夜市

   ―― 一、廃寺の朝

 静かな雨が降っていた。目を醒ましたとき、空気がしっとり濡れていて、起き上がると廃寺の格子窓の向こうに、灰色の曇天が広がっていた。そんな情景を眺めて、燭台切光忠は、気持ちが落ち込むどころか、穏やかに笑っていた。
「さむ」
 ウ、と隣で声が上がった。ぶるっ、と体を震わせて、隣で横になっていた男が体を起こす。みすぼらしい藁のベッドでも、ふかふかの布団で目を醒ましたような心地だった。くしゅっ、と鋭く短いくしゃみをした男の肩を抱いてやさしくさすり、「冷えちゃったかな」と燭台切は彼、へし切長谷部を気遣った。
「雨か」
「うん。でもそんなに強くない。小雨だね」
「うっとうしいな」
 燭台切と違って、長谷部は小雨交じりの空を睨み、あくびを一つする。ほどいていた装束を、彼は手早く身に着けていく。起きたらすぐ出発だ。それはここ数か月変わらない。燭台切も彼にならい、寺の本堂に鎮座する、何ともわからぬ仏に一晩の宿の感謝を伝えた。そして彼らは、まだ夜の明けきらぬ空の下へ出た。
 靴の底にぬかるみの感触がある。傘など当然持っていないので、二人は雨をよけるために、木々の下を選んで通った。どの時代の、どの場所なのかもわからない。もしかしたら時間遡行した先の時代ですらない、存在しない放棄された位相かもしれないし、無限に存在する平行世界のどこかにあたるのかもしれない。だが、二人にはそのどれであっても、特段、差はなかった。
 彼らには本丸がない。還る場所も戻るべき道もない。数奇なめぐりあわせで彼らは出会い、そして、離れがたい存在になった。彼らは永住の地を求めて旅をしているものの、その実、心のどこかでは、旅が永遠に続いても構わないとも考えるようになっていた。
「腹が減ったな」
「そうだね。もう五日、食べてないのか」
「食わなくたって死なないが、〈食う〉ことを覚えたのは間違いだったな。食わなくても問題ないくせに、腹は減る」
「でも、〈食べる〉幸福は、僕は好きだよ。作るのも」
「……まあ、な」
 村落や城下に行き当たればいいが、といって路銀の持ち合わせも少ない。一度、鉢合わせた行商人の一団を、野盗の一派から助けたことがあって、その時いくばくかの謝礼をもらった。米や宿が求められる程度の額だったが、彼らは大事に取っておいている。燭台切は、いつか来るべきときに、彼らの家を構えるときのため取っておくべきだといい、長谷部は、とにかく急ぎ二着の着物に変えて、彼らの目立つ装束を取り換えるべきだといった。彼らは金の使い道で一週間はもめている。確かに変装すれば、遡行軍に気配をかぎつけられたとき、目くらましに便利かもしれないが、いまのところ、この広大な時間旅行の中で、誰に見つかるでもなく生きていけている。それなら永住の地のため、夢のマイホームのための貯金の方がロマンがあっていいじゃない、と燭台切は言うのだが、長谷部はいまいち、そういう遊び心が理解できずにいて、今もなお、脱獄中の指名手配犯のようなふるまいを求めた。
「ねえ、雨があがったら、弓でも作らないか」
「弓? なんのために」
「狩猟だよ。鳥肉が食べたいなと思って」
「フン。とれてもスズメだぞ。スズメの肉なんて食えたものじゃない」
「キジを探そうよ。それかカモ。カモはおいしいよ」
「ああ……。カモか……」
 カモ肉の味を思い出したのか、長谷部は眉を下げて、腹が減った、と哀れっぽく繰り返した。燭台切はそんな長谷部を見て、愉快そうに笑った。とにかくふもとを目指そうよ。明るく彼はそう言って、二振りは濡れた坂道を、慎重に下山していった。

 燭台切が長谷部と出会ったとき、彼はとてもではないが、「腹が減った」なんてのんきなことを言える状況でも、今のように笑ったり、冗談を言ったり、鼻であしらったりするような余裕があるとは言えなかった。長谷部を見つけたのは燭台切だった。燭台切も、あのとき極限の状態に立たされていたが、それでも長谷部を見捨てることができなかったのは、旅の道連れが欲しかったから、とも、内心どこか心細かったから、ともいえる。あの時は深く考えぬまま、長谷部との邂逅にすがった過去の自分を、燭台切は心から「よい判断だった」と称賛している。長谷部がいなかったら、自分はここまで逃げ延びていただろうか? 燭台切はそう思っている。
 あの夜はもっと激しい雨だった。

   ―― 二、夜市

 着の身着のままで本丸を飛び出してきたから、燭台切光忠の手元にあるのは「上・盾兵」と「お守り」二つきりだった。装備品は他にはなかったし、刀以外は手ぶらに等しい。昼ごはんのおにぎりひとつ、持っていなかった。
 網目状のサーバーのほつれ目を行き来して、燭台切は時に狭いダストシュートのような場所をはいずり、時に絶壁を素手で下り、時に腰まで水に浸かりながら、とにかく遠くへ、ただそれだけを念じて進み続けた。いつしか燭台切は、ようやく審神者の縁の届かない、本丸のあった位相とはねじれの位置に存在する、どこともわからぬ異時空の果てにたどり着いていた。
 本当は、ここまで追ってくる可能性は薄かったのだから、こんなに遠くまで逃げてくる必要はなかった。だが、燭台切は、足元にこびりつく泥水で靴が汚れることを嫌がるのと同じで、あの本丸の臭気をできる限り振り払い切ってしまいたかった。
 仲間がどうなったか、皆が無事に逃げ切れたかを確認する余地などない。審神者との縁を切り離した刀剣が長く形をとどめていられない、という話も聞いていたが、どうやら自分の身体は無事らしい。
 霊力とは、言葉で無理やり表現するならば、細い糸のようなものだった。審神者から紡がれる細い糸が、体に幾重にも巻き付いているような、そんなイメージだ。それを、一本ずつ引きちぎって、どんどん遠くへ逃げていく。最初こそ、束になっていてとても強度の高かった「縁」は、燭台切は力任せに一本ずつ引きちぎっていくにつれ、ブツブツと切れ、徐々に力を失い、最後の一本は力を失ってとろんと腕から滑り落ちていった。
 逃れ出た場所は大雨だったが、それも好都合だった。どの時代のなんという場所か知らないが、燭台切はぬかるみを踏み、水たまりを跳ね上げて走り続けている。疲労は限界にまで達していたが、雨が彼の身体から、切れ切れになってまとわりついていた「縁」をすべてほどいてしまうまで、燭台切は走り続けた。森の小さな祠の裏に見つけたほころびから、別の時間へ移動する。今度は荒れ狂う船の上にいて、中型の漁船は、この嵐の中、男が一人増えたことにすぐには気づかない。燭台切は船のへりから時間の裂け目を探し、飛び込んだ。荒波にのまれて、泳いだ先からまた別の場所へ行く。そこもまた雨だった。烈しい雷雨の集落で、燭台切はずぶぬれのまま川の上に転移していた。体から潮のかおりがするが、それもすぐ濁流に流される。やっとの思いで岸へたどり着き、集落で一夜の宿を借りた。寝たきりの老人と中年女が二人いるばかりのあばら家で、こんな嵐の中突然やってきた旅の男を、女は果敢にも泊めてくれた。聞けば、同じ年のころの息子がいるそうだった。彼女の息子は徴兵されたきり、もう三年帰っていなかった。
 一夜明かして、麦飯まで振舞ってもらった礼に、リウマチで寝たきりだという老人のために山でアカマツの樹皮と松葉を採集し、煎じて飲めるようにした。作り方を女に教え、本丸の仲間であった薬研藤四郎のことを思い返した。彼はどうしているだろう。分からないが、かつての仲間とのやり取りが、今の自分の助けになっている。夜が更ける前に燭台切は集落を去った。運よく人のよい家の戸をノックできただけで、基本的に、集落というのはよそ者を嫌う。長居するのは得策でない。

 集落を出ると再び雨が降って来た。もうずいぶん、連続して時間の裂け目を移動してきた。体感としてもずいぶん遠くまで来たはずだった。そろそろ、しばらくの間はここに身を隠してもいいかな、と燭台切は思い始めている。雨が強くなる前に、どこか雨をしのげる場所を見つけないと。燭台切はやぶをかき分けて、どこかに猟のための山小屋があるはずだと、ただひたすらに進んだ。
 ある特定の天候の世界を連続でいくつか行き来したことが原因となったか、それとも別の要因でか、燭台切はふと自分が、いつの間にか別位相へ紛れ込んでいることに気が付いた。さっきまで無人の山を歩いていたはずだったが、突然、道の先に提灯が現れはじめる。提灯の数はどんどん増えていき、耳に祭囃子と、軽快な太鼓の音が聞こえ始めた。立ち止まった燭台切の隣を、きゃはは、と笑って少女が二人、追いかけっこをしながらかけていく。二人の童女の目は四つあった。それ以外は至って普通のかわいい女の子だと言えた。
「兄さん、いらっしゃい」
 珍しいモンがあるよ。どうかね。……声をかけて来た屋台のオヤジは頭が大きく膨張し、変形した異形の姿だった。妖魔のたぐいか、と燭台切は慎重にあたりを見回す。屋台では串焼きを売っていて、何ともいいにおいをさせていたが、焼けているのは指や目玉、どの部位かもわからぬのっぺりした内臓だった。どうも、とだけ燭台切は言って、周囲に目をやりながら、再び歩きはじめた。
 どうやら夜市のようだった。祭りのようにも見えたが、物売りが店を連ねる様子を見ると、市場に様相が近い。異形のものや、式神、中にはどうみても高次の神らしい存在もいて、燭台切のような付喪神もいる。燭台切は内心の動揺を隠して、市場を進んでいった。
「にいさん、探し物かい」
 若々しい声が燭台切を呼び止めた。見ると、まだ十にも満たない幼い姿の妖魔が店を構えている。見た目は幼いが、額かららせんを描いて伸びている日本の細長い角を見れば、彼が鬼のたぐいであることは明白だった。おそらく燭台切より少し年若い、程度には長くこの世に在るのだろう。
「いや……。そろそろ帰ろうかと、思ってね」
 自分がなぜここにいるのか、突然飲み込まれた幽世において、正直に言うのは得策ではない。あたかも、自分の意志でここにいるように答えるべきだととっさに考えた。鬼は「そうかい、いいモンはあったかね」と愛想がいい。こんな愛想のいい鬼でも、燭台切が「ここはどこですか」なんて聞こうものなら、招かれざる客を丸のみにしてしまう可能性が高かった。
「いいもの……。実は、まだ何も見つけていないんだ。何か掘り出し物、あるかい」
「やや。にいさん、それならウチを見ていくべきだぜ。見たところあんた、刀剣男士だろ。人間に仕える付喪神が、ここに来るなんて珍しい」
「そう?」
「そうさ。だってあんまり自由行動できねえんだろ? ここへ来るにはちと手間がかかるもんな。宮仕えが忙しいお人にゃ、なかなか用のない場所だ」
 燭台切は探り探り、鬼との会話からこの場所が何なのかをあぶりだすつもりでいる。やはり考えた通り、複数の位相を、ある特定の条件下で移動することで(燭台切の場合、雨の時間軸をいくつか連続で通ってきた)、ここにたどり着くことができるようだ。確かに、ここへ来ようという意思がない限り、なかなかこういうことは起こらない。刀剣男士なら特に、不用意に時空を連続で行き来するような用事がない。燭台切のように、逃亡中の男士でもない限り、ここへ姿を見せることはないだろう。
「へへ。にいさん、普通の刀剣男士じゃないね」
 鬼も聡かった。好奇心を宿した鬼の目を見て、燭台切はフウとため息をつく。妖魔に身元を明かしたところで、審神者や遡行軍がかぎつけることはないだろう。この鬼が遡行軍である可能性もなくはないが、その時はその時、運がなかったと思うほかない。それに、この市場がそもそもまっとうな場所には見えない。ならず者にはかえって気を許すだろう、と、燭台切は賭けに出た。
「実は、逃亡中の身でね」
 ヒュウ、と鬼は口笛を吹き、愉快そうに笑った。燭台切の賭けは勝ちに転んだらしかった。にいさん、アンタ、見かけによらずワルだね、と鬼は言い、燭台切は「脛に傷があるのはお互いさまだろ」とはぐらかした。
「にいさん、そんならちょうどいいネタを知ってんだ。ウチは情報屋じゃねえが、あんたにとびっきりの情報さ。ほんとは、これとか……、なあ、こいつァ珍しい、人魚の鱗なんだぜ、……ウチの商品を買ってってほしいところだが、いかんせん、ウチは珍味か装飾品ばっかりで、脱藩中の悪党のにいさんにゃ不要なモンばっかりだ。だから情報で取り引き、どうだい」
 燭台切はちらと周囲に目をやり、声をひそめる。
「ありがたいんだけど、実はここに来たのは初めてで。取り引きにお金が必要なのか、それとも他のものが必要なのか、ルールを知らないんだよ」
 正直にそう打ち明けた燭台切に、鬼もつられて声を落とした。やはり、根っからのワルではないのだろう。その挙動を見て燭台切はそう感じた。
「なーに、にいさん、ここじゃなんでも取り引きの材料になるぜ。あんたの指でも爪でも、内臓でもいい。付喪神に内臓があるのか知らないけどな。なんでもいいんだよ、服でもなんでも。もちろん金も、ここでは機能する」
 燭台切は懐を探った。刀装とお守り、持っているのはこの二つだ。指一本で済めばいいが、刀を握るとき不便であろう。できれば持ち物を譲りたい。燭台切は鬼を見据え、懐からお守りを取り出した。
「これはどう?」
「んん? なんだいこりゃ」
「霊力の通ったお守りだ。僕ら付喪神はこれを身に着けていると〈一回死ねる〉。おそらく君たち妖魔にもこの効力は適用される。死を超越した存在にはゴミみたいなものだけれど、妖怪、怨霊、付喪神の類には、なかなか貴重なものだと思うよ。本来なら、僕ら刀剣男士の間でしか流通しない珍品だ」
「ほーお。確かに、うそじゃねえようだ。ちゃあんと、立派な霊気が流れてら。俺たちがつけても、害はなさそうだし、……それに、ああ、なるほど、持てばわかるな。守られている」
 霊力を感じられる存在相手だと話が早くて助かる。鬼は「お守り」をじっくり眺めまわして、「これなら、俺の情報に上乗せして、オマケにこれもつけてやれる。あんたら名刀には劣るかもしれんが、……無銘の小刀、鬼が打った琥珀刀だ。脂っぽいアナグマの皮も剥げる。逃亡生活の狩りに役立つぜ」と、一振りの小刀を燭台切に差し出した。
 なるほど、役には立ちそうだ。燭台切は琥珀刀をじっくり検分し、首を縦に振った。情報と引き換えに、彼は「お守り」を手放した。
 この時の自分の判断を、燭台切は後々まで誇らしく思うことになる。鬼は声をひそめて、燭台切の耳元に囁いた。燭台切は鬼の言葉を聞き、瞳を大きく見開いた。

   ―― 三、右の眼
 
「ここから数メートル先の、骨とう品やらいわくつきの品を取り扱ってる一角に、掘り出しモンが出てるんだ。……あんたと同じ、刀剣男士。どうやってとッ捕まえたのか、角盥(つのだらい)の野郎が売りに出したんだ。数刻前はまだ売れてなかったよ。きっと奴さん、ふんだくろうとしてんのさ。清姫が欲しがってダダこねてたが、おそらくまだ売れちゃいない。旦那、同じ刀剣男士のよしみだ、見にいってやるのもいい。……名前は、確か、へし切。そうだったと思うぜ」
 鬼の話はこうだった。へし切。……へし切長谷部が、妖魔の夜市で売りに出されている。なぜそうなったのか、経緯はわからないが、それが本当なら大ごとだ。同じ本丸の仲間でもないひと振りの長谷部にカッと情が湧くわけでもないし、悠長に刀助けをしていられる立場でもないが、それでも燭台切は「お守り」を引きかえにして手に入れた情報として、十分だと感じていた。
 角盥の店は大きな構えだった。天蓋から頭蓋や生首がいくつも垂れ下がっていて、長い女の髪がメートル売りされている。瓶の中にはキャンディのように、さまざまな色の目玉がつめこまれて、赤黒い糸が瓶の口からほうぼうに伸びている。それを買いにくるのは妖魔の子どもばかりで、紐を引いて、先にくっついた目玉を、彼らはうまそうに頬張って飴玉みたいに舐めていた。
 どこからくすねてきたのか、立派な刀掛けに乗せられて、へし切長谷部本体がどんと店の奥に陳列されていた。刀掛けの真上には、朱塗りの木でこしらえた柱が立っていて、柱には札と特殊な紐でがんじがらめにされた付喪神・へし切長谷部が足首から逆さに吊り下げられている。長谷部はおそらく意識を封じられているようで、目を閉じたまま動かなかった。
「おおおおぉぉぉおや、めずらしい、おきゃくさん」
 店の前に立った燭台切光忠を見上げて、角盥がぎょろりと六つの目を向けた。ニ、ととがった歯を見せて笑う。角盥の方も、相手が刀剣男士とわかったようだった。
「ほしいもの、あるのかい」
 女とも男ともつかぬガラガラ声だ。燭台切はすぐには飛びつかぬほうがよい、と判断して、ぐるりと店を見回した。
「いやあ。ふらっと寄ってみたんだ。ひときわ立派なお店だね」
「そりゃあぁぁああ、どおおおおも」
 イヒヒヒ、と角盥は笑った。間延びした、いやな話し方だ。
「いろいろ売ってるんだね。これは何?」
「ああああああ、そりゃあぁああ、九尾狐の八人目の嫁さ。うつくしかろぉぉぉお? みごもっていたから、胎児の剥製もあるぞおおぉぉ」
 美しい狐女の生首が、台座の上に乗せられている。たしかに人気があるようで、さっきから何人もの妖魔が彼女の顔をのぞいては、興味をそそられていた。食う、飾る、体に同化させる、命を吹き込み我が物にする、などなどいろいろな使い道があるそうだが、けち臭くも、胴体は別売りされている。胴体まで楽しみたければ金を出せ、というのだろう。角盥は、先ほどの若い鬼と違ってなかなか意地汚そうだ。
「そうかあ。僕にはちょっと手が届かなそうだな。……ねえ、それなら、彼は? 気になってたんだ、僕が知っている付喪神のような気がして」
 燭台切はおもむろに、角盥の背後に吊られているへし切長谷部を指さした。角盥の方も、燭台切が最初からそれ目当てだと分かっているはずだ。角盥はくぷくぷ泡を立てて、ひきつれた笑い声を立てた。
「やああああっぱり、こいつが、きになるかええぇぇえ? あんたとおんんんなじ、刀剣男士だあああぁああ。傷ひとつない、れっきとしたぁああぁ、刀剣男士ぃいぃぃ」
「どこから手に入れたんだい? 捕まえるのは大変だったろう」
 見たところ、長谷部はまだ極ではなかったが、それでもある程度育てられた状態に見えた。燭台切がちょうど修行前、値で言えば九十九で頭打ちとなっていたところだったから、長谷部はそれより十ほど低い程度だろう。ほとんど仕上がり切っている。この状態で、角盥くらいの妖魔に捕らえられるとは到底思えなかった。
「イヒヒヒヒヒ、買ったのさ、買ぁああぁあぁったのさ、こいつの主人、イヒ、主人があぁあぁあぁ、こいつを、売ったのさぁああぁ。こいつと引き換えにぃいぃいい、こいつの主人はぁああぁあ、呪物を買ってった、買ってったぁあぁあ。人間にゃ、なかなか、手に入らぬ、シロモノさぁああぁ」
 
 パキ、と燭台切の心の奥底で、何か大事なものが割れる音が聞こえた。売った? 審神者が? 何が目的か知らないが、呪物を買うために。へし切長谷部を、だ。しかもおそらく、ここまで育て上げた理由は、より高額で長谷部を売るためだ。長谷部の育成が粗削りなのは、おそらく急ごしらえで育てたからだろう。目を閉じたまま、封印の札と紐によってがんじがらめになっている長谷部の顔を、燭台切は正面から見つめた。
 このとき、燭台切の胸に、自分の何を差し出したとしても、この長谷部を買い取ろうという気持ちが膨らんだ。角盥は愉快そうに、胸糞悪い話を聞かせてくれた。清姫は長谷部を欲しがっている。意識と自我を吹き飛ばす薬剤を用いて、長谷部をがらんどうの状態にしたうえで、人形としてかわいがりたいのだという。玉藻前は情夫として欲しがっているが、欲しいのは彼の首と胴だけだ。手足は切り取って化け蜘蛛の餌にでもしようと考えている。刀は玉藻前の屋敷に封じられる。どんなに抜け出そうと試みても、一生慰み者になるしかない。飛縁魔は彼を食らい、生き血をすするために買おうか検討して、屋台の前をもう五度も通り過ぎたらしかった。御覧の通り美男子で、女に人気があるのも仕方がない。燭台切はだんだん胸糞が悪くなってきて、それ以上はもう聞かないよう心掛けた。
 売られたとき、彼は自ら進んでそうなったのだろうか? 主の提案を飲み込んで、こうなったのだろうか? 燭台切は角盥に、彼を起こせるかと尋ねた。角盥は無理だと言った。
「意識、戻ればあぁあぁああ、また、暴ぁああぁあれる。きのう、せっかくぅううぅう、買い手がつきかけたのにぃいいぃいいぃ、あばれて、だいいいぃいぃなし。〈魂骸〉をぉおぉ、焼いてやったぁあぁああ」
 〈魂骸〉というのは、付喪神にとっての心臓部にあたる場所だ。付喪神としての形を形成し、魂の根源となる場所。人間に伝えるための、適切な語彙がないため、ひとまず直訳として〈魂骸〉としておく。そこを直接焼かれたとなると、どれほどの痛みだったろう。燭台切は思わず眉をひそめた。
 意識が戻ると暴れて手がつけられなくなる、ということは、彼が自ら進んで角盥に身を差し出したわけではない、という証拠だ。どちらにせよ、経緯はともかく助け出しただろうが、そうとなると話は早い。助けて恨まれるということはないだろう。
「彼を買いたいなら、いくら必要だろう」
 角盥はフッかけてくるだろう。覚悟していたが、角盥の提示した金額はとてもじゃないが何を売り払っても捻出できないほどの金額だった。これだけ強気な値段でも、すでに何匹もの妖魔が彼を買いたがっているのだから、とことんまで吊り上げるつもりだ。燭台切は肩を落として、やはり高いね、とため息をついて見せる。
 刀を売るか? この僕の本体を? まさか盾兵では釣り合うまい。といって、内臓だの腕だのを売って、体をバラバラにされては意味がない。燭台切も必死で逃げて来た身だ。命というものに一定の執着がある。これから先もできればまだ生きていたいし、長谷部を助け出すならなおさらだ。
 彼を助け出したい、と思った理由は、当然「悲惨すぎる」というものが第一だったが、第二に、旅の道連れにしたい、という気持ちもあった。環境に恵まれなかった二振りの刀。いい旅の友になってくれるのではないだろうか? つまるところ、燭台切は寂しかった。永遠に続く、この時から時への旅路を、たった一人でこれから先も歩いていくのかと思うと、寂しかったのだ。
 どうにか、彼を手に入れるすべはないか。……考えあぐねた燭台切の脳裏に、古い記憶がよみがえった。あれは、とある本丸との演練でのやり取りだった。あのころはまだ、主もきちんと仕事を全うしていて、他本丸との交流もあった。そこで出会った同個体、燭台切光忠から、笑い話として、「君も気を付けてね」という意味で受け取った話。
 ――僕、コノハナサクヤ姫に目玉を取られかけたんだよ。
 あはは、と笑って言う内容でもないが、相手の燭台切は「過ぎたことだ」と冗談めかしていた。本丸の任務で、たまたまコノハナサクヤ姫(絶世かつ薄幸の美女、とされているあの有名な神だ。念のため添えておく)と相まみえることがあり、サクヤ姫のおわす幽世へ封じ込められた彼ら一行に差し出された条件が、「燭台切光忠の目玉を置いていけ」というものだった。指輪のあしらいに使いたいんだって。せめて「結婚したい」とか、そういう内容であってほしかったよね……。燭台切は困ったように眉を下げ、結局なんとか、ほうほうのていで幽世から脱出した冒険譚を披露した。そんなことがあるのか、と半信半疑で聞いていた、あの話だ。

「……角盥くん。君、コノハナサクヤ姫と取り引きはあるかい」
 角盥はいっとき、おののいた。妖魔の分際で神の前に謁見するとなると、相応の覚悟が必要だ。しかし、もし本当にそれが叶えば、うまい取り引きだ。高位の神々との取り引きは、金の単位も桁が違う。角盥の反応を伺って、燭台切は両手を後ろに組み、あくまで世間話らしく、気楽に持ち掛ける。
「僕、……もとい、〈燭台切光忠〉の個体の目玉を、コノハナサクヤ姫は指輪のあしらいに欲しがっているんだ。聞いたことないかい?」
 聞いたことないだろうな、と燭台切はハッタリのつもりだったが、思いのほか効果は絶大だった。なんと、角盥は「あああぁあぁああぁる!」と吠えたのだ。燭台切が思ったより、この話は妖魔たちの間でも知れ渡ったことのようだった。コノハナサクヤ姫は燭台切の目玉を諦める代わりに、美男子と騒がれた瑠璃唐草の付喪神を一輪摘み取って、美しいネモフィラ・ブルーの目玉をあしらった指輪をしているらしい。本当は、あの蜂蜜のごとき金色の玉を指へ飾りたい、そう思いながら。ラッキーだった。燭台切は一気に畳みかける。サクヤ姫に売りに行けば、清姫や玉藻前に長谷部を売り飛ばす額よりもっと大きな見返りが得られるだろう。僕に彼を売らないか? 僕の右目と引き換えに……。
 燭台切は眼帯に隠された右の眼を晒した。個体差だが、燭台切によって、右目ががらんどうの状態で顕現する者と、右目が失明している者、右目がしっかり視力を持つ者がいる。燭台切は右目が機能して顕現した燭台切だった。顕現される際の、主のイメージや想念が影響するらしい。半身にやけどを負った状態で顕現する燭台切などもいるくらいだ。本丸にいた当時は、へえ、そんなものかとくらいに思っていたが、こんなところで両目があることがアドバンテージになるとは思わなかった。
 角盥は一も二もなく了解した。長谷部を柱から降ろさせ、彼の本体を佩刀させて、まだ封印はしたままで、燭台切は眼帯を外した。角盥は長い爪で、傷つけないように、慎重に燭台切の右目をくりぬいた。ぽんっ、と取り出された右目は、澄んだ薬液の入った瓶へ、丁重に、丁重に詰められた。
 燭台切は眼帯をつけなおし、長谷部を封じている紐と札を取り払わせた。意識が戻るまでしばらくかかる。彼が呼吸をしていること、〈魂骸〉に異常がないことを確認して、燭台切はぐったりと地面に臥せっている長谷部の身体を、両手で抱きかかえて持ち上げた。

「ああ。僕はいい買い物をしたな」
 燭台切はそう言って、もう角盥へ視線を向けることもなかった。角盥の方も、突然手の内に入った珍品に、興奮が隠せないまま、商売どころではない様子だ。祭囃子を抜けていき、途中、屋台の妖魔たちに道を尋ねながら、燭台切は大きな買い物を腕に抱き、時折長谷部の様子を慈しみながら、市場の奥を通り抜けた。

 ―― 四、旅の道連れ

 ハ、と飛び起きた長谷部は、鼻腔をくすぐるにおいに驚き、胸にかけられた薄布をはねのける。見ると、自分の上にかけられていたのは衣服のようだった。焚火のはぜる音がして、暗がりの中、ぼんやりと顔が橙色に染められている。

 刀!
 腰に差さっている。
 意識は正常。
 体の芯に痛みが残っている。〈魂骸〉に焼き鏝をあてられた後遺症だろう。
 あの角盥め! 叩き斬って……!
 
 そこで、長谷部はずっと自由にならなかった自分の身体が、自由に動かせることに気が付いた。自分がいるのは薄暗い、妖魔の夜市のテントではない。鳥の声がして、風が通っている。冷たい夜風さえ心地いい。風に乗ってくるのは魚と肉の焼けるにおい。いやなにおいではない。「うまそうな」においだった。

「起きたかい」
 声をかけられて、長谷部は文字通り飛び上がった。即座に抜刀した長谷部を前にしても、男は動じない。知っている顔だった。
「燭台切、……光忠」
 ほとんど本丸では言葉を交わしたことはなかったが、同じ場所で生活をともにしたことがある。長谷部はもう二度と刀剣男士の姿を見ることはないと思っていたから、ぽかんと口を開けて、脱力してしまった。
 長谷部は本丸では二振り目のへし切長谷部だった。……いや、あの審神者のことだから、実際はもっといたのかもしれない。審神者は二振り目の長谷部を顕現させ、一心不乱に育成した。はじめは幸福だったものだ。自分が主から目をかけられていると、厳しい育成も苦痛ではなかった。夜市に主と二人で来るまでは、輝かしい刃生が俺を待っているのだと、愚かにも信じてやまなかった。
 売るために育てられたのだ。気づいたときには遅かった。あっという間に、審神者の手引きで長谷部は意識ごと封じられ、商品として並べられることになった。妖魔に売られればどのような行く末をたどるか、言われなくとも想像がついた。意識を完全に乗っ取られる前に、隙をついて妖魔もろとも相打ちで折れる。それが一番いい手であって、生き残るという道筋は、さっぱり考えていなかった。
 ぐう、と腹が鳴った。長谷部はカアッと赤面したが、燭台切は屈託なく笑った。
「おいでよ。アヤメが焼けてる。お鍋ももうすぐだよ。アナグマがとれたんだ。君が寝てる間に、くくり罠でね……。小刀を買ってよかったな。すごく役に立つ。鍋は勝手に山小屋から拝借しちゃったんだけど、まあ、こんな夜更けに公家の狩猟遊びはしないだろうから、あとで返せばバレないさ」
「お前、……」
「身の上話はあとにしよう、長谷部くん。時間はたっぷりあるんだから。ほら、あったかいよ。こっちへ来て」
 長谷部はじりじりと、まるで突然燭台切が妖魔に姿を変えることを警戒しているように、慎重に近づいた。だが、長谷部がどれだけ目を凝らしても、ただの〈燭台切光忠〉で違いないふうに見える。ぐつぐつと煮える鍋の中がどうも魅力的だった。うまく山から調達したようで、魚の頭と山椒、塩で味をつけた鍋には、山菜と、脂ののったアナグマの肉が山盛りになっている。僕、ジビエ料理って初めてだな、と楽しそうに言う燭台切の、「ジビエ」とやらが一体何か知らないが、長谷部はしばらく燭台切を眺めまわして、おずおずと、彼の座っている横倒しの丸太へ、観念して座った。
「……貴様、何者だ」
 燭台切はすぐには答えず、どこからかっぱらってきたのか、木の椀に鍋の中身をもりつけて、長谷部に手渡した。長谷部のいた本丸でも、燭台切は厨房を取り仕切る男だったが、この男もそうなのだろう。ありあわせの、調味料さえままならぬ状態で作った食事にしては、繊細な味だった。
「やっぱりちょっと獣っぽいね、アナグマ」
「……いや、十分、うまい」
「本当? よかった。解体に物凄い時間がかかったよ。脂が多くて、とても普通の小刀じゃ無理だった」
 燭台切は琥珀色に輝く美しい小刀を持っていた。焼きあがったアヤメもそれで内臓類を取ったのだろう。きれいに血抜きされた塩焼のアヤメも、野生っぽい味だが、うまかった。長谷部は食べながら、満たされていく腹に、反射的に両目から、ぼろぼろ涙が出ていることに、食事半ばで気が付いた。
「………っ?」
 目元を袖で拭う。理性を超越した感情だ。悔しさ。心細さ。あきらめた命が突然戻って来た驚きと、ためらい。命が助かった安堵感と、もう二度と本丸へは戻れないのだという虚無感。不安。悲壮。諦念。憤怒。その中に、うまいものを食べた満足感と、妖魔だらけの場所で吊るされることはもうないらしいという解放感、そして見知らぬ〈燭台切光忠〉の存在が、希望として灯っていた。一気に濁流のように迫りくる感情の渦に、長谷部はあっけにとられ、そして体は反射的に涙を流していた。
「僕、…………遠いところから来たんだ。燭台切、光忠。どこでもない、どこかから来た燭台切光忠。君もそうだろう? どこかから来たへし切長谷部。僕は、僕が安心して暮らせるどこかを探して、旅をしてる。一人旅だとばかり思ってたけれど、数時間前、君と夜市で出会った。僕が夜市に紛れ込んだのは完全な偶然だったけれど、君と会えて本当によかった。無理強いはしないけれど、もし君が僕と同じく、自由になるための旅をしたいと思うなら……」
 燭台切の左目が、焚火の炎を受けて美しくも不思議な色に染まっている。右目は眼帯で隠されているが、その分を補ってあまりある、左目の輝くばかりの美しさに一時見惚れた。
「……僕と、旅をしてくれないか」
 
 燭台切にそう誘われたとき、長谷部は、「新しい生き方が始まったのだ」と、そう感じた。それは喜ばしい部類の感情だった。長谷部は両手で木の椀を包み、燭台切と視線を合わせた。
「…………悪くない」
 長谷部は、ぽそ、と気の抜けた空気を吐き出す声で答えて、照れ隠しに、フンと鼻で笑った。はぐ、とかじりついたアヤメの身が、ほろほろ崩れていく甘さがたまらなくて、頬いっぱいにつめこんで食べた。そんな長谷部の頬に光った涙を、燭台切の指が掬った。

 彼らの旅が始まった日、夜市を出たあとは、夜空にわずかな雲がかかるばかりの晴れた宵だった。

   〈了〉