ランボルギーニ・カウンタック - 1/4

01. 世界に一人のゴミカス男 …… バンドマン×医者

 たまたまの当直で、たまたま、急患を迎えたのがトラファルガー・ローだった。ローが当直に入っている日、たまたま、トラックとバイクの接触事故で、意識が朦朧とした状態のユースタス・キッドが運ばれてきた。最寄の高速での事故でなければキッドはここに運ばれてはこなかったであろうし、ローが深夜も病院に常駐していなければ、この男と出会うこともなかったろう、とローはぼんやり、助手席で眠っている男の横顔を見つめて思っている。
 ランボルギーニの助手席をほぼフラット状態になるまで倒して、我が物顔で眠っている。鼻梁がすらりと高く、真っ赤な髪が黄色い車体にいやな派手さで浮いていた。
 点滅する赤信号を見つめながら、ローはフンと鼻を鳴らした。たまたまこうならなけりゃ、この男は手に入らなかった。神はいつでもおれに味方している。車内に流れているV―ROCKの最新チューンは勝手にこの男がいれっぱなしにしているものだ。じわじわと、雨に地面が濡らされていくように、自分の領域に他人の爪痕が残ることを、ローは心地よくすら思っていた。
 信号が青に変わった。

〈一〉

 急患のベルとともに、ガラガラとけたたましい音を立てる担架に載せられて、運ばれてきた一人の男を集中治療室に迎え入れた。白い手術台に横たえられた男の頭部を見てぎょっとしたが、血かと思ったのは真っ赤な頭髪であった。血と見まがうほどの赤さに面食らったが、気を取り直してオペにあたる。
 バイクとトラックの接触事故だと手短かに聞いた。大型トラックにぶつかられたと聞いて、最悪の状態を覚悟していたが、肋骨の粉砕骨折、右手首と右足がきれいにスパンと骨折している以外には、打撲と擦り傷だけにとどまっている。すげェ頑丈っすね、と執刀助手をしていたシャチが軽口を叩けるくらいには、男の症状は思いのほか軽かった。
 それでも、事故は事故である。脳みそに異常がなければいいが。男はうわごとを言っていて、意識が混濁しているようだった。あまりに繰り返しうわごとを言うので、「なんだ」と声をかけると、
「ライブが……あンだよ……」
と切実な訴えを投げかけられた。無論だが、どうしようもないので無視した。
幸い、事故の規模の割には、大掛かりな手術をまぬかれた。男はすぐに病室のベッドへ移され、次の日の朝まで麻酔で目を覚まさなかった。

朝まで、それ以外にはこれといった大きな出来事はなく、朝になり件の患者が目を覚ましたというので病室へ出向くと、ふてぶてしい顔つきの、何やら文句を言いたそうな若い男がでんと病室の端にふんぞりかえっている。片足がギプスで固められ、天井からつりさげられていなければもっとサマになっただろうが、六人一部屋の病室で、その一角だけえらくガラが悪く見えたのはこの男のせいだろう。
「気分はどうだ」
 カルテを片手ににじり寄ると、ぎろりと赤い目がローを射抜く。別にローに文句があるわけではないが、それでも自分がこのありさまであることに、文句のひとつも言いたいのであろう。
「……おれはどうなった?」
「見ての通りだ。お前は事故に合って、肋骨と、左手首、右足の脛骨・腓骨を両方すっぱりやったんだ。普通の骨折だと細い腓骨の方だけが折れることが多いが、お前の場合は両方だった。だが2トントラックにぶっ飛ばされてそれだけで済んでるのをありがたく思え。お前の家族へ連絡を取ろうと試みられたみてェだが、まだ連絡がとれてねェ。誰か連絡がつながるやつは?」
「家族はいねェ。ダチがいる。そいつに連絡取る」
「お前の荷物は残念ながらここに運ばれていねェから、番号を教えろ。あとでこっちから連絡を取っておく」
「ッあ~~、マジかよ……」
 家族はいない、とあっさり告げられた言葉にも、ぴくりとも顔の筋肉を動かさず応答できた。相手の調子から、そうしたことに気を揉まれたくないという性質だろうと考えたからだ。
「ほかにどこか痛むところはあるか?」
「アー、……頭がいてェ」
「転倒したときに強く打ったんだろう。あとでMRIを受けてもらう。他には?」
「頭と言わず全身が痛ェ」
「だろうな。全身打撲だ。しばらく入院」
「ックソ」
 大してかわいそうにとも思っていないローのトーンが気に障ったのか、盛大に舌打ちをしたその男は、ふんとそっぽを向いて黙った。後から来た看護婦に擦り傷の処置をさせ、朝食が運ばれてきたのでカルテごと退散した。
 名前はユースタス・キャプテン・キッド。年は二十三歳だ。これは彼のボロボロになったライダースの胸ポケットに入った免許証で判明した。所持していた携帯電話は粉砕されており、キッドから言付かった「ダチ」の電話番号だけがめぼしい連絡先である。連絡云々は事務に任せ、ローはしばらく別の患者の往診のあと、キッドの「ダチ」と連絡が取れた旨を伝えられた。
「四つ年上の、キラーって男でした。割に丁寧で、事情話すと半分呆れ声でしたね。すぐ来るそうです。家も結構近いみてェで」
「そりゃよかった」
「ミリもよかったと思ってねェ顔で言うのやめなさいよキャプテン。演技でももうちょっとうまいことやってほしいッス」
 連絡を取ったのはシャチとともにローの執刀助手を務めるペンギンである。彼もシャチもローより年上だが、この総合病院に若くして現れた、周囲からの風当たりの強い若き医師に敬意を表しているようで、ローを「キャプテン」と呼び、至極適当だが敬語を使う。仏頂面で、喜怒哀楽の表現がへたくそで、人付き合いを苦手とするローが、院内で孤立を免れているのはおおむねこの二人のおかげといっても過言ではなかった。
「しっかし丈夫なヤツっすね~。トラックに跳ね飛ばされてこれだけ、ってのはなかなか奇跡っすよ」
「あいつを轢いた車も逃げちまってるみたいで、救急車呼んだのは別の車みたいっすね。トラックもバイクも、夜の国道爆走してたみてェで」
「自業自得だ。ライブがどうのとうわごと言ってやがったから、遊びにでも行くつもりだったんだろ」
 白衣のすそを翻し、ローは院内をコツコツと音を立てて移動する。そうしているうちに、ユースタス・キッドのMRIの結果が回ってきた。異常はないようである。
「あ、キャプテン! 面会っす」
「あァ。わかった」
 MRIの結果を伝えるついでだ。面会者に会っておくのもいいだろう。ローは東棟から西棟への渡り廊下を早足に進み、ユースタス・キッドが放り込まれている病室へ迷いなく進んでいった。

〈二〉

「事情を話してツアーはいったん中止にしてもらった。いまスタッフにも動いてもらってる。お前がそんな状態なら、しばらく活動は見合わせた方がいいだろう」
「悪ィ」
「いや、かしらが無事でなによりだ。肝が冷えた」
「ついに死んだかと思った」
「うるっせェな」
 部屋に入って、派手な見知らぬ男が三人もいたことに驚いた。足を止めたローを見つけて、椅子に腰かけていた男が立ちあがる。目元まで覆うもさもさとした金髪のロングヘア男で、口元を黒い革のマスクで覆っていた。顔が二割程度しか見えていないが、腰を上げて「世話になりました」とあいさつをしてくる律義さは、例の「キラー」というダチの男なのだろう。
「お前がユースタス屋の〈ダチ〉とやらか」
「ああ、まァ、そうだ。おれのことをなんて説明したんだ、キッド」
「そのまんまだ。〈ダチ〉だろ」
 まあいい、とキラーは唸り声を出して、後ろに控えていた二人を順に紹介する。ドレッドヘアの男がヒート、目つきが悪く体の大きい、黒髪の男がワイヤーというらしい。
「それで、キッドは……」
「全治六か月。リハビリの程度にもよるが、しばらくは歩けねェな。入院は二週間程度でいいだろうが、治療の選択によっちゃもう一度手術もありえる」
「……」
 あからさまに、「六か月!?」とわめきかけたキッドを、キラーが目で抑えた。えらく調教が行き届いている。キッドも、折った肋骨が痛むのだろう、ウッと眉をしかめてすぐ大人しくなった。
「松葉杖がとれるのがだいたい三~四か月だ。てめェの努力の次第にもよるがな。激しい運動はもってのほかだし、今後も激しい運動は避けるべきだ。また同じ骨をやる可能性が高い。ユースタス屋」
「あ?」
 突然話しかけられて、思わず育ちが出たのだろうが、ガラの悪い返事をするキッドを、キラーが小突いて注意する。
「定期的に何か運動をやっていたり、部活だのなんだのに参加していたりするか? 自然治癒を目指すなら、今後一部のスポーツはできなくなる可能性がある」
「……スポーツ、……以外も激しい運動になるかよ?」
「たとえば?」
「……バンド」
 それを聞いて、ローの中で線がつながった感じがあった。どうやら、ライブ云々と言っていたのは、自分が観る側ではなく、バンドをやる側だったために出てきた発言だったようである。ローはあとで知ることになるが、ユースタス・キッドはボーカルとしてキラー、ヒート、ワイヤーを率いてバンドをやっており、この事故が起こった当時はワンマンツアーの真っ最中だった。
「ジャンルによるな。座りっぱなしのクラシックならあるいは」
「てめェ、おれの顔みてクラシックだと思うか?」
「ありえなくはねェだろ」
 へ、と嘲り笑いを浮かべたローのその笑みが、「あざけり」であると感じ取ったのか、キッドはビシリと額に青筋を浮かべる。うっすら、額に汗が浮いているのは、怪我からくる熱だろう。そもそも、この状態で元気にワーワー騒げているのが異様なのである。
「とにかく、ギャアギャアうるさく騒ぐな。大人しく安静にしてろ。いまはまだ痛み止めが効いてるが、切れてくると地獄を見るぞ」
「てめェが喧嘩売ってきてんだろうが」
「キッド! やめろ」
 キラーに小突かれ、フンと悪びれず鼻を鳴らしてキッドは黙り込んだ。
「ドクター。しかし、それは困る。おれたちのバンドは激しいパフォーマンスをするし、今後も活動を続けるつもりでいたんだ。だからボーカルのキッドが動けないと活動ができなくなってしまう。なんとかならないか?」
 なんとか。方法がないわけではない。それに、何の手も打たないで退院させても、キッドが無理にでもバンド活動を継続するだろうことはわかっていた。そういう男だ、この男は。ここに担ぎ込まれて数時間だが、ローはこれまで見てきた人間たちの面構えと精神性の紐付けから、キッドがどんな考え方をする人間か、おおよそ予想がついていた。骨を再びやって、もう一度担ぎ込まれるのもそうだが、自分が執刀した患者には自分の責任とプライドがついてまわる。後に起こることを予測しておきながら、野放しにしておくのはプライドが許さない。
「方法がねェわけじゃねェ」
 カルテを片手に持ち、片手を白衣のポケットにつっこんで、断定的に言う医者を、キラーはじっと見守っている。ローは絶対的な、自分の技術への信頼から、このように断定的かつ高圧的にものを言うが、従わざるをえない一種の迫力のようなものを持っていた。キッドがじろりと窓の外から目をはなし、この若い医者をにらんでいる。本能的に反発したくなるのだろう。
「今後もバンドを続けたいなら、手術費もかかるし、入院の日数もかかるが、折れた骨をボルトで接続する方法がある。身体に金属を入れることになるが、強度は折れる前と変わらない状態になる」
「何日かかンだ」
 黙っていたキッドがはじめに口を開いた。キッドの声を聞いて、ローは、なんとなく彼がすでに意志を固めているように思った。
「手術とリハビリでおよそ二週間程度だ。てめェ次第で入院日数は短くもなるし、長くもなる」
「結局、完治までには六ヶ月かかんだろ」
「まァな」
「……キラー、決めたぜ。おれは手術する」
 キラーは、ふう、とため息を一つ吐き出し、頷いた。自分のリーダーがそうするだろうと予想していたのだろう。
「お前が決めたことにおれたちは従う。半年は活動を休止するべきだろうな」
「世話かける」
「いや。復帰を見越して治療するならそれが最短だ。なら、おれたちは今夜にでも今後のスケジュールについて打ち合わせておく。お前はまだ何も動くな、キッド」
「あァ」
 キッドはそれきり、あとは知らぬ態度であったが、キラーがキッドの代わりに丁寧に頭を下げた。足にボルトを入れる手術をし、一日も早い回復と、以前と同じ強度の骨の再生を試みる。彼らが選んだ治療がそれだった。ローはそれに従うだけだ。命に危険のある手術というわけではない。
「キッド、おれは一度戻って、入院に必要なものを持ってくる。大人しく寝ておけよ」
「んあ」
 くああ、とあくびをして、キッドは起こしていた身体をベッドに倒し、仲間が出て行ってしまうと、ぼうっと窓の外を眺めて、暇そうな顔をしていた。若い男はみんな、ここに運ばれてくるとこの顔をする。突然、自由でのびのびとした六ヶ月を理不尽に奪われたというような、不満げなツラだ。
「なァ、おい」
 キッドの足の様子を診おわり、出て行きかけたローに、キッドの声が届いた。振り返ると、ゆったり枕に頭を預けた満身創痍の若者が、鋭く赤い目をひらいて、ローを見ていた。いやな目だとローはとっさにそう思った。
「いてェ」
 何を言われるかと身構えたローの心中も知らずに、キッドは分かりきったことを言う。
「あたりまえだろ。肋骨が折れてンだ。よく普通に話せるな」
 話すだけでも痛むはずだ。
「痛ェに決まってンだろ。だが、仲間の前でわめいても意味ねェじゃねェか」
「ならおれの前でもわめくな」
「てめェは医者だろ。わめいてる患者の世話すンのが仕事だろうが」
 帝王の理論だ。バカバカしい。ローが肩をすくめて去ったあとに、背中から愉快そうな笑い声と、笑ったことで肋骨が痛んだのか、「ウッ」といううめき声が投げかけられた。

〈三〉

 ユースタス・キッドは順調に回復した。右足にボルトを入れる手術の前に、粉砕した肋骨を鉄板でつなぎ、その痛みが治まってくるころには手首の骨もだんだんつながってきた。まだ片手でしか生活できないが、器用に片手だけでメシを食っているところを見るとうまく順応しているらしい。相棒のキラーという男は、毎日のように現れては母親のように細々と世話をして、また帰っていく。結局どういう間柄なのか良く分からない二人だが、血のつながった兄弟というわけでもないようだ。
 いよいよ足の骨をボルトでつなぐという日になり、手術間際という時間になって、ユースタス・キッドに面会があった。もう手術に入るので控えてくれと言っているのに、受付でわめいているという。仕方なく面会させたところ、泣いたりわめいたり、なんで病室教えてくんないの、お見舞い来たかったのに、なんで、なんで、なんで、とやかましい女がベッドにしがみついていたそうだ。ローは直接見ていない。見たのはシャチである。おねえさんもう時間スから、出てもらってもいいスかね? と迷惑そうに言ったのが、火に油を注いだ。泣き散らかす女に対して、キッドが放ったのは、
「うるせェな。帰れよ」
 のたった一言だった。

「カスですよマジで。ゴミカス男。バンドマンでゴミカスってテンプレみてェなこういう男、マジでいるんスね~」
 わめき散らしながら出て行った女の話をし終えて、しみじみとシャチがそう言う。確かに手術前に押しかけて来ておいて泣き喚く女も迷惑だが、それをあっさり「うるせェ帰れ」の一言のもとに闇へ葬る男の側もなかなか肝が据わっている。まァでも実際迷惑だっただろ、とペンギンが横槍を入れたが、あいつの言い方を聞いてないからそんなことが言える、とシャチはあくまで女の肩を持った。
「そりゃ、おれもなんだこの女めんどくせ~、って思いましたけど! でもおれが女で、あんな言い方されてたらそりゃ泣き喚くわな、って思いましたし」
「実際看護婦はドン引きしてたしなァ」
 執刀後の会話というには俗すぎるだろうか。ローは問題なく終えた手術について思い返しながら、話半分に彼らの世間話を聞き流していた。
「患者は」
「順調です」
 次の手術まで大した時間はない。腕の立つ外科医は多忙なのだ。一定のリズムで刻まれる心音。眠りについているユースタス・キッド。眠っていると穏やかであどけない。年相応の幼さが伺えるようだ。ローはすぐキッドから目をそらし、治療室を出た。

〈四〉

 ボルトを入れて直後は、麻酔が切れると激痛が襲う。ユースタス・キッドもその例に漏れないはずだが、その夜、ナースコールは一度もなく、看護婦も素通りしているらしい。別の患者の様子を見るために、たまたま病室の前を通ったので、ローは珍しく多少のおせっかいを焼く気を起こして、キッドのベッドへ立ち寄った。
 サ、と軽い音でカーテンを開けると、案の定キッドは脂汗をかいて、眠れない様子だった。目を大きく開いて、痛みに耐えるように、天井をにらんでいる。
 はっ、とキッドが息を殺した。突然カーテンを開けられれば驚きたくもなるだろう。キッドはそこに立っていたローを見るなり、「何しにきやがった」という顔でぎろりとにらんだ。
「麻酔が切れたな。目が覚めたのはいつだ?」
「……ついさっきだ」
「術後に痛みがあると言っただろう。痛み止めを打つか」
「いらねェ!」
 キッドは噛み付くように言った。医師の側としても、離床が遅くなる可能性があるので、患者本人がリクエストするか、医師自身が必要だと判断した際に適宜用いるのみで、推奨はしていない。耐えられなくなったらナースコールを押せ。念を押してそう言っても、キッドはちゃんと聞いているのか怪しい反応だ。汗の浮いた額。歯を噛み締め、じっと痛みを耐えて目を細めている顔つきを、なんとなく、「色っぽいな」と思った。
(何を考えてるんだ、おれは)
 ローは自分のとっさのその考えに驚き、すぐになかったことにした。
 その後もナースコールはなかった。別の患者のナースコールで、キッドの眠る病室へもう一度赴くことになったが、その際もまだ目を開けて痛みに耐えていた。麻酔が切れて三十分から一時間が過ぎると痛みのピークがやってくる。ちょうど今が最も痛い時間帯だろう。キッドはしかし、カーテンを開け、様子を見に来たローを見るなり、苦しげな顔でニヤリと笑って、
「ハ、何回来やがんだ、ヒマかよ」
 と憎まれ口を叩くのだった。

 キッドは結局一晩耐えた。朝、往診のためベッドを訪れたローがカーテンをめくると、スゥと寝息を立ててひっそりと眠るキッドがいた。ふ、と自然に微笑が漏れた。

 翌日も、その翌日も、変わらずキラーは毎日キッドの病室に現れた。最初に一緒にやってきたワイヤーとヒートという二人組は、週に二度現れれば多いほうであったのに、キラーは毎日現れる。キッドも、相棒のその男にならば甘えてもよしと考えているのか、あれを買って来い、これが欲しい、から始まって、キラー、面白ェ話しろよ、まで幅広く無茶を言っていた。
 一日、二日と経っていくうちに、激痛の走る時期はなんとか過ぎ去ったようだ。初日を過ぎれば、痛みは少しずつ引いていく。あの悶絶の夜を越えれば、ユースタス・キッドはどうということはない、という顔であった。
 脂汗の浮いた苦しそうな顔をもう一度見たかった。ローは自分が、ほんのりとそう思っていることに思い当たって、妙なことを考えてるな、と考えないように務めた。キッドは問診のたびに憎まれ口ばかりで、ペンギン、シャチには軽口を叩き、若い看護婦とはすぐ打ち解けて笑い合っていた。
 女ったらしなのかと思うと、所作に女に媚びるところがない。どちらかというと、女をつきはなし、からかい、笑い飛ばす。そういう野蛮なところに惹かれるのか、一部の若い看護婦たちにはえらく丁重に世話を焼かれている様子があった。
「はァ~~~、女の子って、やっぱちょっとワルな方がすきなんスかねェ?」
 一年も前から狙いをつけていた新人看護婦が、同僚と「キッドくんってちょっとかわいいとこあるんだよね、わがままだけどさァ」とけらけら笑っていたところに出っくわして、シャチは消沈気味である。手術前にキッドが女と起こしたひと悶着を見てドン引きしていたくせに、看護婦はいまやキッドに悪い気がしていないようだった。
「あの子はお前にゃムリだって、入ってきてすぐはキャプテン狙ってたし」
「ウソ!? おれ知らない!! マジかよ!?」
「あまりにキャプテンが塩対応すっから早々に諦めたみてェだけど」
「エ~~~おれにもワンチャンないッスか神様~~」
 新人ナースは約九割がキャプテンにいくからなァ、と二人は好き放題にワーワー騒ぐだけ騒ぎ、すぐ散り散りになった。バタバタと動き回っているので、全員そろって三人で話すのは執刀後や執刀前の軽い打ち合わせの際くらいである。ただ、このばかばかしい会話のおかげで、ローはつかの間気を抜ける。二人にはもちろん一切言っていないが、ローにはこれがありがたかった。
「先生~、三○二号室の患者さんなんですけど……」
 おず、とためらいつつカルテを持って近寄ってきた若い看護婦に、じい、と視線を落とした。この女はどうなのだろう。自分と同じように、脂汗を浮かせて必死に痛みを耐え、唸り声を噛み殺す手負いの獣みたいなあの男に、色気を感じるのだろうか。
「あァ。見せてみろ」
 手を差し出し、ふと微笑みを見せたローに、若い看護婦はヒイッと息を呑んですらいた。どうでもいい、と思っていた有象無象に、少し興味が湧いたことからくる微笑みだったのだが、彼女は百年に一度の天変地異でも食らった顔で、患者への投薬について話し終えると、慌てて噂好きな仲間の元へと走るのだった。
 ちょっとねェ聞いてよ! ロー先生が笑ったんだよ! ヤバイ死ぬ! シンプルに顔がいい!! ……。

 それから退院まで、毎日同じようにキラーやキッドのバンド仲間たちが変わるがわる現れるだけで終わるであろうと思われていたキッドの入院生活に、二度目の波乱が訪れた。面会しに来た若い女が、病室に入るまでは大人しくつつましかったところ、ベッドに横たわっているキッドを見たとたん、逆上して掴みかかろうとした。ローはその時も居合わせなかったが、枕元に花瓶をぶちまけられたということで、キッドの額と頬に出来た硝子の切り傷を手当てし、目などに破片が入っていないか調べ終わったところであった。
「幸い、切り傷が二箇所だけだ。うまくよけたな」
「余裕」
 キッドは悪びれない様子を貫いている。居合わせた看護婦と、見舞いに来ていたキラーに取り押さえられ、なおもわめく女に向かって「めんどくせェなてめェ、誰だよ」と一蹴したのが止めを刺した。女は火事場の馬鹿力とばかりに制止する手を振り払い、キッドの頭めがけて、隣のベッドに眠る患者の見舞いにと置いてあった花瓶を振り下ろした。頭を持ち上げて咄嗟に顔をそらし、よけたのだろう。大事には至っていない。キッドは恐怖を感じた様子もない。まあいつかこうなるだろうなと思っていたような顔つきだ。
「モテるんだな」
 へ、とローが笑いを浮かべると、キッドもへらりと笑う。
「そりゃ嫌味か」
 キッドは念のため病室を移された。他の患者に害があっても困るので、特別、個室に移されたのを、キッドは素直に喜んだ。女とモメとくもんだな、とへらへらするキッドに、医者や看護婦たちより何より、キラーが一番激怒していた。
 この事件のために院内中の話題はキッドのことばかりになった。キッドのバンドが突き止められ、燃え上がる炎でもこう赤くはいかないだろうという真っ赤な髪をかきあげ、悪魔の王みたいな毛皮のコートを着て、凶悪なメイクをしたキッドと、仮面で顔を覆ったキラー、同じくおどろおどろしいいでたちのワイヤーとヒートの姿が、ついにペンギンとシャチからローのところまで回ってきた。
「メタルとヴィジュアルのミックスって感じッスね」
「意外とでけェバンドだな」
「ワンマンツアーやってたんだなァ、野音とかジップでやってんならでけェよなァ」
 ローには理解の追いつかない単語が頻出したので、説明を求めたところ、野音というのは新世界野外音楽堂の略称、ジップはZIP GRANDの略称で、それぞれキャパシティ三千人~五千人程度のコンサートホールだということだった。
「そっち系の音楽には詳しくねェんでわかんないッスけど、この界隈なら有名なんじゃねェスか」
「ボーカル入院のため活動休止、って出てら」
「ウワ~、担ぎ込まれた日、ツアーファイナルの前日だったっぽいスよ」
「悲惨すぎんだろ」
 やいやい盛り上がる二人を含め、院内全体がこういう状態である。生来、人の噂や視線を集める男なのだろう。本人はそ知らぬ顔をしている。昼飯時の往診で若い看護婦が当たると十中八九手が痛いだのなんだのわがままを言って女の手からメシを食おうとしていることも聞いた。いつもなら、常に彼を見張っているキラーが「バカ言うな」「迷惑なやつですいません」と言いながら「おれが食わせてやる」と言い争う(そして結局その場合は「いらねェよ」と吐き捨てて、ひょいひょい自分で食っている)姿を見るところだが、その日はキラーがいなかった。たまたま、通りがかった病室を、気まぐれに覗いたローは、無表情のまま面食らった。
「自分で食べなきゃよくならないよ」
 ね? ほら。手使わないと。女の声が止まった。あー、と口を開けて、女の手にあるスプーンからメシを食ったキッドが、じろりとローの方に目を向けている。看護婦の方はあからさまに「やっべ」という顔をして、「ほら! もう、駄目ですよ、自分で食べないと!」と不自然に声を張り上げた。シャチの狙っていた看護婦である。
「すみません先生、ちょっと手が痛いみたいで……」
 言いつくろう看護婦を無視して、
「痛ェのか」
 とローはキッドのベッド横ににじり寄り、ぎろりと見おろした。なぜか妙にムカっ腹が立った。
「んァ。痛ェな、担当がヤブなんじゃねェのか」
 へら、と笑うキッドと、いよいよ冷徹な目つきになるローの間の空気に、看護婦がおろおろと慌てた。すみません、わたし次の患者さんを診てきます……、と逃げ出した若いナースに、キッドはじっと目を向けている。
「てめェのせいで行っちまったじゃねェか」
「残念だったな。手が痛むんだろう。痛み止めを打ってやろうか」
「いらねェよ」
「痛くてメシも食えねェほど弱ってるとカルテに書いておかなきゃな。担当がヤブだとお前も苦労する」
「ハッ」
 皮肉で返してきたローに、キッドは楽しそうな顔をする。真っ向からかかってくる相手を好ましく思う性質なのだろう。
 手を出して、自分でスプーンを持とうとしたキッドより、ローがスプーンをとりあげる方が早かった。キッドは怪訝そうな顔で、じろりとローを見上げる。
 何をやってる、バカなことをやる前にスプーンを置け、という天の声が聞こえるが、ローの身体はローの意志の自由にならなかった。「メシ抜きにでもするか?」とせせら笑うキッドを無視して、ローはぐいとスプーンを差し出す。
「あ?」
「……食えよ。痛ェんだろ」
 アア~、やっちまってねェかこれは、大丈夫か? おれは何をトチ狂ってるんだ、といよいよ脳みそが騒がしいが、表情はピクリとも動かない。昔からそうだった。喜怒哀楽が出ない子だと言われていたし、七五三の写真が絶望的にかわいくないことで有名なローだったが、案外、頭ではあれこれわめいているのだ。顔にぜんぜん、出ないだけで。
 キッドは当然激昂するか、食うかよアホか、と一蹴してスプーンを取り戻すかのどちらかだろうと思っていた。しかし、ローの予想を裏切って、キッドはじっとローを見たあと、ゆっくり目を伏せた。
 んあ。
 大きく開けられた口に、ひっぱられるようにスプーンが吸い込まれる。昼はたまご粥だった。クソほど味が薄いたまご粥に、キラーに言って持ち込ませたのか塩を勝手に振っている。病人食の意味がねェだろうが、と取り上げてもよかったが、体内に病を抱えているわけでもないので、このときは黙認した。
 というより、黙認するしか方法がなかった。ローは何もすることができなかったのだから。
 キッドはローの手から一口分のたまご粥を食べると、呆然と硬直しているローの気も知らないで、
「まっず。湯みてェだ。ブタ箱のがまだマシなメシ出すんじゃねェか」
と吐き捨て、スプーンをひったくった。ローはじりじりと後ずさりし、三歩下がった瞬間、即座に身体を翻して病室を出た。全力疾走してきた後のように、息が荒かった。

 病室の斜め向かいにある手洗いに入り、個室の扉を閉めて鍵をかける。ドクッ、ドクッ、と耳の後ろで鼓動が聞こえる。だめだ。もうだめだ、と思った。カアアッ、と顔が火照ってきて、いまここに鏡がないことを心の底からありがたく思った。
「……ハア……」
 なまめかしい息が漏れて、慌てて飲み込む。看護婦が手ずから食わせようとしていた意味がよく理解できる。そしてキッドも、この行動が相手へどのような作用を起こすかよくよくわかっていてこれをやっている。かろうじて、頭を抱えて便所の床に膝をつき、「もうヤダ~~~!」と叫びたい欲望には耐えた。個室から出てきたローは、すがすがしいほどいつもどおりのスッと整った顔だった。
「アッ、キャプテン、いたいた」
 廊下でローを呼び止めてきたペンギンは、ローの顔を見て怪訝そうに眉をひそめた。
「何? キャプテン何ニヤついてんスか?」
 マッドサイエンティストみてェな顔ッスよ。言われて、ローはペンギンのむこうずねを思い切り蹴り飛ばした。

〈五〉

 ユースタス・キッドは予定より大幅に早く回復し、松葉杖は一ヶ月以上も早い段階で二本から一本へ、ついにはナシでも動けるところまでになった。階段はまだ上り下りがキツいが、院内を片足で、器用に歩いているキッドを見ると、ローは微妙に切ない気持ちにとらわれた。もう出て行くのか。まだ一ヶ月しか経っていないのに。……ローの気も知らず、キッドの退院の日がついに訪れた。
 退院後も、リハビリのため通院が必要であるが、それも週に数回程度。その際は理学療法士に引き継ぐので、診察をすることはほぼなくなるだろう。一晩中ここにいるのは、ボルトを抜く手術をするときまでない。ボルトを抜き終わるともう金輪際ないかもしれないのだ。いっそまた立て続けに轢かれてくれねェかな、と思う瞬間すらあって、ローはこれまで生きてきた二十六年間、味わったことのない困惑と焦燥にかられていた。
 この男は人を狂わせる。どうしようもない男だというのに、なぜかすがりつきたくなる。そういう魔力にあてられたのだ。花瓶をぶつけてブチ殺したくなる気持ちも分からないでもない。独り占めできないならば殺してでも、と思わせる隙の多さと、そのくせ決して一人のものにはできない不自由さがこの男にはあるらしい。
「世話ンなったな」
 三十年服役して今日シャバに出る前科者みたいな言い草で、ユースタス・キッドは立ち上がり、担当医師であったローに告げた。減らず口ばかりの男だったが、それでも他の患者に接するときより、この男とは言葉を交わした。
「寂しくなるな」
 ローが、減らず口のつもりでこぼした言葉は、結局本音だったのかもしれない。キッドは診察室を出ようとしたところを少しためらって、驚いたようにローを見返る。うるせェのがいなくなる。ローが照れ隠しのように、そう続けたのには、キッドは真剣に取り合っていなかった。
「なァ、センセーよ」
 センセー、というのがたまらない。ゾクッとローは背筋を凍らせた。ユースタス・キッドの学生時代など想像もつかないが、彼を担当していた教師たちもこのゾクゾクを味わってきたのだろうか。
「ヒマなら、来いよ」
 キッドが何気なく、デスクの上に置いたのは、ライブのチケットであった。「関係者受付よりご入場ください」と赤い判の押されているチケットだ。表面にはバンドメンバーのアーティスト写真。どうやら、中止になったツアーファイナルの振替公演のようである。
「お前……」
「アー、何も言うなよ。すぐやるわけじゃねェ。三ヵ月後だ」
「それでもまだ完治じゃねェだろ」
「完治させンだよ」
 キッドが、バカかてめェ? という顔をしたが、バカかと問いたいのはこちらだ。すでにチケットを用意し、コンサート会場をおさえ、日取りまで決めて……、入院中にやっていたに違いない。たしかに今の回復速度なら、チケットに記載されている日付までには完治するだろう。だが、それにしても、コイツ……。ローはじっとりとにらみをきかせ、チケットをデスクに放った。
「ま、興味があったら見にくりゃいい。関係者席だぜ。なかなかおれからはやらねェんだぞ」
 じゃァな。ユースタス・キッドはまだ不自由な片足を引き、一本杖で器用に診察室を出て行った。外に控えていたキラーやヒート、ワイヤーといった仲間たちとガヤガヤやっている声が聞こえる。
荷物持て、キッド。
あ? 怪我人だぞおれァ、……
かしら、持ちますよ。
甘やかすなヒート……
云々。

 三ヶ月など音速で過ぎ去っていく。ローは多忙の外科医である。そのせいもあって、一月十四日、三ヵ月後の日曜日はあっというまに目の前に迫ってきていた。
 急患があるかもしれないし、担当患者の容態が悪化するかもしれない。休みなどお構いなしであるのが医者のサガだ。その日運よく一日フリーになることなどあるまい、と気楽にしていたローは、急な臓器移植の大手術とその後のケアに忙殺され、三週間休みなく働いた結果、ようやく落ち着きを見せたので、この土日は絶対に院内に入ってくるなと強制休暇を取らされた。一月十二日の金曜、悪魔の意志のようなものを感じて呆然とした。
「絶対立ち入り禁止ッスからね」
「何があってもローさん抜きでやりますから」
「ア、バイパス手術がきたら呼ぶかも」
「悪性腫瘍の摘出も呼ぶかも」
「とにかく! ぜっっっっっ~~~~ってェに来ないでくださいね!」
「全身マッサージとか岩盤浴とかヨガとか行って下さい!」
「二五〇分コースでヘッドスパとかしてきてください!」
 二五〇分のヘッドスパなんか受けたら頭がふやけるだろうが、とげんなりしながら、ここまで来れば何かの縁だ、もしくはあの南生まれの悪魔の挑発かもしれない。と、ローは腹をくくった。貴重な日曜日の夜、翌日は朝早くから出勤だが、それでも、仕方がない、このチケットを無駄にせず行こう、とそう決めた。
 多少の下心も交じっていることには、意識をやらないでおいた。多少の下心と、都心のライブハウスへ行くまでの労力、ライブ中にもみくちゃにされて疲弊する可能性などを天秤にかければ勝るはずのないものだったはずだ。多少の、というか、ここまでくると「壮絶な下心」とでも言い換えたほうが語弊が少ない。
 ライブハウスの近くに駐車場があるようなので、ローは派手な黄色のランボルギーニ・カウンタックに乗り、街へ出ることにした。人から譲り受けた車で、これ一台しか車は所持していないし、二台三台と買うほど車への興味が無いので、この嫌味でド派手な車に乗り続けている。いまでは愛着が湧いて、メンテナンスもまめにやるようになった。ローはその車のすさまじい派手さと目立ちようをよく理解していないので、通勤にもこれを使っている。関係者専用駐車場は地下にあるので、人目にさらされないことも「黄色いランボ」の派手さをローに気づかせない要因にもなっていた。
 わずかばかり空きのあったコインパーキングに滑り込み、あと十分で始まろうとしているライブ会場へ向かう。関係者入り口でチケットを見せると、すんなり中に入ることができた。フロアは人でごった返していて、ボックス型に張り出した二階席にも、関係者らしい人間がそれぞれ席についていた。ここはスタンディングでないようである。それでも、ローの席以外もう空きはない。
「アッパッパ~! 盛り上がってンじゃねェか?」
「半年ぶりの公演だからな。……事故の前、運気が悪いとおれは忠告してやったのに」
「バカだよバカ。大バカだ、事故るとか! ケッサク!」
 ローの左隣三席はキッドの知り合いのようである。ピンク色の髪の女、スターゴールドの長い髪の男、そして辮髪の派手なラッパー風の男である。音楽性が幅広いにも程があるだろ、とローは腕組みし、シートに深く腰掛けた。
「動員四千五百が一瞬でソールドだってよ。キャパオーバーしてさらに百入れてやがる。フロアはぎゅうづめだぜ、また骨折するやつ出るぞ」
「ハ! オラッチなら五千でも一瞬で埋められるぜ」
「前にシティホールでやったときは死相が出ていたが」
「ヤメロ~~~爆死したときの話すんじゃねェ~~」
 右隣の女は二人組みで、来慣れているのか、ローと同じく腕組みをし、足も組んで堂々と始まるのを待っている。二人の会話から「ヒート」「ワイヤー」とそれぞれ拾って、どうやら彼らの女か、それともファンがここまでのし上がったのか、どちらかだろうとアタリをつけた。
 低く、重いSEが会場を満たしている。ワーワーうるさい音楽であることは変わりないので、ローは目を閉じ、シートに頭をもたれさせる。ドッ、ドッ、ドッ、と心臓に直接響くようなバスドラムのあと、ギィン、とギターのチューニング音が届いた。幕の向こうはそれきり、人影の一つも見えなくなった。
 
 ライブハウスのライトが徐々に落ち、SEが観客たちの声を飲み込んで大きくなっていく。アッ、はじまる、と隣の女が言うと同時に、アーッ、とか、キャアアッ、という甲高い歓声がフロアを満たした。女が多いが、オオオッ、という男の声も混じっている。六対四くらいの割合だ。
 真っ赤なライトがフロアを照らし、真っ黒になった舞台のスクリーンの上に、カウントダウンが表示された。自然、観客たちの合唱が、「3、2、1……!」と続き、スクリーン上に文字が現れた。
「READY TO DIE?(死ぬ覚悟はできてるか?)」
「Kept you waiting(待たせたな)」
 最初の一音がはじまったとたん、ファンの悲鳴と野太いシャウトがフロア中に充満した。六ヶ月、ツアーファイナル前日に事故をして、うわごと言いながら院内に運び込まれてきたあの赤毛の男の、ゴツッ、ゴツッ、と重いブーツの音まで聞こえる。のしのしと、百獣の王みたいな不遜さで歩いてくる男が、分厚い毛皮のコートを翻した。
「死ぬ気で暴れろてめェら!」
 ライブが始まっての第一声がそれだった。間髪入れず曲が始まり、ローが思わずのけぞるほど、フロアがもみくちゃになっている。キッドは足の骨折を感じさせないほどのパフォーマンスをしたが、ふと気を抜いたとき、折れた右足をかばうように動くのが分かる。理学療法士にリハビリの方は任せっぱなしだったが、ちゃんと真面目にリハビリをやっているのだろう。順調に回復しているようだった。
 片腕一本でフロアの動静を操り、頭を振り、拳を突き上げ、めちゃくちゃに流れていく観客の群れを動かすのが楽しいのだろう。キッドのくちびるには笑みが乗っている。その様子をローはぼんやりと眺めていた。
 数ヶ月前までは目の前にいた男が、急になぜか遠く見えてきた。そのせいでやや不機嫌になっている自分を考えたくない。音楽としてのよしあしはまったく分からなかった。そもそもローは音楽趣味もなく、特定の、これと決まった音楽を趣向として聴いたことすら一度もなかった。
 何曲か立て続けに歌ったあと、間にMCがはさまれた。ツアーファイナル、あの日は悪かった。の珍しい謝罪からはじまり、ファンたちも群れの中からキッドにあれこれ投げかける。心配したよ、大丈夫~? 無理しないで! その投げかけそれぞれに、「ナメてんじゃねェぞ、死ぬ気でやるんだよ」とキッドは笑っている。何が死ぬ気で、だ。おれが死ぬ気で治してやったんだろう。ローは、ふんと鼻を鳴らしていた。
「お前、しかし無茶はするなよ」
 ドラムのキラーが声をかける。キッドはハハハと笑って、額の汗を手の甲でぬぐった。ペットボトルの水を飲む、喉の動きまで見えるようだ。ローは我を忘れて息を呑んでいた。
「主治医が来てっから、問題ねェ」
 じろ、とキッドの目がローをとらえた。……とらえたと思う。自意識過剰じゃねェはずだ。ローはどきりとして思わず呼吸を止め、気恥ずかしくなって、視線を落とした。
「主治医?」
「あァ。だから片腕なくなってもおれはやるぜ」
 なァてめェら。半年も待たされたもんなァ! キッドが煽ると、会場はワッと湧いた。片腕なくなったら機械の義手にしてやろう、めちゃくちゃデカくて使いにくいやつだ。ローはそう心に決めて、ムグ、とくちびるがニヤつきそうになるのを必死で耐える。主治医が来てる、だと? 見えてるのか、この距離で。ありえる。あの野生じみて頑丈な男なら視力がバカみたいによくても頷ける。ローが腕組みをした腕が、かすかに震えていた。喜びからくる、そわそわとした震えである。
 そのあと立て続けに、アンコールまで走りきった。アンコールでは二曲、とことん暴れる曲をやりきって、もう終わりかと思った観客たちは、最後に一曲、突然ぶち込まれた新曲に大歓声を挙げた。
 汗をぬぐい、目を閉じ、叫ぶだけが能ではないことを示そうとするかのような、高音域のさめざめと美しいメロディーラインだ。キッドに似合うような曲でないのに、遠くまで確実に届く安定した声量と音域で、キッドは歌い、片手を挙げてノることを求め、叫ぶようにマイクに吼え、また静かにささやいた。
 
 幕がすべて下り切って、会場がライトに包まれても、観客たちの興奮は冷めない。左隣の三人は即座に立ち上がって「顔出しにいくか」と楽屋へ行くようである。横の二人は携帯を覗き込みながら、
「セトリもう上がってんじゃん」
「新曲よかったね~」
「ね! てかメメモリのときのヒート見た?」
「見た見た、めっちゃかわいかったじゃん」
「ヤバイよね~! てか、アイズのときのワイヤーの手つきもやばくない?」
「分かる~、マジで好きなんだけど」
 キャーキャー言いながら、大して盛り上がっていそうになかった二人の女をここまで熱狂させるのもすごいことだ。ローがさっさと退散しようとしたとき、ふと女たちの声を拾った。
「キッド今日めちゃくちゃ機嫌よかったよね」
「久々のライブだからじゃない?」
 ローは思わず早足になり、ここからすぐにでも出なけりゃ、おれは戻ってこれなくなる、とわき目もふらずに楽屋裏を出て行こうとした。
 しかし、楽屋をよぎったときである。
 むんず、と肩をつかまれ、つんのめる。機材がまだ山ほど置いてある舞台袖から出てきたらしい大きな男の影が頭上に走った。
「よォ」
 トラファルガー・ロー相手にこんな口を聞く男は一人しかいない。
「マジで来やがったぜ、オイ」
 確かに上機嫌だ。ライブ終わりの興奮もあるのだろう。キッドはローの肩に手を置いたまま、楽屋へ連れて行こうとするので、もう帰る旨を伝えた。しかしキッドは聞いちゃあいない。オイ、キラー、主治医が来たぜ、とドラムセットを運び出しているキラーの前までローをひっぱって楽しそうだ。
「すまん、わざわざこんなところまで」
「いや、別に」
「こいつがわがまま言ったんだろう、……キッド! 遊んでねェで機材を運べ」
「うるせェな、怪我してんだぞ」
「あれだけ動けていれば多少無理しても大丈夫だ、リハビリになるだろ」
 ローが横槍を入れると、キッドは不満げな顔である。いらねェこと言うな、と文句を言うさまが案外、ガキっぽい。主治医だと言ったり、口を挟むなと言ったり忙しい男である。ローも徐々に愉快さを感じ、キッドに連れ歩かれることを面倒だとも思わなくなった。明日の朝起きるのがつらくなるだろうということも頭から消えた。
「なァ、トラファルガー、飲んで行けよ」
 病院を出るととたんに、同世代のダチのような感覚でつるんでくるこの男に不思議と嫌な気はしなかった。ローはあれよあれよという間にキッドに連れられ、ライブハウスから少し離れた場所にある飲み屋に関係者一同、どやどやと集まって、気づけば日付を越えていた。
 キッドは勝手にローの身体に全体重をかけて寝こけている。肩がじりじりしびれていた。この男の重みだった。
「すまん、重いだろう」
「いいや。大丈夫だ」
 ランボルギーニで帰るつもりであったので、ローは一滴も飲んでいない。シラフで乗り切るには酔っ払ったキッドからのしつこい絡み酒が面倒だったが、普段なら無礼を承知で途中であっても離席する覚悟のローが、その日は一度も「先に帰りたい」と思わなかった。キッドが隣に陣取り、一歩も動かなかったというせいもあるだろう。
(まずいな)
 ドク、ドク、と耳元で熱い鼓動がひびく。
 これはよくない兆候だ。すぐにでも「明日早いから」と断って退席しろと理性が叫び、気を遣ったキラーが「すまん、明日も仕事だろう」と退席しても気にしない旨を遠まわしに伝えても、ローはそこを離れる気がまったく起きなかった。
 ようやく解散と相成って、泥酔したユースタス・キッドを誰が連れて帰るかという問題が浮上した。誰もが「めんどくさい」「一人で歩いて帰らせろ」と薄情な中、いつもならキラーが折れて連れ帰るのだろうが、その日はローが、
「おれが送ってやる」
 と流れるように申し出ていた。自分でも驚いたくらいである。何を言っているんだおれは、と信じられない気持ちがした。
「いや、さすがにそれは悪い。一人で帰らせたってコイツはなんとかなるんだ」
「構わねェ。どうせおれは車で来てる」
 いい、いや、いい、の押し問答のあと、キラーを押しきってローがキッドを担ぎ出した。宝物を手にした子供みたいな顔で、ローはうるさい飲み屋を出て、足元のおぼつかないキッドを歩かせた。寄りかかってきたり、意味なく名前を呼んだりしてくる酔っ払いが憎らしいほどいとおしかった。
(……で、おれはコイツをどうしてェんだ)
 黄色いランボの前に立ち、シザードアを開けると、キッドはそのとき少し酔いを醒ましたのか、「うお、すげェな。ランボじゃねェか」とゲラゲラ笑う。誰の許可も取らずに堂々と我が物顔で乗り込むユースタス・キッドに、ムカつきどころかエロさすら感じて、ローはドアを閉め、運転席に乗り込んだ。
「場所は」
「…………」
「ユースタス屋! 寝るな。家の場所は」
「んあ……」
 薄く目を開けて、キッドはへらっと笑ったあとまたシートにのけぞるようにして眠ってしまった。おれとしたことがしくじった。こんなことならキラーに住所を聞いておくべきだった。
「ユースタス屋!」
 何度起こしても目を覚まさない。このままここで夜を明かすわけにもいかないし、埒が明かないのでローはやけくそ気味に車を出発させる。もういい。据え膳うんたら、とはよく言ったものだが、人生初の「お持ち帰り」とやらをこの男でやってやろう。
 自宅は誰にも害されない自分だけの場所だった。人を招くなどとんでもない。……はずだったが、キッドを中に入れることに大した抵抗は感じない。地下の駐車場に車を入れ、オートロックを解除して中に入る。ロビーからエレベーターまでの道が遠く感じられる。キッドを引きずりながらだと動きが遅くなるのだ。キッドはもたもたと歩いて、へらへら笑って、ロビーを見回しては、「すげェな。さすが医者」とかなんとか、楽しそうである。
「ちゃんと歩け。捨ててくぞ」
「ハ、あるいてるだろぉがぁ」
 バン、バン、と強く肩を叩かれまくり、それでもブチギレる気持ちは起きない。エレベーターに乗って最上階へ。ずるずる角の部屋まで引きずり、ようやく中に入ったときにはローの体力は限界だった。
「ゴリラかよ……」
 重てェ。ローが吐き捨て、玄関に崩れ落ちると、むくりとキッドが起き上がった。めら、と炎が目の前で揺れているような立ち上がり方だ。さっきまでへらへら笑っていたキッドの目つきは、らんらんと光って、エモノを前にした悪魔の顔だった。
「トラファルガー」
 じり、と後ずさる。あ、鍵、と伸ばしかけた手を掴まれた。突然の豹変に冷や汗をかくひまもなかった。キッドの影がローの上に落ち、ローは呼吸を忘れてじっと目を見開いている。
「……もっと警戒しろよ」
 キッドは笑いを含んだ声でそう言った。鍵。鍵を閉めてねェんだが。あと靴も脱いでねェ。ローの訴えは脳みその中だけに留まった。キッドはローの上に覆いかぶさっている。
「ヤりたそうなツラしてんじゃねェよ」
 バレてるのか。ローは唖然として、ろくろく抵抗もできなかった。

〈六〉

 ずるっ、とベルトを抜き放たれ、玄関先に放り投げられた。心の底から抵抗したいと思っているわけでもないのに、ポーズだけでも見せておきたくて、ローは床に這いずったまま身もがいてみたが、腰をグッとつかまれて引き寄せられる。キッドは水を得た魚である。目をぎらつかせて、さっきまでの酒に酔った様子などどこかへ消え去っていた。
「男が好きなのか、てめェ」
 後ろから体をはがいじめにされ、顎をつかんで、言い聞かせるように耳に直接吹きかけられる。ぶるっ、と体が震えた。
「違ェ……」
「嘘だろ? 物欲しそうなツラしてたぜ」
 そういうお前はどうなんだ、と言いかけたが、口を閉じる。無駄口を叩くと揚げ足をとられる。いまのローではキッドに口で勝てる気がしない。
 ぐい、と乱暴な手つきで下着の上からモノの形を確かめられる。ローの言葉に嘘はない。これまで男相手に興奮を覚えることなどなかった。……というか、人間に対して一定以上の興味を持つことが乏しかったのだ。だから自分の性的趣向が男に対して働くのかも知らなかった。
 ゆっくり、二本の指でやさしくなぞられるその緩急がたまらない。乱暴にやったかと思えば、丁寧にまさぐられる。そのうまいバランスを、相手はよく知っているようだ。経験値でも勝てる気配がない。そのやわい触り方がたまらなくて、「ンッ……」と吐息が漏れ出た。
「イイか」
 へ、と男が耳元で笑う。カアッと頬が熱くなった。
「慣れてねェな、医者なんざいくらでも看護婦食えるだろ」
「食うかよ、……仕事仲間だ」
「へェ。お綺麗なんだな」
 ギュッ、と強く性器を掴まれ、今度はごしごし激しくこすられる。膝立ちの状態で背後をとられ、玄関先で服も着たままこんな状態になっていることを数時間前の自分はゆめにも思わなかっただろう。
「アッ……」
「スカしたツラして、かわいい反応だなァ、トラファルガー」
「うるせ……」
 顎を掴んだ手が、ぐいと自分の方へ向かせる。くちびるが重なると、ぬろ、と舌が入ってきた。強引な指の力と、口を開かせる舌触りのやさしさが絶妙だった。喉の奥で濡れた声があふれている。
「ケツでイったことあるか?」
 あるわけがない。「あるわけねェだろ……ッ」と躍起になったローに、しかしキッドは満足そうだった。
 ズボンを下ろされ、背中を乱暴に突き飛ばされる。廊下に崩れ落ちたところを、腰をつかんで尻を上げさせられた。屈辱と恥ずかしさで顔が真っ赤になり、目がうるんできたローと、楽しそうなキッドの目が合う。
「……ンなかわいい顔すんなよ」
 キッドが薄く微笑んだ、その顔を「たまらない」と思ってしまう時点で、ローの完全敗北だった。
 くちゅっ、と穴の入口を撫でた指が濡れているのは、唾液で濡らされていたせいだろう。本当に尻でやるのか、と確かめる間もなく、一本、指がゆっくりと肉壁を割り開いて入ってくる。痛みはない。あるのは妙な圧迫感だ。
「すげェ。きっついな」
 きゅう、とキッドの指に吸い付いて離さないのを、自分でも感じた。
「……んアッ……!」
 キッドの指が一度抜け、ぬちゃっ、と入口を広げている。もう断続的に声を上げることしかローに出来ることはなかった。
 二本目、三本目、……入ってくるたびに「ヒッ、」と喉がしまる。ヒクンッ、と下着の中で勃起していることが分かる。
「勃ってんな」
「……は、……んあ……っ」
「イかしてやるよ」
 がしゅ、がしゅ、と前を扱きながら、キッドの指は更に深く尻の奥を探っている。もうどっちで気持ちよくなっているのかもわからない。ンッ、んふっ、……アアッ、といよいよ声が抑えられなくなってきた。身をよじるとよじるだけ、きつく羽交い絞めにされるのがローの興奮を更に煽った。
「イキたくねェのか? なァ……」
「……アアッ、……は、……」
 ギュッ、と根元を握りこまれ、頭がおかしくなりそうだ。早く出したい。でもイかされたくない。でも……。ローはたまらず切なげに腰を揺らしている。
「……い、いきてェ……っ」
 はやく……。
 いい子だな。キッドは噛んで含めるように言う。いいこ、なんて言われた記憶があまりに遠すぎて、ゾクッと背筋が震えた。激しく上下に扱かれる手の、温かい感触に目から火花が散りそうだった。
「アアッ、あ、ああ、ッ、イッ、い……ウッ、……イク……ッ!」
 がくがく足をふるわせ、ぱたた、と精液を吐きだして、ローは冷たい床にぺたりと力を失った。床が汚れた、と気にしている間もない。へろへろになった体がもう一度持ち上がる。
 びた、と尻に凶悪なモノの感触がした。尻たぶを叩かれている。勃起した性器が、「いまからてめェをメスにしますよ」と教え込むように。
「ヒヨってんじゃねェよ、トラファルガー」
 ぬち、と入口にカリ首の先が当たった。……

 自然と目を覚ましたとき、まず時計を確認した。夢も見ない深い眠りについていたので、てっきり寝過ごしていると思ったが、いつもどおりの時間に目覚めていた。染み付いた体内時計は狂っていなかったようだ。ローが身を起こすと、シーツが身体からするすると落ちてゆき、素肌にしっとりと優しい感触がある。そしてローの身体が持ち上がるに従って、ずる、と滑り落ちていく男の腕。
 ユースタス・キッドが眠っている。あの病室での朝に見たのと同じかそれ以上に、ぐっすりと寝こけるあどけない顔を見て、たまらない気持ちがわきだした。玄関からここまでどうやって来たのか覚えていないが、半分眠りながら、キッドとのセックスを受け入れていたのだろう。
(あー……)
 くああ、とあくびをして、のっそりとベッドを出る。
(……気持ちよかったな)
 ローは眠気の消えないとろんとした目のまま、そんなことを思い、ひとまずシャワーを浴びて着替えることにした。

 ローが出勤の準備をしている間も、キッドは全く起きる気配がない。仕方なく合鍵と、「鍵閉めて帰れ。ロビーの郵便受けの一〇〇六に入れておけ」と書き置きし、物騒を承知でキッドを部屋に置き去りにした。盗られて困るものもない。ローはいつもどおりの顔で、ランボに乗り込み、病院へ向かった。
 心ここにあらずの状態にならないように、何度も自分を諫める必要があった。
「土日どうでした? エステ行きました?」
「行くわけねェだろ」
 ヘッドスパだのヨガだのの次はエステときた。ペンギンを邪険に振り切り、とにかく一日正気を保つことで精一杯だった。一人の男とのセックスがこれほど後を引くものだとは知らなかった。もうああいう危険な男と関係を持つのはやめにしたほうがいいだろう。
 もやもやとした気持ちを引きずりながら、帰宅したローは、ロビーの郵便受けに鍵がないことを確認し、あの野郎持って帰りやがった。そんな気はしていた、おれが迂闊だった……。などと自分にイラ立ちながら部屋へ戻り、鍵を開けた。
入って数秒で違和の正体に気がついた。まず玄関に知らない靴がある。ごつごつした鋲うちの黒いブーツだ。ローはこういう手合いのものは履いたことがない。バタバタと中に入り、リビングへ続く扉を開けると、まず油のにおいがした。
「なんだてめェ、いいとこに帰ってきやがって」
「……ユースタス屋……」
 昨晩玄関先で一発かまし、朝まで一緒に眠った男がまだそこにいた。なんなら、勝手にキッチンを使って何か作っている。ふかふかにした卵を山盛りの米が盛られたドンブリの上に器用に乗せ、揚げた豚肉を切っている。
「もうちょっとで二人分できっから、待ってろ」
「てめェ……何を……」
「食わねェのか?」
 あ? とにらみつけられて、思わず「食う」と答えた。腹は減っている。なにしろ山盛りの米だ。食わないという選択肢はない。
「……ずっといたのか?」
「いや。バンド練行って、買出しして帰ってきた」
「帰って……?」
「冷蔵庫なんもねェなてめェ。着替えて来いよ。その格好で食うわけじゃねェだろ」
 スーツ姿のローを見て、キッドはあたりまえのようにそう言うが、そもそも「帰ってきた」ってなんだ? 一度外に出て戻ってきたっていうのはどういう了見だ? とローは困惑が続いている。キッドに言われたとおりラフな部屋着に着替え、戻ったころにはダイニングテーブルに二人分のカツ丼が用意されていた。
「米ばっかりあンだな、好きなのか?」
「あァ」
 ユースタス・キッドの作った丼はうまかった。疑問をさしはさむ隙もなく、その日は風呂にさえ一緒に入り、風呂で一発楽しんで、無論ベッドでも交わった。寝バック状態で尻の肉をぱつんぱつんたゆませ、シーツに押さえつけるようにして種付けされたところまでは記憶があるが、そこからは気絶したのか寝落ちしたのか、やっぱり朝まで目を開けなかった。
 目覚めるとキッドの腕の中に収まっていて、次は書き置きもせずに出た。

〈七〉

「で、あの赤毛バンドマン野郎と付き合ってるっつーことですか?」
「だからその判断をしろって言ってるんだ。おれにはこれが付き合ってる、つーのかよくわからねェ」
「タカられてる」
「カモられてる」
「ハメられてる」
「二重の意味で」
 ハイ! ハイ! と手を挙げながら次々不用意な発言をした二人を思い切りぶん殴って、暴力で黙らせた。判断しろって言ったのはキャプテンじゃねェッスかァ、と文句を言われながら、ローは自分から切り出しておいて、さっさとその場から身を翻す。もうあの男が部屋にいついてから一週間以上が経過している。
 ローにはいまこの関係が何なのか、判断がつかなかった。付き合っている、というような甘い関係だと思えないほどあっさりしていて、そして不可解だ。キッドは出て行くそぶりを見せないし、じゃあ出て行って欲しいかというと、それも微妙だ。何しろあの男は、あのナリで案外メシを作るのがうまく、自分が帰宅するころにはたいてい何かを作って待っている。しかも体の相性がいい。とかく、キッドとセックスして寝るのは最高の睡眠を導いたし、性欲、食欲、睡眠欲、これら三つをしっかり握られて、キッドの存在を億劫に感じるはずがない。
 その日一日を終え、帰宅したローは、久方ぶりに真っ暗のままの自室へ戻ってきた。一瞬、出て行ったのかと思ってヒヤリとしたが、テーブルの上に残された、
「夜練してくる 朝かえる」
 という殴り書きの書き置きを見て、ほ、と安堵したのが、何よりの証拠に思えた。

〈八〉

 キッドは合鍵を持たなかった。てっきりしまいこんでいるものと思っていたら、玄関のキーボックスに、キッドに渡したはずの合鍵がきちんと置かれていた。生来鍵を持たない男のようで、一人で出て一人で帰宅するときには持っていっても、しばしば、鍵を携帯するのを忘れた。オートロックの番号は伝えてあるので、部屋の前には戻れても、鍵を開けることができない。キッドが鍵を忘れ、ローの帰宅を待って部屋の扉の前にしゃがみこみ、じっと目を閉じて待っている姿を最初に見たときのこみあげる思いは忘れられる気がしない。何時間も待たせることになってもことだと、鍵を持つようローが言っても、「待ってンのは別に苦じゃねェ」とつっぱねた。キッドなりの美学があるのか、それとも単に鍵を持ち歩くのを忘れるだけなのか、ローは最終的にキッドの好きにさせていた。
「起きろ、ユースタス屋」
 どす、と足で大きな男の体を蹴る。玄関前にこいつがしゃがみこんでいると、下手をすれば大きな岩山のようにすら見える。キッドは目を開けて、のっそりと立ち上がると、「遅ェ」と言いながらあくびをひとつする。口を大きく開けると、頑丈な歯ならびが凶暴だった。
「また鍵忘れたのか」
「あァ。持つ習慣がねェんだよ」
 キッドはそう説明する。そういうものかと飲み込んでいたローだったが、キッドの「鍵を持たない」理由を、思わぬ形で知ることになった。

 特段、変わったところのない夜である。
 ライブがあるとかで、帰りが遅くなると事前に聞いていた。ローが帰宅する時間にもキッドはおらず、まァきっと飲みにでもいくだろうから、遅くなるだろうと気にもしていなかった。先に寝とくか、とカップにいれたコーヒーを飲み干しかけたローの耳が、ドン、と重い音を拾った。
 ドアを叩く音だ。認識するのと同時に、ドンドンッ、とまた低い音。帰ってきたのか、インターフォンを押せばいいのにあの原始人、と半分ニヤつきながら玄関扉をあけたローが、視界の先にあるものを認知する前に、「ねえキッド鍵は?」と笑いながら問う女の声が耳に届いた。
 ぐでんぐでんになって、ほとんど女に支えられているキッドと、若くて派手な一人の女。バンドのファンだろう。女もローも、状況を理解できずにぽかんと口を開けたまま数秒にらみあった。
「うお、間違った」
 この状況を作り出した張本人である男が、思わず言ったその言葉で、ローが先に我に返り、バン! と大きな音を立てて扉を勢いよく閉め切った。
 鍵をかける。ローは額まで赤くなり、ふつふつと怒りに震えた。怒りに震える、なんて経験は始めてである。そこまで他人に感情を動かしたことがこれまでなかったのだ。女を連れてきたから、とか、そういうことで怒っているのではない。

 鍵を持たないキッドの生き方は、あの男がこれまで何度も「よりしろ」となる人間を見つけて、ペンギンやシャチが言ったように誰かにタカって生きてきたからに違いない。たまたま、居心地がいいからローのところにいるだけで、相手は誰だって構わない、そうに違いない……。

 別に、それでもよかったはずだ。ローだってキッドに特別思いいれがあるわけじゃあないのだから。メシがうまくて、セックスがよくて、たっぷり眠れる。それだけだ。それだけだと思いたかったのだ。
外にいるキッドがどうなったのか知らない。ローは眠るに眠れず、しばらく、からっぽのマグを前にじっと座って宙をにらんでいた。
 こんなに怒り狂って、あんな男もう知らん、出て行かせよう、なんなら部屋ごと引き払うか、とか考えていたのに、気になってたまらなくなって、結局二時間後、ひっそりドアをあけにいった。けれど、ノブを回して押してみても、ドアが開かない。重いものがもたれかかっている感触だ。ドンッ、と押すと、ゴツッと重い音がして、
「ってェな」
 と外から不機嫌な声が聞こえた。
 ドアにもたれて眠っていたらしいキッドが、そこに一人でいることに、たまらなく嬉しいと思ってしまった自分が憎かった。
「女はどうした」
 出来るだけ冷えた声を心がけて、気になっていたことを問うと、キッドは地面に座ったまま大あくびをし、
「知らねェ。タク代渡して帰らせたから帰っただろ」
 とあっけらかんとしている。
「てめェも出て行け。ここはおれの家だ」
 ローが懇親の力を振り絞って、キッドとの関係を断つつもりで言った一言がそれだったが、キッドはそれを聞き、じっとローの目を見た上で、
「知るか。おれはここにいてェ」
 ときっぱりそう言った。有無を言わせぬ感じがあって、ガッ、とドアの隙間に足をねじ込み、無理やりドアを開いて中に入ってきたのを、止めるなどとんでもなかった。
「ユースタス屋」
 ローがキッドをなじる言葉を言おうとしたのを感じ取ったのか、キッドは靴を脱ぎ、じろりとローを見る。赤い目が、不機嫌そうに鈍く光っていた。おれが不機嫌になるならまだしも、お前が不機嫌になる法はねェだろう、と文句の一つも言いたいところだったが、
「……自分の家みてェになっちまってたから、連れて帰ってきちまったんだよ。こんなに長ェこと居座ンのはここだけだ」
 と噛み付くように言ったのが、ローのこころに止めを刺した。
 照れくさいのか、がりがり後ろ頭をかいて、イラついているという態度をしていたが、のしのし部屋に入っていく我が物顔のこの男が、自分の家だと認識してここへ戻ってきたことが……、もしかしたら女に「家は?」と問われて酩酊しながらここの住所を言ったのかもしれない……、ただ、ローには言外に「ここが一番好きですよ」と言われているように思えて、体がねじ千切れるくらいの興奮を覚えたのだ。
 いっそ床でのたうちまわって悶絶できるような性格ならよかったが、ローはそうにもいかなかった。風呂にも入らず酒臭いまま早々にベッドへ転がり込んでいる邪魔な男に「どけ。おれが寝る場所がねェ」と殴る手を、ぐんとひっぱられて引きずり込まれた。

〈九〉

 倒れ込んだローの上に馬乗りになり、キッドが見下ろしている。大きく足を開いたローの股の間に体をねじこみ、とろとろになった尻の穴の入口に、勃起した性器をやさしく当てる。いつも思うが、この男はよく酒がまわった体でここまでバキバキに勃起できるものだ。性欲の権化かよ。……とはいえ、こんな状況で、ローもはちきれそうに勃起した性器と、アーとかウーとかしか言えなくなったゆるゆるのくちびるでは大きなことは言えない。
「ハア……ッ、……アアッ、……」
「いれンぞ」
 言いながら、もう先端は入ってきている。みちち、とキッドのモノの形に添ってキツキツにしまる穴の圧迫感が過ぎると、思い切り、奥までグッと入れられたとたん声が漏れた。
「アアッ! あ、あああっ」
「すきだな、……てめぇ、ここ」
 ぐりっ、とえぐるように奥を突かれると、キッドの首にしがみついてワーワー騒ぐしかもう方法がない。キッドが動くたび、ベッドが大きく軋んだ。ミシッ、ミシッ、と危険な音を立てているベッド。いまにも壊れてしまいそうだ。
「うお、……締まる」
 へ。と満足げに笑うキッドの顔。見つめていると、胸がギュッとなった。しがみついて、キスをする。はなしたくない。はなしたくない。キッドは、ローに応えるように、深くくちびるを重ねてくれた。

 翌朝も、その次も、キッドは「ここにいてェ」という言葉を忠実に守って、ローの部屋から離れなかった。かえって、ローの方が、キッドがときたま練習やライブや、その他よくわからない理由で家を空ける夜、身もだえしたくなるほど眠れなくなった。ローがそんなことを考えていることを知ってか知らずか、キッドは「ここはおれのナワバリだ」とでも言うように、ローの部屋に徐々に私物を持ち込むようにすらなっていった。
 すでにクローゼットの半分がキッドの服である。何も置いていなかったキャビネットの上には香水瓶とアクセサリー類、ネイルポリッシュが散らばった。一見すると女と同居しているようにも見えるが、玄関に散らかっている靴はローより一回りデカい。

 ある日、帰宅すると、リビングの一角にエフェクターとギターが三本置いてあったときは、しばらくその前に立ち尽くして呆然とした。キッドはのっそり、半裸で洗面所から出てきて(顔を洗っていたのか、ヘッドバンドで髪を全部上げていた)、
「邪魔か? 邪魔なら一本減らすぜ。まだあと十二本あるんだが、さすがに一気に全部は持ってこなかった」
 と堂々のたまい、果ては、エフェクターはDR.BP 3000GX……とかなんとか、要らぬ説明も加えはじめる始末であった。

 そんなことはどうだっていい!
 私物を持ってくるつもりか? 全部? 
これはもはや同棲なんじゃねェのか。
これで付き合ってないわけがねェよなァ? 
なァ? どうなんだ?
……ローは自問する。

「で? アンタはそれでキュンと来て結局ゴミカス男を家で飼ってるってことスかね」
「やっぱりアイツは客観的に見るとクソ男なのか?」
「イヤイヤ、ドクズでしょ! 早く蹴り出して~~~」
「そもそも女を連れ帰ってきて〈間違った〉って何だよ! 普通ならブチ殺されてンぞ! キャプテンの頭がアレだから助かっただけで!」
「おい」
「キャプテン頭いいのにバカ! 恋愛下手! 友達いない!」
「イケメンすぎるエリート医師なのにクソ男にひっかかるバカ! 友達いない!」
「おい、てめェら!」
 足蹴りと同時に掴みかかろうとしたところを、看護婦が通ったのでスッと三人とも居住まいを整えた。目撃したらしい看護婦二人は「アッ……おつかれさまです~」と言いながら、通りすぎたあとくすくす笑い合っている。妙なところを見られた、とローは気を取り直し、診察室へ向かった。

 その日、院内でバカやらかした罰なのか、急患と往診が立て込み、どうも夜を徹してやらねば帰宅できそうにない状況に陥った。念のため、鍵を持っていない場合はどこかへ行っていろという牽制を込めて、今日は深夜三時ごろまで出られないとキッドに連絡を入れる。返事はなかったが、メッセージの横に「既読」と表示がされたので、読んではいるのだろう。頻繁に連絡をし合う仲でもないし、このぐらいあっさりしていたほうがちょうどいい。確かにあの男のことを気に入っていないと言うと嘘になるが、特別だというわけでもないはずだ。と、ローは進まない書類を前に頭を悩ませた。いつもなら、感覚で「このぐらいで終えられるだろう」と分かる仕事が、キッドのことが気になって、その倍の時間をかけても終わらない。ローはいよいよ頭をかかえて、とにかく必要な処理を完了し、外に出たころには朝四時になっていた。
(クソッ)
 車のキーを探ろうとして、ハ、と思い出した。そういえば今日は車に乗ってきていない。昨日の夜にバンド練から戻ってきたキッドに深夜二時にたたき起こされ、「ムラムラした」という理由でそのまま二時間たっぷりかわいがられた。その結果、翌朝通常通りの時間に目覚めることができず、さらに車の鍵を忘れたままロビーへ下りて、腹立ち紛れにタクシーで来てやったのだ。ローは一連のできごとを思い出し、めんどくせェ、と舌打ちをする。仕方なく院の正面玄関へ回るはいいが、タクシーを探して帰るにも面倒だ。明日は非番のはずだったが、いっそこのまま泊まるか……、と考えたローだったが、激しく鳴らされた自転車のベルに目を上げる。
 朝の四時の自転車のベルときたら新聞配達かと思ったが、違った。見ると真っ赤な髪である。自転車がかわいそうなほど小さく見える、体のデカい男が、自転車にまたがってえらそうに立ったまま、ニヤ、と笑ってこっちを見ている。睡魔が見せる幻覚かと疑ったが、どうやら「マジの」ユースタス・キッドのようだ。
「何してる」
「ハ、何してる、ってェのはご挨拶だな」
 むかえに来てやったんだろうが。車忘れてっただろ。キッドはそう言って、飲んでいた缶コーヒーを差し出してくる。思わず飲んだが、理解がしがたかった。
「近くにいたのか?」
「ア? ちげェよ、むかえに来た、っつってんだろうが」
「ここまで? 自転車でか?」
「あァ」
 自転車でローの自宅からここまでこようと思えば一時間はゆうにかかる。バイクはもう御免だからな、しばらく乗りたくねェ。車はてめェの担当だろ。とキッドは好き勝手言って病院を見上げ、「うお、でっけェな。おれァこんなとこにいたのかよ」とのんきなものだった。
 人の気も知らねェで。ローが缶コーヒーを飲み干すと、キッドは着ていたライダースを自転車の荷台に敷いて、「乗れよ」と言った。
「……乗る?」
「まさか二ケツしたことねェのかてめェ」
「ないな」
「正気かよ? マジでダチいねェんだなてめェは」
 くしくもペンギン、シャチと同じことを言って、キッドはローを促した。荷台にまたがる。ライダースを敷いていても、不安定で、尻が痛い。キッドは有無を言わせず走り出した。荷台に初心者が乗っていてもお構いなしだった。
 案外、キッドの走行は安心できた。軸がぶれないせいか、乗っていてもバランスを取る必要がない。キッドは自信満々に進んでいく。事故にあった日もこんな運転だったのだろう。
「なァ、トラファルガー」
 風にまじってキッドの声が、わん、と夜の通りに響いている。車でばかり通っているので、こんな路地があることをローは知らなかった。
「この前は、悪かった」
 いつの話をしているのか分からない。「悪かった」ときが山ほどあるからだ。しかしまァ、別に大した問題じゃない。ローはしがみついたキッドの背中に額をあてた。キッドの声が額からじかに響いてくる。悪魔みたいな低い声が、これだけ近くにいれば、心地の良い落ち着いた声になる。近づけば近づくほど、この男は危険だ。テリトリーに入ってしまうと、たちまちハントの標的になる。
「何のことか、わからねェ」
 ローがそう言うと、キッドはしばらく黙ったのち、ハ、と笑った。人が素直に謝ってンのによ、とキッドはペダルをこぐ力をさらに強くする。
 キッドの背中にもたれていると、風の音も聞こえなくなる。あと一時間近く走ることになるであろうこの道を、永遠に走っていられればいいのに。

 ゴミでもクソでも世界にこの男はたった一人で、ローはそのたった一人が好きだった。