どこまでも続くねむたいハイウェイ

※2017年発行の轟飯同人誌の再掲です
※学生轟飯→大人轟飯のドライブデートのお話

1.ハイウェイはどこまで続く?

   (1)

 飯田天哉は遅れてやってくるらしい。兄の見舞いがあるから、ということだった。轟焦凍はその日珍しく、母の見舞いがなかった。轟と飯田はよく、家庭の事情でクラスメイトたちの集まりに遅刻したり、下手をすれば一日交ざることができなかったりしたが、雄英高校一年A組の中には、それを理由に彼らを「付き合いが悪い」などと言ったりする人間はいなかった。……少なくとも本気で「付き合いが悪い」と考えるような人間はいなかった。

 月に一度、飯田は兄の見舞いに行く。轟は、実家から電車とバスを乗り継いで一時間で母の見舞いに行くことができるが、飯田はそうは行かない。雄英の最寄り駅から静岡駅へ行き、そこから新幹線に乗り、東京駅でJR中央線八王子方面に乗り換え、さらに三十分。ゆうにたっぷり三時間と少しかけて兄へ会いに行くのだ。新幹線代もバカにならない。一日兄のそばにいて、朝一番に出ても帰ってくるころにはとっぷり日が暮れている。飯田の見舞いは月に一度の大仕事だった。
 轟が通う病院は、小高い山の中腹にある。バスが一本通っているばかりの、寂しい小路を抜けた先だ。一番近い民家まで歩いて十五分ほどかかり、その病院に向かっている人以外は、のぼる人のいない忘れられた場所だった。真っ白い壁に、鳥の絵が描かれていて、窓には白く塗られた鉄格子がはめられている。大きな中庭があり、患者が「外に出る」というとたいていこの中庭に出ることを意味している。轟は、けれど、ここに来てからは、この場所を牢獄のようには思わなくなった。
 母を見舞うということから長い間逃げていた。正面から対峙してはいけないものだとも考えていた。轟にとって、母という存在そのものがタブーに近いものだった。轟焦凍に母はいない。たった五つを超えたころから、轟はそう思い込むようになった。だから、ぼんやりとイメージする「母の病院」とは、轟にとってほとんど牢獄に近いものだったのだ。

 よく陽のあたる、吹き抜けを見下ろすと、中庭の菜園がよく見える。母は比較的軽度な精神疾患をかかえる患者たちと、まるではじめからそこで暮らしていたかのような自然さで、静かに毎日を送っていた。母は日中のほとんどを、窓から外を眺めるか、ベッドに横たわって過ごすのだが、こうやって、たまに患者の気持ちを明るくするために、院内でオリエンテーションが実施されている。今日は中庭の菜園でラディッシュを採集するのだそうだった。母達が収穫した野菜は、その日の院内の夕食でふるまわれる。母が日差しのやわらかい菜園にしゃがみこみ、他の患者たちと談笑しながら、ゆったりとした手つきで土から小さな大根を引き抜くのを、轟は吹き抜けのむこうから見下ろしていた。たまに、母は自分の息子を見上げてまぶしそうに手を振った。
 見舞い、といっても、離れて暮らす母と時間を過ごすための見舞いだった。だから、飯田のとは意味合いが違う。そう轟は考えている。飯田の見舞いは「ほんものの」見舞いだ。母の見舞いが「うその」見舞いだと言うわけではないが、ようやく車いすに自力で移れるようになった兄に会いにゆく、飯田のやっている方こそ「見舞い」と言うべきだと轟は考えている。

 はるばる電車を乗り継いで、彼の兄は最初に入院していた総合病院からより生家に近い場所へ移っている。自力で呼吸することすらままならなかったが、徐々に生来の明るさを取り戻して、いまは自分で食事も摂れる。食欲も取り戻して、ことあるごとに腹が減ったのなんだのとわがままを言うんだ、と飯田はうれしそうだった。
「兄のリハビリを俺も手伝っていてな。いい勉強にもなるんだ。理学療法士の方から筋肉の構造なんかを教えてもらえるし、兄も俺がいると張り合いがあるらしいから。」
 天哉くんがいないと、お兄さんすぐサボるんだ。まだ大学生の、スポーツマンらしい理学療法士の青年に笑われて、兄は「サボってないって!」と慌てたが、理学療法士の彼いわく、兄は、天哉の前ではもうちょっとがんばってみようって気になるんだよなあ、とぼやくらしかった。
「だから行かないわけにはいかなくてな! 行けても、月に一度しか行けないしな……」
 そう言っていたから、飯田がくるのは夕食どきになるだろう。そう思っていたクラスメイトたちは、ボーリングを三戦やって、さて次は何をしようかと大通りを歩いていたが、「飯田くん合流できるって! 近くまで来てるみたい」と立ち止まった麗日に引き留められた。思っていたより早い。昨日の夕方、授業のあとに出ていって、向こうで一泊、てっきり今日の夕方にしか戻ってこないと思っていた。飯田天哉が来る、というので、轟焦凍は目を上げた。
 飯田、と名前を聞くと、反射的ともいえるくらいの自然さで目を上げてしまう。もう体にしみついて、洗い落とせないほどになってしまった「くせ」だった。飯田。飯田。飯田。名前をたくさん呼んでいるせいだろうか。少なくとも、同級生たちと比較すれば、自分が一番飯田の名前を呼んでいる自信がある。轟焦凍と飯田天哉は、すなわち、そういう仲だった。
「場所言ってやろうぜ。これから来るんなら」
「駅からか? 結構歩かねえ?」
「ねー、おなかへった~」
「いや、電車じゃないっぽい。カンナナ、ってどこ?」
「環状七号線じゃね? 車?」
 いろいろ、クラスメイトたちがあれこれ言い合うのをぼんやり聞きながら、轟は繁華街の大通りに吹き抜けていく冬のつめたい風を頬に浴びていた。すれ違う、同年代くらいの女の子はほとんど全員轟の方を一度は見て通り過ぎて行ったが、轟はその視線にぜんぜん頓着していない。
 飯田が使う、国道の略称や、「ここで落ち合おう」という集合場所についての説明が、やけに大人びているのは、飯田がつかう言葉が、電車の路線ではなく学生にはなんとなく縁遠い車道についてのものだからだ。ナントカ駅周辺、とか、ナントカ屋の前、とか言われればぴんとくるけれど、ナントカ通り、とか、ナントカ線を東、とか言われるといっぺんに分からなくなる。轟焦凍もその例外ではなかった。

 個性がまだ人類に宿る前の時代は、車の免許は十八からでないと取得ができなかったのだそうだ。飯田がそう言っていたので本当なのだろう。普通二輪は十六から取得できたそうだが、大型二輪と普通車は十八からしか取得ができなかったらしい。二十が成人年齢だと定められていた時代だから、免許取得の年齢もいまより遅かったのかもしれない。
 現在、成人年齢は十八に引き下げられ、免許取得に至っては、普通車・大型二輪は十六で免許の取得ができる。ただし、取得ができるのは個性使用許可証の保持者もしくはヒーロー仮免保持者かつ、十六の誕生日をすでに迎えている者に限られる。免許取得のために試験も受ける必要があるし、未成年者は免許取得に合宿の参加も義務化されているのだ。そういった、もろもろの「やらねばならないこと」がある上、学生のうちに車を使って移動する必要性があまりないことが多いせいで、十六のうちに免許を取る人間は実質ほとんどいなかった。
 そんな中、夏休みを終え、ヒーロー仮免を取得したのち、飯田天哉は運転免許を取得した。

「必要があるんだ」

 いつもは、聞かないうちにあれこれと理由を説明したがる飯田が、珍しく言葉少なに、断定的に説明した。必要がある。そして何より、端的に自分が免許が欲しいから。そう言って、飯田は高野山の研修所で行われる合同免許合宿に参加し、あっさりと免許を取得して帰ってきた。ぴかぴかの免許証を見せながら、ぎりりっと厳しい顔つきをしている十六歳の男の顔写真が、知らない人間のように大人びて見えて、轟はどきりと肝を冷やしたのだ。
「どこから来るんだろ」
「タクシーかな?」
 クラスメイトたちが言い合うのを聞いていながら、そして、飯田が免許を取ったということを知っていながら、轟は飯田が現れるまで、飯田がどうやって現れるか、少しも予想をしていなかった。
 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、と低いエンジンの音が聞こえ、ぐん! としゃくりあげられた車体が落ち着くと、ヘルメットを取るよりさきに、お待たせしたな! という声がワッと耳に響いた。クラスメイトたちがぽかんと見送る前で、国際通りの中央広場噴水前に集まっていた彼らの正面に現れた一台の大きなバイクにまたがった男が、かぽ、とヘルメットをはずした。
 頭を軽く振って、髪を整えるしぐさがさまになっている。眼鏡はしたままで、頭を振ったときにすこし位置がずれてしまった。一一六〇CCのカワサキ(だとのちに飯田本人から轟は聞いた)に乗った飯田天哉は、高校生にしてはタッパもガタイも大きいと言えど、やはり年相応に幼く浮いて見えた。
「すげえ」
 カワサキINGENIUM-3と名付けられた、シルバーを基調とした車体に青のラインがインゲニウムのアーマースーツを彷彿とさせる、直線距離のスピードと馬力が特徴のそのバイクと、それに乗っている飯田をはじめてみたときの、轟焦凍の感想はシンプルにその一言だった。
「間に合ってよかった! 道路がすいてたんだ」
「すげえ!? でっか! かっけー! 飯田、これお前の!?」
 物珍しさに目をきらきらさせて、真っ先にバイクに走り寄った上鳴電気に続いて、クラスメイトたちが飯田のバイクのまわりに集まりはじめる。免許を取ったのは知っていたが、こんな大きなのに乗っていることは知らなかった。
「ああ! カワサキとインゲニウム事務所が提携して、毎年代替わりでモデルを新しくするんだ。これは兄さんのモデルだ」
「つーことは、飯田、お前がデビューしたらこういうの作られるってこと?」
「そういうことになるな。俺がデビューしたら、INGENIUM-4として新しくカワサキからモデルが出るから、みんな乗ってくれ」
 マジかよ、金持ちィ~、と目をまんまるにして、瀬呂も車体を眺めている。男子たちに比べて、女子たちの食いつきは弱かったが、飯田くん、意外とチャラい! と麗日お茶子がにやにやしている。
「チャラ!? チャラくなんかないぞ! 移動手段としてとてもいいし、それに……」
「かっこいい!」
「そうだ! そうだろう!? 緑谷くん!」
「めちゃくちゃかっこいいよ飯田くん!」
 すごいなあ~! カワサキの中でも一番瞬発力があって、エンジンをかけてから一気にスピードアップするんだよね……僕はバイクは詳しくないから分からないけど、大型バイクの中では車体もしなやかに動くから、大型バイクじゃ小回りの利かなかった山道やカーヴも……云々、と、さすがにヒーローオタクで、緑谷出久はすでに飯田のバイクの特徴をよく知っている。
「やっぱりすごいな君は!? どこからそんな情報仕入れてくるんだ……。でもおおむねそう言われているよ」
 ヘルメットを片付け、冬はコートの飯田が珍しくダウンジャケットを着て、すっかりバイク乗りのようだった。四角いメガネと真面目そうな見た目が不釣り合いなところも、いよいよ飯田らしかった。

 飯田が合流してからは、予定通りカラオケに向かうことになり、小中高の校歌くらいしか歌うレパートリーのない飯田と、そもそも歌をうたうという行為自体にほとんど縁のない轟は、早々にやることがなくなった。飯田のようにクラスメイトの歌にうれしそうにタンバリンを叩いたり合いの手を入れたり拍手をしたりするようなタイプでもないので、飯田の横に座ってぼーっと飲み物を飲んだり、たまに飯田にならってぼんやりした拍手をしたりが精いっぱいの轟は、飯田が飲み物を取りに部屋を出たタイミングで、一緒に外に出た。
「轟くんは何にする?」
 ふたり分のグラスに氷を入れて、飯田はオレンジジュースを入れながら轟に聞いた。当たり前のように轟の分まで世話をやく。委員長だから、という以外の理由でそうしているのであったらいいな、と轟はなんとなくそう思った。
「ウーロン茶」
「ん」
 ふたりで過ごすことに慣れた声を出すようになった。……というのは飯田天哉の話だが、「みんなの前でいるとき」の飯田と、「自分ひとりだけの前にいるとき」の飯田とが、ぜんぜん違っていることを知って、余計に好きになってしまった。「ん」と飯田にしては言葉少なに、ぶっきらぼうにグラスを渡してくるのが、どことなく、「慣れたかんじ」がしてくすぐったい。グラスを受け取ったあと、轟は部屋へ戻ろうとする飯田をひきとめた。
「飯田」
「どうした?」
「……帰りも、バイクか」
「ああ、そうだな。みんなは電車で学校まで帰るんだろうから、俺は別で帰るよ」
「おまえのバイク、…………」
「…………ん?」
「でけえな。」
「そうだな。一番大きいモデルだからな!」
「ふたり」
「ん?」
「ふたりで乗れるか」
 尋ねると、飯田は轟が何をどうしたいのか、理解してしまったようで、ぽっ、と赤くなり、そして微笑した。なんだ。ふたりで乗りたいのかい? 困ったな。……困っていない顔で、飯田は言う。
「ふたりでも乗れるぞ、轟くん」
「……乗りてえ」
「そうか。」
 轟の「乗りてえ」を、一度噛んで咀嚼してから、飯田はそれでもうれしそうな顔を隠しきれない様子で、構わないぞ。一緒にバイクで帰ろうか。と笑っていた。昔の飯田なら、轟が純粋に飯田の大きなバイクに乗りたくて、好奇心からそう言うのだろうと判断しただろうが、いまや飯田は以前より大人で、轟がどうしてそう言うのかも、ちゃんと理解した上での返答のようだった。

 飯田と轟が、お互いがお互いのことを憎からず思っていて、そして他のクラスメイトに抱くよりやや方向の異なった気持ちを抱いていることを自覚したのは、保須での一件が終わり、すっかりふたりの包帯が取れたころのことだった。
 病院で、退院してからは教室の中で、徐々にふたりきりになる時間が増えた。ぽつぽつとお互いのことを話し、お互いにしか話していない話題が増えていくと、嫌でも特別にならざるを得なくなった。家族のこと。病院のこと。母のこと。兄のこと。嫌なこと、かなしいこと、うれしいこと、……自身の内面についてとなると、普段は多弁な飯田も、普段から寡黙な轟も、あまり外には出さないという点でよく似ていた。飯田はいつでも誰かの委員長で、だから誰にも語らないものをたくさん持っていた。轟は誰に対しても氷の彫像で、だから近寄った小さな炎に対して溶けていく感覚があった。ふたりはお互いにだけ、滅多に外には出さない内面を、お互いの前にさらけ出して、しかもそんな経験が初めてだった。だから、彼らの中でお互いが特別になるまでは極めて短い時間しか必要がなかった。
「好きだ」
 どっちから言ったのだっけ。それもあんまり確かに覚えていない。お互いに言い合って、何度もその三文字を繰り返して、泣き笑いのふたりがようやく恋の糸を結んでから、一年の秋、ふたりはいよいよ恋人同士になった。ふたりともはじめてできた恋人で、はじめてやる恋愛で、何からやればいいのか分からなかったので、二年に上がるまではお互いの部屋でオレンジジュースとお茶を飲んで隣同士座っているだけの日が続いた。

「いろんなこと、してえ」
「……いろんな!?」
「あぁ」
「……どんな」
「ひとには、言えねえこと」
「……ッきみ!」
 いけないぞ。学生なんだから! そう言いながら、轟の言葉をきっかけにして、二年の春、ようやくふたりは次に進んだ。キスしてしまうと、セックスまで早かった。なだれ、くずれるみたいに二人はベッドでくちゃくちゃの糸くずになった。
 
 眼鏡を外した飯田は、眠たそうな顔か、色っぽい顔のどちらかしかしない。轟だけが知っていることだ。みんなが眼鏡を外した飯田を見るのは、彼が眼鏡を拭く数秒間くらいのものだから、飯田の眠そうな顔も、色っぽい顔も、見たことがない。そう思うとちょっと「勝った」ような気持ちになる。恋愛に、勝ったも、敗けたも、ないのだけれど。

 一人きりで見つめるのだと思っていた景色を、ふたりでたくさん見てきた。その味を知ってしまうと、なんでもかんでもふたりでべったりやりたくなる。そういうのが恋愛なのかもしれねえなと、轟は近頃おもうようになった。何が正解でも構わないのに、頭でっかちだから、どうしても何か答えを出さずにはいられない。轟だけでなく、飯田もそういう男だった。だから自然と、大きなひずみを感じることもなく、続いているのかもしれない。
「まだ人間が個性を持っていなかったころだが、同性婚は認められていなかったんだぞ。それどころか、迫害もあった。大昔は石打ちというやり方で処刑されてしまうような罪だったらしい」
「石打ち」
「頭だけ出して体を埋められてな、上から石を投げられるんだ。顔が見えなくなるまで」
「……怖えな」
「ああ。俺たちはとても理解のある時代に生まれてきたんだ。だから感謝しなくてはいけないんだぞ。先人たちに」
「うん」
 個性社会は深い混沌をたたえながら、無秩序なりに、大きな許しも内包している。たくさんの「違い」を理解しながら、当たり前のように受け入れるやさしさもある。ひとむかし前なら人前に出すべきでなかったことも、マイノリティ、マジョリティ、関係なく「個人の自由」として認められている。だから飯田も轟もふたりが付き合っていることを隠していないし、隠すようなことでもないと思っている。そりゃあ、クラスメイトたちは、まさかこの二人がと驚きもしたけれど、いまでは今更、驚くこともなくなった。
 なので、ふたりが一緒にバイクで帰る、と言い始めても、クラスメイトたちは「どうぞご自由に」の姿勢を崩さなかったし、ちょっと冷やかされて、飯田が「別にそういう意味ではないぞ!」と変な弁明で墓穴を掘ったくらいで、ふたりは駅前で彼らと別れた。といって、寮に戻ればまた顔を合わせるのだが、集団生活をしているせいで多くは取れないふたりの時間を、バイクの上だといえども確保できるのはありがたい。
「ヘルメットを」
「ああ」
 インゲニウムのメットによく似た、光沢のあるヘルメットを手渡されて、かぽっと頭にかぶってしまうと、お互いの声がくぐもって聞こえる。はじめて乗るバイクで、多少もたつきはしたものの、轟は飯田の後ろにおさまった。エンジンをふかして、走る準備をする飯田の背中がいつもより大人だった。追い抜かれてしまいそうで、もうちょっと俺も格好よく、と焦りながら、こいつのこういうところがかっこよくて好きだなあ、とも思う。男二人の恋愛は格好よさの見せつけ合いだ。だからきっと今、飯田天哉は背中に轟を乗せて、ふふんと上機嫌に違いない。
 いつも君にはしてやられるからな。
 飯田は轟をリードするとき、いつもそう言う。轟はピンときていない。飯田にいつもひっぱられっぱなしだな、と思っているのに、飯田は逆に、轟にしてやられてばかりだと思うらしい。そういうところは、恋ってよくわからない。
「ちゃんとつかまってくれよ、轟くん」
「ああ」
「寒いから、ちゃんと上着の前をしめたかい」
「うん」
「手袋もしたな?」
「した」
「じゃあ、行こう!」
 ドルルルルルッ! と重いエンジン音がする。どこか聞いたことのある音だなと思ったが、飯田の足が鳴らすエンジン音とよく似ている。エンジン自体もインゲニウムモデルなのかもしれない。クランクシャフトが回転し、ドッ、ドッ、ドッ、と小刻みに振動が尻につたわってくる。すげえ。思ったとたん、走り出した。車体はすべるように直線を疾走し、飯田の体にぎゅっとしがみついた。緑谷が言っていたことはおおむね正解だ。走り出してからマックススピードになるまでの時間がものすごく早く、カーヴがなめらかだ。飯田はまるで自分の体であるかのように、大きなバイクを扱って、まもなくハイウェイに乗った。
 残像ばかりで、景色も何がなんだか分からなかったが、抱きついている飯田の背中から、ドクッ、ドクッ、と重たい鼓動の音、そして息を吸う、吐く際の、肺が大きくなる感じが伝わってきて、轟は暖かくなった。
「いいだ」
 聞こえないことは分かっているのに、声が出た。
 背中から伝わる振動で、轟が何か言ったことだけは分かったのか、風の音に負けない大きさで、飯田が、「何か言ったか!?」
と叫んだ。
「いいだ!」
「聞こえない! どうした!?」
「いいだ!」
「なんだって!?」
「………してえ!!」
「聞こえない!!」
「キスしてえ!!」
「どうしたんだ!? 何だって!?」
 聞こえないことは分かっていても、いましたくなったのだから、仕方がない。それから首都高速を抜けるまで、二人はお互いに叫び続けたが、結局、何を言っているのかはお互いに分からないまま、バイクはETCを通りすぎ、見慣れた道へ入るまで、およそ一時間かけてハイウェイを走った。

 
   (2)

 バイクで寮に戻ってから、飯田の部屋に轟がやってきた。遠出して、一日朝から遊んだから、もうねむたい頃だろうと思っていたが、何やら言いたいことがあるようで、案外しゃっきりしている。飯田。ちょっといいか。そう伺いを立てて入ってきて、飯田の入れてやった緑茶を飲んだ。飲み切ってから、轟は「いま自分が飯田の部屋にいることに気が付いた」というような、ちょっと驚いたような表情で部屋を見回す。言いたいことがあるが、どうやって言おうか考えているときの顔だった。
「……飯田、車もあるのか」
 突然、轟がそう切り出したので、飯田は一瞬何のことか分からなかった。轟の、ふたつ色の違う瞳にじっと見つめられながら、少し考えて思い当たる。免許のことを言っているのだろう。
「車。あるぞ! 兄が乗っていた車を譲ってもらうことになってるんだ。免許ももちろん持ってる」
「そうか」
 また少し考え込んでから、轟はすねたようにくちびるをとがらせた。
「……おまえ、免許合宿の時、……仲良くなったんだろ。大学生と」
「ああ!」
 麗日くんから聞いたんだな。飯田はピンときて、そしてたまらず、にやにやした。飯田も人のことは言えないが、轟はこうやってたまにやきもちを焼く。飯田はそれがとても好きだ。轟が近隣高校の女子高生に告白されて、飯田に言ったら怒るから、という理由でずっと隠していたことを人づてに知ったとき、やましい気持ちがないなら俺に言うべきだったとじめじめへそを曲げてやきもちを焼いたことも棚にあげて、飯田は轟がやきもちを焼くのが好きだった。
「インゲニウムのファンだって、俺の兄さんのな。話が弾んで、路上運転テストのときペアだったんだが、結構仲良く……」
 いじわるを言ってやろう、そう思って仕掛けたのが、逆効果だった。ぐいっ、と突然胸倉をつかまれて、飯田の体がぐらっと傾いだ。なにする、と声を荒げる前に、むちゅ、とキスをされていた。
 やきもちのキス。轟はいつもこうだ。
「……むかつく」
「ハハハハ! 轟くん! やきもちだな? なんとも思わないし、向こうだってなんとも思っちゃいないぞ。ただ、彼が兄さんのモデルのバイクが好きだと言って……」
 ぐいっ、むちゅっ。もう一回きた。それ以上しゃべんな、と怒った目がそう言っている。かわいいなあ。もう、まったく。飯田はくちびるをもそもそさせて、降参、というように、両手を上げた。
「君がいちばんだ」
「……うん」
 ふう。息を吐いて、轟は頭を冷やすためにぷるぷる軽く頭を振ると、本題を切り出した。声のトーンでどれが本題なのか分かるようになってきた。さっきまでのは、本題に入るまでの導入だ。
「……車。乗りてえな。おまえの」
 自分の知らない飯田天哉がいては困る、轟はそう言いたいのだった。

 轟の提案で、その週末、飯田の運転でドライブデートをすることになった。飯田はそれまで、寮から病院への往復や、リハビリのため兄を病院から外へ散歩に出すくらいの用途でしか車を使ってこなかったので、飯田はわざわざ洗車をし(事情を加味して教師用駐車場に車とバイクを止めてある。驚いたことに洗車までできるスペースだ。)すっかり病院までの道のりを覚えてしまってからは使っていなかったカーナビに目的地を追加した。
 ドライブデートといえばの定番を全部フルコースでお届けする、瀬呂範太に言わせると「八十年代に滅亡したパターン」のドライブコースを全部網羅できるように、徹底的に練ったルートだ。轟の行きたいところと、飯田の行きたいところを全部盛り込んだ完璧なデートコース。サービスエリアも片道で三つも通る計画だ。抜かりのない準備をして挑むデートは飯田の得意とするところでもあった。
 ガソリンも満タン。車もぴかぴかだ。飯田は何かやる前にこうやってしっかり準備をして挑むのが好きだ。うまくいったときの達成感も大きい。計画を練ったりすること自体が好きであることもあって、飯田は当日までうきうきと過ごした。一月も少し過ぎて、段々寒くなってきたころだから、防寒をきちんと考えた服装もちゃんと考えて壁にかけている。車の中は暖かいだろうから、上着を脱ぐとちょうどよくなるように、考えられた服装だと胸を張って言える。中に着るタートルネックはこの日のために新しいのを下ろした。飯田の様子を見れば、ああ週末デートに行くのだろうな、と分かるくらい、上機嫌に浮かれきっている。
 対して轟は、いつもと大して変わらないように見えながら、もう一週間も、着ていくものに悩んでいた。飯田から、準備は万端だ! 着るものまで決まったぞ! とにこにこ言われたせいで、俺も決めていかねえと、と変な焦りが湧いてきて、クローゼットをひっくり返す毎日だ。
 テーラードのジャケットは寒すぎる。新しいチャコールグレーのチェスターコートを着ていきたいが、中に着るものが思い浮かばない。ズボンは何を? ジーンズだとラフすぎるだろうか。きっと飯田はタートルネックにチノパンだ……。
 悩んだあげく、いろいろ組み合わせて写真を撮ってみて、実家の姉に送りつけた。どれがマシだ? そう尋ねると、姉から来たのは「おっ、デートだな?」というふざけ半分の返信。否定するようなことでもないと轟は思っているので、「うん」と返すと、タイムラグが少しあった。かたくなだった轟焦凍の氷がとけてきて、一番表立ってうれしそうなのは姉だった。
「セーターの中にシャツ着たら? ストライプのやつ、持ってたでしょ」
「ある。それにする」
「あと、下はジーンズでもいい気がする。どこいくの?」
「ドライブ」
「あら。飯田くん免許持ってんの」
 相手が飯田だと知っている姉だから、飯田の好みそうな服装をうまく突いてくる。ドライブならあんまりカッチリしすぎても変だから、下はジーンズで行きな。いろいろなアドバイスののち、ようやく、出発前夜になって轟のトータルコーディネートが完成した。バッチリだ。皮のクラッチバックに財布と携帯電話だけつめこんで、あとは飯田を待つだけだった。
「おはよう! 轟くん!」
 門の前まで車を回してきた飯田天哉は、降りるなり轟を上から下まで眺めて、
「今日もとっても素敵だな、君は!」
 とまるで自分のことのように、わっはっはっ、と笑って喜んだ。シャツがとてもいい。上品だよ。そう褒められたので、姉に何か土産でも買ってやろうと思った。
「そんな小さい鞄できたのか? ちゃんとハンカチを入れたかい」
「忘れた」
「そんなことだろうと思って俺が二人分持ってきたぞ! まったく! 手袋はあるか?」
「ねえ」
「やっぱり! 二つ持ってきたから安心してくれ。寒くなったらつけような。持っているから言ってくれ!」
「ああ」
 デートとなると飯田はいつもこうだ。この電子の時代にまだ紙の路線図を使っているし、マップはいつも紙のものだし、デートコースを調べるのは本だ。助手席に乗ると、やっぱり大きなマップと「都内ドライブデートスポット五十選!」という旅行雑誌が置いてあった。
「乗ってくれ! すぐ出発しよう!」
「すげえな。飯田の兄さんの車だろ」
「うん、そうだ。兄が乗ってたときのまま、なんにも触ってない」
 車内を一瞥して、飯田っぽくないな、と思ったのはそのせいだ。フロントガラスにキャラクターもののおまんじゅう型のぬいぐるみ(ツミツミというシリーズのものだ。女子に人気のある、かわいいぬいぐるみである。)が並んでいて、後部座席にもクッションくらいのサイズの大きなツミツミが二体積まれている。黄色いクマのキャラクターと、水玉柄のリボンをつけたネズミのキャラクター。妙に女子受けがよさそうな内装だ。
 飯田天哉っぽくない、チャラさのある車内で飯田天哉が浮いている。轟が助手席に乗り込むと、飯田はエンジンをかけた。
 アウドラーのCQ8、車体はシルバー、高級車とまではいかないランクだが、愛用者の多い車だ。兄はファガティに乗りたがったが、一度スピード違反で罰金を食らっているので、家族が新車の購入を許さなかった、……飯田が楽しそうに話す、兄のエピソードを聞きながら、アウドラーだの、ファガティだの、よく分からない単語に轟はぼんやりしている。車種の名前だろうが、車に疎い轟には、言われてもどんなものなのかはさっぱりだった。
「スピード違反してんのか、お前の兄さん」
「そうだ。ひどい話だ、まったく! ただ、俺に個性が発現した日だったらしくてな。兄も俺と同じように高校生で免許を取っていたんだが、急いで実家に帰る途中でオービス(※自動速度違反取締装置)に引っかかったらしい。そう言われると、まあ、少し注意しづらいというか」
「見たかったんだろうな、早く。おまえの個性」
「そうだろうなあ。そうだといいな。兄さんはそういうところがあるんだ。うっかりしているというか……。俺は俺で、型にはまりすぎだとよく言われる」
「飯田は四角いもんな」
「そうか!? 四角いだろうか、俺は……」
 話しているうちに、車は高速へ入っていく。最初の目的地は都内で一番大きな吊り橋だ。橋を渡り、奥多摩へ向かう。蕎麦の有名な店があって、そこで昼食を食べたいのだ。
 サービスエリアで簡単な朝食を取って(何しろ出発は朝六時だった。)、巨大な吊り橋に差し掛かると、何かかけるかい? と飯田が言って、ラジオをかけることにした。オーディオを押したとたんに流行りのアップテンポなヒップホップチューンが結構な大きさでかかったため、「兄さん!」と、思わず飯田が兄への叱責を漏らしていた。
 
 ……さて時刻は午前十時、DJ・AIがお送りするエアー・ジャック、次にお送りする曲は、ポップでレトロなジャズ・チューンが印象的な、東京ミッドナイト……。

 家族以外を乗せるのは初めてだから、緊張して事故でも起こさないように気をつけないとな! そう言っていたわりに、飯田の手つきは運転によく馴れていて、通り過ぎていく橋の欄干を眺めているくらいが轟の仕事になった。カーラジオから流れる流行曲のアップテンポにゆさぶられ、飯田の足に力が入る。アクセルを踏み込んで、ぐんぐんスピードを上げ、飯田は上機嫌だった。
「意外と、スピード出すんだな、おまえ」
「高速だからな。一般道ならちゃんと制限速度を守るさ」
「窓、あけていいか」
「いいけど、寒いぞ?」
 ぐん、と窓を少しだけ開けただけなのに、ものすごい風圧で冷気が車内に入ってきた。前髪をばたばた揺らして、潮風のかおりがする。窓の隙間から、カーラジオのチューンが軽やかに飛び出していった。

 ……夜景の中……君色を探してるそんな街東京……ミッドナイト……

 後方から向かってくる車両を確認して、きびしい目つきを一瞬見せる、緊張の手つき。追い越し車線をびゅんびゅん飛ばして、ちらりと橋の向こうを確認する飯田の視線がめぐるのを、轟は窓ガラスごしにじっと見つめていた。知らない大人の顔をするこの男に、あたらしい色気が見えて、轟は釘付けになったが、すぐにやっぱり寒くなって、「窓、しめる」とつぶやいた。
 飯田はおかしそうに声を立てて笑った。

3.

 サービスエリアを片っ端から見て回り、奥多摩の有名なお蕎麦やさんへゆき、鳩ノ巣渓谷の吊り橋でたっぷり風を浴びた。温泉宿もたくさんあるのだな、いつか泊まりにきたいところだ! 奥多摩は「東京の秘境」とも呼ばれていてな、轟くん……、と、飯田天哉の解説がとまらない。轟はそのどれもをじっくり聞いて、ほんとうに久しぶりに、いまふたりきりなのだということを噛みしめた。いいものだ、ふたりだけのデート、っていうのは。たまには学校近辺から離れて、逃避してみるのも悪くない。
「ここもずいぶん景観が変わってしまったみたいなんだが、おおむね自然は保存されているらしい。鍾乳洞もあるんだがいまは立ち入れないようになっていて……」
「飯田」
「どうした?」
「手」
 かすかに指先をつなげると、飯田はすこし周囲を気にして、人前でそんな、という顔をしてみせたが、
「三秒だけだぞ」
 と、飯田らしい譲歩の仕方をした。
「いち」
 爪の上をなぞり、指をからめる。しっとりと肌がからみつく感覚があって、飯田の手もおずおずと握り返してきた。
「に」
 ぎゅっ、と握り締めると確かな感触がある。飯田の手はごつくて、握りがいのある男の手だ。
「さん」
 じ、とほどかれようとする手を見つめた轟に、なんと思ったか、飯田の指がほどけるのが少々遅れた。四秒。たっぷり四秒くらいあったけれど、飯田はするりと指をはなした。
「もうだめだぞ」
 そう言って、凛々しく眉を上げてみせる、その男をたまらなくかわいいやつだなと思うのだ。
 奥多摩を出て、また三時間ほどかけて雄英に戻っていく。帰り道はもうすっかり夜景にかわっていて、それも飯田の計算のうちのようだった。飯田はこういう、デートを計画するのが好きだ。轟が「すげえ」と感嘆するのが見たくって、あれこれ計画を練ってエスコートしようとする。飯田も轟も、どちらもいい勝負の世間知らずだが、轟の方がそういうことにはいっそう疎いので、デートの準備は自然飯田の役目になった。飯田は毎回、絶好調に張り切って、ずらりとライトアップされた大きな吊り橋を前に、どうだっ、という顔をする。
「すげえ」
「だろう! 綺麗だろう、轟くん! 俺も初めて見たんだが、これはいいものだな。すばらしい景色だ!」
「すげえ……」
 ぴかぴかと星空にまざって、色とりどりの光が列をなしている迫力は筆舌つくしがたい。飛び去っていく光の群れの中を走りながら、車は順調にスピードを上げた。飯田は、バイクと同様、まるで自分の体の一部であるかのように車を操る。ぐんぐんスピードを出すのも、自分のエンジンで走ることに慣れているせいだろう。轟には「かなり速い」と感じるスピード感も、飯田にとっては自分の普段走っている速度なのだ。
 ひとつ、飯田のことを深く知ったように思って、轟は少し気分がよくなった。

 吊り橋を抜けると、最後のサービスエリアに到着した。姉への土産もここで買うつもりで、轟は最後まで手ぶらだった。奥多摩で買えばよかったのに、と言われ、二人でサービスエリアに降りるとお土産選びに時間がかかる。結局車にまた戻ったころにはそろそろ日もとっぷり落ちて、急いで帰らねばならない時間になっていた。
「長居してしまったな! つい色々見て回ってしまって……轟くん、急いで帰ろう!」
「ああ」
 言いながら、轟にはもう一つ、やりたいことが残っていた。あと数十分、あればなんとかなるはずだ。飯田がエンジンをかける前に、ぐっ、と身を乗り出して、轟は飯田の座る運転席へ自分の体をねじ込んだ。
「!?」
 ぎょっとした顔で、飯田は反射的に両手を上げる。含み笑いをして、轟は後部座席に手を伸ばした。
 ぎゅむっ、と引っ掴んだのはツミツミだ。黄色のクマのツミツミ。このために、こういうぬいぐるみは車内に置かれているんだろうか? そう思うくらい、轟は自然にぬいぐるみを手に持っていた。
 飯田の腰の下にするりとぬいぐるみを忍ばせて、リクライニングを最大まで倒す。まさかそうした一連の動作を、轟が手際よくやるとは思わなくて、飯田はしてやられたという気持ちになった。轟といるといつもこうだ! 彼がやたらとリクライニングを倒したりあげたりしていたのは遊んでいたわけじゃなくて、このために確認していたのだな!?
「とどろきくッ……!」
「飯田。でけぇ声出すと外に聞こえる」
「君ッ……」
 むぐぐ、とくちびるを引き結んで、飯田はきょろきょろ左右を見た。両側の車の持ち主はまだ戻ってきていない。けれど人通りがないわけじゃない。君なんてことするんだ、ともがいたが、轟は頑として動かない。
「帰ったら眠くなってできねえだろうから」
「……ッだとしても! ここでしなくていいだろう……!」
「いやだ。ここがいい」
「君……ッ、怒るぞ、俺は……ッ!」
「怒ってもやめねえ」
 ふるふる、と首を横に振って、轟は薄く微笑みを浮かべる。その微笑みに弱いのだ。世界でいちばん美しいものは何ですかと聞かれたら、「轟焦凍の薄笑い」だと飯田は答えるだろう。あくどい、いたずらっぽさを含んだ微笑。轟はいざというとき、この微笑を武器にした。
「したくねえのか?」
 むにゅっ、と肌を押し付けるように、しなだれかかってきた轟の体が密着して、なんとも言えない気分になる。フラットになるまで倒された座席から、轟を見上げているのも背徳を煽った。こんなところで駄目だ、という拒絶感が、かえって体を火照らせる。前から薄々勘付いていたが、自分は絶望的に、押しに弱いのかもしれない。飯田はぼんやりそう考えた。
 足の間に押し入った轟のふとももが、飯田の股間をゆっくり押し、ゆるくつぶすような動きをする。ふう、とくちびるに轟の息がかかって、ぬろ、と舌でくちびるを舐められた。なし崩し的にそのまま、舌を入れてくちびるを合わせると、(ああ、俺はきっともう拒絶しきれない)と飯田の中にもあきらめがひらめいている。
「ンっ……ん、ふっ…………」
「ん…………」
 くちびるを開くと、ぬろぬろした唾液を轟の指がなぞる。あちいな、と笑って、またくちびるを重ねる。飯田がたまらなく、キスが好きなことを、もうずいぶん前からばれてしまっているので、轟は飯田にわがままを言いたいとき、たいてい強引にキスしてからおねがいをするようになっていた。
「……んあ………っ」
 飯田の瞳に恍惚がはしる。瞳がとろけてくると、轟のペースだ。時間が、轟くん、時間が……、と訴える飯田に、大丈夫、すぐ終わらす、あんま我慢できねえと思うし。轟はふにゃりと笑ってそう言った。
「車ン中でするやつ、してみたかった」
「どこで、……どこで覚えてくるんだ、君は……」
「男だから、しかたねえ」
「答えになってないぞ……!」
 減らず口を叩き合いながらも、はふ、と熱い息をした飯田の、タートルネックのセーターの中に、ゆっくり手を入れる。アンダーウェアをまくると、轟の手の冷たさに、飯田の体びくんっとしなった。
「わりい。つめてえ方でさわった」
「構わないが……。ほんとに、っするのか……」
「拒否しねえだろ、飯田」
 嫌だったら暴れてくれ。轟がそう言ったのを、飯田の目がうらめしげににらみつけたが、それだけだった。
 アンダーウェアごとタートルネックをまくりあげて、乳首が外気にさらされる。舌で先端をつぶすように舐めると、はうっ、と飯田が息をのんだ。れろ、れろ、とやってから、ちゅっ、ちゅむっ、と音を立ててついばんだ方が、飯田の興奮度は高い。この一年くらいでいろいろ知った。初めてベッドになだれこんだときを考えると、ものすごくレベルアップしているのは確かだ。轟はそれが誇らしく、飯田に言えば「そんなふしだらなことで」と怒られるだろうが、着実に、男になっていることを感じる。
 オス同士がやる交尾は、支配欲のぶつかり合いだ。どちらも、相手のすべてを手に入れたいという欲を持っている。抱く方は同じオスを支配している感覚で、抱かれる方は支配されている背徳感で、快感を感じる。飯田は普段の立ち振る舞いで、轟をリードして支配欲を満たしている分、こうしてセックスするときは、支配される背徳感にうもれるのだろう。一度必ず拒否のスタンスをはさんでから、けれど結局、ずるずると泥沼に足をつからせる。
「手で……」
 さいしょは。
 轟がささやき、ズボンの中に手を入れると、ひくんっ、と飯田の体が不安げに傾いだ。何回やってもまだ慣れない。学生の身で、ふしだらな、倒錯したけしからん行動だ、という飯田の中での「学生らしさ」が暴れて、体を反応させるのかもしれない。
 亀頭の先を指でくりくりいじめて、段々のけぞりはじめる飯田の体に腕を回す。飯田天哉みたいな真面目のかたまりみたいな男が、耐え切れずに感じている顔を見るのはとても気分がいい。ぎゅっ、ぎゅっ、と握りこみ、くちびるをへの字に曲げて声を殺している飯田の顔を見つめながら、轟はゆっくり飯田の鼻筋にキスをする。落ち着けてやろうと思ってやったのに、おもしろ半分でやっていると思われたのか、強烈に睨まれた。
「あぅ、ッ、はっ、……ああっ、轟くん……ッ、それ以上、……ッ!」
 手で轟を押しのけようとするが、力が全然入っていない。ここでやめたらかえって我慢できねえくせに。もちろん声には出さないが、轟はにんまりして、手のうごきを更にきつくした。
「飯田、……あんま動くと、車、うごく……」
「んっ……あ、……ッ、それは、いけない……ッ」
 くちっ、くちゅっ、とかすかに音がしはじめると、飯田の両手が車の座席を掴み始めた。なんとなく、その「耐えている」感じが気に食わない。飯田、いやがってるみてえ。拗ねた声を出して手を止めると、飯田は困ったように潤んだ瞳を細くひらいた。
「だっ! だって! 仕方ないじゃないか、こんなところで……ッ! 容認できるはずがない!」
「じゃあ嫌ってちゃんと言ってくれ。やめるから」
「…………!」
「いやなんだろ?」
 まゆを下げ、くちびるをとがらせて言う轟焦凍の拗ねた顔に、飯田はとんでもなく弱い。嫌ではないのだ。手放しで「してほしい」と言えるような性格に出来ていないだけで。
「……こんな、ッ、ところで、その……。ことに及ぶのは、よくない……。よくないぞ、轟くん……」
「…………」
「……わかった、わかった……。正直に言おう……。いいことだとは、思わないが、……ぼ、……いや、俺個人としては、……し、……したい……と、思う」
「……してえ?」
「…………」
「飯田、……してえ?」
「……ばか! 君は、ほんとに、悪いやつだ! 嫌いになるぞ、そのうち……!」
 真っ赤になった飯田天哉は、わっと吠えたのち、頭から煙をあげてささやいた。
「…………したいに決まってるだろう、君と……。いつだって、そう思ってる……」

 指でひらくと、今までなんどもそこに出入りしたとは思えないほどに狭くて、少し不安になる。ぬち、と入口を広げられて、飯田は「じっくり見ないでくれ……っ」と声を荒げたが、轟は無視して、どこがその場所かを確かめてから、ぴと、と勃起した先端を当ててやる。ずりずり、と入口を確かめて亀頭をこすると、飯田の腰がくねった。飯田はもう耐え切れないという風に、両手で真っ赤な顔を覆って隠してしまった。
「いれるぞ」
「……ああ…………」
 ため息の混じった、熱い返答を吐きだして、飯田は顔を隠したままのけぞる。くびれたしなる腰をつかんで、ゆっくりと先端に近づけていくと、つぷぷ……と甘い音を立ててじわじわと穴が広がった。
「んっ、ふ………!」
「はいる………」
「ああっ……だめ……、だめだぁッ……!」
 ぐい、と力強くつかんで腰を入れると、ずんっ、と奥まで届く感触があった。ミシッと車体が揺れるので、轟はひやりとしてスローに動くよう心掛ける。スローなピストンも、飯田の体を変に刺激するようで、ヒクッ、とのどの奥で悲鳴が上がった。
「んああっ! あっ、……はい、って……!」
「すげえ、熱ぃ…………」
 ぐり、といちばん深いところを探るように押し付ける。底に沈殿したスープのどろっとした液体をスプーンでかき混ぜるように、腰をグラインドさせて、飯田の中をさぐっていく。浮き上がったエンジンつきのふとももが、ヒクンッ、ヒクンッ、と空をかいた。
「っひ……ッッ、ぐ……! ああっ……ん……っ」
「いいだ………」
 飯田のくびすじから、耳のうしろあたりを熱心に舐め、なぞっていく。中。すげえ。かけてもいいか……? 轟がそう尋ねると、飯田は轟の両肩をつかみ、しがみついた。もうなりふり構っていられないといった様子だった。
「……っんあっ、……いい……ッ、……とどろきくん……っ」
 ギッ、ギッ、ミシッ、と車体が小刻みに揺れる。びくんびくんと足が跳ね、エンジンがあたたまりはじめた。点火プラグが炎を上げ、クランクシャフトが回転しはじめる。ドッ、ドッ、ドッ、と低い音が車内を満たした。
「音、出ちまうな……」
「んっ、あっ、……ああっ、っぐ、……あっ、……き、そ……!」
「……いっちまいそうか……?」
「……あぅっ、……んっ……あっ、って、……かけて、……いいから、っとどろきくん、……たのむ……!」
 飯田の喉ぶえがぐいとのけぞって、ごくん、ごくん、と上下に震えている。かけていいから、と言われたとき、ざわざわ、とわだつみの声。暴れ狂う「オスの精」のたけりを感じて、ああ、もうこりゃ、手におえねえな。轟はそう思った。
 中にぶちまけて、こいつの奥に種を仕込んでやりたい、という、オスの持っている本質的な性欲の渦だ。ぶちまけたい、と思っている轟がいる一方で、本来なら同じ欲を抱くはずの飯田が、「ぶちまけてほしい」と思っている、それも興奮の起爆剤になった。冬だというのに汗がうっすらとにじんだ、若い男ふたりの肌が、夜の光にてらてらと反射する。
「きてくれ、……たのむっ、……はやく、……とどろきくん……っ!」
 うわごとみたいに繰り返して、飯田のずり落ちそうな眼鏡をかけなおしてやった。きれいに鍛えられた十七歳の体が、弓なりにのけぞって、早くお願いかけてくれ、と訴えるのはとてもじゃないが刺激が強すぎた。
「いいだ、……がまんできねえ、……いきそ……」
「ぼくも、……おれも、おれもだ、とどろきくん……!」
 ハァー、ハァーッ、と長い息をして、ラストスパートをかけのぼる。坂道を疾走するような激しい運動だ。あの波をつかんだら、パンッ、と爆発するように気持ちよくなれる。そこを目指して、一直線にかけるのだ……。
「ああっ、いくっ、だめだ、轟くッ、ん! イ……ッ、く……う……! っあっ、ああっ、だめ、ああっ、あ、あ、あ、ああ、あ!」
「飯田、……いいだ……っ、でそう、……やべえ、……いいだ…………ッ!」
 ぎぎぎっ、と大きく、アウドラーのシルバーは音を立てて揺れ、とおりすがった人がちらりとそちらに視線をやったが、すぐに揺れはおさまった。エンジンのかかっていないはずのアウドラーは、しかし、ドッドッ、ドッ、と低いエンジンの音をさせていたのだった。

 
 予定より三十分以上のロスで、飯田天哉は気が立っている。隣にはしれっとした表情の轟焦凍。飯田も、何か下手に言うと自分の乱れっぷりを指摘されるであろうことを分かっているから、黙っている。沈黙をうめるためにつけたカーラジオは、行きにかかっていた流行のチューンをまた流していて目新しさがなかった。
 ゴーーーッ、と通り過ぎていく風景を見つめながら、轟焦凍はいつの間にかまぶたを閉じ、こっくり、こっくりやっている。腕にはツミツミを抱きしめて、たまにぐらりと頭が傾いだ。飯田はそんなことも知らないで、高速を飛ばし、一般道に入ると、雄英への道を急いでいたが、信号に引っかかったついでに、二、三、小言を言わないと気が済まないと思って、飯田は四角くくちびるをぱかっと開いた。
「しかしな、轟くん! さっきのような……」
 言いかけて、隣の席の轟を見ると、さっきまで自分の腰の下に敷かれていた、大きめのツミツミを抱きしめて、すやすやと眠っている男を見て、飯田はぽっかり口を開いたまま固まった。
「君!? 寝るのか、あんな、……! あんなことしておいて! 俺を放って、寝るのか、君は!?」
 大声を出したが、目を開けるそぶりはない。思えばこの時間まで一度もねむねむモードにならないでいたのが奇跡だったのだ。
「もう! 信じられないぞ。なんてやつだ! 悪いやつだな、君は、ほんとに……!」
 ぱし、ぱし、と二度ハンドルを叩き、ぷんぷんしていた飯田だったが、ふと思いついて、隣の男のふっくらした頬に、そっとキスをした。そして、青に変わった信号を確認して、アクセルを踏む。だんだん顔が熱っぽくなってきたが、飯田は知らないふりをした。
「まったく、君は…………」
 くちびるを半開きにして眠る轟は、何も知らずに目を閉じている。すう、すう、と寝息が聞こえて、飯田はハンドルを握りなおした。

 ……それでは最後の曲にまいりましょう、東京の夜景にぴったりな、このラブソングです……「東京ミッドナイト」……

 ……夜だけの顔……脳内薬のよう……
 ……てっぺん回って……深い夜になる……

2.そしてねむたい帰り道

   (1)

 事務所の近くにかかげられている、大きなパネル広告一面に、自分のよく知った男の顔があるというのは照れくさいものだ。それが恋人であればなおさらのこと。轟は少し立ち止まって、ヘルメットを小脇にかかえ、凛々しい瞳を斜め上にそらして、走り出す瞬間の前傾姿勢をした男を改めて見上げた。きびきびした立ち姿があいつらしい。轟は微笑んで、出退勤時必ずこれを見上げていく。
 フォーミュラ・ワン(通称F1)の広告塔に選ばれ、F1マシーンを背にアーマー姿で姿勢を正している飯田天哉の姿をそこら中で見かけるようになった。個性が発現する時代になり、フォーミュラ・ワン自体がすたれつつあった中、過去の、純粋なスピードのみを競うレースをまた復活させようではないかという動きがあり、フォーミュラ・ワン復興委員会が「スピード」といえば彼だと飯田天哉を選んだ。飯田がそれに応じないはずがない。インゲニウムとフォーミュラ・ワンのコラボとして、街にはあちこちにパネル広告があふれていた。
 
飯田と轟がプロヒーローデビューして、二年近くが経過していた。二人とも、すでに二十歳を迎え、プロヒーローとしても「新人」の枠ではなくなってきた。カワサキとインゲニウムが提携した新型INGENIUM-4はすでに発売されて、飯田はそれに乗っているし、もう少し言うと、轟と飯田は同棲をはじめ、そして轟が運転免許を取得した。
 出張や他地域への応援が増え、乗れなくては不便になってきた。飯田が車にもバイクにも乗るので、自分はいいやと思っていたのだが、将来的にどうせ必要になるだろうから、とこのタイミングで取得した。
 実際にハンドルを握ってみて分かったことだが、轟は自分が、あまり運転に向いていないことを知った。
 まっすぐ走るのはまだしも、対向車の合間を縫って右折をするのが難しい。駐車はもっと難しい。広い駐車場なら多少ズレてもいいけれど、狭い住宅街の駐車場には到底無理だ。そして極め付けには、免許を取ったはいいものの、結局プライベートでは飯田が運転するので、轟はほとんどペーパードライバーのまま、いままでろくにハンドルを握らずに来てしまった。
 電車を乗り継ぎ、自宅へ向かう。二人で借りたワンルームは、二人の事務所のちょうど中間地点の位置にある。飯田は普段バイクで事務所に向かい、轟は電車で通勤している。電車でも不便にならない距離だ。けれど、ヒーローとして有名になってくると、どうしても声をかけられたり、騒がれたりすることが多くなってきてしまうので、そろそろ車で通勤するべきだなと考えていたところだった。
「運転はやってみないとうまくならないからな。轟くん! 練習が必要だ。何事も練習しないと」
 飯田はそう言って、とにかく下手だろうが無茶だろうが道路に出てみるようにアドバイスをしてきたが、轟はできれば、まだ教習車に乗っていたころのように、隣に誰かいてくれたら、そしてあわよくば指示をくれたら、うまく運転できる気がする。一人でわけわかんなくなっちまったら、ちょっと怖えだろ。正直にそう打ち明けた轟に、飯田は一瞬きょとんとして、そして、思ってもみなかった轟の返答に、耐え切れない様子で笑った。
「笑うなよ」
「いや、ごめん、違うんだ。バカにしているわけじゃないぞ! ただ、その、君もそんなことを思ったりするんだなと思ってな……」
 君はなんだってすぐできるだろう。車もそうだと思ってたよ。飯田は笑いながら、ひとつ轟に提案をした。
「なら、うまくなるように、練習を兼ねて俺とドライブにいこう! 君の運転で、俺が横で指示をしてあげよう。高速に乗れば一本道が多いし、週末、一緒に出掛けることもできるから、ちょうどいいんじゃないか?」
 週末のドライブデート。願ったりかなったり、断る理由のない提案だった。じゃあ、それで。轟が了解したその瞬間から、飯田は毎週末のドライブデートについて、あれこれ計画を立て始めた。どこへゆくか、どのルートでゆくか……。飯田は学生のころから、そういう「プラン」を練るのが好きなのだ。

 奥多摩の方にあたらしく、動物と触れ合うことができるテーマパークができたらしい。放牧された羊やヤギ、牛や馬はもちろん、ウサギ、コアラ、ワラビー、数多くの鳥たちが飼育されている自然派施設だ。
「奥多摩なら一度行っただろう、ほら、学生のころ……」
 言いかけて、飯田はちょっと考え、ゴホンとせき込んだ。帰り道にやったことを思い出したのだと思う。轟もいまそれを考えていた。そう言えば、免許を取ってすぐの飯田と、「車の中でやるやつ」をしたくてしょうがなかったのだっけ。
 学生期の自分といまの自分を比べても、変わったところは大してないように思う。飯田も轟も、お互いを長く見てきた上でお互いにそう思っている。
 だが、あの頃の方が、未知への挑戦にためらいがなかった。飯田相手にむちゃくちゃをやったな、と轟は当時を振り返るが、後悔どころか、当時のためらないのない自分にいっそ尊敬の念すら覚えるのだから、始末が悪い。飯田はそんなことも知らず、サービスエリアで起こったことは忘れたふりで、ファームパークについて熱心に調べていた。
「自分たちで収穫した野菜を使ってバーベキューができるらしい! いろんな動物とも触れ合えるし……、何より景観がすばらしい。奥多摩の自然を覚えているか? 前に言ったかもしれないが、奥多摩は東京の……」
「東京の秘境、だろ」
「そう! 覚えていたんだな? 東京の秘境だよ。吊り橋を渡っただろう? 素晴らしかったな、鳩ノ巣渓谷の吊り橋は……」
「手えつないだところな」
「そ、そうだったか? 覚えてないな」
「三秒だけ、ってお前、言ってきただろ。三秒しか手えつながせてくれなかった」
「覚えてないぞ!」
 明らかに、覚えている顔で、飯田は慌てて否定する。飯田のように記憶力のよい男が忘れるはずがない。轟もそうだ。飯田とやったことを、忘れるはずがない。
「忘れちまったのか。はじめてドライブデートしたのに」
「…………!」
 しょんぼり、眉を下げて言う轟のやり方には、もう慣れているはずだろうに、飯田はむぐぐっとくちびるを引き結んで、君って本当に卑怯だな! という恨めしい顔をした。
「……っ覚えてる! 悪かった。嘘をついたことを詫びよう」
「よかった」
「君は本当にずるいやつだな!? 分かっててやってるんだろう!」
「?」
「そんな顔しても駄目だぞ!」
 きょとんとした顔を作っていた轟も、ふふっ、と吹きだして、おまえ、ずっと変わらねえんだな。そういうとこ、好きだな。轟は改めてそう言った。飯田は目を伏して、突然の、丁寧な「好きだな」に照れた顔をした。
「俺だって…………」
 飯田にしてはものすごく小さな声だったが、こと相手が飯田となると耳ざとい轟には、ちゃんとそれも届いていた。

 奥多摩の温度やファームパークの地形まで加味した完璧な服装を三日前から壁にひとそろい、ハンガーにかけて用意している飯田に触発されて、轟も毎日服装のことを考えている。プロヒーローになってから大きく変わったのは、外出時の服装だ。プロヒーローのオフは変装が必須である。変装といっても、帽子をかぶるなりサングラスをするなり簡単なことしかやらないが、それでも、見つかって囲まれでもしたら身動きがとれなくなってしまう。若手ヒーローはそれでなくても変なファンがつきやすいので、事務所からもきちんと変装するようにと二人はきつく言われていた。
 飯田ことインゲニウム、轟ことショートにも、もちろんファンがいる。飯田については兄の世代からインゲニウムのファンである層がすでにあり、源流は「特撮ヒーロー」と呼ばれたアーマースーツで戦うヒーローの根強いファン、また、ヒーローにあこがれる男児たちを中心に人気があり、轟はもっぱら女性ファンが多い。どちらも若手ということで、二人とも固定の女性ファンがいた。
 女性のファンの熱はすごい。二人はデビュー後、すぐにそれを痛感した。どこから調べてくるのか、雄英時代の写真やエピソードがSNSで拡散され、体育祭のときの古い動画がまた日の目を見ることになり、轟と飯田がぎょっとするほど、「二人は深い関係にあるのでは?」と勘繰る声もあった。また、二人は知らないが、プロヒーローファンの中には「ナマモノ」と俗称されるプロヒーロー同士の関係性、恋愛を楽しむジャンルもある。轟と飯田は一定その層にも人気があった。雑誌のインタビューなど、メディアを熱心に読み解いて、「これってこういうことじゃないの?」と推察する声には驚かされる。たまに、雑誌でボロが出たことを、SNSでのファンの声で気づかされることすらあった。
 そうした中で、二人はファンから「変装する気がない」と揶揄されるほどに、変装が下手である。お忍びで……、のつもりで、二人で出かけた先で、なぜかパパラッチに合い、なぜかそれがインゲニウムとショートであることがばれた。二人はいまでも不思議なのだが、SNSでは、パパラッチされた二人の写真について、「隠れる気がない」「変装下手すぎる」とコメントされ、一気に拡散された。

 轟の変装は、サングラスひとつで完了する。目立つ髪を隠すべきだろうに、轟は「火傷の痕を隠さねえと」が先に立って、目元を隠すことに終始した。
 対して飯田は、取るべき眼鏡をつけたまま、別に隠す必要のない口元をマスクで隠して(変装といえばマスクだという先入観があるのだ)、極め付け、エンジンつきの足を隠すべきところ、出先で何があってもいいようにとハーフパンツを履いていた。事務所の人間にこっぴどく叱られることになったが、結果、ふたりの関係は公然のものになった。
 結果オーライ、だと轟は思っている。隠す必要もなくなったので、堂々と、何か聞かれても、「いいお付き合いをさせていただいています」とお互いそう答えている。メディアに出てももうそんな質問が来ることすらなくなった。轟と飯田が「そう」なのではないかと勘繰って熱心に彼らを追いかけていた女性ファンたちは、その事件で「公式が最大手」を叩きつけられることになった。
 
 ……という、こうした経緯で、二人はもう隠す必要もないだろう、と同棲に踏み切り、今に至っている。下手にデートもできなかったデビュー当時を思えば、轟は今の方が気楽で好きだ。二人のことをあれこれ週刊誌が書いたり、あることないこと言われたりもするが、応援してくれているファンが変わらないことが、二人の支えになった。プロヒーローの世界は、学生期が安穏だったと思えるほど、激動の、食うか食われるかの世界だが、それでもお互いがいればなんとなくやっていけそうに思う。轟はエンジンをかけ、ハンドルを握るまでは、そんなことを考える余裕があったが、車を走らせる段階になると、スコンと頭が真っ白になった。
「……まっすぐ?」
「ああ。そうだ。とりあえず中央通りまで出ようか。俺が隣で道を言うから大丈夫だ」
 思いのほか緊張している轟に、君そんなに運転嫌なのか、と意外そうな顔をして、飯田の指示通り車は走りはじめた。嫌、というか、苦手なのだ。自分の体でないものを動かすのは、どうしてもなんだか違和感が残る。
「次の信号を左だ、轟くん」
「…………おう」
「高速に乗ったら、大分楽になるから! 初心者マークもたくさんつけたから大丈夫だぞ!」
 前と後ろにつけられた初心者マークが、プライドを損ねるどころか、轟には安心だった。頼むから俺を避けて走ってくれ、という気持ちで、轟は高速まで逃げ込むように走る。飯田が運転していた学生期は、飯田の顔ばかり見てドライブを過ごしていたのに、轟は今やまっすぐ前を凝視して、ハンドルを握る手もそれどころではなかった。
(まったく、普段の彼からは想像ができないな……)
 飯田は、そういう轟の様子を眺めながら、微笑を噛み殺すことがむつかしかった。

   (2)

 ファームパークは東京とは思えないほど空気が澄んでいて、かすかに動物のにおいがする、ゆったりとした雰囲気の場所だった。高速に乗って一時間と少しで、東京の摩天楼がすっかりなくなるのは驚きだ。入ってすぐの入口には、掲示板に「今日の野菜」と書かれた黒板があり、何を収穫できるかが写真で添えられている。クレソン、ラディッジュ、ルッコラ……。よりも、飯田はジャガイモとか、トマトとか、カリフラワーに惹かれている。収穫した野菜は持ち帰ることもできるので、そのラインナップはカレーにするつもりだなと轟は頬をゆるませた。
「轟くんは何を食べたい?」
「シュンギク。コマツナ」
「言うと思った……。おひたしにするつもりだろう」
「お前あんまり好きじゃねえよな」
「食べるさ。子どもじゃないんだから」
「でも好きじゃねえだろ」
「……おひたしは、あんまりな……」
「……」
「あっ! 何を笑ってるんだ! 失礼じゃないか! 君だってパセリ食べないだろう!」
「あれはかざりだろ」
「かざりじゃないぞ! パセリだって食べられるんだ!」
 和食の味付けがどうも苦手で、残しはしないがおひたしが好きではない飯田をからかうと、パセリだのセロリだのグリーンピースだのを残すことを叱られる。轟は渋みのある和の味付けが好きだが、飯田は洋風の味付けが好きなのだ。轟は、飯田の「苦手だけれどがんばっておひたしを食べている」ときの顔が好きで、小鉢に入れてわざと夕食の献立にいれてやることも少なくなかった。
「とにかく、まずはバーベキューだな」
「昼時だしな」
「おなかは減っているかい?」
「うん」
「あ! 見てくれ、轟くん! 羊が!」
「おお。すげえ。ひつじだ」
 ファームパークにはあちこちに動物が歩いている。轟と飯田の前を通って行った羊と、飼育員を見送って、二人はのんびりとパークの中を歩いた。バーべキューができる場所がパークの一番奥なので、奥へ行くついでに、ふたりはあちこち見て回ることにした。
 コアラがのんびり眠っている、木造りのコアラ館。とろとろ目をしょぼつかせて眠たそうなコアラを見て、君みたいだなと笑う飯田は、「どうぶつたちに年賀状を送れるよ!」という張り紙を真剣に読んでいる。うさぎ小屋ではうさぎを抱くことができるらしい、と向かったふたりが、まったく変装らしい変装をしていなかったせいで、「インゲニウムさんとショートさんですよね!?」と呼び止められ、一時、ふたりの周りに人だかりができてしまった。うさぎを抱いたまま写真を撮ったり、撮られたり、結局周囲に集まってきたファンと、ファームパークあてにふたりでサインを書くことになった。
「お騒がせしました……。まさかこんな大事になるとは」
「いえいえ! お二人にきていただけてうれしいです! 写真とサインをかざっても?」
「ええ、問題ありません! 楽しい時間をありがとうございました!」
 ワッ、と口をいっぱい開けて、社員用入口から外に出してくれた飼育員たちに頭を下げた飯田につられて、轟もぺこりと頭を下げる。ヒーローファンマガジンで「インゲニウムとショート、うさぎと戯れる」という見出しが思い浮かぶようだった。
「かえって騒がせてしまったな……。やっぱり変装はもっとちゃんとすべきだな」
「ん。……ちょっと、つかれた」
「そうだな。君は運転もあるからな」
「……」
「眠いか? 運転かわろうか?」
「……いや、がんばる」
「えらいぞ! 眠くなったら、これをあげよう」
 準備してきたんだ! 飯田は元気よく、ジャケットの胸ポケットからミントのタブレットを取り出した。
「いま食う」
「いま?」
「んあ」
 ぱか、と口を開けて待っている轟に、少し呆れたほほえみを浮かべて、飯田はタブレットをふた粒、轟の舌の上に乗せた。そのままキスしてえな、と思ったけれど、飯田がそれを察して、先に厳しい顔をした。
「駄目だぞ。またパパラッチに撮られたらどうするんだ?」
「……ショートとインゲニウム、人目を気にせず熱烈なキス」
「やめてくれ!! 事務所にえらく叱られたんだ!!」
「俺も親父にどやされた」
 実際に昔書かれた見出しだが、苦々しく思う反面、轟は、ばれてよかったな、とも思うのだ。
 こいつは俺の恋人だぞ、と世界中に主張できている感覚が、轟はたまらなく好きなのだ。

 高速に乗ってしまうとずいぶんマシだ。行きのサービスエリアでは駐車をしたことがない轟が、ぐるぐる同じ場所を困ったように回り続けた。駐車も練習しないとうまくならないぞ! と飯田に叱られ、飯田は一人車を降りて、どこから取り出したのかホイッスルを吹き鳴らしながら、オーライッ! オーライッ! とけたたましく指示をするのでまるで教習中の車両にしか見えない。
 コンコンっ、と窓を叩いて、
「轟くんッ! まだバックできるぞ! ずいぶん前に出てしまっている!」
「わかんねえ……コーンがねえ……」
「コーン?」
「……教習んときは、駐車するときコーンが目印になってた」
「……ッ!」
 耐えられない、という風に吹きだして、アハハハハッ、と飯田は盛大に笑う。コーンか! コーンはないぞ! 教習じゃないんだから。飯田に笑われて、ムッとしたけれど、確かに事実なので仕方がない。
「俺の声を頼りに! 俺が立っているところまでは下がれるから、自信を持つんだ轟くん!」
「……あぶねえだろ、飯田……。轢いちまう」
「大丈夫! 危なかったら逃げるからな!」
 そういう悶着を往路でやって、帰りにはマシに駐車できるようになった。すばらしい! うまいぞ! とコーン代わりの飯田天哉が車の外から拍手をしている。これが毎週やれるなら、苦手な駐車も悪くねえなと轟はそう思う。
 サービスエリアに来ると、学生のころの初めてのドライブデートを思い出す。買ってきたお土産を後部座席に積み終わった飯田が、助手席に乗り込んだ。ふう、といよいよ今日最後のドライブに、気合をいれるためのため息をひとつ吐き出した轟は、飯田が体を近づけてきたとき、何が起こっているのか理解をするのが一瞬遅れた。
「飯田?」
 むにゅっ、と頬にくちびるが触れた感触があった。ぎょっとして、隣を見たときには、飯田の体が運転席にねじ込まれていた。ぐんっ、と背中が倒れて、あっ、これは、知ってるやつだ。
「飯田」
「……覚えてるんだろう、轟くん」
 あのとき君がやったひどい仕打ち、俺は絶対忘れないからな。ずっと根に持っているんだぞ。飯田はきりっと眉を厳しく上げて、轟にのしかかる。ツミツミのぬいぐるみがないのがあのころとは違う。思わずもぞもぞもがいて、赤くなった轟を見て、飯田は満足したようだった。
「驚いただろう? 君がしたのはこういうことだぞ、轟くん! 俺がどんなにびっくりしたか……」
「ああ。すげえびっくりした」
 言いながら、手を伸ばす。飯田は珍しく嫌がらない。本当にやるつもりらしい。何を怒っているのか、轟にはぴんとこなかったが、どうやら学生時代の仕返しを、飯田はしたいらしかった。
 のしかかっていた飯田の体が、ぴったり轟の胸にしなだれかかり、硬い男の感触がする。吐く息が耳にかかった。ちゅっ、ちゅっ、とくびすじでくちびるがなぞる音がして、ボルテージがじりじりと上がってきた。そっちがその気なら、受けて立つ。轟は勇んで、飯田が脱がせるまま、上着を脱ぎ捨てた。
 ジャケットを脱ぎ、シャツをほどき、アンダーウェアを取り払って、飯田の鍛えられた体が目の前にそびえ立っている。頑丈な城を彷彿とさせる男の体だ。筋肉の線がくっきり浮いていて、飯田自身も誇らしげに維持しているオスらしい体。
「これは、仕返しなんだからな……君への……」
 自分がしたいからじゃないんだぞ、と噛んで含めるように言う、飯田の弁明は聞いておいてやることにする。大人らしくより精悍になったお互いの顔立ちに、お互いの体に、そういえばじっくり触れられる時間がどんどん短くなってきていた。いま、その時間を作るのも悪くない。
 ぐつぐつと興奮し始めた体をまさぐって、てのひらに肌のじんわりした熱さが伝わってくる。窮屈な車内でなんとかズボンを取り払って、パパラッチよけに設置している窓ガラスの目隠しをオンにする。ヒーローが乗っている車はたいてい、フロントガラスからすべてのガラスにボタン一つ押せば目隠しがつくようになっているし、いうまでもなく防弾だ。こんなところを襲撃されたらシャレにならないし、こんなところを撮られたらどやされるだけでは済まないだろう。
「すげえ、飯田、興奮してんな」
「……ああ……」
 ボクサーの上からでも、飯田の性器のふくらみが分かる。体格に見合って立派な、勃起すると筋の浮く性器を指ではさむように撫でて、上下にしごく。布越しの刺激に飯田の背中をぶるっと震えた。
「上乗ってくれんのか」
「乗ってあげるんじゃない、君が上に乗られるんだ」
 厳しい目をしても逆効果だ。いつもと違う、主導権を握ってこようとする飯田に、かえって興奮する。ぐに、と飯田の尻が轟の性器の上に乗る。ぐっ、と腰を突き上げるようにすると、啖呵を切ったそばから、アッ、と飯田が声を上げた。
「飯田」
「……轟くん……」
「かわいい」
「かわいくは、……ないッ、……君のほうがかわいいんだ」
 怒っているのもまたかわいい。ボクサーのゴムをずらして、ぶるんっ、と頭を出した性器を握り、カリの先を指でいじめる。ぐに、ぐに、とやると、待ち望んでいた直接の刺激に、飯田のモノが硬くなった。
 ずらしたボクサーからのぞいた尻の谷間で、轟のモノがぐにぐにこすられる。飯田の腰を片手で押さえて、前後に動かすと、大きくなってきた轟のモノの感触を感じて、飯田の声がひときわ大きく車内に響いた。
 しい、と指をくちびるに当て、忠告する。ただでさえ、飯田は声が大きいんだから。
 轟は手を伸ばして、カーラジオをオンにした。学生のころからやっている看板ラジオ、エアー・ジャックは深夜枠になってこの時間から放送されている。昔と違うことと言えば、パーソナリティがかわったことくらいだ。

 ……エアー・ジャック・ナイト、今週もお届けするのはイヤホン=ジャックです……

 っ、けしてくれ、いまは……。轟もすっかり忘れていた。かつての同級生がパーソナリティをやっていたこと。けれどいじわるをしたいので、消さない。耳郎響香が知ったら、ウチをダシにするなとビンタの一つもされるかもしれない。体をひねってラジオを消そうとする飯田の腰を引き寄せて、くち、と指でそのむっちりした尻の肉を開いた奥に、カリの先をあてがった。
「ん、ッあ!! ああっ、……んぉっ、……!」
「あちい……」
 飯田の、尻にぎゅっとつまった肉厚の、みちみちとした感じがたまらない。奥までずどんと貫かれたしびれる快感で、飯田は息をつまらせた。

 ……まずはこの曲でお届けしましょう、……レトロなヒップホップチューン……ウチももちろんこの曲が好きです……ドライブの夜にぴったりのトラック、……Tokyo classic……

 轟の胸の上に両手をつっぱり、おずおずと飯田が腰を上げる。ずるん、と性器が尻から抜けて、そのまま、また腰をゆっくり下ろす。ぱつんっ、と肉のぶつかる音がして、ひぐっ、と飯田が喉を鳴らした。
 曲が流れ始めると、飯田の体が少し弛緩した。同級生の声が聞こえないことに安堵したのだろう。ゆっくり、スローに上下する飯田の慎重で遠慮がちな動きに焦れて、轟は両手を飯田の腰に添え、ぐいと一気に引き下ろした。
「んっふ……ッ! ああっ、……いけない、いけないッ、……轟くん……ッ!」
 ばちゅっ、ばちゅっ、と腸液のまじるどろっとしたスラストの音がリズミカルに響き、飯田の目から星が飛ぶ。きゅんきゅんっ、と飯田が尻に力を入れるたび、轟もしぼりとられるみたいなしめつけのせいで、イクのを必死に耐える必要があった。
「あっ、……やべ、飯田……っ」
「見せてくれ、とどろきくん……っ、顔、……」
「おまえも、すげえ顔……」
 ぱんっ、ぱちゅんっ、と車内に軽やかな音がひびく。慣れてくると、飯田の体も自然上下に動くようになって、飯田は恐ろしいものでも見るように、けれど期待に濡れたとろとろの顔つきで、つながったところをじっと見つめていた。
「ああっ、は、あんっ、……あっ、だめ、だめだ、……それ以上……ッ、んあっ、……おっ、あ……」
「いいだ……っ、……いいだ、……」
「きもちい、か……? とどろきくん、……」
「すげえ、……きもちい……」
「ぼくもだ……、……んあっ、あ、は、……!」
 感じすぎるとエンジンが鳴るのは変わらない。排気口がけむりを吹きはじめ、停車している車の中からエンジン音が響きはじめる。熱にうわっついた表情で、飯田はじっと轟の瞳を見下ろしている。満足そうな、してやったりの顔がたまらない。かわいいなあとか、思っているんだろうか。お互い様だ。
 ずぐっ、と深く腰を引き下ろすと、飯田が前のめりに力を失った。眼鏡がバランス悪くかちゃかちゃいっている。キスしてえな、のアピールに、轟は飯田の顔にくちびるを近づけ、ぐらぐらしている眼鏡のレンズを舌でぬろりと舐めあげた。
 冷たいガラスの感触が舌の上を這う。飯田はそれどころでない様子で、「キスしてえな」にも気づかず、半開きの目で、絶頂するのを耐えている。
「は、はっ、……ああっ、……ふかい……ッ」
「なかに出してえ、……飯田……」
「うん……っ、轟くん、……なかに……っ!」
「がまんできね、……っ」
 ぱつっ、ぱつんっ、! 尻の肉がぶつかってふるえるくらい音を立てて、飯田がシートにしがみつく。自力で体を起こしていることももうままならなくなった。そんなとこじゃなくて、俺にしがみつけよ。轟がそう言うと、飯田は素直に轟の肩にしがみついた。
 多少車はミシミシ言ったと思うし、ドルルルルルッ、とフルスロットルの飯田のエンジンの音も外に漏れていただろうと思うが、二人はそんなこと、お構いなしに、最後まで駆け抜けた。支離滅裂になって、ろれつが回らなくなっても、ああっ、いく、いく、いく、の合間に、お互いの名前を呼び合った。
「ああっ、だめ、だめだ、っいく、っ、あああっ、あ、とどろきくんっ、……あっ、い、いいっ、あ、あ、あ、あああっ!」
「……あーっ、やばい、……いいだ、……やべえ、……でる、!」
 爆発して、どろっ、と飯田の中に吐き出されたものが、腰をあげ、性器を引き抜いたとたんに尻からどろりとこぼれた。皮のシートに落ちたそれを、すぐ拭かなくてはシートが傷んでしまうのに、ふたりは呼吸だけで精一杯だった。

 吊り橋をわたり、高速道路の終盤にさしかかったころには、飯田は鼻歌交じりの上機嫌だった。体力の限界が迫る轟が、気力でハンドルを握っているとなりで、余裕綽々、飯田はしてやったりの顔をしている。
「君がどれだけひどいことをしたか分かっただろう? 運転はかわってやらないぞ。君が、自分で運転して帰るんだ」
 よっぽど、学生のとき、帰り道に助手席でスコンと眠ってしまったことを根に持っているようだ。ねみい、と訴えると、飯田はミントのタブレットを取り出した。
「我慢したまえ。轟くん! 自分で、運転して、ちゃあんと家まで帰るんだ!」
 ふふん、と鼻を鳴らして、ほら、次は右だぞ。飯田は結局、寝てしまわないで、隣で指示をしてくれる。なんだかんだで、こいつは根っからこういうやつだ。轟が噛んだミントのタブレットが、カリッ、と小さく鳴ってはぜる。カーラジオが繰り返す。

……足もとに広がるUnderworld……
……いま、この街より愛をこめて……

   〈了〉