ハレー彗星はきみに向かって

※2016年発行の同人誌より再掲
※轟飯と、それを見守るデクくんの話です

 僕たちが高校一年生の、夏のことでした。
「緑谷、おまえは。考えたことあるか。《家》のこと。」 
 いつもと同じ、どちらかというと平凡な部類に属するある日の放課後に、僕はそう尋ねられた。尋ねてきたのは、轟、焦凍くんだ。めったに彼からものを尋ねられたことがなかったから、「え」と一瞬、なにを聞かれていたのか忘れて、それから考えた。
 「家」のこと、っていうのは、家事とか、そういうことだろうか。家の手伝いをしているかということ? 違うよな……。轟くんは、そういう意味で言ったのではないような気がする。僕はなんとなくそう思って、うーん、と曖昧な返事をした。
 もう僕らのほかに誰も居ない教室に、夕暮れの前の激しい西日が差し込んでいる。伸びた影が、教室の入り口にまで届いていて、僕らは人を待っていた。委員会に出て行ったきり、ちょっと帰りの遅くなっている、飯田、天哉くんを待っているのだ。
 三人で帰ろう、と言う話になって、あまりにも二人が遊びなれていないことに驚き、放課後にどこかへ寄らない? という話になった。寄り道はよくないんじゃないか? と思ったとおりの返事をする飯田くんに、クラスメイトとの信頼を深める有意義な時間だと思って、とかなんとか、気に入りそうな言葉を並べて説得した。そのくせ、飯田くんは、「とかいって、ただ飯田くんと轟くんとちょっと寄り道して、遊びたいだけなんだよね」という僕の本音の方に弱かった。
理屈っぽいのに、そのくせ、情に厚いというか、飯田くんはほんとに、そういうアンバランスなところが、面白くて、飯田くん「らしい」。

 学校からの課題もあるし、休みの日の前にしよう、ということで、土曜日が「放課後の会」の日になった。僕らは土曜日の放課後になると集まり、どこかへ行こう、とそういうことにした。とりあえず二人が行ったことないところに行きたいけど、どこにでもあるところは行ったことありそうだし。例えば、ほら、駅前の……、と適当に言った、どこにでもあるチェーン店のコーヒーショップの名前に対して、「聞いたことはあるけど行ったことはない」という返答が二人ともから返ってきたので、(これは思ったより世間知らずかもしれないぞ!)と思わざるを得なかった。
 そうして、放課後さあ行こうとなったときに、飯田くんが委員会で呼び出された。俺抜きで行ってくれていい、と言う飯田くんに、三人で行こうよ、と言って待つことにした。ステインとの戦いのあと、……ああ、そうです、僕ら三人以外、あのときは誰にも公表していなかった戦いだから、驚いた人も多いと思うけれど。僕らの中には奇妙なつながりのような、友情らしき何か(としかいいようのないもの)があって、僕はそれがきちんと「友情」の形になるように仕上げたかった。
 そうして、はじめに戻る。
 飯田くんを待ちながら、教室でぼんやりしていると、轟くんが思いつめた深刻な声色でそんなことを尋ねてきた。「家」のこと。轟くんの意図がよく見えないので、すぐには答えかねた。説明を求めていると判断したのか、沈黙を破ったのは轟くんの方だった。
「《家》っつうより、《家柄》とか、《血筋》っつうのかな。そういうの、意識したことあるか。」
「ううん。あんまり。そんなにいい家柄ってわけでもないし……。」
「俺もなかった。最近まで、なかった。正直なとこ、《家柄》とか《血筋》なんてもん、全部死ぬほど嫌いだった。クソ親父を継ぐ気は、今もねえし、《家》なんか出て、俺は俺の好きなようにやろうと思ってた。」
 轟くんはまるで空気に向かって息を吐き出すようにしゃべった。まぶしい西日が轟くんの横顔を照らし、切り取ればそれなりに絵になるだろう景色を作っている。轟くんはものすごく整った顔をしている。と、僕は思う。美人、とも言える、かっこいい、イケメン、そういう風にも言い表せる、ふしぎな顔立ちだ。ただ四方向どこから見てもおおよそ整っている轟くんの横顔は、それでも、何か耐え難いものと戦っているように苦しそうだった。
「でもな。」 
「うん。」
「俺で、その「血」が途絶えるってのは、どれほどのことなんだろうな、って、最近、考えるようになった。」
 轟くんの声は苦渋を噛み締めるようだった。「血」が絶える。僕ははっとした。轟くんは確かに、彼女だとか、恋だとか、そういうものに縁がなさそうだし、女子たちから寄せられる好奇の視線にも、ものすごく無頓着だ。でも、「血」が絶えるなんて。僕はぎょっとして、轟くんは、誰も好きにならないで、誰とも一緒になるつもりがないのかもしれない、とひやりとした。
 僕が生まれたのは、普通の中流家庭で、どこにでもある平凡な「家」だ。「家柄」なんて呼べるのかと疑わしいくらい、どこにでもある家庭で、どこにでもいる両親だった。けれど轟くんは違う。僕には「家」からのしかかってくる「名前」の圧力が、どれほどのものか分からない。たぶん、その重さは同じような立場の者にしかわからないものなのだろう。僕がふっと頭に浮かべたのは飯田くんだった。
「飯田くんに聞いてみるのはどうかな。僕じゃ、たぶん、ちゃんとしたアドバイスをあげられないけど、飯田くんは、轟くんと似てて、……」
 言い終わる前に、轟くんが、赤く染まった方の髪をさらりとふるって、顔を上げ、「ばかだな」と言われているなとはっきり分かる困ったような目を投げかけて、
「うん、いや、飯田には言えねえよ。」
 そう遮ったので、面食らった。そういう顔をしている人間を、過去に何回か見たことがある。
 
 人を好きになったひとの顔だ。

「緑谷は、麗日のこと、好きなのか?」 
「エッ!?」
 突然変化球が飛んできて、僕は思わずぎょっとした声を上げた。これじゃあ、まるで肯定みたいじゃないか。ううん、いや、うん、ええと、とへどもどした答えを繰り返したが、
「わからない、……まだ、わからないっていうのが、正しいかも。」
 と、嘘偽りなく言うのが一番よいと決断して、思ったとおりのことを言った。余計な詮索をせずに、轟くんがうなずいたのは、それが「嘘ではない」と分かったからだろう。
「ああ、……なんとなく、分かる。俺もそうだから。」
 びっくりした。
 僕はてっきり、轟くんが「血」が絶えるなんてことを言うから、だれとも恋をしないで生きていくつもりなんだと思ったのだ。けれど、轟くんには「好きだ」と思える相手がいるらしい。彼をひそかに好きでいる女の子たちが、どんな顔するだろう、と僕はなぜかひやりとした。
「轟くんは、誰を、……」
「なあ。なんで、好きなんだ? 麗日が、女だから?」
 ぎょっとして、息が詰まった。「女だから」というところに、やり場のない轟くんの不安と怒りと戸惑いが凝縮されて、はじけそうになっているあやうい傷があるのが、なんとなく見えてしまったから混乱した。たぶん、たずねている本人だって分かっている。「女だから」なんて理由で好きになったりしないことを。本能的には、分かっているのだ。けれど、頭の中の、理屈っぽい部分が、それにどうやってか理屈をつけたがっている。僕は轟くんが、もはや僕に何も隠すつもりがないのだということも、悟ってしまった。

「すき、って、隕石、みたいだよね。」
 ふ、と思い立って、突然言った言葉を、理解が追いつかずに轟くんが顔を上げた。説明を求める目が向けられた。そりゃ、そうだ。突然こんなこと言われたら、誰だって混乱する。
「すきになるって、隕石みたいに、ある日突然落ちてくるものなんだ。たぶん。直撃してくることもあるし、家の庭に落ちてきたのを遠くから眺めてるみたいなこともある、……うーん、ごめん、何が言いたいんだろう、僕……。」
「いい、なんとなく分かる。俺のは、たぶん、直撃だ。遠くで彗星みてえにぐるぐる回ってたやつが、突然落ちてきた。受け止めきれなかった。そんな感じだろ。」
「そうそう、そういう感じ。」
 友だち同士でコイバナってやつだな、これ。と轟くんがどこか楽しそうにそう言うので、僕もうれしくなった。そうだね。僕もあんまりしたことないからどきどきする。轟くんの、そういう、ふとしたときに見せる等身大の十五歳らしいところも、最近ようやく見えるようになって、僕は轟くんのそういうところがとても好きだ。
 体育祭のとき、底冷えするくらい恐ろしかった、君のあの緊迫した表情はもうない。体育祭以来、轟くんは、ほとんど独り言みたいに、「緑谷はすげえな」と言うようになった。僕はそれがとんでもなくくすぐったくて、照れくさい。
「男は女を好きになって、血と家を守っていく、って、誰が決めたんだろうな。女だったらよかったのに、とか、男じゃなかったら、とか、そんなバカみてえなこと、思わねえけど、それでもなんか、考えちまうよな。」
 「轟くん、《家》とか《血筋》を、実は大事に思ってるんだね。」
「いや、ちげえよ。」
 遠くから、最大限の早歩き、でも廊下は絶対走らない、そういう足音が聞こえてきた。あ、飯田くんかな。僕はそう思って、廊下のほうを見る。轟くんもそう思ったようで、顔をあげ、廊下をみつめていた。
 待ち望むような、すこし切なそうな目で。
「あいつ、あいつは、……《家》が、大事なんだ。きっと、どこかで、そういう日が来る。だから、やめといたほうが、いいんじゃねえかな、と思う。」
「轟くん、」
 口を開いた緑谷は、スラッ、と教室の扉が開いた音で振り返った。 
「すまない! 遅くなって!」

 飯田くん。
 轟くんに直撃した彗星は、もしかしたら。
 僕は静かにそう思った。
「おせえよ。」
 轟焦凍はそう言って微笑する。たぶん、世界中どんな子が、「見せて」と頼んでも、絶対見せてもらえない微笑だ。直撃してきた彗星の、四方八方をいとしく思う、そんな顔をしているのだった。

「いこっか。三人そろったね!」

 僕がこれから語る、ふたりの物語は、僕自身が目にしていないことも、ふたりに後から聞いて知ったことも、いろいろごちゃまぜになっています。長くなると思うし、聞きづらいと思うけれど、それでも、どうか、最後まで聞いてみてほしい。

 僕の大切な、大好きな、友だちふたりのお話ですから。

01. Cafe

 駅前にあるコーヒーチェーン店は、雄英生たちがよく集まるスポットだ。だけど、僕にとって、その雄英で出来た友だちと一緒に入るのは、入学して一ヶ月以上経ったいま、ようやくのことだった。
 呪文みたいなメニューの復唱が特徴的で、エスプレッソマシンがバリスタの方を向いた、いわゆるシアトル系のコーヒー店。全国どこにでもあるチェーン店だったけど、「雄英高校前」と呼ばれる駅近くの店は、ほかの店舗とちょっと違ったやり方で飲み物を提供している。
 やさしそうな、ふんわりした雰囲気の店員さんが多く、それをとりまとめる店長さんは、くしゃくしゃにウェーブした癖の強い茶髪が、鳥の巣みたいにもさもさした男の人で、彼は、全国チェーンのこのコーヒーショップを、独特のドリンクサーブで切り盛りしているらしい。

 自動ドアから中に入ったとたん、ふわっと、甘いキャラメルソースのかおりが漂ってくる。ドリンクが出来上がるのを待って、たくさんの生徒たちが店内をうろついている。学生が圧倒的に多いけれど、主婦の集まりみたいなテーブルもあれば、仕事終わりの社会人たちがぽつぽつ散らばって座っていたりもする。
 雄英高校以外にも、この駅は別の駅からの乗り換えで利用されることが多いので、別の路線を降りてきた他校生らしき制服姿もたくさんいた。チェック柄のスカートに、キャメルのブレザーを着た甘い香りのする女子高生四人の隣の通り過ぎた。あははっ、と笑い声の大きくて、派手な髪の四人組。全員爪までぴかぴかにしていて、
「新作飲んだ?」
「やばいよ!」
「まじで?」
「うまっ」
「え~ひとくち~!」
 と楽しそうに笑っている。スカートが目を覆いたくなるほど短くて、シャツの前をがばっと大きく開けて、みんな細めのシルバーネックレス。かっちゃんぐらい開いてるなあ、と僕は彼女らの丸出しの鎖骨を見てはらはらした。
 メニューも見るのは初めてらしく、あんぐり口を開けて、レジ前に立てられた黒板を眺めている轟くんと飯田くんの、ぽかんとした口の開き方がまったく同じで、声を潜めて笑ってしまった。
 轟くんの胸のうちを明かす、ささやかな告白を聞いても、あまり驚かなかった。ふしぎなほど心は穏やかで、どことなく、「なんとなくそう思ってはいた」ような気にすらなっている。

 ふたりはよく似てる。

 そう思う。いや、はたから見れば、ぜんぜん似てない。二人でいてもとんでもなく話が合わなそうにも見えるし、実際、仲良くなる前はそうだったんじゃないかなぁ。だけど、あの日三人で、あの薄暗くて湿っぽい路地裏に立ち、戦ったことが絆を強くしたと思う。飯田くんとは入学してすぐから、轟くんとは体育祭のあとで、仲良くなれたとは思ってたけれど、路地裏での戦いが三人をより強くつないだ。と、僕は思う。

「どれにするか決まった?」
「俺はやはりオレンジジュースだな……。見たところジューサーを使って果肉をそのまま搾ってるみたいだから、燃料としてもよさそうだ。」
「あ、ほんとだすごい!」
 カウンターの中で、ガガガガッ、と氷を砕く音がして、フルーツがそのまま入ったジューサーの中がシェイクされていく。あれはスムージー。店員さんから配布されたメニューに、オレンジスムージーがあった。飯田くん、スムージーでも燃料になるのかな。疑問に思ったけど、飲みたそうにしているので、黙っておこう。ちょうど、ミックスベリースムージーひとつ、と前に並んでいたOLさんがそう言うと、またジューサーが動かされる。店員さんが後ろを振り返って、
「ゲミシュターベーレ スムージー ビッテー!」
 あれだ。ナゾの呪文。かろうじてスムージーだけ聞こえたけれど、いつも何を言っているのかぜんぜん分からない。けれどその呪文も、店内に流れる音楽のようにマッチして、ふしぎなことに違和感を覚えなかった。
「すげえ」
「呪文みたいだ……。」
 案の定、呪文を初めて聞いたらしい二人は、カウンター前でぽかんとしてる。いままで友だちと来たときは、僕を含めてみんなこの呪文に慣れ親しんでしまった後だったから、二人の新鮮な反応がまたうれしかった。あれこれ理屈をつけて二人をひっぱりだしたけど、単純に、こうやって、ちょっと世間知らずで過ごしてきた二人の友だちを連れて、二人が知らない場所、二人がはじめて見る物、に、引き合わせてみたいだけなんだ。そして、轟くんと飯田くんが、
「緑谷、これ、なんだ?」
「緑谷くん、これは!?」
 と頼ってくれるのがうれしかった。ちょっとずるいかな、僕。そう思いながらも、何度も来たことがある場所が、少し特別に思えてくるせいで、やめられそうにない。
 僕たちの番が来て、お会計はお友だちと一緒にされますか? とやわらかい口調でたずねられる。はい、それで。二人は依然としてぽかんとしているので、僕が引っ張ってあげよう、とむやみに張り切ってしまう。

「飯田くん、オレンジだよね。」
「ああ、うん! すまない、これがいい。」
「オレンジスムージーですね~。」
「轟くんは?」
「なんか、チョコレート、みてえなやつがいい。」
「甘いやつ?」
「ああ。」
「ホイップココアとかどうだろ。おいしいよ。」
「じゃあそれで。」
「ホイップココアですね。」
「僕はミルクカフェオレで。」
「かしこまりました~。」

 店員さんが、オーダーをカウンター内に通す。「どんな呪文が飛び出るんだろう」みたいな顔で、緊張気味に、わくわくと、じっと見つめているのがまた、いい。リアクションとして面白くて、僕もつられてわくわくした。
「オランジェンザフト、ショコラーデ ミット ザーネ、カプチーノ ミット ザーネ ビッテ~!」
 おおおお。たぶん、心の声が出ていたら、そんな風に歓声をあげていたと思う、轟くんと、飯田くんの感激した目つきのせいで、たまらなくなって笑ってしまった。聞きなれていた呪文も、二人のその反応を見ると、新しく思える。ランプの下でお待ちくださいね。と言われて、丸いシーグラスランプの下に立つと、
 ……いた。
 この店の、名物店長さん。眠たそうな目で、もさもさの髪を揺らして、エスプレッソマシンを動かしている。
 じい、っと彼が僕たちを見た。シアトル系コーヒーショップは、エスプレッソマシンでコーヒーを作っている間、目の前で待っているお客さんに、声をかけたり、調子を尋ねたりするために、マシンを店内に見えるように置いているらしい。その、本来のシアトルスタイルを愛しているのがこの店長さんだった……、なんて、これは後に来たとき、店長さんに直接聞いたんだけど。まず店長さんが僕に、微笑みかける。久しぶり、みたいな顔で。笑うとその風貌の怪しさが大分マシだ。ちゃんとカフェの店長さんに見える。
「君、最近おっきな怪我したでしょ。気をつけなーね。カフェオレちょっと甘めにしとくね。」
 彼の個性は《目》だ。相澤先生と同じタイプの、《目》で相手を見て発現するタイプの個性で、彼は《目》で相手の体調や、状態を知ることができる。お医者さんになったらよかったのに、と、のち、よく三人でここへ来るようになってから、カウンターでそういう会話をしたんだけど、俺ぁ頭わるいからねー。カフェがいーよ。とふわふわ笑っていた。独特のしゃべり方をする人だった。
「分かるんですか!? すごい!」
「俺ぁね、そういう個性なの。そっちの眼鏡くんは、ちょっと目ぇつかれてんね。根つめて考え事とかしてない? スムージーにブルーベリーいれとくよ。」
「ありがとうございます!」
 ゴガガガガッ、とやかましい音を立ててジューサーが動き始め、どろっとしたフローズン状のスムージーがカップに注がれる。少し太めのストローが刺さった、鮮やかなオレンジからパープルへのグラデーション。女子ならおしゃれ~! と喜んで、写真の一枚くらい撮っただろうが、そこは飯田くんだ。冷えたドリンクをもらって、飲むまでにためらいがなかった。
「先座ってろ。」
「じゃあ、奥のソファのとこ、空いてるから待ってるね。」
「おう。」
 じゃああっち座ろっか、飯田くん、と声をかけたとき、飯田くんのまなざしが、まっすぐ轟くんの背中に投げかけられているのを見てしまって、はっとした。飯田くんがすぐに我に返って、うん、ああ! そうしよう! と満面の笑みを浮かべて、「いつもの飯田くん」の顔になった。轟くんは、ホイップココアをもらいながら、店長さんになにやら言われている。
 轟くんは、なんていわれたんだろう。やっぱり、ステインとの戦いのときのことかな。怪我したもんなぁ。

 空いていた席は、さきほど入り口にいた、四人組の女子高生の隣だった。

「ね、見て」
「雄英男子じゃん」

 くすくすっ、と、飯田くん、そして僕を見て、女子の含み笑いが届いてきた。雄英の制服を着ていると、これがよくあることなのだと最近になって分かってきた。将来、ヒーローになる「雄英」の生徒。いろんな意味を持った視線を投げかけられる。女子から意味深な目つきを投げかけられることに慣れていない僕には、まだ、かなりくすぐったい視線だった。
「え、ちょっと待って、イインチョー!?」
 そのとき、突然投げかけられた、ぎょっとした声で思わず彼女らを真正面から直視してしまった。向こうの、声を上げた女子以外の三人も、突然声を上げた友だちのせいで、同様に驚いている。派手な金髪を、頭のてっぺんでお団子にした女の子で、高校生に見えない大人っぽいお化粧に、鉛筆が乗りそうなものすごいつけまつげをした気の強そうな彼女は、まっすぐ飯田くんを指して、覚えてる!? つーかわかんないよね!? 中3でクラス一緒だったじゃん、と自分の名前を言った。
「!? ッああ! 君か!」
 派手になりすぎて、分からなかった! なんて珍妙な格好してるんだ、ひどいな!? と相手が誰だか分かって素っ頓狂な声を出した飯田くんと、目の前の派手な女の子はどうやら、信じがたいけれど、中学時代のクラスメイトのようだった。
 聡明中学、って、たしかエリートの中学じゃなかったっけ、と疑問符を浮かべたが、グループのうちの一人が、あそっかアンタ実は頭よかったよね? 忘れてたァ! と笑い始める。実はってなんだよマジで頭よかったから、とぎゃんぎゃん言う、女の子のパワーに圧倒されて、一言もしゃべりだせなかった。
「え~! 久しぶりじゃん、イインチョー! またデカくなってない? てかさらにゴリラになってない? 雄英制服バリ似合うね~!」
「相変わらず口が悪いな君は! 君はちゃんと、……は、やっていそうにないな……」
 ばしばしっ、と飯田の腕をスカルプの長い爪の手が叩いて、相変わらずマジメだね~イインチョー、ときゃらきゃら楽しそうに笑う彼女が、飯田くんのとなりにいるとものすごく浮いた。呆れた顔で、いつもは声が大きな、「うるさい担当」の飯田くんが、さらに声が大きな女子に、わかったわかった、君その髪の色、染めてるな!? 染髪は校則違反じゃないのか、とか、先生と生徒みたいな会話をしているのを、ぽかんと眺めていたとき、轟くんが、ホイップの乗った冷たいココアを持ってやってきた。
 びっくりした、というように、轟くんの口もぱかんと開いた。そりゃそうだ、まるでつりあいの取れていない二人が話をしているんだから。
「誰だ?」
 ぽろ、っと、無意識に出た、そんな言い方だった。そりゃ、そうだ。僕だって、あんまり今の状況を飲み込めていない。けれど、……たぶん轟くんは気がついていないけれど……、女子たちが、わっ、と一様に目を見開いたのは間違いない。女子たちの顔中に書いてある、(やばい、イケメンじゃん)が目に見えるみたいだ。飯田くんと話していた女子が、あたしイインチョーと中学一緒でー、と説明し始めたけれど、轟くんがどこまで聞いていたか分からない。たぶん、何の意図もなく、そういうノリの女の子なのだろう。飯田くんのブレザーをぐいぐい引っ張って、揺らしたり、ばしばし叩いたりする、スキンシップの激しい女の子。轟くんの視線が「そこ」にとどまって、困惑したような、なんともいえない顔をしていた。
「ちょっとまって、時間ヤバイよ!」
「マジだ! 行かなきゃ、彼氏と待ち合わせしてんのに! イインチョーとその友だち、じゃね~!」
「今度雄英とウチで合コン組んでよイインチョ~!」
「じゃね~~」
 さっき出会ったところなのに、まるでもう見知った仲みたいに飯田くんを「イインチョー」と呼び、彼女らは固まって、短いスカートをひらひらさせながらトレイを持って去っていく。やべっ、充電死にそう、ね~、やばくない? 死ぬほどイケメンなんだけど……、オメー彼氏いんだろがッ、てかさ~、それなに? かわいい! カップの中にハート入ってる~!
 遠くからでも彼女らの声が聞こえてくるくらいで、どっと疲れた様子で飯田くんがソファに沈み込んだ。はあ、すまない、元気だな彼女らは、と、人のことを言えないくらい、いつも快活な飯田くんが、珍しく人の元気に押されてぐったりしていた。
 気を取り直して、三人でテーブルを囲んで座る。轟くんの持っているココアの、ホイップクリームの上に、ハート型のチョコレートが乗っていた。すげえな。轟くんの一言が、彼女らの圧倒的なパワーを物語っている。女子はすごい。力のかたまりだ。雄英には、特にヒーロー科には、ああいうタイプの女の子が珍しいのもあって、僕らはしばらく彼女らのパワーの余波に浸っていた。
「飯田、妙に好かれてたな。あの女に。」
 たぶん、飯田くんは気づいていないだろうけれど、轟くんのその一言は、とても重い。知らない顔で甘いカフェオレを飲む努力をしながら、ひやりとした。責めるような口調でもない、自然な聞き方だったが、轟くんが心底、気にしているのがよく伝わってくる。
「彼女は。ああ見えて、中学のとき、クラスでも上位の成績だったんだ。テストでは、いつも俺と競った。数学だけなら、俺よりセンスがあって、テストで負けたこともある。」
「え!? そうなの!?」
「……そうは、見えねえな……。」
「成績がよかったから、雄英を受けなさいと、ご両親に強要されていたんだが、本人は受けたくないと言い張って。進路懇談会のとき、ヒーローなんて、死ににいくみたいな学校いやだ、って泣いたんだ。次の番を待ってた俺が、教室の外にいたのとはち合って、あとで、ごめん、って泣かれたよ。俺は、そのとき、自分の進路に胸を張って、自分で決めるのが一番いい、とアドバイスした。……なんだかんだ、楽しそうでよかった。」
「……飯田は、中学ん時から、ヒーローみてえだったんだな。」
 にこり。笑った轟くんの顔つきが、少し寂しそうだった理由はよく分かる。僕だって、二人の中学のころを、ぜんぜん知らない。けれど、飯田くんにとっても、同じだ。飯田くんも笑って、俺にとっては、二人のほうが、ヒーローに見える。俺にとっての。そう言う。路地裏でのことを思い出したんだろう。
「みんなでヒーローになろう。強くなって。」
 そう言うと、二人とも笑ってくれた。わがままは言わない。大きな願い事もしない。だから、この二人が笑っていてくれたらいいな、とそう思うのだ。

 そのとき、とたとたとローファーの音がして、隣のテーブルに一人の女の子が駆け寄ってきた。さっき帰ったはずの、飯田くんの同級生だ。戻ってきた彼女は、ねー、イインチョ、ケータイ忘れてってない!? と大声を出した。座席の下に落ちていたのを、「これだろ」と拾って、轟くんが渡す。ありがと~、よかった~、と彼女は受け取って、そして、轟くんのカップを見て言った。
「あ~! ハート乗ってるじゃん! イケメンくんも好きな人いんの? このハートって、恋してる人に乗せてくれるやつなんでしょ~? え~、絶対大丈夫だよ、イケメンだもん! がんばれ~!」
……嵐のように現れ、嵐のように去っていく。やっぱり女子ってすごいパワーだ。僕は首をすくめ、おびえた小動物みたいに情けなく小さくなっていた。ばたばた駆けていく彼女の背中を見つめて、ぼうっとしていた僕らのうち、一番早く動いたのは轟くんだった。まるで、素早く食べてしまえば、その恋が隠しおおせるというふうに、轟くんはスプーンでホイップごとかきすくったハート型を、もぐっ! とあわてて食べてしまった。
「……きみ、」
 次に動いた飯田くんが、口をひらいて、言いかけてから、むぐ。と飲み込んだ。怖くて聞けない。そんな感じだった。あの店長さんに、ハート、乗せられたんだろう。君、恋してるんねー。じゃあハート。とか言われて、ホイップの上に、チョコレートで出来たピンクのハートを乗せられたのだ。たぶん。

 突然落ちてきた彗星だ。

 轟くんは飯田くんのことをそう表現した。じゃあ、飯田くんにとっては? 轟くんは、飯田くんにとっては、遠くで回っている彗星のひとつなんだろうか。
 それとも、おなじく、
 落っこちてきた、冷たくて熱い、ふしぎな隕石の、ひとつのかたまりなんだろうか。
 

 神様。僕はふたりの太陽になりたい。
 いや、大きく出すぎちゃったかな。うん、やっぱり、そうだな、ふたつの星がぐるぐる回っているのを、僕だけは、ちゃんと見守っていたい。

 轟くんと飯田くんは、僕のとても大切な友だちだから。

02. Zoo Dream Land

 今日は一緒に帰れないかも、と僕が言ったのを、何か用事でもあんのかと轟くんが遮った。オールマイトのコラボグッズが今日発売だから、今日はそれを買いに行く用事がある、なんて、また二人は呆れた顔をするかもしれない。
 打ち明けた僕に、轟くんは、けれど意外にも真面目な顔をして、
「そういう、ちょっとした野暮用で、ふらっと出かけるのが俺たちの本来の目的じゃねえのか」
なんて言った。飯田くんも、その通りだ、水くさいぞ、と眉を上げて、賛成する。別にどこへ行くとあらかじめ決めてるわけでもなし、じゃあ今日はおまえの野暮用に付き合う。きっぱり轟くんがそう決めてしまった。
 
 正直、俺はこの「放課後の会」ってのを、まだうまく飲み込めてねえ。轟くんがそう言ったのは、昨日のことだ。友だちと放課後寄り道して、高校生らしくすること自体、轟くんにとっては初めてのことで、だからまだ落ち着かないし、慣れない、とこぼしていた彼が、そんなふうに提案してくれたのが僕はうれしかった。

 オールマイトのコラボグッズはどこに売ってるんだと聞かれたので、言いにくかったけれど、ズードリームランドだと答えた。前に、チケットをもらったけれど、僕と轟くんは行けなかった場所だ。電車を乗り継いで四十分前後。遠いから二人に来てもらうのも悪いなあと思ったんだけれど、二人はそんなこと、お構いなしだった。
 ズードリームランドに行ったことがない、と轟くんが言うと、飯田くんがにわかに張り切り始めて、限られた数時間の中で轟くんをめいっぱい楽しませてやらなければ、とかなんとか、一人で燃え上がっていた。てっきり、飯田くんもそういう場所には行ったことがないものだと思ってたから、小さいころによく家族と来ていた、と語る飯田の楽しそうな顔つきを見て、飯田くんも十五歳らしいところを持っているんだなあと感慨深かった。
そうか。飯田くんは、いくらヒーローの家系で、真面目すぎるくらい真面目だからといって、あらゆる「少年らしいこと」を取り上げられたような生き方をしてたわけじゃない。と理解を改めて、余計に、轟くんの横顔が、ぎゅっと胸をしめつけるようだった。

 轟くんに、携帯画面で園内のマップを見せながら、見てくれ、これはパークの中心にある活火山で……、ショーの際にはちょうど、ここぞというときに噴火するんだ……、迫力があって、……それでな、……。飯田くんがうれしそうに語るそれらに耳を傾けて、轟くんのくちびるが、やさしく微笑んでいるのが分かった。

「緑谷になら、話しても信頼できるし、なにより、俺自身でも意味が分からないと思っている気持ちを、理解してくれるんじゃねえかと期待をかけて、におわせといたんだ。お前なら、俺が飯田をちょっと普通じゃねえ目で見てても、わかってくれるんじゃねえかな、と思って。」
 のち、轟くんにはそう言われた。
 轟くんはそのぐちゃぐちゃの気持ちをどうしたいのかも分かってなかった。ただ、持って、見て、「なんだこれ」と思っている。それがもどかしい。僕が見ていてももどかしいのだ、きっと当人は、もっとだろう。飯田くんがしゃべるたびに、他の誰が頼んだって見せてくれない微笑みで、心底うれしそうに耳を傾ける轟くんは、確かに、どこから見たって、恋に落ちたひとりの少年だった。
別になんともない会話をしていても、「轟くん」「飯田」と呼び合う言葉が浮いている。飯田くんの、変な方に跳ね上がった眉尻と、厳しそうな目つきがほぐれて、あはは、と笑ったとき、「うわ」と思う。飯田くんはたぶん自分では気づいていないだろうけれど、きっと、轟くんと同じ隕石を観測してる。だから、何てことない会話のなかで、飯田くんが声を上げて笑うと、「うわ」と思うのだ。

「歯並びがめちゃくちゃきれいなんだよな。飯田って。
 体つきも声も無駄にでかくて、いつもロボットみてえな変な手の動きをさせて、きびきび真面目な顔してるくせに、
 笑ったら、
 なんか、ほっとする。」

 轟くんは、僕と二人になったとき、そんなことを言った。案外、飯田くんの笑った顔は貴重だよね、という話をしたときのことだった。
 轟くんは、これもうんと後になってからだけれど、……そのときの気持ちについて、こうも言った。
「付き合うとか付き合わねえとか、そういう問題じゃねえんだ、これは。好きになっちまったもんは、仕方がない。理由もないし、明確なきっかけもない。終着点もない。俺はぐるぐる回る環状電車にいつまでも乗りっぱなしで、たまに、通り過ぎる駅に立つ、飯田の姿を見て、降りようか降りまいか、迷ってる。
 ……そんな感じ。」

 ズードリームランドの駅に降りると、軽快な音楽がすでに小さく流れていて、「他の駅とは違いますよ」という雰囲気をかもし出している。駅のそこここに貼りだされた「ZOO DREAM LAND」のパネル広告と、名前も外見もよく知っているキャラクターたち。すでに、そのキャラクターの絵柄の入ったかばんやら、Tシャツやらを着た人たちが、ぞろぞろその駅で降りては、もうやや夕暮れに近づいたパークまでの道のりを、勇んで進んでいく。このそわそわする感じ、分かるだろうか。テーマパークっていうのは一種独特の魔力を持っている。
駅の向こうに、建物を抜けて、スッと聳え立つ城のてっぺんが見えている。ぽかんとして見上げている轟くんに、
「轟くん、あれは、ズードリームランドの象徴で、……」
 と、飯田くんの解説がさしはさまれる。へえ、とか、すげえな、とか相槌を打ちながら、楽しそうに、あっちはこれで、こっちはこうで、と忙しく説明しながら轟くんの目を白黒させる、飯田くんの声が夕暮れの空を突き抜けた。

「トワイライトパス、学生三枚お願いします!」
 三人で窓口に並び、チケットを買った。トワイライトパス、という、夕方六時以降からのチケットがあって、学生割引もきくから、この時間から入場するのは財布にもやさしい。入り口を入ると、ドッ、と襲い掛かるように、パークの音楽が迫った。ワゴンでへんてこな耳のついたカチューシャだの、光ってくるくる回るステッキだのが売っている。轟くんはぽかーんとして、流されるまま、変なステッキを買っていた。僕はもう、なんだか言葉に表せないむずむずした喜びにはちきれそうで、無表情のまま、それでもはしゃいでることが良く分かる轟くんを見て、飯田くんと何度も視線を交わしていた。
 オールマイトのコラボグッズは、ズードリームランドで一番大きいショップにおいてあった。ヒーローコラボグッズはよく出ていて、轟くんのお父さん、エンデヴァーのグッズもあったけれど、轟くんは知らない顔を貫いていた。
 
「あったー! オールマイトコンプリートフォトブック!」
「また君はマニアなものに食いつくんだな!?」
 キーホルダーだの、ボールペンだの、グッズの定番とも言えるラインナップには目もくれないのか、と、平積みされていたフォトブックを手に取った僕に、飯田くんが呆れ半分、納得半分といった声をあげる。こっちのオールマイトアートボードもほしくて、とゆうに自分の身長の半分くらいある大きさのアートボードを掲げようとした僕に、どうやって持って帰んだ、と轟くんまで釘を刺した。このときはまだ僕の部屋の中を二人に見せていなかったけれど、うん、まあ、この時点でかなりキてるってことは、バレちゃってたと思う。
「オールマイトがズードリームランドに来た! っていうスペシャルフォトシリーズもここに入ってるんだよ!? これは絶対買わなきゃ……」
「毎日学校で見てんのに」
「でもズードリームランドに来たオールマイトは見たことないし……」
「君は本当にオールマイトが好きなんだな!」
 フォトブックを手に入れて、目的を達成した僕は、浮かれてそわそわ、足取りが軽かった。オールマイトがパークに出没したヴィランを討伐したときの写真も入っているし、その後、パークからのオファーでこうして「リアルライフ・イン・オールマイト」っていうシリーズの写真集に、パーク限定ブックが追加されたのもそれがきっかけだ。動画はネットにもあがってるけれど、パーク内のカメラマンが写真に収めた、ヴィラン討伐の写真がすっごくかっこいいんだ……。サンプル見て、絶対買おうと思ってたやつ。よかった、よかったあ、手に入って……。
 とかいろいろ、まだまだ語ることはあったんだけど、僕は無理やり浮かれ気分を忘れ去って、今度は轟くんの番だった。
「轟くん! 何か乗りたいものとか、見たいもの、興味のあるものはあるか?」
「僕らは来たことあるし、轟くんが行ってみたいところがあったら、そこにしようよ!」
「……つって、何があるかも知らねえし、……」
 最初から轟くんの行きたいところへ案内するつもりだった僕と飯田くんは、轟くんにそう尋ねた。ぐる、と周囲を困ったように見回して、轟くんは考えていたが、
 あ。と思い出した。
「俺が小さかったころ、母さんが、親父にしごきまわされてる俺をかわいそうに思って、ズードリームランドにこっそり連れて行こうとしてたことがあった。でも結局見つかって、いけなかった。兄弟たちと行ってきた母さんが、俺に気を遣って、夜のショーのビデオ、撮ってきてくれたんだ。でも、結局、本物を見てねえ俺は、なんで連れて行ってくれなかったんだって泣き喚いてた、ような、記憶がある。」
 轟くんは独り言のように、ぽつぽつとそう語り、
「城のやつ。城に、色とか、光とか、つくやつ。そういうショー、なかったっけ。」
 言うと、飯田くんが、はっとしたのち、にまっ、とうれしそうに笑った。飯田くんの目の中にきらきら光ったパークのライトが、まぶしいくらいほころんでいる。友だちと来る機会はあまりなかった、と飯田くんもここへ来る前言っていた。だから駅についたとたんから飯田くんはずっとあちこち解説しまわって、あれこれ紹介してくれたのだ。友だちに披露することなく終わっていた知識をたくさん。
飯田くんは、ようやく大演説の機会にめぐまれた、という風に、息を吸って、
「ズードリームランドの夜のメインショーだな、轟くん! 城にプロジェクションマッピングという技術で映像を映し出し、音楽に合わせて映像と光が変化するんだ。あれは城の近くで見ようと思うと座席抽選券が必要なんだが、……抽選時間まで、まだある! どうせなら、運試しもかねて、抽選をしてみないか?」
「ああ、なんでも。見れれば。」
 よし、じゃあそうしよう! 飯田くん、抽選ってどこでやってるの? 尋ねると、飯田くんは張り切って、ああ、コスモプラネットの入り口に抽選場所があって……、と手でびしりと空を切った。
 ぐんぐん、両腕をそれぞれ僕と飯田くんにつかまれて、轟くんは余所見をしながら引っ張られている。コスモプラネットは宇宙をイメージした近未来のエリアで、くるくる回るロケット型のアトラクションが、夕暮れの空をきらきら旋回している。シンセサイザーのぽこぽこした音楽に包まれて、僕らの隣を、小学生くらいの男の子三人が、おもちゃのレーザーガンを持って走り去っていった。
 かっこいい! ヒーローみたい!
 そう笑って。僕らの目は、あのとき、三人とも合致して、その子たちに注がれていた。

 抽選会場には、タッチパネル式の抽選ブースが何台も置いてあって、そこにチケットを人数分かざしていく。あたるあたらないは完全に運だ。やったー! と叫んで飛び跳ねるひとも、ああ~、ダメだった、と肩を落とすひともいる。三人分、チケットをかざして、「抽選スタート!」の文字を押す段階になって、
「と、轟くん、押してみる……?」
「こ、こういうのは、ビギナーズラック、っていうのがあるからな……」
 突然、僕と飯田くんは怖気づいた。あたらなかったら、轟くんをがっかりさせてしまうかもしれないし。緊張するのは仕方がない。
 僕らの緊張をよそに、轟くんは、「おう。」と気軽に返事をして、ポケットから手を出すと、パネルを指でぽんとはじいた。抽選結果が出るのはものの数秒で、僕らは、轟くんのあまりにも気軽な押し方に、祈る準備をする間も与えられなかった。

 
「おめでとうございます!」

 軽快な音楽とともに、パネルに当選の文字が浮かんでも、一瞬、ぜんぜん実感がわかなかった。あんぐり口を開けていた僕と轟くんが、ウワアッ、と歓声を上げるまで、数秒のタイムラグがあった。
「す、すごいぞ!! 轟くんっ!!!」
がしっ、と両肩を飯田くんの手につかまれて、ぐらぐら揺らされている轟くんの頭が、がくがくなっているのがおもしろくって、たまらない。されるがままの轟くんはきっと「ウッ」と胸をつまらせているはずだ。
「やったあ! 轟くん!! すごいよ!!!」
 おめでとう~! という、抽選ブースのキャストたちにすら、手をたたかれて、ちょっと轟くんの顔が赤くなった。
「結構、うれしいな。」
 轟くんがそんなことを言うものだから、僕と飯田くんは、もっと、何十倍も、うれしいかった。
 当たった席は結構前の方だった。外で行われるショーで、時間になると区画に長椅子が運び込まれ、観覧席が設置される。なんだかんだ、他のアトラクションに乗ったり、グッズを買ったり、夜ごはんを食べたりしていると、ショーの時間になった。抽選チケットを手渡して、観覧席の中に入る。前は小さい女の子とその母親で、楽しみだねえ、と笑い合っていた。
「ものすごくきれいで、何回見ても飽きないんだ! パークから帰るときはどうしてもこれを見なければ一日が終わった気がしない。最後の花火と、フィナーレがすごいんだ、特に……、」
「飯田くん、ほんとに好きなんだね……。」
 飯田が興奮気味にブンブン振り回す手が僕に直撃して、すまない! ごめん! と大騒ぎする。当たると結構痛いんだ、あれ……。全力で振り回してるから、飯田くん。
 日が暮れて、目の前の城は幻想的にライトアップされている。時間が経つのがいつもの二十倍くらい早い。
「俺は、このままここで夜を過ごせって言われても、ぜんぜん嫌じゃねえな。」
 轟くんがつぶやいた。飯田くんもそれを聞いて、よく分かる。俺も、夜通しここにいたっていい。と頷いた。
「兄とよく、来てたからな。すごく好きな場所なんだ。」
 飯田くんはそう言って、轟くんと同じように、城を見上げて目を細めた。僕は、何も言わない。へたくそな言葉でなぐさめたって、仕方がないと知っているから。きっと轟くんと飯田くんは、口にすることで、克服しようともがいている。話せば楽になるなんて嘘だけれど、話せば、自分のことが、もうちょっとだけでも分かるようになる気がする。そういうものなんだ。だから僕は、ただ、二人の話を頷いて聞く。
「俺も、これ、見たかった。昔は、見たくても、見れなかったから。」
 轟くんも、苦いものを吐き出した。飯田くんは轟くんの方を見て、
「よかった。ほんとに、一緒に見れて、よかった。」
 と、声をつまらせて、そう言った。

 僕を真ん中に挟んで、三人。二人とも固唾を呑んで同じ方向を見つめている。いよいよ、もうすぐ、そんな気持ちで、静まる城を見上げながら、二人は黙ってそのときを待っている。
 だんだん、ショーの時間が近づいてきて、空気が静かになり、じっと指先がしびれてくるような感覚を、僕らは共有できていたと思う。

あと五分で、夢と光のナイトショー、「ズードリームファンタジー」がはじまります。

 アナウンスが入って、光が徐々に落ちていく。あと少し。隣で轟くんが、すう、と息を呑み、その息は、まだ夏だというのに白く冷気を帯びていた。

 ズードリームランドのキャラクターや、アニメーションには詳しくないと、轟くんは事前にそう言っていた。家でそんなものが流れたこともほとんどないし、ショーも、知らねえもんだらけで、見て分かんのか、と居心地が悪そうにしていたけれど、轟くんが食い入るように城を見つめ、音が迫ってくるような、熱量を持つ迫力で、じわ、じわ、と胸が痛んで、「感動」を味わっていることが分かったから、僕は黙って息を潜めた。周囲のことなど気にならないくらいの臨場感と、一体感。ひとりで城の前に立って、この光景を見つめているような気持ちになる、そんなレベルの感動だった。ぐず、と飯田くんが涙ぐんでいるのが聞こえた。城一面に映し出された海原を泳ぐ人魚のプリンセスが、おぼれた王子を岸まで運んで、海岸で歌う姿が映し出されると、前に座っていた少女が、はー、と息を呑み、目を輝かせて、身を乗り出した。
 
 かならず あいにゆく あなたへ

 次々切り替わっていく物語に、視線がふわふわしてしまう。鐘の音で目を覚まし、伸びをした金髪のプリンセス。小鳥とねずみに歌を聞かせて、朝の支度をするシーンだ。諸説あるらしいけれど、こうやって、不思議な力を持つ人間を書いた物語、っていうのは、どこかで僕たちの「個性」の萌芽を感じ取ったものなのかもしれない、と、何かの授業で言っていた。突出した人間はどの時代にも居て、「個性」というものの存在が認知されていなかったころ、そうした不思議な力は、時にありがたがられ、時に才能として認められ、時に「バケモノ」として怖がられた。ズードリーム・アニメーションで作られている物語はこの、不遇の時代に「個性」を持った人間についての話が多い。「個性」のために虐げられ、それでも夢を諦めない姿が、僕たち「個性」がまったくあたりまえになった世代の、新たな学びになる。当たり前のように手にしていた「個性」は、大昔、認められない「力」だったんだ。
 歌声が、闇空に抜けていく。虐げられ、ぼろ布みたいな服を着せられ、屋敷の屋根裏に閉じ込められたプリンセスが、それでも、信じて歌う歌。

 たとえつらいときも
 しんじていれば
 ゆめは かなうもの

 ウウッ、とくぐもった泣き声がかすかにして、左隣にいた飯田くんがうめいている。あ、泣いてる……。ほんとに好きなんだなあ……。と身をすくめた僕の、右隣で、ぐず、という不穏なものが聞こえた。
 轟くん。……轟くんまで?
 音楽がどんどん盛り上がり、特大の花火が上がる。フィナーレに近づいていくにつれ、迫ってくる光と音の重量が増していく。花火の残り香が消えていった先に、星がちらついているのにも、はっとした。
 
 ショーが終わり、「よかったねえ」と言いながら立ち上がった周囲の人々の波に乗って、僕らも立ち上がる。
「ああ。やっぱり、とてもよかった。これを見ないと、終われないな……。」
「飯田くん、ハンカチ貸そうか?」
「いや、いや、大丈夫、持ってる……。」
 何回も見たというのにぐずぐずやっている飯田くんと、パークゲートに向かう大通りを進んでいって、轟くんが来ていないことに気がついた。轟くんは立ち止まって、後ろを振り返っている。すげえ。ただ、それだけだったが、それだけで十分伝わった。光と音の余韻が残っていて、ゲートを出てしまうと、一気にさみしくなる。だんだん、入り口に向かって静かになっていくせいで、まるで物語の終わりみたいに思えた。

「轟くん?」
 一向に進まない轟くんを待って、立ち止まると、轟くんは、ふたつの色の違う目にパークのはじけそうな光を宿して、目を細めた。
「帰りたくねえな、と思って……」
 それが何よりの、僕と飯田くんへのお土産になった。

「また来ようね。轟くん。」
「ああ! 轟くん。次は、休日、一日中来よう。」
 僕と飯田くんを見て、まぶしそうに笑う轟くんは、たった五つのころ、ズードリームランドに来たくてたまらなかったのに、来ることができずに泣いていた、小さな頃の轟くんのたましいが、そのまま乗り移ったみたいだった。
 
 二人とは反対方向の路線に乗る僕は、二人と駅で別れることになった。
「じゃあな。」
「気をつけてな、緑谷くん!」
 僕は二人に見送られて、電車に乗った。また明日、の瞬間は、いつもどこか寂しい。けれど、明日も会えるから、その気持ちが僕をつなぎとめてくれている。

 あのあとのことを、後で聞いたよ。誰って。……轟くんに。

  
 ○ホームへ入ってきた電車に、轟、飯田が乗り込む。
  座席に座り、轟、眠たそうにまばたきをしてから、目を閉じる。
飯田「轟くん、」
  飯田が声をかけるが、起きない。
  轟、飯田にもたれかかる。
飯田「轟くん。」

  飯田、目を覚まさない轟を、しばらくそのままにする。
飯田「……。」
  一瞬ためらう。
  そして、轟の手にかすかに触れる。
飯田「……轟くん。」
  轟は身じろぎするが、しかし、目は開けない。
  飯田はすぐに横を向いて、何もなかったような顔をする。

 ○電車がホームに停車する。
  轟と飯田、そのまま電車に乗り、上手へ退場。

03. Ice Cream Parlor

 うなじに日差しが突き刺さる季節になった。じんじんと暑くなって、首筋が焼けていく独特の感覚。夏の日差しのこういうところが、僕は案外嫌いじゃない。
 いつもの三人で、放課後集まって出かけようというのもすっかり恒例行事になった。はじめは変わった呪文を唱えるカフェに行き、次はズードリームランド。今日はなにがきっかけだったか、三人集まって、アイスクリームパーラーに来ている。夏だし、ちょうど夏の限定フレーバーが出揃って、三つ重ねのアイスが食べられる時期だったから、行ってみようかということになったんだ。

 駅の近くにある有名なアイスクリームパーラーだ。中に入るとキンとつめたい空気に満ちていて、学生服姿が店内にはたくさん散らばっている。壁に大きく掲げられた「トリプルフレーバーチャレンジ!」という文字がでかでかと視界に迫ってくる。三つ重ねられたアイスクリームのポスターが、ちかちか目に痛い配色だった。隣に立っていた轟くんが、ぐい、と無意識に背伸びして、ぴかぴかのガラスケースの中を覗き込んだのが分かった。
 きっと轟くんは、来たことのないアイスクリームパーラーの、色とりどりのフレーバーが、宝石みたいにきらきらしているのを見て、すげえ、と例の調子で、そう思ったんだろう。轟くんはここにも、来たことがなかった。飯田くんも、放課後に買い食いするのはまだ慣れていないんだと戦々恐々たる顔をしていたが、ショーケースを覗き込む轟くんを見て、そんなことも忘れてしまったように、厳しい目をやわらげていた。
 赤、黄、青の鮮やかなアイスクリームの名前は、「オールマイト」。コーラ味だそうだが、着色料の割合がすごそうな、ド派手な見た目をしている。オールマイトの象徴である二本のツノみたいな髪の毛を再現したチョコレートの飾りをつけてもらって、僕は念願叶って浮かれていた。
 飯田くんも轟くんも、例によってここへ来るのは初めてだった。飯田くんの、「放課後の買い食い」についての持論はもちろん、もっと前に轟くんとともに聞かされてはいたけれど、「明日は休みなんだし、放課後の買い食いは学校では禁止されていないわけだし、高校生になったんだから外での経済活動に自主的に参加云々」とあれこれ理由をこじつける僕と、「行きたくねえのか」と轟くんに一刀両断されたところ、飯田くんはくわっ、と目を見開いて、下唇を噛んだあと、あれこれ言うのをやめてしまった。
「行きたくないはずがないだろう!」
 飯田くんは、実はこういう、「友情」っていうやつに弱い。最近気づいた飯田くんの弱点だ。

 アイスクリームのショーケースの前に立ち、三つ好きなやつを選んだらいいんだよ、と教えると、
「三つも乗せられるのか!」
 と飯田くんは真剣に考え込む。
「うん、カップかコーンも選べるよ、飯田くん。」
 飯田くんは、すごい、たくさんあるな、とガラスのショーケースの前に放り出されて、目線がうろうろしていたが、飯田くんよりももっと、轟くんのほうがひどかった。
 轟くんはショーケースから少し遠めのところに立ったまま、ずらりと並んだアイスクリームフレーバーの前でじっとしている。選ばないのか? と飯田くんが問いかけると、轟くんは目をうろうろさせて、
「すげえ。いっぱいある……、すげえ。」
 とうろたえたような声で言った。
 こういうとき、飯田くんと視線がかち合って、自然とくちびるが笑みの形になってしまう。表情はいつもどおりだが、よろこびにはちきれそうな轟くんの声を聞くと、ああ、よかった、轟くんを連れてきてよかった、となんの不自然さもなくそう思うのだ。飯田くんもきっとそうだろう。めったに下がらない飯田くんの眉尻が、やさしそうに下がって、微笑が浮かんでいる。
飯田くんはちかごろ、よくこの顔を轟くんに向けていた。

「正直に言おう。僕は轟くんとここまで仲良くなれるとは、はじめは、微塵も思っていなかった。」

 飯田くんは大真面目な顔をして、僕と轟くんにそうやって打ち明けた。だから今はとてもうれしい。俺の視野も狭かったんだろう、と飯田くんはあっさり、自分の欠点を認める。飯田くんは本当に、「学び」に貪欲だ。駄目なところを受け止めて、よいところをちゃんとわかって、他人にも自分にも、変わらない公平な判断を下す。
 だからこそ、飯田くんの中で、「轟くん」という存在が、いかに突出しているかが分かりやすいのだ。飯田くんの、「平等に接するべきだが、どうしても轟くんを特別視してしまう」という内心の葛藤が、思えば、もうすでにあのころ、色濃く浮かび上がっていた。

 轟くんのほうも、はじめは、クラスに馴染もうとは、思っていなかったに違いない。僕は少なくともそう思う。クラスになじむ余裕などなかったのだろう。轟くんにはクラスメイトとの交流をする余裕がないくらいに、逼迫した事情があったのだ。
 だからきっと飯田くんも轟くんも、お互いにたいして仲良くはならないまま、雄英での生活を終えるのだろうという、悪い予感が、二人の胸のうちには横たわっていたんだと思う。実際、飯田くんのことは、僕も最初はものすごく怖いと思ってたし。

 飯田くんが語った、学校生活でのスタンスも、おおよそ思っていた通りだった。
特定の集団に属さず、自分の位置は常に中立であり、クラス内部に善と悪が対立したならば、常にその中間に立ち、悪は善へ、善はより正しい善へ、導くのが自分だ。飯田くんははっきりと、堂々としてそう言った。学校生活は規律と規範と学びに満ちたすばらしいものだ。自身を甘やかすことなく、そしてともに学びあう友人を作りながらも、友人たちと「馴れ合い」「引っ張り合う」ことがあってはならない。だから俺は、誰とでも一定の距離を持って、接しすぎず、離れすぎず、自分の立場を重く自覚して生活していくつもりだったんだ。
飯田くんは、照れ笑いのようにはにかんで、
「しかし、……友だちっていうのは、それを抜きにして、いいものだな。」
 と言うのだった。
 中学の頃は、「イインチョーは、誰にでも声かけるし、誰とでもたいていうまくやってるけど、誰とも仲良くないよね」と言われていたらしい。
「そういう風にやっていたのだから、当たり前だけれどな。聡明中から雄英ヒーロー科へ。そのためには、自立し、常にトップに立ち、常から誰かに流されて生きるようなことは絶対にあってはならないから、友と自分の間に、立ち入ってはならない領域を作らねばならないと思っていたんだ、俺は。」
 飯田くんの口調から、その考えがもうすでに過去のものなのだとわかる。僕も、飯田くんとは違った方向だけれども、中学の頃とは変われたと思う。変われたからこそ、たぶん、僕はいま二人と肩を並べて立つことができているんだろう。

「緑谷くん。君はとても不思議だな。」
 アイスクリームの店に来るまでの道すがら、ひょんなことから始まった中学時代の話は、変なほうへ曲がっていって、そこへ着地した。僕にとってはくすぐったくてたまらない話題だ。
「君を特別視するわけではないが、君はなんとなく、中立であろうとする俺に、「肩を持ちたい」と思わせる力があるな。そして、また、君を超えたいと思わせるような、圧倒的な何かを持ってる。君はとてつもなく大きな存在になるんじゃないかと俺は思う。俺ははじめから肌でなんとなくそれを感じていたんだろうな。入試のときからずっと。」
「や、やめてよ、そんな大げさな……」
「俺も、飯田の言ってること、すげえわかる。俺も、緑谷に助けられて、よく分かった。なんか、肩入れしてえところもあって、徹底的に対抗してえような、そういうところもあるよな。」
「分かるぞ! ライバル意識をくすぐってくるというか……」
「……こ、怖くもあるよ……」
 頭を抱えて照れ隠しをした僕を見据えて、轟くんはきっぱりしてた。
「だって、緑谷は、俺たちを二人とも、助けてくれただろ。」
 轟くん。……僕一人の力じゃないんだ。本当に。謙遜でも何でもない。二人は二人で、自分の力で立てる人だったから、僕はきっかけになったに過ぎないんだと思う。
「おまえは、俺と似てると思う。」
 轟くんは、続けて飯田くんに、そう言った。体育祭のとき、僕に話してくれた《家》のことの、断片を飯田くんも知っていた。路地裏での戦いのあと、三人で病院に入ったとき、二人でその話をしたのだと言っていた。
「お前と俺、似てるなと思って。だからいてもたってもいられなかった。」
そう言って、轟くんは、「よかったな、無事で。」とかすかに笑った、……飯田くんはなんともいえない顔をして、それをしんみりと聞いている。

 飯田くんの中で、すでに、轟くんは抜きん出て「特別」だったんだと思う。いつの間にか、そうなっていた。たぶん飯田くん自身もいつそうなってしまったのか、分かっていない。
 僕は二人にいろいろなことを教わったけれど、そのうちの一つに、「恋は示し合わせてやってこない」というのも含まれる。恋に落ちる瞬間って、実は「瞬間」じゃないように思うんだ。じわじわ、長く尾を引く過程があって、瞬間的に落ちてくるのではなく、次第に足を飲み込まれていくような、それがたぶん、いや、きっと、「恋する」ってことなんだ。
 
 中立を守っていた飯田くんの足場は、突然崩れ落ちていった。あのころの飯田くんは、たぶん、そういう状態だったのだと思う。なぜそうなっているのかも飯田くん自身分からないから、だから余計に、挙動にその戸惑いが現れる。
「わからない」ということがこれだけあるのは飯田くんにとってはとても怖いことだったんじゃないだろうか。だって、「わからない」が山積みになる経験なんて、飯田くんには今まで乏しかったんだから。
 飲み込みが早い、頭の回転が速い、努力ができる秀才、いろいろな褒め言葉をもらっても、飯田くんは、おごるな、おごるな、調子に乗ってはいけない、と押さえつける。まだまだ先があるはずだ、って信じて自分に厳しくある人だ。けれど褒められるのが嫌いなわけじゃない。飯田くんは褒められると、素直に嬉しそうにする。
 けれど飯田くんは、こと恋をした自分に対して、全然逆なふうな理解をしていた。
 飲み込みも悪い、頭の回転は鈍いどころか停止して、何に努力をすればいいのかもわからない、迷子になったただの男。それが、そのときの、飯田くんだ。「わからない」の瓦礫に埋もれて、苦しんでいる。すぐそばに轟くんがいて、「助けてやる」と手を伸ばしてくれているのに、君のその手を取ったら俺はどうなってしまうのだろう、と、意地を張って、ひとりでなんとかするよと拒絶している、そんな風だった。
「俺は轟くんを勝手に巻き込んでしまったんだ。」
 飯田くんは、一度、そういう風に僕に打ち明けた。
 飯田くんの胸中には、「勝手に君を巻き込んでごめん。僕の気持ちに、君を引きずり込んで申し訳ない。すまない、轟くん、ごめん……。」という、めまぐるしい謝罪がめぐっていて、けれど好きであることを否定もできない。その混乱が飯田くんを支配していた。飯田くんは、「恋は罪悪」を地で行くような人だった。

 アイスクリームのショーケースの前で、轟くんと飯田くんは、いつもの判断力や機動力はどこへ置いてきてしまったのか、じりじりして、迷って、長考した。僕は案外早く定まって(というか、ヒーローコラボフレーバーが出てたから、それをとりあえず選んだというか……。)、ショーケースの前で思案する二人の様子を見ていた。
「飯田。おまえ、どれにするんだ。」
「んんんん……!」
 心底苦しい声で眉間にしわを寄せ、顎に手を当てて考える飯田くんの、真剣な悩みっぷりに微笑が浮かんだ。轟くんの視線はさっきから、ショーケースの上をきょろきょろ落ち着きなく滑っている。
あずき、抹茶、すげえ、京都の宇治抹茶、でもこうなると、三つ目が難しくねえか。と轟くんはやっぱり和風だ。和風のフレイバーを探して、あ、きなことか。黒蜜きなことか合いそうだよ、とあれこれ言い合った。
「飯田くんはオレンジ? やっぱり」
「いや、アイスクリームは燃料にはならないんだ。だから、せっかくだし別の……」
 飯田くんは相変わらず、まるで年度末の予算でも算出しているみたいな厳しい顔で、じいっとフレーバーを吟味している。
「オレンジか。」
 突然、ぼそりと轟くんがつぶやいた。
あずき、宇治抹茶であとは白玉があれば上々、というところに、轟くんはスイとオレンジのフレーバーに目をつけた。たぶん、こんな組み合わせにするのは、世界中でも轟くんくらいじゃないかな? 宇治抹茶にオレンジなんて、きいたことがない。けれど轟くんはそれを選んだ。さくらもち、とか、黒蜜きなこ、なんておあつらえ向きのフレーバーを無視して、それを選んだんだ。
「君、オレンジなんて、好きなのか。」
 飯田くんがぎょっとした顔で、そう問いかけた。轟くんは「?」という顔をして、「おまえも、好きだろ、オレンジ。」と言う。
 僕まで、「ウッ」となってしまった。
轟くんがあまりにあっけらかんとそう言うので、僕らの驚きの方が間違ってる気にさえなる。
「宇治抹茶、あずき、オレンジ。」
 すらすらと、まるでなんの感情の波立ちもない、そんなくらいの気軽さで、轟くんは言ってのけた。それを見つめていた、飯田くんのたまらなそうな、ぎゅっと眉間を寄せた顔つきを、僕はいまでも忘れられない。

 オールマイトのフレーバーに、濃厚ミルクのマウント・レディフレーバー、それから極めつけ、マンゴー、キウイ、ラズベリーがミックスされたド派手な色味のプレゼントマイクフレーバーで、僕のはとんでもない色合いだ。けれど、一番上の、着色料まみれのアメリカン・フレーバーよりも、轟くんの選んだ「オレンジ」がはじけるほどの目立ち方をしていた。
 駄目だ。知らん顔しよう。
 僕はそう決めて、
「うあ~、しあわせすぎるっ、オールマイト監修なんだよ、これ……!」
と空元気ではしゃいで、誤魔化した。
「飯田は。」
 名前を呼ばれて、飯田くんの肩が上がった。アイスの選び方にも、性格って出るのかも。一番舞い上がっていたはずの轟くんは、結局、決断は案外早かった。飯田くんはいまにも煙を上げてエンストしそうで、手で隠された口元が、どういう形になっているのか、僕らからは見えなかった。
「……す、すとろべりー、」
 飯田くんは、ようやく、という風に搾り出したけれど、僕は、一番最初に選ばれたその味が、ぜんぜん飯田くんとつながらなくって、ぎょっとした。
「サイダー」
 ふたつめはもう、いっそ毅然として指をさす。はーい、と言って、エプロン姿の店員さんが、飯田くんの言うとおりにフレイバーを乗せていく。
「バニラ……で。……お願いします!」
 とす、とす、とカップに乗せられた三つの味が、とろっととろけて混ざり合う。ピンクに近い赤色に、サイダーのブルー、バニラの白。
「サイダー? 炭酸なのに、いいのか。」
 轟くんがきょとんとして尋ねたのが、僕には信じられなかった。
 気づいてないの? 轟くん。
「サイダー味の何か、っていうことなら、別にエンストはしないから、大丈夫なんだ。……うん。」
「なんか、変な取り合わせだな」
 自分のことを棚上げして、轟くんは変わった三つの組み合わせに感心したような顔をしている。僕には確信があった。別に、飯田くんは、この三つの味のどれも、好きで選んだわけじゃない。轟くんが気がついていない様子なのが、僕は信じられなかった。
 飯田くんの手もとのカップに乗せられた、赤、白、ブルーの配色が、決定的な答えだと思う。別にすきでもないだろうに、オレンジを選んだ轟くんへの、これは仕返しなのだろう、きっと。
 意外だが、綺麗な色の三色。轟くんは、自分のその派手な見た目と、まっぷたつに分かれた赤と白、瞳のブルーをあまりよく思っていないようだけれど、線の細い髪が、不思議な色合いで額にかかるのを、うっとうしそうに払いながら、自分の数奇な色のことを、好きでたまらない人がいることを分かっていない。

 広めのソファ席に集まって、アイスクリームを食べながら、広げた教科書ひとつに三人で額をつき合わせている。飯田くん、轟くんと馬が合うのは、きっとこういうところもなのだろう。彼ら二人は頭もよい。授業が終わってから勉強の話なんて信じられない、というクラスメイトの方が多い中で、僕らはよくこうやって、授業でならったけれど疑問がのこったところについて、三人で解決法を探したりした。
「雄英の教科書ってちょっと変わってるよね。別の高校のカリキュラムと全然違うみたいだし。」
 UA、のマークが印字され、出版社の記載のない高校の教科書は、おそらく雄英高校独自で製作したものなのだろう。それが座学であっても、雄英の一風変わったところは反映されている。そのときは国語の教科書を広げて、『ノルウェイの森』を読んでいた。
「『ノルウェイの森』なんてやらなかったって、僕の母さんも言ってた。」
「雄英の国語の教科書に載っている小説は、どれも《死》に関するもののような気がするな。」
 飯田くんがそう言ったのが、しっくり僕の胸にすとんと落ちて、納得した。「あ」という、我が意を得たり、という同意の声が漏れて、轟くんも、「確かにそうだな。」と、飯田くんが開いたページに視線を落とした。
国語の得手不得手に関わりなく、授業は猛スピードで進む。『ノルウェイの森』は事前課題が与えられた。『ノルウェイの森』を読み、自分なりの解釈をレポート用紙にまとめること。ようやく『城の崎にて』が終わり、難解な文学作品の読解に頭を悩ましていた面々は青ざめることになった。なぜ『城の崎にて』の次に『ノルウェイの森』をやるのかということもちゃんと考えて来なさい、と石山先生が釘を刺したのはどうしてだろう、というのが僕たちのその日の議題だったのだ。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
(村上春樹『ノルウェイの森』)

 僕らの答えは、この文章に着地した。
生きると死ぬ、っていうのは、対極じゃない。いつでも《死》はそばにあって、自分の個性が他人を傷つけるものにもなりえるし、その逆もある。
僕たちは身をもって、それを経験していた。あのとき僕らが路地裏で飲み込まれた闇の中に、まだこの中の誰かが残っていたかもしれない。飯田くんがもっと隠し事がうまかったら。僕が飯田くんの異変に気づかなかったら。轟くんが僕のメッセージに気がつかなかったら。
あらゆる「もしも」が重なって、僕らはすぐそばにあった「死」の手をまぬがれた。
「死ぬ、っていうのは、向こう側にあるもんじゃなくて、常にそばにあるものだっていうのは、俺たちはもう、ちゃんと分かってることだよな。」
 轟くんが静かにそう言った。路地裏での、ステインとの戦いは、僕ら三人を同時にとらえ、そして同時に《死》の存在を間近に感じさせるものだった。それを知り、そして《死》とは何かの重さを知りながら、ヒーローになるべきだという雄英の考えのしっぽを、僕たちはつかんでいる。
「あ、飯田くん、アイス、」
「ん?」
 話に夢中になって、いつの間にか、どろ、と溶けた塊が、飯田くんのスプーンの上をすべる。あ、こぼれる、と思ったとき、反射的にか、前に座っていた轟くんが、飯田くんの手首をつかんだ。飯田くんは、されるがままで、轟くんの方へ引き寄せられる自分の手を呆然と眺めているばかりだった。

 この、ひゅっ、と心臓が落ちる感じ。
 ぶつかる! と、僕は垂直落下して、空中で衝突する二つの彗星を、こわごわずっと眺めているような気持ちだった。

 飯田くんがこぼしかけたアイスの塊を、轟くんがスプーンごとほおばる。
「あぶねえ」
 飯田くんの手からアイスの塊を掠め取って、轟くんは笑った。うめえけど、この三つは、あわねえだろ。轟くんがそう言いながら、自分の三つに目を向ける。一番上に乗ったオレンジを、彼は迷いなくスプーンですくった。
「食うか? オレンジ。」
 飯田くんの沈黙が、さすがに気にかかったのか、轟くんはスプーンを差し出して、誤魔化そうとした。飯田くんは何も言えない。ぽかんと口を開けて、何が正解か探しているんだろう。
 しばらく硬直して、飯田くんはようやく、轟くんの手からスプーンをもらって、「ああ、ありがとう。」なんて、平気な顔を必死で作って受け取った。轟くんも、これはちょっと危険だと思ったのか、緑谷のもくれ、と言って、僕にもアイスをねだってきた。
「い、いいけど、どれがいい?」
「あー、……オールマイト。」

 僕だけじゃない。きっと飯田くんも同じ気持ち、どころか、僕の数十倍気になっていなきゃうそだ。飯田くんの手がふるえている。いつもの飯田くんなら絶対言うはずだ。
「君のスプーンはこっちだ、俺のを使ってるぞ、轟くん!」
 でも、飯田くんは言わない。黙って、さっきの間に入れ替わってしまった轟くんのスプーンを持ち、ふるえる手で、アイスをすくった。
 轟くんも何も言わない。分かっているだろうに、言わない。飯田くんのスプーンで、オールマイトフレーバーのアイスをすくいあげて、そのくちびるに運んだ。

 飯田くんはうつむき、轟くんのくちびるに吸い込まれていった自分のスプーンを見つめてかすかな微笑みをくちびるに浮かべたけれど、その笑みはすぐに消え去った。なんでもない顔をして、飯田くんはスプーンをくちびるに運ぶ。ストロベリーフレーバーをのせたスプーンが、飯田くんのくちびるへ吸い寄せられ、口の中へ消えた。

 飯田くんは、ふつうより少し長い間、そのスプーンにくちづけをして、次に目を上げたときにはいつもの飯田くんの顔をしていたのだった。

04. Your Room

 
 その日はたまたま、授業が早く終わって、午後一番には学校を出た。いつもより時間が早くなったから、うちに来るか? と飯田くんが提案して、僕たちは、一度解散し、着替えてから、もう一度集まることにした。
 
 友だちの家に行ってくるんだ、と聞いて、張り切ったのは母だった。
 あれも持って行ってあげなさい、これも、と、都内から一人で出てきて、アパート暮らしの飯田くんのことを話し、これから家に遊びに行くと言った僕に、母はスーパーで買ってきたお菓子を山のように持たせて、袋にいっぱい詰めて押し付けた。
 ポテトチップスだけで三袋もある。飲み物もあった方がいいよな、とコンビニに寄って、大きめのペットボトルでオレンジジュースを買った。両手に袋を提げて、轟くんと待ち合わせをしている駅に到着すると、
「お。」
 と轟くんが僕に気づいて顔を上げた。轟くんの手にも、百貨店のロゴが入った紙袋が握られていた。
 お姉さんに持たされたのだと言う。轟くんは僕が持っているぎっしり詰め込まれた袋を見て、すげえな。飯田の家に籠城するみてえ。と笑った。きっと轟くんもお姉さんにあれこれ持たされたのだろう。友だちの家に遊びに行ってくるなんて、きっと轟くんもめったになかったろうから。
 駅に着いたよ、と伝えてすぐ、飯田くんが現れた。急いで掃除をしたんだ、と言って笑っている。きっと掃除をわざわざしなくても片付いた部屋なんだろうけれど、飯田くんはそこも抜かりがなかった。
 
 駅から歩いて五分程度の、踏切の真正面にあるのが飯田くんのアパートだ。電車が通るたびにごうごう音がするし、少し揺れるけれど、駅前で、なにをするにも都合のいい立地を考えると、そのくらいは仕方がないのだと思う。飯田くんはたまの電車の往来も、もうあまり気にしていないみたいで、きれいにスリッパがふたつ揃えられて、来客用に整えられた玄関をあけながら、たまに電車がうるさいが気にしないでくれ、と自室に僕らを招いてくれた。
 高校生で一人暮らし、しかもぜんぜん知らない町で、っていうのがどういうものなのか、僕にはそのとき、実感すら湧きにくくて、ただただ飯田くんを「すごいなあ」と思っていた記憶がある。飯田くんの部屋は本がたくさんあって、ところせましと並べられた背の高い本棚のせいで少し圧迫感があったが、やっぱりきれいに片付いていて、飯田くんらしい角ばった印象のある部屋だった。
「こんなに持ってきてくれたのか! 俺も張り切っていろいろ買ってきてしまったぞ。」
 これ、お土産。と差し出した、僕の袋が二つと、轟くんの袋一つを丸テーブルに広げて、飯田くんが困ったように冷蔵庫からケーキ屋さんの箱を出してきた。同じケーキ屋さんで買ったらしいマドレーヌの箱もある。轟くんが持ってきたのは和菓子屋さんのお菓子だった。自分であんこを乗せて食べるタイプのもなかと、みたらし団子。僕はポテトチップス三袋、オレンジジュース、コンビニで絶対売ってる袋菓子がずらり。お互いの張り切りようを見て、三人で笑い合った。こんなに食べられないよ。僕はそう言いながら、とてもうれしかったんだ。みんなそれぞれ、こうやって三人で集まって遊ぶのが、楽しみなんだっていうことが分かって。
「オレンジジュース、買ってきたんだけど、冷やせるかな?」
「ありがとう! 助かる。じゃあうちにあったのを先に飲もうか。」
「みたらし、要冷蔵って書いてある。」
「じゃあこれとケーキは冷やしておこう。あとで食べればいい。まだ時間はたっぷりあるからな!」
 飯田くんがてきぱき冷蔵庫にお土産をしまっているのがさまになっていて、ああ、飯田くんって僕らより大人なんだなあ、と思った。僕にとって、一人暮らしっていうのはそれくらい未知だった。
「すげえな。緑谷のやつ、これなんだ?」
「ほんとだ。見たことないのがたくさんあるぞ!」
 スーパーでお菓子売り場ばっかり見てる僕にとってはおなじみのラインナップなんだけど、二人には珍しかったみたいだ。ポテトチップスの袋をあれこれ取って眺めている二人に、僕は何だか照れくさくなった。
「ど、どこにでもあるよ……! スーパーなら絶対売ってると思う……。轟くんはともかく、飯田くんは一人暮らしなんだし、スーパー行くでしょ!?」
「いや、俺はこうやって来客があるときくらいしかお菓子は食べないからな! お菓子コーナーはあまり行かないんだ。」
「さ、さすが……。」
 言いながら、「アメリカンフライドポテト味」のポテトチップスの袋を開く。……確かにちょっとポテトチップス初心者にはマイナーな味だったかも……。オールマイトがこの味が一番好きだって雑誌で答えてたからついずっと買ってたくせでこれを持ってきちゃったけど……。とかなんとか、ぶつぶつ呟いていた僕がポテトチップスの袋を開け切ったとき、
「すげえ。」
「すごいな!? こんな開け方ができるのか!」
 と、二人の視線が僕の手元に集まっていることに気が付いた。

 僕がやったのは、いわゆる「パーティ開け」と呼ばれる開け方だ。口の部分とつながった、袋の本体部分を縦に割りさくように開けるやり方。自然とそうやって開けたのが、二人にはものすごく珍しいもののように映ったみたいで、おおお、と二人は開いたポテトチップスの袋をまじまじ眺めていた。
「やっぱり緑谷くんは着眼点が違うな……!」
「だな。こんな開け方思いつかなかった。」
「せ、先人の知恵だよ二人とも……!」
 こんなことにすらすごいすごいと感激してくれる二人はどこまで純粋なんだろう。僕はくすぐったくなって、簡単だよ、と二つの袋を二人に渡した。まだ開いていないポテトチップスの袋の、「複数人で食べるため」の開け方を、二人にも教えてあげた。バリバリッ、と袋をやぶる音が部屋にふたつ響く。まっぷたつに開かれた、きれいなパーティ開けの三袋をテーブルに並べて、
「すげえ、簡単だった。」
「でしょ? 食べるとき便利だし、僕はこうやって、全部まぜちゃう。」
「しかし三袋も食べるのは多くないか? どうなんだ?」
 テーブルを囲んでわいわいやっているのが、僕はたのしかったんだ。
 そのあとも、轟くんが「パーティ開け」をすっかり気に入って、ポッキーの袋も、チョコレートの袋も、どんなに小さい袋でも、ことごとくパーティ開けにした。机にお菓子を広げて、その日の課題を三人で終わらせて、勉強が終わると僕がおすすめのヒーロー動画を二人に見せたりした。夏休みがもう目の前で、夏が終わればあっという間に二学期を迎える僕らにとって、もっと強くなって、もっとヒーローに近づくにはどうするかを話しあうのが、あのとき一番楽しかったんだ。
「すごいな! 今のを見たか!? こんな個性の使い方もあるのか……!」
「自分ごと殴って吹き飛ばした……、治癒系の個性の相棒がいるからこそできる荒業だな。」
「そう、で、ほらここ見て! スローで再生すると分かるんだけど……、」
「おお。すげえな。ここで三発、いれてんのか……」
「この一瞬で……! プロとの差だな!」
 見始めると、止まらない。これまで、僕が一人で見ていた動画の山、山、山を、二人を巻き込んでどんどん崩していく。一人で見ていたときとはまた全然違った、飯田くんと轟くんの視点を得て、僕は自然とノートを取り出していた。

「すごい、体に纏った炎を槍みたいな形にして飛ばしてるんだ……。轟くんなら再現可能じゃない?」
「いや、これ、両腕使って飛ばしてる。かなり風圧もいるだろうから、片手だと難しいんじゃねえか。」
「こっちならできそうじゃないか? 炎上網だ。炎をカーテンのように燃やして通れないように行く手をふさいでるんだろうな。」
「こっちは救助活動にもつかえそうだね!」

「すごい、空間をけずりとる、みたいな個性……? かな?」
「一瞬で相手との間合いをつめた……! これは奇襲にも役立ちそうだな。個性を知られても十分応用が効く。」
「こいつらも三人か。こっちの一人も治癒回復系……、物体を元の形に戻すみてえな個性か。」
「もう一人は重さを操るのかな……。麗日さんの逆で、物体を重くするんだね……、制服着てるし、僕らと同じくらいの年だね……」
 
 ……思えば、十代の高校生たちがやるには、らしくない遊びだったかもしれない。けれど僕たちは、早く、もっとより高みへ行きたかった。より強くなりたかった。だからあの時間ははち切れそうなくらい楽しい時間だったし、二人もそうだったと思うんだ。
 拳に力を集中させて、全てのパワーを一点から放出する能力。緑谷くん、できるんじゃないか? できるかな、でも制御が難しいかも。じゃあこっちは。こっちもいいかもしれない。これすごいよね! 時間は飛び去って、瞬間、通り過ぎて行った流れ星を見つけてはしゃぐ子どものように、時間をすっかり忘れてしまっていた。
「は! もうこんな時間か!」
 飯田くんが顔を上げて、そう言った。時計を見ると午後七時に近くなっている。
「すまない、もっと時間のことを気にかけておくべきだった!」
「そろそろ帰らないとね……。」
「わりい、長居して。」
「いやいや! 気にしないでくれ。俺は大丈夫!」
 結局、いつの間にか食べ終わっていたお菓子やケーキのごみを片付けて、残ったものは「また次食べよう」と片付けておいた。また来る、っていう次への無言のうちの約束になる気がして、飯田くんの部屋に置いて行ったお菓子の箱がまぶしい。轟くんが動かないので、様子を見ると、轟くんも山積みにされたお菓子のパッケージに目をやって、ほんとうにかすかだけれど、「笑み」だと分かる表情を浮かべていた。
 
 スリッパを脱いで、お邪魔しました~、と外へ出る。ああ、轟くん、そんなの、……という飯田くんの声に振り返ると、轟くんが、二人分の来客用スリッパを、玄関横にあった細長いシューズクローゼットへ入れている。
「あ! ごめん! 僕のまで!」
「いや、いい。」
 ぱた、と手慣れて扉を閉めた、轟くんの行動の、どこに違和感があったのか、僕はそのとき気が付かなかった。
 駅まで送ろう、と言われたが、轟くんは「お前ランニングあるだろ。帰れる。道は分かるから。」と断った。
「今日はありがとう、飯田くん!」
「また来てくれ、ぜひ!」
「じゃあな。」
 轟くんと二人で連れだって、駅までの道を帰っていく途中、僕は飯田くんが、いつもなら六時ごろランニングをして、それから夕食を摂るのだということを轟くんに聞いた。飯田くんの生活のリズムのことを、よく知っている様子の轟くんに、僕ははっとした。
 さっき玄関で感じた違和感はそれだったのだ。
 飯田くんの家に行くのは初めてだったはずだ。けれど、轟くんはシューズボックスの中に飯田くんがスリッパを入れていることを知っていた。スリッパのスタンドが置いていなかったから、どこに直しておくかなんて分からないはずなのに、轟くんは棚の何段目においてあるかまで知っていた。そして、それをあっさりとやった轟くんには、たぶん、僕に違和感を与えるのではと意識することもないレベルで、自然な動作になっている。
 そのくらい、何度も飯田くんの家を訪れているということだ。
 思えば飯田くんの発言も変だった。
 うちに人が来るのは初めてだ、と張り切っていたのに、
「俺はこうやって来客があるときくらいしかお菓子は食べないからな」
 とも言っていた。お菓子を買うのは初めてではない。けれど来客があるときにしかお菓子は出さないという。かすかな、しかし決定的な矛盾が、僕にいやでも悟らせる。
 たぶん。
 僕が思っているより遠く、二人は踏み出しかけている。轟くんの横顔に刺さる夕日の色が、轟くんの凛と整った輪郭を浮き出させていた。
「轟くん。」
 僕はいてもたってもいられなかった。
「なんだ?」
 僕と轟くんの長い影が、ケヤキの並木道の向こうまで伸びている。駅はすぐ目の前まで迫っていて、電車の通り過ぎる音が近くなってきた。
「あれから、どうなった?」
 僕が突然言いだした「あれ」が何のことなのか、けれど轟くんは、僕が何も言わなくても、放課後二人で話した「恋」と「家」についてのことだと直感的に理解してくれたようだった。
「……どうも。平行線だ。」
「……。」
 平行線だなんて。本当だろうか。僕は、「飯田くん」という名前を言ってしまいそうになるのをこらえて、轟くんを見た。轟くんは、もしかしたら、僕の目に「飯田くん」という文字を読み取ってしまったのかもしれない。細くため息をつき、肩を落として、轟くんは眉根をひそめた。
「わからねえ。何一つ。もしかしたらあいつも、って、思う瞬間もある。いまいってやれ、と思うときもある。いっそ全部ぶちまけちまえたら、楽になれるんだろうなとも思う。でも、よくわからなくなってきた。打ち明けて、俺の気持ちを伝えて、俺はすっきりするかもしれねえけど、それで正しいのか、それをするべきなのか、わからなくなってきた。」
「……今のままのほうがいいってこと?」
「……ああ。今は、まあ、普通に、……。普通でいられるし、……何より、……自分がどうしてえか、どうなりてえか、伝えるのは、もしかしたらエゴみてえなもんなんじゃねえかな、と思い始めた。」
「エゴ?」
「ああ。俺がすっきりして、楽になりてえだけなんじゃねえかって。俺にとっても、相手にとっても、関係を壊さねえように、このままじっとしてるべきなんじゃねえかって。」
 両手をズボンのポケットにつっこんで、ふらふら歩く轟くんは、けれども、どこか寂しそうだった。彼が弱気になっているのは珍しい。基本的に、自分の意思主張をはっきりさせるタイプだったし、轟くんはいつでも冷静沈着で、「わからねえ」っていう言葉がここまで頻発するのは、なんだか普通じゃないような気がした。
 エゴ。楽になりたいだけ。関係を壊すべきじゃない。
 本当にそうだろうか。
「壊さないとはじまらない関係って、あるよ。」
 思わず、僕は立ち止まり、轟くんも振り返った。まぶしい。轟くんが背負う真っ赤な西日が、炎のように燃え上がって、轟くんの背を焼いている。
「……緑谷。」
「好きになるなんて、最初から全部エゴなんだ。でも、エゴだって分かってても、気持ちを押し付けたくなるくらい、好きな気持ちが大きいなら……。きっと、それを押し殺して、消し去ってしまった後のほうが、傷つくと思う。それが致命傷になることも、あると思うんだ。」
「……。」
「人がどう思うか、人がどう見るかも、結局は、エゴだ。エゴのない関係なんてないよ、轟くん。でも、同じ方向を向いているはずの人がいるのに、……無理に、別の方向を見るなんて、……僕は、うまくいえないけど、……もったいない気がする。」
 轟くんの頬を風が撫でた。二色の髪がふわっ、となびいてそよぐのも、美しい。彼はとても美しい。僕はときたま、轟くんの持つ独特の美しさのことを思い出して、はっとする。
「誰かにとられちまうかも、と思うと、怖い。」
 轟くんはそう言った。
「俺はもう取り上げられたくねえんだ。」
 まるで自分に言い聞かせるように、五歳のころ、お母さんという大好きな、そして大切な存在を取り上げられてしまった轟くんが、吐き出す本音はとてつもなく重い。
「じゃあ、今度は、ちゃんと自分でつかまえておかないと。轟くん。もう君には、それができる力があるんだよ。」
 僕が言えるのはそれだけだ。

「わりい、緑谷。先、行ってくれ。」
 轟くんは僕に、そう言い残して、振り返り、元来た道を走り出した。まるで焦燥と、なにか目に見えない大きな力に引っ張られて、走らざるを得ない、そんな様子だったから、僕も引き止めることができなかった。
 ケヤキ並木の間を、走り抜けていく背中を見つめながら、僕はしばらくぼんやりしたあと、くるりときびすを返した。駅はもう目の前だった。改札に入り、ホームへ出て、電車を待っている。
「まもなく、二番線に、電車が到着します。」
 そのまま電車に乗り、ぼんやり窓の外を見ていた僕の目が、線路沿いに並んだアパートのうちの一つ、扉の前に、あのよく目立つ赤と白の髪と、背の高い黒髪が見えるのを、瞬間、とらえた。
 

 ○飯田の部屋の前。
   ドアが開き、驚いた顔の飯田天哉が現れる。
   息を乱して立っている轟焦凍。
飯田「ど、どうしたんだ? ……緑谷くんは? 忘れ物でもしたのか?」
轟「ちげえ。」
飯田「轟くん……?」
轟「わりい……。」
   轟、息を吐き出す。困惑した表情。
   音を立てて電車が目の前の線路を通り過ぎる。
轟「泊めてくれ。」
飯田「えっ……?」
轟「……泊めてくれ。飯田。」
   飯田、息を呑み、沈黙する。
飯田「……どうして。まだ日も高いし、帰れない時間じゃない……。」
轟「……。」
飯田「なんで、そんな、……突然。……戻ってきたりなんか……。」
轟「わからねえ。わからねえんだ、なんで戻ってきたのか。自分にも。」
   飯田、轟の顔をじっと見る。
   しばらくの沈黙ののち、飯田が吐息を漏らし、扉を開く。
飯田「……入ってくれ。」
   部屋の中へ入っていく二人。
   暗転。

05. Park

ハスミ町、というと、人口が日本で四番目に少なく、小学校の廃校率が日本のトップ・ファイブであるという、いまとなっては少し不名誉な称号を設けられている市で、雄英高校から徒歩十分圏内にある、小さくて静かな町だ。今はもうずいぶんそんな印象も薄れてしまったけれど、当時のハスミ町は新興住宅地で、ハスミ・ニュータウンという、大きな公園つきの社宅が建った、小さな子供の多い町だった。近くに貯水公園があったから、ジャージ姿の雄英生もよく見かける場所だ。何を隠そう、僕たちも、よくその貯水公園にはお世話になった。
大規模な洪水などが起きた場合は、この貯水公園をダムがわりに、水を流し込んで対応するらしい。僕は見たことがないけれど、「ことは」ちゃんは、その貯水公園が水でいっぱいになるのを何度か、大雨の夜に見たことがあると言っていた。

「ことは」ちゃんについて話そう。
「ことは」ちゃんは、僕ら三人がハスミ・ニュータウンの貯水公園で出会った、三歳の女の子だ。その日は、学校でやった「個性」についての授業で、それぞれが指摘された体の使い方の弱点のことを言い合いつつ、いっそ今日はトレーニングでもやるか、お互いに意見を言い合えばより発見も多くなるだろうしということになって、ハスミ・ニュータウンの貯水公園に行った。貯水公園はランニング用のトラックがあり、アスレチックのある公園と、河原沿いに長い散歩道のある、規模の大きな公園だ。ヒーロー科の生徒たちのトレーニングには寛容で、そのためのグラウンドがあるくらいだった。公園にはランニングをしている人や、お母さんに連れられた小さな子たち、それから思い思いに散歩したり、散策したりする人たちの姿が見られる。僕らはその風景の一部になって、芝生の上に鞄を置き、さてやろうかということになったのだ。
もちろん個性を使ったトレーニングではない。体の使い方や、攻撃、動作の癖など、フィジカル面の弱点をお互いに探るためのトレーニングだ。僕らはそれぞれ、全然体の使い方が違う。体力やスタミナ、体の大きさ、それから体術の完成度は、三人の中だと飯田くんが一番だ。轟くんは体にしみこんでいる反射神経、身のこなしが違う。トレーニングだけでは得られないとっさの「経験値」がすぐれている。飯田くんのすぐれているところを轟くんが、轟くんのすぐれているところを飯田くんが、お互いに補完し合うともっともバランスがよくなるようで、僕が思っていたより二人は夢中になっていた。僕があれこれ、二人について普段からつけているノートを開いて思ったことを意見すると、二人は意外なほど真剣に、確かにそうだ、いやこっちはこうすれば、と耳を傾けてくれるのもくすぐったかった。

そんな僕らの前に、「ことは」ちゃんが現れた。
というか、最初は、「ことは」ちゃんも風景の一部でしかなかった。近くに小さめのアスレチック公園があったので、そこで遊んでいた子の一人が、見慣れないことをやっている僕らを見て、興味を示して寄ってきたのだろうとくらいにしか思わなかった。けれど、あまりに近くまで来て、ぼーっと僕らを見上げるので、僕らは思わず、それぞれ動きを止めて、「ことは」ちゃんを見た。
「あれ……、公園から来たのかな?」
じいー、と興味深そうに、というか、きょとんとした顔で僕ら三人を見つめている「ことは」ちゃんのことを気に留めて、追いかけてくるお母さんの姿を期待したが、一向にお母さんは現れない。どうする? と三人で顔を見合わせて、初めに、飯田くんが彼女の前にしゃがみこんだ。
「おかあさんは? 君はどこから来たんだ?」
きりっ、としたいつもの顔つきだが、飯田くんの口調は普段よりちょっと柔らかい。小さな女の子用の声だ。僕も飯田くんにならってしゃがんだ。轟くんは困ったように、小さな女の子を眺めているばかりだった。
「?」
「ことは」ちゃんは、小首をコテンと傾げて、「わからない」と態度で示して見せる。僕と飯田くんは目を見かわして、今度は僕が尋ねた。
「お名前は?」
僕のその質問に、彼女は、間髪入れず答えた。
「ことは!」
ワッ、とよく響く大きな声だ。
「ことはちゃんかあ。」
「ことはくん、いいお返事だな!」
「ことは」ちゃんは、三歳児でもおませな恰好をする女の子が多い中、珍しいくらいこざっぱりした、芝生と同じ色のワンピースを着て、ふかふかの茶色い髪を肩の下くらいまで伸ばした、目の大きい、きょとんと困った顔をしている女の子だった。
「ことは、おんなのこ」
「ことは」ちゃんは飯田くんを指して、言った。飯田くんに負けないくらい大きな、堂々とした声だ。
「ことはくんじゃない! ことはちゃん。ことはおんなのこ!」
「ことはちゃんくん!」
「くんいらない!!」
あはは、と飯田くんと「ことは」ちゃんの、お互い一歩もゆずらぬ攻防に、僕は思わず笑って、「このお兄ちゃんはね、女の子でもみんな「くん」って呼ぶんだよ。」と説明した。「ことは」ちゃんがそれを理解したとはあまり思えないが、次に飯田くんが「ことはくん」と呼んでも、「ことは」ちゃんは特に文句を言わなくなった。
「ことはちゃんは、何歳?」
「しゃん」
「三歳かあ。どこから来たの? あそこで遊んでたの?」
僕がまっすぐ指さした公園を、「ことは」ちゃんは振り返って、ふるふる、と首を振った。じゃあお母さんは、と続けようとしたとき、「ことは」ちゃんの姿がフッと目の前から消えた。
「あれっ!?」
「ことはくん!?」
「!?」
三人で、きょろ、と周囲を見回すと、「ことは」ちゃんは案外すぐに見つかった。僕からから数メートル離れた、土手の芝生の上に、緑色のワンピースが揺れている。芝生の風景と同化して、いよいよ見つけにくい。「ことは」ちゃんを追いかけ、放り出していた鞄を拾って、僕らは土手を駆けあがった。
「ことは」ちゃんが僕らの方を振り返ったとき、にま、とうれしそうに笑った。「ことは」ちゃんにとっては、「おにごっこをしている」くらいの感覚だったんだろう。僕らが近づくと、「ことは」ちゃんはフッと消える。そして、数メートル先に現れている。「ことは」ちゃんを追いかけ、追いつく。「ことは」ちゃんが消える。追いかける。消える。……それを何度も繰り返し、僕たちはついに貯水公園の端っこまで来てしまった。
「ことはちゃん!!」
「ことはくん!!」
追いかけて、今度は消えずに立っていたくれた「ことは」ちゃんに近づくと、「ことは」ちゃんはしぱしぱ、まぶたを眠たそうにまたたかせて、ふわふわと空中を見つめている。ようやく「ことは」ちゃんという存在に少し慣れたらしい轟くんも、そのときは三人一緒に「ことは」ちゃんの前にしゃがんだ。

轟くんは、子どもが苦手なのだと言っていた。
小さい子。特に五歳以下の子が苦手。轟くんは、「自分の一番嫌な時期だったから」と言って、子どもに特に気おくれするようだった。轟くんの「どう接すればいいんだ」っていう、小さな子に対する遠慮のようなものが、目に見えて伝わってくるくらい、轟くんの態度はぎこちない。けれど、どうにかこうにか、歩み寄ってみようと思う気持ちはあるのだろう、轟くんはがんばって、「ことは」ちゃん相手に目線を合わせた。

「ことは」ちゃんは、しゃがみこんで目線のそろった高校生三人をじいっと見つめて、
「おなまえなーに」
 と尋ねてきた。あなた、と僕が一番最初に指さされたので、
「いずくだよ。デクでもいいよ。」
 と答えた。「ことは」ちゃんが迷わず「でく!」と言ったので、デクって言わなきゃよかった……とちょっと後悔した。
 ……いや、だって、デクって言う方が「いずく」より小さい子には言いやすいかな、と思ったんだ。
 続けて、あなた、と飯田くんが指さされたので、
「飯田天哉だ! ひらがなは読めるかな? い、い、だ、」
 と、地面に指でひらがなで書きはじめた飯田くんの文字を、「ことは」ちゃんはじいーっと熱心に見つめて、
「いいだ! いいだ!」
 と指さしてはしゃいだ。飯田くんは相手が三歳だからって容赦はしない。駄目だぞ人を指さしては! あと、呼び捨てはやめよう! と注意したが、結局「ことは」ちゃんは指さしだけはやめたものの、「いいだ」と呼ぶのをやめなかった。
「おにーちゃんは?」
 「ことは」ちゃんに指さされて、轟くんがぎょっとする。轟くんにとって三歳児(しかも女の子)っていうのはエイリアンに近い。何語でしゃべればいいのだろう、というくらいで、轟くんは一瞬黙った。轟くんの頭の中で、彼の小さい頃の記憶が、浮かんだり消えたりしているのだろうと僕は思った。
「……轟。焦凍。」
 轟くんがつぶやいた、自分の名前を、「ことは」ちゃんは黙ってじっくり聞いて、吟味したあと、ちょっと頬をそめ、照れたように体をこてんと傾けた。
 「ことは」ちゃんの初恋の瞬間を僕は見てしまったと思った。
「しょうとくん!」
 「デク」とか「いいだ」とか好き放題に呼んでいた、「ことは」ちゃんの声は、僕らにかけた声とは比べ物にならないくらい「女の子らしい」すました声で、しかもちょっと甘えた「くん」づけだ。「くん」は男の子につける、と彼女が主張していたのは、おそらくこういうことだ。「くん」というのは男の子につける。「ことは」ちゃんは、轟くんを男の子として認識したんだ。
「あ! ずるいぞ、僕もてんやくんと呼んでくれ!」
「いいだー!」
「なんでだ!」
 あはは、と笑って、飯田くんのほころんだ笑顔も珍しい。飯田くんはいつも、凛々しくきりっと引き締まった顔をしているから、こうやって小さい子相手に笑うのは意外だった。人称も、いつもの角ばった「俺」から、「僕」になっている。意識して、切り替えたのだろう。飯田くんは「俺」と「僕」の使い分けが、どんどんうまくなっていっていた。

 飯田くんのお兄さんが言ったのだという。
「迷子を見かけたら迷子センターへ手を引いてやれる」
「そういう人間が一番かっこいいと思うんだよな」
 飯田くんは、それをものすごく大事にして、きっと、それを自然にやれるようになりたいと、このときすごく、もがいていたのだと思う。飯田くんにとって、「ヒーローっていうのは何か」が、ステインの事件のあと、一層重くなった。
「絶対に助けに来てくれる、いつでもヒーローはそばにいてくれる。重苦しくても、きっとそれが原点なんだ。安心感。信頼。自然と生まれるものでなくちゃならない。自然、それをできるようになるためには、俺はいつもヒーローっていうのは何か、考えなければならないと思うんだ。」
飯田くんの笑顔は、このとき、そういう思いにはちきれそうな笑みだった。

「しょうとくん」
 呼ばれた方の轟くんは、ぎょっとして、どうすりゃいいんだ、という困った顔をして、僕と飯田くんを交互に見やる。僕と飯田くんは含み笑いをして、しょうとくん、手をつないであげよう、お母さんを探さないと。そうからかった。しかも、間の悪いことに、「ことは」ちゃんが眠たそうにあくびをして、うつら、うつら、やりはじめ、
「だっこ……」
 と轟くんに小さな両手を伸ばすので、いよいよ轟くんは固まってしまった。
 轟くんの背中に「ことは」ちゃんを乗せ、轟くんの鞄を飯田くんが持って、ねむ、ねむ、と目をとろとろさせ始めた「ことは」ちゃんに、おうちはどこか、おかあさんはどこか、辛抱強く聞いた。
「ことは、ねむたくなるの。きえるやつ、したら……。」
「たぶん、個性だな。ワープ系の」
「ことはくんはもう個性が発現しているんだな。すごいなあ。」
 にこにこ、不思議なほど飯田くんはうれしそうで、「ことは」ちゃんと、それをおぶった轟くんを眺めている。「ことは」ちゃんは途切れ途切れ、消えたり現れたりしてここまで来ていたこと、ここがどこなのかはっきり分からないこと、ハスミ・ニュータウンの新興住宅地の一つに住んでいることを僕らに教えて、力つきて、眠ってしまった。
「ろけっとのすべりだい、ある、こうえんなの……。」
 ままとあそんでたの。「ことは」ちゃんが最後にそう言ったのを頼りに、僕らは貯水公園を抜け、ハスミ・ニュータウンの新興住宅街まで歩いた。それぞれの社宅団地にひとつ、小さめの公園がついている。ずらっと並んだ十五棟の社宅団地を見て、これは大変だぞ、と思った僕に、飯田くんは轟くんと自分の分の鞄を預け、ここで待っていてくれ。すぐ戻るから。と身一つになり、エンジンをふかしはじめた。
 ドッ、ドッ、ドッ、というアイドリングの音のあと、低く唸るエンジンの音が響く。「ことは」ちゃんがはっと目を覚まして、轟くんの肩にぐいと乗り出し、飯田くんが制服のズボンをまくりあげて準備しているところを見つめた。
「すごおい」
「そうだろう? すぐに探してくるからな!」
 えへん、と得意げな顔で、飯田くんは一歩、蹴り出した。クランクシャフトが回転し、飯田くんのつまさきが地面を蹴ると、一気に加速した。個性を使って走るときは、必ず車道を走る。飯田くんの個性はバイクや車と同じ扱いになるらしい。
 飯田くんが消え去っていくのを、轟くんは「ことは」ちゃんをおぶったまま、じっと見つめていた。
「すごいねえ」
 「ことは」ちゃんが飯田くんの小さくなっていく背中を見つめて、目をきらきらさせる。飯田くんが「すごい」という点で、二人の意見は一致したらしい。轟くんは、どこか自慢げに、くちびるの端を微笑の形につりあげた。
「ああ。すげえんだ、飯田は。」
 はやいねえ。はええだろ。それを何度か繰り返し、「ことは」ちゃんはまた眠りに落ちてしまった。轟くんの背中に体をあずけて、しょうとくん、おもしろいねえ。あったかいのに、つめたーい。すごいねえ。轟くんはくすぐったそうに目を細めた。

 飯田くんは間もなく帰ってきた。しかも、帰ってくるのは突然だった。飯田くんのエンジン音を期待して、第一社宅の公園のベンチに座り、「ことは」ちゃんをおぶったまま待っていた僕らの前に、シュンッ、と軽やかな空気音をさせて、突然戻ってきた。そして、戻ってきた飯田くんは、女の人と、男の人を連れていた。
「ことは!」
 ぐっすり眠っていた「ことは」ちゃんだったが、ハッ、とその声に目を上げた。「ことは!」と名前を呼んだ女の人に続いて、男の人の方も、「ことは!」と呼ぶ。
 お父さんとお母さんだろう。「ことは」ちゃんによく似ている。
「まま」
 「ことは」ちゃんはやっぱりどこかきょとんとした顔で、お母さんを見つめ、次にお父さんを見つめて、「ぱーぱ」と笑った。ご両親は力が抜けたようにふにゃふにゃと笑い、ありがとう、ほんとに、と飯田くん、轟くん、そして僕に交互にお礼を言った。
「個性が発現してたなんて。目を離したらすぐに消えちゃう子だと思ってたけど、疑ってみるべきだったわ。」
 お母さんは安心しながらも、戦々恐々とした感じで、「ことは」ちゃんを轟くんから貰い受けようとしたが、轟くんと離れるのがいやなのか、「しょうとくん!」と彼の背中をつかんで離さない。轟くん、「ことは」くんにとっても好かれたな、と飯田くんはやっぱりものすごくうれしそうだった。
「ことは、だーめ。おにいちゃん重いでしょ」
「しょうとくん」
「お兄ちゃんにばいばーいして」
「やー」
 ごめんなあ、重いだろうに、とお父さんも困ったように笑い、轟くんの背中から「ことは」ちゃんをなんとか引っぺがす。お父さんは「ことは」ちゃんが消えたと聞いて、会社を早退して飛んできたらしい。ワープの個性を持っているのはお父さんのほうだった。
 「ことは」ちゃんはしばらく手を轟くんに向けて広げていたが、轟くんが困り顔で、「ばいばい、な。」と言ったので、さっきまでの嫌がり方はなんだったのか、にぱ、と笑って「ばいばーい」と言った。轟くんはどこかほっとした様子だった。
「お兄ちゃんがままたち見つけてくれたのよ、ことは? ありがとうは?」
 飯田くんの方を向けて「ことは」ちゃんに促すお母さんに、「ことは」ちゃんはじいっと飯田くんを見る。「ことは」ちゃんは、さっきまで「いいだー!」と指さしてにこにこしていたのがどこへ行ったのか、お母さんとお父さんの顔を交互に見て、お母さんの腕に顔をうずめてしまった。
「ことは!」
「いえいえ、かまわないです! ことはくんはまだ小さいし……」
 言いかけた飯田くんの声に反応したのか、「ことは」ちゃんは頭を上げて、飯田くんを指さした。指ささないの! だめよ! と「ことは」ちゃんを叱るお母さんにもお構いなく、「ことは」ちゃんはじいっと飯田くんを見つめ、指をさして、
「てんやくん」
 とつぶやいた。そのあと、消え入るような声で「ありがとー」と言って、「ことは」ちゃんは顔をうずめてしまった。
 飯田くんは、ものすごく感動したみたいで、くわっと大きな声を出して、「ことはくん……!」と感極まっていた。
「あらあら」
「なんだ、ことは、照れてるのか?」
 呆れ笑いのご両親に促され、「ことは」ちゃんは僕にも「ありがとう」をくれた。顔を上げて、ちらっと見て、
「でっく」
 と手招きする。「ん? なーに?」と耳を傾けると、こしょこしょ、と「ことは」ちゃんは小さな手で僕の耳に教えてくれた。
「ことははねえ、てんやくん、すき。しょうとくんも、すき。でっくも、すきー。」
 かわいくて、笑みが勝手に漏れてしまった。そうだねえ。うれしくて頷いた僕に、ひみつよー、と念押しする。うん、ひみつ、ひみつ、と笑う僕に、「ことは」ちゃんは、
「いずくくん、ありがとー」
 とついに名前を呼んでくれた。

「本当にありがとう。雄英高校なんだね。また今度お礼させてね。」
「ほんとにありがとう、お兄ちゃんたち。気をつけてね。」
 「ことは」ちゃんのお父さんとお母さんは、眠ってしまった「ことは」ちゃんの背中をゆっくり撫でながら、住宅街の向こうへ歩いていった。二人の笑顔と、「ことは」ちゃんの静かな寝顔が、ものすごく幸せそうで、胸がいっぱいになる。僕は、二人に声をかけようと思って、二人の顔をちらと見やり、……。
 何もいえなくなった。
 二人はまるで、絶対に手に入らない美しい宝を前に、途方にくれているようだった。憧憬の入り混じった、切ない表情をして、二人は夕焼けに消えていく、小さな「ことは」ちゃんと、それを抱いて笑い合う、ご両親のほうを見つめていた。
 僕はあのとき、二人にしか分からない苦しみの存在を知って、ぎょっとしたんだ。そして、僕も切なくなった。二人のためなら、僕はなんでもやれると思った。「ことは」ちゃんを乗せてうちあがったピンク色のロケットを、僕らが見つけて導いたように、僕も二人が乗り込むロケットを、導くためにしゃんとしなければならない。

 帰ろうか。もういい時間になってしまった。僕らは連れ立って、ハスミ・ニュータウンを歩き始める。いい運動にはなったかもしれない。人助けもできたことだし。僕たちの胸にはちょっとした、ふわふわ浮き上がるような満足感が残っていて、轟くんはとたんに軽くなった背中にいつまでも違和感を感じているようだった。

「ところで、緑谷くんは何の内緒話をしていたんだ?」
「……ひみつ。ことはちゃんとの、ひみつだよ、飯田くん。」

 ……実は、あれから、「ことは」ちゃんから何度かお手紙をもらった。一通目はクレヨンで画用紙めいっぱいに書かれた「ありがとう!」という文字。一人に一通ずつ、三人分届いた。
雄英には、こういう「ありがとう」のお手紙をもらったことを校内に掲示する習慣がある。僕らのもとに届いたお手紙の複写が掲示板に張り出されて、「ヒーロー科一年A組 飯田天哉、轟焦凍、緑谷出久 迷子の女児を助ける」と概要も一緒に飾られた。僕ら三人はそのお手紙をそれぞれ見合って、なんともいえないくすぐったい気持ちを共有した。ヒーローっていうのは、こういうことだ。
僕はオールマイトに、「すばらしいぞ、緑谷少年!」と肩を力いっぱいバシンとやられて、よろめきながら、うれしかった。
飯田くんはお兄さんにその手紙を見せて、お兄さんの、ようやく動くようになった手で、「えらいぞ、天哉。」と頭を撫でてもらったそうだ。
轟くんはお母さんに、「すごい。焦凍、あなたはやっぱり、優しいヒーローになれる。」と微笑みをもらったらしい。手を伸ばしたお母さんの手が、轟くんの手をやさしく握った。
 
 僕が見た、二人の切ない表情は、きっと《家》に起因するものだったのだと思う。

 幸せそうな男女と、小さないのち。当たり前のようにそういう未来が来るものだと思っていた二人が、その未来をまばゆすぎると思うようになってしまったのが、僕にも伝わった。一緒になれる、なれない、子どもを生める、生めない、それだけの問題ではない、もっと大きな何かだ。
 轟くんは、それを《家》だと言った。《家》だとか、《血筋》だと言った。飯田くんは、轟くんがおずおずと小さな子どもをおぶって、なんとか歩み寄ろうとしているのを、まぶしそうに……、まるで、自分たちの未来をそこに見るように、隠しきれないよろこびを笑みにあらわしていた。だからこそ、それが自分たちに訪れる未来ではないと思って、あんなに切なそうだったんだ。

 けれど、ねえ。二人とも。
 世界には敵ばかりじゃないんだ。
 二つの彗星がそれぞれ、違う色できらめき、回っていることを、少なくとも僕は知っている。僕は明け方の空を見つめて、二つの星が空をすべるのを、望遠鏡を抱えて、見守っている。

 サン・デグジュペリは言う。
「どこかの星に咲いてる一輪の花を愛していたら、夜空を見あげるのは、心のなごむことだよ。星という星ぜんぶに、花が咲いてるように見える。」
 と。

06. My Hero Exhibition

「僕らのヒーロー博」と印字されたパンフレットを抱えて、中に。夕方五時を過ぎた館内はやや落ち着いていて、どちらかというと大人の姿が多い。僕たち雄英高校の制服が、おもしろいくらいに浮いて、たまに視線が僕らの上に注ぐ。
「雄英生だ。」「お勉強しにきたのかな。」

 また二人を引っ張ってきてしまった。オールマイトのすべて、と銘打って、ヒーロー展の一角にオールマイトの特集が組まれる。彼が若い頃の写真、雄英時代の有志、彼が実際に着ていた制服……などなど、ありとあらゆるものが会場には陳列される。見に行きますから! と言うと、オールマイトはものすごく照れて、あんな若い頃の見られたら恥ずかしくて死にそうだ、と必死で僕を止めた。
 信じられないくらいだ。きっと僕は、オールマイトから、ワン・フォー・オールを受け継がなかったら、ヒーロー展に行く前に彼と話すようなことも、雄英生としてこの場所に来ることも、まして、飯田くん、轟くんのような友だちを連れてくることも、なかった。僕はきっと、メモ帳ひとつ持って、ひとりきりでここへ来ていたんだろう。僕は本当に、恵まれてる。恵まれすぎてる。
「へえ、すげえな。」
「広いな! じっくり見て回ったら一日かかりそうだ!」
 博物館の玄関ホールには、吹き抜けの螺旋階段、そのど真ん中には巨大なブロンズ像がある。膝をそろえて斜めに足をくずし、座っている女の人の像だ。目には大きな涙がたまっていて、頬によせたてのひらの上に、弱ったネズミがくったりと眠っている。
 個性が日本で始めて発現した世代、彼女はヒーローの源流だといわれている。治癒効果のある涙で、第三次世界大戦時、科学薬品に犯された日本のあらゆる場所をまわり、自身の涙で汚染に苦しむ人々を救った。彼女自身は、身を犠牲にした活動が祟り、志半ばで、最後には自身の涙では打ち消せないほど体が汚染され、命を落とした。彼女の功績をたたえ、この大きな博物館は、現在活動しているヒーローから、殉職し正義を貫いた過去のヒーロー、治安を守り天寿を全うしたヒーローたちの姿を、あますことなく展示している。
「僕はフリーパス持ってるから、チケットは二人分で大丈夫だよ!」
「フリーパス持ってるのか!? 相変わらずすごいな君は……。」
「知ってたけど、本気で好きなんだな……。」
 二人は苦笑しながら、チケットブースで学生二枚、チケットを買う。ヒーロー博、オールマイト大特集! というポスターがあって、とんでもなく胸がそわそわする。オールマイトだけじゃなく、歴代のヒーローがところせましと並んでいるんだ。こうやって三人で来れたことが、僕はすごくうれしい。
「最初はヒーローの源流からスタートなんだ。まだ個性が認められていなかった時代の人物で、のちのちの研究で「これは個性だったんじゃないか?」って考えられるようになった人たち……、例えば、」
 フランスの王位継承をめぐる、百年戦争に、「神の啓示を受けた」として軍に従事。農夫の娘だったが、彼女の不思議な力によって軍は勝利をおさめたが、その後捕虜となり、異端審問にかけられ魔女として火刑に処された。
 ……説明パネルの文字を三人で読み、進んでいく。歴史の授業でもよく見かける面々だ。動乱の江戸から明治の時代を志士として駆け巡り、近江屋で暗殺された藩士。彼が使っていたとされる愛刀や、拳銃と一緒に、銅像が立てられている。著名すぎて、説明も不要な人物たちの、「ヒーローの源流」を見て回ると、今度は「個性第一世代」。個性が生まれ始め、時代が混乱のド真ん中にあったとき。ここから、ヒーロー、ヴィラン、という二つの対立図が生まれたんだ。
「すごい……、ここから始まったんだ、なにもかも……」
 何度も見に来ているのに、来るたびにほとんど涙ぐんで、僕はひとつひとつ、はやる気持ちを抑えて見て行った。

 博物館って、不思議だ。次の展示が気になって、先に、先にとはやる気持ちがあるのに、一生懸命おさえて、ひとつの展示をじっくり見ようと踏ん張る。そんな感じがある。見知ったヒーローの展示までくると、ああっ、すごい……、って、勝手に声が漏れていた。

 展示に夢中で、僕はさっぱり、一緒に連れてきた友だちのことを忘れていた。好きなものを前にすると回りが見えなくなってしまうのは僕の悪いところだ。オールマイトの展示にたどりつく前までにとんでもなく時間を使った上、オールマイトの特集スペースに来ると、ここに僕一人だったら大歓声を上げて飛び跳ねていたと思う。
 中央に、オールマイトの等身サイズの像があり、ぐるっと周囲を囲むように、彼の私物や思い出の品(おそらく公開できる範囲のものだろうけど。)が展示されている。
「あああ~……、すごい、……これ! イエローストーンの噴火を止めたときの……!」
 慌ててノートを取り出し、メモしながら興奮しつくしたあと、はっ、と顔を上げると、まばらな人波の中に、轟くんと飯田くんがいなかった。
(あれ……、も、もしかして先に帰っちゃった!?)
 ありえる。ありえすぎる。けれど、携帯を確認しても、何のメッセージも届いていなかった。二人に限って、連絡なく先に帰るっていうことはなさそうだし……。
 
 考えて、オールマイトの特設部屋から通路をまたぎ、隣のスペースを除くと、いた。よかった。飯田くん。轟くん。二人は「現在活動中のヒーロー」という展示スペースで、じっと並んで立っている。ふたりの前にはそれぞれ、「インゲニウム」と「エンデヴァー」のパネルが掲げられている。
(なんだ、よかった……。そりゃ、そうか。自分の家の展示だもんな。気になるのは当たり前だ……)
 ごめん、遅くなって、と声をかけようとして、立ち止まった。もう時間も閉館に近づいて、人のほとんどいなくなったその部屋で、二人の背中に近づくと、重い呟きが僕をゆさぶる。

「立派な家だ。君の家は。」
「おまえこそ。」
「……。」
「……。」

 轟くんにはともかく、飯田くんには、珍しい沈黙だった。

「笑い飛ばして、くれないのか、轟くん……」
「……おまえを笑えたら、俺だってこんなことになってねえよ。」
「……どうして。」
 飯田くんが吐き出した声は、とても苦しそうだった。
 僕は気づかなかった。
 二人がどんどん、底なし沼の泥に足をとられて、もがいて、苦しんでいたことに。

「緑谷、おまえは。考えたことあるか。《家》のこと。」

 放課後の教室で、轟くんが僕に言ったことが、どれほどの重さを持っていたか、僕はようやくそのとき分かった。インゲニウム。エンデヴァー。これだけ功績を残し、ヒーローとして名高い家の、二人の息子。どちらも長男ではないのに、「家」を背負う運命になった。
 轟くんは、「家」のことなんて考えなかった、と言っていた。そして、「あいつは違う」とも。
 二人の背中が遠くなった。僕は一歩一歩、無意識に足をひきずって、二人の背中から後ずさりをする。僕が観測していた二つの彗星が、空中で突如ぶつかり、大爆発を起こした。僕は天体望遠鏡を持ったまま、庭の真ん中でぽかんと口をあけている。
「……どうして。どうして俺は……。」
「理由なんか、ねえんだよ。俺だって考えたけど、理由なんか、」
「……好きなんだ……。」
「……分かってる、飯田。俺もだ、って、さっきも……。」
「戻れなくなるまで、向き合うのを怖がっていた……。俺はきっと、ものすごく面倒な存在になる……。君にとって、面倒な、」
「俺は。……俺はお前の荷物になるつもりでいるし、そうなってやれとも思ってる。悪いことじゃねえ。好きになるってのは、そういうことじゃねえの」
 飯田くんが、がくん、と頭を垂れて、うなだれた。ああ。僕は。知らなかった。知っていたけど、見ていなかった。ふたりが、ふたりで、どんどん先へ行ってしまうことに、気がつきたくなかったんだ。
「……君がすきなんだ……っ」
 うめくように、飯田くんがそう言った。飯田くんが大切にしている、「インゲニウム」事務所の功績をたたえた展示を前にして、うなだれ、涙声で、そう訴えた。
「…………俺は、……それよりもっと好きだ。ゆずれねえ。」
 ピン、と張り詰めた糸が切れるように、僕は音もなく展示室を抜け、オールマイトのところへ戻った。オールマイトの像は、にかっと笑って、白い歯を見せている。
「……う、」
 うああ。
 思わず漏れた声を殺して、オールマイトの像の前に立ち尽くし、僕は泣いた。ふたりは行ってしまった。僕を置いて、彗星はぶつかり、四散して、一つの星になり、飛び去っていったんだ。僕はふたりを照らす太陽でもなんでもなく、ただの、望遠鏡を持って口を開けた、間抜けな観測者でしかなかったんだ。
 オールマイト。
 つらいときこそ笑っている、あなたのことが僕はとても好きです。オールマイト。あなたなら、こういうとき、どうしますか? 笑って、ふたりと、これまでどおり、仲良く、していけるでしょうか。
 ぽた、ぽた、と流れ落ちた涙を拭いて、知らん顔で、ふたりに駆け寄って、明るく、「遅くなってごめん! オールマイトの展示に見入っちゃってさ」って、言わないと。そう振り返りかけた僕の肩を誰かの手がたたいた。
「緑谷くん!」
 わっ、と迫ってくる声に、びっくりした。
 飯田くんだった。轟くんもいる。僕をはさんで、ふたりは僕の隣に立った。
「満足したか、緑谷。」
「そろそろ閉館だし、出ないと! 時間も遅いしな。」
 さっき、あんなに苦しそうだったふたりが、けろっとして、僕を迎えに来てくれたことにも、また胸が苦しくなった。どうしてそんな顔できるんだろう。僕には、ぜんぜん、分からない。
ああ、うん、ごめん! 我ながら取ってつけたみたいな空元気で返事をする。慌てて最後の展示を見てまわり、外へ出ると、もう日が暮れかかっている。空は橙色と紫色が入り混じる、夕闇の時間だ。
「ごめんね、ふたりとも! 僕の用事につきあわせちゃって……」
 どっぷり日が暮れた空に、僕は思わず謝って、ふたりを振り返った。
 そして、はっとした。
ふたりが並んで、お互いを見て、僕を見て、微笑んだその顔が、あらゆるものから解放されて、すっきりと晴れていることに気がつかないわけにはいかなかった。

「緑谷。」
「緑谷くん。」

 ふたりは、噛み締めるみたいに、僕の名前を呼んだ。
「緑谷くんに、どうしても、打ち明けたいことがあって……。」
「びっくりすると思うけど、お前には、言っておかねえとってふたりで話した。」
「俺たちの勝手を押し付けてしまってすまないが、ただ、聞いて欲しいんだ。」
 ふたりはまるであらかじめ取り決めていたように、交互によどみなく話した。爆発四散した彗星が、僕のまわりをもう一度まわりはじめる。僕の手が、じんとしびれて、自然と居住まいが正された。
「……俺と、飯田。付き合うことになった。さっき。」
 飯田くんもこのあと、何か言うつもりだったのだと思う。もごもご、くちびるが動いたから。けれど声が出なくなって、飯田くんは真っ赤になり、眼鏡をぐいと上げて顔の火照りを誤魔化している。僕は相変わらず、ぽかんと口を開けて、閉じられない。
 僕に、なぞかけのような打ち明け話をしてくれた轟くんはともかく、飯田くんは、何も言わない僕に慌てふためいて、すまない、突然、こんなことを言って……、と恐れるようにまくし立てた。夕闇がふたりをつつみこみ、橙色に染めている。

 僕は。
 泣き出すのを必死にこらえた。

「……本当に、すまない、緑谷くん……。ぼく、いや、俺たちは、君にだけは、知ってほしいと思って……。理解、してくれなくても、かまわないんだ。君に言いたいと思ったのは、俺たちの、エゴだから。」
「お前は俺たちの友だちで、俺たちを引っ張ってくれる。お前に何度も助けられた。隠し事はしたくねえ。」
「本当に、ぼく、たちは、君に……。」
 

 だめだ。
 ぼろぼろっ、と両目から涙のつぶが零れ落ちていって、とめどなくなった。ふたりがそんなこと言うから。
 泣いてしまった僕にびっくりしたのだろう、ふたりが駆け寄ってきた。
「どっ、どうした!? 緑谷くん! すまない!」
「……っ、脅かしてわりい、緑谷。」
「ごめん、僕こそ、ごめん……っ、あんしん、したから、……」
 大切な友だちふたりが、どこかへ行ってしまうみたいで怖かった。カフェでの出来事、ふたりと一緒に見たズードリームランドの光のショー、一緒に食べた三段アイス、飯田くんの家に押しかけて、五袋もポテトチップスを開けて。公園で、息ができなくなるくらい笑った、いろいろが、僕に押し寄せてくるようで怖かった。全部思い出になって、僕はひとり取り残されて、ふたりだけで遠くへ行ってしまうんだと勝手にそう思っていたんだ。
 ふたりは、どうして、そんなに僕を気にかけていてくれるんだろう。
 こんなこと言うと、きっとふたりは勢いこんで、「緑谷くんはすごいじゃないか!」「緑谷はすげえのに。」って、言ってくれるんだと思う。ふたりに助けられていると思っているのは僕の方なのに、ふたりは僕に助けられていると言い張るんだ。
「飯田くんと、轟くんが、……ふたりだけで、どこかへ行っちゃうような気がして、……怖くて、」
 ごめん。
 ありがとう。
 泣きながら、途切れ途切れにそう言った。隠し事をしたくないって言ってくれたふたりに、僕だけ隠し事をしているのは悪い気がして、さっきの会話を聞いてしまったことを打ち明けた。
「盗み聞きしちゃって、本当に、ごめん……。声、かけられなくって。僕は、うすうす、勘付いていたはずなのに、いざふたりがそうやって、言葉にしてるのを聞いたら、なんだか寂しくなって。ごめんね。飯田くん、轟くん。」
「かまわない。俺たちは最初から、君に一番に言うつもりだったんだから。」
「……緑谷。おまえが聞いてなかった、俺と飯田の話の続きを教えてやるよ。」
 轟くんは大きく息を吐き、僕が逃げ出したあとにふたりの間でなされた話を繰り返してくれるのだった。

 轟くんは、語る。

○ヒーロー博内、「現代のヒーロー」展示ゾーン。
   飯田と轟が、展示を眺めて立っている。
   飯田、声をつまらせる。
飯田「……君がすきなんだ……っ」
轟「…………俺は、……それよりもっと好きだ。ゆずれねえ。」
  ふたりの間に深い沈黙が落ちる。
飯田「……ぼ、っ、おれを、好きになっても、いいことないぞ……。」
轟「すきか嫌いか、どっちなんだよ。」
飯田「……好きだ……。」
轟「なら、いいだろ。お互い、好きになったっていいことねえのは、承知だろ。」
飯田「……うん、」
   飯田、うつむく。
轟「……泣いてんのか、飯田。」
飯田「……君、すごいな、……ぼく、は、到底、君みたいに平気ではいられない……。」
轟「……平気じゃねえよ。これっぽっちも。……怖くて、手え、ふるえてる。」
   轟のふるえる手を見つめ、飯田が顔をあげる。
轟は無表情のまま、じっと展示を見つめる。
飯田「……轟くん。」
轟「ん?」
飯田「……ひとつ、提案がある……。」
轟「なんだよ。」
飯田「……緑谷くんには、言わないか。俺たちのこと。」
   轟、飯田の表情を見て、小さく頷く。
轟「……ああ。俺も、そのつもりだった。緑谷には、お前のことだとは言ってねえけど、好きなやつがいるって話はしたし。」
飯田「したのか!? 知らなかった……。」
轟「なんとなくな。……だから、一応。俺の勝手だけど、報告しときてえな。」
飯田「うん。俺も、そう思う。緑谷くんさえ知っていてくれたら、きっとどんな非難をうけても、……」
轟「……。誰が俺たちを否定しても。あいつは、分かってくれるような気がする。」
飯田「ああ。緑谷くんなら……。」
   ふたりは頷きあい、オールマイト特設スペースへ移動。
   轟、飯田、下手へ退場。

 轟くんがかいつまんで、話してくれたひとつひとつが、僕にはまるでふたりの肉声の会話そのもののように聞こえた。ふたりがどんな顔で、どんなふうにその会話をしたのか、想像するのもたやすい。まるで舞台のお芝居をみているように、ふたりの動きや、沈黙、会話が、僕の頭にひらめいた。
 
 俺たちはおまえに頼りすぎてるかもしれねえな。轟くんが言ったことばをそのまま、返したい。ふたりの大事な、ともすればもう誰にも打ち明けないかもしれなかった秘密を、僕に、打ち明けてくれた。それだけで十分だった。
「俺たちがどうなるか、俺たちにもわからねえ。味方してくれなんて言うつもりもねえ。おまえに、隠してるのが嫌だった。それだけだ。緑谷。」
「軽蔑してくれても、落胆してくれてもかまわない。仕方がないことだから。けれど俺たちふたりは、君を信頼する。緑谷くん。」
 ふたつだった彗星が、ひとつになって僕のまわりを回る。
「君は何か不思議な引力を持ってるな、緑谷くん。」
「太陽みてえだな。」
 おさまったと思ったのに、また僕はふたりに泣かされた。ふたりの方が、ふたりの方が、って、二の句を継げずに泣いてしまったせいで、ふたりの瞳がうるっとゆれるのが、もっと僕をせつなくさせた。

 こんなに、いい友だち、他にいるでしょうか。
 
 僕はこのとき、僕みずから「この三人の《友情みたいなもの》を、《友情》の形にちゃんと仕上げたい」と思って提案した、放課後の会合が、完結して、形になったのを感じた。そして、その《友情》を通じて、破裂寸前で旋回していたふたつの星が、ぶつかり、爆発し、粉々になって、ひとつの星になり、またゆっくりと旋回しはじめるようになったんだ。
 
 僕は観測する。
 このふたつの星は、きっとこれからいろいろな、困難にも、苦しみにも、晒されるだろう。無理解も、理不尽な非難や偏見も、ふたつの星にはぶつけられるはずだ。けれど、僕は言う。あの星は、ずっとああやって回っていた。ふたつの彗星が、いつまでも同じように回っていられるように、僕は観測する。
 
 いつまでも僕は太陽みたいに、変わらないで、君たちふたつの彗星を引き寄せていたい。

 これから先は長いんだ。僕たちはまだ、大人になったばかりで、まだまだ困難に見舞われるだろう。知らない星に不時着して、右も左も分からず迷うとき、途方もなく大きな宇宙のど真ん中に放り出されて泣きたくなるとき、流れ落ちるたくさんの彗星に囲まれ、そのうつくしさに息を呑むとき。苦しいことも、悲しいことも、うれしいことも、あらゆることが僕らを待ちうけている。
 でも、君たちふたりは、負けちゃいけない。どんな批判にも、どんな苦しみにも、そのあとにはきっと幸せなことがある。君たちふたりが負けないように、僕らみんなが観測しているから。
 君たちふたりは、ずっと僕のヒーローでいてほしい。

 これが、いまでも僕の大切な友だちであり、これから、というより、今日から、……パートナー同士になる、飯田天哉くんと、轟焦凍くんの物語です。

 今日は素敵な披露宴をありがとう。

 ねえ、ふたりとも、泣きすぎだよ。僕も泣きそうだから、ほら、顔あげてよ。あーあ、ねえ、せっかく素敵な袴姿なのに……。飯田くん、あとで眼鏡拭いてね。びしょぬれだから……。

 ごめん、しゃべりすぎたよね!? 長々と、ご清聴、ありがとうございました。あっ、ごめん、ごめんっ! 瀬呂くんと上鳴くんが「巻きで!」って言ってるので、この辺にしておきます。
 え? あ、次は大丈夫、たぶん。芦戸さんと葉隠さんが、えーっと、……何するんだっけ? あ、ごめん、まだ内緒らしいです。おちゃ、……あ、じゃない、麗日さんが、ふたりにもらい泣きしてすごいことになってるので、僕もそろそろ席に戻ります。

 本日このような晴れの場を迎えられましたこと、本当に心よりお祝い申し上げます。 これをもちまして、おふたりのはなむけの言葉とさせていただきます。
ご結婚、おめでとうございます。

新郎ふたりの友人代表、緑谷出久。