも連れてってくれるんですか?」
 きっと別のチームアップの打診だの、打ち合わせだの、そういう用事だと思っていたホークスは、茶化してそう言った。だがエンデヴァーは真剣そのもので、
「ああ。東京は詳しくないが」
 と言い出したのだ。
「エッ! マジですか!?[#「!?」は縦中横]」
 周囲で残務処理真っ最中のSKたちが何事かと振り返るほどの声量が出た。声がでかい! と叱られて、スイマセン、とお口チャックする。
「嫌ならいいぞ」
 エンデヴァーはめずらしく、フンッ、と鼻で笑った。嘲弄でも、笑うというのがとにかく珍しい人だった。
「いーえ! メチャクチャうれしいですよ! ぜひ! 朝まで付き合いますよ!」
「バカを言え! 二、三時間で十分だ」
 準備ができたらさっさと行くぞ、と言うので、珍しくエンデヴァーに引っ張られる形で、ホークスは慌てて立ち上がる。SKたちには話をつけてくれていたのだろう、どうぞどうぞという雰囲気だ。そもそも、エンデヴァーが決めたことに口出しできるほどの存在は、いまこの場にいなかった。
「いやあ~、楽しみです。エンデヴァーさんの行きつけの店ですか?」
「行きつけというほど行ってない。だがいい店だ」
 出るぞ、と一言言い残したエンデヴァーに、「楽しんで~」「ホークス、深酒はほどほどに~」など声がかけられた(失礼な)。東京に仮で抑えたエンデヴァー・ホークス事務所の合同拠点から、二人は車で銀座へ向かう。銀座! まー素敵、と茶化した声も弾んだ。
 銀座の大通りを少しそれた場所に、寿司屋「蝶柳」はひっそりと店を構えていた。中へ入ると、寡黙そうな初老の大将と、弟子らしき若者が三人、カウンターに構えている。どうやら人払いをしてくれたらしく、店内には誰もいなかった。
「本当はカウンターで食うのがいいんだが」
 エンデヴァーはそう言って、おそらく二人のために押さえてくれていたのだろう、奥にひとつだけある座敷へ入っていった。ホークスも後に続く。ホークス自身、かなり美食家のつもりだが、それでも気軽には入れないレベルの店だろうと分かる。
「いい店ですね」
「ああ。寿司はこれ以上のところは知らん」
「俺みたいな若造、誘っていただいて」
「フン。そんな手合いじゃないだろう。構わん。座れ」
 座敷に向かい合って、彼らは座った。注文せずとも、勝手に寿司が出てくるようで、飲み物だけ聞いて若い板前は寿司の希望を聞いていかなかった。
「食えないものはないな、ホークス」
「もちろんないです」
 なんだかんだ、エンデヴァーと飲むのは初めてかもしれない。ホークスの指先に、喜びからくる甘い痺れが走った。手渡されたおしぼりは手に押しつけると熱いくらいで、それが緊張を多少なりと和らげてくれる。こんなに馴れ馴れしく絡んでいるが、その実、ホークスはエンデヴァーと話す時、今でも指先まで緊張して、ドギマギして、フッとした瞬間の彼の挙動にぼうっと憧れる。思いのほか、トントン拍子に彼の近くまで這い上がってきたが、それでも、ホークスの根底にあるのはエンデヴァーへの深い敬愛の想いだった。
「エンデヴァーさんって、こういう店にはどういう時に来るんですか」
「……一度目は見合いの時だ」
「あらま」
 ホークスはつい、間の抜けた声を出す。エンデヴァーが結婚したのは、ちょうどホークスくらいの年代の頃だ。エンデヴァーにも二十代の頃があったなんて、ホークスにはなんとも想像し難い事実だが(何しろ、ホークスが彼に憧れた時には、彼は今の風貌に近い外見をしていて、三十代にして老成した雰囲気が、男にはグッとくる渋さだったのだ)、エンデヴァー自ら「見合い」のことを話すとなると、ホークスは、聞きたいような、聞きたくないような、そんな奇妙な気持ちになる。
 ホークスは決してエンデヴァーを、女の子と行った店には連れて行かない。福岡で彼といったヨリトミもその一つで、ホークスが絶対に女の子連れで行かないお店があそこだった。雰囲気や値段、というより、そこは自分の、デート以外でもてなしたい人がいるときのカードとして取っておきたい選択肢の一つなのだ。たくさんの店に女の子を連れて行ったが、どんな名店でも、デートとその他ははっきり分けてある。何より、エンデヴァーとせっかく食事している時に、昔の彼女について思い出す瞬間がないようにしたかった。
 エンデヴァーはそうは考えないようだ。と言うより、彼にはホークスのような、細かいフィロソフィーがないのだと思う。単に、馴染みの店に、馴染んだ相手を連れて行く。たったそれだけのシンプルなエンデヴァーのもてなしは、ホークスを意外なほどに喜ばせた。まるで、プライベートな部分に踏み込んできても構わない、と言われているように思えた。
 話しているうちに、お酒と寿司下駄が運ばれてきた。ツヤツヤと光を持って輝くホッキ貝の握りと、向こう側が透けて見えるくらい透明度の高い呼子のイカ。脂の乗ったアジの身は、青魚でこんなに臭みなくさわやかな脂があるのかと感嘆するくらいの鮮度である。並んだ寿司の一貫一貫が、妥協を決して許さないピリッとしたプロ意識があるようで、なるほど、エンデヴァーが気に入るはずだ、と思った。
 良い魚は口に入れると甘い。フワッと優しく広がる甘味と、塩気を感じすぎることのない、口当たりの柔らかい醤油の味が、シャリとともにバラバラになる。堅すぎず柔らかすぎない握りの強さは熟練の職人にしかできない技だった。
「うわ……うンま……」
「そうだろう」
「初めて寿司食った、って気がします」
「フン……。美食家が、世辞がうまいことだ」
「本当ですよ。美食家っつったって、俺、あなたの半分しか生きてないですからね」
 エンデヴァー本人が言うだけあって、「良い寿司」を体現したような寿司だった。ホークスもいくつか寿司の名店を知っているが、雲泥の差、とまではいかないものの、はっきりと何かが違うことがわかる。朝イチで仕入れた魚を生きたまま店に運び、生簀で直前まで生かす。提供する直前に捌かれた新鮮な身には、魚の持っている臭みがほとんど感じられないのに、弾力がある奇跡のうまさが凝縮されていた。
 もうそろそろ食べ終わるかというころに、次の寿司下駄が届く。どこかで見られているのではないかと思うくらい、タイミングも絶妙だ。しばらく彼らはなんでもない話をしたが、一向に本題に入らないエンデヴァーに痺れを切らして、ホークスの方から持ちかけた。
「……で、エンデヴァーさん。なんか俺に話があるんじゃないんですか?」
 問われて、エンデヴァーは腕組みをしたまま、明らかに鼻白む気配を見せた。ホークスが言い出さなければ、本当にただ飯を食って終わらせるつもりだったのかもしれない。黙っていてもよかったな、とホークスはやや後悔したが、まさかエンデヴァーが、ただ飯を食うだけに自分を連れ出したとはとても思えなかったのだ。
「……別に、……特別俺から話があるというわけではない」
「本当ですか? じゃあただ飯に誘ってくれただけ?」
「……むしろ、お前が話したいことがあるんじゃないかと思っただけだ。覚えがないなら別にいい」
「え? 俺が? 話?」
 ホークスは面食らって、直近であったことをあれこれ考え始める。ポカをやらかした事件もないし、悩み事もない。忙しくて死にそうだというようなこともない。調子良くやっている。ただ一つ、あるとしたら……。
「えっ、もしかして週刊誌のやつですか?」
 ホークスがギョッと目を開いて言うと、エンデヴァーは「言わなければよかった」という内心がはっきり現れた苦い表情をしていた。
 
 ホークスと女性のスキャンダルが初めて週刊誌にすっぱ抜かれたのは、つい先週のことである。お相手は最近テレビでも人気の若手モデルだ。ナンバーツーヒーローであり、女性人気も高く、そのくせスキャンダルのない彼の、正真正銘最初のゴシップで、メディアも世間も賑わいを見せていた。しかもお相手がお相手で、「ホークスがまさかこの子を選ぶなんて」「やっぱりホークスも普通の若者なのだろうか」という疑念まじりの批評の目が、ホークスに珍しく集まっている最中だった。マスコミ関係者や週刊誌記者は、すっぱ抜かれてからしばらく経った今でもホークスに一言もらえないかと虎視眈々、狙っているし、ファンたちはストレートに聞かない配慮を持っているものの、ゴシップ好きな通行人に、「おーい、お前趣味悪いな」「やっぱ顔なん?」などと心無い野次っぽいことを言われる頻度も増えていた。ホークスは特に気にしていない。厳重にスキャンダルを避ける努力もしていなかったし、自分の好みから外れた、地雷っぽい子だとわかって手を出した自分へのしっぺ返しだと受け止めていた。
 お相手が悪かった、というか何というか。相手のモデルは、過去に何度も若手俳優やアイドル歌手と関係を持ち、スキャンダルが多い子だった。その上、SNSでの匂わせ投稿や、「ガチ恋ファン煽り」がすごいということで有名な、アンチも多い子で、実際、ホークスと交際中も、投稿にホークスを匂わせる単語を投入してみたり、ホークスと一緒にいたことを匂わせるような投稿をしていたりしたので、すっぱ抜かれる前から「まさか」という噂も流れていた。
 基本的にはアンチの少ないホークスのファンダムが、初めて荒れた事件である。ホークスはスキャンダルが少ないことと、若手であること、飄々としたキャラクターやある程度気を遣っている見た目のこともあって、「ガチ恋」と呼ばれるファンを結構抱えている。熱心に事務所に物や手紙を送ってくる子はもちろん、事務所の出待ち入り待ち(禁止されているので毎回忠告をしているが)、自宅を突き止めようとする尾行や付き纏い、そういった行為に走る子も多かった。ホークスはその点、自分が持っている翼にとても感謝している。地上を歩くのが煩わしいと思うのも当然だった。
「ええ……エンデヴァーさん、もしかして、俺が凹んでるかもしれないと思って……?」
「うちの事務所のサイドキックが心配していたからだ。お前のスキャンダルなど昨日まで知らなかった。お前が気にしていないなら別に掘り下げる気もない。若い独り身で、恋愛をするなという立場でもないし、お前の好きにすればいい」
「いや、いや、こっちから掘り下げさせてくださいよ! エンデヴァーさん、俺のこと心配したってことですよね?」
「事務所の連中が、だ! 俺ではない」
「え〜? でもこうやって飯に連れ出してくれたってことでしょ?」
 当然、スキャンダルについてはエンデヴァーに伝わっているだろうとは思っていたし、やっぱり浮ついた男だ、とガッカリされないといいな、という不安はあった。悪意ある野次や、世論や、スキャンダル自体は何ら気にしていなかったホークスが、たった一つ懸念したことがあるとしたら、エンデヴァーのことだ。彼からの評価が絶対なわけではないとはいえ、せっかくビルボード以降印象を上げてきたのに、これで幻滅されたら嫌だなあ、とは考えていた。
 だから、余計に声が弾んだ。幻滅か、無関心か、そのどちらかだろうと思っていたエンデヴァーの反応が、予想もしていないものだったのだ。喜ぶなという方がおかしい。思うに、世間から珍しく叩かれて、好奇の目で見られているホークスのことを、少しでも気にかけて食事に誘ってくれたのだと思う。食事に出る前の、両事務所のサイドキックたちの反応も腑に落ちた。彼らにも話をつけてくれていたようだ。
「いや〜、嬉しいな。エンデヴァーさんに慰めてもらえる日が来るなんて」
「妙な言い方をするな。だが杞憂だったのだろう。お前の様子を見ていたら分かる」
「全く凹んでないか、って言ったら嘘になりますけど、まあ、相手の子ってそういう子だとは思ってたんで、覚悟の上です」
「残念だったな」
「え? なんでですか?」
「……別れたんだろう。相手とは」
「ああ、ええ、まあ。おおむね報道の通りですよ、写真撮られた数日後の夜に、別れ話してました。前からそのつもりだったんで……。いやなタイミングで撮られちゃいましたよね。向こうは別れたくなかったみたいで、揉めちゃったし」
「……まあ、お前は若いし、これからまだまだ時間はある。失敗はいくらしても足りんほどだ」
 この時、ホークスはまだ、エンデヴァーの家庭のことや、結婚の経緯についてつゆほども知らなかった。が、エンデヴァーの苦々しい口調から、彼が恋愛や結婚、家庭について、およそ温かみからは程遠い経験をしているということはよく分かる。奥さんと半別居状態だとか、入院しているとか、噂はあれこれ耳に入っていたし、末息子の焦凍くんへの片思いに近い熱意に関しては有名だ。エンデヴァーという顔の下に、轟炎司という一人の男としての、全く別の顔があることを、ホークスは近頃少しずつ見せてもらえるようになってきていた。
「……俺が言えた立場ではなかったな。年寄りのお節介だ」
「いーえ! まさかエンデヴァーさんに慰めてもらえるなんて、やっぱ善行は積んでおくものですね。いやあ〜……、感無量です」
「変わったやつだ」
 エンデヴァーはどこか照れ臭そうな様子で、「変わったやつだな」という表情そのまま、顔に出た通りのことを言った。だが、思ったより凹んだ様子のないホークスに、心配は不要と判断したのだろう、エンデヴァーはそれ以上追求することはなかった。
 もっと聞いてくれていいのに。そう思うくらいだ。ホークスは自分のパーソナルな領域に踏み込まれることを嫌うし、自分の私的な部分を人に曝け出すことをためらう性質だったが、エンデヴァー相手だと違う。自分の秘めているものを、彼に知ってほしいと思ってしまう。明かせばどんな顔をするんだろう、と好奇心がくすぐられるのだ。ホークスにとっても不思議な感覚だった。
「エンデヴァーさん」
「なんだ」
「さっきの話のついでに。人生の先輩として、俺、教えていただきたいことがあるんですけど」
「……なんだ。言ってみろ」
「恋愛の話です」
 ニコッ、と笑ったホークスの真意を図りかねたのか、エンデヴァーは片眉を怪訝そうに上げて、探る目つきをした。しかし、出会った頃の彼がそうだったように、「聞かん、失せろ!」と跳ね除ける姿勢は引っ込めていてくれる。多少なりと、距離が近くなったのだろうかと自惚れたっていいはずだ。
「……そういう方面のことを、俺が助言できるように見えるのか?」
「いや、助言だなんて。……エンデヴァーさんの考えを聞いてみたいだけなんです。ただ、……ヒーローとしての先輩、というのじゃなくて、なんというか、俺より長く生きている一人の人間として、っていうか」
「……ふん」
 エンデヴァーは、是とも非とも言わなかったが、聞くだけ聞いてやる、というふうに腕を組んでいる。恋愛の話です、と言い切ったのに、馬鹿らしいと一蹴しないのは珍しい。今日はホークスの話を、できるだけ遮らずに聞いてやろうと彼は心に決めてきたのかもしれない。ホークスはとろけそうなほど嬉しかった。
「人を好きになるって、何なんでしょう」
 さっきまでヘラヘラ笑っていたホークスが、不意にそんなことを真剣に漏らしたので、エンデヴァーはじっと彼の方を見た。彼の、わかりにくい真意を探る目つきが、鋭く皮膚にふり注ぐ。でもホークスには、それが本心だった。長い間誰にも打ち明けなかった本心だ。たくさんの女の子がホークスの肌を通り過ぎていって、そして、今は痕跡さえ残っていない。
「いつも、違和感があるんです。誰かを好きになろうって努力しようとしてるみたいな、自分を騙してるような感じがあって。誰も好きにならずにいればいいのに、それはそれで俺を不安にさせるんです。誰かを愛したい、誰かを熱烈に好きになって、ずっと一緒にいたい人を見つけて、恋に夢中になりたいってはっきりそう思う自分がいるのに、どこかいつでも妥協してるというか。……こんなこと言ったら相手の子に失礼になっちゃいますよね。今まで恋愛してきた子たち、確かに今回の子はちょっと癖がありましたけど、それでも、みんないい子たちだったんです。俺のことを好きになってくれる女の子……。でも、俺はどうなんだろうって。心の底から彼女を好きなんだろうかって。自分の心の一番大切な部分は誰にも渡さないままで、結局一人の部屋に閉じこもってるみたいに感じるんです。誰かに俺の部屋を、……奥深くの部屋の中を覗いて、一緒にいてほしいって思ってるのに」
 アルコールが回っているせいもあるだろうか? スラスラと、言葉が溢れ出した。聞いてほしいことがたくさんあって、そのたった一端がこぼれ落ちただけなのに、ホークスにはせき止められないくらいの濁流に感じられた。照れ臭かったが、エンデヴァーの顔を見て、ホークスはじんわり恋しくなって、泣きたくなった。
 エンデヴァーはホークスの話を聞いて、真剣に眉を寄せ、なんと答えてやればいいか、考え込んでいた。馬鹿馬鹿しい、ヒーローが恋愛にうつつを抜かすな、と一刀両断されてもいいような悩みなのに。エンデヴァーはじっと考えた後、言葉を一つずつ選び抜いて、ゆっくり話し始めた。この時、ホークスはもちろん、まだエンデヴァーがしでかした、家庭への大罪を知らないままだった。
「……『誰一人愛していないだろう、自分自身さえも』。……俺はそう言われたことがある」
 きっとそれを言ったのは奥さんだ。直感的に分かったが、ホークスは何も言わなかった。エンデヴァーも「妻に言われた言葉だ」とも言わなかった。
「その通りだった。俺は返す言葉を持たなかった。誰かを愛することを大切だと思った試しが、俺には一度もなかったし、これからもそうだと思っていた。妻や家族という存在を、俺を愛してもらうために、または俺が愛したいがために求めたわけではないとはっきり自覚がある。愛ではない、もっと利己的なもののために俺は家族を得ることを選んだ。俺にとって家族というのは……車や家と同じ程度のものだった。およそ人に向ける愛情としては不完全だ」
 ……静かに、杯を傾けることも忘れて聞いていた。エンデヴァーの心の内にあるものを、聞けるとは思っていなかったのだ。ホークスの耳の奥が、ジーンと甘く鳴っている。
「いいか。ホークス。お前は若い。前途があり、お前に忠告してくれる年寄りもまだ山ほどいる。俺くらいになると、もう誰も忠告しようとはしてくれん。俺自身も、歳を取れば取るほどに、後戻りできないようになっていく。お前が誰かを心から大切に思いたいという自覚があるのなら、俺よりずいぶんマシだろう。俺はこの歳になって、……後戻りできない歳になってから、やっとその大切さを学び始めた。だが俺にはもう遅すぎて、できることは自分のやってきた行いへの後悔や反省しか残っていない。……お前は違う。いくら失敗してもまだ許される年頃だ。責任を取れる範囲で、大いに失敗しろ」
 ホークスはしばらく言葉を失っていた。ぼうっとしたままエンデヴァーの表情、言葉、それらをじっと味わっていた。エンデヴァーは珍しく、ふっと自嘲気味に笑って、照れ臭そうに、「俺のような男に言われたくないと思うが」と、謙遜した。ホークスはまだ口をぽかんと開けていた。
 
 誰かを深く好きになりたい。……ホークスは、なぜ自分がそう思うのか、心のどこかで知っていた。理解していたのに、見ないふりをしていた。自分のためにも、相手のためにもだ。誰も幸せにならない恋は捨て去ってしまうのが一番いいのだと信じていたから、自分の気持ちには蓋をできた。自分が我慢することで、周囲は幸福になると思い込んでいた。
 だが違う。
 この恋が叶ったら、不幸せになる人もいるかもしれない。誰かを傷つけるかもしれない。けれど、この恋が叶えば、他でもない自分が、幸福の果てに行けるのだ。
 自分の気持ちから目を逸らすなと、そう言われたような気がした。背中を押そうと近づいた存在から、逆に背を押されたのだ。心に秘めて、墓まで持っていくつもりだった深い愛情を、いつか本人に伝えたいと欲望が芽生えたのもこの時だ。パンドラの箱を開けたのは、誰でもないエンデヴァー本人だ。
(こん人、……罪深いことしてくれた)
 ホークスは目を閉じ、はあ、と大きく息を吐く。ふにゃ、と笑ってエンデヴァーを見た。
「やっぱ、かっこよかですよ。エンデヴァーさんは」
 エンデヴァーはふんと鼻を鳴らした。
「からかうな、若造め」
 からかいではない本心からの言葉であることは、エンデヴァー本人も分かっていただろう。次の寿司下駄には、上品に捌かれた穴子の寿司が乗っていた。ホークスは勿体無くて、もっとエンデヴァーと話していたくて、早食いの彼には珍しいくらいにゆっくりゆっくり咀嚼している。エンデヴァーは体が大きいし、大食漢に見えるのに、実はそうではない。彼は自分で厳密なカロリーコントロールを行なっていて、必要以上には食べない。食べすぎることで動きが鈍くなり、いざという時に本調子が出ないということがないよう、完璧な自己管理をしているのだ。彼は寿司一貫食べるのに二口かけて食べていた。
「何がダメだったんだ。……その、前の女性は」
「ダメ、って感じじゃなかったんですけど、まあ、俺には勿体無いくらいメディア映えする華やかな子でしたね。逆に言えばそこが合わなかったのかも。ずっと細かい違和感が付き纏ってたっていうか」
「……多少の違和感など飲み込むしかないぞ、それが家庭に入るということだ」
 ぐ、とエンデヴァーが有田焼の湯呑みを傾ける。中身は焼酎、「青い明星」。酒に合わせて、深い藍色の着色がなされた洒落た焼き物だ。この店は、器にまで深いこだわりを感じられる。
「エンデヴァーさんは、奥さんと出会った時ってどんな感じだったんですか?」
「どう、と言われても……な。……見合いだったから、お前がやっている〈恋愛〉とやらとは全然違う。劇的なことは何もない。淡々とすべきことをしただけだ」
「お見合い当日って食事だけですか? デートも?」
「おい…………」
「いやあ、ただの〈恋バナ〉ですよ。エンデヴァーさんの恋愛事情って興味あるじゃないですか。ちょっとした好奇心です」
 エンデヴァーが言葉を濁す理由を、ホークスはこの時全然知らなかった。それでもエンデヴァーは、口ごもりながらも言える範囲で答えようとしてくれた。普段なら考えれない無礼な質問にも、今日だけはホークスのためにサービスしてくれたのだろう。傷心の、失恋した上に手ひどく世間に叩かれている若者のために。
「見合い当日は食事だけだ。散歩、と言っても庭園を軽く歩く程度。それ以上必要なかった。俺は冷を〈もらう〉と決めていたし、冷に意志はほとんどなかった」
 エンデヴァーの、どこか侘しい言い方に、ホークスはハッとした。
「……すみません。個人的なところにまで踏み込んじゃって」
「……構わん」
 エンデヴァーは苦々しくも、清々しさもある表情で言った。恋と、愛情と、向き合おうと努力する、「後戻りできない」年代の男が纏う侘しさだった。
「……個人的なとこにまで踏み込むのが、貴様の言う〈恋バナ〉だろう。その代わり、情報は等価交換だ。俺が一つ言えば、お前も一つ」
「あれっ、意外とエンデヴァーさん、〈恋バナ〉慣れしてません⁉︎」
「しとらん!」
 クワッ! と噛みつかれて、やっとホークスの調子が戻ってきた。エンデヴァーの表情のあちこちが、あまりにも憂いを帯びていて、ずっとドキドキしっぱなしだったのだ。
「奥さん、……冷さんの、第一印象は?」
「その前にお前の話だ。さっき俺が一つ話したからな。……それならお前が、心から愛せそうだと思う理想はどういう女性だ」
「え〜! エンデヴァーさんに好みのタイプ聞かれるなんて照れますね」
「茶化すな。真剣に聞いてる」
「んー……。良くも悪くも、〈完璧〉な人です。過剰なくらい自信があって、芯が強い。信念がある。逆に言うと、俺自身が相手を深く尊敬できれば、どんな立場で、どんな見た目で、どんな年齢でも関係ないんだと思うんです。……一つ前の彼女はちょっとそこからは離れてましたけど、その前までの彼女は、……みんなそういうタイプでした。尊敬できる女性。凛々しくて、自分を持っている人」
「ではなぜその前の女性たちとは続かなかったんだ」
「あ、ダメですよ。次は俺の番。……奥さんの第一印象と、実際のギャップってありました?」
「……ふん。うまく二つ、同時に聞き出そうと考えたな」
「アハハ! だってそうでもしなきゃ、聞きたいこと全部聞けないでしょ……」
 らしくもない、自分の恋愛観を、ホークスは自分が驚くほど素直に、思った通りにエンデヴァーに打ち明けていることにも、内心とても意外に思っていた。こんなこと、自分だけで秘めておくことで、誰にも打ち明ける日なんて来ないだろうと思っていたから。……だが、それはエンデヴァーの方も同じことだろう。奥さんとの馴れ初めや、奥さんに対しての印象、恋愛なんて一切して来なかった学生時代の彼の話なんて、直接彼が語らない限りはどこを探したって知ることはできなかった話だ。ヒーロー名鑑にも、雑誌にも、新聞にも載っていない、本人の中にだけある記憶。
 そんなものを貰えるなんて思っても見なかった。話を聞いている間、ホークスの体はずっと前のめりで、食べ終わる頃には、笑ったり驚いたりしすぎて、話しすぎた口角のあたりが痛くなっていた。
 店を出るとどっぷり日が暮れていた。こんなに長く引き留める気はなかった、とエンデヴァーは後悔を滲ませる口調でこぼしたが、ホークスはまだウキウキと高揚感が体に残っている。
「いやいや、俺はこんなに話せて本当に嬉しかったですよ。またぜひ飲みましょうね」
「……変わったやつだな、お前は」
「どうしてですか?」
「俺と飲んで楽しい、というやつはそういない」
「アハハ! 気づいちゃったんですか?」
「……灼くぞ! 貴様……」
「そりゃ、エンデヴァーさんとサシ飲みは誰だって緊張するでしょ」
「貴様は緊張しない、ということか?」
 それは挑発か? というふうに、エンデヴァーの目つきが光っている。それは咎める視線ではなくて、単純に、からかいの目つきだった。威圧感バリバリで、表情も硬いことが多い彼が、実は目で多くを語っていることを、ホークスはもう知っていた。
「いーえ、実はまだ緊張しますよ。尊敬する先輩の前で何かヘマやらかさないように、ってね」
「フン! よく言う」
 流石に私的な飲み会に付き合わせるわけにはいかない、とエンデヴァーは専属のドライバーである車田には、もう帰宅してよしと言ってあったのに、そこはさすが、ナンバーワンヒーローの専属ドライバーということか、車田の方から連絡があって、お開きにするなら迎えに行ってやる、とちょうどいいタイミングで電話が来た。彼が来るまで、酔った体を涼しい外気に晒して、二人は銀座の大通りで車を待っていた。
「冷えるな、今日は」
「ええ。一気に気温、下がりましたね」
「お前、宿は」
「ああ、特に取ってないです。酔いを醒ましながら、飛んで帰りますよ」
「酔って空を飛ぶな。今からでも宿はあるだろう」
「いやいや、本当にいいんです。深酔いはしてないし、寒くてすぐ目なんて醒めますよ」
 凍える風が、びゅうっ、と彼らを横殴りに殴った。ビル群を通る風は鋭く、激しい。木枯らしが都会の塵芥を巻き上げながら、頭上に登ってまた落ちてくる。
「うちに来るか?」
 吹き抜けていった強い風のせいで、ホークスは自分が聞いた言葉が、もしかしたら聞き間違いだったのではないか、と疑った。え、と問い直したホークスに、エンデヴァーは少し考えて、思い直したようだった。
「……と、思ったが。流石に居心地が悪いか。すまん、忘れろ。だがもしお前が宿に困るようなことがあるのなら、泊まっていっても構わん。使っていない部屋も多い」
 らしくなく、口数の多くなったエンデヴァーの様子は、照れ臭そうにも見えた。ホークスの心臓が時限爆弾のように、……ドッ、ドッ、ドッ、と高鳴り始める。まさか、という思いと、ぜひ! と前のめりで応じそうな高揚感を、必死に抑えた。
 ダメな気がしたのだ。いま家に行くのは。自分が「どんな気持ちを」「誰に対して」抱いているのか、はっきり自覚してしまいそうな気がして。あまつさえ、それを本人に口走ってしまいそうな気がして……。
 ホークスはまだ逃げていたかった。
「……マジでいいんですか? ありがたいです。今日は帰りますけど、次の機会にぜひ。エンデヴァーさんの家、見てみたいですね」
「つまらん家だぞ」
「またまた。大豪邸でしょうに」
 上手に、普段の表情を作れたと思う。上出来だ。ホークスは内心のドキドキを、顔に出さないようにかなりの努力を要していた。
 チカチカとヘッドライトが明滅し、エンデヴァーを照らした。迎えの車が間も無く到着するのだ。ホークスは大きく羽を開いて離陸する。酔いなんかもう全て醒めていた。羽音が響く。巨大な鳥の羽ばたきだ。ホークスはエンデヴァーが見上げるほどの位置で羽ばたきながら、
「じゃあ、俺はこれで」
 と微笑んだ。
「ああ。気をつけて帰れ」
 エンデヴァーがそう言う。静かに凪いでいるアイスブルーの瞳を、ホークスはじっと見つめてしまう。惹き込まれる魅力のある瞳だ。飛び立ったホークスは、エンデヴァーの方を振り返らずに、グングン上昇した。鋭利で底冷えする夜空の風が、ホークスを正気に戻してくれるような気がした。
 
 
   (二)列島は雪
   
「好きな人に家に誘われて、断るってことある?」
 聞こえてきた会話を、思わず拾ってしまった。珍しいことに、その日は数年に一度の大寒波襲来で、福岡にも雪が降っていた。そんな折にタイミング悪く、五人組の銀行強盗が、駅前の大手銀行を狙って立てこもりを起こし、プロヒーローたちが間も無く制圧したものの、容疑者のうち一人の男が水の個性を持っていた。暴れ出したその男が大規模に極寒の中へ水をばら撒いたせいで、大規模に駅前の道路が凍結し、容疑者逮捕から数時間経過した今もなお、交通規制がかけられて混乱を喫している。ホークスも当然、現場に駆けつけており、今は警察とプロヒーローによる交通規制と凍結解除作業の真っ只中である。
 事件を報じていたラジオが、芸人がパーソナリティを務めるトーク番組に変わっていた。お悩み相談の一つに、芸人が笑ってそう答えている。
「ラジオネーム〈一生片想い〉さんからのお便りです。長い間片思いをしている相手がいるのですが、何度か食事に行ったり出かけたりするうちに、だんだんいい雰囲気に。思い切ってうちに来ないかと誘ったのですが、……断られてしまいました。デートは半年ほど重ねたし、脈もある感じだったのに! やっぱり自宅デートってハードル高いものなんでしょうか? ……切実なラジオネームでありがとうございます。これってどうなの? 俺もこの状況で断られたら凹むかも」
「いや〜、相手の反応にもよるよね? すごく嫌がってるって感じじゃなければ、その日は都合が悪かった、とかかもしれないし。デートの雰囲気にもよるかな〜。友達同士だと思ってたのに、って可能性もあるからね。ラジオネーム〈一生片思い〉さんはおハガキ見る感じ男性みたいだけど、女性はやっぱり男性より慎重だよ。俺なんて……」
 ラジオから流れてくる、よくあるお便り紹介に、長い間耳を傾けていた。理由はわかっている。ホークスにも思い当たることがあったからだ。まあ、ホークスは「お断りした」側だったが。
 寒い日は特に考えてしまう。あの人は隣に立っているだけで暖かかった。
 エンデヴァーの誘いを断って、鉄の精神で空へ飛び立った日の夜風は、記憶に残るほど冷たかった。なぜ断ったのだろう、と今となっては思うが、断れてよかった、あの時の自分は偉いぞ、と思う自分もいる。万が一あの夜エンデヴァーの自宅に招かれて、のこのこお邪魔していたとしたら、酔って浮かれて、滅多に聞けないあの人の恋愛事情なんて聞いた勢いで、言ってしまっていたかもしれない。
 
 ……好きなんです。
 ……エンデヴァーさん、あなたのことが。
 
 博多まで飛んでいく、極寒の夜間飛行の最中、心にはっきりと閃いたその考えを、ホークスはついに直視してしまった。皮膚を通り過ぎていったたくさんの女の子たちが遠くなり、真っ赤な炎に焼かれて消える。自分が一体誰を望んでいて、誰のことを強く想っていて、誰にどんなことをしたいのか……。全てわかってしまった。いや、実際はずっと前から気づいていた。これまでなんとか目を逸らせていたものを、いよいよ無視できなくなっただけだ。
 あれ以来、エンデヴァーと連絡を取り合ってはいない。最後に会ったのは二ヶ月前だった。ちょくちょく隙を見つけては会いにいっていたので、二ヶ月音沙汰なしというのは初めてだったが、ホークスは自分がどういう顔をして、エンデヴァーに連絡を取ればいいのか、分からなくなってきてしまっている。
 憧れだと思っていた。いや、実際、確かにこの気持ちは〈憧れ〉だ。エンデヴァーのヒーローとしての姿を見て、かっこいい、こんな風になりたい、この人の背中を自分が押せるようになりたい、並び立ちたい……と、自分を奮い立たせる数々の感情が湧き立ってくる。パワーになるのだ。これは純粋にエンデヴァーへの憧憬だと感じる。
 だが、自分がエンデヴァーへ抱いている気持ちが、〈憧憬〉ただ一つではない、ということに気がついてしまった。そういうことだ。ひしめき合う感情の群像。憧れ以外のたくさんの感情が混じり合って、強くエンデヴァーへ向いている。原点となったものが憧れで、集結する先も憧れである、というだけで、広がった枝葉にはいろいろなものが生っているのだ。一つは友愛。一人の、理解したい友人へ向ける親しい気持ち。一つは心配。放っておけないもどかしい気持ち。杞憂かもしれないけれど、持っておきたい勝手な心配。最後に一つ。情愛。無条件に愛する気持ち。ダメな父親で、不器用で、決して出来た人だとは言えない彼の、ダメなところまでもを、包み込んで全部愛せそうな、根拠のない自信。
 ホークスの感情の大木に実る、色とりどりの実が、ついに熟して落ちてきたのだ。それだけ。時間の問題だった。ずっと目を背けることはできなかったはずだ。いつかは全部おっこちて来ただろう。ただ、それを食べずに手の中に持っているだけでは、いつかは腐ってしまう。腐らせた方がいいのはわかっている。それなのに、固い皮を剥いて、お気に入りのお皿に盛り付けて、食べてみたい。どんな味がするんだろうと。
 突然家に誘われた意味を、ホークスは考えないようにしている。というか、そもそも多分深い意味はない。エンデヴァーはそういう人だ。親切心で、言葉そのままの意味で泊めてやろうかと言って来たのだ。もともと、たくさん友人がいるようなタイプでもない。友人への接し方や距離感も、彼の中に基準らしい基準はなく、ホークスでそれを培おうとしているところがあった。ホークスはその度に、エンデヴァーからチラリと覗き見える「轟炎司」の素顔にドキッとさせられるのに。
 エンデヴァーに、スキャンダルについて慰められた日以降は、ホークスも女性と交際するのをやめていた。懲りた、というのもあるけれど、エンデヴァーへの気持ちをはっきり理解しつつある今、新しく恋をしようなんて気持ちになれないでいたし、それに、ホークスはヴィラン連合とレジスタンスの一員として組織に潜入を進めていたその時だった。
 いよいよ、大詰めに差し掛かろうとしている。長く準備してきた計画だ。ヒーロー社会、日本社会に影響を及ぼす巨大な戦いになるだろう。そうなる前に鎮圧することができればもちろんいいが、相手は連合、そしてAFOだ。神野での戦いはホークスにも衝撃を与えた。オールマイトをしても、半死半生の戦いとなるまで疲弊させる闇深き存在が、今もどこかで微笑している。
 そんな状況で、誰かを好きだの嫌いだの、瑣末なことに心を動かしている場合ではないと自覚もあった。ちょっとしたことでもすぐにエンデヴァーに繋げて、心を動かしてしまう自分に嫌気もさしていた。ちょっとしたことで連絡をとりなくなる自分にも。……極寒の福岡で、ホークスは今朝からお腹にカイロを貼っている。ヒーローとドラッグストアがコラボレーションした商品の一つに、エンデヴァーのカイロがあった。自分の商品もあったけれど、そんなものすっ飛ばしてカイロを買いまくった。冷える自分の体にはちょうどいい、と言い訳して、お腹に貼ったカイロの速暖性に感激する。このカイロいいですね、すぐあったまりますよ、なんてメッセージを送ろうかと思ったが、やめた。何度も送りかけてやめたメッセージがあって、ホークスは迷う自分すら嫌だった。
 カイロなんて許可するとは。いや、あの人のことだから、どんな商品が出回っているかもよく把握していないだろう。ヒーロー活動以外に極端なまでに興味のない人だ。自分のスケジュールを割いてまで出席せねばならない商品開発以外には、エンデヴァーも事務所に任せてタッチしていないのだろう。
 ……情けない。公安で鍛錬を積んでいた時はこんな単純なことに悩むことなどなかった。感情の自己抑制は得意な方で、公安サイドさえ、ホークスがまだ幼いにも関わらずほとんど感情の揺らぎを見せないことを、そら恐ろしくさえ思っていたというのに、今となってはどうだろう。ホークスの感情は、たった一人の男に近づいたせいで、毎日ちょっとしたことで揺らぎ、浮き沈み、めちゃくちゃだった。
 それなのに、自己嫌悪は多少あれど、気分の低迷はない。悩み、落ち込んだとしても、根底にあるのは浮かれた春の陽気めいた、楽しいドキドキだ。あれこれ考えて、周り道をして、やってみようか、やっぱりやめようか、そんなことを迷っている時にしか感じられない浮遊感がずっとホークスを襲っている。そんな浮ついた気分でいてはダメだと分かっているのに、止められない。
 
 要するに、恋というのはそういうものなのだと思う。ホークスはようやく学びつつあった。そして同時に、これまでの彼がしてきた「恋」の真似事が、いかにお遊びに近いものだったか、胸に痛いほどだった。
 コントロール不可の灼熱が、常にホークスをジリジリ炙って、修復不可能な火傷が全身にまで広がっていく。火遊び的な熱い恋をして、「火傷する」という表現を考えた人は天才だと思う。強烈な恋は身を焦がすものだ。思えば、恋に夢中になって、恋に溺れてしまうことに、火を使った表現は多い。恋に炎を感じる人が相当数いるということだ。
 つくづく、難儀な性格だ。絶対に好きになるべきでない人に、……そして、叶う可能性が極めて低い人に、恋をしてしまった。悪いことに、相手はもっと難儀な人で、ホークスの気も知らないで、ホークスの気持ちにさらに火をつけるようなことを、無自覚にやった。罪深い人だった。
 凍結した道路があらかた溶け出すと、あとは他の人員で間に合うだろうと、ホークスは飛び立った。寒い福岡の風が、ホークスの頬を冷やしている。あと一仕事あるが、今日は熱々の湯に浸かって、しばらくぼーっとしていたい。ここ数日体を酷使していたからか、疲れも溜まっているし、注意力散漫だな、と自己嫌悪するようなちょっとしたミスが散見されていた。人は気づかないようなしくじりだろうが、ホークスはそんな小さなミスにいちいち腹を立てている。自分のミスだから、腹が立つのだ。
 転びかけた小さな女の子を羽で支えて、その母親が頭上を飛ぶ大きな鳥に礼を言った。ホークスだ! 転びかかったと言うのに、女の子は楽しそうに笑って、空を指さしている。彼女を救った赤い羽はあげた。女の子がぎゅっと握って放さないので。
 そんな女の子の横を、もう少し年上の女の子が二人……大学生くらいだろうか。走り抜けて、頭上を飛んでいるホークスに鋭く悲鳴に似た大声を投げかけた。
「女ったらし!」
「がっかりした! もう担降りるけん!」
「マジ最悪! なんであのバカ女と?」
「信じられん、福岡から出てって!」
 ヒステリックな二人の叫び声のせいで、ホークスに助けられた女の子は、キョトンとした顔をしたあと、わっ! と弾かれるように泣き出した。ホークスは何も言わずに、彼女ら二人を見下ろした。周囲の通行人たちは、彼女らをあまり見ないようにして、苦笑しながら、ホークスをチラチラと見上げて通り過ぎていく。
 世間はこんなもんなのだ。ホークスは何も言わなかった。弁明することはない。言いたいことはあれこれあったけど(担降りって、俺はジャニーズじゃないんよ)、何も言わなかった。言う資格はなかった。ホークスはチラリと微笑んで、彼女らに背を向けて飛び去った。
「ホークス! 気にせんでよか。頭おかしいけん、あんなのは」 
 別の場所から、そう声が聞こえた。二人の若いサラリーマンが、陸橋の上からそう言っている。あれがあの女の子たちに聞こえなければいいが、と願った。世間は冷たくも、温かくもある。こんなもんだ。ホークスは片手を上げて感謝を示し、もっともっと高く、何の声も聞こえない天空へ、羽を広げて逃げ出した。
 傷心のホークスを察した、なんてことはないだろう。たまたまの偶然だ。分かっているが、ホークスは、胸元で震えた携帯電話の振動に、ぎくりとする。かなり空高くまで来て、もう地上は豆粒みたいに見える。イヤホンで通話に応じる。着信は「エンデヴァーさん」からだった。
「はい、こちらホークス」
「見たぞ。銀行立てこもり。福岡、凍結はどうなった」
 エンデヴァーは名乗りもしなかった。この世代の人にはありがちだ。名前が出てるんだから分かるだろう、という感覚である。ホークスはさっきまでの沈んだ気持ちが何だったのか、一気に高揚し始める。あまりに高くまで飛んできて、凍えそうなのも忘れた。
「やー、ついさっきなんとか解除しましたよ。ありがとうございます」
「必要があれば手伝うかと思ったが、問題ないな。うちは炎の個性持ちが多いから、入用なら連絡しろ」
「助かります! まあ問題なさそうですね。交通規制も概ね解除されましたし、立てこもり犯もお縄で……」
 話しているうちに、たまらない気持ちになって、野次になんてこれまで一度も傷ついたことがなかったのに、突然泣けてきた。エンデヴァーの声が厳しくも優しかったからか、ちょうど気持ちが荒んで、疲れていた時に、好きな人の声を聞いたからか。ホークスはズビッと洟を啜って、涙ぐんだ声を誤魔化した。
「おい、大丈夫か。風邪か?」
 エンデヴァーは目ざとく気がつく。大丈夫か? と聞かれたのがトドメになって、ホークスはポロッと左目から涙をこぼした。声が震えないように、耐えるのに必死だった。
「ええ、大丈夫です。寒すぎるんで、鼻水が……。エンデヴァーさんも、気をつけて」
 エンデヴァーはそれ以上何も言わなかった。バサバサと羽音に気付いたのだろう。飛行中だったか、じゃあ切るぞ。と短く言って、通話は終わる。ホークスはぷつんと切れた通信の余韻を耳で追いかけて、しばらく真上に飛んでいた。ピキ、と凍りつく音が、ゴーグルを鳴らして、やっと我にかえった。これ以上上に登ったら、俺はよだかの星になってしまう。
 よだかのように、ぐんぐん登って、最後はとろけて、星になって消えてしまいたい。自分はどこまでいけるだろう。やりたいこと、やり残したことがたくさんあるのに、フッといなくなりたいと思うこともある。不思議なものだ。人間は弱くて、自分勝手で、そう言うものなのだ。
 お腹に貼ったカイロがあったかい。ホークスは後から後からとめどなく流れてくる涙を拭いながら、徐々に高度を下げていく。彼はその後、数件のひったくりと数件の喧嘩を止めて、数件の器物損壊を補導してから、ようやくその日の仕事を終えた。とっぷり日の暮れた街を横切って、自分のマンションに舞い戻る。もちろん、一人の時はベランダから入る。ホークスの自宅はベランダの窓の鍵を外からも開けられるようになっている。ホークスに取ってはここが正式な玄関だった。
 部屋に入った途端、あったかい風呂に入ろう、と思っていたことも忘れて、着ていたものを全部脱ぎ捨て、パンツ一枚になって、そのままベッドに倒れ込んだ。モゾモゾ布団の中に潜って、やっぱり寒っ、となって、インナーに貼り付けたままのカイロを剥がす。まだほんのりあったかい。
「お前のマスクをもらった」
 携帯に一通入っていたメッセージ。ヒーローとドラッグストアのコラボレーション商品の一つが写っている。どうやら向こうの事務所の誰かが買ってきたのだろう。箱でたくさん積まれているものを、エンデヴァーが写真に収めて送ってきた。ホークスはそれを何度も何度も見直して、自分が腹につけていた、ひしゃげたカイロの写真を撮った。
「実は今日一日つけてました笑」
「エンデヴァーさんのカイロ」
「まだあったかいです。優れものですね」
 送って、すぐに既読がついた。開いていたのかもしれない。相手の返事をドキドキしながら待っている、この時間。なんて愛おしんだろう。ホークスがパンツ一丁で布団に転がって、堕落したオフモードに入っているとは、エンデヴァーは想像もしていないだろう。
「そうか」
「よかったな」
 なんとも返事に困ったような返事が、送られてきた。ホークスは思わず、一人の部屋でふふっと笑い声を漏らしてしまう。スタンプをつけると相手がもう返信を止めることを知っていたので、ホークスはスタンプで返事した。グッドサインを出しているヒヨコのスタンプだ。
 さて、風呂に入るか、このまま寝て朝シャワーに切り替えるか……。うーん、と布団の中で伸びをしたホークスは、ブルッと震えた携帯に反応する。通知かな? と画面を見て、驚いた。
 エンデヴァーから、スタンプで返信だ。メッセージアプリにデフォルトで入っているよくわからないクマのキャラクターのやつだったが、彼はついにスタンプを覚えたらしい! ホークスはがばっ! と勢いよく起き上がり、彼から送られてきた、よかったね、と言っているクマに、半ば放心してしばらく眺めているしか方法がなかった。
「エンデヴァーさん……」
 つい、耐え切れずに独り言を言った。独り言を言うような人間ではなかったのだが。
「……ハア〜、ずるか〜、ほんと、こん人……」
 あんたは可愛かねえ。ホークスはジーンと響くような愛おしさを飲み込んで、ポーン、とスタンプを返した。ハートを抱っこしたヒヨコのスタンプ。きょうび女の子にも使ったことがない。「スタンプマスターしよるじゃないですか! 誰かに教わったんですか?」そう返して、既読がしばらくこないことを確認して、やっと携帯電話を手放した。返事は明日になるだろう。それもまた、楽しみでならない。
 エンデヴァーさん。
 胸を突き破って、飛び出してきそうな、苦しいほどの愛おしさ。
 エンデヴァーさん。
 なんでこんな年上の、堅物で、デカくて厳しい男に、こんな風に思ってしまうのか、分からない。ホークスはここにきて、女の子たちにあちこち手を出していた頃の自分が、女の子とのセックスの最中に夢想した、危ない妄想のことを思い出してしまった。がっしりとした男の腰を掴んで、たん、たん、と奥までしっかり叩きつける。ごつい男の尻なのに、むっちりと締まっていていやらしい。壁についた両手。たくましい筋肉質な腕だ。皮膚の上に汗の玉が浮かんでいて、低い、唸り声みたいな声で喘ぐ。
 エンデヴァーさん。
 彼はそうされたとき、どんな顔をするのだろう? 相手が男でなくても、彼はすでに子供が四人いるのだ。奥さんをどんな風に抱いたんだろう? あの人が。あのエンデヴァーさんが、どんな風にセックスしたんだろう……。
 彼の中は?
 炎を纏って体温も上がる彼は、セックスする最中も、どんどん体温が上がるんだろうか? なんという……、エッチな体なんだろう。女の子にしてもらったフェラチオの記憶が、別の人に切り替わる。彼は口の中まで熱いのだろうか? ねっとり糸を引いた、濡れた口の中は、女の子のアソコぐらい熱い。大きな男が膝をついて、ホークスの腰に両手でしがみついて、……体つきに似合わず、控えめに、不慣れたフェラチオをする。エンデヴァーさん。エンデヴァーさん。俺のチンポ咥えてくれるんですか? 嘘でしょ……。キツキツのあの人のアソコの入り口を、指でじっくりほぐして、尻の奥に眠っているコリコリしたところが、擦るだけで気持ち良くなるように、じっくりほぐしていく。大きなお尻ですね、なんて言って揶揄うと、彼はきっと怒る。真っ赤になって、見るな、と羞恥に震えて叫ぶ……。
 夢想の中のエンデヴァーは、際限なくどんどんエッチになっていった。ホークスのチンポを求めて、ゆるゆるにほぐれて熱くとろけた雄マンコで、ギンギンに勃起した若造のチンポを強く締め付けてコキまくってくれる。突くと甘い声を出して、啓悟、啓悟ぉ、と甘い声でねだる。エンデヴァーさん、と呼ぶ声が、いつの間にか炎司さん、炎司さん、と変わっていた。叩きつけるとうねる、肉ひだで心地よい凹凸のある尻の中が、動くたびにキュウキュウ切なくしまった。俺のチンポ好きっすか、と言うと、好きだ、と囁く。たまらず尻をくねらせて、はしたなくチンポに媚びてしまういやらしい体に罰を与えてやろうと、ホークスは尻たぶを強く叩いた。炎司さん、炎司さん……ッ! こんながっついてセックスしたことなんてない。一度もない。ホークスは女の子とセックスする時、いつだってどこか他人事だった。
 
 どぱあっ、と熱いものが手の中に飛ぶ。コンドームもつけずにヌき初めてしまったから、手からこぼれた精子が太ももにも飛んでしまった。あーあ、と射精した途端にガックリ来て、ホークスは夢想から現実に引き戻された。まさか、エンデヴァーをオカズにオナニーしてしまうとは……。
 だが、不思議と罪悪感はなかった。罪悪感を持つべきなのに、持てなかった。これだったのか、という感覚はある。ずっと抱いていた、自分が本当に求めているものに、やっとホークスは正面から目を向けたのだ。憧れでもあり、友愛でもあったエンデヴァーへの感情に、もう一つ、劣情が、はっきりとした欲情があることと、ホークスはやっと向き合う決意ができたのだ。
 手のひらに飛んだ、溜まった精子の白くてねっとりした嫌な粘りを、しばらく見つめてじっとしていた。盲目だった目で、初めて光を見たような気分だ。ホークスは汚れた手を拭い、あー、と声をあげて脱力し、ベッドの下の収納棚から、ひしゃげたタバコの箱を一つ、取り出した。
 タバコは吸わないし、好きじゃない。昔住んでいたヤニ臭い我が家を思い出すから。でも、自分もあのスラムで育った血が今も拭えないのだろう。時にひどくこのヤニの匂いが恋しくなることがあった。たらふく酒を飲んで潰れたい、と思う夜があるのと同じだ。ホークスはパンツ一枚履いただけで、タバコに一本、火をつけて外へ出た。寒いけれど、部屋にこの香りは持ち込みたくない。ついでに、オナニーしたばかりのイカ臭さを紛らわせるため、網戸は全開にして換気する。冷たい夜風がホークスを殴る。ちら、と白いものが降ってきていた。福岡に、なんと雪が降っている。列島はどこもかしこも雪で、ホークスが吐き出した神樂・スーリヤ・マイルドの煙に乗って、小さな雪の粒が舞い落ちていった。
 

 三、二十二歳のメモリー

   (一)心の叫びに気づいてよ

 泥の跳ねた靴底が、薄汚れた絨毯の上に投げ出される。遠慮なく靴を脱ぎ落としたホークスを、エンデヴァーはもの言いたげにジロリと見たが、特に何も言わないでいてくれた。外は豪雨。窓を叩く滝のような音が、扉を閉めた途端に聞こえなくなった。
 田舎町にたった一つだけある寂れたカラオケボックスは、彼ら以外に客らしい姿はほとんどいなかった。無論、遊びにこんなところまできたわけではない。現在、彼らは捕物の真っ最中である。雨の中、音がかき消されるこの状況は、ヒーロー側には好都合だった。
 敵は音をたどって逃げていく。一人の個性はエコーロケーション。もう一人は「聞き耳」だ。ある「もの」を運んで、彼らはこのカラオケボックスに来ている。隣の部屋に、プロヒーロー二人がやってきたことにはまだ気がついていないはずだが、正直なところ、カラオケボックスを潜伏場所に選んだのは悪手だった。音を駆使する能力で、音を制限する場所に拠点を築くなど素人のやることだ。だがそれも仕方ない。この豪雨の中、一時的に立て篭れるような場所は、この辺りには多くはない。
 中身が何かも知らないで、彼らは小さな「贈り物」を運んでいる。綺麗にラッピングされた小箱だ。二人はどちらもSNSで「選ばれた」人間で、莫大な報酬の代わりに、「贈り物」を運ばされる。普通なら運び屋なんて、気軽に引き受けるやつなどいないと思うだろうが、主犯は巧みにターゲットを探し出す。SNS上に散らばった、運び屋にふさわしい条件に当てはまった者にだけ、そのラッキーな仕事は振り分けられる。
 運び屋はトカゲの尻尾切りだ。受け渡しが終わった後に確保したところで、SNSで声をかけられただけの運び屋は、主犯者の顔も名前も、当然知らない。受け渡しの瞬間を抑えないと意味がない。そうやって、運び屋が何組か、ギリギリまで泳がされては、あと一歩のところで主犯を抑えられないでいる。
 
 はるばる、九州くんだりから北上してきた「贈り物」を追って、ホークスは静岡へチームアップの要請を出した。協力を申し出るまでもなく、静岡でもエンデヴァーは別の「運び屋」を泳がせている最中で、断る理由もなかった。彼らは静岡で一組の「運び屋」を新たに捉え、「贈り物」を押収した。
 小さな箱に収められていたのは、一対の「目」だった。
 それはまるでジュエリーのように、黒いクッション性の台座の上に、綺麗にふたつ並んでいた。シルバーのタグが添えられていて、控えめなイタリックの字体で、「カナエ・ライラック」と記されている。二つの目はこちらをじっと睨むように収められていて、眩しいほどに美しい、ライラックの色彩が、宝石めいて封じられている。
「被害者の名前は」
「夢津・叶さんです。二十三歳女性。瞳は綺麗なライラック色」
「……これで繋がったな。〈贈り物〉の中身がわかったのは成果だ。捉えた運び屋はどうした」
「あっちで伸びてますが、しばらくすれば気付きますよ」
 ホークスは、エンデヴァーの手の上にある「贈り物」を奪い取り、警察の手に渡した。この先は鑑識の仕事になる。ヒーローがやるべきは、犯人確保に向けての次の動作だけなのだ。
「確保した運び屋は警察に任せる。すぐに出るぞ。次の場所は検討がついてる」
「分かりました。エンデヴァーさん、移動はどうします?」
「ホークス、お前は空から行け。そのほうが早い。俺もすぐ追いつく」
「了解です。待ってますよ」
 ホークスは大きく羽ばたき、あっという間に上空へ飛び立った。エンデヴァーが地上からその姿を見送っていたが、彼もすぐ視線を切って、動き始めた。
 このチームアップは、想定していたより長丁場になっていた。美しい色の目をコレクションする、性倒錯的シリアル・キラーだ。警察による精神分析と、地道な捜査のおかげで、犯人のおおよその特徴は見えてきた。年齢は三十代〜四十代。伴侶はいない。人の「目」に恋をする、もしくは性的欲求を覚える人間であり、目の色が犯人の気に入りさえすれば、性別や年齢は関係がなかった。殺された被害者の数は、今わかっているだけでも五人。実際はもっといるだろう。SNSにて「当たり」を引いた運び屋の情報だけならもっとたくさんの数が確認されていて、押収できなかった「贈り物」も当然まだまだあるはずだった。
 豪雨が索敵を邪魔するのをきらい、運び屋たちは引き渡しに向かう前の最後の拠点として、この小さなカラオケボックスを選んだ。すでに店に根回しはされてある。最速で到着したホークスが、カラオケボックス併設のボーリング場(今は無人だ、普段も無人かもしれないが)に、たむろしている若者を装って張り込んでいる間に、エンデヴァーが到着した。ホークスと違いエンデヴァーは大柄で、潜伏には不向きだったから、彼はホークスに指で合図する。隣のボックスへ速やかに入り、待機する。必要とあらばエンデヴァーは隣の壁を拳でぶち抜くだろう。
 サイドキックは店内には入ってこない。外へ逃げ出た犯人の確保ができるように、突入は最小限の人数でいい。
 カラオケにエンデヴァー、っていうのはなんだか不自然さがある。エンデヴァーという男は、学生時代もこういった娯楽には一切触れてこなかっただろう。彼は腕組みをして、仏頂面でドスンとソファに腰を落とした。ピカピカの人工皮のソファ・カバーが、あちこちひび割れて剥げていた。
 とはいえ、ホークスだって、まともな学生生活を送ってきたわけではない。公安ヒーローとして育成されるために、ホークスは中学にも高校にも行かなかったし、家庭環境のせいもあって、まともに小学校さえ経験していない。「学生」という思い出がホークスにはまるでなく、あったとしても、子供の頃から育成されている公安ヒーローというのは多くなく、ホークスだって放課後のカラオケや、ボーリング、屋台やファストフード店での買い食いなんていうものとは、縁遠い人生を歩んできた。
 軽薄なノリはあくまで「キャラ」だ。あの家で、あの両親のもと、あのまま成長していたら、こんな性格には絶対にならなかっただろう。いつかヒーローが暇になる、そんな世の中にするために、時には敵陣に身をやつし、時には心を閉ざしてでも与えられた仕事を成功させる。そのために生まれたのが、今の「ホークス」という人格だった。
 無理して演じているわけではない。極力自然に、本音に近いところでありのままに近い姿を見せることで、ホークスは人を欺き、人に取り入り、人に混じり、馴染んできた。だから、根っから自分はこういう性格なのだと思う。案外楽観的で、心の切り替えができるタイプだ。けれどもちろん、本当の「鷹見啓悟」は奥底に隠してあった。

 根幹にいる、鷹見啓悟という男は、凶暴だ。普段はニコニコしている心の裏で、はち切れそうな自我を研ぎ澄ましている。傷つきもすれば、怒りも、憤慨もする。でもその獣を、「ホークス」として飼い慣らしている。もう何年もこんなふうにコントロールしてきたのだ。

「なんか食います? 炎司さん」
 気楽な雰囲気でそう言ったホークスのことを、エンデヴァーはジロリと見た。突然、馴れ馴れしくも名前で呼んできた若輩にも疑念が湧いたが、ホークスの目は真剣だ。おどけた声に不釣り合いなホークスの顔つきで、さすがに、ナンバーワンはホークスが何をしたいのか、察したようだ。
 音による索敵ができるのは、何も隣の二人組だけではない。ホークスはその羽で、運び屋二人とは精度に雲泥の差のある「音の情報収集」を生業としてやってきた。音を使う勝負はこちらの方が何枚も上手なのだ。エンデヴァーはホークスを見た。
「いらん。カラオケの飯なんて食えたもんじゃない」
 うまい。ホークスは思わず笑いを漏らした。カラオケの飯なんて食ったことないだろうに、「大したことないだろう」という推察はできていて、そして実際、当たっている。会話として不自然さはなかった。エンデヴァーはホークスの方をじっと見た。彼は口を動かし、声を出さずに、こう言った。

「なまえは」

 それはホークスに、想定外のダメージと、迷いを与えた。衝撃、とでも言っていい。防音されているとはいえ、高い策音能力で、隣の部屋の細かい音を拾っているはずであろう運び屋二人は、こちらの会話が聞こえているはずだ。「聞き耳」個性の男は、半径十メートル以内であれば、かなり高い精度で会話や物音を盗み聴くことが可能だった。隣の部屋に人が入ってきたのに、一言も話声が聞こえないとか、あまつさえヒーロー名なんかが聞こえたら、証拠隠滅を図って逃げ出そうとするだろう。
 大事なのは、気取られないこと。ホークスが仕掛けた筋書きのない即興劇に、エンデヴァーはノってきてくれた。しかし、こんな時に、ホークスは名前を問われたことに迷った。「お前」と呼べば済むところを、エンデヴァーはホークスに、名前を差し出すように求めたのだ。
 誰にも教えたことがない。
 たった一つの名前だ。
 ホークスの芯の部分に仕舞われた、大切な隠し事たちの小箱の中に、何年も押し込めた一つの名。これまで何度、誰かに教えようとしても、教えられなかった名前だ。こんな時に、こんな状況で、エンデヴァーに問われるなんて。
 迷った挙句、いつも使っている偽名を伝えようと思った。この場で本名である必要は全くないし、エンデヴァーだって、本名だろうが偽名だろうが、この場を自然にやり過ごすためのツールでしかない「名前」について、そんなに深くは捉えていないはず。わかっていた。喉の手前まで、「ケンゴ」という偽名が準備できていたのに。

「けいご」

 ホークスは咄嗟に、そう答えた。声を出していなくても、ホークスのくちびるの動きで、エンデヴァーはしっかり正確に読み取った。自分でも驚いた。誰にも教えたことがなかった名前が、勝手に口から差し出されていた。

「飲むのはほどほどにしておけよ、〈ケイゴ〉」
 この時、体に走った電流のような、甘い心地のことを、ホークスはいまだになんと言葉にしていいか、分からない。
「わかってますよ、さっきたっぷり飲んだんでね」
 ホークスの、デンモクを持つ手は震えていた。緊張で? 違う。喜びでだ。名を呼ばれた時、こんなに嬉しいと思えるなんて、ホークスは知らなかった。さっきはあっさりと呼んだ「炎司さん」という名前が、急に大切で、愛しくて、たまらないものであることを自覚して、喉が詰まって呼べなくなった。照れ臭くて、顔が熱くなる。エンデヴァーはホークスのにやつきと、照れ臭そうに染まった頬を見て、自分から仕掛けておいて照れるとは、という風に、フンと鼻で笑った。十中八九、猿芝居に照れているのだと思っているのだろう。
「じゃあ俺だけなんか頼んじゃおうかな。うーん、ピザとか唐揚げとかは気分じゃないしな〜。炎司さんってポテトとか食います?」
「食わんな」
「ですよね。ていうかファースト・フードとか食わないでしょ」
「全く食わないというわけじゃない。ハイカロリーだが、手軽でいいからな。仕事をしながらでも食える」
「なんこつの唐揚げは?」
「揚げ物ばかりだな」
「そんなモンっすよ、カラオケって」
 隣のボックスには男が二人。声の質から年齢も割り出されるだろう。若い男と、年上の男。おそらく飲み会の後の二軒目か。家に帰らず男だけで管を撒き、家庭にもどることをちょっとでも遅らせたい時間稼ぎの悪あがき。そんな雰囲気を醸し出しているホークスに、エンデヴァーはうまく合わせてくれる。察しが悪そうな人だと思っていたのだが、意外とエンデヴァーはこういう洞察力に長けている。長年の経験もあるし、磨き上げてきた結果でもある。ナンバーワンは伊達ではなかった。
「いや〜、本当はラーメンとか食いたいんですけどね。やっぱ〆はラーメンでしょ」
「お前は食い過ぎだ」
「炎司さんが食わなすぎなんですって」
「どちらにしろ、この辺はここぐらいしかやってる店がない。深夜にラーメンなんて食いたいなら、都会に行け」
「あっ、後でボーリングしません? 入り口にあったんすよ」
「やらんわ」
 あははは、と談笑しながら、ホークスは隣にも耳を澄ませている。エコーロケーションの能力を持つ方は女、もう一人、聞き耳の個性の方は男だ。男の方が起きている必要があるため、女は仮眠を取ることにしたようだった。男はじっとしている。こちらに聞き耳をたて、隣のボックスに二人入っているのを意識しながら、外の様子にも気を揉んでいる。だが、隣が普通の客だと思ってくれたようで、こちらへの警戒はそこまで高くなさそうだ。
 カラオケボックスで時間を潰す客として、一曲くらいダメおしで歌っておくか、とホークスは靴を脱いだ状態で、ソファの上に立ち上がった。デンモクを操作しながら、炎司さんてどういう曲なら知ってるんですか? 流行りの曲とか知らないでしょ? と揶揄う。エンデヴァーは「貴様本当に歌う気か」と呆れた顔をしたが、止めはしなかった。

 カラオケ、ってやつは、初めてではない。仕事で何回か、スナックに一般客として紛れ込んで張り込んだ時に、ママからリクエストされて歌ったこともあるし、サイドキックたちと戯れに数度行ったことがある。歌うのは心がスッキリして、結構好きだった。
「炎司さんって何年生まれでしたっけ? 俺結構世代問わず歌えますよ」
「いい、いい。俺は歌謡曲は全然知らん。お前が好きなのを歌え」
「歌謡曲て! いつの時代すか! んじゃ、お言葉に甘えて」
 歌は好きだ。
 というより、歌に乗せられた歌詞の一つ一つを、自分の感情と重ねるのが好きなのかもしれない。意外にロマンチストだな、と笑われるかもしれないが、ホークスは普段隠し持っている自分の感情に沿うフレーズを見つけると、つい歌ってみたくなる。自分の感情を抑制して、支配下に置くことが普通になっているから、感情を爆発させられるようで、心地よかった。
 
 例えば、この気持ちだ。
 今抱えている、特大の「秘密」。ホークスの本当の名前よりもっと、さらに大きな秘密だ。この先、この「秘密」が露呈する日はきっと来ないし、来てはいけないとも思っている「秘密」。女の子たちと真っ当に交際していた時は、決してこんな気持ちにはなれなかった。苦しくて、泣きたくなる。身悶えするほどに胸がいっぱいになっていて、今すぐ気持ちを打ち明けたいのに、この気持ちをなんと表現していいのかはさっぱり検討がつかない。正体不明の、隠しようのない、難しい塊だ。
 それを、多くの楽曲は代わりに表現してくれている。はち切れそうなこの強い感情を、時には「恋」とストレートに、時にはもっとまどるっこしい言葉で遠回りに、さまざまな人間が、さまざまな言葉で曲にしては伝えようとしてきた。ホークスはそれを借りることしかできない。笑えるほど、臆病なやり方だった。
 恋に臆病になったことなんてなかった。
 いや、正確には、「恋したことなんかなかった」のだ。
 ホークスは初めて溺れる恋の味に酔って、混乱して、パニックになって、イライラして、照れて、ソワついて、ニヤけて、……ぐちゃぐちゃになっている。腕組みをして緊張を解かない、カラオケボックスのさびれたソファに座ったエンデヴァーが、絶対に微塵もホークスの気持ちになんて気が付かないことを確信しているから、ホークスはこんな使い古された、サムいやり方にも手を出せる。
 
 イントロが流れ出す。
 加藤マリアの「20 memories」だ。ちょっと前に爆発的に流行った、背伸びして傷ついて、雑踏に揉みくちゃにされる傷ついた若者の尖った精神を、うまく歌い上げたポップス曲だった。もちろん、娯楽で歌っているわけではないので、自然な空気を装って、隣の部屋に探りをいれている。向こうは、こちらの部屋が歌い始めたことで、かえって緊張がほどけかけていた。普通の客だと安堵したのだろう。
 エンデヴァーは、初めて見るらしいカラオケの小さなモニターを怪訝そうに眺めていた。歌詞が画面に表示される。エンデヴァーはその文字を目で追って、歌詞を読んでいるものの、それがホークスの抱いている気持ちだとは思ってもいないはずだ。
 PVに登場する、有名な若手アイドルが話題になった。望まぬ妊娠に苦しむ若い女性の役だ。雨の雑踏の中で泣き崩れる彼女に手を差し伸べる者はいない。また、同性愛の青年が続いて登場する。恋をした男性が、別の女性と結婚している姿を、微笑みながら見て、式の帰り道で一人泣いていた。

   別に多くは望んでいない
   私にはあなたしかいない
   心の叫びに気付いてよ……

 ソファに立ち上がり、熱唱するホークスの声はよく通った。普段へらりとしてつかみどころのない彼だが、歌は堂々として、意外に太い声を出す。音域が広いというより、伸びのいい歌声で、ホークスは歌唱を心から楽しめる人だけに備わっているこなれた歌い方が、ホークスをいよいよ「上手に」見せていた。
 スナックではよくモテた。あらあ、お兄ちゃん上手ねえ、とママに褒められて、何曲も連続で歌ったものだった。全然世代でない大昔のデュエットソングでも、有名なものはたいてい知っていた。それでも、今ほどの熱量はない。マイクを握る手に汗がにじむほど、ホークスは目を閉じて叫ぶように歌った。気づいてよ、気づいてよ……と、同じフレーズが天井にこだました。
 曲が終わると、ホークスは隣の部屋に動きはないことを手振りで示して、「いやあ~、一曲目は喉しまっててダメっすね」とおちゃらけながら、ぴょんとソファに飛び跳ねて座る。エンデヴァーは腕組みをしたまま、じっとホークスを見ていた。
「何スか?」
 手に持ったままのマイクに向かってそう言ったので、うわん、と部屋にハウリングして、エンデヴァーは眉をピクリと寄せた。
「………うまいな」
 エンデヴァーがこぼしたのは、素の感嘆だった。苦い顔をしているとばかり思っていたが、どうやら感心していたらしい。ホークスは思わず照れて、「お褒めに預かり光栄です」と茶化す。
「よく来るのか」
「え?」
 エンデヴァーは演技を忘れたように自然だった。まるで本当に二人きりで、ただカラオケボックスに遊びに来ただけみたいだった。ドキ、ドキ、と心臓が走り出す。二人だ、二人きりなんだ、と自覚すると途端にこうなってしまう。
「いや、あんまり来ないですね。ヒマないですし」
「そうか」
 エンデヴァーは意外そうに、少し目をまるくする。いつも強張って、怖い顔でいるか、威圧感バリバリのいかめしい顔でいるかということが多いエンデヴァーだったが、近ごろ意外なほどに表情の変化から彼の心の機微が読み取れるようになってきた。長く近くで行動を共にするようになったからかもしれない。
「その割には堂に入ってるな」
「お? もしかして、俺褒めてもらってるんスかね」
「……ああ。なんでもうまくやるんだな、お前は。器用なものだ」
 茶化して笑ったホークスのおふざけは通用せず、まっすぐストレートに打ち返された。ぎょ、として、ゴクリと言葉を飲み込んで固まっているホークスは、そのせいで隣の部屋の索敵に一瞬ブレを生んでいた。
 隣の部屋で男が立ち上がった。鋭い殺気のせいで、ホークスの索敵より早く、エンデヴァーも隣室の異変に気がついたのだ。ホークスがその気配を察知して振り返りかけるよりわずかに早く、エンデヴァーが動いていた。さっきまで談笑して、「歌がうまいな」なんて言っていたそのときの表情の余韻を残したまま、エンデヴァーは迷いなくホークスの左隣の壁に向かって拳を叩き込み、タイム・ラグのあと、轟音が耳に響いた。
 爆風さえ感じる! チリチリと耳のそばがしびれていて、ホークスも身をひるがえした。どうやら先を越されたらしい。基本的に音を拾う能力はエンデヴァーより長けているという自負があるが、ここぞというときのカンは、年の功で、エンデヴァーにはまだかなわない。
 破壊された壁の向こうへ、二人は目もくれず殺到した。エンデヴァーが男の体に馬乗りになり、両手をひねり上げて確保する。ホークスは女の体を、運び屋の男の下から引きずりだした。まさに今、運び屋の男は、女の体に覆いかぶさって、彼女の首を力いっぱい絞めているところだった。
 すっかり目を覚ました女は、ゲホゲホとせき込んで、暴れることも忘れていた。どうやら運び屋の男は、引き渡しまで安全圏に入ったと判断すれば、ペアの女を殺して自分だけ報酬にあずかろうという腹でいたようである。女は寝耳に水で、ぽかんとしたまま、ホークスの拘束にもすぐには反応さえできなかった。
 運び屋二人をカラオケボックスから引きずり出したが、やはり主犯の情報は出ないままだった。この愚かで欲深い男が、ペアを殺そうなんて考えに至らないでいてくれれば、主犯を確保できていたかもしれないというのに。がっくり来たが、残念がっていても解決するわけではない。ホークスは壁に空いた大穴を振り返り、わずか数分の間で警察とヒーロー、サイドキックでごった返しの状態になってしまった狭いカラオケボックスを見て、息を殺した。
「反応が遅れたぞ、ホークス。ぼうっとするな。眠気があるなら短く仮眠をとれ」
 エンデヴァーは、自分のせいでホークスが集中を乱したことを知らないでいる。むしろ知らないでいてほしい。ホークスは、エンデヴァーの怒った厳しい口元を見た。引き結ばれたくちびるが、もう一度〈啓悟〉と呼んでくれないかと祈った。
「眠いんじゃないんですよ、エンデヴァーさん」
 言った直後、ホークスは大きくあくびをした。エンデヴァーはそれを見て、言わんこっちゃない、という顔で笑ったが、ホークスに釣られたのか、彼もあくびを噛み殺していた。

   (二)合図

 映画の公開を告げる大きなパネルポスターが、二人の男のならんだ横顔を映し出して、ど派手に目立っている。だが、大きさの割にパネルの写真はとても地味な色だ。全体をモノトーンの色調に落として、瞳にだけ色を残している。印象的な役者の目の色。一人はヘイゼル。するどい琥珀色の目は、光が当たると黄金いろに輝く。もう一人は凛としたアイスブルー。抜けるようなさわやかな色だが、燃えるような、深い紅蓮の髪の色と、がっしりとした太い鼻筋の、雄々しい顔立ちに不釣り合いなほど繊細だった。
 ホークスはそのパネルの横を通りがかり、……もとい、飛び[#「飛び」に傍点]かかり、ふと羽ばたいて空中に止まる。じっと彼はパネルに目を奪われていた。
 二か月後に公開の映画「アイズ」の宣伝パネルだ。役者のビジュアルから分かる通り、これは二人がつい半年前に解決したある事件を題材に作られた映画作品だった。ホークスとエンデヴァーである、とは明言されていないし、世間を賑わせたあの事件だともはっきり言われてはいないものの、アートワークだけでも彼ら二人の物語であることは自明の映画だ。その上、事件解決のその日に、犯人確保の瞬間をテレビ中継で見たという監督が、血眼になって、たった一夜で全ての構想を思いついた、あんなにパワーが湧いたのは初めて、と興奮気味にSNSに投稿していたから、言い逃れのしようもない。
 彼らの事件を題材にしたい、と事前にオファーはあった。監督からの取材も。もちろん、言えないことの方が多い業界だ。先にエンデヴァーの元にオファーが言って、普段ならすげなく返していただろうエンデヴァーから、「ホークスが絡むのなら、一存では決められん。向こうの意図も確認せねばならん」と、勝手に却下してもよかったものを、律儀に確認の電話がかかってきた。難攻不落のナンバーワンから先に話を持っていくあたり、義理堅く、さらに自信に満ちた人だろうと思って、試しに会ってみた監督は、ホークスの想像を遥かに超えて自信に満ちた、若く溌剌とした女性だった。
 エンデヴァーから詳細な説明は聞いていなかったが、蓋を開けてみれば、女性監督の経歴は輝かしいもので、韓国で起こった社会的人身売買事件、「N号室事件」を独自で取材し、韓国の映画会社と共同で制作した「開かない鍵」がヴェネツィアの国際映画祭で金獅子賞を受賞した。その後、日本国内の未解決事件を題材に、県警・新聞社と共同で、犯罪被害者にスポットを当てたクライム映画「叫び」を制作。これはカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した。邦画での受賞は約十年ぶりという快挙で、彼女はその波に乗り、次の傑作を生み出したいと考えていたのだ。その題材にと選ばれたのが、エンデヴァーと、ホークスだった。
 彼女は事務所に来るなり前のめりに話しまくった。普段おしゃべりなホークスが思わず黙って圧倒されているくらいの痛快な喋りっぷりで、だが彼女の独自の取材・調査ルートは確実だった。ホークスが驚くほど正確に、彼女は事件に肉薄し、そして冷静に分析していた。
「もちろん、これまでのクライム・ノンフィクションとは異なって、今回は記憶にも新しく、遺族も多数おりますから、あくまでモチーフとさせていただくだけです。類似した架空の事件をテーマにします。ですが当然、誰もがあの事件だとすぐに分かりはするでしょう。遺族のご理解と協力も得るつもりです。まだ見つかっていないご遺体もあると聞いていますから、その助けにもなれば」
 実際、彼女がカンヌで受賞した「叫び」の後、未解決だった事件が一件、解決の運びになった。この功績が大きいから、遺族へのコンタクトがしやすい点でも、彼女は自信があったのだろう。
「ウーン。お答えできないことも多いですよ。特にヒーローの仕事については。秘密裏にやってることが多いですから」
「もちろん存じ上げております。エンデヴァー事務所へ連絡を差し上げた時も同じことを言われました。あくまで今回私が本筋としたいのは、〈ヒーロー〉という立場の難しさ、苦悩……それでも世間へ光を届け続ける強さに迫りたいのです。仕事の内容を細かく描こうとは思いません」
「……そういうことなら。あまり取材に協力できる時間がないかもしれないですけど、俺は、問題ないです。エンデヴァーさんが構わないなら受けますよ」
「ありがとうございます!」
 エンデヴァーが、先にホークスの意思を尊重するようなことを言ったのだから、この仕事は決まったも同然だった。結果、取材の期間は三回まで、と決めた上で、両事務所は撮影に協力することになったのだ。
 と言って、ホークスもエンデヴァーも、カメオ出演させられるようなこともなく、撮影には一切関わらないで済んだから、本当に知らぬ間に完成していた、という印象だった。彼らが関わったのは脚本前の三回の取材と、最終的に仕上がったデモテープの確認だけだ。テープの確認も、あくまで「NG事項が含まれていないか」の確認で、演出や脚本に口を出すような権限はない。それに、デモテープは素人が口を出せるような隙などどこにもない、力のこもったものだった。
 デモテープの試聴をした日のことを、ホークスはとても素晴らしい記憶の一つとして大事に持っている。二時間半に及ぶ長編映画の確認を、別々でやるより一緒にNGがないか擦り合わせた方が早かろうと、たまたま近日に設定されていた東京でのチームアップの前日に、ホークスはエンデヴァーに呼ばれて、東京は阿佐ヶ谷にあるミニ・シアターへ立ち寄った。二人のためだけに閉店後、シアターを一つ開けてくれていた店主の親切に礼を言い、二人は百十三席のシアターのど真ん中に案内された。
「飲み物とポップコーンもありますよ」
「いや、いい」
 シアタースタッフの申し出に、エンデヴァーはそう言ったが、
「あ、俺もらおうかな」
 とホークスが言ったので、じろりと睨まれた。ホークスは肩をすくめたが、ちゃっかりキャラメルポップコーンとコーラを買った。エンデヴァーも呆れながら、それならばと烏龍茶を買っていた。
「いいなあ、瓶コーラに瓶烏龍茶ですよ。雰囲気もいいし、ミニシアターっていいですね」
「ああ。映画など久しぶりだ」
「俺もです。照れくさいですね。自分たちが題材となると」
 上映前のおしゃべりも、ホークスの胸をいっぱいにした。仕事とはいえ、まるで映画デートだと思ったのだ。ホークスの高揚も知らないで、エンデヴァーはもう腕を組んで、仕事のために作品を注意深く校閲する準備を済ませている。ジーッと、ご丁寧にも開演のベルが鳴って、シアターが暗くなった。
 
 瞳を狙う殺人だった。
 忘れられない事件になるだろう。シリアルキラー、と呼ばれる、いわゆる連続殺人鬼は、日本国内には珍しい。その珍しい事例に、新たに一つ加わったのだ。シリアルキラーは、特殊な性的ファンタジーを持っていることも多い。今回の犯人はまさしくそのタイプで、彼は最初の事件発生から捕縛されるまでの三年間で、二十人近い男女を殺害した。
 年齢も、性別も、見た目も様々な男女だ。個性社会となってからは、異形個性とされる人々だけを狙う犯罪などもあった。だが、今回は違う。共通点があるとすれば、どの遺体からも瞳が摘出されていること。
 最初の被害者は美しいべっこう色の、飴細工のような瞳だった。犯人はネットで運び屋を募り、自分が殺害し、手に入れた瞳を宝石のように梱包して、運び屋に持ち出させる。運び屋は自分が何を運んでいるのか知らされないまま、報酬に釣られて指定の場所まで送り届け、それを犯人がまた受け取る。……殺害現場から持ち去ればいいものを、わざわざ一度別の場所に隠して、運び屋に持ち出させ、全国に複数あった犯人の拠点付近に届けさせるというのは、当初は単にややこしいルートを踏ませることで、警察の捜査を撹乱しようとする目的だろうと考えられていた。だが、第三者を介入させることでリスクも増える。現に、運び屋を取り押さえることで、被害者の瞳をヒーロー・警察サイドに確保され、それが逮捕に繋がったのだ。なぜこんな回りくどいことをするのか……、それは、犯人逮捕の後、ようやく分かった。
「僕にとって瞳は宝石で、お店で買った時のように、綺麗に梱包された宝石が、届けられる瞬間が嬉しかった。届いた箱を開けて、ああ、いいものを手に入れた。そう思わないと、僕の仕事は完結しなかった」。犯人の言い分はこうだった。
 映画は、瞳から始まり、瞳に終わる。ホークスをモチーフにしたキャラクターを演じるのは、新進気鋭の若手俳優。舞台を中心に活動し、あまり大衆メディアでは見かけたことのなかった俳優だが、テレビで人気を得ることより、地方の劇場で演技の道を極めることを優先した人物らしく、演技の力は高かかった。ホークスに似せた表情の作り方は、ホークスが「俺ってこういう動作するよなあ」と感心するほど上手い。後で聞いたところによると、彼はこの映画への出演が決まる前から、オーディションへ向けてホークスのあらゆる映像媒体、メディアを調べて、ホークスの人となりを学び続けていたようだ。照れ臭くなるほど、生意気で、飄々として、ひと癖ありそうな、隠し事をしているような雰囲気を出すのがうまかった。俺が隠し事をしていることも薄々感じ取られているのだな、とホークスは空恐ろしくなった。
 映画はこの、ホークス役の、ヘイゼルの瞳から始まる。ナッツの色をした、鷹の目に似た鋭い瞳。犯人が抱いた「瞳」への執着をなんとか理解しようと試みているかのような構成で、瞳の演出がとても印象的だ。映画のラストを飾るのも、瞳。避けて通れない、エンデヴァーのアイスブルーの美しい目だ。演じたのは、俳優業界でも大ベテランの、強面の俳優だ。任侠映画で叩き上げられて、ヤクザものだとか、クライム、サスペンス映画なんかでよく姿を見る俳優で、彼の演技にもハッとさせられた。ビジュアル面を似せるために、元から鍛えられていた体をさらに研磨したといい、彼は流石の大御所だった。まるで見てきたかのようにエンデヴァーを演じる。確保のシーンなど圧巻だった。脚本家の手腕も去ることながら、エンデヴァーという男の解釈、落とし込み方が上手いのだ。エンデヴァーが世間に見せる顔をうまく再現しながらも、彼のパーソナルな側面も、ホークスが感心するくらい読み取っている。強面の人相に嵌め込まれた繊細なアイスブルーが何度も何度も描写されるのは、事件の終着点がそこだったからだ。
 自分を追っているのが警察だけでなくホークス、エンデヴァーだと知った犯人は、初めはこの〈仕事〉から足を洗い、引き際かと考えたらしい。これは取り調べで分かったことだ。だが、彼を〈仕事〉に引き留めたのがエンデヴァーの瞳だった。
 
 瞳の美しさに魅了されました。僕は人の目を見ることが怖いのですが、そのくせ、瞳が好きで、たまりませんでした。綺麗な色をした目には強く惹かれます。でも、視線恐怖症の僕は相手の目をはっきり見ることができない。長い間ストレスでした。だから、……瞳を眺めていられるように、……手に入れようと思ったんです。僕にとって瞳は宝石でした。いくつも並べて、たまに手に取って、じっくり眺めて楽しみたい。そういうものだったんです。カットされていない原石。瞳はそういうものでした。
 
 これは実際の犯人の供述だ。メディアにも公表されていたから、当時は衝撃的なものだった。被害者の名と、宝石の名前を冠した箱の中に、摘出された瞳が入っている。その小箱を運び屋が全国で運んでいた。どの被害者も、確かに美しい目の持ち主だ。個性の影響で、日本人の目の色も多彩になった。中にはクリスタルに透き通った、本当に宝石のような瞳の持ち主もいた。
 
 瞳の美しさと、その人自身の容姿、性別は関係がないと思います。僕が、……僕を追うのが二人のヒーローだと知って、彼らの映像を見ているうちに、彼らの瞳にも惹かれてしまったように。僕は手を引くタイミングを見失いました。警察相手に、うまくチェイスしていたと思います。もっと早く引いていれば、僕は捕まらなかったでしょう。でも、欲が出てしまった。欲が出た方がギャンブルは負けますね。どうしても欲しくなった。ヘイゼル・ナッツみたいな、鷹と人間の間の目。ホークスの目は、表情のおかげでとても優しそうに見えるけれど、実際は違います。甘い目の色をしているのに、怖いほど鋭い。鷹の目が混じっているからです。エンデヴァーは、それとは逆。あれだけおっかないヒーローなので、ちゃんと目の色を意識した人は少ないのではないですか。炎の個性を持つ彼の瞳は、矛盾するほどに青いんです。アイス・ブルーの、永遠に溶けない青の洞窟の氷柱のような。びっくりしました。絶対に欲しいと思った……。僕のような貧弱な男に彼らを倒す力などないと分かっていても。どんな卑怯な手を使ってでも、なんとかその目をもらえないかと……。思ったんです。思ってしまった。だからやめられなかったんです。その結果が、これですよ。
 
 あの男。いけしゃあしゃあと、まるで朗読するかのように語った犯人の供述は、遺族への弔いや後悔の気持ちなど微塵もないもので、反発はものすごかった。犯人役の役者もかなりの腕だ。あの胸糞悪い供述の時の雰囲気を、目を見張るほど再現している。だからこそ胸糞が悪くなる。犯人の目の色は、濁ってどんよりと曇った空のような色だった。痩せた男が、べったりと油っぽい髪の間から、ちら、ちら、と目を上げる。
 物欲しそうな目。それがじっとこちらを見つめているシーンが、無音のまま、数分続く。居心地が悪くなるギリギリの時間まで大写しにした後、その男が見ている男の目に、ショットが切り替わる。
 アイス・ブルーの美しい目。正面で、犯人の喉笛に今にも掴みかからんばかりの形相のエンデヴァーが映る。彼は押し黙っているが、その目に徐々にカメラが寄っていく。
 未開の氷河地帯。薄く張った極東の海。
 
 最後に、犯人はこう言う。これも、実際に犯人が供述した言葉だ。
 
 ……大好き、って意味の言葉に、「目がない」ってあるでしょう。なぜ、目がない、なんでしょう。目が見えなくなるほどに、盲目的なまでに……という意味だそうですが、小さい頃から疑問でした。
 でも、目を手に入れて、ぽっかり空いた空洞が、僕に教えてくれたんです。
 これが「目がない」ってことなんだって。
 
 見終わった後の余韻はバカにならなかった。まるでもう一度、あの事件を一通り経験し直したかのようだった。最初は調子よく食べていたキャラメルポップコーンは、後半ほとんど手につけられずに、半分ほど残った。そのくせ、喉は乾いた。瓶コーラも、瓶烏龍茶も、とっくに二人とも空っぽになっていた。
「……NG事項、ありました?」
「いや。……徹底的に回避されていたな。監督の手腕が窺える」
「そうですよね。俺、結構辛めに見ましたけど、特にナシでした。……なんかムチャクチャ疲れました。いい映画ですね」
「……そうだな」
 エンデヴァーは腕組みして、フッと笑う。ホークスにとって、「疲れた」は映画への高い賛辞だ。それだけ映画の世界にのめり込み、没頭したからこそくる疲弊感。賛否あるだろうし、見ていて楽しい映画ではない。だからこそ心に刺さるのだ。何度も、「これは何年経っても忘れられないだろうな」というシーンが出てきた。自分が関わった事件だからこそ、深夜の駐車場で、エンストした車のタイヤ交換を申し出た犯人に、恐縮しながらありがたがる、最初の被害者の青年の死に無念が募った。福岡に住む、三十代の青年で、ちょうど結婚したばかりだった。
「体力を使ったからか、腹が減ったな」
「えっ、珍し。エンデヴァーさんが俺より先に腹減るなんて」
「別にお前を誘ってるわけじゃない。一人で食ってくる」
「いやいや! ちょっと! いじわるしないでくださいよ! 俺も行きますって!」
 ミニシアターを後にして、二人は夜の東京に這い出した。シアターを借りられる時間が、とうに終電もない時間帯で、二人は明日も仕事があった。この頃になると、一緒に宿をとることへのためらいもなくなっていた。何度も現場の仮設テントや仮眠室で一緒に雑魚寝した仲だ。今更宿を分けるのも変な話だ、と、シアターから歩いて帰ることができる範囲に一室、事務所経由で押さえてあった。
 仕事で来ているのだから、たとえナンバーワン、ツーと言えどお高いホテルに泊まるわけもなく、宿はマンションの一室だ。貸し部屋、という名目で、一軒家やログハウス、マンションの一室、またはペントハウスなんかを一泊いくらで貸し出すサービスも増えているらしい。貸し部屋サービスを取り行っている企業のうち、ヒーロー事務所と提携しているいくつかは、セーフ・ハウスとして事務所を通じ部屋を貸し出すところも多い。入り口を別に作っていたり、人の目のない場所にあったりと、ヒーロー側にもメリットが多いので、今回も彼らは貸し部屋を抑えてあった。
 貸し部屋、といっても、生活に必要なものは全て揃っている。やろうと思えば自炊もできる。が、流石に深夜に自炊は面倒だ。夜半の阿佐ヶ谷を彷徨う二人の男の前に、煌々と光を灯した一軒のラーメン屋が現れた。
 リサーチしていない地元の謎めいた店に入るのは嫌いじゃない。ホークスはそうやって、隠れた名店を見つけてきたのだ。だが、それはあくまで一人で入る時。店には当たり外れがあって、それがこういう、地元の連中しか知らないような立地の店なら尚更だ。失敗のリスクのない、自分の手札にある店を必ずエンデヴァーには紹介してた。
 だが、もうもてなす時期は終わったのだ。次に彼らを待つステップは、「一緒に失敗する」リスクのある冒険だ。夜風になびくのれんには、「いおり」と揮毫がされてある。ホークスはエンデヴァーを見、エンデヴァーはホークスを見た。エンデヴァーは好んでラーメンを食べる男ではなかったのに、その瞬間、彼らは「決めた」。
 のれんをくぐって、店内は由緒正しきラーメン屋である。ずらっと一列に並んだカウンター席。時間も時間で、平日の真っ只中だったから、店内には一人しか客がいなかった。一心不乱にラーメンを啜っていた客がチラと顔をあげ、ギョッとする。
「え、エンデヴァー!」
 初め、後ろにいたホークスが見えなかったのだろう。二人行けます? と顔を出したホークスを見て、彼はさらに驚いて、箸を取り落としてしまった。店主もびっくり顔で、どうも、まあ、お揃いで。と素っ頓狂なことを言った。
「すまんな。騒がせて」
「いやいや! そんな、滅相もない。光栄です。この辺で仕事ですか?」
「そんなところだ」
 店主は二人をカウンターの中央に通した。箸を落としていた会社員は、エンデヴァーとホークス両名を放心して見つめたのち、またものすごい勢いでラーメンを食べ始める。彼は二人が頼んだものが到着する前に、食べ終わって立ち上がり、去り際、大ファンです、とエンデヴァーへおずおずと言って、ホークスにも「応援してます」と会釈して、逃げ出すように出て行った。
「気を遣わせてしまったな」
「いやあ、あいつは常連なんで。それにしても良かった、あの男はあんたの大ファンでね。感激したことでしょう」
「ありがたいことだな」
 頼んだラーメンはすぐに来た。珍しい、牡蠣を使ったラーメンで、牡蠣塩そば、という名前にもう惹かれた。魚介スープはあっさりとしているが濃厚で、大将は気さくな男だった。エンデヴァーは牡蠣そばだけで十分のようだったが、ホークスは替え玉を頼んだし、チャーハンの代わりにこの店の名物でもある、アサリの炊き込みご飯を頼んだ。釜で炊いたこだわりの炊き込みご飯で、これ一品で別に店を持てそうである。
「美味かったです」
 たらふく食べたホークスと、満足そうなエンデヴァーに、大将は控えめに、サインなんかもらえるだろうか、と聞いてきた。平生のエンデヴァーなら断っていただろう。だが、ホークスが「もちろんです」と答える前に、エンデヴァーが先に答えた。こんなことは初めてだった。
「構わん。いい店への礼だ」
 一枚の台紙に、二人でサインを書いた。エンデヴァーの大きなサインの下に被さるように自己主張して、ホークスのサイン。牡蠣そばうますぎました、と一言添えたホークスと、多くは語らないエンデヴァーの、二人分一枚になったサイン色紙は店の一番目立つところに飾られた。思えば二人一緒にサインするのは初めてである。かなり希少なものになるだろう。
「めずらし。エンデヴァーさんが積極的にサインするなんて」
 店を出て、ウキウキとそう言ったホークスに、エンデヴァーは鼻を鳴らした。これがファンサだろう、と彼は自信がありそうだった。
 
 
 阿佐ヶ谷のミニシアターを出たあの日の夜のこと、瞳をコレクションするシリアルキラーの確保まで、雨に打たれて張り込んだカラオケボックスでのこと、……映画のパネルを見ると、それらの記憶が雪崩のように胸に押し寄せてくる。映画の公開が正式にリリースされた時の、世間の興奮は大きなものだった。連日ニュースを賑わせた凶悪事件であったし、何より、ホークスとエンデヴァーに焦点を当てた意欲作だ。「アイズ」はあと数日で公開されるが、初日の舞台挨拶は、発売開始数分で完売してしまった。舞台挨拶にはホークスとエンデヴァーも、ゲストとして登壇予定で、これは当日のサプライズになる。ホークスは東京での舞台挨拶のため、はるばる福岡から飛んできたところだった。懐かしい。もうあの事件から半年以上が経っているのか。これだけの映画を半年で制作した監督の早さにも舌を巻くが、公開されたティザーは国内で瞬く間に拡散され、「かなり重そうだけど絶対見たい」「演者さん、二人とも解釈一致すぎる」「ホークス役の演者さん、誰? 有名な人じゃないよね。でも、解像度高すぎ」「監督って前に重めの犯罪映画作ってた人じゃん」「心が死にそう……しんどい時には見れそうにない内容だ……誰か一緒に見ようよ〜」などなど、SNSを賑わせている。ヒーローを題材にした映画は今までもいくつかあるが、これほど実際の事件に深く切り込んだもので、しかもエンデヴァーとホークス、という題材は初めてだった。
 もうすぐ着きます、とエンデヴァーへ連絡を入れている。しばらく経ったがまだ返事はない。彼も移動中だろうし、返事は早くない人だ。ホークスはちょっと休憩がてらとまり木にしていたビルの屋上から飛び立って、晴れた空に翼を広げる。
 犯人に対して、思うことは色々とある。前向きにあの男を捉えようという気持ちは微塵もない。だが、ただ一つ同意できることがあった。
 あの人の目。
 とても美しい、青い洞窟だ。あの瞳に見つめられると、息が苦しくなってしまう。言葉がうまく出てこなくなり、言わなくていいことを口走りそうになる。
 あの目。あの目がホークスを見て、こちらへ無言の合図を送っていると感じることが、何度もある。そんなはずがない、と打ち消そうとしても、もしかしたら、という期待を消せないでいる。もしかしたら、もしかしたら。もしかしたら、エンデヴァーの方も、ホークスが抱いている気持ちに似たものを、ほんのちょっとでも、持ってくれているのではないか? あり得ないとわかっていても、そう期待してしまう。
 それが瞳の力だ。
 その力に魅せられた男は、最高裁まで争ったのち、正式に死刑が言い渡された。日本に死刑制度が敷かれてしばらく経ったが、比較的死刑の少ない日本での、数年ぶりの死刑囚となった。
 
 

 四、溶けていく春雪
 
 荒れ果てた、瓦礫だらけの地平線。ガタガタになった道路、ひび割れたコンクリート。この前までたくさんビルが立ち並んでいた街並みは、ほとんど崩れ落ちて、ずいぶん向こうまで見渡せた。国破れて山河あり。そんな言葉を思い出す。全てを壊し尽くして、巨悪はここを通り過ぎた。
 ホークスは瓦礫の山の上にしゃがみ、羽を休めていた。長く、高く飛びたいのに、今の彼は翼をもがれた幼鳥だ。翼はちょっとの休憩では完全に復活せず、常に枯渇して、貧困に喘いでいる。ホークスはその羽を酷使しながら、できるだけ高く飛ぼうともがいている。
 羽をもがれて地上に引きずり押された時、やっと地上の惨状が見えた気がした。ホークスが乗っているこの瓦礫の下にも、誰かが潰されているかもしれない。助けられる人数に限界がある自分の無力さを、責める気力さえ失せていた。
 デクを追いながら、ヒーローたちは敵の影に縋り、翻弄されている。本当に目的地が分かっているのはデクただ一人だろう。だが彼を信じると決めた。信じる心が道を作るのだ。信じなければ、いざという時、迷ってしまう。迷いは我々を木っ端微塵にするだろう。
 ヒーローに猜疑的な目が向けられた今、エンデヴァーも、ホークスも、世間に顔向けできぬ存在だ。彼らは揺れている。何を信じればいいのか分からなくなって、足場を失いそうになっている。それが敵の狙いと分かっているから、こちらは余計な言葉を尽くすわけにはいかない。言葉は迷いになる。成すこと、成したこと、それしか彼らに差し出されるものはない。
「大丈夫ですか」
 ホークスの言葉は、不自然なほど響いた。瓦礫だらけの無人の荒野に、声は意外にも遠くまで響く。ジーニストの姿がないので、ホークスは首を伸ばして遠くを見た。隣に座っていたエンデヴァーが、「ガソリンを掻っ払いに行った」と手短に説明した。
 ガソリンを掻っ払いに、なんて。およそヒーローの言葉ではない。だが、今となっては、ヒーローであるということに、「正しくある」ことに、たいした意味なんてないように思う。
 大丈夫か、とホークスに問われたエンデヴァーは、目の上にできた切り傷から流れる血を止めていた。ジーニストがくれたハンカチは、もうドス黒い色に染まっている。かなり深く切ったらしい。
 戦いで出来た傷ではない。市民につけられた傷だ。彼に向かって飛んできた瓦礫の塊を、彼は避けなかった。ホークスの羽根が完全だったら止められたのに。だが、エンデヴァーがそれを甘んじて受けたことも、ホークスは知っていた。エンデヴァーにコンクリートの破片をぶつけて、顔に怪我をさせたのは、まだ中学生ぐらいの少年だった。彼は怒り、口汚く罵る大人に混じって、勢いに任せて石を投げた。自分が彼に傷をつけたことに、少年はいっそ驚愕していた。ごめんなさい、と咄嗟に彼はそう口走った。エンデヴァーは何も言わなかった。
 消えてしまいそうだ。
 そんな風に、エンデヴァーに対して感じる日がくるなんて、まさか思ってはいなかった。長男の生存を知って、病室で男泣きしたあの日から、エンデヴァーは無理やり自分に鞭を打ち、奮い立たせ、なんとか立って戦っているが、ホークスには彼が目を離した隙にどこかへ飛んでいって、そのままいなくなってしまいそうな、消えかけた雪のように見えた。春が来る前の、コンクリートのふれればそのままスッとなくなってしまう雪。
 だから怖い。エンデヴァーの傷を、塞いでやれないことを分かっているから余計に怖い。これは自分で治療しなければならない傷だ。膿んだ生傷を自分で縫い合わせて、自分で痛みをなくしていくしか、向き合う方法もない。ホークスにはそれが、憎いほどにもどかしかった。
 血の止まらない傷口にハンカチを当てて、黙って座り込んでいるエンデヴァーに、ホークスは業をにやして彼の手を取った。エンデヴァーの手にはほとんど力がこもっていなかった。こんな手つきで血が止まるはずがない。ホークスは彼の前にしゃがみこんで、彼の目を覗き込んだ。
 久しぶりに、目が合った。そんな気がする。溶けてしまいそうな、季節はずれの春の雪のように、エンデヴァーの目は青く曇っていた。ぼうっと焦点を失っていた目が、だんだんホークスの方を向いた。
 こんな荒廃した場所で、こんな不安げな顔をして、黙ってじっとしているエンデヴァーを見る日がくるとも思っていなかった。ずっと憧れていた人の憔悴した姿は、ホークスの胸の中に煌々と灯っていた炎がどんどん消えていきそうな寂しい感覚を伴って、ホークスをも不安にさせた。小さくなっていく火種に覆い被さって、ホークスは叫んでいる。
 
 俺からこの火を奪わんでください。
 俺にはこれしかないんです。
 
 ホークスは、エンデヴァーの手からハンカチをもぎ取って、切れた目の上に当てた。優しく、トントンと当てて、流れてくる血を拭ってから、ぎゅっと傷口に当てる。しばらくこうやって力を入れていないと、血はいつまで経っても固まってくれない。止血の基本中の基本だ。エンデヴァーだって分かっているだろうに。
「痛いですか?」
「いや」
「じっとしててください。すぐ止まりますよ。あなたって体温高いから、血の巡りがいいんですよ」
 ホークスは悲しい顔を見せなかった。元気のない顔もしなかった。今のエンデヴァーの前では、いつでも、出会った頃の、飄々とふざけている自分でいたいと思った。ホークスもたくさん傷ついた。連合との戦いで、友になれるかもしれないと感じた男を、自分で始末せねばならなくなった。こんな危ない橋を渡る仕事をしたから、心が抉れるほどダメージを負うリスクだって、覚悟していたはずだった。敵地に潜伏し、普段通りにヘラヘラしている自分と、本当の自分が、どこか乖離しているように思えて、自分自身が二つに分裂してしまいそうだった。……そういう個性を持って、本当に分裂してしまったあの男が、もし自分の悩みを聞いてくれるいい先輩の立場だったら、今頃自分は彼に洗いざらい、本心をぶちまけて、愚痴を聞いてもらっていただろう。
 何もかもぶち壊しだ。
 世界も、何もかも。壊したのは誰だろう。ヴィランでもあり、ヒーローでもある。世間でもある。世間自体が、壊したのだ。
 ホークスの、止血していた手が震えていた。エンデヴァーはじっとホークスを見つめている。その目はずるい。その目は悲しい。その目は、……愛おしい。
「エンデヴァーさん、俺ね」
 ホークスは、今すぐ大声で泣き出して、怒り狂って、彼を追い詰める理不尽な(そして身勝手な)世間に憤る自分を解放して、暴れ出したい気持ちを必死に耐えていた。咆哮したい魂の奥深くの憤怒を誤魔化すために、ホークスは話し始める。あることないこと、話していれば気が紛れるだろうという算段だったのだ。
「……俺ね。前に、福岡に雪が降った日。ファンでいてくれてた子に、心無いこと言われて、実はめちゃくちゃ傷ついてました。自分で蒔いた種で、俺が傷つけた結果のしっぺ返しだったんですけどね。福岡から出てって! って……。俺にはその言葉がものすごく刺さって。俺にとって故郷でもあって、嫌な幼少期を過ごした場所でもあるけど、確かに故郷だったんです。でもそこに、俺にいて欲しくないと思う人がいる。一人でも。そう思ったら消えたくなりました。滅多にそんなこと思わないんすけど、あの日は何故かそう思ったんです。
 その時、たまたま偶然、エンデヴァーさんが電話してきてくれました。福岡の凍結は大丈夫か、って……。たったそれだけですよ。普通の、事務連絡みたいなもんです。なのに俺、福岡の空を飛びながら、泣きました。あなたが俺の、傷ついてることを知って、電話してきてくれたような気がして、たまらなくなったんです。優しい言葉があったわけでもないのに、エンデヴァーさんの声を聞いただけで、泣けました。
 エンデヴァーさん。
 信じられないかもしれないですけど、あなたの存在が、どうしようもなく助けになってるような人間もいるんです。万が一世間の過半数があなたを疎んでも、それに負けないくらいの熱量で、あなたのことを欲している人間だっているんです。俺はね、エンデヴァーさん。あなたを嫌いだっていう何百人、何千人、何万人にも負けないぐらい、あなたのことを好きだって自信がありますよ。あなたが俺を強くして、あなたがいるから俺がいる。
 あなたは俺の全てなんです」
 ぐず、と声が濁った。だめだ、と思った途端に決壊した。泣くつもりなんかなかったのに。みっともない、情けない、と思っても止められなかった。あんまり彼のことが好きで、どうしても彼のことを励ましたくて、彼を守ってやりたくて……。ホークスの色々な感情が、濁流になって、堰き止めていたダムを越えたのだ。
「あなたのことが好きなんです。大好きです。そんな言葉は軽いくらい。あなたの想像をはるかにこえて、です。俺はあなたのことになると、おかしくなります。あなたのことになると、……俺が俺でなくなるみたいに、ぐちゃぐちゃにされるんです。ずっと前から、……あなたのことを愛してました。深く、心から愛してました。こんなこと言って、困らせて、ごめんなさい。一生言うつもりなかったんです。……あはは。俺、なんでこんなこと言ってんすかね? 自分でもよく分かりませんけど……。
 あなたがいなくなったら、俺には、何にもなくなります。俺にとってあなたは、世界です。俺の世界が、〈世間〉なんて冷たいもんにメチャクチャにされて、踏み荒らされるなんて、俺、耐えられん……。すみません、こんなこと言って。これはヒーロー・ホークスじゃなくて、鷹見啓悟、あなたが捕らえた犯罪者の息子、鷹見啓悟個人の戯言だって、思ってくださいね。俺はね。エンデヴァーさん。あなたを傷つける世界が許せない。あなたがどんなにやりなおそうとしても、それさえ許さない世間を許せない。
 世間、って、なンすか?
 そんなに偉いんでしょうか。俺や、あなたの、何を知ってるんでしょうか? 俺や、あなたが、一体何をしたって言うんでしょうか? 俺はそんなふうに、ヒーロー失格な考えまで持ってしまうくらい、あなたが好きなんです。
 俺にはあなたしかいないんです。俺の世界。俺の全て。エンデヴァーさん。俺はあなたを愛してるんです」
 握りしめた手を、エンデヴァーは振り解きはしなかった。ボロボロ涙を流しているホークスの頬を、エンデヴァーの乾いた指が拭った。エンデヴァーはなんとも言い難い顔をして、ホークスを見つめていた。是とも、非とも、今は言えん。そういう顔をして、ホークスを静かに見つめていた。
「泣くな」
 あつい指の上で、ホークスの涙がじゅうっと消える。ポタ、とエンデヴァーの切り傷から血が流れた。ホークスはそこへさらに強く、ハンカチを押し当てた。
「お前は笑っている方がいい」
 エンデヴァーはそう言った。そう言う彼の声も、震えていた。ホークスが何か言う前に、重たいガソリンの詰まったポリタンクを抱えたジーニストが、ゆっくり近づいてきた。彼らが何やら大事な話をしていることを察知して、ゆっくりゆっくり、歩いてきたに違いない。
「ホークス。どうした、何を泣いている? ……そうか。察するに、エンデヴァーが泣かせたのだな」
「ああ。俺が泣かせた」
 ホークスに二の句を継がせず、エンデヴァーがそう返した。ホークスは笑い泣きで、涙を止めようとしたが、また溢れ出す。声が震えて、何も言えない。
「ひどい男だ。かわいそうに」
 ジーニストは、よっこいしょ、とポリタンクを瓦礫の上に置いて、もう一枚のハンカチをホークスに差し出した。スンマセン、と素直に受け取る。
「…………まったくだ」
 エンデヴァーも苦々しく笑う。力無い笑いだが、笑顔が見えただけ、ずいぶん良かった。瓦礫の向こうに朝日がうっすらと登っていて、壊れた街に新しい朝が来ようとしていた。白んだ光を見て、三人は目を細める。
 
 世界が壊れても、朝はなぜか真新しい。
 
 
 
 
 ―それは世間が、ゆるさない。
 世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?
 ―そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ。
 世間じゃない。あなたでしょう?
 ―いまに世間から葬られる。
 世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?
      (太宰治『人間失格』より)
 
 

 五、この涙は知らない
 
   (一)ネモフィラの萎縮
 
 話したいことがある、と手短に呼び出されて、一体何の話をされるんだろう、とあれこれ予想して、緊張気味に落ち合った。もしかしたら俺が隠しているあんな気持ちやこんな行動が全部バレてしまったのではないか? と道中気もそぞろで、ホークスは二度も電柱にぶつかりかけた。
「離婚することになった」
 ……だから、酒を二杯飲んだ後に、エンデヴァーがポロッと言った一言に、ホークスはすぐには反応できず、思わず焼酎に咽せて咳き込んでいた。
「おい、大丈夫か」
「ッゴホッ! ……ちょっと、古典的な反応させないでくださいよ……!」
 器官に入って、むせかえる。エンデヴァーは呆れた顔でおしぼりを差し出してきた。ホークスはそれで口元を拭い、説明を求めてエンデヴァーを見た。
「離婚、って言いました?」
「ああ」
「……それってあの離婚ですかね」
「他にリコン、があるのか知らんが」
 咳き込みながら、店の者に水を一杯頼む。大事な話だというので、静岡にエンデヴァーが店を取っていてくれていた。エンデヴァーへの配慮として、店に一つしかない完全個室の席に通されていて、彼らの会話は外に漏れることはないだろう。
 水を一口のみ、少し落ち着いた。一気に酔いが回った気がする。顔が熱い。心臓がバクバク波打っていた。
「なんでですか?」
 ホークスは単刀直入に、そう聞いた。平和、と言い切るにはまだ早く、復興もこれからという荒れ果てた国土だが、エンデヴァーの馴染みの店が営業を再開する程度には元気になっている。AFOとの戦いを終え、もう二年経っていた。
 エンデヴァーの末の息子がプロとしてデビューして、はや一年。まだまだ新米だが、ベテラン顔負けの活躍を見せている。あの戦いを経験した当時の学生たちの世代を、世間は「超新星」と言って期待の目を向けていた。プロ側から見ても、彼らの眼差し、面構えは、普通の新米ヒーローとは一線を画していた。エンデヴァーへの非難の目がなくなったわけではない。だが、彼が過去の行いを心から悔いていること、末息子がエンデヴァーに続いたように、家族もまた徐々に彼を理解しようとしていることを、世間も感じて、批判は少しずつだが緩和されていっていた。家族との関わりも、エンデヴァーやショートを見ている限り、ずいぶん普通の家らしくなった、そう思って安心していたのだ。
 大戦中に自分がうっかり言ってしまった情けない愛の告白は、忘れていてくれたらいいな、と願っていた。すっかり忘却するということはなくても、エンデヴァーは無かったことにしてくれているように見える。このまま普通の日常に戻っていって、ホークスは秘めた愛情にどうにか蹴りをつける努力をしよう……、そう、覚悟を決めて長かったのだ。
 なぜ今? 理解が追いつかない。
「なぜと言われても。そう決めたんだから、ただそれだけだ」
「だ、だって、エンデヴァーさん、奥さんと最近ちょくちょくデートしてたでしょ」
「おい、なぜ知ってる」
「ア、見聞が広いもんで……」
 慌てて口を閉ざしたホークスに、エンデヴァーは訝しい顔をしたが、大きくため息をついて、語り始めた。
「冷と話をする機会を設けよう、と決めただけだ。お互いに、お互いのことを、結婚して二十年以上経つのに、知らなすぎた。俺は冷の好きなものは花一輪の名くらいしか知らん。二人であちこち行こうということになった。俺もショートが事務所を継いでくれたおかげで、暇を作りやすくなったからな」
 ホークスも、知っている。彼ら夫婦が最近よく一緒に出かけていることを。エンデヴァー不在の際に事務所に立ち寄って、今日は母と出かけてますよ、とショートに言われた時、えーっ、本当に? デート? と驚いたのだ。ショートは誰かにこの不満を言いたかったようで、こんな写真を母が送ってくる、とホークスに見せた。ネモフィラ畑で冷が笑っている写真だった。ショートは「俺の方がうまく撮れんのに」とよくわからないポイントで妬いていた。その写真は、父が撮ったのだろう、端っこにでかい指が入っていたり、画角がおかしかったりする。一枚は二人の写真だった。どうやら車田の運転で連れていってもらっているらしく、車田に撮ってもらったのだろう、腕組みをして威圧的なエンデヴァーに、可憐な青いネモフィラが全然似合っていなかった。
「うわーっ、この写真欲しい」
「マジですか? 親父の? ……変わってますね、ホークス」
「変わってないって! 欲しいでしょ、これは……。見てよエンデヴァーさんのこの顔。ネモフィラが萎縮してら」
「後で送っときますよ」
「マジで⁈ やった! 言ってみるもんだ!」
 写真の中の二人は、ホークスが傷つくほどにお似合いだった。儚い春の残雪みたいな轟冷と、大きな火柱みたいな轟炎司。微笑ましい光景だったろう。周囲で彼らを見ている人も写っている。みんな笑顔だった。ホークスだって、事情を知らない一般人だったら、微笑ましく思うだろう。こういう光景が、あちこちで目撃されているから、だんだん世間は彼らについてのうがった見方を緩めつつあったのだ。
 そんな中。離婚とは。世間にも衝撃を与えるに違いない。ホークスはポカンと口を開けていた。
「何度も二人で出かけて、互いのことを話し合った。冷も俺も、昔のことをきちんと話したし、思っていることを互いに打ち明けた。もっと前からこうしていればよかったとも思った。それくらい、……実りある時間だった。冷には強い意志が、俺には自分の意志より家族の意思を尊重したいという譲歩が、芽生えつつあった」
「その流れで、なんで……」
「お前は俺に離婚してほしくない、ということか? 違うだろう?」
 エンデヴァーは咎めるようにそう言って、ホークスを見た。ホークスの背筋にぞくっと寒気が走る。彼はホークスの告白を忘れてなんかいないし、無かったことになんかしていないことを、はっきり理解させられた。エンデヴァーはホークスが口走った、涙まじりの愛してますを、深く胸に刻んで、長く咀嚼して、理解したのだ。だからこんな目をするのだ。
「……冷の思いは、子供達にきちんと母親らしいことをしたい、ということ。冷は俺が、……子供を私物化する間、手をこまねいていたことを悔いていた。子供を横取りして逃げ出すことくらいできたはずだ、と自分を責めていた。冷は子供達といたいと言った」
 エンデヴァーは腕組みをし、目を伏せたまま、淡々と語り続ける。実際にそういう言葉が、二人の間で交わされたのだろう。ホークスが隠し持っている、彼ら夫婦のネモフィラ畑での一枚が、急に意味を持って迫ってくるようだった。
「冷は、やり直すには父親も参加するべきだ、と最初は言っていた。だが、俺はそうは思わない。冷は結局、家庭内に俺がいたから、母親らしくあることができなかった。俺がいかに変わろうとも、常に家族の中に過去の記憶はちらつくだろう。俺は、冷とこうして二人の時間を作ることができて、話し合う時間を設けて、……夫婦らしい時間を過ごせたことに意味はあったと思う。最後にそうして別れることで、互いを憎からず思っていたことを、確認できたと思う。俺たちは遅すぎた。俺は俺自身に許しを与えることは一生できない。息子たちが俺を許さない以上に、俺は俺を許せない。
 冷も冬美も、ある意味で俺に優しすぎるのだ。俺は家から外れるべきだ、と言った。家族が離散するのではない。俺が、俺こそが、家族の輪から抜けるべきだと」
 ホークスは黙っていた。そんなのって、と言葉が出そうになって、飲み込んだ。何に怒っているのか、何に悲しんでいるのか分からないけれど、悲しくて、怒りが湧いた。
「無論、夫婦で決めたとて、子供の意見を無視するわけにはいかん。子供も話し合いに参加すべきだから、それはこれからだ。家族で出かける機会を設けるか、食事の席を設けるか……。ショートは今や俺より忙しいからな。二人揃うとなると難しいが、時間は勝手に生まれてくるのではなく、作るものだ」
「あ、いっすねその言い回し。かっこいい」
「茶化すな」
 話がひと段落した間に、ちょうどよく食事が来た。エンデヴァーがよく知る大将が営む鍋料理屋で、そば打ちを得意とする大将が自ら打ったそばで作るシメも絶品だそうだ。鴨出しを使った、濃厚な鴨鍋。もう鍋を一緒につつけるほどの仲になった。
「……そこでだ。お前も来るか? 時間が合えば。家族旅行に」
「は?」
 掴みかけた椎茸がポロッとまた鍋の中に飛び込んだ。
「……俺の発案ではない。流石にそんな悪趣味なこと、俺が言い出せるわけがないだろう。冷がぜひお前を呼べというんだ。夏雄が恋人を連れてきたいと言っていて、ショートはショートで、デクが日本に戻ってくるかもしれないから、都合が合うならダイナマイトと一緒に呼びたいというし。現地集合で構わんから、食事だけでもどうだと言ってる。もうなんでもありだ。友達だろうが仕事仲間だろうが。人が多い方が父親と旅行している気まずさも紛れるだろうしな」
「そんな弱気なこと言わないでくださいよ。あなたらしくもない。家族で話し合いするんじゃないんですか?」
「知らん。記念すべき第一回目の旅行で、冷はしみったれた話をするより、家族の絆を深めることを優先しろと言ってる。友達を呼びまくってでもな」
 エンデヴァーは自嘲気味にそう言った。なんだか愚痴めいていて、気安さが滲んでいる。それもホークスには信じられない。ホークスは恐る恐る、一番気になっていることを聞いてみる。鍋はちょうどいい塩梅だが、こんな気持ちで食べられるはずがない。
「……冷、さんに、……言ったんですか? それとも、気づかれたんですか?」
「バカをいえ。言うわけがないだろう。だが、気づいているかどうかは、わからんとしか言えん。冷がこの前の旅行のときに……、俺に言った。まず俺は、人を愛することを学ぶべきだと。遅すぎることはないとも言われた。人を好きになって、心から、……自分が自分でなくなるほどに誰かに夢中になって、溺れてみなければ、見えないままのものもあると。そうすれば俺はもっと強くなると、冷はそう言った。そして、そんな風に愛情をそそげる相手は、自分ではないと。お互いに。そうも言った。それには、……俺も同感だった。冷は俺が思っているよりずっと聡い。もしかしたら気づいているのかもしれん。だが俺は当然、誰にも言わん。たとえ拷問されても言わんだろう。死ぬまで俺とお前だけの秘密だ。一生どこにも言うつもりはないし、言えるはずもない」
「…………え、エンデヴァー、さん」
 エンデヴァーが、ホークスの告白を、きちんと記憶して、その上で胸に秘めておくつもりだということが、はっきり彼の口から語られると、ホークスはなんとも言い難い、居心地の悪さを感じた。そんな人がいる中に、家族旅行に混ざれとは、なんて残酷なんだろう。目に見えて憔悴しているホークスに、エンデヴァーが大きく呆れたため息をついた。
「……貴様はその程度の覚悟で、俺にあんなことを言ったのか?」
 顔を上げた。……彼が言おうとしていることが、予想できなくて。エンデヴァーはまっすぐホークスを見つめている。かつて殺人鬼にも狙われた、その美しい青い目で。あの目は本当に綺麗だ。ホークスはそう思う。俺だって殺人鬼になってしまいそうだと。
「……貴様がやろうとしているのは、そういうことだぞ、鷹見啓悟。一生誰にも言えん、後ろめたい関係だ。世間はもちろん、近しい人間にも理解を求められない、倫理に反する関係だ。常にこうやって、悪意のない周囲からの好意に引け目を感じ、後ろめたく生きることになる。俺が古い人間だから、ではない。世間は、許さない。俺には妻と子供がいて、お互いに世間的に立場があり、例え俺が離縁したとしても、俺とお前の関係が明るみに出ようものなら、俺たちは信頼も立場も、全てを失うだろう。悍ましい光景だ、とさえ言っていい。かたや四十を超えた子持ちの、枯れかけたデカい男と、かたや二十すぐの、チャラチャラした若造だ。お前は俺の娘と同じ歳だぞ、ホークス。父親が自分と同じ歳の男と関係を持っていると知ったら? 愛し合っていると知ったら? どんな気持ちになる? 家庭に愛も注げなかった父親失格の男が、家庭そっちのけで、離婚するやいなや若い男に走るなど。考えてもみろ。……俺なら吐く。いや、俺でなくとも吐き気がするはずだ。親父として認めなくなるし、人間としての縁も切りたいと思うだろう。俺たちがやろうとしているのはそういうことだ」
「ちょ、ちょっと、待ってください」
 俺たちが、……って言いましたか。あなた。ホークスは目を見開いていた。エンデヴァーは説明が足りなすぎるのだ、いつだって。勝手に自分で決めて、勝手に突き進んでいく。そういうところを好きになったのだろうけれど、これはあまりに予想外すぎた。
「……もっと、根本的な確認をしていいでしょうか」
「……なんだ」
「俺は、……あなたに、あなたを好きで、前からずっと愛していて、あなたしか考えられないと言いました」
「言ったな。無様に泣きじゃくって」
「……言わんでくださいよ……。あなたは、俺のあの言葉を、受け入れるってことですか? 立場があって、奥さんと子供がいて、……そんなあなたが、俺を選んでくれる、ってことですか?」
「そう言ってるだろう。さっきから」
 何度も言わせるな、とエンデヴァーは半ば怒っているようにまで見えた。対して、ホークスは耳の奥がジーンと鳴って、信じられなくて、……またも泣きじゃくりそうだった。
 みるみる赤くなっていくホークスの顔を見て、エンデヴァーは眉をぴくりと上げた。
「おい、泣くなよ」
「泣きませんよ、もう……。でもね、エンデヴァーさん。あんた、俺を泣かしすぎです。いい加減にしてほしか。みっともない、俺ってば男のメンツ丸崩れですよ。ひどか人、好きになったよ、ほんとに……」
「…………」
 湯気で火照ったふりをして、涙をこっそり拭おうとしたホークスの頬へ、エンデヴァーの指が触れた。顔を上げる前に、ぐいっと親指で涙を拭われていた。
「……お前の言うとおりだ。本当にお前は、酷い男を好きになったな……」
 頬に触れた手を、ホークスが握りしめた。今度はエンデヴァーが鼻白み、手をびくりと反応させる番だった。エンデヴァーは分かっていない。ホークスがどんな獣を隠しているか。それなのに、そんな風に手を出したそっちが悪いのだ、とホークスは彼に八つ当たりすることにした。ずっとずっと秘めてきた、このまま葬り去るつもりだった気持ちに、火どころか、油まで注いだのは、正真正銘エンデヴァーだった。
「あんたが帰りたい言うても、俺帰せんけん、覚悟して。炎司さん」
 

   (二)
   
 自宅へ、今夜は泊まるという連絡を入れるエンデヴァーを隣に感じて、ゾクゾクッと興奮が迫り上がってきた。長い長い片思いに、終止符が打たれる日が来るなんて、思ってもいなかった。ホークスが取っていたホテルに、エンデヴァーと共にチェック・インする。幸い、フロントに交渉すると、急遽でも部屋を替えてくれた。ホークスがもともと確保していた部屋がダブルだったので、向こうが気を使って、ツーランクアップしたツインルームの空きを譲ってくれたのだ。気遣いに感謝しつつも、いや、ダブルでいいんです、実は、と内心ドギマギしていた。
 準備があるから先にシャワーを浴びておけ、と命じられ、準備のこと知ってるんですか? とまず最初にひと驚きあった。エンデヴァーは憤慨して、お前の望みを聞き入れるのだから、きちんと調べるだろう、当たり前だ馬鹿者、と激怒した。エンデヴァーの生真面目な性格がそんなところにまで発揮されるとは思っても見なかったので、ホークスは「準備手伝いたいです」などとも言い出せず(流石に変態プレイはまだ早すぎるだろうし)、命じられるがまま風呂に放り込まれた。
 ホークスがシャワーを浴び終えると、入れ替わり、エンデヴァーがシャワーを使う。そこでもおそらく、洗ったりほぐしたりとあるのだと思うが、当然鍵を閉められた(開けようとしてブチギレられた)。大人しくホークスは部屋で待っているしかない。テレビをつける気にもなれず、携帯も見ずに、ただ茫然と空中を見つめていた。
 男同士のセックスについて、予習はバッチリだ。もちろん。ホークスは初めてエンデヴァーでオナニーした夜以来、ずっと男のアナルセックスについては下調べをしてきた。一生使うことはないだろうが、オナニーを最大限高めるためでもあったし、結果的に今それが生きそうだから結果オーライだ。だが、女の子とエッチするのと違って、実際にやったことはない。うまくできるだろうか? エンデヴァーは、あれこれ説明しなくても、ホークスがエンデヴァーを抱きたいと思っていることは察してくれていて、どっちがトップ、どっちがボトムで揉めもしなかった。これも意外だった。
 パンツだけ履いた裸体を、ベッドの上に大の字に開いて、ホークスは天井の染みを数えている。普通のホテルなので、都会の景色を一望できる夜景は美しいが、変わったところのない普通の部屋だ。ラブホに連れ込むことも考えたが、最初のセックスで、宿もあるのにラブホになんて連れて行ったら、本気度を疑われかねないので我慢した。もしかしたらいつか使える日が来るかもしれない。その時に賭けて、今日はお預けだ。
 シャワーの音が止まって、ホークスはガバリと起き上がった。相手がシャワーを浴びている時間がもどかしくて、ソワソワベッドで待っているなんていう経験も、正真正銘これが初めてである。いつだって、セックスであっても、そつなくやってきた自信がある。なのに、相手がエンデヴァーとなると、どうも全然うまくいっている感覚がない。
 シャワーを終えたエンデヴァーが、ホテルの備え付けの、テロテロの白いガウンだけ羽織って、ホークスと同じく下着だけの姿で出てくると、ホークスは背筋をシャキッと伸ばして、トントンとベッドの横を叩いた。ここに座って、と言われたことを分かって、エンデヴァーは黙ってそこに座った。有無を言わさぬ感じでシャワーに入っていた彼だが、湯上がりだから、という言い訳では苦しすぎるくらい皮膚が赤くなっている。エンデヴァーも照れているのだ、と思うと、ふつふつ、興奮で茹だりそうになる。
 ピト、と足をくっつけて、ピタリと寄り添って座る。エンデヴァーはギョッとした。近い、と逃げようとしたが、ホークスは彼の腰に手を回して、逃げられないようにした。
「炎司さん」
 名前を呼ばれて、彼はごくりと喉を鳴らした。俺の名前、呼んで。無言のホークスの催促を、彼はちゃんと受け取ってくれた。
「……け、啓、悟」
「……照れますね、やっぱ」
 さっきのさっきまで、ちょっと仲の良い、歳の離れた同僚同士だったわけだ。照れくさいのはもちろんだった。その羞恥心も、彼らの興奮を煽った。これからこの男とセックスする。見知った、長いこと一緒にいた、この男とだ。互いの目に、互いの顔が映っていた。
「キスしてよかね?」
「……構わん」
 ざり、と炎司の首筋の後ろの、刈り上げの部分を指で撫でて、啓悟は目を伏せた。キスされる予感で、炎司は目を閉じた。驚いたことに、彼はキスなんてほとんどしたことがなかった。四人の子供がいる男なのに、彼はおよそ愛情を持ったスキンシップとは遠い男で、初めて奥さんとキスした初夜以降、一切誰ともキスなんてしてきたことはないらしかった。これは後で知ったことで、啓悟はよっぽど、誰ともキスせず貞操を守っておけばよかった、と悔やんだ。
 あつい舌。びっくりするほど、熱を持っている。想像の中で蹂躙した口よりずっと熱くて、ねっとりしていて、舌を絡めると驚いて引っ込めた。その舌を追って、さらに吸う。ぬろ、れろ、と口の中で舌を絡ませ、しつこいキスに炎司はほとんど引いていた。こんなキスする奴があるか、と啓悟の肩を掴む手が訴えていた。
(妄想でこのあっつい口まんこ、めちゃくちゃ犯しましたとか言ったら、炎司さん、死ぬほど怒るだろうな)
 ちゅ、ちゅ、と舌を吸いながら、啓悟はいたずら心を押さえつける。しばらくキスしていると、炎司の方も諦めたのか、それともとろけてきたのか、ン、ン、と小さく声を出していた。
「ん、……ぁ……」
(うわ、……今の声、エロ……)
 うっすら目を開いて、炎司の様子を観察する。彼は目を閉じて、悩ましく眉を寄せている。男と初めてするキスの味を、おっかなびっくり、なんとか味わって、受け入れている顔だ。嫌悪の表情でないことはわかる。啓悟だって、本当に炎司に勃つのかはぶっつけ本番だったが、そんなことは杞憂だった。もうパンッパンに膨らんで、ギンギンになったチンポが、パンツを押し上げて主張していた。早く若者のチンポをナンバーワンヒーローに叩き込んで、その味を教えてやれ、と体の奥に眠っていた鷹見啓悟という魔物が、ついに檻を破って現れた。
 手持ち無沙汰の炎司の片手を、自分の股間の上に誘導する。勃起していると分かって、炎司は驚いて目を開けた。くちびるを放し、啓悟も彼を見た。
「やばいでしょ」
 炎司は、ふう、ふう、と息を吐いて、黙っている。なんと言っていいのか、わからないのだろう。からかうほど余裕はなく、怒るほど驚愕しているわけではない。本当にこいつ、俺に勃つのか、と現実をなんとか理解しようとしている顔だった。案外健気で、それも響いた。
「……炎司さん。俺ね、あなたとこうなったらどんなにいいだろうって、何度も思いました。本当にこうなるとは、思ってませんでしたけど……。ほんとに、やばいんです。こんなになるくらい、俺、めちゃくちゃ興奮してるんですよ」
 炎司の手ごと握り込んで、勃起したチンポの形に沿って動かす。手でシコる時の動きだ。炎司はじっと、啓悟の手の動きを見ている。目つきがどんどん潤んでいて、啓悟は、もしかして、と空いている方の手を伸ばした。
 ガウンの合間から入り込んできた手を、炎司は掴んだが、引き剥がすことはしなかった。ごつ、と硬い感触が当たる。向こうもしっかり勃起している。啓悟はそれを触ったとき、またも泣きたくなるくらいには嬉しかった。自分とこうやってキスして、触り合っているうちに、彼も高まってきたのだ。セックスに楽しさを見出したことがない、と言い切る彼が。
「炎司さん、勃起してるじゃないですか」
「……い、言うな。俺も驚いてる」
「興奮してくれてるってことでしょ? ……マジ、嬉しいですよ。ていうか、炎司さんって自分でシコったりするんすか?」
「……ほぼ、ない……。必要がないからな……。そんな気分になることが少ない」
「マジすか。やっぱ忍耐力なんですかね。俺なんてしょっちゅう、ムラムラしてますよ」
 啓悟の欲情の矛先が自分に向いていることを知っているから、炎司はぼうっと赤くなった。見てみていいですか? と問われ、ああ、うん……、と曖昧に返事が返ってくる。啓悟は遠慮なく、下着のゴムを引っ掛けて、中からバカでかい炎司のイチモツを引っ張り出した。
 ブルッ、と跳ねるように、屹立したモノががっしり芯を持って反り返っている。でかい。こんなもの入れて、奥さんはずいぶん痛かっただろう、と同情するほどだった。
「わ、でっか……」
「み、見るな、そんなふうに……!」
「いや、これは見ますよ。すご……。本当はフェラチオしてあげたいんですけど、俺まだ下手くそなんで、今日は手で勘弁してください。初エッチで顎外れたらことなんで」
 輪っかの形にした指に、ぼってり張ったカリ首を通す。カリの先をこねこねして、ギュウッと強く絞ったり、優しく小刻みに擦ったり、緩急をつけてシゴいた。自分が好きな刺激だから、というだけだったが、炎司もお気に召したようで、太ももを振るわせ、うっ、うっ、と低く唸る。反応はすごくいい。歴戦のグロチンポ、という見た目なのに、処女みたいな反応だ。
「思ってたんですけど、炎司さんって、奥さんとどのくらいセックスしたんですか?」
「お、おい、っ……! 悪趣味な、ことを、ッ聞くな……!」
 はふ、はふ、と息が上がって、声の端々に色っぽい熱がこもっているせいで、怒っていても迫力がない。
「だって、……こんな、ちょっと擦っただけで素直に反応するって、相当してないでしょう。ズルムケだし血管浮いててチンポまでムキムキなのに、めちゃくちゃ敏感ですね」
「く、っ……そ………!」
 女の子とするときはこんなふうに下品に煽ったりしないんだけど。啓悟は内心ペロリと舌を出す。でも、煽って煽って、すけべな気持ちになってどんどん昂って、身も蓋もなく感じてしまう炎司がどうしても見たい。だから言葉を尽くして彼を責め立てて、彼が元々持っている、被虐心というか、ストイックなまでに自分に厳しいからこそある、生来のMっけみたいなものを、今こそセックスで解放してもらわなければ。
「教えてくださいよ。何発仕込んだんですか? このムッキムキで敏感なチンポで♡」
 彼の大きな体に手を回し、耳にくちびるを近づけて囁いた。ぺろ、と耳たぶを舐めたり噛んだりすると、ゾワゾワッと彼は身を捩る。しゅこっ、しゅこっ、とシゴく力を早めると、彼はいよいよ息を荒げて、啓悟の腕を力無く掴んだ。気を抜けば壁をぶち抜くくらい大きな声が出そうなのだろう。耐えている彼は頭が沸騰しそうなほどエッチだった。
(あ〜、やば、キンタマはち切れそ……)
 啓悟は自分も苦行に耐えながら、教えてくださいよお、と甘え、ゆるくシゴき続ける。炎司は観念して、ボソボソと答えた。
「よ、……四回だ」
「四回? ……四回⁉︎」
「な、何度も言うな……!」
「それって、一人につき四回、とかじゃないですよね? 全部で四回? お子さん四人仕込んで、四回? 百発百中で着床したってことですか? それっきり一回もやってない、ってことですか?」
「ッ! うるさい、下品なことを、……!」
「いや、やばすぎ……。そんなん俺、ブチこむ側なのに炎司さんのクッソ濃厚な精子で孕みそうですよ。雄汁優秀すぎません……? スナイパーなんすか?」
「ッ! ッう! ッ〜〜〜!」
 言っている間も、きゅっ、きゅっ、ときつくシゴく手は止めない。いよいよイキそうなようで、炎司は目をぎゅうっとしめて快感の波に耐えている。歯を食いしばり、悩ましいオスイキ我慢顔がエロすぎる。こんな顔、見られるなんて、役得で自分も死にそうだ。これで、お尻に挿れた時なんて、どんな顔をしてくれるんだろう?
「こんな優秀精子持ってんのに、俺と無駄打ちして、チンポ使わないのを選んでくれたんですよね、炎司さん……。俺、マジで、幸せで、死にそうです……」
「おまえが、……っ! おかしい、だけだ……!」
「そんなイカれた俺に付き合ってくれる、あなたもあなたですよ、酷い炎司さん」
 ほおら。もうイキタイでしょ? ね、腰浮いてますね、炎司さん。俺も、炎司さんが俺の手コキでイッてんの見たいです。ああ、そんな怖い顔してもダメですよ。俺、嫌がっても帰さんから、って言いましたよね? 俺ね、そんなやつなんです。炎司さん。俺も酷いやつなんです。炎司さんのこと、好きだって分かってたのに、見ないふりして、アソコがツルツルの女の子たちに突っ込んでセックスしてました。でもね、炎司さん……。あの子たちは、あなたと違って全身ツルツルで、どこもかしこも柔らかくて、白くて、壊れそうなくらい華奢で…………それなのに、あなたと今してることの、半分も興奮しませんでした。わ、デカくなった。興奮してます? イっていいですよ。俺にイキ顔見せて、炎司さん。恥ずかしくないですから。ね…………。
 
 激しい手の動きに合わせて、炎司の腰が無意識に動いてしまっている。どんどん声が高くなり、聞いたことのない甘い声が、……驚いたことに、炎司も甘え鳴きするのだ、と啓悟は知った……、部屋を満たしている。あっ、あっ、と小刻みに彼は喘ぎ、目で訴えた。年下の彼氏にあれこれ言われて辱められたせいで、彼は可哀想に、真っ赤になっていた。
 どぱあっ、と破裂するみたいに、啓悟の手から白濁が溢れ飛ぶ。手の中ではとてもおさまらない。かなり濃厚な、どろっとした精子だ。顔にまで飛んできたそれを、啓悟は指で取って、「ここまで飛びましたよ」と意地悪に見せびらかした。
「はあ……っ、ああ…………」
「炎司さん……。」
 潤んだ目をして、啓悟は彼の大きな体を押し倒した。もうだめ。限界。チンポがはち切れそうに主張して、目の前のこの腰にクる男に挿れさせろと大暴れしている。倒した彼の体の、片足を持ち上げて、アナルを丸見えになるようにする。炎司は足を閉じようとしたが、腕の力で抗った。
「隠さんで」
「ッ……だが、この体勢は……!」
「俺が全部見たいけん。……足、閉じたら、お尻の穴に舌突っ込んで中まで舐めるけんね」
 アナル舐め、と聞いて、それは流石にまだ恥ずかしいらしく、炎司は足の力を抜いた。大きな男のアナルにしては意外なくらい、ぎゅうっ! と慎ましくすぼんでいる。ぬくいローションを塗って、指先を窄まったそこへ、一本、ゆっくり入れていく。
「ああ、やば、括約筋すご……! 炎司さん、お尻力抜いて」
「っ、む、無理だ……っ!」
「大丈夫、怖くないけん、絶対気持ちよーなるよ」
 一度イッて、くったり芯を失っている炎司の立派なチンポをゆるくシゴき、どっしりとしたタマの裏を舐めはじめると、反射的にきゅっ! とアナルがしまって、それから緩んだ。緩んだすきに、ぬっ、と奥まで指を入れる。
「あ、ああっ、や、やめろ、そんなこと……ぉ……!」
 くっ、くっ、と指を折り曲げ、炎司のアナルの奥のいいところを探る。男のセックスは羞恥が快感をあげる要因になるという。恥ずかしければ恥ずかしいほど、オスのプライドを損ねられて、かえって興奮してしまうのだ。指でしつこいほどほぐして、さらに一本増やす。男のアナルは頑固で、覚えが悪いからこそ、可愛いものだ。じっくり仕込んで、覚えさせる。覚えが悪いぶん、アナルは従順だった。
 下半身はギンギンになっているのに、よく耐えたと思う。じっくり三本、指が慣れるまで我慢した。アナルセックスが痛くて、耐えてもらうようなことは絶対にしたくない。できれば、セックスはこんなに気持ちがいいものだったのか、と体に叩き込んで、夢中になって欲しいのだ。それには自分の欲を抑えなければいけない。相手の快感を最優先して。尽くすセックスは啓悟の得意分野だった。
 三本の指を引き抜いた後のアナルは、ぽっかり開いて、柔らかくなっている。もう十分、中に入れられそうな柔らかさだ。ああ、ああ……、と喘ぎ疲れてぐったりしている炎司に、啓悟はお伺いを立てるのも忘れなかった。
 ピト、と仰向けに倒れた炎司の太ももに、痛いほど勃起したチンポを押し付け、なぞる。
「炎司さん」
 炎司の目が、啓悟を見た。うっとり濡れた目は、何もかもを許してくれていた。
「……挿れますね」
 炎司は荒い呼吸を整えながら、大きく一つ、頷いた。来い。構わん。……彼がちゃんと声が出る状態だったらそう言っていただろう。こんな時でも男らしかあ、と啓悟は微笑んで、もう限界だった。
 好きな人と繋がる。
 これがそんなに嬉しいことだとは、知らなかった。
 きゅっ、と濡れそぼったアナルへ、カリ首の先へ押し込んでいく。最初は反発があったそこも、カリがグッと入ってしまうと、ずぽん、とすっぽりハマった。入った瞬間は、流石に「んぅっ!」と声を上げた炎司も、痛みに悶えたわけではないとわかる声をしていて、安心できた。
 中は想像したよりずっとずっと熱かった。熱くうねって、入ってきたチンポを熱烈に締め付け、凸凹した肉ひだで包み込んだ。そこをゴリゴリ擦ると、炎司がヒッ、と喉を締めて喘ぐせいもあって、頭の中がグラグラと真っ赤に沸騰した。
「ッう、あ………! っご、しまる……」
「ッあ、ああっ……! す、すぐ、動くな、……!」
「俺も、……ゆっくり、優しく、したいっすけど……っ、これ、無理そうです、……ッすぐ出そう、なんで、……ッ! ちょっと強めに、しますね……っ」
 宣言して、反論も許さず、啓悟は腰を強く打ち付けた。パンッ、パンッ、と尻に腰がぶつかる音がする。セックスしている時にしか響かない、いやらしい音だ。おおっ、おおっ、と炎司は吠えて、両手でシーツを引きちぎれるほどにぎった。
「ああっ、そんなとこ、握らんで、俺の背中、……っ、そう、そう、抱きしめて、ぎゅーってして、炎司さんっ」
「あっ、ああっ! ンォっ、あ、お、おおっ!」
「足、俺ん背中、絡まして、かーわい……」
 すき? 炎司さん。俺とエッチすんの、すき? ……甘えた声で、とろりと蕩けたうっとりした顔でそんなふうに尋ねられて、炎司の理性は溶け落ちて、消えていた。氷漬けにして隠していた炎司の心が、轟々と熱い啓悟の熱量、愛情、恋慕に火をつけられて、炎上している。無意識に背中に回してしがみついている手。足まで啓悟の腰に絡んで、放すまいとしている。セックスとは子作りのための手段にすぎず、単調にやるだけの義務だと思っていた。実際そうだったし、セックスに気持ちよさなんて感じたことはなかった。あるのはいつも強烈な寂寥感と後悔、嫌がる相手に種付けしているという漠然とした後味の悪い、嫌な思いばかりだった。
 自分のやり方が悪かったのだ。全部教えられた。体でだ。セックスは娯楽で、セックスは喜びだ。皮肉にも、自分の種を使わない、「無駄打ちセックス」でそれに気付かされたのだ。
 ぷつん、と理性の糸が切れる。理性を手放して、世界にお互いしかいないというくらい、我を忘れて乱れること。そうでなければいけない。結局、交尾している時なんて結局獣だ。獣であるという自覚をしたものだけが、極点まで登ることができる。
 
 すき?
 炎司さん。
 俺とエッチすんの、
 すき?
 
 尋ねられた言葉が、うわん、と頭の中にこだまする。すき。すき。すきだ。愛情を教えてくれた。これが愛だと教えてくれた。いつでもお前はそばにいた。いつでも支えていてくれた。俺が何者であっても、お前はそばにいようとしてくれた。炎司が口走ったそんな言葉に、啓悟はじっとり汗をかいた皮膚をテラテラ光らせて、涙に滲んだ目を細め、笑った。
 
 あのねえ。
 それは、俺のセリフですよ、
 炎司さん。
 
 たん、たん、たん、と腰振りが激しくなる。絶頂と捕まえようとしているのだ。二人分の声が混じり、どちらも言葉にならなくなる。あーっ、ううっ、いく、いく、いく、……! セックスが盛り上がってくると、獣の様相を帯びる二人は、徐々に子音を欠落させていく。あ、い、う、え、お。これらの音が空間を支配する。
 そういえば「愛」っていうのはどっちも母音だな、と啓悟はふと思った。
「あーっ、いく、いく、いく、炎司さんっ、いくっ」
「あっ、ああっ……! け、啓悟ッ、けいごッ、啓悟ぉっ、……俺も、お、俺もいく、いく、いく……!」
「ッそ、まじ、……炎司さん、……ッ! エロすぎ……っ、中で、たっぷり、出しますね……っ! しがみついて、俺に、ぎゅーって……!」
 言われるがまま、炎司は啓悟にしがみついた。二回り年下のくせに、啓悟がたまに見せる強引さが、炎司をどきりとさせ、興奮させた。だん、だん、だん、と激しい音で叩きつけられる振動が、脳みそをビリビリしびれさせ、突き抜けていく。
「啓悟っ……啓悟ぉ……っ!」
 声が枯れるまで呼んだ。
「教えてくれ、……俺に、教えて……」
 誰かを好きになること。夢中になること。溺れること。焦がれること。燃えるような恋の炎に身を投げること……。教えてくれ、とねだる大きな男に、年若い男は優しい笑顔を見せた。汗が滲む、獣くさい体でも、炎司が「笑っていた方がいい」と言った、あの楽観的で、ほころぶような笑みだった。
「俺にも教えて、炎司さん……。あなたのぜんぶ。……炎司さん……」
 どくっ! と腹の奥に叩きつけられる、温かい感触。自分もやってきた行為なのに、こんなふうなのか、と初めて意味を知ったように思った。どこにも結ばれないというのに、なぜかとても愛おしい。だから、寂しさもある。泳ぎ回る白い息吹が、炎司の中を満たす。父親だった男の体を書き換えて、チンポを受け入れられるようにされていく。だがそれがいい。背徳が炎司と啓悟を粉々にする。
 崩壊。
 初めてのセックスの感想は、それだった。壊れていく感覚。それが二人を虜にした。

「手慣れたものだ」
 やっと二人の体から、セックスのほてりが抜けてきて、暗くした部屋の中、ベッドに入って裸で抱き合っている時、炎司はポツンとそうこぼした。
「あれ? やきもちですか?」
「バカをいうな。感心してる。よく俺相手にあれだけ興奮できたなと」
「あのねえ。確証もないのに仕掛けたと思いますか? なんなら、念願叶ってこっちは泣きそうですよ」
「よく泣くやつだ。初めてでもないくせに」
「童貞だったら泣いていいんですか? 俺だってあなたに童貞捧げたかったですよ」
「捧げんでいい、そんなもの」
「ひどォ! 俺本気でそう思ってんですよ」
「……いらん。俺もやれんからな」
 そう言われて、なるほど確かにな。啓悟は納得して、彼の体に寄り添った。抱きしめても押しのけられない。それどころか、炎司は太い腕を啓悟の頭の下に敷いて、腕枕をしてくれた。俺がそれやりたいんすけど、と文句を言うと、お前がやると明日腕が上がらなくなるぞ、と正論でねじ伏せられた。髪を撫でる手があったかい。ふかふかのベッドが、薄暗い部屋が、優しく彼らを許してくれている気がする。午前三時。まもなく朝のその時間、隣でまもなく炎司の小さな寝息が聞こえてきた。
 啓悟は幸福で、とても寝ていられなかった。炎司の腕の中で甘えて、じっと彼の寝息を聞いていた。今、紛れもない自分が、彼の一番近くにいる、と思うと、たまらなかった。

   (幕)
 
 横殴りの雨が降っている。靴下の中までぐっしょに濡れて、重くなったジャケットはもう着ていられなくなった。小脇に抱え、ホークスは大慌てで、今にも墜落しかけながら、バサバサと小刻みに羽を動かした。重く水を吸った羽を無理に筋力で動かしているせいで、背中の付け根の部分が痛い。明日は酷く筋肉痛になっているだろう。
 逃げるように転がり込んだのは一軒家の二階だ。バルコニーの窓は空いている。中へ入ると、そこにはすでに一人の男が待っていた。
 バルコニーへ入るなり、ばふっ、とふかふかのタオルで顔から包まれた。おふっ、と思わず窒息しそうに息を吐く。ガシガシと強い手がホークスの髪の水滴を、タオルで拭った。
「ひどい濡れ鼠だ。それ以上入るな」
「濡れ鼠、っていうか、濡れ鳥ですね」
「フン。……どうだった?」
「この雨なので、あんまり遠くまでは行けませんでしたけど……。至って平和な夜ですね。明日には飛び立っていいでしょう」
 この一軒家は、市の自治体がヒーローのために確保しているセーフ・ハウスの一つである。ホークス、エンデヴァーが隠れ家として一夜使用する、という申し出に、自治体はむしろ感激さえしていた。この辺りで事件があったんですか、と不安そうに尋ねもされたが、彼らの答えは「否」だった。
 
 ホークス、エンデヴァーが、表舞台から姿を消して、しばらく経過した。エンデヴァーは五十を迎え、ホークスは二十代の終わりに差し掛かっている。エンデヴァー引退か、と囁かれたが、真実は違った。彼はまだまだ現役だ。人気絶頂から一転するも、大戦の後に再評価され、人気が戻りつつあったホークスの失踪も、世間に震撼をもたらした。彼らは事務所を後進へ譲り受け、完全に拠点から離れてしまったのだ。
 だが、彼らが何をしようとしているのか、世間はすぐに知ることになる。エンデヴァーは事務所を引き継いだ彼の末息子ショートに、ホークスは彼を師と仰ぎ、ホークスに引けを取らないスピードを出せるようになってきた愛弟子、ツクヨミに、理解を得た上での出奔だった。大戦中の「デク」から発想を得たと言ってもいいし、絶頂期のオールマイトの影を追っていると言ってもいい(こういうとエンデヴァーは心外そうにするが)。彼らは拠点を持たぬ、神出鬼没の流浪ヒーローとなったのだ。
 拠点を持つことで得られる平和はもちろんある。拠点を持たぬことで犯罪の抑止力がグンと上がるということもある。どこで見られているか分からない、どこにいるか分からないナンバーワン、ツーの流浪は、大戦後の復興の上に築かれた新しい安寧に、新たな犯罪の芽を出さぬためのストッパーになっている。
 提案したのはホークスだった。
 というか、ホークスは初め、一人でやろうと思っていた。事務所を譲り、流浪するヒーロー。飛び回っていたほうが性に合っていると、大戦中ずっと考えていた。決断し、事務所を後進へ譲って全国周遊しようと思って、と切り出したホークスに、エンデヴァーは思いもよらぬ返答をした。
 その旅に、同行しても構わないか、と。
 ホークスは耳を疑った。事務所はどうするんですか、と咄嗟にそう言った。エンデヴァーは「お前と同じように、ショートに正式に譲り渡せばいい。俺がいないほうが、ショートは自由にやれるだろう」とあっさりそう言った。
「もちろん無理にとは言わん。やっとお前は自由になれるのだから。一人の方が気楽だろうからな」
「無理になんて! あなた……エンデヴァーさん、本気で言ってるんですか? 俺をからかうためじゃないでしょうね?」
「俺がお前をからかったことがあるか?」
 いや、それはある。あるでしょ。とホークスは納得いかない顔をしたが、突然出来た旅の道連れに、自分が一番愛している人が来てくれるなんて、夢のように思った。
「というか、お前、連れ合いになんの相談もなく放浪する気でいたのか? プレイボーイだとメディアに騒がれただけあるな。酷いやつだ」
「ほら! そういうとこですよ、俺をからかって楽しんでるでしょう。変わりましたね、炎司さん」
「……お前が変えたんだ」
 エンデヴァーはもう、公人としての顔をしていない。鷹見啓悟に、特別に見せてくれる轟炎司個人の顔だ。啓悟はドキッとした。そっちこそよっぽど酷い人だ、相変わらず。そう思う。
「もちろん、あれこれ考えましたよ。拠点を持たずに放浪、っていうのは前からやりたかった俺のヒーローとしてのスタイルでした。これを機に後進に譲って、本腰入れようと思ったのがまず一つです。俺も新人とは言えない歴になってきましたし、公安の手を離れつつある。やりたいことをやっていいとも言われていますし。……でも、もちろん下心だってありました。拠点を持たなくなれば、あなたに会いに来やすくもなる。俺たち、恋人になっても、結局立場上前のままですから。ベッタリいちゃついてるわけにはいかないじゃないですか。でもそれで十分だったんです。たとえ遠距離でも、週一でデートできなくても、三日おきにセックスできなくても、それでよかったんです。あなたとこうなれただけで俺は幸せの絶頂ですから」
「ほう。欲のないことだな」
 炎司は気のない振りで受け流したが、ちょっと赤くなっている。照れくさいのはお互いいさまだ。
「でもね。炎司さん。あなたにそんなこと言われたら、俺、期待しますよ。もちろん本業が優先です。どれだけいい雰囲気でも、何かあれば急いでパンツ履いて外に飛び出さないといけない。それが俺たちの生業です。わかってます。でも、……俺の旅に、あなたがついてきてくれることで、四六時中俺たちは一緒にいられることになる。いつでも人目さえなければイチャつける。そうしていいぞ、ってあなたが言ってる、そう受け取っていいですよね、ってことです。俺が言いたいのは」
「若造の考えそうなことだ」
 炎司は、じんわり出汁を吸った鴨肉とネギを一緒に食った。くちびるに付着する鴨の濃厚な脂が色っぽい。啓悟も熱々の豆腐を口に入れる。豆腐の奥底までだしが染み込んでいて絶品だった。
「……だが、概ねそういう理解でいい」
 不貞腐れたみたいな言い方をする炎司のぶっきらぼうな返答に、ぼうっ、と顔が赤くなる。期待するなと言い聞かせ続けて、墓まで持ち込んで、自分と一緒に朽ちてなくなる恋だと思っていたから、余計にこんな気分になるのだ。大声で、こん人は俺のもんです! と叫びながら外を駆け回りたい。ワールドカップで日本が一位を取ってもこんな気分にはならないだろう。俺はこん人のもんになりました! と叫んで道頓堀から川にダイブしたい。二〇〇五年に優勝して以来まだリーグ一位を取っていないタイガースファンの熱狂に比肩するくらいの熱狂なのだ。それが絶対に許されない恋だから、余計狂おしい。そんな気持ちになったのは正真正銘、これが初めてで、この人が最後になる自信がある。それをちゃんと分かっているんですか、あなたは、と啓悟はいつも恨めしく思っていた。
「いつ発つつもりだ?」
「次の春には。急ですけど」
「……わかった。間に合わせる」
 手短に炎司はそう言った。キッパリとした断定が、彼の決意の揺るがなさを示している。どんな決断をしていても、彼は残りの人生を、啓悟のために費やしてくれる、その気持ちがあるのだと思う。
 たとえ地獄の業火で焼かれ続け、あらゆる不貞を責められ、祝福されぬ関係でも。どこまででも一緒に行ってやろう、それでお前が喜ぶなら。彼は静かに、態度でそう語って位てくれた。
「せいぜいお前について行かんとな。もう引退を考えてもいい歳だ。お前に遅れを取ったら俺も潮時だ」
「何言ってんですか、速さが自慢の、あなたより二回りも若い俺をコテンパンにしてそんなに楽しいですか? もー、厳しい人なんだから。悪いですけど一旦俺についてくるって決めたんですから、ちょっとやそっとじゃ放してあげませんからね」
「フン。望むところだ」
 シメの鴨だしで食べる蕎麦は、看板なだけあって絶品だった。蕎麦を啜って、たらふく食べて飲んだ後の温かい幸福感に包まれていた啓悟は、思わずこうこぼした。
「……なんか駆け落ちみたいですね」
 駆け落ち。世間を相手にした駆け落ちだ。二人は永遠にいなくなろうとしている。誰よりも自由に、誰よりも不自由な二人の逃亡だ。
「違うのか」
 炎司はこれまた大真面目にそういった。どうやら、彼は本気で、若い恋人の駆け落ち計画にノッた、と思っているようだった。そういうところが、昔から、罪深い人だった。
 
 
 あれから季節がぐるっと回った。ヒーローエンデヴァー、ヒーローホークスが表舞台から姿を消し、所在を明かさぬヒーローとなったことに、世間ももう慣れてきたところだ。気楽に会えなくなった、とホークスなんかは若い女の子のファンに残念がられたりしたが、今は今で、ネット掲示板に「目撃情報共有スレ」なんかが立ったりして、かえって熱心な追っかけが多くなったくらいだ。その分、神出鬼没の意味がないので、ホークスとエンデヴァーもより慎重になり、両者の元事務所も協力して、ネット上に偽情報をあえて拡散したり、デコイを放ったりと、撹乱に余念はない。
 自由でもあるし、不自由でもある。まるで逃亡生活だったが、それもホークスの心を楽しく、くすぐっていた。大事なものを抱えて、世間から逃げたのだ。彼を捉えているすべてのものから、彼を奪って逃げたのだ。
 エンデヴァー。未だ苛烈に燃え続ける炎。彼が姿を消したことで、余計に彼はダークヒーローっぽくなった。表舞台からホークスを連れ去った、とさえ言われている。本当は逆なのだが、エンデヴァーがホークスの魂を虜にしたから、彼と一緒にホークスは消えた、と見る目が多いようである。それもホークスを喜ばせた。間違っちゃいないし、ホークスの魂を虜にした、というメディアの表現が、珍しくホークスの気に入ったのだ。
 同じところに二日は留まらない。それが基本スタンスだ。全国的なチームアップには参加するし、要請にはフットワーク軽く答える。だが、幸いまだそこまで規模の大きな事件は起きていないので、気ままな旅が続いていた。各地にあるヒーロー事務所と連携し、セーフハウスや宿泊施設を点々として、時には野宿もする。意外と、サバイバルもいいもんだ。休みを取るのも自由。一度は佐渡島の近くにある無人島で一週間ほどバケーションして、たっぷり英気をやしなった。何がいいって、無人島のセックスは場所を問わない。大自然の中で素っ裸になるのは癖になる快感だった。これはもちろんオフレコ。
 今は、北関東から徐々に東京へ近づいていっている。東京へ入ると忙しくなるだろう。そこから今度は南へ。静岡に寄って、エンデヴァーは家族に顔を合わせる予定だった。ホークスもぜひ、と請われたが、ホークスは断った。一家の大黒柱だった男とめちゃくちゃにしている自分が、一体どんな顔して家族に会って、ヘラヘラ笑っていられようかと思ったのだ。エンデヴァーは、呆れるどころか、笑っていた。ほらな、という反応で。
「言ったろう。一生こうだぞ、俺たちは。家族には永久に後ろめたい気持ちでいることになる」
「いやあ、ほんといい性格してますよ、炎司さん」
「お前も大概だ」
 そんなことを言って笑い合う。今夜は豪雨で、あのエンデヴァーが、自分のズブ濡れの体をタオルで拭ってくれている。これが「罪」というなら、ホークスは甘んじてこの罪を受け入れるだろう。エンデヴァーより重いものなど、この世にはない。ホークスの中の天秤の片方に、エンデヴァーが乗った段階で、もう片方に何を乗せたって、一生釣り合わないことは前から理解ができていた。
 大雨の街を見回って、今日の仕事は終わりだ。空をいくホークスに合わせて、エンデヴァーは出立前に、背中に背負う形のジェットパックを製作してもらっていた。これがまあ、格好いい。ボタン一つで鋼の翼のように広がる骨組みに、エンデヴァーが炎を灯して、本当に彼の背中から炎の翼が生えているように見えるのだ。熱の力を動力にして、燃料も彼の炎だ。腰につけた小型のエンジンは極限まで軽量化されたものだが、ホークスの飛距離、速度についてこられるもので、ついにエンデヴァーまで空をモノにした。流石に、生来の個性であるホークスと変わらないくらいに、とは言えないが、これが放浪の旅をより快適なものにしたと言える。
 空を飛ぶのは寒かった。自由だが、凍えるほどの冷たい風が、ホークスの体を冷やす。だが、今は隣に炎を纏う大きな鳥が飛んでいる。彼が隣で炎を焚いているおかげで、ホークスはすっかり快適な空の旅を楽しんでいた。ただし、真夏の暑さはより地獄になった。それはお互い様のことで、エンデヴァーが茹だってしまわないように、二羽の鳥は夏場は夜に飛び回ることに決めている。
 
 エンデヴァーはこれを罪だと言う。だがホークスはそうは思わない。誰にも言えない恋であっても、尊い恋はあるはずだ。
 彼が進むのをやめるその時まで、……いや、もう彼がそれ以上進めなくなっても、ホークスは彼のそばにいるだろう。止まるのも、進むのも、一緒だ。添い遂げる、とは、そういうことなのだ。
 
 エンデヴァーもまだヒーロースーツを着たままで待っていた。ジェットパックは外しているが、彼もさっきまで雨に濡れていた名残を残している。本降りになる前に拠点に一度戻って、寝る前のパトロールをどっちがやるか、じゃんけんで決めた。炎の個性は雨に弱いし、羽の個性も雨にはやられっぱなしだ。両者一歩も譲らずで、結局ホークスが負け、外に蹴り出されていた。
 じゃんけんに勝ったからといって、すぐにスーツを脱いで風呂に入らないところはエンデヴァーらしい。万が一のことがあった場合は飛び出せるおように、なんだかんだ待機姿勢をとっていてくれた。大抵のことはホークス一人で片付けられると分かっていてもだ。
「風呂はどうする。沸かしたが」
「あ〜、ありがたいっすね。すぐにでも入りたいです、けど……」
「けど?」
「ちょっとムラムラしてるかも」
 タオルで拭かれながら、濡れたジャケットを部屋干しして、泥で汚れた靴をベランダの軒下に新聞紙を敷いて置く。同時にあれこれ忙しく赤い羽根が部屋を飛び回っているが、本体はひっしとエンデヴァーの体にしがみついて甘えていた。
「ちょっと?」
 エンデヴァーは眉をぴくんと吊り上げる。彼のぬくい手が、ホークスの膨らんだ下腹部に触れて、優しく揉んだ。もう芯を持っている。とても「ちょっとムラムラ」なんて感じではない。「かなりムラムラ」の領域に入る硬さだ。
「おあ、積極的っすね」
「……ふん。こんなもんを太ももに押し当てられてはな」
「前の拠点ではしなかったですもんね。一週間ぶり? 俺にして我慢した方かも。炎司さんも」
「お前がサカりすぎだ」
「若いんで許してください」
「フン」
 ヒーロースーツのままの彼の体に手を回して、後ろのファスナーを下ろす。この下にそのまま裸体がねじ込まれているなんて、あまりにエッチだ! エンデヴァーが、轟炎司に変わる瞬間。炎司はヒーロースーツを全部脱ごうしたが、啓悟が止めた。
「お願い、炎司さん、そのままで」
「好きだな、……お前は」
 啓悟に、ヒーロースーツを着たまま求められることも、もう炎司は慣れていた。
 壁に手をつかせ、大きな尻を支えるようにして持つ。ぐずぐずに濡れたアナルの中は、しばらくほぐしていると準備万端になるスケベな名器だ。何度もハメまくったおかげで、ヒーロースーツの下に秘められている炎司のアナルは、もっこり肉が盛り上がって、縦に割れていた。
 雨で奪われた体温が戻ってくる。縦に割れて立派な雄マンコになろうとも、締め付けはずっとキツキツだ。広げた入口へ、たぎった若いチンポが無遠慮に入ってこようとするのを、叱りつけるようにして押し戻す。それに抗って、ぐ、ぐ、ぐ、……と奥へ入っていくと、観念した厳格なアナルが、ずるんっ、と一気に侵入を許す。
 どちゅっ! と奥まで挿入を許してしまって、炎司は弱いところまで一気に貫かれ、「んおっ」と悲鳴をあげた。
「あ〜♡ あったかあ♡ 炎司さんの中、めちゃくちゃ濡れてて、ぬくいです」
「ッんっ、……んぉ……お……!」
 とんっ、とんっ、と甘く小突かれて、炎司はそれどころではなかった。チンポが抜かれるたび、アナルがちゅうちゅう吸い付いて、また押し込まれるとキュンッと収縮する。肉のひだをゾリゾリ刺激しながら出し入れされるチンポの感触に、背骨がビリビリ振動している。一体自分はどうやってセックスしていたのか、炎司はもう思い出せなくなっていた。少なくとも、こんなに感じるセックスはしてやれなかったはずだ。
「け、啓悟っ、……頼む……!」
「なんですか?」
「も、もっと、強く……!」
「あはは。たまんなくなっちゃいました? 炎司さんのすけべ」
 背中をツウッとなぞる舌。若い男の温かさが伝わってくる。ピタピタのヒーロースーツの脇腹の辺りから、腹の部分へ、恋人の手がスーツの中に押し入って入ってくる。ビクッ、ビクッ、とその度に体が震えた。
「欲しかったら、炎司さん、腰振ってごらん。俺の、あなたのもんですから。好きに腰振って。炎司さん、腰振り上手でしょ」
 言葉でいじめられて、恥ずかしい思いをさせられるのは毎度のことだ。だが、なぜ啓悟がそうするか、炎司には分かっていた。周知で爆発して、理性を手放して、ぶっ飛んでしまった方がセックスは楽しく、何もかも忘れられる。この男を愛して、愛されてしまった罪について、自分を責めないで済む。正気に戻らず楽しんで欲しいから、啓悟は徹底的なまでに言葉で炎司を攻め立てる。世間から目を逸らさせるように。
 動いてくれない意地悪な恋人に痺れを切らして、炎司は腰を自ら動かし、アナルにつきささっている恋人のチンポを奥へ当てようと腰を振った。コツン、コツン、と控えめにぶつかる、弾けるような元気な若いチンポが、ぐっ、と上を向いて、ちょうどいいところにあたるのだ。こり、こり、とやや曲がっているチンポが、右のコリコリを潰して脳が痺れるくらいの快感をくれる。こんな歳になって、こんなことを覚えるとは思わなかった。けれど、後悔はない。後ろめたさはあれど、こうなったことへの後悔はしないと決めていた。
「あー……エロすぎ、炎司さんの腰振り……そんな欲しかったですか?」
「……っ! お前、だって……! こんなにっ……! おったてて、いるくせに……!」
「もちろん、俺だって、欲しかったですよ。死ぬほどヤりたかった。昨日なんてチャンスあったじゃないですか。でも流石に昨日は疲れてるかと思って、我慢したんです。ね、俺、我慢してるんです、炎司さん。偉いでしょ?」
「……っ、一日、程度の、我慢だろう……」
「そんなあ。甘やかしてくださいよ」
 不意に腰を両手で掴まれ、ごつんっ! と奥まで叩かれた。ばちんっ! と目の奥で星が飛ぶ衝撃だ。そのまま、若者は駆けるように、容赦なくガツガツと腰を打ちつける。啓悟はセックス慣れしていて、焦らす余裕も持っている男だが、こうやって、「もう我慢ならん」という場面で、若者らしくガツガツ腰を振ってくることがある。体力は炎司も負けていないが、復活が早く、若い啓悟の回復力に押し負けて、炎司はいつも「もう許してくれ」と懇願するまで抱かれた。啓悟は、セックスに慣れて、飽き飽きするほど美人としてきた男なのに、オナニーを覚えたての少年のように際限なく求めた。それが、炎司には愛おしかった。
 愛おしい。
 前が見えなくなるほど、強くて危険な感情だ。身を焦がす炎。それがあるとしたら、恋だ。愛情だ。この気持ちをもっと早く知っていたら、人生は変わっていただろうか? と思う傍で、今知ることができてよかった、とも炎司は思う。こんな気持ちを知らずにここまで生きてきた、哀れな男へ、神が遣わした天使がこの羽を持った男なのかもしれない、と思ったが、天使、というには彼は獰猛すぎていた。
 羽を大きく広げるのは、求愛の行動だ。セックスしている時、啓悟は必ずそうする。部屋がいっぱいになるまで羽を広げ、バサバサと羽ばたく。この男は俺のものだと主張するように。
 穿つ熱。叩きつける熱。二人分の叫びが、唸りが、部屋の温度を上げていく。外は暴風と雨で、コンクリートの地面をうつ雨の音が凶暴だった。
 
 列島に雨が降る。豪雨の一歩手前の激しい雨だ。最後まで粘っていた一軒家の明かりが、ぷつん、と電池が切れたように消えると、街に真の静寂が敷かれ、雨の音だけが残った。
 
 
   〈了〉