ゆめをかなえる旅籠にて

※2016年?ぐらいに発行した同人誌再掲
※林間学校付近の時系列を捏造
※冒険小説っぽい

「まあ、お嬢さん、粋ねえ。黒塗りの下駄に爪紅なんて、お月さまでもほだされる」
        三島由紀夫『橋づくし』より

〈序〉

 安永五年八月廿日の記
下野(しもつけ)富田(とみた)村に奇妙な噂あり。名を「阿闍(あじゃ)利(り)」と云う鬼が出ると、誠しやかに囁かれている。村に立ち寄り、村人たちの話を聞いた快(かい)庵(あん)禅師(ぜんじ)、山へ登り寺を見回る。昼には異変のないところ、夜にどうと風が吹く。
村人語る。
昔、阿闍利という坊様がおられた。阿闍利様は極めて高名な坊様で、非常に徳の高いお方であった。下野富田の村から、ひととせに二度ばかりほど説法を聞きに村人が集まり、災厄を祓われていた。然し、阿闍利様は或る年を境にみとせほど寺をお空けになり、遂に戻られた頃には、一人の稚児を連れておられた。
年の頃、拾五ほどの稚児は、大変美しく、阿闍利様を本当の爺様であるかのように慕い、身の回りの世話をされていた。
更にひととせ後、村へ下りてきた阿闍利様の姿を見て村人は慄いた。悲しみと絶望に暮れられ、見る影もない痩せようであった。聞けば、稚児が病にかかり、数日寝たきりであると云うことらしい。村人たち総出で看病にあたったが、稚児はとられた。阿闍利様は心を閉ざしてしまわれた。
阿闍利様は今も、稚児を奪った御仏の残酷さに嘆き、苦しんでおられ、其の姿は鬼と化してしまっている。此れを聞き、快庵禅師は山を登り、阿闍利様の棲む寺へ足を運ばれた。
阿闍利様の御姿は殆ど悪鬼のそれとなり、稚児を奪われた苦しみで、御仏さえ呪うようになっておられた。快庵禅師は此れを見て、阿闍利様にお導きを与えられた。
「阿闍利、お前にまだ人の心、御仏を敬う心があり、御仏の元へ逝った稚児を愛しく思うのならば、私の後をついてくるがよい。但し、必ず後ろを振り返らず、声を出さぬように。そうすれば、お前の願いは叶うであろう」
 此れに耳を貸した阿闍利様は、黒ぐろととぐろを巻いた髪を振りみだし、口から赤黒い炎を吐きながら、快庵禅師に従った。森にかかった無数の橋のうち、七つを選んで渡りきり、念仏を聞かせながら、快庵禅師はとうとう阿闍利を率いて本意を遂げた。最後の橋を渡りきると、阿闍利の姿は生前の清らかな坊様の姿に変わり、阿闍利様は微笑んで、快庵禅師に深々と手を合わせられた。
「鬼と化した私の心は晴れ、御仏を恨む心も失せました。重ねて、有難く存じます。願わくば、あの稚児の健康な姿を、もう一度この目で見たいものです」
 快庵禅師は阿闍利様の成仏のために念仏を唱え、その魂を手厚く弔った。
 後に、盆の頃、稚児への想いを深くした阿闍利様が、鬼となった頃の姿で彷徨い現れると云う噂があるが、七つの橋を渡り尽くせば、阿闍利様のお心は亦、尊いものにお戻りになられるということである。
 阿闍利様は、拾五の歳に亡くなられた、美しい稚児を探しに、八月の頃迷い現れる。

〈一〉

 降り立ったときつま先に草の感触が伝わった。いっぺんに肺へ入ってくる澄み切った空気のにおいのせいで、いかに先ほどまで自分たちがいた場所から遠くまできたかを思い知る。順番に! 並んで! 番号順だ! と叫んでいるのは教師ではない。委員長の飯田天哉だった。靴底で草をふみ、一歩ずつ確かめながら、山奥の気配をじっくり噛みしめる。轟焦凍が下車したのは後ろから三番目だったが、飯田の手によって番号順の列に押し込められた。
「行くぞ。荷物持ったか」
 担任の相澤の声に、生徒一同が思い思い返事をする。轟のボストンバッグは嫌に重量があった。原因は飯田だ。下着も着替えも三枚も予備を持たされたし、新品の歯ブラシも二本。パジャマも二セット。ハンカチに至っては十枚も入れられた。ぎっしりつまった重たいボストンバッグだが、嫌な気はしない。轟はこのぎゅうぎゅうのボストンバッグも愛しく思えた。
 飯田のボストンバッグは更に重いはずなのだが、飯田は慣れているようで、軽々背中に背負って歩いている。轟は足早にそのあとを追って、隣に並ぶ。バスが停車した場所から旅館までは少々歩くようだった。
 キャリーバッグの方が苦労しそうだ。山道に引っかかって、なかなか先に進まない。芦戸と葉隠が、後ろで必死に引っ張っている声が届いてきた。女子はキャリーが多い。こんなところを歩くとも、キャリーバッグで来るなとも予告されていなかったため、女子たちは当たり前のように自前のキャリーで来たのだろう。
「轟くん! 番号順だぞ」
「誰も並んでねえ」
「ムッ! みんな仕方がないな! まあいいよ、もうバラバラになってしまったし」
 目的地は知らされていなかった。つい最近、ヴィランによる生徒の襲撃があったせいで、極力行き先が漏れぬように、学校の側も注意しているからだろう。永遠とも思える道のりだが、実質は数十分だ。旅館の姿が見えてくると、歩いている生徒たちの歩調も速くなった。
 旅館の入口には数人の仲居の姿があり、生徒たちを待っていたようだった。B組のバスは止まっていない。B組とは別々で宿泊し、のちに合流するようだ。A組の初めの停泊地はここだった。変わった名前の旅館だ。
「旅籠 あじゃり」
 はがれかけた木の古めかしい看板に、そう刻印がされている。仲居頭らしい老女は、腰がすっかり曲がってはいたが、結い上げた髷の凛々しい、しゃきしゃきと動きの機敏な人物だった。
「よう来なさった。荷物が重いでしょう。仲居が案内しますので、どうぞ」
「男子は大部屋、女子は二組に分かれて四人部屋に入れ」
「あら消太先生、老けはりました?」
 京都なまりの、三十そこそこの仲居が親しげに笑う。去年も来ているようで、先生と仲居達は顔見知りのようだった。一年そこそこで老けるわけねえでしょう、と相澤も軽く受け流し、頬には微笑が乗っていた。気心知れているからこそ、ここへ来るまでぴりぴりした空気を纏っていた彼が、到着して安堵した雰囲気を帯びているのだろう。
 靴を脱ぎ、裸足で上がった木造りの土間の入口には、囲炉裏のやさしい炎がともっている。離れの大部屋は、渡り廊下を渡ってすぐのところにあった。廊下を通れば小さな滝のある日本庭園が眺められ、塀の向こう側には大きな山々が悠然と広がっている。轟はここがいたく気に入った。風呂も露天風呂で、天然温泉だそうだった。
「すごいね! 高そうな旅館だけど、合宿でこんないいところに泊まれるんだね」
「見た目は古いけど、中は案外新しいよな?」
 緑谷が感嘆の声を上げたのに、切島も同意する。インスタに上げる、と意気込んで、上鳴はさっきから写真を撮っていた。
「築九十年の老舗です。内部は何度か改装してますけど、」
 案内役の仲居はかな子さんと言う、まだ十八の女性だった。しとやかそうで、日本の古き良き、いかにもなかわいらしさを持っている彼女に、男子たち(主に峰田と上鳴だが)は気が気ではない。
「大部屋はこちら。繁忙期は宴会場になるんですが、しばらくはみなさんの貸切です。お布団はあとで、お風呂の間に敷きに来ますので、荷物だけ固めて一か所に置いておいてくださいね」
「はい! ところでかな子さん好みの男のタイプは!? 年下でもオッケー!?」
「かな子さんLINEやってます!?」
 返事が飯田より早いので、何事かと思えば峰田と上鳴コンビである。「君たち! 私語は謹んで! 仲居さんに迷惑だろう! 申し訳ございませんッ!」と飯田の謝罪も間髪を入れない。かな子さんはきゃらきゃら楽しそうに笑って、若いお客さんは久しぶりです。と調子を合わせてから、お茶の用意をして出て行った。梅こぶ茶に真っ先に手を出したのは轟だった。
 畳の上に足を伸ばし、くつろぐ姿勢になった轟の横に、ようやく飯田が座った。さっきから人の荷物の片づけばかりしていて、轟はすっかり待ちくたびれた。梅こぶ茶の入った湯呑はからっぽになっていて、飯田は少しぬるくなった茶を一口飲んだ。
 仲良くなってから、飯田天哉がこうやって躊躇なく隣に座ってくれるようになった。友だちなんだから当たり前だというくらいの気軽さは、轟には初めてのものだった。くすぐったくて、温かい。居心地が悪くてもぞもぞ座りなおしたことにも、飯田は気づいたそぶりもない。
「まったくみんな派手に散らかしてくれて! 荷物はひとまとめにと言われたのに!」
 すげえ、デカい庭! 見に行こうぜ! ねーねー男子の部屋どんなの~!? あちこちから声が錯綜していて、飯田はそのたびにちらちらと顔を上げ、いけないぞ! とか、やめないか! とか声を上げている。そわそわと腰を浮かす飯田は、それでも完全に立ち上がろうとはしない。尾白、常闇と庭を見にいっていた緑谷が戻ってきて、轟の隣に腰掛けた。緑谷もそうだ。当たり前のように轟の隣を選んで座る。
「さすが雄英! って感じだな~。庭も広くてさ……」
「轟くんには居心地がいいかもしれないな! 純和風、という感じで」
「ああ。実家に似てる」
「ひゃ~! 轟くんの家ってやっぱり大きいよね!? 噂だけど前庭と中庭があって中庭には錦鯉のいる池が……」
「すげえな。なんで知ってんだ」
「ほんとなんだ!? すごいね!? 掲示板の情報も馬鹿にできない!」
 部屋には人数分の浴衣があり、食事の時間まで先に入浴、ということになった。入浴後、夕食を食べて、明日からの合宿メニューの説明があって、就寝。そういう予定になっている。今日は到着が遅かったこともあり、本格的なトレーニングはまだ始まらない。しごきの前のつかの間の旅行気分だ。
 浴衣と着替えを抱えて、めいめい大浴場へ移動する。女子とはあいにく場所が離れていて、飯田は峰田に気を取られる必要がなさそうだ。竹で編まれた籠の中に着替えを放り込んで、真っ先に大浴場へ走った連中から少々遅れ、轟、飯田、緑谷も、湯の跳ねた石畳を踏んだ。
 露天風呂のむわっとした煙を浴びる。すごいな! 広い! 隣で飯田が感嘆の声を上げ、思わず足早に踏み出そうとしたが、眼鏡がないため視界が悪いのか、「おおっ」とためらって、ぎゅっと轟の腕をつかんだ。
「お」
「すまないッ! 煙でよく見えないな!」
 肩を貸してくれ。 転んだらことだ! 飯田はそう言って、たくましい腕を轟の肩に乗せ、慎重に足を踏み出した。かけ湯をして、石造りのふちを下りて湯につかった。足先からじわじわと温かみが這い上がる。肩までつかると、もう二度と出たくない気持ちになった。もくもくと立ち上る煙を肺一杯に吸い込んで、思い切り体を弛緩させ、頭上を見上げると星がいっぱいだった。
 轟焦凍は長風呂をするタイプだ。飯田天哉は生来のきびきびした性格のせいもあってか、さっとつかってさっと汗を流し、さっさと出てしまう性格のようだったが、今日は轟の長風呂に合わせているのか、湯船にいる時間が長い。体をうんと伸ばして、石造りの淵に頭を置き、眼鏡を外して星空を薄目に見つめている。どうやら多少視界がぼやけているようで、いつもカッと見開かれた飯田の目が不思議そうに細められているのも新鮮だった。
「まったく君は長く耐えるな!」
「ああ」
 ふう、と熱い息を吐きだして、俺は先に体を洗うよ、と降参して、湯から上がる。ざば、としぶきを飛ばして隣の男が立ちあがると、熱された彼の太ももの排気口がぴかぴかになっていた。
 湯がいいのか、肌がつるんとなめらかになっている。洗い場から聞こえる喧騒に、飯田の「走ると危ないぞ!」という声が交った。ややって、誰か転んだのか、ギャッと悲鳴、それから弾かれたような笑い声が聞こえてくる。「そら見たことか! やめたまえ! 品性を疑われるぞ!」とやはり騒ぎには飯田の声が交った。露天風呂に残っているのは轟だけだ。みんな皮膚を赤くして、火照った体を外気に晒し、あっちィ~、と言いながら出て行った。この熱さはいい熱さだ。静かな夜の森と、星空をこんなに近くに、ゆったり風呂に入れるなんてそうそうない。
 しばらく粘ってから、轟は立ち上がった。洗い場にいた男子たちが入れ替わりに露天へ出てゆく。どうやら轟が一番遅れているようで、早い者だともう上がってしまったくらいらしかった。
「轟くん! 長かったなあ」
「ああ。寝そうだった」
「危ないぞ。ほどほどにな」
 ところでちゃんとウォッシュタオルは持ってきたのか? えらいぞ。上がったら夕食みたいだが、この調子だと君は夕食前に眠たくなりそうだな……。あれこれ、髪が泡だらけのまま世話を焼いてくる男に含み笑いをする。緑谷ァ~! 卓球台ある! やろうぜ! ちょっと待ってまた転ぶよ!? ……遠く聞こえるはしゃぎ声に、隣の男がワッと声を上げた。しゃこしゃこ髪を洗いながらの姿が笑いを誘う。緑谷がそれにこたえるように、飯田くん、轟くん、先に上がってるね! そう投げかけてきた。轟は返事をしようと思ったが、髪から落ちてきたシャンプーの泡に目を閉じて、ザッとシャワーを頭からかぶったところだったので、もがもが言うだけで言葉にはならなかった。
「まったく! みんなはしゃぎすぎる! 遠方まで宿泊で気持ちが高揚するのは分かるが、旅館がこんなに落ち着いているのにどうもそわそわしていて……」
 そわそわのベクトルが違っているだけで、飯田もいつもより声が大きいのは、宿泊合宿にわくわくしているせいなのだろう。髪がぺったり、濡れて湿り、水が滴っている轟を見て、飯田はそっと笑った。タオルいるかい。尋ねられて、轟はこくこく頷いて見せる。頭からかぶせられた小さめのタオルで、頭をごしごし拭いてくれる飯田の手が心地よい。できれば永遠に髪が乾かなけりゃいいのに、とさえ思った。
 みんなが上がってしまっても、入浴時間のギリギリまでは温泉につかっていたい轟を、飯田は置いて出なかった。また戻るのか! 飯田は素っ頓狂な声を上げつつも、轟の後をついてきて、また星の見える露天風呂へ一緒に舞い戻ってきた。
「深い森だな。ずいぶん山奥みたいだ」
「ああ。なんか出そうだな」
「昼間は景色がいいんだろうが、夜はちょっと……。不気味だな」
 夏休みに入る前、大きな事件があった。轟と飯田、そして緑谷を結びつけるきっかけになった事件だが、いまでも三人……特に飯田の上に深く影を落としている事件だ。あのときの、底知れぬ暗闇のことを思い出したのだろう。そこに息づくものが確かにいるはずなのに、その正体が分からないという不安な暗さ。真っ暗闇、というわけでもないのに、自然と何かの影を探してしまうような、嫌な空気が森にはあった。
「小さい頃、森が怖かった」
「……俺も」
「確か君とその話をしたんだっけな。兄さんと登山へ行って、……走り回っていたら迷子になった話」
「ああ。聞いた。授業のときだ」
「君も、君のお父さんに、山へ放り込まれたんだったな」
「ん。すげえ迷って、どこ走ってんのかも分からなくなって……。結局捜索隊に救出された。ちょうどそれがオールマイトだった」
「……」
「……」
「ああ、駄目だぞ轟くん! 寝てただろう」
「……寝てねえ……」
「寝てるぞ! 目を閉じちゃだめだ。余計眠たくなるからな。がんばって!」
 ことん、と飯田の肩口に頭を置くと、飯田は困ったように身じろぎをする。目を閉じて、飯田の息遣いに合わせ、上下する肩の動きにまかせると、いよいよとろんとしてきた。轟が静かに目を閉じ、まどろみと心地よさの中に身を投じていると、飯田の手が、轟の髪に伸びてきた。
「……サラサラだな……」
 まるでため息のように、飯田がそう吐き出したのが轟の鼓動をドクッと鳴らし、飯田もいまのはまずかったと思ったようで、慌てて姿勢を正した。二人の間に流れた、微妙な空気が、「そろそろ上がるべき」だと二人に告げていた。
 どちらともなく立ち上がり、露天風呂を後にしようとしたとき、どう、と森が鳴いた。風の音とうねりが混ざった震えの中に、獣の咆哮に似た……、いや、……いわば悲しい叫び声のような……声が聞こえた。振り返り、森に何もいないのを確かめて二人は、じりじりと後ずさって脱衣所へ入る。森の音が聞こえなくなった途端に、二人の肩から緊張がほぐれた。
「……っふ」
「ハハ……」
 森を怖がる小さな子どものころに戻ったようで、二人は照れ隠しに笑い合った。

〈二〉

 飯田が懸念した通り、夕食時になると轟はいよいよ目をしょぼつかせて、眠たいようだった。鍋の湯気の向こうに、とろんとした目があるのを見て、飯田は何度も呆れたように笑い、轟くん! と声をかけた。周囲のクラスメイトたちも、轟がもう眠たくなっているらしいということで、「おーい、起きろよ~」「イケメン起きろ~」と小突いたり、声をかけたりして彼の目をどうにか開けさせていた。
 山菜と鴨肉の鍋のシメは、温かい蕎麦だった。運ばれてきた蕎麦の山を見て、「お」と目を開けた轟に、よかった! 目が覚めただろう! 山盛り食べるといい、と勝手に飯田が椀を取り、いっそ品がないくらい山盛りにし始める。轟はわくわくとすべてが椀によそわれるのを待った。鴨の出汁を吸った蕎麦は、芯から温まる深い味わいがあった。
 船盛で出てきたお刺身もすっかりなくなっている。風呂上りの浴衣姿の女子たちに、おおっ、と目を向ける暇もなく、今度はごちそうで責められた。卓球を思うさま楽しんでぐったり腹をすかした男子たちには豪勢な料理であった。あまりにただの「旅行」然としているところが腑に落ちず、本当にこれだけ? とまだクラスメイトの中には疑いを持っている者もいたが、おおむね、料理が終わるころにはそれもすっかり忘れてしまっていた。
 腹いっぱい食べて眠くなってきたのは、轟に限らずのことである。飯田ですら、あくびを噛み殺し、涼しい浴衣の胸元に入る夜風でも、しゃっきり目をあいていられない。夕食が終われば部屋に戻るかと思いきや、全員、宴会場が片付くまで廊下で待つようにと相澤に言われ、眠い目をこすり、あくびを噛み殺しながらみな廊下でじっとしているところだった。これから何が始まるのだろう。もちろんだが誰も何も分かっていない。
「何かやんのかな?」
「レク?」
「いや、この学校に限ってそれは……」
「これからトレーニングとかあるかな?」
「ないとは言い切れないわね」
「眠た~い……」
「まだ八時なんだ……もう真夜中の気分」
 めいめい、宴会場の中で行われていることがちょっとでもわかれば、と障子の向こうを見つめているが、結局、扉がすべて開け放たれるまで、何が起こるのかは分からないままだった。
 すっかり片付いた宴会場には、座布団の上にちょこんと座った旅館の老女将、そして仲居さんたち、あとは相澤がいるばかりであった。
「全員座れ。適当でいい」
 相澤の静かな指示に従って、いつも騒がしいA組は、一様に静かだった。女将や仲居たちの雰囲気にのまれたのかもしれない。轟も、先ほどまで体を支配していた眠気がスッと消えていくのを感じ、弛緩していた体を緊張させる。指先へじりじりと緊張感が伝わるのは、本能的なものだった。
「たくさん食べて、眠くなったところすまないねえ。この旅館の女将をやっとります、菊世と申します。雄英高校の生徒が来たら、毎年恒例でやる、伝統的なお話があってね。みなさんにもよかったら、聞いていただきたいのだけど。聞いてくださいますかねえ」
 ごく、と生唾を飲みこみ、自然、みんながおのおの首を縦に振っていた。相澤は毎年のことらしく、いつも通りの表情だ。並んだ仲居の中には、かな子さんもいた。
「露天風呂に行ったなら、裏の森を見たでしょう。あの森はむかし、ここいら一帯が下野富田と呼ばれていたころから、世間を離れた修行僧のこもる場所となっておりました。いまもひとつ、朽ちかけた寺がありますが……、名を御坊寺といって、小さな、しかしきちんとそこに人がいたころは……手入れの行き届いた清潔な寺でございました」
 老女将は徐々に、語るような口調になり、空気はしんと静かになっていった。

〈三〉

 女将の話はこうであった。
 昔、ふもとに下野富田村を据えた大きな山の上にある御堂には、あじゃりと呼ばれる坊様が棲んでいた。ときおり、ふと修行の旅に出られては、またふと戻ってきて、村の民に説法を聞かせていた。
 そのあじゃりが、あるとき美しい稚児を連れて旅より戻ってきた。老いてきた自分の身の世話を頼むために、ともに旅をしてきたということである。稚児はかいがいしくあじゃりの世話をして、本当の孫とその祖父のようなほほえましさであったが、ある日、突然の大熱で、稚児がとられた。あじゃりはそれから御堂にこもり、たびたび、森で迷った人を食らう物の怪になったと噂されるようになった。
 そんな下野富田の村に、快庵禅師という高名な坊様がやってこられ、あじゃりの噂を聞いて、あじゃりもまた高名な坊様であったろうにと嘆かれた。禅師は、入り組んだ森の地形を使って、「七橋のまじない」をやってみせ、あじゃりの願いをかなえてみせた。あじゃりは稚児の魂がすこやかに天上にあることを知り、ようやく、物の怪の姿から解き放たれた……。
 女将はそこで言葉を区切り、じっと静かに聞き入っていた生徒たちを、ぐるりと見渡した。
「あじゃり様は稚児の御心がすでに天上にあることを知って、自らも清らかな魂になられたが、八月のこのころになると……ちょうど稚児の亡くなられたころですが……、どうしても未練を感じられて、戻ってこられるのです。そしてこの時期、森で七橋のまじないを行うと、どのような願いでも、かつてのあじゃり様がそうであったように、叶う、と言われております」
 女将は、ふと、目元をやわらかくほぐして、生徒たちのざわめきが始まる前に、続けた。
「この七橋のまじないにはいくつか条件がございます。
 一つは橋の渡り方。七つの橋を渡るとき、同じ道を二度歩いてはいけない。
 二つはまじないの間の所作。声を一言も発してはいけない。
 また、背後を振り返ってもいけない。
 この三つの条件を満たしておらねば、願い事はかないませぬ。……これが、下野富田に伝わる阿闍梨伝説と、〈七橋のまじない〉のすべて。この話を今夜、あなたがたにしたのは、ほかでもない」
 女将はもう一度ゆっくりと、生徒たちを見回した。
「七橋のまじないを、みなにやってもらうためにございます」
 しん、と沈黙が落ちたあと、一番初めに動いたのは旅館の仲居さんたちだった。目を白黒させているA組の生徒たちに、森の簡単な見取り図が配られていく。確かに森の中には大中小さまざまな橋がかかっており、出発点はこの旅籠。すなわち、旅籠を出て、七つの橋を渡り切ったのち、この旅籠に戻って来なければならないというわけだ。
「え!? あの、マジで今からやるんですか!?」
「こんな時間に? もうすぐ夜更けだわ」
 素っ頓狂な声を上げた切島に、蛙吹も同意する。
「この間ヴィランの襲撃があったところで、まだ危険なんじゃ……?」
「ていうかさっきの話を聞いてからこれって! ほぼ肝試しじゃん!?」
 助けを求めるように全員が相澤の方を見たが、相澤はかったるそうに髪をがりがりやったあと、
「危険はねェ。大丈夫だ。説明通りやれ」
 とそっけなかった。
「先生! 本当に危険はないのですか!? それともこれはもしかして訓練のうちなのでしょうか! これを今この時刻から行うことの意義を知りたいのですが!」
 シュバッ、と挙手をして発言した飯田の手の風圧で、轟の髪がふわっと浮き上がった。訓練。確かに、雄英のやりそうなことだ。おとぎ話と絡めてそれらしいストーリーを仕立て、それに順応できるかどうかもかねての訓練、と考えるのは順当だと思われた。
 しかし、飯田のその質問も相澤によってつれなく回答される。
「いいや。訓練でもねェ。女将さんが言った通り、七橋のまじないってやつをみんなでやる。それだけだ。レクの一種だと思え」
「レク!?」
「マジでレクなんだ! お願いってほんとに叶いますか!?」
 ぎょっとしてひるんだ飯田を押しのけて、おまじないと聞いちゃあ黙っておれない芦戸が身を乗り出す。女将は満足そうに頷いた。
「ああ。本当ですとも。まじないは、成功すれば必ず願いをかなえてくれます。だから、本当にかなえたい願いを胸に繰り返してまじないに挑むとよいでしょう」

 一人で行っても、数人で行ってもよろしい。一人で行けば行って帰る道の不安は増しますが、「声を出す」というリスクは減らせる。逆に、数人で行けば、「後ろを振り返りたくなる」ようなことがあったとしても、不安は少なくなるでしょう。
 数人で行った場合、途中で万が一、誰かが失敗したら、失敗したものは必ずその場においてゆくこと。そして、失敗したものは、その場で旅籠まで戻ってくること。
 一時間後、準備をして旅籠の入口に集まるように。誰と行くか、どのように橋を渡るかを、地図を見ながら考えておきなさい。
 それでは解散してよろしい。

 女将の言葉がそれで締めくくられたあとも、生徒たちはしばらく沈黙したままだったが、みな一様に何か飲みこんだようだった。
 チームを組むか? 一人でやるか? また、ルートはどのようにするのが一番よいか? 地図を見る限り、橋はどのようにして通ってもよいが、きちんと道筋を考えねば、余分に歩き回るはめになるだろう。なんだかんだ言って、これは采配を求められる「まじない」だ。レクだとは言っているが、きっとこれも一種のトレーニングに違いない……
 生徒たちは各々そう飲みこんで、ワッと一斉に作戦会議へ突入した。多くはチームを組むようである。緑谷、轟、飯田の三人がお互い目を見合わせたところへ、麗日が駆け込んできた。
「ねえ! お三方! わたしも一緒に行ってもいい!?」
「ムッ! 麗日くん! 俺たちもまだ一緒に行くかは決めてないんだが、俺もチームでやった方がよさそうだと思っていたところだ」
「僕も、一人でやるメリットがそんなに感じられないから……チームを組むのには賛成、かな」
 そこで、轟は三人からのうかがうような視線を浴びていることに気が付いた。轟は、これまでなら、メリットデメリットに関わらず一人でやるという決断をしていただろうし、飯田や緑谷、麗日も、轟のそういうところを察知して、うかがうようにこちらを見ているのだと思う。彼らは、もし轟が「俺は一人でやる」と言っても、その意思を尊重するだろうし、特に気を悪くもしないだろう。この学校での学ぶ姿勢は、そもそもクラスメイトの仲良しごっこをやるには程遠い。けれどその上で、三人は轟がどうしたいか? を、やや期待を込めて、うかがうのである。
「チーム組むことには俺も異存ねぇ」
 わかった上で、そう答えた。轟が答えると、にかっと笑った飯田天哉の笑顔がするどく胸を射つらぬいた。
「よっしゃ! そんならみんなで相談タイムだね!」
 麗日は目に見えてわくわくして、張り切っている。やっぱり女子には「おまじない」っていうのがよく効くようだ。芦戸、葉隠はもちろん、蛙吹や耳郎、八百万といった、おまじない云々なんて眼中になさそうな女子まで、いつもより妙に浮足立って、はりきっているようだった。
「じゃあこの四人で、七橋のおまじないをやるとして……」
「問題はルートだな。この地図にあるように、森にはたくさんの橋がある」
 飯田が地図を大きく机の上に広げ、眼鏡をぐいと押し上げた。地図を囲んで四つの頭が、飯田の指先に従って、左に、右に、地図の上を横断しはじめる。
「橋を七つ渡るにあたって、注意すべきことがひとつあったな」
「同じ道を二度歩いてはいけない……だよね」
 緑谷が、顎に手を当てぶつぶつと考えモードに入っている。森の地図をざっと見ただけでも、無数のルートが考えられる。ゴール地点として指定されている廃寺まで、順当にいけば三十分ほどの登山コースだが、橋を渡りながらと考えるともう少し時間を食うはずだ。二度同じ道を通ってはいけないというルールのせいで、おのずと道は狭められる。指でコースをなぞり、行ったり戻ったりを繰り返しながら、ああでもないこうでもないと言い合う生徒たちに、あと十分、の声が焦りを煽った。
「……!」
 突然、ガタッと大きな音を立てて飯田が立ち上がりかけ、机に膝をぶつけて苦しそうに着席しなおした。大丈夫!? と素っ頓狂な声をあげて麗日が声をかけるのにも、うめいてしばらく片手を挙げる以外できることがないほどの強打だったようだった。
「い、飯田くん……! 本当に大丈夫!?」
「あ、ああ……! すまない、ちょっと待ってくれ……」
 ひらめきそうなんだ。飯田はそう断ってから、地図の上に丁寧に指をすべらせていく。緑谷、麗日、轟もそれに倣って視線を動かした。三つの頭が一本の指に従ってずいずいと動いていく光景は滑稽に見えるだろうがなりふり構ってもいられない。
「よくよく見れば、ルートこそ多々存在し得るものの……」
 飯田の、深爪気味の四角い爪先を見つめながら、轟は、なんて飯田らしい指先なんだろうと、思考をいったん中断させられた。こういうことが、わりと、最近よくある。別のことを集中して考えるべきときに、飯田の何かに気を取られてそれどころではなくなる瞬間が。飯田はそんなことを考えているやつが輪の中にいるとは知らずに、自分でも頭の中を整理しながらの様子で、ぽつぽつと説明し始めた。
「……同じルートをたどらないで廃寺まで行けるルートがわずかしか存在しないことが分かるはずだ……」
 ひとふで書きだよ。これも駄目だ。このルートも、駄目だ。このルートは……、問題ない!
「本当だ! どれを通ってもいい、っていうわけじゃない……! 成立しないルートが多数あって、地図の上で絶対その線はひとふで書きになる……。ということは、……」
 麗日は、同じくひらめいたらしい緑谷が、ぶつぶつやりながら飯田と同じように地図上をなぞりはじめたのを、一生懸命に考えながら追いかけている。轟の目もなめらかに動いた。このルートはだめ。しかし、こちらは……成立する。
 轟にもその法則性がなんとなくつかめてきた。
「こっちは。だめ。こっちは……成立する! すごい、飯田くん! 実際に成立するルートは全部で五つ程度しかないんだ……ほかは、どうしても同じ道を二度以上通ってしまうことになるんだ……!」
「そういうことだ、緑谷くん! このおまじないには、無数のルートがあり得ると言いながら、実際には決められた数ルートしか存在しない。これを見つけなければ、ゴールする前から失格も同然ということだ!」
「すげえ。さすが飯田」
 轟が褒めると、飯田はぐいと眼鏡をあげて、ふふんと得意げな顔をした。その自慢げな顔、嫌いではない。麗日も同じようになぞりながら、ついに正解の一つを見つけ、
「すっごい! 学年首位の頭を持つ男はやっぱり違うね! ね! 飯田くん!!」
「麗日くん、褒めてくれるのはうれしいが揺らすのはやめたまえ……」
 麗日に両肩を掴まれ、がくんがくんやられながら、飯田は照れ笑いをする。四人が見つけたルートは全部で六つだ。他にもあるかもしれないが、時間内に見つけることができたのはそれだけだった。中でも、二つの橋をいっぺんに通ることができ、距離としてももっとも短いと思われるルートを選択した。地図は持っていくことができるが、相談したり、声をかけ合ったりすることができない。そのため、四人はできるだけ地図を出す必要がなくなるように、残り時間は頭を突き合わせてルートを叩きこむために使った。
「では、行ってもらいます」
 時間を告げる女将さんの声に従って、A組のメンバーはそろって宿の外に出た。目の前には鬱蒼と茂った木々に包まれ、苔むした巨大な岩のように立ちはだかる下野富田の山がある。ごう、と獣のうなりにも似た風の音が過ぎ去っていった。
「もう一度、念のためおさらいをします。
 一、七つの橋を渡って山の上にある廃寺に行くこと
 二、その間、声を発してはいけない
 三、振り返ってもいけない
 四、同じ道を二度通ってはいけない
 五、脱落した者はその場で宿まで戻ってくること
 以上の五つのルールを頭に入れ、まじないをするように。廃寺まで、正しい手順でたどり着けた者の願いは、どんなものであれ必ず成就します」
 もぞ、と轟の隣で麗日が下駄の先を直すように動いた。緊張気味に、手を握ったり開いたりしている。麗日がどんな願い事をしているのかは知らないが、本気でこのまじないに挑んでいるようである。轟も、レクの名目を借りた訓練であると薄々勘付いているので、気を抜いているわけではないが、願い事の類は眉唾ではないかと疑う気持ちも持っている。
「なあ、飯田」
 ム? と飯田は、突然話しかけた轟の方を向いた。もうすぐ始まるんだから、私語は感心しないぞ、という顔をしている。轟は気にしなかった。
「……おまえは、何願うんだ?」
 飯田はグッと言葉につまって、何と言おうか悩んでいる様子を見せた。飯田が口を開けたと同時に、
「では、はじめます。皆、歩き出しなさい」
 と女将さんの一言があり、結局何を言いかけていたのかは、聞くことができなかった。

〈四〉

山を進むにつれ、足音が変わった。じゃく、じゃく、と木の葉の踏み砕かれる音に、湿った夜露の音が交る。まだ山道を進んで十分程度しか経過していないが、霧が出ているのかもしれない、足音が変わったことで、四人の歩調はどんどん速くなっていった。
 霧が出てしまうとことだ。夜が更けてくると余計に歩きにくくなるだろう。過去にもこの旅館へ雄英生が来ているだけあって、山道には転々と人工の灯りがともってはいるものの、隅々まで照らしてくれるわけではない。女子もいるので、麗日の歩調に出来るだけ合わせるように三人の男子は気を遣った。麗日は気を遣われているということも承知で、三人よりできるだけ前を歩こうと必死に歩幅を大きくしていた。
 山道は好きではない。
 飯田には、授業のとき話したことがあるが、それ以外には誰にも話したことがない体験を、轟は小さなころにしたことがあった。授業で模擬訓練をしたときだ。雪山(もちろん訓練用に作られたものだが)を二人で登ることになり、頂上を目指す際、雑談としてぽつりと話した。話し始めたのは飯田だった。飯田が、トレーニングで兄と山に登ったとき、迷子になった話を皮切りにして、轟も話した。
 父親に連れられて、山に放り込まれたことがある。なんという山なのかも知らなかった。方角はもちろん、左右も分からないような状況で、泣きじゃくりながら懸命に駆け抜けた山道のことを、今でも恐ろしいと思っている。結局遭難の扱いになり、救助に来たのがオールマイトだった。父であるエンデヴァーが救助に来なかったというわけではない。ただ、オールマイトの方が早かった。それだけだったし、実際自分でもそうだろうと見当はついていたが、それでもやはり、そのできごとは、父を差し置いてオールマイトを憧れ、父を憎む気持ちに拍車をかけた。
 あの日、泣きながら走って、母の姿を探し回ったときのことが、まだ記憶にある。だから、夜の山道というのは極力轟が留まりたくない場所でもあった。
 それを知っているのはいま飯田だけだ。飯田は何度か、轟に目をやった。視線を分かりながら、轟は知らぬ顔をしている。いまは四人で歩いているから、恐怖も忘れられていた。それに、轟には暗い山道より、隣を歩いている飯田天哉のことについて、そして自分の「ねがい」について、考えることで忙しかった。
願いがかなうまじないだと聞いて、最初に浮かんだ願いを結局最後まで打ち消すことができなかった。ばかばかしい、と思う自分と、願うならこれしかない、とこっそり期待をかける自分の間に、轟焦凍自身は中立として板挟みになっている。半信半疑で、それでも、冷静かつ白けきった客観的な考え方をする「轟焦凍A」と、多少丸くなって、願い事やらおまじないやら、そういったものに一定すがりたい気持ちを理解するようになった「轟焦凍B」が戦いを繰り広げるのを、轟焦凍(本体)はぼんやり聞いている。
 轟焦凍Aは言う。
「願いごとなんざ無駄だろ。そんなもんが本当にあんなら、俺がこれまで散々な目に合ってきたのも、もっと早く解決すべきだった。願いをかなえてくれる神さまなんかが本当にいんなら、俺はそいつがここまで俺を野放しにしてきたことを恨む」。
 轟焦凍Bは言う。
「無駄かもしれねえが、別にいいんじゃねえか。レクって名目でも、願い事がかなうかもしれねえ、って思いながらやんのは、なんか、いいじゃねえか。何にもねえより、なんかあるんじゃないかって思ってやった方が、楽しいだろ」。
 楽しい、なんていう感情を、これまでの轟焦凍は持ち合わせていなかった。「轟焦凍B」は、ごくごく最近轟の中に現れた感覚である。轟はこれまで「轟焦凍A」と一心同体で過ごしていて、心の中に「轟焦凍B」なんて存在が眠っていることを知らなかった。それが、最近、目を覚ました「B」のため、しょっちゅう轟焦凍の中では「A」と「B」での対立が繰り広げられている。
 眠っていた「轟焦凍B」を叩き起こしたのは緑谷出久である。最初、体育祭のときに揺り起こされた。「轟焦凍B」が眠っていることを、「轟焦凍A」も、本体も知らなかった。目を覚ましかけたそいつが、いいやつなのか悪いやつなのか分からなくて、そのときは慌てて寝かしつけてしまった。けれど、まどろみながら目を覚まそうとしているそいつは、ゆるゆると起き上がり、永い眠りから覚めて、布団を畳みつつあったのである。
完全にそいつが目を覚ましたのは、飯田天哉の異変に気が付いてからだ。
 いつもの授業中、飯田の方をちらりと見た。偶然視線をやっただけだったが、轟焦凍の時間は止まった。いつもはワッと声が大きくて、元気で、はきはきしていて、真面目一辺倒の飯田が、目を大きくカッと見開いて、ひたすらに机の木目を見つめていたのだ。飯田はまっくろい、光のない瞳をじっと見開いて、机の向こうにあるらしい、なにか大きなくろいものを見つめているようだった。轟焦凍はそのときはじめて、「B」の声を聞いたのだ。
「あいつ。なんか、おかしいな。昔の俺みてえだ。見といてやったほうがいい」。
 轟焦凍はそれから、「B」の言葉に耳を傾け、時折「他人のことに首つっこむなんざ、野暮だし、時間の無駄だろ」と辛らつな言葉を投げかける「轟焦凍A」の言葉の妨害を受けながら、飯田を視線で追い続けた。結果、それはよい方向に運んだと言っていい。緑谷によって「B」が揺り起こされていなければ、飯田を変だと少しでも思っていなければ、また、緑谷の出したヘルプに気づかなければ、……何か一つでも欠けていれば、いまの自分たちはなかっただろう。飯田も、ここに両足で立っていることはなかったはずだ。そして、轟焦凍も、飯田天哉に対して特別な感情を抱くことはなかったはずだ。
何がきっかけ、と言われると明確には分からない。というか、明確なきっかけなどなかったのかもしれない。じわじわと、扉をこじ開けるように飯田の存在が大きくなった。初めは、ステインとの戦いを終えた病院で。片腕が使えない飯田のために、出てきた病院食を手ずから食べさせてやることになった。飯田はしきりに恥ずかしがって、いや、なんとかするよ、自分で……。と断ったが、看護婦さんから直々に、今日明日は手を極力使わないほうがよいと忠告され、しぶしぶ引き下がった。飯田はなんども「すまない」「申し訳ない」「ごめん」をしつこいほど繰り返し、朝は緑谷に、昼と夜は轟の手から食事をした。もぐもぐ、飯田の頬がせわしなく動いて、さっさと食事を終えなければと焦るのを見つめて、轟は(なんか楽しいな)とぼんやり思った。ひなどりに餌付けする親鳥の気分だ。
「んな焦って食ったら喉つめるぞ」
「いや、いや! これが俺の平常なんだ」
 ウソつけ。轟はそう言って、飯田が焦らないように、食べさせる途中で自分の分を食べるため手を伸ばしたり、わざとぼーっと外を見たりして、飯田の箸を止めさせていた。
 そういう気遣いも、わずらわしく思わない。むしろ、飯田がいつまでも食べ終わらなければいいのに、と轟は考えていた。翌々日、飯田の片手が動かせるようになり、不自由だが片方の手だけで食事をするようになったことを、轟はいたく残念に思った。
 いつもは規則正しく、ひとかけらもこぼさずに食べる飯田が、片手が使えないせいで、ぼろぼろこぼしながら食べるのも、轟には新鮮にうつった。飯田は恐縮して、行儀が悪くてすまない、と断ったが、轟はむしろもっとこぼして食えばいいのに、と願った。轟はしょっちゅう飯田のギプスについた米粒をひろって、「落ちてんぞ」といじわるをやった。飯田は都度、赤面して、すまない、皿の端に乗せておいてくれ……。と恥じ入るのだった。
 じわじわと、生の魚に火が通って、表面がこんがり焼けていくように、轟は飯田への想いを感じるようになった。どこにいても飯田の声がスコンと抜けてきた。呼ばれてもいないのに、飯田の声で振り向いた。包帯を変えているときの、飯田のむき出しになった上半身に、じっと目を向けるようになった。
 病院から出たあと、先に退院した飯田から、職場体験中の轟にメッセージが飛んできた。短い電子メッセージだが、「怪我の調子はどうだ? 無理していないかい」という文言を見て、くしゃっとくちびるが緩んだ。俺のことを考えて、この文面をつくったのだ。飯田が。そう思うと、にやついて、しまらなかった。
「大丈夫だ。おまえは?」
 そっけない文面しか考えつかない自分が憎らしい。けれど、かえって飯田の返事を促したようで、メッセージのやりとりがそのあとしばらく続いた。お互い律儀に返事を返す性質で、合宿の直前までそれは続けられた。
 学校に復帰してから、合宿前の買い物に轟が参加できなかったということで、飯田から「よかったら一緒に行かないか。君が買い損ねているものがあるなら、委員長の俺が付き合うぞ!」とメッセージが届いた。緑谷も誘ったが、その日は都合が合わなかったようで、二人で待ち合わせをすることになった。緑谷なしで、飯田と二人で出かけるということに、轟は自分で覚悟していた以上に緊張した。なにを話せばいいのだろう。なにを着ていけばいいのだろう。どれもこれも、飯田の前には杞憂に終わったのだが、轟は直前まで悩んだ。鏡の前で何度もボトムスを変えて、それでも全然しっくりくる感じがなかったから、意を決して姉に尋ねた。
「なあ。服、おかしくねえか」
 ついぞそんなことを問われたことがない姉の冬美は面食らって、弟の上から下まで見つめたあと、
「Tシャツ、ラフすぎない? プリント入ってないやつがいいよ。綿の、白いのがあったでしょ」
 とアドバイスをした。
「わりい。助かった。そうする」
 素直に自分の忠告を受け入れて、白い綿のTシャツに、ロールアップしたボトムスを履いて、たまにはおしゃれしたら? と姉が勝手に買ってきたきり一度も使われていなかったクラッチバックをひっさげて、居心地悪そうに滅多に履かない皮の靴を履いている。冬美は「ほほお」と声を漏らし、思わずつぶやいた。
「さては……。好きな子ができたな?」
 冬美にとってそれは心底喜ばしいことだった。あの焦凍が、誰かに興味を持って、かつ好きだと思った……というのは、大きな成長だ。しかし、轟焦凍は自覚していなかった。そして、冬美の言葉で気づかされた。
(俺は飯田が好きなのかもしれねえな。)
 それを疑って、掻き消すことがなかったほど、思い当たったその考えが、しっくりと轟の中におさまった。
飯田と協力して荷造りをした。買い出しの際に、轟があまりに荷造りをしていないことを知られ、今夜帰ったら俺とやろう。絶対だぞ! 君は頭もいいししっかり者だと思っていたんだが、意外とぼんやりしているところがあるようだから、俺が荷物に漏れがないか確認をしてあげよう。電話で一つずつ確認すれば、きっと漏れはないだろう! 張り切った飯田の誘いを断る理由もなく、合宿の三日前、夜に荷造りを行った。飯田から電話がかかってくるのを緊張して待った。すぐに着信に応じたいのに、すぐに応じすぎると待ち望んでいたように思われるだろうか? と妙な気遣いをして、2コールのちに電話に出た。電話越しでも飯田の声は大きかった。
こういう、細かいあれこれを経て、いつのまにか轟は後戻りができないレベルで飯田天哉のことを好きになっていた。これは友達がすくなかったせいで、自分が友情としての愛を、恋にすり替えて勘違いをしているためだとはじめは否定したが、時間が経つにつれ否定ができないほど大きくなっていった。飯田の一挙手一投足を「かわいいな」と思う。「へんなやつ」「おもしろいやつ」「まじめなやつ」でしかなかった飯田天哉と言う男を分けるカテゴリーに、「かわいい」が入ってくるのはどう考えてもおかしいと思う。冷静な「轟焦凍A」も、楽観的な「轟焦凍B」も、このときばかりは同じ答えを叩きつけた。
「飯田が好きなんだよ、おまえは」。
飯田のことを好きだという気持ちを、飯田に伝える勇気が出ますように。願いはそれだった。ささやかで、控えめすぎると言われる願いかもしれないが、どうしても轟は自分でその気持ちを伝えたかったし、そのための勇気が欲しかった。けれどいまはその勇気がまったくない。だから、すがるような気持ちで、心のどこかでは「バカげたおとぎ話」と思いながら、願い事はそれしか考えられなかった。
 飯田は何を願ったのだろうか。やはり、兄のことだろうか。自分は母のことは願わなかった。母のことは、どうにもできないことではないと考えたからだ。自分の母のことなのだから、自分の手でなんとかする。轟はそう考えて、ハナからおまじないに頼ろうとも思わなかった。
 じゃく、じゃく、といよいよ草に濡れた音が交りはじめると、ようやく一つ目の橋が見えてきた。心なしか早足になり、四人は橋を渡り切る。これでやっと一つ。夏のまっさかりといえ、山の夜は涼しく、肌寒いくらいだ。一枚着ただけの浴衣姿の四人には、夜風が厳しく肌に刺さった。
(やった! 一つ目!)
 麗日が、目でそう三人に訴えかけてくる。三人とも、力強く頷いて、また歩みを進め始めた。言葉を発してはいけない、という縛りのあるせいで、四人の耳には森の咆哮が異様に大きく聞こえた。フクロウの声、鈴虫の声、誰かが草をふみ、遠くで上がる風の音……。すべてが未知で、深い山は四人を手招くように、どんどん深く入り組んでいくようであった。
 二つ目の橋はすぐだった。一つ目がスタート地点から遠い場所にあったせいで、二つ目があっけないほど短く感じられる。麗日ははしゃいで、ぽん、と両足で橋の最後を飛んだ。緑谷も嬉しそうに微笑んで、ガッツポーズをして見せる。麗日がその拳に自分の拳をぶつけて祝ったのを、飯田もマネして、轟も続いた。
 三つ目の橋が見えてきたころに、空気が凛と冷たく、澄んできたように感じた。高度が上がったため、もしくは森の奥深くにきたためかと思うようにしたが、なんだか、嫌な寒さだった。
 四つ目の橋が見えたとき、麗日がためらうように立ち止まった。後ろを気にするそぶりをして見せたので、轟は麗日の背中を軽く手でトントンとたたき、前を向かせた。麗日は少し照れ笑いをして、ありがと、と眼だけで礼をしてみせる。表情がくるくる変わるからか、目つきだけでもなんとなく何を言っているか分かるので、麗日はすごいやつだ。四つ目の橋は木がやや腐っているようで、妖しい軋る音がした。おそるおそる、四人で渡り切り、ほっと息をついた。
 五つ目の橋が目前に見えたときだった。四つ目の橋で感じていた違和感が、実感になったようだった。どう! と大きく風が吹き、麗日が完全に歩みを止めた。足を前に進めようとも、進まないようだった。轟が背を押してもだめだった。飯田も、緑谷も、異変に気づいて立ち止まった。
 横並びになった麗日の顔を覗き込むにも、後ろを振り返ったということになるのでは、という考えがちらついて、横並びになったまま四人はこう着状態になった。飯田も、轟にならって麗日の背中をトントンとやったが、麗日は口をあけ、じっと前を凝視しているだけである。緑谷はごくりと唾を飲み、麗日の手を、おそるおそるぎゅっと握った。
 麗日はそれにも大きな反応を示さなかった。じわり、と彼女は冷や汗をかいて、ふるふると首を横に振る。行って。くちびるがそう訴えたが、誰も動けはしなかった。
 何が起こっているのか、誰にも分からなかった。麗日を苛む何かの存在は、誰にも感知することができない。何かの個性か、とも思ったが、じっと立ち止まるだけで、体に何の変化もない。ただ、女将の言葉によれば、脱落した者は脱落した者だけで旅籠に戻らなければならない。ここで麗日を一人にすれば、彼女の身に危険が及ぶとも考えられなくはないのだ。
 どうする? 轟の目が緑谷の目を正面からとらえたとき、緑谷の目の中に決意の光が宿ったのを轟は感じ取っていた。緑谷のこの目。どうしても、轟が「勝てない」と思ってしまう目だ。動くか、退くか。どちらかを轟が決めあぐね、緑谷の出方をうかがうように視線を止めたとき、動いたのは、緑谷ではなく、麗日だった。

「……っわたし、……違います!」
 突然、麗日が、緑谷たち三人が息をのむほどの大声で、突然そう言った。
 ぐるっ、と彼女は勢いよく後ろを振り返った。声を発し、後ろを振り返った。麗日は二つのルールを同時に破り、背後にいたらしい何かに訴えたが、麗日の振り返った先には、ただ木枯らしが吹いているだけであった。麗日は、ゆっくり肩の力を抜き、ほう、と吐息を吐きだした。
 悲しみの吐息のようでもあり、安堵の吐息のようでもあった。
「ここには、いないです。あなたの探している子……!」
 森の奥まで、ツンと響く大声で、麗日はそう叫んだ。叫びは森の闇の中に混じり、やがて木霊も聞こえなくなった。
「ごめん。……三人とも。わたし、脱落しちゃった……」
 えへへ。麗日はできる限り明るく聞こえるように、そうふるまっている。
「みんな、先行って。わたし、一人で戻れるから、大丈夫!」
 じゃあね。また宿でね。がんばってね! 麗日は、三人が言葉を話せないこと、振り返ることができないのを逆手に、一歩ずつ後ろへ下がって、元気な声色で別れを告げた。一方的に告げられた麗日の言葉に、轟はやるせない気持ちになる。これがトレーニングだとしたら、一体これは何の鍛錬になるのだろう?
「…………すまない!」
 エッ、と麗日が息をのんだ。声を上げたのは飯田だった。飯田は緑谷と、轟の背中を大きな掌で押し、前に進むよう促した。
「俺もここでお別れだ。俺は委員長なのだから、女子が一人でここからふもとまで戻るのを見過ごすなんて、そんなことはできない。俺の分まで、君たち二人で達成してくれ。チームの勝利には変わりないのだからな!」
 飯田は有無を言わせぬ調子で、立ち止まり、そして麗日の方へ振り返った。
「……飯田くん……」
 麗日は泣き出しそうな表情で、飯田のその思いやりにやるせなさすら感じている。飯田は二人の背中をじっと見つめて、叱りつけるように言った。
「行ってくれ!」
 動いたのは緑谷が早かった。根付いた足を引っこ抜くように、緑谷は大きく足を踏み出した。決意の瞳は、やはり前に進むことを決めていたようだった。緑谷は、やっぱりすげえな。轟はこのときの、究極の二択を迫られる威圧感を、ずっと忘れないでいる。
 轟も半歩遅れて緑谷に続いた。飯田が抜けた穴を、自分が埋めねばならぬ、とそう思った。時に緑谷の暴走を止め、時に緑谷の気持ちを汲んで立ち回る補佐官が、必ず緑谷には必要だった。

〈五〉

 あ~、あかんかった……。麗日が思わず、出身の地方の言葉をむき出しにして、残念そうに肩を落とすのを、飯田は隣に腰掛け頷いている。二人が去ったあと、麗日は静かに涙を流した。たった数滴の涙だったが、拭き取るのに時間がかかって、飯田は彼女を連れて橋の欄干に腰掛けている。
「ありがと。飯田くん、こんなかっこいいヤツなのになんでモテないんだろうね」
 たぶんキャラのせいだろうなあ。麗日が茶化してそう言うのを、元気になった証拠だと受け取って、飯田は「モテないとはなんだ!? モテるかもしれないぞ、俺は!」と調子を合わせる。女の子の涙はどきどきする。何かだめなことをやってしまったような気がして、そわそわするのだ。
「あー、ごめんね、飯田くん! 泣いたらすっきりした……。いや、ほんとごめん……。正直、一人で帰らなくていいって思ったらほっとして……」
「当然のことをしたんだ、俺は。委員長だからな」
「委員長じゃなかったらわたしのこと置いていった?」
「いや! クラスメイトだから、同じことをしただろう」
「わははは! 飯田くんやっぱいいやつ!」
 麗日はすっかり、笑顔を取り戻して、バシン! と飯田の背中を叩いた。
「ところで、麗日くん。何があったんだ? 君の様子は普通じゃなかったぞ」
 橋の欄干から腰を上げ、もと来た道を戻る間、飯田は麗日にそう質問を投げかけた。麗日は、話そうか話すまいか悩んでいる様子を見せ、緑谷と轟が消えた道の向こうを、確かめるように振り返った。一本目の橋を過ぎ、ざくざくともと来た道を戻る間、ともっていた灯りが来たときより煌々と灯っていることを感じた。やはり、戻りの道が安全なように、旅館の方も配慮をしているようである。
「……わたし、たぶん、見たんだよ。あじゃり様」
「あじゃり様、っていうのは、女将さんがしてくれた話の、あの?」
「そう。みんなには見えてなかったみたいだけど……。わたし、四つ目の橋くらいから、ずっと後ろから誰かがついてくる気配がしてて。怖いし、気にしないようにしてたんだけど……。五つ目を渡ったとき、声が聞こえたの。後ろから、おまえは結王丸か? って」
「……ゆいおうまる?」
「……うん。たぶん、女将さんが話した伝説の、あじゃり様がかわいがってた稚児の名前なんじゃないかな。昔の小さい男の子って、ほら、ナントカ丸、って名前ついてたりするじゃない」
「男子の幼名だな。源義経が牛若丸と呼ばれていたようなやつか」
「そうそう! 違うよ、って言ったら、木の間を通ってどこかへ行っちゃったみたいだった。でも……」
 また、麗日は不安そうに森の奥を見つめる。
「まだ探してると思う。結王丸のこと」
 
 行きはよいよい、帰りは怖い。とは、よく言ったものだと思う。とぼとぼ、二人で帰る道のりは、四人で来た道のりよりはるかに遠く感じる。オオオ、と風の通る音が空気を震わせると、わっ、と三度に一度、麗日が驚いて首をすくめる。大丈夫か!? と心配するたびに、大丈~夫っ! とかぶさり気味に、飯田がかつて言ったセリフの真似をして返事をする麗日は、肩に力を張って、飯田に気遣いをさせないようにと空元気なのであろう。
「飯田くん、……願い事、どんなのにした?」
 麗日はふとそう尋ねてきた。彼女の中に、何がわだかまっていたのか、飯田には分かる気がする。麗日は自分のリタイアより、飯田がともにリタイアしたことで、願いをかなえることができなかったことを気に病んでいるらしい。飯田は微笑んで、麗日の、その飾り気のない心根の美しさを口に出して褒めた。
「麗日くんは?」
 麗日の問いには答えず、飯田は同じ質問を彼女に返す。麗日はしばらく黙って、じろりと飯田を見た。
「わたしが教えたら、飯田くんのも教えてくれる?」
「ンンン~~……!」
「じゃあわたしも教えな~~~~い」
「そもそも君が聞いてきたんじゃないか!」
 わーわー言い合っていると気がまぎれる。麗日は不服そうに頬を膨らませて飯田が折れるのを待っていたが、なかなか飯田が頑固に口を閉ざすので、麗日は地面に落とした視線そのままに、ぽそり、と仕方なく口を開く。
「……近づけますように、って」
 飯田は、麗日の真剣な声色に、思わず彼女の方を見た。二人の歩みは完全に止まり、一つ目に渡り終えた橋が目の前にかかっている。
「……何に、と尋ねるのは、ちょっと野暮かな」
「うん。野暮ですな」
「なら聞かないでおこう」
「わはは。飯田くんほんと、優しいよねえ」
 麗日は一つ目の端の木目を、ひとつずつジャンプしながら渡って、飯田は彼女の後ろを一歩ずつついて歩いた。麗日はせつなそうに笑う。失敗のあとは、どうあっても切ないものだ。
「強い人に、なれたらなあって。でもさ、わたし、気づいたんよ。強さって、自分で手に入れなきゃ意味ないよね。おまじないに頼るな、って、神様がそう教えてくれたんだよ、きっと」
「……麗日くん」
 橋を渡り終えると、ふわっ、と旅籠からかおる人里のにおいが二人を安心させた。ひとつ橋を渡るだけでこんなにも空気が違う。森は異郷だ。そして、橋は異郷へとつなぐ境界線なのだ。
「……俺も、願ったんだ。強くなれるように。二の足を踏んで、前に進めない自分がどうにか変わるように、神頼みをしたんだ。だが、神様は、……君の言うように、自分でやりとげろと俺を叱っているのかもしれないな!」
 ジャンプ! 麗日の真似をして、飯田も木目を一つ飛び越えた。ねえねえ、飯田くん。どっちが旅館まで先に戻れるか、競争ね。飯田くんは足早いからハンデね! 一分のハンデ! 麗日はさっさとそう言って走り去っていく。
「麗日くん! 一分!? ハンデが大きすぎないか!」
 ずるいぞ、君ってば! 止まってくれ! 飯田が言っても一向に聞かなかった。
 飯田は律儀に一分待って、駆けだした。まっすぐ伸びた山道にぽつんと小さく揺れている麗日の背中めがけてまっしぐらに走った。前のめりになって、真剣に目を引き結び、まっしぐらに全速力で走るのは、麗日を一人きりにしておいては危ない、という気持ちがもちろん前提にあったが、飯田が小さなころ道に迷って、一人きりで走り抜けた山奥の森の風景を思い出したからでもあった。
 足に藻がまとわりつくような、不思議に走りにくい感覚は、旅籠が近づいてくるにつれて薄くなり、どんどん軽くなっていった。重い足かせから解き放たれて、飯田はいつもより疾走している。山に入ってから山奥へ進むにつれ、足が重いと感じていたが、山道であったから仕方のない重さだったのだろうと飯田は納得し、いよいよ、スピードを上げる。
「飯田くん! 本気出さんでよ!!」
「麗日くんこそ、勝負は全力じゃないといけないぞ!」
 ヒャ~、と悲鳴を上げながら、逃げる麗日の背中はどんどん近くなり、飯田は彼女が近くなるほど安心した。麗日に追いついて、追い抜こうとしたとき、ぐいっと背中を掴まれた。卑怯だぞ、野蛮だぞ、と飯田が言うと、麗日はエヘヘと笑う。
 旅籠の光が見えてきた。すでに、リタイアして戻ってきている生徒が何人かいる。麗日は飯田の背中を掴んだまま、潤んだ瞳をいつもの「元気な麗日お茶子」の目に整えて、みんなに笑顔で会う準備ができたらしい。
「飯田くん!」
「なんだい!?」
 飯田と麗日だ! 旅籠から声が聞こえた。
「……さっきの! 願い事、お互い、秘密ね!」
「……もちろんだ!」
 はっ、と突然飯田が振り返った。後ろには何もない。来た道がとうとうとつながっているのみである。木枯らしとともに、無人の小道に霧が立ち込める。飯田は気を取り直し、前を向いた。
 旅籠はもうすぐだ。

〈六〉

 麗日、飯田が旅籠へ着いたころだった。緑谷と轟は、押し黙って無言のまま、隣に並んで歩き続け、ようやく六つ目の橋を渡り終えた。橋を渡って、緑谷が一度歩みを止めたので、轟も止まった。リタイアしてしまった二人のことを考えているのだろう。麗日も、飯田も、轟が緑谷たちと仲良くなる前から仲良くしていた三人組だ。緑谷がどう思うかは、想像に難くない。
 飯田の判断は、男らしかった。委員長を自負する彼らしく、また、あのステインとの戦いを乗り越えて、飯田が「理想のヒーロー像」へまっしぐらに進んでいることを思い知らされるような決断だった。だからこそ、進むことを選んだ自分たちが、必ずゴールすべきだと思う。緑谷も、そう考えているはずだ。たかが訓練と言えど、……こういう局面がこれからプロになるにあたって、何度もあることだろう。だから、考えられるあらゆる残酷な局面を、学生のうちに味わっておくべきなのだ。轟はこの訓練(名目はレクだが)の意図をそのように読み取って、飲みこんだ。
 緑谷の背中を、麗日にやったように手で押すと、緑谷は「わかってる」というように大きく頷いた。その目は前を見据えたままで、意志の強い、森林の色をした瞳がぎりと前を向いている。踏み出したのは轟の方が早かったが、緑谷もすぐにおいついてきた。
 七つ目の、最後の橋まで少し距離がある。最後の橋を渡ると御堂はすぐだ。夜の山奥の寺などぞっとしないが、ここまで来たのだから完走を目指すほかない。踏みしめる草の音を、いつの間にか、意識しないようになっていた。
 いや、足音だけとは言わず、すべての音が消えている。風の、ごうごうと吠える音も、踏みしめる草の音も、ぱきぱきと小枝が踏み折れる音も……。さっきまで聞こえていたすべての音が消えていた。轟はにわかに、背筋に緊張を走らせて、一歩一歩踏み出す足の重くなっていくのを感じた。
 空気が変わった。
 路地裏で感じた、冷たい水が背中をすべっていくようなあの感覚に近い。轟はまとわりつく湿気にも似たいやな空気に、足をとられそうになりながら、なんとか緑谷にすがりついて進んだ。
 緑谷はどうやら気が付いていないようだ。もしくは、この嫌な感覚は轟だけが感じているものなのかもしれない。一歩進むごと、足は重くなる。麗日が突然立ちどまった理由が唐突に分かった。これと同じ感覚に見舞われていたに違いない。一歩一歩、引き抜くように歩いた。轟が緑谷からどんどん遅れていくことに、緑谷も気が付いた。様子をうかがい、緑谷も徐々に歩みを遅くする。けれど、ついに轟の足が止まってしまうと、緑谷との差がどんどん広がっていく。行け、とも、何かいる、とも言えない。くちびるが溶接されてしまったように、または「話してはいけない」という暗示を受けたように、びったりと閉じて開かなかった。
 緑谷が異変を察して、歩みを止めた。緑谷の背中が恐ろしいほど遠くにあるように感じる。進もうと思えば思うほど、下半身ごと沼地にのめりこんだような重さで、轟は完全にその地点にとらわれた形になった。
 森が哭く。髪を薙いでいく風が、八月だというのにいやに冷たい。橋が近いために、小川のせせらぎが聞こえていたのも、すっかり聞こえなくなっている。ぱたりと止んでいた風の音が、突如、ごおおおっと低く唸り声を上げた。しかし風はない。どの葉もぴたりとその場にとどまり、ひっそりと凪いでいる。ただ風の音は聞こえる。森の木々の間、四方八方からじいと見つめる視線を感じた。
 麗日の様子がおかしくなったのはこのせいか?
 周りの風景はぴくりとも動かないのに、背中をゆるく撫でるような空気のよどみがあった。後ろを向いてはいけない。それが呪詛になって頭をめぐる。緑谷、と口をひらきかけた轟の前髪を、ふわりと何かが揺らした。
 眼前に、いやなぬめりを帯びたまっくろい藻のようなものが垂れ下がった。髪である。ぎょっとする間もなく、金色にひかる獣のような両目が、ぎょろりと轟を見据える。背後から、大きなばけものが、轟をのぞきこんでいるのだ。
「結王丸」
 聞こえた瞬間、轟は叫んだ。
「緑谷! 行け!」
 声を出した時点でもう呪縛は解かれた。まじないに失格したのだから、あとはわめこうが、振り向こうが、こっちのものだ。不思議と、恐怖より怒りが勝った。麗日にも同じことをやって、彼女を怖がらせたのだろうし、なにより、こいつのせいで、自分の大事な願いがぶち壊しにされたように思えて気がささくれ立ったのだ。
 緑谷は、さすがの意志の強さで、振り向きもせず声も出さない。ただ、緑谷がふたたび足を地面から引き抜き、今度は地面を強く踏んで走り出したとき、ああ、自分は緑谷が、一緒にここに残り、失格してしまってもともに闘ってくれることを心のどこかで望んでいたのだと思い知らされた。
 走り出した緑谷が、森の小道をどんどん消えていくのを見て、置いて行かれたように思った。緑谷は、どこまでも遠くへ行ってしまう。手が届かないほど、あいつは強い。乗り越えたい、と思う心と同時に、どうしようもなく、頼りたいと思う気持ちもあるのだ。轟焦凍Aは言う。あいつは友達を放っていくなんて、冷たいやつだ。轟焦凍Bは言う。これは真剣なトレーニングだ。もしこれが救助活動だったなら、緑谷は当然俺を放って行くべきだった。
 ふたつの心の声を無視して、轟焦凍(本体)は、ひとりで泣きながら走り回り、迷いに迷った山のけもの道を思い出し、柄にもなく足が震えた。
 緑谷も、飯田もいない。誰も助けてはくれないのだ。助けを期待するなんて、これまでの彼には、なかった弱さだ。それもこれも、「ともだち」なんていうやつを、知ってしまったからだろう。
「…………ッあああッ!」
 気合いをいれるため、叫んで後ろを振り返った。相手がどんなやつであろうとぶっ潰してやればいい!
 うしろには何もいなかった。
 ひたすらに、今来た小道が続いているだけだった。さすがに身震いして、立ち尽くした轟の耳が、小さな安堵のため息を拾った。
「……結王丸」
「大きくなられた」
 その声は、単にばけものの声、と言い切るにはあまりにも切なく、いとおしいものにかける声だった。
 それきり、妙な風の音は止み、不自然にぴたりと止まった木の葉の動きも、もとのようにひらひらと揺れる動きに戻った。引き抜く足の重さもなくなった。
どっ、と汗が噴き出している。
 はぁ、はぁ、と遅れてやってきた冷や汗と、息苦しく呼吸のしにくい感じに、胸を痛々しく上下させて、轟焦凍は深い森の中にたった一人取り残された。あじゃり様という修験者の、稚児の名前は聞かされていなかったが、「結王丸」というのがそうなのだろう。死んでしまった稚児の面影を、自分に重ねたのかもしれない……。轟の気持ちは晴れなかった。そりゃあ、そうだ。謎のまま取り残され、夜の森の真ん中でこんな目に合えば、どんな男でも怖いものは怖い。轟は、緑谷が消えて行った背後のけもの道を振り返り、自分の正面に続いている、敗者の帰り道を見据えた。
 とぼとぼ、という言葉を考えたやつは天才だ。とぼとぼ、なんて音どこからもしていないのに、たしかに、肩を落としてがっくりと進む足音は「とぼとぼ」と言っていい。遠くで、野犬の遠吠えが聞こえる。森を嫌いだと感じる要因に、木の葉が鬱蒼と茂り、頭上で一斉に音を立てるのが不気味だからというのもあった。この音におびえ、森をやみくもに走り回ったせいで、幼少の轟焦凍は余計に道に迷い、捜索隊を困らせたのだ。甘ったれだと叱られ続けた幼少期だったし、さすがに臆病すぎたのかもしれないが、母のもとを離れるだけでべそをかいていた子どもを、山に棄てるようなまねを平気でやるあの親父はやはり相当の曲者だ。
 轟の足が駆け出すほどに早くなる。急いで、走って帰るなんてだせえな、という思春期らしい恰好つけたがりの気持ちもあるが、体は早く光のもとに行きたいと正直だ。一人で帰る道のりに、轟はふっと助けを求めてしまいたい。
 誰か、ヒーローが来てくれたら……。
 轟の歩幅がいまの半分に満たなかったころ、轟は生い茂る冷酷な森の木々にそう訴えた。優しいお母さんでも、あの恐ろしい、嫌なお父さんでももうどっちだってよかった。なんなら、父でも母でもなくったって、助けてくれるなら誰だってよかったのだ。
 もう大丈夫! 私が来た!
 お馴染みになっている、あのセリフがどれだけ頼もしいものであるかは、実際に体験してみた者にしか分からない。暗かった森の中が、唐突に明るくなったようにすら思った。ここまでよくがんばったな! 目の前の、ナンバー・ワン・ヒーロー「オールマイト」はにこりと満面の笑みを見せて、轟焦凍の手を強く引いた。
 あの時から、轟はオールマイトが憧れだ。オールマイトは轟少年を助けたあと、君の息子さんを見つけた! もう安心だ、とエンデヴァーに告げていた。父親が何と返事をしたのかは知らない。知らなくてもいいと思っている。どうせろくでもないことを返事したに違いない(と轟はそう断定的に考えている)。
 あの時のことを思い出す。心細くて、本当にこの道で合っているのかも分からないまま走っているときの、祈り、すがる気持ちだ。お願いだから合っていてくれ、という気持ち。きちんと頭に叩き込んできたはずのルートだったし、幼少期わけもわからず走り回った知らない道ではないはずなのに、轟は同じ不安を抱えて進んでいた。
「轟くん!」
 だから、そのとき森の小道を貫いて届いてきた声に、どれだけ安堵したか、筆舌に尽くしがたい。信じられなくて、不安に駆られた自分の幻聴かと思ったほどだが、違った。前方から走ってくるのは、まぎれもなく飯田天哉の姿であった。
「飯田!」
 思わず、滅多に出さない大声を出して走り寄ると、飯田も同じくらい安堵した顔をした。
「よかった! 入れ違いになってしまったらどうしようかと思ってたんだ……!」
「麗日は?」
「無事旅館まで送り届けたぞ! 俺は君を迎えに、一度旅館に戻ってからもう一度ここまで来たんだ」
「わりい。一人で……」
 こんな山奥なのに。轟の言いたいことを察したのだろう。飯田は笑った。俺だって怖かったさ。道に迷ったことがあるからな……。飯田も、昔兄とのトレーニング中に、山道ではぐれ、道に迷ったときの不安な気持ちを覚えていた。けれど、それもかなぐり捨てて、轟をここまで迎えに来たのだ。
「……帰りは君と一緒だから、大丈夫だ!」
 大丈夫、という言葉は強い。相手も、自分も、安心させる。
「ああ。大丈夫だ。一緒に、戻ろう」
 轟が脱落したことを、飯田は深く尋ねなかった。帰り道の恐ろしさとさみしさを紛らわすために、二人は(というより主に飯田が)いつもより饒舌になった。橋を一つずつ、来た順と逆に渡り、旅館まであと三つに迫ったあたりで、轟は何度目かも分からない「わりい。来てくれて」の後に、「委員長として放っておけない」と麗日と一緒に脱落し、送り届けた飯田のことを褒めると、飯田はふと歩みを止めた。
「……轟くん」
 飯田の声は真剣だった。
「俺は、君を迎えに行こうと決めたとき、……委員長として、というより、友だちとして……行こうと決めたんだ。自然に、そう思った。俺の個人的な感情で、個人的なおせっかいとして、……君が脱落していない可能性だってあったが、……とにかく、もしそうなっていたら、山道を一人で戻ってくるなんて、そんな酷なことがあるだろうかと思って、ここまで来たんだ」
 飯田天哉はぐっと拳を強く握りこんで、轟焦凍を理論でねじ伏せてしまいたい厳格な検察官の面持ちで熱弁した。厳しく眉根を引き結んで、いっそ説教でもされているみたいだ。轟は思わず姿勢を正して聞いた。
「……おや? ……そうか、緑谷くんが戻ってくる可能性だってあったはずだし、二人で戻ってくる場合もあったんだ。……なぜ、俺は君を迎えに行かないととこんなに強く思ったんだろう……」
 飯田は弁論を進めるうちに、話しながらだんだん自分の言葉と現実の問題の矛盾点に気が付いた。言い淀みながら、混乱し始める飯田を見てようやっと、轟も自分が一体何を言うべきなのかが分かった。勇気。ふと、突然そんな言葉を想起する。わけもわからぬ勇気だった。「いま言わなくては誰かがこの男を取って食ってしまうかもしれない」という一縷の焦りを含んだ衝動的な勇気であった。
「飯田」
「轟くんッ!」
 二人の、勢い込んだ怒鳴り声が重なった。飯田は慌ててぐっとつまって眼鏡を上げ、轟はぽかんと口を開けたまま固まった。
「さ! 先に、言ってくれ! 君が先に……」
「いや、お前が先でいい。しゃべってたんだから」
「いや、いや、俺こそ、ずっと俺が一方的に話していたから、君が意見を挟んでしかるべきなんだ……!」
「……でも、俺のは別に大した……」
 大した用事じゃねえから、というのは嘘になってしまうので、轟はそこまでにして黙った。大した用事に決まっている。けれど、突然、「今言っちまおう」という勇気が湧いたから、後先考えずに言っちまったのだ。
 どうぞ、そっちこそ、の押し問答が続いて、面倒くさくなったので、轟は、
「じゃあ、いっそ同時に言っちまうってのはどうだ」
 と提案した。普通なら突拍子もない話だが、相手が相手で、すんなりその意見は可決された。
「なるほど! 同時に言うのか。たしかに譲歩しあっていては埒が明かないものな!」
「ああ。いい案だろ」
「ウム。ただ、懸念するとすれば俺の方が声が大きいかもしれない。掻き消さないよう注意するが、君もなるたけ大きい声を出してくれよ」
「うん。努力する」
「なら、同時に言おう! せーので!」
 すう、と息を吸い込んで、せーの、に続けた。不思議と、これを言うと相手がどう思うだろう、という不安は全くなかった。ただ、「飯田にこれを言いたい」という純然たるその気持ちだけが轟の中にいっぱいになって、風船のように飛んでいきそうだったのだ。
「飯田が好きだ」
「轟くんが好きだッ」
 ワンッ! と声が響き合い、音が共鳴して一瞬のうちお互いが何を口走ったか分からないでいた。エッ、と顔を見合わせる瞬間があり、「いま、何と?」と、大声で叫んだにも関わらず、相手の言った事を二度確認する手間が生じた。
「……飯田が好きだ、って」
「お、……俺も轟くんが好きだ、と……」
 先ほどまで、とかくそれを言ってしまいたいという焦燥と勇気に駆られた二人は、みるみるうちに見る影もないほどしぼんでいき、カアアッ、と額まで真っ赤になった。何がどうして、こんな強い力で背中を押したのだろう。願い事をしたせいか、とも思ったが、二人とも、志半ばで脱落してすぐである。
「……おまえ、……いつ? そんな……」
 途切れ途切れで、飯田を指差しながら唖然とする轟に、君、人を指差すのは失礼だぞ、と飯田が轟の指先を握って忠告した。握った手を、ぱっと慌てて離す。こういうのは、ドラマや映画、フィクションの中にのみ存在することだと思っていた。
「……君こそ……ッ! そんなそぶり、一度も……」
「入院したあたりからは、確証持って好きだったぞ」
「!? 本当か……!?」
「おまえは」
「ぼ、ッ俺は、……俺は一緒に合宿の買い出しに行ったあたりから……」
「なら俺の方が早ぇ」
 フフン、と得意げに言う轟に、早い遅いは関係がないだろう、と飯田の手が縦に空気を分断する。わけが分からないうちに、恋が成就した。信じられなさより、滑稽さの方が勝った。二人とも、しばらくお互いの顔をぽかんと眺め合ったのち、壊れたようにげらげら笑い出した。腹いてぇ、と轟が、君ったら嘘だろう、と飯田が、手をたたいてその場にしゃがみこんでしまった。
 ひとしきり笑うと、今度は泣けてきた。まさか、こんな形で成就するとは思ってもみなかったのだ。告白っていうものは、いわば相手へ自分の気持ちを押し付ける行為だと考えていた。こんな風に、まさか同時に押しつけあい、パイ投げパーティでどろどろになって大笑いしているみたいに、二人おんなじ体たらくで笑い合うとは思ってもみなかった。
「ああ、……こんなことって、あるんだな……」
 飯田も、同じ気持ちのようで、泣き笑いの表情を木々の間の星空に向けている。恐ろしい夜の森とばかり思っていたが、頭上を見上げると、青い葉の間にぽつぽつと星がひらめいて、とても美しい。近くにきらめいているものが、全然見えていなかったなんて、二人は肩透かしを食らったような気持ちだった。
「戻ろう、轟くん。きっとみんな心配してる」
「ああ。……なあ、飯田」
 ちょっとだけ、時間くれ。轟は真剣な目つきで飯田を引き止めた。さっきまで笑い転げていた十五歳の魂が、とつぜん、研ぎ澄まされた「男」の顔つきになったのを、飯田はどきりとして見つめた。凛々しく、何事にもこころを動かさない氷の彫像みたいな男かと思えば、ふと頼って、あまえてくるずるい一面もあり、小さいころ恐ろしかった「森」の闇にまだとらわれているような、弱い部分も持っている。そして、こうして、突然見せる「轟焦凍はまぎれもなく男だ」と痛感させられるまっすぐな力強さ、鋭さを、飯田は好きになったのだ。どうしようもなく、後戻りできない状態にあることを気づいたころには、彼への気持ちをリセットしようなんてとんでもないというところまで来ていた。生来、自分の気持ちを裏返したりなかったことにしたりというやり方には不得手のほうであったので、余計に、飯田天哉に引き返す道などなかった。
「……ちゃんと、……確認しといていいか」
「……なにを?」
 本当は、何を言われるかうすうす分かっていた。でも、誤魔化した。照れくさかったし、予想がはずれるとバカみたいだと思ったから。
「俺のこと、好きなんだよな」
「……ああ。」
「……なら、お前は、……俺は」
 轟が探している言葉の答えを知っている。こう見えてまったくそういうことに疎いというわけじゃないんだぞ。俺には兄さんだっているし、何にも知らないわけじゃあないんだ……。飯田は勝手に、胸を張りたいように思って、
「君は、俺の、彼氏だよ」
 と言った。
 言ってから、まる茹でられた剥き身の海老くらい真っ赤になった。
「彼氏」
 へ、ときょとんとした顔の轟は、すぐ微笑みを浮かべた。飯田が言った、意外で大胆な告白を、気に入ってくれたようである。
「……そうだな。俺は、お前の彼氏。お前も、俺の、彼氏だ」
 今日から、はっきり、区別してお付き合いしよう。俺は真面目だから、ふしだらな交際は一切お断りだぞ。気の早い話だが、俺は将来まで考えて長い交際をしたいと思っているから、学生の間、といわず、もっと先まで……。云々、飯田の長い口上は嫌に早口だ。ぱし、と口元をてのひらでふさいで、黙らせると、飯田は少し眉を下げる。照れているときの顔だ。顔半分隠れていても分かる。
「浮気、したら、俺はへこむからな」
 正直なところ、「飯田天哉が浮気」なんていうのは、「爆豪勝己がクラス全員と仲良くし始める」くらいありえない事態だったが、轟はそんなありえない事態までに怯えてしまうのが恋であることも、なんとなくつかめてきたのだった。
「しないよ」
 見て分からないか? 俺の身の潔白が……。飯田はまた無意味に胸を張った。俺はきっと君を幸せにできると思うよ。飯田は自信満々で兄さんヅラをする。のぞむところだ。いまに見てろ、俺の方が絶対に幸せにしてやる。轟は、妙な対抗心を心に燃やした。
「行くか」
「ああ。戻ろう。今度こそ」
 手をつないでも? と多分、このあと飯田は言うだろうと予想した。轟焦凍Aが忠告する。「飯田はお前より《彼氏》っぽいことをやろうと思ってるぞ」。轟焦凍Bもせっつく。「黙って握ってやりゃあいい。飯田が律儀に、確認取ってくる前に」。轟焦凍(本体)は、それらを受けて、飯田の手をやおらにぎゅうっと握り締めた。
「!?」
 驚いて、伺う視線がこちらに投げかけられている。分かっているが、無視してやった。飯田は、少しうつむき、ぎゅ、と握り返してから、……ぼそり。と呟いた。
「手を握ろうか、と、俺だって言おうと思っていたんだぞ……」
「俺の方が早かった」
 フフン。また轟は勝ち誇った顔をして笑う。飯田は不服そうだったが、旅館までの道すがら、突然くちびるがしまらなくなったりして、ふにゃ、と笑っては、慌ててくちびるを引き結び、凛々しい顔を作って見せたり、忙しかった。
「ほら! 見てくれ! 旅館が見えたぞ!」
 小路の先に旅館が見える。轟は歩みを遅くして、もう少しゆっくり歩きたかった。
 ふと、轟は突然後ろを振り返った。飯田がこのあたりまで、麗日と走ってきたときと同じように。飯田のときと違ったのは、轟の振り返った先に、一人の坊様が立っていたことだ。
 坊様はやわらかい太陽のような光りに包まれて、微笑んでいることが分かった。はっきり顔は見えなかったが、なんとなく、「これは悪いものじゃない」。とそうはっきり言える温かさだ。
「大きくなられた。」
 坊様は、一度そのように噛み締めて、スウッと空気の中へ消えてゆかれた。確証は何もないが、轟は、あじゃりがようやく御仏の元へいけたのだろう、とそう思った。
 来年から、同じ訓練はできぬかもしれない。あじゃりの伝説と、あの、十五歳の年ごろの稚児を探して、さまよいながら、御堂まで参りに来てくれた子どもたちの願いをかなえていたあじゃりは、自らの願いがかなったために、もう二度とはこの森に戻ってこないであろう。
 俺が結王丸じゃねえことは、黙っておいたほうがいいよな。
 轟は前を向き、まあでも、誰かの心の支えになれたのなら、それがたとえ勘違いでも、「救けた」ことになったのだと思う。握っていた飯田の手を、旅館が見える前にそっとはずした。飯田は、名残惜しげな顔で、滅多に見られない、やわらかい微笑みを見せるのだった。

〈七〉

 旅館に戻ってきた飯田と轟を取り囲んで、「おかえり~!」「轟でも駄目だったかあ」「爆豪と俺も駄目でさ~」「うるっせえわ俺は一人なら成功してたわ!」「つって脱落したとき俺と一緒に戻ってくれたくせに」云々、矢継ぎ早に声が飛び交って、飯田の「静粛に!」の声も二度目までは効果がなかった。残念だねえ、と言いながら、みなそれぞれかなわなかった願いについて、少なからず後ろ髪をひかれる思いがあるようだ。
 轟と飯田がお互いに願った、「好きな人に思いを告げる勇気が欲しい」という願いは、くしくもかなってしまった。神頼みなんてやっぱりアテにならないな、と内心考えた矢先である。
「アレッ」
声を上げたのは葉隠だった。浴衣の足首をふと上げて、きらと控えめに光る、足首のアクセサリーに頓狂な声を上げたようだった。芦戸が近寄って、「あっ、それ!」と一様に驚いた。
「なくしちゃってたやつ……! 三奈ちゃんにもらったのに、いつの間にか足からなくなってて……」
「よかったじゃん葉隠~~!!」
 きゃいきゃい、抱き合いながら跳ねる芦戸と葉隠に、よかったねえと声が飛ぶ。
「でも、変だよ。だって……」
 言いかけた葉隠の声が掻き消えた。ちゅんちゅん、と鳴いて飛ぶ雀が、皆の間をかけぬけてゆき、山のほうへ飛び立ったのだ。いつもは控えめに、みんなの後ろにひっそりとしている口田が、このときばかりはみんなの間をすり抜け、慌てて、追いかけた。
「口田、あの雀って!」
 耳郎が言うと、口田はこくんと大きく頷き、えへ、とうれしそうに笑った。聞けば、旅館に来たとき怪我をしているのを見つけて、口田が世話をしていた雀らしかった。
《元気で……!》
 ぱくぱく、と普段寡黙な口田が一生懸命に口を動かす。
《……大きな鳥に、つかまらないようにするのですよ……》
 雀は一度振り向いて、また大きく羽ばたき、ふいと夜空に飛び去って行った。
「……口田の願い、もしかして、雀がよくなるように?」
 こくこく、と口田はもう寡黙に戻って、耳郎の問いに頷いている。
「私も、三奈ちゃんがくれたアンクレット、見つかるように願ったんだ……」
 葉隠がそれに続く。轟、飯田だけでなく、次々と「目に見えてかなう願い」が、徐々に降り注いでいるようだ。けれど原因が分からない。ここにいる者は……、緑谷出久をのぞくみんなは、おまじないに失敗して、戻ってきているのだから。
 とつぜん、やかましい音量で、切島鋭児郎の携帯が鳴った。相澤が注意する前に、っせェな電源切っとけ! という爆豪の怒鳴り声と、切島くんマナーモードにすべきだぞ! という飯田の説教が重なった。ほんとにこのクラス楽だな、と相澤は腕組みしたまま苦笑している。
「わっ、すいません、先生ッ、実家からなんで、出てもいいすか!?」
 相澤は無言で頷いた。事情を知っているようであった。
「もしもし!?」
 勢いこんで、電話に出た切島は、みるみる目元を潤ませて、ぱあっと太陽のような明るさで笑う。よかったなあ、マジでよかった、合宿終わったら、すぐ会いに行くってばーちゃんに言っといて! ……切島の言い方で、みな、どういうことがあったのか、大体察した。
「ばーちゃん元気んなった!」
 にかーっと、満面の笑みの切島に、わあっとみな歓声の声をあげた。彼の願いはこれだったようだ。
「よかった! よかった! 切島くんッ! お婆様が大変だったのだな! 事情を汲まずに口を出してしまいすまない!」
「いーよいーよ! よかったあ、マジで心配だったんだ……」
「よかったわね切島ちゃん。残りの合宿も不安なく過ごせるわね。……おばあちゃんはご病気?」
 蛙吹梅雨がとんとんと切島の背中をやさしく叩いて尋ねると、切島はおおげさに涙を拭きながら、あっけらかんと言った。
「いや、ぎっくり腰で!」
 げしっ、と瀬呂の脛蹴りと、爆豪の裏拳が切島に直撃した。重態みてえな言い方すんな紛らわしいッ! と怒鳴られて、だって俺ばーちゃんっ子だもんよお、と切島は不服そうである。
 原因はゲートボールのやりすぎ、とわかって、これには飯田もチョップを食らわせた。しかし、なんだかんだ言っても、元気になったのはいいことである。

 旅館に戻ってきていないのは緑谷たった一人であった。遅くないか? 探すべきでは? とそわそわ浮き足立つ生徒たちに、「大丈夫だ」と相澤は何度目かになるその言葉をうんざり顔で繰り返した。全員が旅館に戻ってきてから十五分ほど経ったころに、旅館の前の小路から、行灯の揺れる火がちらちらと見えてきた。
「緑谷だ!」
 上鳴が叫んで、みなが一斉に手を振ると、緑谷も手を振り替えした。満面の笑みを浮かべて、達成感に満ちた顔をしている。女将さんは最初から、訓練の最終目的地である御堂にいたようだ。女将さんもにこにこと笑って、心なしかちょっと浮いていた。……否、旅館に戻ってきた女将さんは本当に浮いていた。個性《ホバー》の女将さんは、ホバー移動ができるために、山道を登るのも苦でないのだという。
「毎年やっとりますが、今年はいいものを見せていただいた。期待の子らというだけありますねえ」
 女将さんは上機嫌で、緑谷が一人、やりとげたことをみんなに告げる。緑谷は戻ってきて最初に、同じチームを組んでいた三人の、手をかわるがわる握って、置いていってしまってごめん、と頭を下げた。
「何を謝ることがあるんだい? 君はやりとげたんだ!」
「そうだよ緑谷くん! 胸張って!」
「……」
 ずい、と轟は一歩踏み出して、緑谷の肩をつかんだ。緑谷ははっと目を上げる。瞳の色は明るい。森林色、なんてどうして思ったのだろう。緑谷の目は草原の色だ。
「お前は、強いな。緑谷」
 緑谷は口ごもり、何を言おうか迷っているようだったが、轟は返事を待たずに微笑んだ。
「負けねえぞ」
 緑谷は笑って、こっちこそ! と叫んだ。
 あじゃり様が消えてしまったかもしれないことを、轟は女将に話した。あじゃり様が轟焦凍のことを「結王丸」だと思い違って消えたことは、クラスメイトたちにも驚きだった。美しい稚児、という言葉にたがわぬ、とは確かにそうだ。轟焦凍を捕まえて、十中八九の人間は、「イケメン」「美人」と評するだろうから。
「……そうですか……あじゃり様が、……まことに」
 女将は目にうるうると涙さえ浮かべて、ならば、あじゃり様が子どもらの願いをかなえてくださるのは今年まででしょう、と女将は確証を持ってそう断定した。
「脱落した者の中で、あじゃり様を見た者は?」
 クラスの中の半分ほどが手を挙げた。
「この中で、誕生日を迎え十六歳になった者は?」
 誰も手をおろさない。ハ、と轟は気がついた。
「そうか。誕生日が来てねえ、……つまり、十五歳には見える。十六歳には見えない。……だから、緑谷も見えなかった。飯田は、見えなかったのか?」
「見えなかったが、気配のようなものだけは感じたんだ」
「坊ちゃんは、お誕生日はいつ?」
 女将が、自然と発した「坊ちゃん」というのに、飯田は少し不満そうな(なにしろ坊ちゃんらしさを隠すために一人称を「俺」にしているくらいだから不服であろう)顔をしたが、すぐ打ち消して、
「八月二十二日です!」
 と間髪いれず答える。
「やはり。もうすぐお誕生日を迎えるあなたは、十五歳と十六歳の境界にいたのです。あじゃり様はあなたの姿が見えにくく、あなたもあじゃりの姿が見えにくかった。また、達成したこちらの坊ちゃんは、」
 女将は緑谷の手を引き、真ん中に立たせた。
「十六歳にすでになられておったので、まったくあじゃり様の姿が見えなかった。他の子らも、同じはずです。あじゃり様は十五歳のお子の姿までしか見ることができません。亡くなった結王丸の生前の姿と同じ歳の子の姿しか見ることができないのです」
 分かったような、分からぬような、不思議な話であった。
 緑谷は、真ん中でみんなの視線を浴びて照れくさそうに小さくなっている。緑谷が何を願い、なぜ皆をおいてでもたったひとりで達成しようとしたのか……。みな分かっていたから、誰も「どんな願いにしたの?」とは問わなかった。
「……僕が、失敗するわけにはいかなかったんだ。なんて大それた願いにしちゃったんだろう、ってちょっと思ったけど……でも、だから、僕が失敗したらみんなの分まで失敗になる。だから、……必ずやらなきゃならなかったんだ。……三人のこと、置いていってでも、やらなくちゃならなかったんだ……」
「デクくん。……わかってるよ」
 麗日が笑う。飯田は、握りこぶしを作って、緑谷に差し出した。緑谷は飯田の拳に、自分の拳を勢いよくぶつけた。
「僕が願ったのは、……」
 ボムッ! 爆発音が遮る。それ以上言うな、の顔をして、爆豪勝己が忌々しげに緑谷をにらんでいた。ヒッ、と肩をすくめた緑谷だったが、「言わなくても分かってるってさ! 爆豪が!」と上鳴がのんびり言うので、気が楽になった。
「そうだ。俺たちは、君が何をしてくれたのか、分かっているよ。緑谷くん」
 飯田が言う。さて、もう夜が遅い。みんな就寝だ! 消灯ッ! と叫ぶ飯田に、「俺の台詞だ」と相澤がぐりぐり、飯田の頭をつかむ。じゃあお前ら、これにて解散。明日は朝六時に広間に集合だ。相澤はそれだけ言うと、さっさと旅館にひっこんでしまった。
 山が哭いている。それは以前までのような、稚児を探してさまよう悲しいものではない。いまは、子どもたちの健やかな成長を願う、祈りの声であった。

〈八〉

 布団が全部で十四個並べられた、大広間の真夜中に、ふと轟焦凍が目を開けた。彼が目を覚ますのは珍しい。たいてい、寝入ると恐ろしく寝つきがよく、ちょっとやそっとのことでは目を覚まさない性質だったのだ。
 なぜ目を覚ましたか分かった。見おろしている視線があったからだ。むく、と起き上がると、相手と同じ頭の高さに持ち上がった。
「寝れねぇのか、飯田」
「ああ、……いや、うん。ふと、目が覚めたんだ」
 飯田はめがねをはずした目元を細めて、普段よりうんと静かだ。黙って布団の上に座った、静かな飯田天哉の存在は、轟をなんだか落ち着かなくさせる。
 あたりまえの話だが、飯田と付き合うのははじめてなのだ。もっと言うと、轟も、飯田も、「お付き合いをする」というのは始めてなので、こそばゆいような、苦しいような、もてあましぎみの感覚がある。友達同士の輪の中にいれば片時忘れられるこの緊張は、ふたりきりになるとふっと湧き出して、轟の指先をじんじんと痛く落ち着かなくさせるのだ。
「たいへんな一日だった。」
 飯田がそう言った。
 ああ。と轟も同意する。何日も経過したように思うほど、濃密な日だった。
「みんな、疲れていたみたいだな。ぐっすりだ……」
 大部屋の中央で、たくさんの寝息に囲まれ、ふたりは途方に暮れたみたいにぐるりと視線をひとめぐらし、する。
 轟焦凍Aが言う。いまだ、いけ。いってやれ。チャンスじゃねぇか。男だろ。
 轟焦凍Bが言う。飯田が、「……不躾に、こんなことを言うのは……ッ、非常に心苦しいんだが! そのう、……つまりだな、……恋人になったのだし、……君に! 君に……しても、いいだろうか……」とかなんとか、手をぶん回しながら真っ赤になって、かけてない眼鏡をぐいっとあげて、男らしいところを見せようなんて、切り出してくる前に、俺が先を越さなねぇといけねぇだろ。
 さっきから、轟焦凍Aと、轟焦凍Bは、いやに仲がよいようだ。二人して、同じ助言をして轟焦凍(本体)をせっつく。轟は意を決した。飯田が先を越してくるかも、という対抗心が火を噴いて、なんでも、無許可で、突然やってやろうと思った。飯田が、俺に許可を取ってくる前に。
 と、思ったのに。
 飯田は許可を取らなかった。ぐいっ、とうつむいていた顔を上げて、轟の腕を強くつかんだ。
 むにっ、とやわらかいくちびるが、轟のくちびるに触れたとき、(やられた)とそう思った。飯田天哉は虎視眈々と、先を越すのを狙っていやがった! コンマ数秒程度の短いキスで、今日び幼稚園児のカップルでももっとうまくやりそうなものだったが、飯田は轟に突然キスをかました。飯田がやったのだ。これが大事なことだった。
「……おまえ」
 驚きに、ぽけ、と口をあける轟を前にして、飯田はボンッと赤くなった。「だ、……だって!」飯田は珍しく、さっきから轟の前では言いわけしかしていない。
「だって、君がそうするだろうと思ったから。お、俺の方が速いんだぞ……スピードなら、この俺のほうが、君よりうんと速いんだ、轟くん……」
 てめぇ。覚悟しろよ。轟は、めらと炎を燃え上がらせた。ぐい、と飯田の後頭部を抱くようにして、引き寄せる。まだまだへたくそな少年のキスだが、練習すりゃあきっとうまくなるはずだ。へたくそで、あたりまえ。へたくそ上等だ。恋も愛も欲望も、はじめてで育った飯田と轟のようなまっとうな十五歳(片方はもうすぐ十六歳だ)が、ふたりそろって、キスも上手にできるはずがない。ましてや、その向こうなど、もってのほかだ。まだキスの先のことなんて、二人には脳みそにも上がってきていない。
 それでいい。ゆっくりでいいのだ。けれど、轟も飯田も、相手より先をいってやろうと勇み足で、スタートラインでそわそわしている。恋の始まりに明確な「スタート」を告げる銃声は鳴らない。どちらかが、抜け駆けして、走り出したのを追いかけるしか、このレースには始まりがないのである。
 ―――……抜きつ抜かれつ、ゼッケン4番、飯田天哉選手、コーナーでゼッケン14番、轟焦凍選手を捕らえました! 雄英屈指のスプリンター飯田選手、前をゆく轟選手を抜けるか、抜けるか、抜けるか……!

〈幕〉

 朝、眠い目をこすって起きてきたクラスメイトたちは、一様に眠気を飛ばさざるを得なくなった。旅館の朝食と言えば、焼き魚、お味噌汁、白いご飯が茶碗に山盛り。やっぱりそういうやつを想像するはずだ。
けれど、皆の目に飛び込んできたのは、山盛りのたこ焼きと、イカ墨パスタであった。
「エエ~~~~ッ!? 意外すぎんだろッ」
「想像してたのと違うッ」
「違うっつーか想像だにしてなかったッ」
 めいめい素っ頓狂な声を上げる中、普段ポーカーフェイスの障子目蔵だけは、ぱあっ、と目に見えてわかるほど膳の上の食事にきらきらと瞳を輝かせている。
「もしかして……これはお前の……?」
「ああ。好物だ」
 障子がいそいそと席に坐るのを、常闇がぽかんと見つめ、解せぬ顔をしたが、横に坐った。待ちきれない様子で「いただきます」の格好をし、いつでもいただける状態をして待っている障子など珍しい。一瞬、おくれて、皆の笑い声が弾んだ。この調子なら、合宿のうちに、みなの願いはすべてかなってしまうだろう。
「ところでさあ、昨日の夜中飯田と轟起きてなかった?」
 ガタン! 飯田は勢いよく身を乗り出しかけて机に足をつよく打ち(昨日から勘定して二度目だ)、轟は飲みかけていた味噌汁を盛大にシャツへこぼしてしまった。

   〈了〉

  あじゃり伝説と橋づくしのくだりは、三島由紀夫の「橋づくし」と、室生犀星の「あじゃり」から。